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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

芦部信喜と憲法第九条

芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法(第七版)』(岩波書店)が書店に並び、早速Amazonでも法律書憲法部門でベストセラー1位になっているようである(4月12日現在)。憲法解釈学の基本書の中の名著として多くの読者に迎え入れられてきた歴史からも、今回も相当な売れ行きになろうかと想像される(といっても、中身は第六版と大して変わらなく、新たな判例が若干付加された程度にとどまる)。今まで手に取ったことのない人は、これを機に、「歩く東大法学部」との異名をとった芦部信喜博士の名著を手に取って、その簡潔な文章とともに、憲法学の妙味を味わってもらいたい。

 

法学部や法科大学院で学ぶ者、特に司法試験受験を控える者にとっては若干物足りない分量であろうが、憲法解釈学を本格的に学ぶ前と、一通り学んだ後に二度読むと、いかに必要最小限度の知識がコンパクトにまとめあげられているかがわかるし、行間をしゃぶりつくすように読めば、噛めば噛むほど味わいが出てくる「スルメ」のような基本書であることが理解されよう。その意味で、民法解釈学における我妻栄の通称「ダットサン」と同様の深みがあるものと言えるだろう。このような簡潔な基本書をものすることができるのも、芦部信喜我妻栄が、憲法民法の国内外の文献を自家薬籠中のものにできたからに他ならない。

 

「日本国民必読の書」と言っても過言ではない。憲法論議をするならば、最低でも憲法解釈学の基本書を一通り目を通し、今日のスタンダードとなっている解釈体系を知った上でなされなければ、到底まともな国民的議論など期待できない。改訂前に蓄積された重要判例の情報を補充し、またそこに、高橋和之による必要最小限に抑制されたコンメンタールが付加される。必要最小限の事項を補充しなければならない要請に応えしつつ、同時に、憲法学の要諦、中でもその必要最小限の知識を可能な限り無駄な表現を省きながら、可能な限り平易な表現を用いて可能な限りに抑えた分量に凝縮した憲法学のエッセンスというべき芦部『憲法』初版の持ち味を削がない程度の分量におさめているところをみると、補訂に携わった高橋和之の苦心の跡がうかがえる。

 

芦部憲法学の特徴は、何といっても、憲法の実質的最高法規性という観念を重視する立場が鮮明に打ち出されている点である。その上で、憲法を「自由の基礎法」と位置づけ、個別の条文の上においても、13条に明文規定をもつところの「個人の尊重」原理を体系の中心にしつつ、それを単なる個人主義的思想の表現として捉えるのではなく、その他の実質的平等の観念や生存権思想をも視野に入れた重層的人権体系の中で意味を持つ「憲法上の権利」と位置づけ、かかる諸々の人権の尊重される国家・社会の実現のための制度的担保として憲法に規定される統治機構を定義する。このような考えは、芦部信喜が、近代憲法の成立から現代の憲法への変遷過程を中心とした歴史的沿革を重視したところにも反映されており、このことは、芦部憲法解釈体系にも、直接的あるいは間接的に影響している。

 

芦部は『憲法』初版の「はしがき」において次のように述べていた。

すなわち、憲法学を学ぶにあたって重要なことは、何より近代憲法の本質や制度の沿革、趣旨ないし目的を骨太に理解し、憲法のバックボーンを踏まえた諸議論をおさえつつ、憲法が国家権力を制限し一定の権能を各国家機関に授権する法であり、かつ制限し授権することによって人権を保障する法であるところに本質がある点に思いをいたし、かかる観点から憲法の意味やその現代における問題状況を検討し、国家権力の濫用から憲法を擁護する制度的装置のあり方を探究する心構えを持って、憲法における立憲主義自由主義・民主主義の相互の関係を理解することが肝要である。

 

もちろん、芦部信喜の学説全てが、最新の憲法解釈学においてそのまま妥当し続けているわけでは必ずしもない。少なくとも、個別の見解に関して然るべき批判がなされ、もはや学界通説とまでは言い難いたい箇所もないわけではない。しかも、基本書において書かれている諸々の見解は、最新の憲法学の到達した水準からすれば旧い。しかし、芦部信喜の学説が我が国の憲法学界に不可逆的な発展をもたらし、かつ初学者が先ず学ぶべきスタンダードを提供したことは紛れもない事実であり、芦部学説の成果は、今もなお色褪せていると言えない。ましてや、法学を学び始めた者が手にする憲法学の基本書としては俄然、スタンダードの中のスタンダードであることに変わりないのである。

 

なるほど、憲法学の学説と実務との乖離ということが言われて久しい。事実、芦部の学説が最高裁によって直接採用されたといえる事例は、そう多くはない。そのことは、民法学における我妻栄の学説や、刑法学における団藤重光のそれと比べるとわかる。いわゆる「判例・通説」とまでなって確立されたものが極端に少ない。とはいえ、こうした現象は、国家権力と直接的に緊張関係に立たざるを得ない憲法学の宿命によると言えなくもないし、また、そのことが憲法学者の営為の価値を棄損せしめることにはならない。むしろ、単に判例に阿諛追従するだけに堕ちては、憲法学の意義が疑われることになろうし、緊張関係を失うことが、ともすれば実際の政治に対してよからぬ影響を与えないとも限らない。さりとて、実務から一切見向きもされない見解を出しても、自己満足に陥ることになる。それゆえ、実務との緊張関係を保ちつつ、なおかつ実務も一目置かざるを得ない学説が学界からもたらされることが重要で、おそらくは実務もそうしたことを学界に期待しているものと思われる。

 

この点、芦部信喜の学説が、先だって述べた通り、最高裁判例に直接採用され判例法理にまでに確立したものに昇華されている見解を探すのは難しいというのが事実であるとしても、その学説は全く見向きもされないような奇異な見解であるわけではなく、憲法の理念を最大限尊重しつつ、その中から、できるかぎり現実的かつ具体的な合憲性判定基準を導き出そうとしている軌跡を見ることができるのであって、そのことは元最高裁判事も証言する。

 

こうした芦部信喜の学説そのものというより、その憲法解釈学のあり方に異論を挟む憲法学者もいる。安念潤司がその一例である。芦部が米国から持ち込んだ憲法訴訟論に関して、安念は「憲法訴訟論とは何だったか、これから何であり得るか」というエッセイを残している。安念の主張の趣旨は至って単純明快で、憲法解釈学の世界において流通している「憲法訴訟論」なる研究は、実定訴訟法理論をほとんど顧慮していないことによって辛うじて憲法学者内部の狭い世界で流通している奇妙な代物でしかないというものである。その典型的例証として持ち出されている言語使用として、「違憲の立証責任」なる用語が槍玉にあげられている。法律問題は原則として裁判所の専権に属するとの実定訴訟法理論の前提からすると、この「違憲の立証責任」なる用語は奇妙であると、安念は指摘する。もっとも安念は、憲法訴訟論を実定訴訟法理論の枠内でのみ議論すべしと主張しているわけでは必ずしもないのだけれど、同時に、訴訟法の十分な知識なしに訴訟や手続の法理を論ずることなど論外であり、そのような立論は法律論の体をなさなくなるだろうと危惧するのである。

 

実務家といっても、ピンからキリまで広範に分布するわけで、一部の「なんちゃって弁護士」に顕著に見られる傾向だが、彼ら彼女らが訴訟法をわかっているかといえば、些か疑問が供されるというのが実情であろう。実務上の型通りの話しか理解しておらず、その背景となる理論的裏づけについてはまるで無知というのがごまんといる。中でも、証明責任分配規範や既判力理論などに関して、実にいい加減な理解しかしていない弁護士がチラホラ存在する。もちろん、判事クラスの法曹となれば、そうしたこともないが、何人かの知人友人の弁護士は、証明責任規範と要件事実論とを混同して理解していたし(法律要件要素と法律要件事実との違いがつかない者がざらにいる)、既判力理論にしても、その前段階の訴訟物理論からまるでわかっていない。せいぜい旧実体法説くらいしか理解しておらず、当然その理論的問題点にすら気がつきもしない。何ゆえ学説が百花繚乱の呈を見せているのか全く理解が及ばない。だから、既判力理論との関連で、何ゆえ新堂幸司がわざわざ争点効という妙な概念を持ち出さなければならならなかったという苦労にも理解が行き届かないわけだ。ちなみに僕は、争点効という概念には反対の立場だし、だからといって訴訟法上の信義則を持ち出す判例の立場にも批判的だ。この点に関しては訴訟物理論に立ち返って再検討するのが得策であって、この訴訟物理論に関しては、ドイツで判例・通説の地位にある二分肢説が最もスッキリした見解だと考える立場である。

 

それはそうと、憲法訴訟論のすべてを無意味だと裁断するわけでもない安念は、憲法訴訟論の一応の功績として挙げられる違憲審査基準論の普及を取り上げる。安念が取り上げているのは、いわゆる「森林法違憲判決」の審査基準論をめぐる議論だ。安念は、これら議論を「愚にもつかぬ評定に明け暮れて馬鹿馬鹿しくならないのだろうか」と述べ、他の憲法学者(想像するに、石川健治東大教授あたりを念頭においているのだろう。というのも、石川健治は、薬事法違憲判決とともに、この森林法違憲判決を熱く論じた論考を残しているからである)を挑発するかのような文句を残している。

 

確かに、「森林法違憲判決」なら、その背後にある近代的所有形態に対する視点を持った判例評釈の一つや二つあってもよさそうなのに、「所有権論」をまともに論じたものはない。その意味では、安念の愚痴も理解できないわけではない。しかし、そういう安念憲法学者の一人であって、安念自身が「暇潰しの芸能の伝承者」として居直るばかりなく、そういう立論を大々的に展開する労苦を厭わずやり続ければよかったのではないかと愚痴を言いたくもなる。なにも「法と経済」にかぶれて規制改革会議のメンバーとなるばかりが能ではあるまい。

 

近代憲法の重要な特質はその立憲主義にある、と最近では誰もが口にする。この言葉は、一般には安倍晋三政権が進めた集団的自衛権行使を限定的に容認した閣議決定の後に成立した「平和・安保法制」をめぐる反対運動の中で俄かに注目を集めた言葉である。憲法学を多少かじった者からすれば耳馴れた言葉だし、なにより芦部の基本書と並んで多くの読者に恵まれた佐藤幸治憲法』(青林書院)には、「立憲主義へのアフェクション」がやたらと強調されているほどだ。

 

この立憲主義憲法前文及び第九条に規定される平和主義との関係について、長谷部恭男の主張は、政治的リベラリズムの考え方を援用するかたちで、立憲主義それ自体としては、個々人の「善き生」の追求に直接関与するものではなく、あくまで比較不能な価値観を持つ個々人が各々に「善き生」を追求していくための、いわば「共生」のための最低限の基盤、更に言い換えるならば、それ自身直接的には「善なるもの」とは独立の関係にある。その意味において、立憲主義は「不自然」でもあると長谷部は言う(もちろん肯定的文脈でだ)。この前提を踏まえた上で、憲法第九条とりわけその二項の解釈について自説を述べている。

 

長谷部の見解の特質の一つは、それ自体「善なるもの」とは関与しない「基底としての立憲主義」からすれば、憲法第九条を具体的諸問題に対する結論を一義的に規定する準則(rule)として解することはできない。とりわけ、その二項に具体的明文規定が存する戦力及び交戦権の否認の文言は、目指すべき重要な価値や目標を定める原理(principle)としての意味を持つに過ぎないというのである。そして憲法第九条は、防衛力の保持が可能な限り極小化されるべきことを要求しながらも、その文言からは、自衛のための必要最小限の実力装置の一切を認めないという結論を一義的に読み取ることはできない。よって第九条は、いかなる必要最小限の武器の使用を伴った自衛権の行使を否定するものでもなければ、自衛のための必要最小限度の「実力」の保持をも禁じるものとまで解釈することはできないとの見方を提示する。なぜならば、第九条を準則と解し、第九条の規定が明文通りにわが国の戦力と交戦権の完全否定を義務づける規定と解するならば、それは国民の生命・財産等を何らかの外部からの武力行使に裸のままで曝すことを意味し、個々人が各々異なる「善き生」の追求を保障する基盤までをも崩すことにつながりかねないからである。そう長谷部は説明する。

 

続けて、「非武装中立」を国是とする憲法を有するこの日本に生き、それを支えていく生き方こそ「善き生」につながるものと位置づけている者にとっては、第九条の規定が「必要最小限の実力」を含む一切の「戦力」の不保持及び交戦権の否認を義務づける準則(rule)であるとの解釈を受け入れることが可能であっても、「善き生」の追求には、その前提として少なくとも外部からの攻撃から生存が守られるだけの安全保障が担保されねばならず、したがって安全保障のための「戦力」の保持や交戦権自体を否定するわけにはいかないという考えを持つ者にとっては、自身の「善き生」の追求そのものを否定することに、より正確にいうならば、そうした比較不能でかつ共約不可能な存在との共存の基盤自体をこそ崩壊せしめる契機ともなりかねない。よって、憲法第九条を準則と解し当該規定を文字通り徹底して遵守しようとする「非武装中立論」は、立憲主義と最終的には不整合をきたすことになるというのである。

 

しかし、果たして準則と原理とを分かち、第九条を後者として位置づけるこの長谷部の解釈は説得的であるのだろうか。まず、立憲主義は一切「善き生」の追求に関与していないとまでいえるのか。つまり比較不能な個々人の「善き生」の追求のための最低限のそれ自体価値中立的な共通の基底と解することができるのかが疑わしい。この問題は、「善き生」の追求と「正義の基底性」という井上達夫の議論にも関連することだろうし、延いてはリベラリズムコミュニタリアニズムとの関係にもコミットする問題であるだけに根が深い問題かもしれないが、いずれにせよ、こうした思考の前提には基底としての立憲主義をそれ以外の主張と整然と区別でき、かつそれをメタレヴェルにおけるとする考えと同じかまたは極めて酷似するものと見なせる思考が潜んでいるように思われる。であるならば、こうした二元的秩序を頭ごなしに押しつけることもできないではないかという疑念をつい抱いてしまいたくもなる。少なくとも、その主張も一つの「善き生」の追求に他ならないではないかとの疑念を払拭するに足る説得的な理屈がない。また逆に、第九条を戦力及び交戦権の否定を義務づける準則として国に課しているわけではないとする解釈自体が、基底としての立憲主義を突き崩す契機にはならないと果たしていえるのかどうか。むしろ、そう考えない人も存在するだろうことが想像されもする。

 

次なる疑問は、長谷部の解釈では政治的マニフェスト説と大して変わらない見解であり、しかしそうなると第二項の解釈が難しくなる。第一項だけなら、そう解釈する余地もあろうが、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明記する第二項の具体的文言までをも原理(principle)と解することは相当無理筋の議論ではないだろうか。第二項の英語原文にはこうある。

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state will not be recognized.

 

「その他の戦力」としてぼかされているが、other war potentialと表現されているように、戦力となりうる潜在的能力まで含めて保持を禁じられているわけである。原理というより明らかに準則であって、これは日本の武装解除条項以外の何物でもない。

 

ここ数年、メディアに登場する機会の多い井上達夫は、このような条文を憲法に掲げなら世界有数の軍事組織を持つ現状は世界からの疑念を招くだけでなく、何よりも何らの軍事力統制規範を持たないままで実際は巨大な実力を持つ組織を持っていることの危険性を説き、これを長年放置してきた護憲派改憲派双方の欺瞞を告発する。そして、憲法第九条の、少なくとも第二項については削除すべきことと、権力統制規範を明記した憲法に改正すべきことを主張している(この点では、井上と僕とは同意見である)。

 

この主張は、ある意味でかつての自衛隊制服組の頂点にいた栗栖弘臣統合幕僚会議議長のいわゆる「超法規的発言」と問題意識を共有しているとも言える。栗栖は東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験行政科を首席合格して内務省入りした元官僚である。それゆえ、法的不備への問題意識は切実なものであった。もっとも、井上達夫栗栖弘臣とはその政治的意見は真逆の立場であるが、こと有事が迫った時に具体的にどのような問題が生じるかに関する危機感は共有していたのである。

 

井上の主張への賛否にかかわらず、護憲派憲法学者は誠実に応接すべきと思われるが、残念ながら立憲主義そのものについては発言するけれども、具体的な第九条の問題については消極的な姿勢のままで真正面から議論の場に出ようとしない。僕は、井上達夫リベラリズムの主張に賛同する者ではないが、少なくとも井上は安倍政権の御用イデオローグではない(ずっと前から説を曲げていないし、むしろ安倍政権に対しては批判的立場であろう)。学者としては相当誠実な人物であって、正面切って議論を吹っかけているのだから、護憲派憲法学者も正々堂々応じてもらいたいし、そういう議論の場がなければ、憲法をめぐる国民的議論など成立するはずもないだろう。

キム・ジョンウン国家主席?

 朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の最高人民会議が開催された。いつもと違う点は、以前は「雛壇」に数人の最高幹部が座っていたのに今回はキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長のみが鎮座しているという点である。しかも、最高人民会議代議員から国務委員長が指名される制度であるというのに、キム・ジョンウンは前の最高人民会議代議員選挙に立候補していないので代議員の身分を既に喪失しているはず。そこで、新たなポストが設けられるのではないかと予想されているが、そのポストの名称が「国家主席」なのか「大統領」になのか、はたまた「総統」などの名称になるかは不明である。素直に考えるならば、立法府から選出されるポストではないので立法府と完全に独立した行政府の長たる大統領ないしは大統領的なポストになるのかとも思われるが、しかし民主的基盤なき大統領ということになるので、大統領がどの機関によって選出されるのか疑問が残る。ただ、最高人民会議に出席していることから、おそらく「推戴」というかたちで選出されるのではないか。

 

 もっとも、あの国は素直には行かないだろうから「大統領」という名称になるかも大いに疑問で、結論から言うと「国家主席」の復活の可能性の方がまだ高い気もする。それでも疑問はなお残る。というのも、建国の父キム・イルソンを「永遠の主席」と位置づけ、これを空位ポストにしたキム・ジョンイルの遺訓があるからだ。キム・ジョンウン自ら著した論文や万景台(マンギョンデ)革命学院などで行った講和を収録した『金正恩著作集』(雄山閣)から想像するに、朝鮮民主主義人民共和国という国家は、一般に思われている以上に、文書主義が貫徹された故キム・イルソン主席や故キム・ジョンイル朝鮮労働党中央委員会総書記の残した論文や講和など遺訓に基づく政治体制である。

 

 数年前、キム・ジョンウンの「後見人」として事実上「ナンバー2」の地位にあったチャン・ソンテク国防委員会副委員長が、すべての党や政府の役職を解かれ朝鮮労働党党籍を剥奪されるにとどまらず、「国家転覆陰謀行為」なる容疑をかけられ死刑に処せられたわけだが、「国家安全保衛部」の人員が至るところに張り巡らされているあの国では、いくら実力者であろうと安易に国家転覆が可能になるわけないだろうから、権力闘争の結果とみる方が正しく、現に叔母のキム・ギョンヒ書記(まだ、キム・ジョンイル総書記が健在の頃に開かれた後継選びの「親族会議」にて、三男の後継指名は「時期尚早」との反対意見を主張したと言われる)もが失脚している結果をみると、なおさらの感がする。

 

 顧みるに、「建国の父」キム・イルソン主席からその長男たるキム・ジョンイル総書記への権力継承は、すんなりと運ばれたわけではなかった。万景台革命学院や金日成総合大学の同窓生などを中心とした「革命第二世代」の人脈を頼りに、「三大革命小組」運動に見られるように、激烈な権力闘争に勝ち抜いた結果でもあった。もちろん、「抗日パルチザンの英雄的将軍」で「建国の父」たる主席の長男という立場は、この権力闘争において俄然威力を発揮したことは確かだろう。しかし、まがりなりにも社会主義の看板を掲げているだけに、最高権力の「世襲」となることを友好国たるソ連中華人民共和国の首脳だけでなく、党や軍の「革命第一世代」にあたる古参幹部に納得させるには、相応の用意周到な工作が必要であったものと思われる。事実、キム・ジョンイルがキム・イルソン主席の事実上の後継として指名されてから、名実ともにナンバーツーとして公の場に現れるまで十数年という相当な期間を要している。

 

 「党中央」と呼ばれていた時から、朝鮮労働党組織宣伝担当書記として父キム・イルソンの「神格化」事業にも取り組んできた。首都平壌の都市計画もその一環である。チュチェ思想塔や千里馬通りに構える凱旋門あるいは万寿台の丘の革命博物館前に立つキム・イルソン主席の巨像(現在は、キム・イルソンとキム・ジョンイルの二人の像)、柳京ホテルやキム・イルソン広場前に控える人民大学習堂、錦繍山記念宮殿や人民文化宮殿あるいは万寿台議事堂などの巨大建造物の建築すべてにキム・ジョンイルはグランドプランの立案者として関わっている。思想面での活躍といえば、マルクス・レーニン主義の持つ欠点を止揚したと称する「唯一思想体系」としてのチュチェ思想の一層の精緻化と全社会のチュチェ思想化に貢献し、文芸面においても革命歌劇『血の海』に代表される作品を残し、その他にも映画や『生活と文学』に見られる文芸批評活動を通じた啓蒙・宣伝活動に励んできた。カリスマ性の点で主席に比して遥かに劣る自身を讃える大々的な宣伝を通じた権力と権威の強化に努力した期間は、優に20年を超える。

 

 この権力掌握の過程を経て、1990年代に軍部の実力者であるオ・ジンウ人民武力部長らの協力をとりつけて、朝鮮人民軍最高司令官の地位を得るにまで至った。こまめに各部隊ごとへの視察や国家安全保衛部などを使った「反動分子」の粛清を繰り返し、逆に忠誠を誓う幹部をつなぎとめようと「プレゼント政治」を拡大していった。主席死去三年後に、ようやく朝鮮労働党総書記に推戴され、名実ともに権力基盤を磐石なものとした最高権力者にまで上りつめたのは、事実上の後継指名されてから25年後のことである。建国後、延安派やソ連派、南朝鮮労働党派のライバルを次々と粛清し、約20年を要して独裁体制を完全なものとしたキム・イルソン主席の後継者として、社会主義体制下での初めての「世襲」となることの困難と、既に確立した「キム王朝」の三代目として権力を継承することの困難とを等しく見るわけにはいかないだろう。したがって、仮にキム・ジョンウンが既にある程度の実績を党なり軍において有している段階でキム・ジョンイルの権力を継承するという段取りに進んだならば、事はスムーズに運んでいく。

 

 女性革命家キム・ジョンスクとキム・イルソン将軍との間に生まれた長男として、抗日ゲリラ闘争の最中に「聖地」白頭山密営にて誕生したとの「革命神話」の系譜に位置づけられるだけでは正統性を確保することはできない(「白頭の血統」にあることが直ちに正統性の承認には帰結しないという旨の言葉を、キム・ジョンウン自身が万景台革命学院での記念講演にて述べている。現に、その系譜にあったキム・ジョンナムを暗殺したと疑われている)。キム・ジョンイルとは異なり、キム・ジョンウンにはそういう虚像すら作り上げられてはいない。周到な支配構造を作り上げたキム・ジョンイルに対して、キム・ジョンウンがそうした資質と能力を有しているのか未知数だが、今のところはうまくいっているようだ。キム・ジョンイルの論文「チュチェ思想について」の一節に、以下の文言がある。

たとえ生命をなげうっても、党と領袖に最後まで忠誠を尽くす覚悟に徹し、断頭台に立たされても革命的節操を守れる人間。このような人間こそがチュチェの革命観の確立した革命家です。

 

チュチェ思想により理論武装した有象無象の集団が、その創始者たるキム・イルソンとその解釈権者たるキム・ジョンイルへの忠誠をおいそれと放棄することはないだろう。対して、キム・ジョンウンチュチェ思想に果たした役割はわずかであり、この点からみても、キム・ジョンウンの精神的指導者としての側面は希薄であり、それゆえ、いきおい権威を著しく欠く状態での権力継承とならざるえない。物理的有形力を背後にしのばせつつも、それのみならずチュチェ思想による精神的支配によって確固とした権勢を保持してきた「キム王朝」は、内部に決定的な弱点を抱懐したままの状態が続いている。はたして、今回の最高人民会議でどのような権力機構改革がなされるのか、見ものである。

(追記)

結局、国務委員長に再任というかたちにおさまったようだ。しかし、国務委員は最高人民会議代議員から選出されてきたのに、今や代議員ですらない者が国務委員長に選出されるというのはどういうことなのか?憲法改正でもやったのだろうか?

ブラックホールとメディア

 アインシュタイン一般相対性理論によってその存在が予言されていたブラックホールの姿が高解像度の電波望遠鏡によって得られたデータを分析することによって明らかになったことが発表された。桜田義孝五輪担当大臣の辞任の報道の方が大きく扱われているが、この国の報道姿勢はどうなっているのだろうか。桜田の辞任など人類史にとってはどうでもいいニュースであって、メディアの感覚は完全に狂っている。それはともかく、この件で我が国の国立天文台などの研究者も参画していたことは二重の喜びである。

 

 21世紀に入り、観測技術や情報解析技術の飛躍的な向上にともない、素粒子物理学宇宙論などにおける基礎理論から導き出される物理的存在の観測が相次いでいる。素粒子標準理論から予言されていたヒッグズ粒子の存在がCERNの実験で明らかになっただけでなく、一般相対性理論から推測されアインシュタインがその存在を主張していた重力波も2016年に発見された。今回はブラックホールの直接観測の成功ときた。アインシュタイン一般相対性理論を実験的に裏づける証拠がまた一つ増えたことで、ますます一般相対性理論の確証度が増したと言えるだろう。

 

 もちろん物理学の理論は経験に基づく理論であるから、数学の証明のように絶対的な真であるわけではない。ともすれば一般相対論と抵触する観測事実が将来に発見されないとも限らない。その意味で暫定的な真であるわけだが、これまでの観測結果や実験結果において一般相対論を否定する事実は何一つとして存在しない。暫定的な真ではあるが、限りなく確証度の高い理論であるとの評価が強くなるだろう。改めて数学に支えられた理論物理学やその理論の予測を実際に観測や実験によって検証する実験物理学をも含めた自然科学の実力をまざまざと見せつけられる思いがした。特に、数学や物理学は人類の生み出した世界全体についての最高の体系知である。恐るべし、アインシュタイン

 

 但し、報道では一般相対性理論が証明されたという不正確な表現がなされているので、注意が必要である。数学の証明とは性質が異なるわけだから、理論そのものの証明という表現はいかがなものだろうか。「証明」という言葉を使いたければ、一般相対論によってその存在が予測されたブラックホールの存在が証明されたとの表現を使用すべきである。一般相対性理論を裏づける実験ないし観測による結果は既にエディントンなどによって得られていたわけであって、今回の結果は、重力波の観測とともに一般相対論の確証を更に一段と高める結果となったという方が相応しいのである。

 

 今回の観測成功の報道は、一般相対性理論関係のニュースとして重力波の観測以来の世界的・人類的大事件である。さて一般相対性理論によると、質量とエネルギーが時空の基本構造を歪めることになっている。物質が静止していれば空間は歪んだまま静止しているが、物質が振動運動すれば空間の基本構造に波が立ちそれが伝播していく。アインシュタインがこのアイディアを思いついたのは、1916年から数年にかけてのことだ。一般相対性理論重力場方程式によって、ちょうど電子が上下に運動すれば電波が出るように、物質が動けば重力波が生じることを示そうとしたのである。一般相対性理論における描像では重力は時空の曲率のことであるから、重力波は時空の曲率の波であると言える。超新星爆発はいわば時空という池に投げ込まれた小石のようであり、そのさざ波が外向きに広がっていく。但し注意を要するのは、電磁波や力波や水の波のように空間を横切って伝播していくのではなく、空間それ自体によって伝播していくという決定的違いがあるということだ。そうすると重力波とは、空間の幾何学そのものに生じた歪みという方が正確な表現かもしれない。重力波一般相対性理論からの一つの帰結であるが、長らく論争のテーマとして物理学界を賑わせてきた研究テーマの一つであった。

 

 なぜ長く論争になってきたかというと、おそらく単に物理学だけの問題に完結できない哲学上の問題が背景にあったからであろうと想像する。すなわち、「マッハ原理」として知られるマッハの哲学との関係である。偉大な物理学者で教師としても名伯楽であったジョン・ホイーラーが模索していたのも、この「マッハ原理」と相対論との整合的理解であった。仮に一般相対性理論にマッハの哲学が反映されているならば、空間の幾何学とは大きな質量をもつ物体の位置と運動量を他の物体を基準として記述するための便利な術語体系でしかない。「からっぽの空間」というのは空疎な概念であって、「からっぽの空間」が揺動するというのがいかなる意味を持つのかという哲学的な疑問が生じるからである。それゆえ多くの物理学者は、空間を伝播する波という概念が登場したのは一般相対性理論の数学が理解されていないからであると考え、重力波の実在に関して懐疑的にならざるを得なかった。しかし2016年の研究成果によって、重力波の概念はアインシュタインの「妄想」ではなかったことが明らかになったというわけだ。

 

 重力波の山と谷が通過すると、重力波により空間の幾何学に歪みが生じる。そうすると、空間と空間の中にある物質はある方向に引き伸ばされ、それと垂直な方向には圧縮される。多くの場所の間の距離を測定し、距離の比が瞬間的に変化する様子を捉えることができれば重力波の通過を検出したことになる。電磁波が膨大な数のフォトンが協調して進んでいるものとみなせるように、重力波は膨大な数のグラヴィトンが協調して進んでいるものとみなせるものの、グラヴィトン一個だけを検出するのは極めて困難である。例えば、原子爆弾の爆発で生じる重力波による観測者の身体の歪みは原子の直径にも満たないほど小さい。超新星爆発や非球形中性子性の回転運動あるいはブラックホール同士の衝突など天体物理学的波源によって生じた重力波であったとしても、波源が近ければ近いほど質量が大きければ大きいほど我々が受け取る重力波は強力になるが、たとえ一万光年という近距離にある恒星が超新星爆発を起こしたとしても、それによって生じた重力波が地球を通り過ぎるときには、例えば長さ一メートルの棒が一センチメートルの100万分の一のそのまた10億分の1の長さだけ引き伸ばされるに過ぎない。つまりは原子核の直径の100分の1程度なのである。よって重力波を検出する装置は、きわめて小さな長さの変化を検出できるだけの精緻なものでなければならない。人類は肉眼で見える望遠鏡を利用することによって宇宙の姿を求め始めて、やがて肉眼で見える光は電磁波の中でもごくごく狭い帯域でしかないことを知り、赤外線望遠鏡、電波望遠鏡、X線望遠鏡、ガンマ線望遠鏡と次々と道具を更新して宇宙の新たな眺望を得てきた。重力波の観測という事件は、今回のブラックホールの観測と同様に人類の知の歴史にとって重大な事件であったのである。

 

 高校・大学時の部活の先輩が素粒子論を専攻し、今もスイスのチューリッヒにあるETH(スイス連邦工科大学)で研究しているが、特に物理学研究に関して東京大学はETHやMIT(マサチューセッツ工科大学)と交流を深めることで研究環境が比較的恵まれた体制になっていると聞く。この点は文科系との違いで、況や僕のいた法学部とは雲泥の違いである。とはいえ折からの財政難や安易な「実学」志向の政策判断などの理由から、予算獲得のための研究外の政治的気苦労が絶えないとも仄聞する。学問上の苦労なら結構ながら、学問研究に無理解なアホな連中に予算審議権が握られているため、無用な苦労を強いられているのが実情だ。本来なら、各分野で見識ある重鎮級の学者が歴代内閣に直接的に進言する制度が必要とされるところ、形の上では総合科学なんちゃら会議という組織があるばかりで、実質的に機能しているようには見えない。審議会ともなれば二流・三流の御用学者・御用ジャーナリスト・御用評論家の声ばかりがでかく鳴り響き、まともな意見が取り上げられない。

 

 米国はハリー・トルーマン以後、大統領直属の科学顧問がついていて、その顧問は国家を強くするには国の利益には直接的には資さないように一見思われるような基礎研究に投資することが中長期的に見て合衆国全体の国力を増すことにつながるのだと主張していたのである(とはいえ、トルーマン自身は米国にはそう珍しくはないアホな大統領の一人であり、次のドワイト・アイゼンハワーに比べると知性も度量も遥かに劣る人物だ)。ビッグ・サイエンスの先駆となったマンハッタン計画の恩恵を受けた米国は、歴代の大統領に科学顧問が適切な進言をするという制度が整備されてきたのである。あのジョン・ホイーラーもその一人として有名で、彼は数人の大統領直属の科学顧問としても活躍した。旧ソ連でも、スターリンはベリヤに唆されて、当初はクルチャコフら物理学者の意見に耳を貸さなかったが、いざ原子爆弾が広島に投下されたとの報を聞くや、その日のうちに科学者をクレムリンに招集して原爆開発に取り組ませる決定を下した。もちろん安全保障と直結していたからという事情もあるが、ソ連はその後、莫大な予算を基礎研究に投じている。ソ連が誇った宇宙科学はその成果の一つである。また、米国でウィーナーのサイバネティクスが注目されるや、ソ連も負けじと情報科学の研究に取り組み始めた。この成果は、主として優れた数学者・物理学者を誇っていたソ連だからこそ為しえた成果でもあった。日本の学生もかつては『ランダウ・リフシッツ理論物理学教程』や『スミルノフ高等数学教程』で学んだ者が多いと聞く。『ファインマン物理学』といった米国生まれの素晴らしい教科書もあるが、あくまで素人の感想を述べるとするなら、『ランダウ・リフシッツ理論物理学教程』の方が、例えば変分原理からきれいに導出していくところなどを読むと断然洗練されているという印象を受ける(もっとも、高度な数学・物理学の水準を誇った旧ソ連は、洗濯機など家電品に関してはポンコツしかつくれなかったが)。

 

 かつて湯川秀樹朝永振一郎らの影響で京都大学を中心に素粒子論が興隆し、最も優秀な頭脳の学生がそれに魅惑されていわゆる「素論」を志したわけだが、そのほとんどは実を結ぶことなく挫折し、あたかも敗れ去った秀才たちの墓場と化した感が否めなかった(日本最高の物理学者といっても過言ではない、後に米国籍を取得した南部陽一郎東京大学出身だが、朝永との関係が強く、大学こそ東大であれ、どちらかいえば林忠四郎と同様、京都大学系統に思える)。比較的実験設備に恵まれた東京大学は、専ら理論物理に強い京都大学の伝統とは少々違って、その強みを生かして特に素粒子実験の分野で数々の素晴らしい成果を今も生み続けている。小柴昌俊や戸塚洋二や梶田隆章らの偉大な成果はその一例だ。

 

 ともかく今回の成果は、人類史に残る新たな1ページを刻んだことは確かだ。ところが、先にも触れた通り、メディアは桜田義孝の事実上の更迭劇を大きく報道するときた。この状況は、報道に携わる人間の感覚がトチ狂ってるというよりも、メディア特に新聞社(テレビ局は今もなお新聞社の支配下に置かれれている)において「政治部」の力が強いことに起因する。かつて、岐阜県神岡鉱山跡を利用して作られたスーパー・カミオカンデによるニュートリノ観測実験の成果についてニューヨーク・タイムズをはじめ英米のクオリティ・ペーパーは一面で報じたが、日本の新聞ではごく小さな扱いにとどまり(朝日新聞科学欄は2面使うなどそれなりの扱いで報じたらしいが)、政界記事が優先的に扱われた。科学上の大発見が人類史にとってどれほどのニュース・バリューであるのかという見識に欠け、どうでもいいような政界の浅ましい連中の言動を有難がって、さも一大事と言わんばかりの間抜けぶりをさらした。この点を強調していたのが、蓮實重彦東京大学卒業式における総長告辞である。この意味でも、やはり蓮實重彦は見識があると感心させられる。

 

 もっとも、これは日本の新聞記者の質が総じて悪いということを意味しはしない。科学部に属する記者で事の重大性に気がついていない者などいなかっただろう。しかし悲しいかな、新聞社では圧倒的に政治部の力が強いため、最終的に紙面構成を判断する編集局長はたいていが政治部出身あるいは経済部出身の記者上がりで、その結果どうでもいい政界記事が一面に踊りやすい傾向にある。それゆえ、飽きもせず延々と下らない政界の記事が天下の一大事であるかの如く垂れ流される。それでも、まともな政治の記事であればまだ許されるところ、日本の政治記事は、かつて丸山真男も嘆いたように、「政界部」と化した自称「政治部」の記者によって書かれた政界記事ばかりなのである。

満洲

 昭和6(1931)年9月18日午後10時半頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条溝において、南満洲鉄道の線路が爆破された。関東軍は、これを張学良軍閥の仕業と断定して直ちにその本拠である北大営を攻撃し、翌日19日午前6時頃までに張学良軍を敗走させ占拠することに成功した。軍事的には見事な電撃作戦で、満洲事変の火蓋が切ってとられた。

 

 この作戦の成功は、関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐の周到な計画と、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐の決断力による。当時、奉天に駐屯していた部隊は、独立守備歩兵第二大隊と駐箚第二師団歩兵二十九連隊であり、前者については、第一中隊と第四中隊を奉天に、第二中隊を撫順に、第三中隊を虎石台に配置されていた。

 

 第三中隊は、9月18日午後7時から奉天北方約11kmの文官屯南側で夜間演習を実施。川島正第三中隊長は河本末守中尉に北大営西方の鉄道路線巡察を命じ、河本中尉は部下数名を連れて柳条溝に向かい、騎兵用小型爆薬を装置して線路を爆破した。午後10時半頃だった。もっとも、満鉄の通過車両に影響がでぬように爆薬の量を抑えたために、爆破の規模といえば、枕木の破損が二本で、レールの破損個所も1mにも満たなかったらしい。実際、線路が爆破されても奉天行の列車が悠々と通過できたほどの規模だったのである。

 

 爆破の報告が大隊本部と特務機関になされ、川島正率いる第三中隊が北大営を急襲した。関東軍側の兵力は105名に対して、北大営を拠点にしていたシナ軍の兵力は約6800名だったが、関東軍の死者は2名にとどまった。第二十九連隊も奉天城内のシナ軍を早朝までに駆逐することに成功し、作戦開始から約8時間ほどで奉天全域を制圧することができた。

 

 この柳条溝事件を契機として一気に関東軍満洲全土を制圧し、昭和7(1932)年(満洲元号では大同元年)に「満洲国」が建国され、蒋介石率いる国民党軍による北伐を機に紫禁城を追われて天津の外国人租界にあった日本領事館に匿われていた清朝最後の皇帝であり、辛亥革命後退位させられた宣統帝愛新覚羅溥儀を、土肥原賢二甘粕正彦の工作によって執政として招き入れることに成功する。二年後の昭和9(1934)年(満洲帝国元号では康徳元年)、愛新覚羅溥儀は皇帝位に就き、「満洲国」は「満洲帝国」と呼ばれるようになった。

 

 ちなみに中華人民共和国政府は、あくまでこの満洲国をシナ東北部を侵略した大日本帝国によってつくられた傀儡国家であるとして「偽満」と呼称し続けている。しかし、それは後に触れるように、実態に反する。実質的に傀儡に見えようと、列記とした独立国家であった。清朝が崩壊して再び解体された蒙古は満洲国建国を歓迎していたし、当時のシナの社会が総じて満洲国を認めなかったわけではなく、むしろ満洲国への流入者が後を絶たなかったほどだし、何より、当の満州族が独立を念願していたのである。

 

 「柳条湖事件」に関しては諸説あるとはいえ、上記通説によるならば、関東軍板垣征四郎と「日本陸軍創設以来の天才」との誉れ高い石原莞爾による発案で(ちなみに「日本海軍第一の大秀才」とうたわれたのは、岸信介の実の兄である佐藤市郎中将である。岸信介の回想録によると、頭の出来は佐藤市郎、岸信介佐藤栄作の順で、度胸の順だとその逆だったとのこと)、本庄繁関東軍司令官の了承の元になされた謀略事件であった。

 

 当初の日本国政府の方針とは明らかに外れた関東軍による暴走ともとれる不測の事件ではあったとはいえ(日本国内の世論は、「満洲問題は武力解決の他なし」との意見が多数を占めていた)、その後の日本政府の追認と介入とりわけ日満議定書付属文書の内容からすると、「傀儡」と言われても致し方ない側面も確かにある。但し、完全な「傀儡政権」として片づけてよいかと言われれば必ずしもそうでもない。確かに、この事件は国際的に非難されたが、日本による一方的な侵略行為とまでは言えるかどうかは、なお慎重を要する。

 

 左翼の側からのいわゆる「十五年戦争」史観は、満洲事変以後一貫して日本政府がシナ大陸侵略を企ててきたと解している点において明らかに無理がある。国際連盟からの批判の元にあった「リットン報告書」ですら、日本が中華民国の主権を侵害したとする記載はしていない。なぜなら、後に触れるように、満洲の地が中華民国の領土であったと決めつける共通した認識がなかったからである。歴史的にも一貫してシナの版図と言える事情は存在しない。批判の対象は、日本が締結していた「九ヶ国条約」違反に該当するという点であって、この点に関しては、明らかに日本側に非があったことは認めねばならないだろう。せっかくの幣原喜重郎外務大臣の折衷案も御破算にされ、結果として日本政府が関東軍の行動を事後追認するような格好で国際連盟からの脱退を決断したのは、外交上の愚策であったと思われる(ちなみに幣原の認識は、満洲はロシア領であるというものだった)。

 

 しかし同時に、その後の満洲帝国の発展ぶりから、バチカンをはじめとしてドイツ、イタリア、スペイン、エルサルバドルコスタリカなどの国々が満洲帝国を承認し国交を樹立しているし、国交樹立とまでは至らずとも、ソ連のように連絡事務所を設置して事実上の国交を結んだ国々まで含めると、50もの国々が満洲帝国と関係を結んでいたことも指摘しておかねばらない。つまり、当時においてはかなりの数の国々が、その成立過程において瑕疵があったことを指摘しつつも、満洲国の発展ぶりを目にして次々に承認していったという事実も見ておかねばならない。

 

 ともかく、国務院総務庁を中心として、ソ連の五か年計画に範をとった工業化が推進され、「王道楽土」・「五族協和」を理念とした多民族が集う「人工国家」が満洲の地に作られた(ちなみに「王道楽土」という造語は、小澤開作によるものであるという。なお、小澤開作の息子が、指揮者の小澤征爾である。この「征爾」という名は、板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」からそれぞれ採ってつけられたものらしい)。そこにはナチの迫害から逃げてきたユダヤ人も移り住んできたことも知られているし、共産主義者による迫害から逃れてきた白系ロシア人もいた。

 

 南満州鉄道株式会社の誇る技術はつとに知られ、満鉄調査部は最高のシンクタンクとして、多くの日本の優秀なスタッフが集まった。中には、日本国内で弾圧されたマルクス主義者も多くいた。いわゆる昭和17(1942)年の「満鉄調査部事件」によって弾圧されるまで、このシンクタンクは最高の情報調査能力を誇った。大杉栄伊藤野枝を殺害したとされる(事実は違うと思われるが)甘粕正彦が、満洲の運営方針をめぐる対立から石原莞爾を追放する形で満洲帝国での実権を握り、満洲映画協会満映)理事長に就任して、一方の表舞台では映画を使った大衆プロパガンダを展開し、他方の裏側では諜報活動に従事したと言われる。

 

 先述の通り、奉天特務機関長であった土肥原賢二の指揮の下、天津租界の日本領事館に匿われていた愛新覚羅溥儀を密かに満洲に脱出させる工作に携わったのも、甘粕正彦である。甘粕は、岸信介らとともに阿片密売による工作資金調達にも携わるなど、満洲帝国を発展させていくために様々な謀略活動に従事し、挙句は「夜の満洲は、甘粕が支配する」と言われたほどにまでの実力者になっていった。甘粕正彦は、その諜報や謀略の側面ばかりが注目されダークなイメージがつけられているが、満映スタッフによれば、甘粕は日本人と日本人以外の民族との待遇の差別を許さず等しく遇した理事長として慕われる存在だったという(五族協和の理念がありながらも、恥ずべきことに、日本人とその他の民族とでは賃金に格差があり、また食事にも差がつけらるのが実態であった。この辺の事情は、山室信一『キメラ-満洲国の肖像』(中公新書)が詳しい。甘粕は、このような差別的待遇を断固廃したのである)。自決の前でも、甘粕理事長が自決するのでないかと心配したスタッフたちが理事長を死なせてはならないと見守るほどであった。葬儀に参列した人々の数は物凄い数であったらしい。当初は大日本帝国のためと思って満洲国に赴任した甘粕であったが、最後は心底満洲国に尽くし満洲国に殉じる気持ちだったのだろうと推察される。私利私欲を捨ててストイックなまでに国家に殉じた甘粕正彦は、満洲帝国崩壊とともに「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」との辞世の句を遺して自らの命を処した。

 

 日本からの投資もあって、岸信介、古海忠之、星野直樹革新官僚満洲総務庁を中心に、日本国内では行い難かった大胆な統制計画経済政策を断行して、満洲国の経済力を飛躍的に高めた。この時の経験が、戦後日本の高度経済成長に生かされることになったのである。奉天や新京(現在の長春)あるいは旅順(現在の大連の一部)などは近代都市として整備され、その成功ぶりは、岸信介をして「満洲は私の作品」と言わしめたほどである。哈爾濱のキタイスカヤ通りは上海のバンド地区や天津のヴィクトリア・ロード以上の華やかな多国籍な文化が漂う目抜き通りとなり、東京の銀座や大阪の御堂筋など比べ物にならないほどの賑わいを見せていた、と満洲時代を懐かしむ往時の日本人も多くいる。

 

 何をしているかわからない大陸浪人や内地で弾圧を受けた左翼から、果ては日本最高のエリートであった革新官僚が、目的達成のための方法に関しては非常にリアリスティックな視点を持ちながらも、その目的において、ともすれば「誇大妄想」ともとれる理想主義に突き動かされて走った巨大機関車の如き国。恰も、遥かな地平線に夕陽が沈み行く大陸の大地を満鉄特急「亜細亜」号が疾走する情景が象徴するように、多分に日本人のロマンティシズムを喚起させもする存在。安倍公房の小説には、そんな満洲への郷愁とも言える感情が所々に見え隠れする。新国家建設で躍動する人々の熱気と裏腹に、全てが虚構と虚飾に彩られたかのような束の間の幻影、虚実皮膜のただ中にあった国。満洲に対する日本人の持つ一つのイメージである。

 

 この遺産を中華人民共和国はフルに利用することによって、シナ社会の工業化が可能になった。もし満洲の遺産がなければ、おそらくシナの工業化はさらに遅れていただろうことは、もはや大半の人の常識である。満洲以外に工業化可能な素地は何もなかったからだ。毛沢東は「東北部さえあれば中華人民共和国の工業化は可能である」と言い、中華人民共和国建国時から長い間、同国の工業生産の約9割は満洲国の遺産によってもたらされた。

 

 中国共産党の「正統性」に抵触せぬように遠慮がちに行われてきた感のあるこれまでの左翼的な歴史研究の動向にも疑問符がつけられはじめたおかげで、歴史研究は正常化されてきつつある。それでも十分とは言えない。満洲研究におけるネックは、そもそも満洲という土地は歴史的に見て必ずしもシナ人の領土であったとは言えないという視点が抜けているということである。何もシナの固有の領土であることを否定するからといって、日本の満洲占領を正当化して構わないと言っているわけではない。少なくとも当時の状況からして、国家三要素説に基づく現在の領域国民国家の領土概念をこの地に当て嵌めて見ることはできないと言っているのである。

 

 辛うじて清朝の版図にはなっていたとは言えるが、清朝はもちろん満州族の王朝であり、辛亥革命以後、清朝は各民族ごとにバラバラに解体され、少なくともシナ大陸の南方しか勢力範囲にしていなかった中華民国の版図ではなかった。満州族蒙古族朝鮮族やロシア人その他有象無象の馬賊が跳梁跋扈していた土地であって、長い期間にわたってシナの版図とは言えなかった。

 

 柳条湖事件以後の日本の行動を全肯定するつもりはないが、満洲事変に関しては、中華民国の主権を侵害する軍事的侵略行為として全否定することはできない。強いて言えば、満洲満洲族の土地であって漢族の土地ではなかった。そもそも歴代のシナの王朝は一貫して漢族の王朝であったわけでもなかった。ウイグルチベット内蒙古満洲も漢族の勢力下であった時代はなく、漢族が長期間にわたって掌中に収めていた地域は、せいぜい万里の長城までである。軍閥の張学良が、日本が満洲に投資した資産に関して「俺のものだからよこせ」といったぐらいしか根拠がないのである。

 

 もちろん、満洲での「負の歴史」が存在したことも否定できないし、総体として、少なくとも満洲全土の占領という点に関しては、当時の日本の行動は行き過ぎた行為であった。だが同時に、当時の日本の行動を当時の世界情勢下における具体的事情、とりわけ日露戦争後に得た権益や投資した莫大な資本の保護または在留邦人保護を図るために、満洲権益を守ろうとした日本の意図と行動にも一定の合理的な理由があったということも認めるべきだ。

 

 満洲事変も、日に日に拡大していく排日運動から満洲権益や在留邦人をいかに守るかという切実な問題に直面していたことが背景にあった。事態打開の策として日本による満洲領有化か、または親日的な独立国家の設立かの二者択一の選択に迫られていたのである。この満洲権益への強い拘りが、後の対米英開戦の原因となるわけだが、それを考えると、なるほど米国側の最後通牒を受け入れることが難しかったことも理解される。

 

 日米対立が深刻になった契機は満洲事変ではなく、支那事変や日独伊三国同盟仏印進駐である。昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件以後、当初の不拡大方針にもかかわらず拡大してしまった支那事変の本格化によって米国の対日姿勢が硬化し、昭和14(1939)年7月に日米通商航海条約の廃棄通告に至るまでに日米関係は悪化した。

 

 米国は昭和15(1940)年には、日本の北部仏印進駐の動きを牽制するために輸出許可性を規定した国防法を成立させる。一方、松岡洋右外務大臣の対米牽制構想では、日独伊三国同盟を締結するとともに、昭和16(1941)年4月に日ソ中立条約を締結して日独伊ソ4か国による対米包囲網を実現する予定であった。

 

 ところが間抜けなことに、その2か月後にドイツがソ連に対する電撃作戦による開戦を通告、松岡の構想はもろくも崩れ去った。三国同盟とは皮肉なことに互いの足を引っ張り合う同盟だったのである(ドイツからすれば、対米開戦は避けたいところ、日本が真珠湾攻撃をしたものだから、ドイツも米国と戦争状態に巻き込まれる事態に至った)。

 

 独ソ開戦の10か月後に、予想される米国の対日石油輸出決定への恐れから南部仏印進駐を行うことで石油資源の確保に努めつつ、時期を見計らって対ソ戦に踏み切るとの御前会議決定が下される。南部仏印進駐が現実になるや米国は資産凍結命令と対日石油禁輸を発動したわけだが、この時点ではまだ対日強硬論一枚岩ではなかった面も見ないといけない。

 

 海軍作戦部長だったターナーは、対日石油禁輸は日本の蘭印やマレーの進出を招来し、その結果として米国が早い時期に太平洋上の戦争に介入せざるを得ない状況になってしまうとルーズベルト大統領に進言し、ルーズベルトも当初はウェルズ国務副長官に対して石油の全面禁輸を避けるようにとの指示を出していた。事実、輸出管理局も国務・財務・司法省合同外交資金管理委員会に対して日本に45万ガロンのガソリンを含む輸出許可を出していたのである。

 

 ところがこの決定は、アチソン国務次官補の決定によって覆された。ルーズベルトは、8月3日からニューファンドランド沖の船内でおこなれるチャーチルとの秘密会談のためにホワイトハウスを不在にしていたわけだが、そのルーズベルトチャーチルとの秘密会談の場で、対日開戦を決意するとともに、開戦の口実作りのために日本から先に攻撃をするよういかに挑発するか、また日本に勝利した後で日本を永久に武装解除させ米国のアジア拠点として属国にする計画を練り始める。

 

 つまり、真珠湾攻撃の4か月も前にルーズベルトは日本が戦争に踏み切るよう仕向け、勝利後の日本の武装解除を決断していたわけである。対日石油禁輸にあたり近衛文麿内閣は、事態打開のために近衛・ルーズベルト会談を提案し、あくまで外交交渉を優先して対米政策を講じたのだが、東条英機陸軍大臣が拒否して近衛内閣が崩壊してしまう。

 

 この時点では日本としても、少なくとも近衛からすれば、シナからの撤退、南部仏印からの撤退、三国同盟からの離脱ないしは事実上の骨抜きという米国側の要求にも応じる心づもりはあったと見られる。米国の国務省も暫定協議案を日本に提示する予定もあったという。ところが、突如として国務長官ハルが日本が絶対に飲めない満洲権益の放棄という条件を追加した要求すなわち「ハル・ノート」を突き付けるわけだが、これはその内容から事実上の外交交渉打ち切りの宣告を意味した。

 

 内容が日本政府に打電された11月26日、連合艦隊の約50隻の艦艇がハワイ攻撃に向けて択捉島から出港したのであった。

 

 事後的な視点から日本側の行動を全否定し、あたかも中国共産党の正当性の承認に基づく歴史観でなければリヴィジョニストであるかのような見方をする主張は、むしろ歴史を政治イデオロギーとして利用する行為に加担するようなものである。満洲の可能性の肯定的な面も見据えないと公平な歴史の見方とはならない。

 

 井上清『日本の歴史』(岩波新書)などは、マオイズムにかぶれた者によるプロパガンダの一例として後世に残るだろう。井上清尖閣諸島の領有権を急に中華人民共和国が主張するようになるや、わざわざ北京政府の意向に沿うかのように「釣魚島は中華人民共和国の領土である」と主張した人間であるし、プロレタリア文化大革命を支持した人物である。ともかく、満洲が古来シナの領有であり、その領土を日本が一方的に軍事侵略して奪ったという見解は一面的な見方であろう。

 

 同じく、今も激しい独立運動が起こっている内蒙古ウイグルチベットもまたシナの領土とは言えず、中華人民共和国による軍事占領が続いている土地だということである。とりわけウイグルチベットの侵略は、旧日本軍の行為など比較にならないほどの蛮行だろう。これら侵略行為には目をつぶり、あろうことか中華人民共和国少数民族との共生の理想的モデルとして言祝いでいた左翼のプロパガンダも、徐々にその嘘がバレ始めている。

 

 1992年の鄧小平の「南巡講話」から更に加速度を増した改革開放路線が30年目を眼前に控えている今、社会主義市場経済という訳のわからない国是に牽引されてきた中華人民共和国は、もはや日本とは比べ物にならぬほどの階級社会となった。支配層内部では太子党共産主義青年団出身者との間の軋轢がありながらも、両者ともども汚職にまみれ、日本では考えられないほどの不正蓄財によって財を増やした中国共産党幹部の子弟たちは、権力闘争に敗れるか国家崩壊時に備えて二重国籍を持ちながら、国営企業の経営者やヘッジファンドを営む投機マネーの仕掛人でもある現状がある。

 

 元ゴールドマン・サックスのポールソンは、そんな彼らと懇意であって、その蜜月ぶりはヘンリー・キッシンジャーも顔負けするほどである。ゴールドマン・サックスやブラック・ストーンなどの金融資本は、とうの前から日本を見限ってシナを見据えている。毛沢東周恩来から鄧小平を経て現在の指導部まで今も昔もリアリストであり、そのリアリストであることから波長が合うという要素も手伝っている。米国の国務省は本音のところでは、日本よりシナを好む傾向が昔からあったのは、利害得失に敏感なシナの政治家や役人とはリアリストであるがゆえに話が通じやすかった。この点が日本の政治家と違っている。

 

 観念論者は最終的にはリアリストの前に敗北する。大陸の歴史を見れば、生存競争に勝ち抜いてきたリアリストの前に、日本は手に追えないものをうすうす感じていたはずであり。日本の政治家や役人は、昔も今も観念論的に過ぎるのだ。

 

 戦前日本の対シナ政策は、総合的に見るならば誤りだったと言える。だがそれは、左翼が言うような「侵略戦争」というレッテルで片付けられるようなイデオロギーゆえの理由ではない。確かに「侵略」と言われても仕方がない行動があったことも事実である。日本が軍事的威力を背景に対華二十一か条の要求をした頃から、明らかに日本の政策には傲慢な態度が目立ったことも事実だし、大陸での軍事行動の最中で日本軍によって多大な被害を受けた住民が存在することも事実だ。この点に関しては、日本として真摯に歴史に向かわねばならないだろう。

 

 だが、問題はそこだけではなく、明らかに日本の行動にリアリズムが欠けていたこと、それゆえ大陸での行動が常に場当たり的な行動に終始し、あってはならぬ残虐な行動まで許してしまったのである。したがって、少なく見積もっても、盧溝橋事件以後の日本軍の行動は侵略であったと評価されても仕方がない。仮に、東京裁判で持ち出された「共同謀議」なるものが成立していたならば、このような場当たり的な行動よりはもっとマシな行動になっていただろう。逆に言うならば、そのような「共同謀議」などなかったということを推認できる間接的な事実ではないかと思われるほどである。

 

 いずれにせよ、世界史的視点からすれば、大日本帝国の最大の失敗は、シナ大陸の共産化に結果的に手を貸してしまったということである。防共を掲げた戦いが、かえって共産化を招いてしまったということである。

天才ナッシュ

数年前に交通事故で亡くなった数学者ジョン・ナッシュプリンストン大学大学院に進む際、学部の指導教授が書いた推薦状には、「この男は天才です」とだけ記されていたというエピソードは、今ではかなり知られているが、一体どういう意味で「天才」であったかまではあまり知られていない。確かに、シルヴィア・ネイサー『ビューティフル・マインド-天才数学者の絶望と奇跡』(新潮社)にはゲーム理論だけでなく純粋数学上の功績にも触れられているが(統合失調症の一症状なのかはわからないが、被害妄想も相当だったようで、廣中平祐のフィールズ賞受賞対象になった代数多様体上の特異点解消定理にいちゃもんをつけた手紙を、当時ハーヴァード大学教授だった廣中自身に送り付けている)、奇行面が目立って、具体的にどういう点で「天才」なのかという核心部分が伝わってこないのである。

 

ナッシュは1994年に、ゲーム理論の発展に貢献した一人として、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞(いわゆるノーベル経済学賞)を受賞した(他の賞はともかく、こと経済学賞に関しては廃止した方がいいと思うけど)。もっとも、この受賞対象となった業績は、ナッシュの純粋数学上の業績、すなわちリーマン多様体の埋め込み定理や自己放物型方程式と楕円方程式の解のヘルダー連続性の問題への貢献などと比べれば屁みたいなものである。そのようなことを、弟子筋にあたるトポロジストのジョン・ミルナーは言っていたそうである。このミルナーの言は、もちろんナッシュの偉大さを強調した誉め言葉であって、ナッシュの受賞を貶した言葉ではない。

 

しかし、本当にゲーム理論に果たした功績はその他の純粋数学上の業績に比べて格段に劣っているのだろうか。確かに、受賞対象となった「n人非協力ゲーム」だけを取り出せばそうとも言えるかもしれない。数理経済学と威張ったところで、純粋数学理論物理学からすれば「オモチャ」を玩んでいる子どもにしか見えないだろう。しかし、ナッシュの一連の論文の帰結の含意を読み取れば、必ずしもそうではないことがわかる。やはり、ここでもいかんなくナッシュの天才は際立っていたと思われるのである。それは、異質のもの同士を整合的に組み合わせるナッシュの発想力である。

 

「n人ゲーム」は、①ゲームのプレーヤー、②各プレーヤーの戦略の集合、③戦略の集合の直積上の実数値関数である利得関数の組として表現される。「n人ゲーム」の最も単純なモデルとして、「2人ゼロサムゲーム」がある。このゲームには必ず均衡点が存在することを「ミニマックス定理」として証明したのがジョン・フォン・ノイマンである。

 

その立論の流れを簡略化して述べると、以下の通りである。プレーヤーの純戦略の集合をとり、他方のプレーヤーの戦略の集合の確率分布をプレーヤーの混合戦略として、両プレーヤーの混合戦略の集合を定式化することからはじめる。ある混合戦略をとったときのプレーヤーの利得関数を対応させて、この利得関数間に成立する「マックスミニ」かつ「ミニマックス」の性質を持つ一定の関係(利得関数の鞍点になっている)を形成する混合戦略の組を「均衡点」として導きだすというものである。この「ミニマックス定理」を「n人非協力ゲーム」にまで拡張したのが、1951年のナッシュ21歳の時の業績の一つである。

 

確かに、この論文自体は、角谷静夫やブラウアーらの「不動点定理」の応用でしかないように見える(それだけでも経済学では大きな業績であるが)。それゆえ、先述のミルナーの言に表れているように、数学者からすれば、数学上での世界的業績とまでは言えない。事実、この結果を聞かされたノイマンは、さしたる関心を示さなかったらしい。

 

しかし、ゲーム理論に関する主な3篇の論文の個々の数学的側面についての上記の如き評価が仮に適切だとしても(僕には、リーマン多様体の埋め込み定理がどれほど優れているのかを適切に評価する能力はない。抽象的思考にかけては、最も上質な才能に恵まれた集団であろう純粋数学者の中でも、特に秀でた学者であるミルナーノイマンがそう言っているのだから、そう信じるよりほかないだろう)、「均衡解」と「交渉解」という、ある意味で水と油の関係に立つ異質な両者を結びつけるという驚嘆すべき結果を導き出したところにこそ、ナッシュの稲妻の如き閃きの冴えが際立っているのではないか。

 

まず、単純な「ナッシュ均衡」の概念について、ナッシュの1951年の論文「n人非協力ゲーム」に即しながら確認しておこう。「ナッシュ均衡」とは、他のプレーヤーが同一の戦略をとり続ける限り、どのプレーヤーも自らの戦略を変えたとしても、自身の利得を増やすことができない状態を意味する(早い話が「抜け駆け」しても無駄ということだ)。この均衡点の存在について、ナッシュは有限個の純戦略に基づき「n人非ゼロサムゲーム」について証明した。のみならず「2人非セロサムゲーム」に関しては、ゼロサムゲームの場合とは異なり、2人の協力可能性を示し、かかる状況下での解を「ナッシュ交渉解」として定式化することも既に成し遂げている(これは別の論文「交渉問題」において確認された)。

 

ナッシュのアイディアをやや乱暴に整理すると、以下のようになる。①2人が高度に合理的であること、②各人は様々な物に対する自身の欲求を正確に比較できること、③交渉技術については差が無いこと、④各人はもう1人の嗜好と選好について完全に知っていること、という4つの前提から出発する。そこで、(ⅰ)個人の効用理論を展開する際に、個人は2つの可能な期待を提示された部分につき選好を判断することができること、(ⅱ)選好の順序付けは推移性をみたすこと、(ⅲ)等しく望ましい状態の確率的組合わせは等しく望ましいこと、(ⅳ)ある期待と別の期待の確率的組合わせでそれ以外の期待と等しくなるようなものが存在する連続性をもつこと、という補助的条件を措いて効用関数の存在を証明し、この効用関数が線形性をもつことを示していく。これが第一段階。

 

次いで、個人の効用関数をとり、コンパクトかつ凸であり原点を含むような実現可能集合Sとその共同混合拡大を考える。実現可能集合に属する「交渉基準点」についての交渉問題を考えるにあたり、両者を対応づける写像つき、パレート効率性、2人の合理的な個人が実現可能な取引の集合Tにおいて、c(T)が公平な取引であると同意しているとすると、もしSがc(T)を含むならば少なくとも集合S外の点で表される取引を試みないことには同意するはずであるから、SがTに含まれているなら状況はSが実現可能な集合である場合に還元される。すなわちc(S)=c(T)という対称性が確保されていること((a,b)が集合Sに含まれるならば(b,a)もSに含まれるような、要するに直線u1=u2について対称となるような効用演算子u1,u2が存在するときSは対称である)、正一次変換に対して独立であるといった前提を措くことで、交渉基準点が「ナッシュ交渉解」に一意に定まることを証明するのである。

 

このような「ナッシュ均衡解」と「ナッシュ交渉解」との関係をどうみればよいのか。これは異質なもの同士である「非協力ゲーム」と「協力ゲーム」をどう関係づけるかという問題である。「2人協力ゲーム」という論文において、ナッシュは「2人協力ゲーム」の解につき2つの独立した導出を試みている。1つは「協力ゲーム」を「非協力ゲーム」に還元する方法。2つ目は公理論的アプローチであり、解の持つべき性質として自然であると考えられるものを7つの公理として提示した上で、これらの公理が解を一意に定めることを示している。

 

交渉問題の状況に対して、各プレーヤーはそれぞれ混合戦略を選択する要求ゲームを想定する。2人の要求が両立不可能である場合に、この使用を強制される戦略をプレーヤーの「威嚇」とする。プレーヤーたちは互いに自分の威嚇を知らせあう。ここでは各プレーヤーが独立に行動するという仮定が措かれている。この意味は、プレーヤーが協力が自分にある効用をもたらさないかぎり協力しないということである。この利得の実現可能集合を考え、この集合に関する当該要求ゲームにおけるある特性関数を導入して、各人の利得と戦略の組を関係づける。次の段階では、この特性関数をとった際、解析的手法で平滑化されるよう近似された要求ゲームにおいて、唯一の「ナッシュ均衡解」の存在が証明されるのである。一言で表現するならば、平滑化ゲームにおける均衡点の唯一の必然的極限である。そして、この均衡解は「ナッシュ交渉解」に近似していくことが示されるのである。

 

ここから「リヴァイアサン」の必然性の有無を考える際の重要な含意を読み取ることができないだろうか。ある公理系を定めてそこから導かれた「ナッシュ交渉解」を「ナッシュ均衡解」に平滑的に近似させていくことが可能であるとするなら、個々人が存在する一定の範囲を統治する「不可分な主権」のもとに個々人を服せしめずとも、諸々の要求を満足させる秩序形成は可能ではないかという考えを延ばすこともできなくはない。

 

古典的リアリズムに立つ国際政治学者として知られ、既に「古典」となっているPolitics Among Nationsの著者であるハンス・モーゲンソーは、国際社会の状況の説明においてホッブズを引用し「国家がないならば、国民社会は国際舞台と似たものとなり、『万人の万人に対する闘争』状態になる」と述べる。国際政治を「諸国家が諸国家に対する闘争を演じるアリーナ」として捉える「ホッブズ・モデル」は、リアリズムの理論的前提となっている。もちろん、ホッブズ自身が国際政治を国内の政治状況ないしは社会状況と同様、『万人の万人の対する闘争』状態と考えていたかどうかは詳らかには知る由もない。

 

ホッブズの基本的な考えの枠組みを粗っぽくまとめると以下のようになる。ホッブズによれば、各人が現有する力並びに力を行使する手段を確保するためには、それ以上の力を持つ必要がある。この力を他より多く得ようとすれば、誕生したその日から各人はやむことなき力への永続的欲求にかられることになる。この意味で、万人は万人に対する競争者であり敵となる。この状態は万人の万人に対する戦争状態に他ならず、そこでは絶えざる恐怖と暴力による死の危険に苛まれ、人間の一生は孤独で貧しく野蛮で短い生とならざるをえない。各人は自己を保存するために各人の保持する力をいかなる場合でも行使する権利を万人に対して主張でき、かかる自己自身を支配する権利としての自然権を保持すればするほど、闘争状態がやむことは無くなっていく。

 

しかし、各人がかかる自然権を放棄し、自然権を互いの信頼に基づき各人のcovenantによって、個人もしくは合議体に服従を誓うことにともなって成立するのがcommonwealth by institutionである。自然権を移譲された「主権者」は各人に対して絶対的な権力を有し、逆に各人は主権者の命令に従う義務を負うが、ここにいうcovenantとは各人間の約束にすぎず、各人と主権者との間の直接的臣従契約でも各人と主権者との統治契約でもない。各人の信頼に基づく自発的服従による人工的国家と各人の間の恐怖に基づいて服従を力で強いることにより発生する自然的国家が区別がされ、これがcommonwealth by aquisitionとされる。後者は君主制のモデルである。

 

国際政治学の中でも、「ホッブズ・モデル」を採用するリアリストは、これを国際政治の状況に当てはめる。自然状態の下での相互不信と恐怖に苛まれた「囚人のディレンマ」的状況にとどまるか、そこから抜け出てリヴァイアサンによる秩序形成がなされるかの岐路にあって、政府による統治秩序がみられる国内とは異なり、諸主権国家の上位の政府が存在しないリヴァイアサン不在の状況下では自然状態のままである。

 

このゲーム論的状況が明確に現れるのが、国家安全保障の場面である。とりわけ安全保障論においてゲーム理論がよく参照されるのは、抑止理論においてである。抑止とは、相手国にこちらが望まない行動をとらせないために、もし相手国が攻撃的行動に出た場合、こちらが懲罰的報復措置をとるという威嚇態勢をとることによって、相手国が当該行動に出ることを事前に思いとどまらせることを意味する。

 

相互確証破壊理論に代表される抑止理論によると、この抑止が機能するためには抑止する側が当該国家の安全及び国際秩序を遵守する約束を実行しうるだけの能力と意思を有し、かつそのことについての情報が被抑止側に伝達され認識されていることが前提となる。そして被抑止側が攻撃に出た場合の結果は、報復された場合の損害の大きさと被抑止側が推測する報復される蓋然性の掛算によって割り出すことができ、この計算可能性が攻守双方の行動の予測可能性を担保するという構造を持っている。被抑止側と抑止側の意図と能力を誤認・誤算しなければ、予想される報復の被害が攻勢に出た場合に得るはずの期待利益よりも小さいと確信しないかぎり、抑止は機能するとされる。cost(攻撃の費用)、risk(反撃される危険)、benefit(利得)、probability(抑止側が反撃に出る確率)の関係は、P(C+R)>(1-P)Bとなるときに抑止効果が期待できる(計算的抑止)。

 

少し考えてみればわかるように、抑止が機能したことを直接証明することはできない。起こったことをその力によって検証することが可能であっても、起こらなかったとして、それが抑止の効果のためであると証明できないからである。トンプソンは「事実によって証明も反証もされない命題」と言っている。トマス・シェリング『紛争の戦略-ゲームの理論のエッセンス』(勁草書房)のゲーム理論に基づいた戦略理論や、他にも「バーゲニング理論」などが提起され、抑止理論の基礎づけの試みがなさた。

 

その後の意思決定理論は、認知科学や心理学を応用するアレキサンダー・ジョージや組織理論に基づく『決定の本質-キューバ・ミサイル危機の分析』(中央公論新社)において「官僚政治モデル」を示したグリアム・アリソン、サイバネティクスを適用したするジョン・スタインブルーナーらの貢献により精緻化されていった。

 

キューバ危機やベトナムといった事件を除き、意思決定理論を導入した抑止理論であっても検証可能性が乏しいとの批判は依然として根強い。単純な合理的計算モデルが直接反映された例としては、キューバ危機以後に米ソ首脳間にホットラインが敷かれたということが挙げられるが、それ以外に関してはこの単純なモデルのままでは使用に耐えない。実際の政策決定過程におけるアクターは、認知的不協和や価値のトレード・オフを避けつつ限定された状況下での心理的抵抗の少ないオプションを選択するものという前提をおいて抑止理論を再構築する試みがなされてきた。そこでは、意思決定が合理的計算の結果としてなされるのではなく、単純な希望的観測や歴史のアナロジーからもたらされるもの、または初めから一定のありうるオプションが排除されたり、あるいは当初からあるオプションが念頭におかれて政策決定がなされるといったモデルが採用されてきた。サイバネティクスパラダイムに基づくスタインブルーナーの見解は、日常的な各意思決定過程が機能する結果として破局を生ぜしめる可能性があることをも示すものである。

 

とはいえ、ナッシュの驚嘆すべき帰結の含意を汲み取った理論は未だ提示されていない。もちろん提出されたとしても、直ちにそれを具体的な国際政治状況の分析に適用可能になるとは思われない。しかし同時に、アナーキーな状況において、一つの調和の論理的可能性を示したとも解されるナッシュの帰結は、もちろんあくまで抽象論の域をでないまでも、希望たりうるのではないかと思われるのである。

主観的確率の効用と証明責任

 僕自身が現在国際金融の世界に身を置いているので、この場で触れることが果たして適切なのか疑わしいのだが、最近の日本経済を世界経済全体の動向と重ねてみると、いわゆる「アベノミクス」と言われる一連の経済政策の有効性は、一部のまともな経済学者(メディアに頻繁に登場するようなインチキ経済評論家の類の者とは別の)の予想通り、否定される結果を示しているようである。マネタリズムケインズ経済学やサプライサイド経済学などをごたまぜにしたかのような「三本の矢」は一つの方向に向けて放たれた矢ではなく、銘々バラバラの方向へと放たれ、早晩挫折することが予想されていた。いわゆるリフレ派の経済学者が主導した「第一の矢」だけが放たれるばかりで、これでは「異次元の金融緩和」によりダボついた資金が国内に投じられず国外に流出するばかりで、結果的にウォール・ストリートの面々がほくそ笑むだけに終わってしまっている。国内で投下されたとしても、相変わらず株や不動産にばかり流れ、国内で上手く還流するにまでは至っていない。政府が仮に賢ければ、これは意図的な日本経済弱体化政策を追求している売国奴ということになるし、逆に本気で成功すると思っていたなら、相当なバカということになる。

 

 戦後に長期間デフレ状況に陥った国は日本のみであることを考えると、1990年代以降の経済政策が一貫して誤っていたことを示している。とりわけ、デフレ状況に陥りかけている最中に、「行革」と緊縮財政と消費税増税という最悪の政策を断行した橋本龍太郎政権の罪は大きい。更には、追い討ちをかけるように、2000年代初めの小泉純一郎内閣のサプライサイド政策がこの動きを決定的なものとした。潤ったのは、「規制緩和」という美名のもとに結局は「レント・シーキング」から得られる果実に群がった一部の「政商」とそこに集る規制改革会議の御用イデオローグだけだった。そこにリーマン・ショック後の民主党政権がダメ押しをかけ、続く安倍政権も、金融政策こそ違えど旧民主党政権の財政政策を基本的に踏襲するかたちになっている。やることなすことほとんどがデフレを深刻化させる方向に働き、日本経済全体の力はますます弱体化している。日本経済弱体化とそれに伴う国民の窮乏化を狙っている左翼は、この動きに拍車をかけようと、意図的に公共投資悪玉論を展開し、国民経済を守るべき保守派の中にもそれに呼応する者が多くなるという異常な事態となっている。安倍晋三と表向き安倍政権を攻撃する左翼は、実は日本経済弱体化をともに志向する共犯関係に立っているわけだ。

 

 このような現状認識からくる漠然とした先行き不安が蔓延しているためか、一時程の過熱ぶりは収まったとはいえ、今も尚日本人は「暗号通貨(crypto currency)」にご執心のようである。書店には暗号通貨取引のためのテクニカル分析に関する書籍まで出回っている始末。株式や先物または外国為替の取引に用いられている「テクニカル分析」がそのまま適用可能だとする暗黙の前提に立つ叙述は、立ち読みするだけで杜撰とわかる安直さが目立つ。そもそも、「テクニカル分析」自体が根拠希薄なものだし、多分に自己予言的な要素が強いものだから、それを信じる者がいればいるほど有用性が変化していくという性格を持つ。ただ一言しておくと、有力ヘッジファンドやごくごく一部の投資家は、巷間言われる単純な「テクニカル分析」と「ファンダメンタルズ分析」の二本柱で取引しているわけではなく、それぞれ分析手法は異なれど、全く違う方法で収益力を高めているとだけは言っておきたい。

 

 それはともかく、この問題を契機として、そもそも貨幣とは何かということを再考するのもよいだろう。抽象的な原則論に立ち返って貨幣とは何かと考えると、現在もなお主流の経済学の大元となっている新古典派経済学は、貨幣に関して円滑な交換を可能ならしめる媒介物でしかないものとみなし、資本から労働力に至るまで交換の対象と考え、経済の実体を貨幣を捨象した財と財との交換であるとの前提に立脚して議論を進めている。貨幣については、貯蓄と投資の関係や金融政策の効果等についての考察を専らとする金融論へとスライドさせて論じる立論がほとんどを占めている。貨幣数量説にしても貨幣とは何かを説明するものにはなっていない。元々、物価の変動は貨幣数量の変動に比例するという考え方はあったわけで、それを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣の数量と貨幣の流通速度との積は物価と取引量との積に恒等的に等しいことを示したのだが、これ自身は単純な恒等式に過ぎず、貨幣数量説はこの恒等的関係に更に流通速度の一定という想定が導入されることで得られる。仮に貨幣数量説を是とするならば、問題は今日の超高速取引において貨幣の流通速度が一定とする前提が成り立たなくなっているということである。貨幣数量説とは違うケインズは商品貨幣論に代わる信用貨幣論に基づき、貨幣需要流動性選好関数として論じる一方、新貨幣数量説のフリードマンは、マーシャリアンkの安定性の前提に貨幣数量が物価水準を決定するとだけ述べるにとどまり、結局は貨幣と物価との相対的関係を論じるに終始している。経済政策だけを論じるのならば、確かにそれで事足りるのかもしれない。

 

 しかし、それでは貨幣とは何かという疑問に答えたことにはならない。その意味で、貨幣の発生のメカニズムにまで考察を伸ばすマルクスの思考は、商品貨幣論パラダイムにすっぽり収まる古色蒼然とした貨幣論であるとの限界を持つものの、いまだに色褪せてはいない。マルクス貨幣論の特色は、まず第一に商品交換過程から貨幣発生の必然性を説くにしても、商品が自らの価値を表現するその特殊形態に発生の必然性を帰着せしめる立論を行っていることである。我々凡庸な者からすれば、まず各商品の交換不可能性を認定することから始め、かかる交換不可能性解消のために必要な一般的購買手段たる媒介物としての貨幣の発生という具合に考えそうなものである。もちろん、この種の立論をマルクスは交換過程論において行うわけであるが、交換過程論だけでは貨幣の機能的分析だけに帰してしまいかねないことを見抜いていたマルクスは、その前段階として商品の価値表現の分析からの立論つまりは価値形態論を展開した。

 

 例えば、いまここに二つの商品AとBがあるとしよう。(A商品のa量)=(B商品のb量)という等式の左辺は、マルクス資本論』によれば、価値を表現する側であるから相対的価値形態であり、他方で右辺はA商品の価値表現の材料として用いられいるから等価形態となり、各々別の意味が付与されている。マルクスのいう価値形態の特殊性は、A商品の価値表現はB商品の価値表現としての使用価値によって可能になっているという特殊性にある。その価値表現の「価値」とは、労働価値説に従う限り当該商品の生産過程において対象化された労働をその実体とするわけであるが、マルクスは単純な投下労働価値説に立脚して商品生産に投下された労働たる個別的価値を価値と解する見解を退け、生産および交換の全社会的関係の中で確定されるとする見解を採る(この点を強調するのが廣松渉資本論の哲学』(平凡社)であり、廣松とその周辺の者が共同した『資本論を物象化論を支軸にして読む』(岩波書店)である)。すなわち価値を実体概念であると同時に関係概念として把捉するのである。もし単純な投下労働価値説に立脚するのであれば価値形態論は終局的に不要と化し、マルクス自身も価値を「超感性的」と形容する必要すらなかったはずであろう。

 

 このような形態を介して商品間の全社会的交換関係が形成され、その過程を通じて価値が社会関係として成立せしめられる価値と価値形態の弁証法的関係が形成される。その上でマルクスは、この価値形態では交換一般の可能性は保障されないとして更なる立論を始動する。要約するとこういうことである。すなわち、価値関係内部のB商品のある量は使用価値の姿をまとってA商品にとっての価値物に転化する。それゆえ、(A商品のa量)=(B商品のb量)は、(B商品のb量)=(A商品のa量)という逆の関係を含むことになり、この両者が成立してもA商品はB商品の価値表現で自らの価値を表現し、B商品はA商品の価値表現で自らの価値を表現することになるわけだから、一方が相対的価値形態であれば他方が等価形態であるという排他的関係にあることで、相互比較軽量可能な通約可能性を確保することができないことに帰結してしまう。だから、こうした欠陥を止揚する一般的等価物としての貨幣の必然性が要請されるという論法である。すなわち、所与の価値関係を前提とする交換の成立可能性と価値形態の構造的欠陥による交換の疎外が価値形態発展の動力となるという仕組みになっている。価値形態から拡大された価値形態の定式化は、単純な価値形態が全商品関係につき「あるいは」という仕方で「可能性として」成立していることを意味するとされ、逆に「あるいは」という仕方で接続詞として結合されているがゆえに選択可能な一つが選択される単純な価値形態に帰着せしめられることになる。可能性としての自己の商品以外の全商品を等価形態としつつ、この等価形態を可能ならしめるのが所与の価値関係の想定である。

 

 ゆえに価値として等しいものはすべて等価物たりうるとマルクスは立論して、一般的価値形態の議論へと進む。単純な価値形態の場合と同様、逆の関係を拡大された価値形態のすべてに適用し等価形態にある唯一の商品を一般的等価物と論定し、全商品が同一の一般的等価物によって自己の価値を表現するために、相対的価値形態の側の商品が相互に比較軽量できる価値表現の形式を獲得することを示し、このような形態での一般的等価物が全商品となったものが貨幣形態である。このようにマルクスは、交換過程の困難を止揚するための媒介物としての貨幣をいきなり論定する前段階の作業として、商品は価格において交換で現れることを示している。すなわち、所与の価値関係において価値通りの交換の実現を可能ならしめる価値の表現形式の構造分析を以って貨幣発生の必然性の立論の基礎たらしめている。

 

 対して、世界的なマルクス経済学者である宇野弘蔵は、このような論理を用いていない。一般に知られているように、価値形態を流通形態として把握し、流通形態が発展してこれが生産過程を包摂したときに価値の実体規定は可能だとしているところに宇野原理論の特徴が現れている。とするならば、価値と価値関係の関係は、一見するとマルクスのそれとは逆のように思える。すなわち、価値形態の発展の動力を所与の価値関係を前提とする交換の成立可能性と価値形態の構造的欠陥による交換の疎外に求めるのではなく、商品所有者の欲望に帰着させていることから、むしろマルクスが価値に応じた価値形態を見たのとは違って、需給関係において調節しうる要因を相対的価値形態の量的規定性のなかに求めるという具合になっている。だが、拡大された価値形態における等価形態を商品所有者の欲望の対象物として措定しつつ、この拡大された価値形態で共通に等価形態にある商品があると考えるならば、それらは価値表現する側の商品所有者の欲望の対象であるはずであるから、共通の欲望の対象は全般的にはならないはずである。一般的価値形態は全商品によって等価形態とされる特殊な商品の出現なしにはありえないわけであって、その際、何らかの共通の等価物が理論上求められるはずである。

 

 ところが、こうした共通の等価物は直接的な欲望の対象ではないという点において拡大された価値形態および単純な価値形態の成立の大前提とは全く違ってしまっている。一般的価値形態を拡大された価値形態と同じ前提から理論展開するならば、一般的価値形態は「一般性」を持ちえず、あるいは一般化するには逆に等価形態を商品所有者の欲望から立論することは到底なしえない。貨幣の物神性の秘密の一端は解明されたとはいえ、マルクス貨幣論は、新古典派と同様、所詮は商品貨幣論の枠組みでしか考えられているに過ぎず、現代資本主義における貨幣の本質については、未だ解明されぬ謎のままなのである。

 

 安倍晋三内閣が推進するTPP(環太平洋経済連携協定)をも含めた一層の自由貿易化の流れにしても(日本は、農業以外の分野において既に相当な程度に自由貿易体制になっていると思われるが)、その依って立つ基本的な前提となる考え方に遡行してみないといけない。この立論の背景にある理論的根拠といえば、巷間言われる貿易理論として最早古典的な説明ともなっているリカードの比較優位説であろう。国際経済における自由競争は好ましい結果をもたらすとの帰結に至るリカードの比較優位の立論の最終的な理論的根拠は、終局的にはパレート効率性の達成である。すなわち自由貿易は、他の国の利益を傷つけることなしにはいかなる一つの国の利益をも増大させることは不可能というところまで、国際的な資源配分の効率性を達するという理屈である。

 

 ちなみにゲーム理論におけるナッシュ均衡解は通常同時にパレート最適であるが、「囚人のジレンマ」として知られる状況とは、このナッシュ均衡解は存在するものの、それが必ずしもパレート最適にはならないことを示す事例である。もちろんリカードは馬鹿ではなかったので、これを以って国際間格差が解消するまでは言っていない。生産関数が示す各国の技術の差異は同時に賃金や利潤の差異の発生をも含意しているのだから、国境を超えた本源的な資源の移動があれば格差は解消できると理解することができるとしても、資源の国際間移動が完全になされないとするなら国際間格差は自由貿易では解消されるとは言えないからである。

 

 リカードの立論は、生産要素の移動の不自由性などいくつかの前提を仮定した上でないと成立しない議論だし、当時の貿易システム全体というより英国経済にとって望ましい貿易システムという視点に立脚した立論でしかないという点をも考慮した上で評価しなければならいだろう。このリカードの立論を以って、各国がwin-winの関係に至るかのような説明も少なからず見受けられるが、これはパレート効率性の達成をwin-winの関係の達成と等価に見る誤りを犯している。貿易システム全体としてパレート効率性を達成したからといってwin-winの関係になるとは限らないからである。なるかもしれないし、ならないかもしれない。両者は別物である。そしてリカードの立論は前者すなわちパレート効率性の達成しか言っていないのである。ところが、かくのごときリカードの比較優位論の通俗的理解が浸透しているために、無条件の自由貿易礼賛論の道具にリカードが利用されている現状は、正視に耐えない酷い知的状況である。もちろん、限定付のリカードの比較優位説でなく別の理屈を持ってくることも考えられる。各国の潜在的技術力の等価を仮定するならば、労働力および資本の保有量の差異にかかわらず実質賃金および利潤の均等化をもたらし、効率性と同時に平等性をも達成するという立論である。これは全ての国々にとっての最適解であることを含意することになるだろう。

 

 しかし、村上泰亮『反古典の政治経済学(下)-二十一世紀への序説』(中央公論社)が指摘しているように、先ず各国の潜在的技術力の等価性という仮定は非現実的な仮定であることに加え、十全な証明はなされていない。国際的な再配分メカニズムが完備されているというならば別だが、そんなことはありえないので、この立論もまた自由貿易擁護論の確たる理論的根拠としては弱い。この類の立論は、左翼側からの「不等価交換」概念を根拠とした従属理論を主張する論者の拠って立つ主張とその論理は同質であって、彼らの理論的根拠も同程度に弱い。

 

 非現実的な仮定を前提において立論しても、経済理論が当面の予測を行うことに資するならば問題がないことを主張したのは、マネタリズムの論客であった経済学者ミルトン・フリードマンである。その著書Essays in Positive Economicsの冒頭にある論文”The Methodology of Positive Economics”には次のように述べている。

経済理論は、『仮説』と『現実』を比較することで検証することはできない。なぜならば、そのようなことは無意味であるからである。完全な『リアリズム』など明らかに不可能であり、経済理論が十分に『リアリスティック』かどうかは、ひとえに当該理論が当座の目的にとって十分に意味のある予測をもたらすか、あるいは他の理論による予測に比べてよりましな意味を持つ予測をもたらすかにかかっているのである。

 

この態度表明には当然著名な経済学者から異論が差し挟まれたが、不幸なことに経済学者の中で、理論が世界との関係でどのような意味を持つのかといった科学哲学上の問題が本格的に議論されることなく終わってしまい、今も同様、経済学者たちの多くは自らの依って立つ前提となる一つの哲学的立場に対する反省を欠いたまま無自覚に研究を続けている。

 

 このフリードマンの見解は、科学哲学の中では「道具主義」ないしは「予測主義」と呼ばれている見解に近い。「近い」というのは、もちろん自然科学における「道具主義」と呼ばれている立場でも、フリードマンほど杜撰ではないという意味である。その主張の核心は、科学の命題にとって重要なことはそれがどのように使用されているかであって、何を記述しているかではない。科学の理論で語られる自然法則なるものは世界についての文字通りの描写ではなく、したがって科学理論それ自体が真であるか偽であるかということは無意味であって、理論から予測が導き出せるか、要は予測にとって有用か否かということが重要な要素であるという主張である。一方の極端な主張が「科学理論は文字通り世界についての客観的な描写である」とする科学的実在論であるとすれば、この道具主義は他方の極端な主張である。この問題は、世界の名だたる科学者や科学哲学者が侃々諤々議論してもなお解決の見通しすら立っていない重要な問題だけに、ここでいずれが正しいかを論じることなどできそうもない。

 

 宇宙物理学における所謂「特異点定理」(代数幾何学の分野において、廣中平祐が証明した代数多様体上の「特異点解消定理」とは全く異なる)で知られる物理学者ロジャー・ペンローズスティーブン・ホーキングでは、両者の科学理論と実在の関係についての見解は両極端である。ペンローズ科学的実在論にくみする一方、ホーキングは自らを実証主義者と言い、理論が実在に対応しているか問うのは無意味であり、理論はあくまで我々が構築する数学的モデルに過ぎず、観測結果を予測する道具であるという見解を採る。しかし一言しておくと、科学の理論にはもちろん予測の側面もあるが、世界を説明するという要素もある。科学の理論は、少なくとも世界を説明することをもその理念としていることを考えるならば、「単純に予測に資すればそれでよく、科学の実在との関係における命題の真理値を問題にすることは無意味だ」と解する見解は、科学の営みの実態を正確に伝えていないだろう。もっとも、極端な科学的実在論の主張は、言えることと言えないこととの境界についての意識が些か希薄だし、命題と実在をめぐるこれまでの分析哲学・科学哲学の精緻な議論の諸成果を踏まえると完全に同意はできない。言えることは、あくまで近似的に真であることまでではないかというのが素人としての僕の意見である。それでも、自然科学なかでも物理学は、世界について語られてきた学知の中でも人類の生み出した最も整合的で体系的な最高の知の形態であることだけは明白である。だからといって、森羅万象ことごとく自然科学によって把握できると解するわけにもいかず、過激な自然主義化にくみする見解も誤りではないかと思われる。

 

 最近流行のマルクス・ガブリエルの言説は、そういう過激な自然主義化への反対言説として消費されているきらいがあるが、とはいえ僕は、ガブリエルの見解そのものについては残念ながら同意できないし、これまた瞬間的に流行ったメイヤスーなどの「思弁的実在論」にも不同意である)。自然科学の多くの理論は、仮説と現実の関係について無視するような乱暴な議論はしないはずである。もちろん僕は、自然科学者ではなく法学部で主として公法理論や政治思想史を学んだ後は金融畑でちょっとした数学を使いながら仕事をしている門外漢でしかないので具体的な現場の状況には不案内だが、仮説形成過程での確証の問題は当然問われているはずである。仮説が与件からどの程度信頼に値するか、その信頼度を定量的に示すことのできる道具立ては今のところ確率論しかないので、例えばベイズ確率をつかってその確証度合いを見ることだってある。この確率は、客観的確率とは別の主観的確率である。信用度を定量的に示す道具立てとしての主観的確率である。ところがフリードマンは、この仮説形成過程における確証の問題を無視する。この主観的確率をフリードマンは不確実性をその理論に取り込む際に利用する。もちろん、それ自体は問題ないと考えることもできよう。

 

 しかしフリードマンは、選択対象を相互背反的な選択肢の集合に限定し、各々の選択肢にある特定の確率を付与することで、選択対象は所得に関する一定の確率分布を意味すると考える。そして、確率計算可能な「リスク」と不可能な「不確実性」に対して各々に方や客観的確率を方や主観的確率に対応させた上で、サヴェッジの統計学の考え方を導入して両者の区別を無化させる。かくして「不確実性」の計算不可能性は理論から排除されてよしと考えているわけだ。ここには幾重もの飛躍が見られるのだか、この点を方法論的錯誤とともに批判する声が小さい。このようなミルトン・フリードマンやゲリー・ベッカーあるいはリチャード・ポズナーにみられる確率観念に発狂したのが、あのベストセラーになったナシーム・タレブ『ブラック・スワン』(日本経済新聞社)なのだ。

 

 この主観的確率を司法システムのモデルとして上手く活用したのが太田勝造である。法学部時代に授業を通じてお世話になった方なのだが(ここでは呼び捨てで表現させてもらう。とはいえ司法試験や国家公務員試験の受験で忙しかったから、ほとんど授業に出てなかったけど)、教養学部理科一類から進学振り分けで法学部に進学した変わり種である太田勝造が東京大学大学院法学政治学研究科に提出した修士論文が元で出版された『裁判における証明論の基礎-事実認定と証明責任のベイズ論的再構成』(弘文堂)がその典型である。この書は、オンデマンド版なので若干値がはるのだが、ベイズ確率を裁判における事実認定などにおける司法システムへのモデル化の導入を果たしたことは、とりわけ民事訴訟法解釈学において曖昧な表現でしか書かれていなかった証明度に関して、裁判で具体的に何がどう明らかにされねばならないのか、裁判は事実認定をする際、何をやっているのかということについて明晰化することに成功している。

 

 民事訴訟とは、訴訟上の請求の当否を法適用によって判断する手続きである。そして法適用の前提として事実認定が欠かせない。当事者間の争いは、事実の存否についての争いがほとんどなので、適用される法規範にとって重要な事実の存否が解明されることが必要となる。裁判官は事実の存否につき口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果を斟酌して当事者の事実主張の真偽を判断する(民事訴訟法247条)。裁判所が事実の存否につき心証を形成できなかった場合にも裁判を行う義務があるので、その際にどのように裁判しなければならないかをめぐる問題が証明責任の問題である。裁判所は、原告の事実主張が適用法規の法律要件を充足するか否かを判断することから始め、原告の主張を正当化するのに必要な事実主張に欠ける場合は、裁判所は釈明権を行使するなどして補充を求めるが、それがなければ原告の請求を棄却しなければならない。原告の事実主張が十分な場合、次に被告の主張を検討することになるわけだが、被告の主張は原則として単純否認や積極否認または抗弁によって防御がなされる。被告の陳述によって原告の主張する訴訟の実体法上の基礎が影響をうけるかどうかが調査され、被告の防御陳述によってもなお原告の請求が正当化される場合には、この防御陳述については証拠調べは行われない。このことは、被告が相殺の抗弁を提出したはいいが、相殺禁止特約があったことを陳述するような場合、相殺の抗弁は法律上重要ではなく、たとえ反対債権の存否につき争いがあっても抗弁自体が失当なわけだから証拠調べは行われないことを考えればわかろう。

 

 さて証明とは、争いのある具体的な事実主張が真実であるとの確信を得させるべき当事者及び裁判所の活動であり、証拠申出と証拠調べから構成される。証拠の提出は弁論主義の下では原則として当事者の責任であり、当事者の証拠申出がなければ証拠調べが行われる。ある事実が真偽不明になって不利益を受けることを望まない当事者は証拠を提出しなければならないが、いずれの当事者が証拠提出責任を負うかは、証明責任の分配規範と一致するのが原則である。法は証明の目標につき完全証明と疎明を区別し、この区別の相違は証明度の相違である。証明度とは、裁判官がある事実主張が証明されたものとして裁判の基礎とするために必要とされる証明の強度である。判例はこの証明度を「真実の高度の蓋然性」と表現する。

 

 そしてこの証明の基準について未だ明確でない問題が存在する。すなわち、裁判官は事実が真実であることを確信しなければならないのか、それとも一定程度の客観的な蓋然性の存在を要求するのかという問題である。この点で著名な判例として「東大病院ルンバール事件」最高裁判決が参照されることが多い。この判例民事訴訟における因果関係の証明についてどの程度の蓋然性が要求されるかということに加えて心証形成の合理性の要求をも示唆する判断として考えられるからである。

訴訟法上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

 

一見したら、最高裁はあたかも客観的蓋然性の存在を必要としているように読める。しかし同時に、「通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信をもちうるものであること」と述べているように信用性の度合いとしての主観的確率をも持ち出しているかに思える。客観的確率と主観的確率の関係についての錯綜が最高裁のこの判決文には見られるわけである。そもそも頻度解釈を採るならば、一回限りの出来事に客観的確率をあてがうことは無理がある。

 

 とはいえ裁判官の恣意的な判断も極力排除しなければならないだろう。自由心証主義といっても、それは裁判官の恣意的な判断や不合理な判断を是認するものではない。したがって、心証形成過程の合理性が問われるべきであって、この合理性の有無ある程度を定量的に確認する手段としての主観的確率が必要とされるし、最高裁の意思もそこにあると見るべきではないか。太田の著書は、事実認定における裁判官の心証形成過程の合理性をどう担保するかという問題関心に貫かれ、それがベイズ確率を使ったモデル化に現れているのである。

三島由紀夫と北一輝

 昭和45年11月25日、東京市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部の二階にある総監室にて、三島由紀夫が「楯の会」学生長であった森田必勝とともに自決した。11月25日の四十九日後の1月14日は三島由紀夫の誕生日である。高度経済成長を謳歌する「昭和元禄」の世に突如として起った理解に苦しむエキセントリックな行動として受け止められることの多いこの事件について、当時の内閣総理大臣であった佐藤栄作は「気が狂ったとしか思えない」と言い、防衛庁長官であった中曽根康弘は「一人の者の思想や常軌を逸した行動で、せっかく戦後日本の国民が築いてきた民主的秩序を破壊するような事態に対しては、徹底的に糾弾しないといけない」と、三島らの行動への無理解を表明していた。

 

 吐き気がするほどの醜い国家の有様が、戦後の時空間に現出したのである。昭和45年7月7日付「サンケイ新聞」夕刊に掲載された「果たし得ていない約束、恐るべき戦後民主主義-私の中の二十五年」と題する文章で、三島由紀夫は次のように述べている。

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。・・・個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの『近代』という意味は、古代についても妥当するのであり、万葉集でいえば大伴家持ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。・・・私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

 

 万能とされた「文」が「武」を容易に封じ込め、理性が肉体から湧き出てくる情念を統御できると思い上がった「近代」に、三島は否を突き付ける。普遍の名を借りた単なる一般性を振りかざし、これまで積み重ねられ時熟しながら積み上げられてきた他ならぬこの「日本」をかなぐり捨てて「ユニヴァーサルなもの」へと帰順していく人々の醜悪ぶりに対する憤りを通り越した諦念の中にあるのは、かつて本居宣長が「漢意」として指弾したあの不気味でおぞましいものの正体をつかんでしまったことと共通しているように思われる。

 

 三島由紀夫は、眼下の自衛隊員たちが自らの呼びかけに応じて蹶起することなどおそらくつゆほども信じていなかっただろう。それほどまでに三島の絶望は深かった。だが三島は、そうとわかってもなお檄文を残し、蹶起することのない自衛隊員に向けて蹶起を促す言葉を発した。その本来の相手は誰だったのだろうか。どこの誰かも想像つかない者へ言霊が浮遊していくことを願ったのだろうか。それとも別の意図があったのだろうか。檄文の中の有名な一節である。 

われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。・・・共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

 

 三島由紀夫の言う「生命尊重以上の価値の所在」とは、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」であるという。ここでいう「日本」とは、個々の日本人に否が応でも刻印され、またその歴史を生きているところの存在の基底としてある日本である。三島は、個々の生命の尊重以上に個々の存在の基底となっている言わば可能性の条件としての「日本」という超越論化された意味をあてがわれた価値を至上とする。三島由紀夫は「七生報國」と書いた鉢巻を頭に巻いて、宮城へ遥拝しつつ聖寿万歳を叫んで自決した。生まれ変わって再び皇国に報いんと欲したのだろうか。

 

 この11月25日という日は、ちょうど大蔵省を退官して職業作家として生きていく覚悟を決めた三島の実質的な文壇デビュー作というべき『仮面の告白』が起筆された日であり、最後の小説『豊饒の海-四部作』の最後にあたる『天人五衰』最終回原稿を書き上げた日でもあった。計算高い三島のことゆえ、当然にこうなることを知って行動したのだろう。『豊饒の海-四部作』は、わが国古典の『浜松中納言物語』に典拠した「夢と転生の物語」としてある。その第三巻の『暁の寺』は頗る難解との悪評高い小説として知られ、今まで批評でまともに取り扱われた例は極めて少ない。しかしこの作品は、三島自決の鍵を握る謎を解明する上で必要欠くべからざる作品である。

 

 上の檄文に見られるように、三島はここで盛んに「魂」なる語を頻繁に使用している。しかし三島は、おそらく「魂」なるものの実在を否定していた。三島が『暁の寺』で論じているように、仏教を他の宗教と分ける特色の一つに「諸法無我」という概念がある。仏教は生命の中心主体となるアートマンを否定し「無我」説を称える。よって、アートマンといった「来世」へ存続する実体として考えられている「霊魂」なるものも当然否定される。三島は正しくも、『ミリンダ王の問い-インドとギリシアの対決-』を引用し、仏教における「無我」説の論証を説明している。この「無我」説と「輪廻転生」の概念をどう整合させるのか。

 

 この理解のために持ち出されるのが、大乗仏教中観派と並んでその教説が難解なことで知られる唯識派の教説を利用する。『豊饒の海』第一部にあたる『春の雪』に登場する綾倉聡子が出家した月修寺は法相宗の寺院であり、この法相宗とは唯識派仏教を研究する場でもある。仏教哲学としての唯識論は、インドのアサンガやヴァスバンドゥによって大成され、三蔵法師によってインドからシナへと伝わり法相宗が創立された。日本には7世紀中頃に伝えられたとされている。元々アサンガやヴァスバンドゥ大乗仏教の論敵であった上座部説一切有部の論客であったが、後に大乗に転向して唯識論の大家となる。

 

 ヴァスバンドゥの主著『唯識三十頌』によると、「縁起」に関しては頼耶(ラヤ)縁起説を基礎としてその中核をなすものが「阿頼耶(アーラヤ)識」であって、この阿頼耶(アーラヤ)の原義は、一切の活動の結果である種子を蔵めることであるという。我々は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に第七識としての末那識という自我の意識を持っているが、さらにその奥に阿頼耶識があって、これは「恒に転ずること暴流のごとし」と言うように相続転起して絶えることのない「有情」の総報の果体である。

 

 アサンガの『摂大乗論』は、時間に関する縁起説を展開し阿頼耶識と染汚法の「同時更互因果」を説明する。つまり唯識論は、ある刹那だけ諸法が存在し刹那を過ぎれば滅して無くなると考え、因果同時とは阿頼耶識と染汚法が現在の刹那に同時存在していて、それが互いに因となり果となる関係をいい、この刹那を過ぎれば双方共に無に帰するが、次の刹那には再び阿頼耶識と染汚とが新たに生じ、それが更互に因となり果となって存在者が刹那毎に滅することによって時間が成立していると説く。

 

 仏教は自己なる実体を認めない。それゆえ、仏教哲学の帰結として「自我」ないしは「自己」など存在しないことが導かれる。ところが、阿頼耶識と末那識との間の相互作用によって末那識は存在しないものを錯覚を起こして存在するものだと思量してしまう。そこから自我執着心=我執が発生するものと考える。阿頼耶識から一切は生成され、またこれによって一切のものが認識される。存在するのは識だけであるという究極の観念論が帰結するかに見える。

 

 但し仏教哲学にあって、「観念論」であるのか「実在論」であるのか「唯物論」であるのかということは、実はほとんど無意味と化す。というのも、「存在するのは知覚することである」という主観的観念論者として理解されてい英国のバークリーの表現に似た「存在するのは識だけである」というこの表現は文字通り受け取ることはできないというのが、仏教哲学の複雑なところなのである。要するに「存在する」という表現は説明のための「方便」に過ぎず、より厳密には「存在するものでもあり、かつ、存在しないものでもある」というべきである。親鸞の『正信偈』の一節にもある「有無の邪見」に陥ってはならないというわけである。したがって、阿頼耶識といっても実体として存在しているわけではない。『天人五衰』の一節には次のような表現がある。

海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服さない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義アナーキー)。・・・刹那刹那、そこで起こっていることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎている。世界が存在しているなどということは、まじめにとるにも及ばぬことだ。生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。船があらわれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいている。一つの存在。

 

また『暁の寺』には、こうある。

世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ。それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、という問いに対する、阿頼耶識の側からの最終の答である。もし迷界としての世界の実有が、究極の道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる阿頼耶識こそ、その道徳的要請の源なのであるが、そのとき、阿頼耶識と世界は、すなわち、阿頼耶識と染汚法の形づくる迷界は、相互に依拠していると云わねばならない。なぜなら、阿頼耶識がなければ世界は存在しないが、世界が存在しなければ阿頼耶識は自ら主体となって輪廻転生をするべき場を持たず、したがって悟達への道は永久に閉ざされることになるからである。しかも、現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである」。

 

 では結局、輪廻転生の業の本体は何か、今のところ、この世とあの世を一つながりにする「終夜を燈す明かりの火」としか言い様がない。とはいえ、早急に結論を出す前に、このような実在や時間の概念が果たして歴史の概念と両立するのかと問うてみることで間接的な接近方法を企ててみたい。

 

 『意志と表象としての世界』(中央公論新社)のショーペンハウアーにとって、「実体」とは「意志」そのものであり、「意志」は非時間的なものであるからこそ「歴史」概念は不可能になる。すなわちショーペンハウアーに言わせれば、実在の唯一の形は現在であり、実在的なものに直接に遭遇するのは現在のみであって、また実在が全体として含まれているのは現在である。そして真に実在的なものは時間に無関係であり、ありとあらゆる時点において唯一であり同一である。

 

 加えて、時間は我々の知性の直観形式であるから物自体(Ding an sich)とは異質である。回帰的時間概念は宇宙の始まりも終わりもなく、当然に終末論も入る余地はない。創造者もなければ「最後の審判」を下す神も存在しない。先述した『ミリンダ王の問い』において、ナーガセーナは時間の回帰的な性質を説明し、種子と植物の循環や鶏と卵の循環を例に挙げている。輪廻転生とは、この回帰的なイメージで語られる時間概念と相関する。涅槃はこの円環からの離脱である。ニーチェ永劫回帰の概念は、彼の「瞬間」の概念と密接に結びついている。

 

 『ツアラトストラかく語りき』(岩波文庫)において、ニーチェは「瞬間」を以下のように捉えている。一つは第一部「贈り与える徳」の章に、二つは第三部「幻影と謎」の章に、三つは「正午」の章に、各々微妙に意味を変えながら登場する。細かな解釈論は無視するとして、いずれにせよこの「瞬間」には時間が停止する瞬間と自己を反復することを欲する瞬間が存在している。そこから一気に飛躍して「時間のない瞬間」の観念を得たというのである。

 

 仏教哲学によれば、世界霊魂もなければ世界の唯一の実体も存在しない。各個人は他のすべての諸個人を反映し、各瞬間は同時に永遠であるという、いわば世界のモナド論的把握が特徴として挙げられる(もっとも、ライプニッツモナドジーとは異なる。ライプニッツにとってモナドとは実体に他ならないからである)。大乗経典の中の『法華経』には「一念三千」の概念が登場し、これは小宇宙と大宇宙とが同一の統一的原理に支配されており、単一で無二の存在を形作ることが意味されている。また同じく大乗経典たる『華厳経』には、「一即一切」・「一切即一」という言葉があって、これは単に空間的にのみではなく時間的にも適用され、ここでいう「一」とは瞬間の云いである。道元による『正法眼蔵』(講談社学術文庫)には、「有時」という章があって、ここには「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」とある。 

時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。

 

 存在=時間の今は瞬間であって、道元はここで二つの瞬間の様相を提示しているのである。一つは時の流れにおける「動く点」としてであり、もう一つは常に現前し動くことのない「永遠の今」としてである。この道元のテーゼすなわち存在=時間の概念は、ニーチェの無時間的瞬間の概念にそう遠い距離にはないように思われる。

 

 昭和11年2月26日未明、雪の舞う帝都において、近衛歩兵第3連隊などに所属する帝国陸軍皇道派青年将校1483名が「昭和維新断行」・「尊皇討奸」を掲げて蹶起した。このいわばクーデタ未遂事件は、その後の日本の進路を大きく左右することになったわけだが、その真相が解明されたとは言い難い謎に満ちた事件でもある。陸軍を二分した統制派と皇道派の派閥に争いに端を発し、東北の農村の窮状など社会経済状況が背景となってあのような大事件に至ったのだが、「国家革新」を訴える青年将校の純粋な思いたるや切なるものがあった。

 

 だが、青年将校たちの思想的・精神的支柱となった北一輝も指摘していたように、これほど大規模な部隊を率いていた割にはクーデタ計画としてはまだ稚拙なレベルを脱しえていないほど準備不足・時期尚早の感は否めなかった。昭和天皇の側近を暗殺しておいて、その願いが聖上の御耳に届くだろうとの過剰な楽観はもろくも崩れ去り、むしろその後の陸軍内部における皇道派の一掃及びそれにともなう統制派支配の貫徹を加速させ、結果的にあの大東亜戦争の泥沼に嵌まる先鞭をつけてしまったことは、まさに歴史の皮肉と言うべきである。昭和天皇は「朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮圧にかからん」と仰せになった由。昭和天皇が直接政治に関われたのは、この事件と終戦の御聖断を下された二つである。ともに内閣がその輔弼機能を喪失した時に限定される。仮に統制派のような積極的な大陸政策を採らず、先ずは窮乏する国内の状況を政治経済体制の根底からの革新により打破することを第一義とした皇道派の主張が通っていたならば、その後の歴史はおそらく変わっていたに違いない。

 

 この大事件を起こした皇道派青年将校らの「思想的・精神的導師」ともいうべき北一輝の関与の度合いが今も謎のままである。もちろん裁判記録は残っている。しかし、そこには北一輝が直接的には関与した形跡は見られない。蹶起を時期尚早とし、実際に事に至った段階においても無暗な殺生は慎むようにとの助言をしたに過ぎない北一輝の関与は、直接的な関与に限定すれば、「ない」との結論に至りつく。「魔王」との異名を持った北一輝は、日本思想史上でも指折りの第一級の思想家であった。北一輝がつかみどころのない思想家であるのは、『国家改造法案大綱』よりも『国体論及び純正社会主義』を読むことでわかるだろう。我が伝統的な国体も、元はといえば「東洋の土人部落の習俗」でしかないと表現していることにも端的に現れているように、彼が伝統的な復古主義者ではなく、所によっては吉野作造民本主義とも接触する思考をするといった広範な射程を持つ思想家だからである。(「天皇機関説」を理解していたのは、昭和天皇北一輝だった)。

 

 吉田喜重の映画『戒厳令』が、モノクロームの画面と一柳慧の音楽がもたらす効果と合わさって、この「つかみどころの無さ」を上手く表現するのに成功している。北一輝が事件の黒幕として銃殺される際、死刑執行人から「あなたも天皇陛下万歳と唱えて死にますか」と問われるも、「万歳」を叫んで処刑された他の青年将校とは異なり、「私は、死ぬ前に冗談は言わないことにしている」と返答するラストシーンである。この北一輝の思想家としての一流を認めたのは、皮肉なことに真逆の左翼的立場にある久野収「日本の超国家主義昭和維新の思想」(『現代日本の思想』(岩波新書)に所収)である。なおこの論文は、昭和維新運動の契機となった事件を大正時代末期に起きた朝日平吾による安田財閥当主安田善次郎暗殺事件と見て、朝日平吾の遺書の分析から始めている優れた論考である。

 

 北が23歳で著した1000頁にものぼる大著『国体論及び純正社会主義』は、伊藤博文が確立した明治憲法体制の支配層にとって危険極まるテクストだった。久野収が言うように、明治憲法体制は「顕教」と「密教」の二重構造で以って統治してきた体制である。そうすると、北は支配層の本音と建前を使い分けた「支配の二重構造」を破壊しようと試みていたことになる。「顕教」側の装いで実は「顕教」を解体し、「密教」一元化を「顕教」の中心としての天皇を奉ずることによって現前化させるという北一輝の狙いを敏感に察知した支配層は、北一輝その人を危険人物として葬り去ることを選択した。北一輝のテクストを読むと、その立場は明らかに天皇機関説の立場にくみするものであって、国体明徴声明の立場とは全く異なる。ともすれば、明治以来の近代国家体制を支える二重構造を解体することを通じて根こそぎにしようという意図さえ読めてしまうこのテクストを伝統的支配層が恐れたのも無理からぬことである。

 

 三島由紀夫は、決して霊魂の輪廻転生を信じてはいなかった。だが同時に「七生報國」の鉢巻をして死に赴いた。これをロマンティッシュイロニーとみるかはともかく、はっきりしていることは、三島由紀夫は別に左翼に立腹して自決したわけではなかったということである。左翼は単に馬鹿なだけで体制を揺動させる力など微塵もないので、放置しておけばよかった。三島の怒りの対象は、安楽椅子に座って畜群化した支配層を代表とする日本の大衆なのであった。