shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

任意処分再び

 ほぼ10年ぶりに以前書き散らかした文章をほぼ修正なしに再掲することになるが、警察官職務執行法(以下、警職法)2条1項によると、警察官は何からの犯罪を犯したあるいは犯そうとするとの疑いがもたれるなどの挙動不審者を停止させて質問することができる。この警職法における職務質問は、既に発生した特定の犯罪の捜査といった司法警察活動とは一応区別される犯罪の予防・鎮圧を目的とした行政警察活動である。もちろん、何もない状況でいきなり職務質問が可能であるとは考えられず、したがって職務質問とは、一定の不審事由の存在を前提にした警職法2条1項に根拠規定を持つ行政活動という理解がなされている。自動車の無差別一斉検問の合法性が今なお議論されているのも、一見して不審事由の存否が不明確な段階での検問行為が警職法2条1項適用前の段階に思われるからである。だから警察法という組織規範を定める法を根拠とする苦し紛れの解釈が登場した訳だろう。

 

 ともかく職務質問は、強制処分法定主義(刑事訴訟法197条1項但書)や令状主義(憲法33条、同35条)の制約を受けない任意処分としての性格を有しているとされる。ところが、刑事訴訟法(以下、刑訴法)の講義を聴講した経験のある者ならば誰でも最初に疑問を持つだろうが、強制処分や任意処分の定義は明文規定として存在しない。それは専ら解釈に委ねられており、この点につき最高裁は、任意処分を強制処分ではないものとして控除的に捉えていることはよく知られている。では、強制処分とは何かについてであるが、この点について昭和51年最高裁決定は次のように判示している。

強制手段とは、有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の規定がなければ許容することが相当でない手段を意味する。

 

 要するに、有形力を行使したからといって直ちに強制と判断されるわけではないということ(世間一般の常識からすれば、有形力を伴うなら何らかの意思の制約があるのだから少なくとも「任意」とは言えないではないかということになるだろう。しかし、最高裁はそうは考えない。有形力が行使されようと、なお任意処分とされることもあるということである)。その度を超えて「強制」であると評価するためには、「個人の意思の制圧」(これは「制約」ではない!制約の程度を超えて、意思を「制圧」するに至るまでの行為を要するということである)により、身体、住居、財産等の重要な権利・利益を制約した場合において、初めて「強制」と判断されるというのである。

 

 後の、「強制的に捜査目的を実現する行為」や「特別の規定がなければ許容することが相当でない手段」という表現は、それ自体が強制処分の形式的意味なのだから同義反復の表現でしかなく、強制の実質的意義を確定するにあたっては全く無意味な内容しかない表現である。したがって、最高裁が示した強制であるか任意であるかを判断するメルクマールは、①個人の意思の制圧の存否、②それによる重要な権利・利益への制約の存否ということになるだろう。もちろん、強制ではないものとしての任意手段であるとはいっても、何らかの法益を侵害するおそれがあるのだから、警察比例の原則は当然遵守されねばならず、そのことを踏まえ最高裁も、

強制手段にあたらない有形力の行使であっても、何らかの法益を侵害し又は侵害するおそれがあるから、…(中略)…必要性、緊急性なども考慮したうえ、具体的状況のものとで相当と認められる限度において許容される。

 

と判示している。

 

 この最高裁決定は、既に捜査段階に入った事案における任意捜査の許容性及び限界について判断されたものであって、その段階以前の行政警察活動としての警職法上の職務質問の場合について直接判示されたものではないということに注意する必要があろうが、行政警察活動と司法警察活動との境界は相対的になっており、また行政警察活動としての職務質問が後の司法警察活動としての犯罪捜査活動の端緒ともなっている実情を踏まえると、学界通説の通り、この判例の射程は基本的には行政警察活動としての職務質問における有形力行使の許容性及び任意性と強制性との区別に関する事案にも及ぶと解してよい。

 

 警察比例原則によって、任意であっても必要性・緊急性を踏まえて相当性をもった方法・手段によりなされるべきとの制限が加えられるので、たとえ強制処分とみなされるほどの有形力の行使までは認められずとも、そのやり方如何によっては違法な任意処分とされることもありうるということである。要するに、この必要性・緊急性・相当性というメルクマールは、事案の内容によりある程度伸縮自在の概念として機能する。事実、銀行強盗発生後に犯人であるかもしれないとの不審を抱かれるだけの外形を持ちながらも、現行犯逮捕ないしは緊急逮捕の要件までは具備しているわけではなかった事案(確か「米子銀行事件」だったか?)においては、最高裁職務質問に伴う所持品検査において許される行為の範囲を相当広く解している。もし、客観的状況やら外形からでも不審事由がほとんど見られない場合に上記事件と同様の態様の行為がなされれば間違いなく違法との評価が下ったであろうと想像される。

 

 このように、必要性・緊急性・相当性とは許容される行為の範囲を具体的事案に無理なく伸縮させる機能を持つ。よく、「職質はあくまで任意のみ許されるのだから『任意であるので質問に答える義務はない』といってやり過ごせるばよい」と言う人がいる。もちろん、原則はそうである。職務質問警職法2条1項に一般的根拠規定を有するが、あくまで任意の手段によって果たされるべきなので質問に答える義務はないことになる。しかし、現実はそう単純ではない。場合によっては、その態度が不審事由をなお一層高めたと評価され、それゆえに許容される有形力の程度もそれに比例して高まっても、必ずしも違法とは言えないと判断されるおそれもある。実際の職務質問の方法・態様も、こうした考え方に基づいたものとなっている。そして、そう解釈することも現実の事案を考えれば仕方がない面もある。

 

 それにしても当初から疑問だったのは、何ゆえ任意手段として許容される行為が根拠規定を要すると解されねばならないのか、すなわち警職法2条1項にその根拠を求めねばならないのかということである。強制処分法定主義(刑訴法197条1項但書)は、強制処分を行うには必ず法律に特別な根拠規定がなければならないという考えを指す。つまり、例えば逮捕・勾留などの対人的強制処分にせよ、捜索・差押えなどの対物的強制処分にせよ、およそ強制手段を用いてなされる活動には刑訴法にその旨の根拠規定が存在することを要する。強制とは何かをめぐって解釈の争いはあるものの、一応判例法理として定着している上述の強制処分の定義規定に該当しないものならば、それは任意処分として控除的に扱われることも確認した。この強制処分法定主義を反対に解釈すれば、任意処分は特別の根拠規定を要しないということになりそうである。

 

 行政法学上の「法律による行政の原理」とは、①法律の専権的法規創造力の原則、②法律の優位の原則、③法律の留保の原則により成る。法規とは、狭義においては国民の権利・自由を制限しまたは義務を課すことを内容とする法規範を指す。それ以外は広義の法規範といえども法規とは言われない。この法規としての効力を持つ法規範については国会で制定する法律の形式でその根拠が定められめられねばならないというわけである。この法律の専権的法規創造力の議論は、憲法41条をめぐる憲法学上の解釈、つまりは実質的意義の立法をめぐる解釈論争と直接に関係している。法律留保原則は、様々な形態がありうる行政の行為形式の内でどの範囲の行為形式が直接法律の根拠規定を必要条件とするかという点をめぐる原則であって、複数の学説がある中で一応今のところ学界通説の座を保ちかつ最高裁もその考えに依拠すると思われるところの侵害留保説は、ドイツ公法学、なかでもオットー・マイヤーの学説に基づき、行政が私人の自由と財産を侵害する行為についてのみ法律の根拠を要するというものである。

 

 再び任意処分の話に戻ろう。任意処分は特別な根拠規定を要さずして行うことができるはず、ということであった(なぜなら、特別な根拠規定がなければ許容されないことが強制の形式的意義なのだから)。行政法学上の侵害留保説では、私人の自由と財産の侵害となる行為については法律に根拠規定を求めねばならないということだった。特別な根拠規定を求めなくともよい任意処分においても根拠規定を必要とするとは、これいかに?重要な権利・利益の制約を伴わないが、それでも一定の侵害があると認めて、任意であれ侵害行為とみなし、これをもって侵害留保説からの説明として根拠規定を必要条件であると考えるというわけか、それとも、個人の意思制圧とまではいかないが、いずれにせよ重要な権利・利益の侵害はあったとみて、しかるがゆえに侵害留保説により根拠規定を必要条件と考えるというのか、この辺が判然としないのである。

 

 前者であれば、重要な権利・利益の制約とまではいかないが重要な権利・利益の侵害があると考えなければならないので、何だか形容矛盾と思えるし、後者ならば、重要な権利・利益の制約はあると認めるが個人の意思抑圧まではないということになるので、普通は重要な権利・利益の制約であるならば通常個人の意思の制圧はあるだろうと見られるだろうから、これまた妙なことになってきはしないかと思われたのである。素直に考えれば、この両者のいずれの考えにもくみせずに、あくまで任意と判断される以上は根拠規定は不要であり、ただ野放図に拡大されて適用されることを防ぐためにも法の一般原則としての比例原則によりその限界を画するという考え方もありえ、むしろその方がしっくりとくると思われたのだった。

 

 しかし、この文章に対して当時コメントしてくれた人(この方は、ブログの文章の内容から明らかに専門の法学者か、さもなくば判事クラスの、いずれにせよその道に習熟した法解釈学のプロフェッショナルだったが)の理解が素直な解釈なのだろうと今にして思う。その人の考えは、行政警察活動と司法警察活動を一体的に考えた上で、昭和51年最高裁決定の判示通り、強制処分とは意思制圧と身体、住居、財産等の制約を伴う刑訴法に特別の根拠規定を要する処分と理解し、任意処分とは強制処分でない以上、任意処分を行うには、刑訴法の特別の根拠規定は不要だが、任意処分は、あくまで強制処分に該当しないというだけのことであるから、相手方の自発的協力の存在は前提とされず、そうすると場合によっては任意処分に侵害とされうる行為はありうると解する。任意処分とされる職務質問の実態は、多くの場合、拳銃・警棒を所持して制服を着用した複数の体格のよい男が有無を言わさぬ態度で市民の前に立ちはだかって、質問や所持品提示の要求を行なうわけであって、その質問・要求自体は直ちに「強制の処分」(刑訴法197条1項但書)ないし警職法2条3項所定の行為には当たらないとはいっても、そこには公権力による一定の心理的圧力を伴った「移動の自由」ないし「プライバシー」の侵害を観念できるから、行政法学上の侵害留保説からは、法律の根拠(警職法2条1項)が必要とされてしかるべき、というものである。確かに、この理解が筋の通った理解だろう。

刺青と伝統

 いよいよ三社祭が季節がやってきた。それに合わせて、一寸前、ある彫師の男性が医師法違反で略式起訴された件で、同法違反を認定して罰金刑を言い渡した一審判決を覆して逆転無罪判決を下した控訴審判決が報道されたことが思い出される。一審判決は、医師法17条に医師でなければ許されないと規定されている医業としての医行為を「医師でなければ保健衛生上危害を生ずるおそれのある行為」と広く解釈し、タトゥーの施術がこの「医行為」に該当するので、医師免許を持たない彫師の男性の行為は医師法違反に該当すると判示した。この解釈だと、タトゥーの施術のみならず、本人以外の者によるピアッシング行為も、サスペンションなど身体に傷害を及ぼす行為も全て「医行為」に該当しかねない。

 

 さすがにこの解釈は広範に過ぎ、しかも社会の実態にそぐわない解釈であろう。逆転判決を下した控訴審判決は、至極常識にかなった判断を下したものと思われる。大阪高裁は、「医行為」と認めらるには具体的な疾病の治療や診断または投薬などの「医療関連性」を要するとし、彫師によるタトゥーの施術はこれに該当しないという論理で無罪判決を下した。のみならず、この控訴審判決は、判決文の内容から、タトゥーないし刺青の文化的・歴史的価値をも認めているなど、まっとうな判断を示したことでも注目された。

 

 他方、橋下徹大阪市長を務めていた時、市職員の「刺青問題」がメディアでも取り上げられたことがある。市職員に対して、身体のどこの部位にタトゥーないしは刺青を入れているかの調査を行ったことが問題視された件である。憲法問題になるという識者もいたが、刺青調査そのものが直ちに憲法問題になるかと言われれば、必ずしもそうとは言えない。もちろん、刺青をしているとの理由のみを以って分限処分をするとの事態に発展すれば、おそらくその処分の取り消しを求める訴訟の中で、憲法上の権利として保障されるのか否かという点が争点の一つを構成することになるだろうが、最高裁が、刺青の自由を憲法13条後段にて保障される人格的生存に不可欠な権利に含まれるとまで判断するとは思われず、せいぜい一般的行為の自由として扱い、したがってその判断基準は緩やかな基準にとどまるに違いない。したがって、こと憲法論としてみた場合、大きな問題にはなりにくいだろう。

 

 但し、真正面から憲法上の権利と認めるか否かとは別に、単に刺青をしている一事を以って免職するとの事態に発展すれば、最高裁は、当該処分に対し、処分権者による権限濫用ないしは、処分が著しく不相当なものであるとして権限逸脱と解釈し、違法の判断を下すだろうことが予想される。とはいえ、例えば、市民と直接接する部署に配置されているにも関わらず、当該職員が明らかに見える部位に刺青をしているならば、その職員に対して配置転換を命ずる措置を行うものとすれば、当然に違法にはならないだろう。市民への公的サービスを面前において提供する場にて、社会通念上畏怖を催させると考えられる格好で以って対することを事前に回避すべく他の部署に配置転換することは、合理的な裁量の範囲内とされる公算が大であるからだ。

 

 とりわけ若者の間では、刺青ないしタトゥーに対する違和感や畏怖感が取り除かれ、ファッションの一つとして浸透しつつあれど、それでも極く一部の範囲にとどまっている。そうでない年長世代の中には、今もなお刺青に対して恐怖心を抱く者もかなり存在することだろう。そうした実情から、仮に市がそうした措置を講じたからといって、非難に値する不合理な措置となるわけではない。

 

 現代日本社会では、刺青はアウトローの存在が入れているものとの社会通念が、いまなお支配的である。しかし、刺青を単なるファッションを超えて、自己の人格的自律に必要不可欠なものだと考える者も僅かながら存在する。それゆえ、個別の事情を勘案せずして一括して論じることにどうしても無理が出てくる。昔は、博徒だけでなく、大工などの職人や火消しも「一度選んだ道は何があっても引き返さない」との覚悟の証として刺青を背中一面に彫った者もいる。昔のアイヌの人々は、民族的な慣習として魔除けの意味を込めて刺青を施している者も少なからず存在した。吉原の女郎の中には、惚れた男の名前をつけて「~命」と肌に彫りつけていた者もいた。男色がごく普通の習わしとなっていた武士社会では、男同士で好きな恋仲の男や好みの若衆の名をこれまた肌に刻み付けてもいた。今でも、身体改造としてボディ・ピアッシングのみならず、刺青・タトゥーを自己のアイデンティティを構成するものとして、あるいは逆に、そうしたアイデンティティを破壊するものとして入れる者もいる。右翼や極道に生きる者の中にも、己の生き様を刺青に託して肌に刻んだり、あるいは亡くなった兄貴分の名を彫り込む者もいる。したがって、単なるファッションだから保障の限りではないと単純に解するわけにもいかない。

 

 とはいえ、そういう格好に畏怖を催す者が少なからず存在することもまた事実であって、そういう人たちの感覚を全く無視するわけにも到底いかない。とりわけ、公的機関は民間とは違って、住民である限りはそこを利用せざる得ず、別の機関を選択する余地はない。公務員は「全体の奉仕者」であるのだから、その理念に基づき、社会通念上一般に不愉快な感情を与えるような恰好は相応しくないとの考えも理解できる。個性的な格好をしたいと思う人の自由もさることながら、見たくないという人の権利・自由が全く蔑にされてよいというわけでもない。窓口業務に携わる者が、明らかに目に見える部位に刺青をしたまま市民と対することを問題と考え、その者に対しては適宜配置転換を考えるという方策を一概に批判するわけにはいかないだろう。

 

 反対解釈をとれば、見えない部位に刺青を施していることは何ら市民サービスに支障をきたすことにはならないし、市民と直接対する立場に就くことを予定していない立場の職員の刺青にまで干渉し、さらに何らかの不利益な処遇をするとなると、個人の自由に対する過度な介入となろう。

 

 東京五輪が近づき、観光庁は、入浴施設などに対してタトゥー禁止措置の緩和を呼び掛けているが、これもまたおかしな話である。問題は、インバウンドの客のおもてなしが云々ではないはず。刺青に対する過度なタブー視と具体的な忌避措置が社会全体に蔓延していることの窮屈さである。確かに、「ドンブリ」にしている人を見ると、一瞬仰け反りそうにもなる。ただ、社会全体が潔癖症になって排除の力学が強化されていくに連れ、息苦しさが蔓延する社会になって行くことも同時に恐れるべきである。欧米社会がタトゥーに寛容だから、日本も寛容であるべきだという理屈は確かにおかしい。別に、欧米社会の価値観が今後我が国の目指すべき社会の手本だと考えるべき根拠はない。欧米以上に人口を抱えるイスラーム社会がこうなっているからといって、日本もイスラーム社会の規範や慣習あるいは価値観に合わせろとは誰も言わないだろう。

 

 問題は、日本の良き文化的伝統でもあったという事実が、まるで顧みられていないという点なのである。大人しい「お利口さん」に合わせて日本社会がどんどん窮屈になり、その活力が消えていっている。腑抜けしかいないような、清潔だけが取り柄のニュートラルなクズみたいな社会になって欲しくない。刺青の文化も立派な日本の文化伝統の系譜に位置づけられる文化であり、それが和彫であろうが洋彫であろうと変わりない。『魏志倭人伝』によると、邪馬台国の人間は刺青を入れていたそうである。若者よ、躊躇せずに刺青を入れよう。その数が増えれば、多少は社会もマシになる。

「憲法記念日」にあたって

 今日は、占領憲法が施行されたことを記念する「憲法記念日」で、民族派も街宣活動や護憲派集会への抗議活動を展開する団体も多かっただろうが、概して民族派の多くは、安倍晋三が主導する憲法改正プランには賛同していない。あくまで自主憲法制定を主張するものであって、小手先だけの小賢しい改憲プランは、事態をより悪化させることになるので反対する立場の者も実は多い。かく言う僕も、安倍晋三内閣は左翼政権と位置づけているので、このような政権が主導する改憲に対しては反対の立場である。

 

 昭和20年8月14日、日本が「ポツダム宣言」受託の意思を連合国に通知し、同年9月2日に「降伏文書」に調印して以後、連合国総司令部(GHQ)の命令によって、「ポツダム宣言」の第6項や7項及び9項に基づいた全面的武装解除が着手され、計587万にのぼる帝国陸海軍各部隊の兵士たちの武装解除が同年10月にほぼ達成された。連合国総司令部のダグラス・マッカーサーが、日本軍の復員完了とその解体の完了を宣言したのは、同月16日のことである。その後、昭和25年の朝鮮動乱を期に、警察予備隊が設置され、その2年後には保安隊への改組と警備隊の設置がなされ、昭和29年には自衛隊が創設されたことは誰もが知っていることだろう。この創設によって、これまで「警察力」の範疇で捉えられていた「実力」が、「防衛力」としての「実力」として変質することとなった。この間に、大日本帝国憲法明治憲法)の改正が議論されることになり、昭和21年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行されるかたちとなったわけだが、この辺の事情については、様々な研究がなされいるので繰り返さない。NHKでも「日本国憲法の誕生」として何度か取り上げられたこともある。また、現行憲法の正当性をめぐる諸議論も憲法学の世界だけでなく、様々な政治勢力の中で行われている。そうした中で、実際にどういうやりとりが交わされたのかを知っておくことが重要だ。とりわけ、国務大臣松本烝治を委員長とする「憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)」での美濃部達吉と他の委員とのやり取りが面白い。

 

 美濃部達吉といえば、特に戦前の我が国の憲法学を主導し、東京帝国大学法学部で憲法学と行政法学を担当した国法学の大家であって、「大正デモクラシー」の一翼を担ったオールド・リベラルな学風で知られる大学者であったが、後の「天皇機関説事件」により貴族院議員を依願免職したことで、日本史の教科書からほぼ全ての国民の認識に刻み込まれている。なお昭和天皇は、美濃部の今後を御案じなされていたようで、侍従の入江相政に「天皇機関説で何が悪いことがあるのか」との御言葉を残されている。立憲君主としての帝王教育を受け、事実そのように振舞われておられた聖上からすれば当然のことだったのだろう。久野収は『現代日本の思想』(岩波新書)に所収されている論文にて、この「天皇機関説」を明治憲法体制の「密教」的側面として位置づける。

 

 ちなみに安倍晋三の母方の祖父である岸信介は、東京帝大法科に在籍時に美濃部と学説上対立していた「天皇主権説」の主唱者上杉慎吉教授に学び、上杉から東大に残って憲法学者になるよう説得されたようだが、狭いアカデミズムの中で生息するだけに満足できるわけもなかった岸は、大学に残って研究者の非常に狭く偏った世界で「井の中の蛙」として安穏と自足するだけの道を蹴り、また東大法科首席を我妻栄と競った程の優秀を誇るも、内務省や大蔵省といった官庁の中の官庁に入省するのではなく、農商務省という二流官庁に就職を決める。この辺が並みの東大生ではないことを示してもいる。岸には後の国家統制計画経済を主導していくとの構想があったのであろう。実際、岸信介回顧録によると、最も大きな影響を受けたのは上杉ではなく北一輝であって、岸は北の家に出入りしていた。そりゃそうだろう。上杉は現在の大学教員よりは権威はあったのだろうけど、だが所詮は単なる一介の大学教員でしかない。それに比べて北一輝は、ある意味この日本を動かすほどの力を持った知性なのだから格がまるで違うわけだ。岸は本来、資本主義には懐疑的で、社会主義統制経済を旨としており、終戦後に巣鴨プリズンから釈放されたときは、日本社会党に入党しようと画策していた形跡が見られるのである。その頭脳と実行力は、満洲帝国の経営にも戦時統制経済にも、そして戦後の高度経済成長に役立つことになる。先述の通り、岸信介は、旧制第一高等学校の学生時代から「魔王」として政財界でも恐れられていた右翼の巨頭北一輝のもとに出入りしており、北一輝の思想は、むしろ徹底した「天皇機関説」に立脚するものであった。岸の考えは明らかに北一輝に近かったのである。戦後の国民皆保険、国民皆年金、最低賃金法など社会保障制度の基盤を作ったのも岸信介である。田中角栄も今日の政治家には見られない大局観を持ち、大きなスケールの政治家であったと思うけれども、岸信介は、かなり問題含みの政治家であるとしても、破格のスケールの政治家であった。そのスケールは石原莞爾レベルであったのではないかと見ている。安倍晋三とは頭脳も器の大きさも比較にならない)。

 

 美濃部達吉は、憲法問題調査委員会顧問として次のような言葉を残している。

私ハ野村君(野村淳治顧問のこと)ノ考ヘル様ナ意見ニ反対デアル。日本ノ現在ハ軍備ヲ撤廃シタレドモ永久ニ陸海軍ハ無クテ良イモノデアラウカ。憲法ハ永遠ナルモノデアル。故ニ私ハ早急論(ポツダム宣言に基づく軍備の撤廃のこと)ニハ反対デアル。・・・憲法改正ノ方向ハ現在ノ様ナ制限主権状態ヲ前提トシテ定メラレルベキモノデアルノカ、永久ニ陸海軍ヲ無クシテ良イノデアルカ。

 

美濃部達吉にとって、憲法とは永久性を持つ存在である(もっとも、この永久性はある長期にわたってという意味であろう)。大日本帝国憲法の軍に関する規定を全面削除するという「早急論」に美濃部が反対するのは、「ポツダム宣言」に基づく軍備の廃棄は、日本国にとってはあくまで非常事態の一時期に基づくだけの永続性のない事柄であったこと、そして、その決定は制限主権の下でなされるべき事柄でもないということである。それゆえ、美濃部は

憲法ノ改正ニハ降伏ノ結果トシテノ現在ノ状態ヲ基礎トスベキヤ又ハ将来国家ノ独立ヲ回復シ得ベキコトヲ期シ独立国タルコトヲ基礎トスベキヤ。・・・若シ現在ノ状況ヲ基礎トスベシトセバ、陸海軍、外交、戒厳、兵役ニ関スル第11、12、13、14、20、32ノ各条ヲ削除スルト共ニ、第1条ヲモ『日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ天皇之ヲ統治ス』トイウガ如キ趣旨ニ修正スル必要アルベシ。寧ロ現在ノ状態ハ一時的ノ変態トシテ考慮ノ外ニ置キ、独立国トシテノ日本ノ憲法タラシムベキニ非ズヤ。

 

 憲法学者の高見勝利は、こうした明治憲法の軍規定の削除に反対して存続を主張した美濃部の立場を「存置論」とし、美濃部の反対者である野村のような軍規定削除の立場を「削除論」として整理している。

 

 ところで、美濃部達吉の弟子である宮澤俊儀は、昭和20年9月2日、ちょうど「降伏文書」に調印したその日の東大法学部で行われた「戦争終結憲法」と題する補講において、大日本帝国憲法の軍規定を全面削除することによって、軍の不存在となる状況に憲法を合わせるべきであるとし、同趣旨の発言を9月28日の外務省条約局でのヒアリングで行っている。「ポツダム宣言」に基づく軍の解体、軍需産業の禁止、平和的傾向を有する政府の樹立によって、日本は「武備なき国家」になるとしている。この立場は、明らかに師である美濃部達吉の立場と反するだろう。

 

 ところがその一方で、宮澤俊儀は、10月19日付『毎日新聞』に寄せた「憲法改正について」と題する文章において、大日本帝国憲法は弾力性にとんだ憲法であって、「ポツダム宣言」の履行は、憲法改正を俟たずとも相当な範囲において可能だとも言っているのである。宮澤の言説は移り変わりが激しいので、こうした事実があっても不思議ではないが、それにしてもこの短期間での変化である。これを別異に解するか、それとも単なる変節とみるか、ここでは断言を慎むことにする(小堀桂一郎などは、宮澤の変化に対して「変節漢」と批判しているが、おそらくその評価は当たっているだろう)。美濃部を中心とする「存置論」は国会の中でも一定の影響を保っていたが、現実に軍が解体されている状態で敢えて軍規定を存置させることの問題性が徐々に焦点化され、将来的に日本が独立を回復して再軍備をするということになるかもしれないが、現状は軍の不存在の事実に立脚した憲法にすべしとの議論が勢いを増していくことになる。

 

 しかし重要なことは、多くの議員や委員が、日本が将来的に独立を回復した暁には当然に軍備を持つだろうという観念が共有されていたということである。さらに憲法の諸規定は、それを支える事実の上に立脚しなければならないとの立法事実論の認識を共有していたことである。美濃部は泣く泣く、『法律新報』の昭和21年4月・5月合併号に寄せた「憲法改正の基本問題」の中で、次のように述べるに至る。

戦争の権利を永久に放棄し、軍備を永久に撤廃するのは頗る重大であるが、平和日本、文化日本の為にこれを歓迎するに躊躇しない。但し、武力に依る外国の攻撃に対して、若し列国の安全保障が無いとすれば、日本は自己の生命を維持する力の全く無いものとならなければならない。其の点に付き連合国又は国際連合との間に必要な諒解が既に成立つているのであらうか懸念に堪えない。

 

日本国憲法原論』には次のように述べている。

憲法9条は、何等の留保も無く無条件に戦争を放棄したのであるから、万一外国から侵撃を受けた場合にも自衛的戦争の途なく徒に滅亡を待つの外ないことになるやうであるが、それは他日完全なる独立を回復した後に考慮せらるべき問題で、其の時までは『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』国の生存を保持する外はない。

 

 日本国は、サンフランシスコ講和会議において調印することによって、昭和27年4月28日に一応の独立を回復した(残念ながら、沖縄の施政権は切り離されたままになった。ここでも沖縄は結果的に本土の捨て石にされる格好になってしまった。大東亜戦争における地上戦で塗炭の苦しみを体験し、牛島満陸軍中将の電報「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との言葉が実現していない現状には怒りを覚えるが)。

 

 占領下で制定された憲法は、当初の予想に反して1度も改正されていない。独立の気概を持っていた当時の人々は、何も保守や右翼の側だけではなかった。当時の左翼の一部も、武装解除はすなわち独立を認めないことと同義であるという当然のことを問題にし、自主防衛能力を持つ必要を主張していたのである。ところが、東西冷戦の力学が日本政治にまで反映する事態となって、実質的に旧ソ連など社会主義陣営に加担する左翼と、反共のために米国の側に立つことを選択する保守派とに二極的に分裂し、保守派の中では、明らかに愚かな主張をする左翼に反対しておけばそれでよしとする態度が蔓延し、冷戦終結後においても「反左翼」であることだけに固執するばかりで自らの依って立つ思想や自分がおかれている状況に対する懐疑を伴った省察もしてこなかった。

 

 1990年代以降の保守派の言論の質が驚くべき速度で劣化し、2000年代にもなると、ますます劣化の傾向に拍車がかかり、かつての敵であった米国の保護領と化している日本の現状に安住し、中韓への罵詈雑言だけ並べていれば一端の保守であるかのような連中が大量に生み出された。百田尚樹のような者がもてはやされるのは、この国の末期症状であることを示している。彼の言説に保守の思想伝統に深く根ざした賢慮を感じとられるだろか。また、保守派を自認するならば当然の知識としておさえておくべきことが彼には欠けている。左翼が馬鹿なことは昔から変わらないが、それに対する保守派や右翼が馬鹿になっては、これはもう戯画である。まだ日本に「論壇」なるものが機能していた頃の保守派は左翼よりも知性の上で勝っていた。

 

 田中美知太郎や小林秀雄あるいは福田恆存がまだ健筆を奮っていた頃の保守論壇の優越は、特に今から見るならば明らかだった。左翼のお花畑にいるかのような能天気な言説や過激であることだけが自己目的化したような言説が幅をきかす中で、保守派重鎮は、知性とまっとうな歴史感覚と常識に則った議論を残してきた。しかし今は、見る影もなく、敢えて馬鹿を集めたとしか思えない人選でメディアを賑わしている。安倍晋三櫻井よしこあるいは百田尚樹などが論壇ででかい面をしているこの日本の姿は、かつての愚かな左翼のネガでもある。

歴史と伝統

 歴史は、絶えず新たな意味を纏って生き直される。皇紀2679年4月30日、今日から上皇となられた先帝陛下の御譲位を告げる御言葉があり、この5月1日を以って東宮であられた新帝の御即位と相成り、令和の御代が始まりを迎えた。先帝の御言葉の通り、我が国の令和の御代が平成の御代と同様、戦争のない平和な時代であるとともに、皇室の弥栄を祈るばかりである。

 

 令和の御代の始まりを国民全体が言祝ぐことは当然の理であると思う反面、僕自身の生がほぼ平成の時間と重なることもあって、尚更現時点では平成の御代が過ぎ去っていったことへの寂しさが募り、周囲と同様に喜べる心境になれないのが偽らざる気持ちである。普段はさして道徳的な人間であるどころか、むしろ無法者である僕のような分際でさえも、ある種のアンティミティの感情と畏怖の感情を抱いてきた英君の御姿を拝する時は無意識に背筋に緊張が走るわけだが、あの時にはまた別の寂寥感とでも言うべき不思議な感情に包まれていた。退位礼正殿の儀を終えて宮殿松の間を後にされる折、先帝陛下がやおら参列者の方に振り返って一礼される御姿を拝見した時、自ずと涙が滴り落ちてしまった。粛々と執り行われる儀式ゆえよもや涙することなどあるまいと思っていたが、さにあらず。あの瞬間は、平成の御代との永遠の別れに改めて向き合った瞬間だったのだと今にして思う。

 

 先帝陛下は、君主としての徳を体現しておられた。そして日本国民も、そうした有徳の君に臣下として応えようとお仕え申し上げてきた。連綿と継承されてきた万世一系の皇統を仰ぎ奉ってきた皇御国の精華である。上皇陛下及び皇太后陛下(歴史的に「上皇后」という呼称は些か問題含みであり、この点においても「朝敵」安倍晋三の逆賊たる所以がある)にあらせられては、日々の多忙な御公務から離れた時間をゆっくりとお過ごしくださるよう、甚だ畏れ多いことながら祈念申し上げたい。

古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎へ入れて、これを生きてみるといふ事は、歴史家が自力でやらなければならない事だ。そして過去の姿が歪められず、そのまま自分の現在の関心のうちに蘇つて来ると、これは、おのづから新しい意味を帯びる。さういふ歴史伝統の構造を確める事が、宣長にとつて「古を明らめる」といふ事であつた。

 

 小林秀雄本居宣長』はこう述べている。平成の御代を終えて令和の御代と新たな意味が生み出され、かつこの令和の民草としてその意味を生きていく。歴史は問う人の問い方に応じて様々な姿を見せるものである。とはいえ同時に、歴史は手前勝手に拵えられた観念遊戯の自由になるものでもない。

古典が、在つたがままの姿で、現在に生き返つて来るのは、言はばこの源泉の感情が抱いた宣長にとつては、まことに尋常な知覚であつて、もしそんな風に完全な姿で生き返らなければ、それはまるで生き返りはしない、どちらかだといふ考へは、宣長には恐らく自明のものであつた。

 

 古典とは、古典との真摯な対話によってその都度の姿を顕にしていく。歴史を俯瞰してとやかくいう自分というものを考えては歴史を見誤る、と小林秀雄は言う。人間には歴史を模倣するより他は何もできはしない。刻々と流れる歴史の流れを虚心に受け止めて、その歴史の中に自己の顔を見るというのが正しい。「歴史と文学」には、こうある。

母親にとつて、歴史事実とは、子供の死といふ出来事が、幾時、何処で、どういふ原因で、どんな条件の下で起つたかといふ、単にそれだけのものではあるまい。かけ代へのない命が、取返しがつかず失はれてしまつたといふ感情が伴はなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死といふ出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなほ眼の前にチラつくといふわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在つたといふだけでは足りぬ、今もなほその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。・・・母親の愛情が、何も彼も元なのだ。死んだ子供を、今もなほ愛してゐるからこそ、子供が死んだといふ事実が在るのだ、と言へませう。愛してゐるからこそ、死んだといふ事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであつて、死んだ原因を精しく数へ上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。

 

  上手に「思い出す」ことは、歴史主義イデオロギーの都合に合わせて鋳型にはめることではない。同時に、客観が単純に反映された像でもない。虚心に古典や死者に向き合い心通わせることで見えてくる鏡である。それは、近代の弱い基盤しかない自我と真逆の動じないものとして屹立している。小林秀雄「実朝」の最後の文にあるように、「伝統とは現に眼の前に見える形ある物であり、遥かに想い見る何かではない」のである。

 

 歴代の天皇は、「国安かれ、民安かれ」と祈り続けてこられた。たとえ、ふやけた国民が愚かなことをしていた時ですら、日々祈りの伝統を継承してきた連綿と続く時間軸を生きておられている。天皇は、世俗の欲にまみれた凡俗で悪逆な愚者でしかない我々民草の安寧を祈りかつ見守ってこられた。この聖域を是が非でも死守すること。伝統を守護するとは、我が国の歴史そのものであられる上御一人を守護し奉ることでもある。

 

 ともかく、平成の御代が終わりを告げた。しばらくこの寂寥感は残るのかもしれない。幸いというべきかわからないが、生前の御譲位のため、昭和から平成への御代がわりの際に見られた大行天皇の御跡を追っての殉死がなく新たな御代を迎えることができた。かつては、明治天皇崩御の後の御大喪にあわせて乃木希典、静子夫妻が自刃するという出来事もあった。昭和天皇崩御の際も、全国で殉死と見られる自死が全国方々で見られた。そうした方々の喪失感とは比較にならないのかもしれないが、年末のカウントダウン・イベントのように浮かれている今の日本人を眺めていると、戦後日本は何か決定的なものを失ってしまったのではないかという思いがいやましてくる。江藤淳にしても西部邁にしても、双方細君を亡くされ身体の自由も効かなくなってきていたという事情があるとはいえ、自裁を選択した根本の理由は、ますます醜態をさらけ出してきた今の日本及び日本人への拒絶の意思表示だったのではあるまいか。

 

 乃木将軍は晩年に、学習院院長として後の昭和天皇になられる迪宮裕仁親王殿下に対して、ある種の「遺書」として自ら朱字で注釈を書き入れた山鹿素行の『中朝事実』を託したことも、また先帝は常々自らを「つなぎの存在」だと自覚されておられたことも同様に、ある時間軸の存在がこの日本には存在していること、そして自らの存在がこの時間軸に位置する存在であることを理解しておられたことを示している。戦後日本人の大半は、この時間軸において生きていることの感覚を喪失してしまったのである。

 

 三島由紀夫も影山正治野村秋介自裁を選んだ。彼らは、戦後の日本がかなぐり捨ててしまった「歴史感覚」を持ち続けていた。時間の喪失は、「超越的なもの」への畏怖の感覚を喪失したことの必然的な帰結である。そう思う時、天皇陛下におかせられては、令和の御代においても永遠に日本を亡したまわざらんことを謹んで冀い奉りますとの言葉しか出ないのである。

 

聖寿萬歳、皇尊弥栄

日本は、ふさわしく遇してきたか-渡辺恭彦『廣松渉の思想-内在のダイナミズム』(みすず書房)を読んで

この題は、平成6(1994)年の秋に、大江健三郎ノーベル文学賞受賞が発表された直後に、蓮實重彦が「朝日新聞」夕刊の文芸時評に寄稿した文章の題をもじったものだ。蓮實重彦は、大江健三郎の作品の質からすれば、このような栄誉がいつ訪れても不思議ではなかったとする一方、当然の受賞が現実のものとなった今、果たして日本は大江健三郎の文学的業績をそれに相応しく遇してきたのかと問い、その返答は勢い複雑なものとならざるを得ないと述べていた。確かに、東大の五月祭賞をとった『死者の奢り』を皮切りに、在学中に『飼育』で芥川賞を受賞、その他谷崎潤一郎賞など国内の文学賞をほぼ総なめにしただけでなく、モンデッロ賞やユーロパリア文学賞など海外の文学賞に輝くなど、少なくとも20世紀後半から21世紀前半にかけての現代世界の中で最高峰に位置するその業績だけを見れば(今の日本において、大江の文学的才能に匹敵する小説家は皆無であることくらい、文学者でなくとも断言できる)、その作品の質は、国内外の文壇から正当に評価されてきたと言えるかもしれないが、現代との緊張関係において発揮されるべき真価をそこから読みとろうとする意思が、今の日本社会には些か欠けており、その意味において、大江健三郎は孤独な闘いを強いられていたのではないだろうかと言うのである。

 

このことは、(大江のように、世界最高峰に位置しているとは思わないが)廣松渉にも当てはまるのではないかと思われる。確かに廣松渉は、既存のマルクス解釈に異議を唱える先鋭的学者としてアカデミズムに颯爽と登場し、哲学史に関する該博な知識に裏づけられた独自の哲学体系を打ち立て、制度的にも、大森荘蔵の後任として東京大学教授に就任して科学史科学哲学研究室を主導していく立場にまで登り詰めた経歴を見れば、表面上アカデミズムは、廣松をその業績に相応しく遇していたかに見える。東大というアカデミズムの牙城に包摂されてしまったがゆえに、廣松哲学の「狂暴性」が換骨奪胎され、悪く言えば、人畜無害化してしまったと捉える人も中にはいる。必ずしも全面的に同意できるわけではない評だが、廣松渉の哲学を革命を志向する哲学という側面から見るならば、そうした指摘も強ち的外れというわけではないだろう。

 

概して、大学人の書き物は詰まらないものが多い中、廣松渉の著作は、幾多の日本の講壇哲学研究者の著作と比べると遥かに面白いし、そう読めるように仕組まれてもいる。しかし、本当にそれに相応しく遇してきたと言えるだろうか。なるほど、廣松の事実上のアカデミズムにおけるデビュー作『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房)は、アカデミズムを超えて広範な読者に迎え入れられたし、『マルクス主義の地平』(勁草書房)も、旧ソ連公認学説と化していた弁証法唯物論哲学や、反対の初期マルクスの哲学的営為に見られる人間主義的な主体的唯物論双方に異を唱える斬新な解釈を提示し、これまた多くの一般読書人に読まれた。アカデミズムの者以外誰も読まないという圧倒的多数の哲学研究書とは、当初から趣が違っていた。

 

また、疎外革命論批判に端を発した「疎外論から物象化論へ」のテーゼが、新左翼運動に多大な影響を与えたことも確かだろう。更には、廣松哲学体系の根幹をなす共同主観性論や関係の第一次性に基礎づけられた「事的世界観」に対して、一定の哲学者からの応接はなされてきた。しかし、これだけの体系を打ち立てた哲学者の割には、とりわけその主著『存在と意味』に対する反応はイマイチであって、現在の哲学思想シーンでこの路線を発展的に継承するなり批判的に継承するなりの動きがあまりないというのが気になっていた(『存在と意味』第一巻が出た当初は、東大生協の書店で売れに売れたようだが)。

 

廣松哲学を構成する一部である物象化論に対しては、特に党派的な立場からの批判が展開されてきた。、日本共産党系の知識人も、廣松哲学に対して「主観的観念論」と、誤読も甚だしい批判をぶつけたりもしてきた。中には、師である出隆と同じく日本共産党員であった岩崎允胤による「盲動集団ブントの理論的支柱で主観的観念論哲学の主唱者」という罵倒すら見られた。もっとも、この共産党員の哲学研究者は、廣松哲学のみならず、自身が信奉するマルクスレーニン主義哲学(ある日を境に、日本共産党は「マルクスレーニン主義」という言い方を辞めにして、「科学的社会主義」という表現に改め、そこからは岩崎も「科学的社会主義」という言い方に改めた。わかりやすいと言えば、これほどあからさま人物も珍しい)以外の近現代哲学に対しては「観念論」のレッテルを貼って葬り去るのだ。分析哲学論理実証主義だと一括りにした上で、これらをまとめて観念論哲学だとして一蹴するなど、現代哲学の歩みに対する誤認が酷く、哲学者としてはあるまじき噴飯モノの罵倒を繰り返すのみであった。『弁証法現代社会科学』(未来社)や『現代社会科学批判―経済学と哲学の接点』(同)における確率論の理解など、まあ酷いことこの上ない。とにかく、日本共産党系の研究者による廣松哲学に対する一知半解に基づく非難は枚挙に暇がなく、山科三郎『日本型トロツキズム』(新日本出版社)や、榊利夫『現代トロツキズム批判』(新日本出版社)など酷い代物。ちなみに榊利夫は、パトリス・ルムンバの著作を翻訳しているが、旧ソ連のパトリス・ルムンバ記念民族友好大学(クートヴェ)は、共産主義テロリスト養成校としてもしられていた学校であった。

 

共産党系ではないが、例えば、黒田寛一を精神的指導者とする新左翼セクト革マル派」は、旺盛に廣松批判をしてきたし、廣松死後かなり経ても、廣松の薫陶を受けた熊野純彦を批判する形を借りた『<異>の解釈学-熊野純彦批判』(こぶし書房)を通して廣松哲学批判をしていた(熊野は、この書に対して黙殺するより他なかっただろうと想像する。廣松の愛弟子の一人とは言え、廣松のようにブントにコミットするなど政治的主張をするような人物ではないので、21世紀にもなって、妙な党派論争に巻き込まれるのは御免蒙りたいといったところだろう)。今では、相当な希少種とも言える北朝鮮の独裁体制を正当化するイデオロギーに過ぎないチュチェ思想を奉じる鎌倉孝夫のような人からも、廣松に対する批判がなされてきた。チュチェ思想を支持して、廣松哲学を批判するとは、一体どういう頭の構造をしているのか理解不能だが、ここでそのことを追及しても仕方ない。もっとも、それなりの業績のある研究者が突如として新興宗教に入れ込んでしまう事例は存在し、滝沢克己がそうであったように、鎌倉も宇野弘蔵の学派に属する研究者としてそれなりの業績があるのに、こと北朝鮮となると、豹変してイカれたことを言うものだから、その類だったのかもしれない。チュチェ思想に入れあげた研究者は日本国内に僅かながら存在し、鎌倉の他にも、井上周八などが存在する。北朝鮮から勲章をもらい、記念切手にまでなっている人物なので、相当チュチェ思想イカれちゃった口なのだろう。

 

他には、廣松版『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)に対する平子友長ら一橋大学系統の者による批判もなされてきたし、平子と学問的師弟関係にあると思しき佐々木隆治『マルクスの物象化論-資本主義批判としての素材の思想』(社会評論社)も、哲学的認識論にひきつけ過ぎの感のある廣松の物象化論理解に対して批判を展開している。佐々木の批判は、平子友長など一橋系統の一極をなしていると言えるだろう。一橋大学社会学部という所はある意味特殊な所で、その特殊性は、日本共産党の党員やそれに極めて近い関係にある者が相当数存在した、イデオロギー的偏向性が顕著な所であって、その意味で、一橋大学系統の研究者と、新左翼の「ブント」に近い立場にあった廣松渉との相性が悪いだろうことは容易に想像できる。

 

廣松渉にしても宇野弘蔵にしても、戦後日本のマルクス主義を代表する研究者として知られた存在として影響力があったが、マルクス主義研究者全体の中での絶対数だけから見れば、決して多数派とは言えなかった。ここは、佐々木の著作の感想を述べる場ではないので、これ以上この著作について触れる気はないが、ただ一言しておくと、勢い余ってか、廣松に対する感情的な揶揄表現とも取られかねない罵詈雑言と、対照的な平子への過剰評価が、読む者を白けさせてしまう。若手マルクス研究者として佐々木の優秀さを疑うわけではないが、せっかくの労作に対していらぬ感情的反発を招き寄せてしまうところが欠点だろう。そもそも、廣松哲学における物象化論は、マルクスの物象化論とその意味内容が完全に一致するわけではなく、しかも『物象化論の構図』(岩波書店)の最後の章を読めばわかるように、廣松は「物象化論」と「物象化理論」とを使い分けて用いており、後者は前者を更に一般化した広範囲な射程を持つ。したがって、廣松物象化論(物象化理論)を批判する際は、いずれの意味なのかをはっきりさせておく必要があるのに、そうした読み方はされていない。

 

いずれにせよ、特定党派のバイアスがかかった批判を除いて、哲学や思想史のサイドからの廣松哲学体系に対する本格的なサーヴェイが、所謂「廣松シューレ」以外からなされる例は、その業績の大きさの割には少なく、あるいは、その業績の広範さのためか、敬遠されていた様相を呈してもいた。このような状況の中で、渡辺恭彦廣松渉の思想-内在のダイナミズム』(みすず書房)という著作が、昨年刊行された。著者は、僕より十歳以上も年長の社会思想史を研究する研究者で、この著作は、京都大学大学院人間環境学研究科に提出された博士学位論文が元になっているというから、おそらく人的関係において、所謂「廣松シューレ」に属する人ではないだろうと思われる。

 

本書の魅力は、廣松渉の哲学・思想を単に公刊されている出版物から追うだけでなく、廣松の幼少時代からの活動に関する情報を知人・友人からも聞き取りするなどして、近しい者以外にはあまり知られていない廣松渉という人物像を浮かび上がらせながらまとめ上げているところである。また、否が応でも、物象化の力学に絡めとられざるを得ない我々の存在や認識のあり方を捉える廣松哲学を、「内在のダイナミズム」というモチーフをもって読み抜こうとする視点で貫かれている点も見逃せない。『日本の学生運動』から『存在と意味』まで、ほぼ時系列的に記述して行くには、『廣松渉著作集』全16巻(岩波書店)だけでは足りなく、『廣松渉コレクション』全6巻(情況出版)や、それらには収録されていないものまで含めて、広範な著作に目を通し、更に分析していかねばならない。

 

僕も、著作集やコレクションその他未収録の著作、例えば講演集『東欧激変と社会主義』(実践社)まで持っているほど廣松関連の著作は読んでいるが、全部読み通すのは結構大変だから、渡辺が本書に割いた労力は相当なものだっただろうと想像される。とにかく渡辺のこの著作は、今後の社会思想史だけでなく、日本哲学史という文脈において廣松哲学を捉え返す時には無視できない存在になるかも知れない。それだけでも、本書の意義はあるし、廣松を初めから擁護したいという意図や、逆に初めから貶めようという意図から読むような、党派的バイアスがかかった読み方ではなく、戦後日本の代表的哲学者であることは間違いのない存在である廣松渉の哲学を、西田幾多郎田辺元和辻哲郎、九鬼周蔵、三木清、戸坂潤、黒田亘、大森荘蔵といった優れた哲学者の中に位置づけられた「古典」として読まれ継がれていくための土台の一つになるだろう。

 

但し、僕から見て批判すべき点がないわけではない。その問題点の第一は、廣松の科学哲学に果たした貢献への配慮に欠ける点である。廣松が制度上、東京大学科学史科学哲学研究室の主任教授であったからというだけではない。廣松の若い頃の関心はエルンスト・マッハであり、マッハといえばレーニン唯物論と経験批判論』においてアヴェナリウスとともに「敵」とされ攻撃を受けた存在である。旧ソ連共産党公認の哲学では、このマッハと深い関係にある相対論や量子力学に対して「主観的観念論」や「プラグマティズム」などのレッテルが貼られたが、廣松のマッハへの並々ならぬこの関心は、後の党派的な批判を受けることになる廣松の唯物論理解やマルクス解釈に直接関連することであるだけに、詳細に分析される必要があるし、のみならず、マッハ研究以降の『相対性理論の哲学』(勁草書房)や『事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』(勁草書房)所収の諸論文(これは著作集に細切れになって収録されているが)あるいは『科学の危機と認識論』(紀伊国屋書店)に対する分析は、三部作として構想されながら未完に終わった『存在と意味-事的世界観の定礎』(岩波書店)でまとめられる「事的世界観」の定立にとっても欠くことのできない要素であり、廣松渉の思想として全体を鳥瞰する意図で本書が書かれたことを特に意識するならば、この点を無視して論じることはできない。

 

問題点の第二は、『青年マルクス論』(平凡社)、『マルクスの思想圏-本邦未公表資料を中心に』(朝日出版社)、『マルクス主義の成立過程』(至誠堂)そして『エンゲルス論』(情況出版)といった、マルクス主義の成立過程を論じる際の必須でもあるヘーゲル左派に関する思想史研究も、「思想史家」としての一面を持つ廣松を捉える上で必要であるばかりか、廣松のヘーゲル左派への拘りは、疎外論批判から物象化論を展開する基本モチーフあってこそのものなので、そこへの目配りが希薄なのが残念だ。

 

問題点の第三は、細かい用語の問題に見えて実は重要な点であるのだが、「共同主観」という言葉遣いは、決して廣松はしていないということである。四肢構造論はあくまでも関数的な構造成態を意味する議論であって、「共同主観性」とは表現できても、「共同主観」と言うことはできないはずだからだ。確かに、廣松について書いている何人かの論者の中には、「共同主観」という表現を用いている人もいるし(しかし、少なくとも「廣松シューレ」ないしは、廣松と近い関係にあった者は、「共同主観」という表現は決して用いていないはずだ。熊野純彦にしろ野家啓一にしろ、そのことを強調していたはずだ)、更には、吉本隆明の「共同幻想論」と並べて論じる人もいるが(確か吉本自身も並置して論じていたと思うが)、これらは全くの誤読によるものであって、共同主観性論は共同幻想論とは直接の関係はない。共同幻想論と強いて廣松の論説を結びつけたければ、『唯物史観と国家論』(講談社学術文庫)もしくは『唯物史観の原像』(三一書房)の第二章あたりではないだろうか。

 

問題点の第四は、やや無いものねだりの側面があるのだが、『存在と意味』第2巻の実践的世界の存立構造の最後、または『新哲学入門』(岩波新書)の最後にある<通用的正義>と<妥当的正義>(これは<通用的真理>と<妥当的真理>とパラレルの関係にあるが)の性急すぎる立論はかなり問題含みの箇所なので、より突っ込んだ批判的考察をして欲しかったが、他の記述に比して、明らかに踏み込みが足りなかった。普通の読み方をすれば、認識論的相対主義や価値相対主義を主張するような立論になっているわけだが、これが書かれた時期は、ちょうど日本におけるポストモダ二ズ全盛期と重なっている。そこで、同時代の思想シーンとの比較検討があってもよさそうなものなのに、そうした考察がなされていないのも、思想史研究として物足りなさが残る一因となっている。以上のような諸々の問題点もあるが、しかし若い世代の研究者でしかも廣松周辺の者によらない思想史から見た廣松渉の思想の俯瞰図を提示した意義は大きい。

 

廣松は晩年、東大倫理学科で和辻倫理学の演習を行っているわけだが、これは廣松の「近代の超克」というモチーフを共有する観点から批判的にであれ京都学派の遺産を継承しようとしていたことからもある意味必然であったというだけでなく、廣松の表には現れない民族的ないしは土着的な要素が図らずも表面に現れ出た稀有な出来事とも解釈できる。関係主義という共通点から仏教思想にも関心を寄せていたというだけではなく(『仏教と事的世界観』(朝日出版社)という対談集もある)、対西欧近代の強烈な思いからは、半ば「国士」然とした趣を感じとることができるはずである(日本思想史研究者マイケル・サントンとの対談において、それが露骨に現れていた。そこで廣松は、デリダ程度の思考は東洋では既に二千年も前からあったと述べていたはず)。

 

廣松の幼少期の環境が左翼人士に囲まれた環境であったことが大きく影響して、13歳で「共産青年同盟」に加入するなど早くから「おませな」マルクス主義者になった廣松だが、その気質から、世が世なら環境が環境なら大陸浪人になってアジア主義を掲げて暗躍した右翼になっていたとしてもおかしくはないものだった。最晩年に編集に携わった『哲学思想事典』(岩波書店)において、東洋の思想に関して西洋の思想と同じくらいの分量を充てることに拘ったというエピソードは、廣松渉が革命を志向するマルクス主義者という側面だけではない別の側面を持っていたことを間接的に物語るものではないだろうか。「内在のダイナミズム」は、廣松に関してヒュームやドゥルーズと関連させて論じた松井賢太郎の論文にも共通している視点と言えるが、そのことは哲学・思想を離れて、この土着の風土からふつふつと湧き上がってくるダイナミズムと見ることもできなくもないのである。

哲学における一部の流行現象について

 今から8年ほど前になろうか、NHKで放映されていた「ハーバード白熱教室」がきっかけとなって、日本ではちょっとしたマイケル・サンデルのブームが起きたことを覚えている人も多いだろう。ハーヴァード大学での「正義」と題するサンデルによる聴衆との対話を通じた授業が、日本の視聴者の関心を惹きつけたのだろう。あのようなソクラテス・メソッド型の授業は、特に米国の大学の中でもロー・スクールやビジネス・スクールのような専門職大学院で多く活用されていて、しかも教授達は適当なおしゃべりをするというのではなく、講義のために講義時間以上の時間を費やして入念に準備にあたるので、確かに良き教師にかかると充実した授業が出来上がる(もっとも、糞教師が相手だと悲惨なことになるが)。

 

 確かに、サンデルの見解に同意するか否かとは別に、授業の運び方は上手かった。だからだろうか、小説やノンフィクションのルポルタージュなどを読むことが多くとも、哲学や思想系の書などほとんど読まないはずの僕の母親でさえサンデルの著作『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)を読んでいたことに驚嘆した記憶がある。どうやらNHKの番組を視聴していたらしく、書店に平積みになっているサンデルの著書を手に取ったようだった。それから続けて『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房)を読んだらしいが、ロールズの主体像を批判する文脈で論じた「負荷なき自己unencumbered self」批判について、母親はどこまで理解して言っていたのかわからないが、「何だかポイントがズレてるんじゃない?」と疑問を呈してもいた。

 

 僕自身はサンデルに同意できない者であるが、こうした政治哲学が日本でも盛んに論じられるようになったことはいいことかもしれないと思いつつも、同時に日本の哲学者でまともに政治哲学をやっている人が何人いるのだろうかとなると、お寒い状況であるのは今日でも変わらないのが残念。なぜだか、政治哲学を専門とする研究者による鳩山由紀夫礼賛本も出版されたりもした。「友愛」だの何だのと陳腐な演歌の節回しじゃあるまいし、祖父鳩山一郎が信条としていた「友愛」なんぞ、鳩山一郎がかつて何をやってきた人間なのかを見ればそのインチキもわかろうものなのに、歯の浮くようなお世辞を弄するピエロもいた。

 

 政治哲学について云為するには、法哲学に対するのと同様、最低限の政治学・法学の知識が不可欠であり、これを無視した言説は、たとえ「深遠な哲学的思索」のような装いを凝らそうとも所詮は夜郎自大な与太話に終わっていくしかない。特に、日本の哲学研究者が法律や政治学について語る際に陥りがちなのは(哲学者よりむしろ「何でも評論家」と言わんばかりにしゃしゃり出ずにはいられない社会学者に目立つのだが)、明らかな法律や政治についての無知からくる誤解を前提にして立論することである。

 

 法哲学や政治哲学の研究者になるためには司法試験や国家公務員試験を合格しておくべしという意味ではない(もっとも、その程度の知識は必要だと思われるが)。例えば、法現象を哲学的思索の対象として扱うには、実際に法というものがどのように運用されているのかという現象面を捉え、その解釈のための技法にある程度通じておかねばならないという意味である。法解釈は、法典の条文を単に読むことだけからは出てこないからである。法解釈は解釈技法がある程度まとまった形で積み上げられてきているので、尚更である。

 

 ヴィノグラドフ『法における常識』(岩波文庫)を始めとして、ハート『法の概念』(みすず書房)やその批判であるドウォーキン『法の帝国』(未来社)にしても、具体的場面における法の解釈・適用のあり方に対する詳細な記述と分析が見られる。規定文言の意味をどう解釈していくか、裁判所をはじめ法解釈学者が色々思索を練りつつ、いかなる事案にいかなる規定をいかなる文脈で適用していったのか、またそうした事案がどの程度積み重なってきているのか、更には積み上げられた解釈から導き出されたある判例の射程がどこまで及ぶのかといったことの知識は、法典を眺めたところで生まれてきはしないのであって、長い間の解釈の積み重なりを分析する技法なくしてかなうものではない。

 

 だから、法解釈には条文の知識だけにとどまらず、具体的事案を前にした分析・検討を通じた解釈のための訓練が求められる。例えば、民法を少し齧った者ならば誰でも知っているであろう不動産物権変動の第三者対抗要件としての登記について規定する民法177条に関して、その規定文言自体は短いながらも、その解釈をめぐりべらぼうな判例が蓄積されている。更には、所有権の概念をどう解するかという問題にも絡んでくる。こうした判例ないし学説の理解なくして土地法制のあり方について建設的な主張を期待することはできないだろう。自由をめぐる思索においても、その結論の是非についてはともかく、憲法上自由がどう扱われているのかといったことについての最低限の知識を踏まえておかねば、現代日本における具体的な自由について何か言うこともできない。

 

 法学・政治学に不案内な哲学者が目立つことを書いたが、だからといって全ての哲学者が法学・政治学に通じろといっているわけでもない。ただ、これらで扱う問題について専門家として一言なりとも云々したければ、最低限でもある程度の知識を踏まえてくださいよということを申し上げているに過ぎない。もちろん、目立たないが堅実な研究をしている人は僅かながら存在する。しかし、そういう人は商業誌「現代思想」(青土社)などで本格的に取り上げられることはない。

 

 いずれにせよ、こうした政治哲学の書がお茶の間に流通することは決して悪いことではないし、流通するにはそれだけのわけがあってのことであろう。政治や経済の状況が混沌としている最中、身近な税金や年金等の問題を今後どのような方向に持っていくかという問題一つとっても、その背景にある考え方にロールズノージックあるいはサンデルらの政治哲学と密接に関連するわけだから。

 

 ところが最近では、あの当時のサンデルブームはどこへやら。結局、日本の出版業界のマーケティング戦略の一環として仕掛けられたものであったのかも知れない。そういう観点からすると、最近のマルクス・ガブリエルを推した出版業界の動きは、本を売らんがためのマーケティング戦略でしかないのだろう。早々に忘れられていくだろう。

 

 我が国だけに当てはまる状態ではないにしても、とかく流行に流されやすい日本の思想シーンにおいて、ある種の「スターシステム」が出版業界を維持してきた側面もあるし、また味をしめた出版業界が無理繰りにでも「スター」を作り出すというマッチポンプの意図的に作られた流行現象の一つである。その売り出し方からして、そうした側面を如実に現している。いわく、「最年少でボン大学の哲学教授に就いた人」というキャッチフレーズで売り出し、それが学校歴信仰と若ければ若い方がいいという故のない思い込みが蔓延する現代日本社会で受け入れられる理由ともなっている。

 

 しかし冷静に考えてみると、哲学の教授に最年少で就任することが哲学者としての優秀さを証しているわけではないし、十代の半ばで大学の哲学教授に就きたいと願う者の哲学など底が知れるというものではないだろうか。

 

 蓮實重彦が、かつて『「知」放蕩論序説』(河出書房新社)において、十代のガキがいきなり哲学者になりたいなんて言っていたら、そんな奴はぶん殴ってやればよいと述べていたが、至言というべきではないか。実際、正味の内容はといえば、さして重要な新規な思考が展開されているわけではなく、ただ自然主義化の隆盛の中で学問の主役の地位を喪失したばかりか増々脇役に追いやられてしまっている哲学の衰退期に対抗し、無理やりでも哲学の復興を宣揚したいという意図が露骨に感じられることは確かだ。

 

 グレアム・ハーマンとの対談では分析哲学や大陸系哲学との分断が議論されていたが、ここで言われる分析哲学の姿がかなり矮小化され実証主義と同義であるかのように語られているかに読めてしまう箇所もあれば、特にこれはハーマンの方に言えることだろうが(この対談を読む限り、ハーマンに関しては「こいつはダメだな」と思う)、分析哲学への対抗心のあまりその「断絶面」を強調しすぎるきらいがある。

 

 マルクス・ガブリエルは、もちろん分析哲学総体を批判しているわけではないし、分析系と大陸系と二分して哲学を捉える愚は犯していないとは思うが、自然主義化の方向性に対して異議を唱えていることははっきりしている。

 

 ただ分析哲学は、必ずしも認識論や存在論における自然主義化を主張する立場もあれば反自然主義の立場もあるわけであって、いわゆる「分析哲学」と一枚岩で語れるべきものなのか甚だ疑問である。

 

 そもそも分析哲学の始まりにおいては、むしろ反自然主義的な立場の者の方が多かったのではないか。ムーアやウィトゲンシュタインは反自然科学ではなかったが、自然主義や科学主義には抵抗を示していたし、アンスコムも明らかな反自然主義であった。論理実証主義に対する広範な批判を展開したのも分析哲学内部から沸き起こった批判だった。

 

 クワイン論理実証主義には反対したが、認識論の自然主義化を主張した。ダメットだって決して自然主義や科学主義にコミットしたわけではなかった。自然主義や科学主義に強くコミットしている哲学者ももちろん増えてきてはいるが、では彼ら彼女らがライヘンバッハがそうであったような強力な科学主義者であるかというと、なお慎重な判断を要するだろう。強いて共通性を挙げるとするなら、分析哲学とは一つのテクストを半ば「聖典化」し、逐語解釈で満足する文献学に拘泥するのではなく、何が哲学上の解明を要する概念的問題であるのかを見出だし、その問題に対して論理を一つ一つ積み上げていくことによって当該問題の解決にあたろうとする態度であって、その際、とりわけ言語によって表現される命題の構造や意味に対して意識的に配慮することになるので、当然にその分析が目立つ傾向にあるが、「分析哲学学派」なる集団があるわけではない。分析哲学といっても、とらえどころのない面があるとの言葉も残しているので、さすがに一枚岩の把握はしていないものと思われるが。

 

 科学的実在論を批判する科学哲学者ファン・フラーセンによる分析的形而上学批判も一言触れられているが、彼の批判の基軸になっている構成的経験主義については触れず、一体ファン・フラーセンの批判の趣旨がどこにあるのかがわかっているのか首を傾げざるをえない表現もある。しかも、分析哲学そのものではないが分析哲学的支軸を持ちつつ科学哲学を展開している論者に対する目配せがまるでない。一部の論者がブライアン・グリーンやスティーブン・ホーキングによるポピュラーサイエンス本にある物理学の理解に基づいているなどと言うが、それが当てはまるのは例えばドゥルーズなどであって、先端を走る広義の「分析系」の哲学者には当てはまらない。ドゥルーズは重要な仕事をなした哲学者であるし、僕も好きな哲学者の一人であるので、決してドゥルーズを貶す意図はないのだが、ドゥルーズの数学や自然科学の知識は、相当な部分においてプリゴジーヌとスタンジェールによるポピュラーサイエンス本から取り込んだ知識の受け売りのような表現が多く、実際のところ数学や自然科学の知識はさほど深くはないものと見受けられる。もちろん、そのことがドゥルーズの哲学を低評化する理由にはならないだろう。

 

 だからカブリエルが、結局ここで誰を想定して言っているのが不明なのである。そのことは、例えば科学哲学が科学的実践と無縁な状態で営まれているという表現から、彼がある一群の哲学者たちの営為を知らないのか、都合が悪いので意図的に無視しているのかがわかる。彼はジョン・アーマンの論文を読んだことがないのだろうか。あるいはジェレミー・バターフィールドとクリストファー・アイシャムの共著論文を読んだことがないのか。さらにはデイヴィッド・ドイッチュやデイヴィッド・ウォレスとの共同研究を知らないのだろうか。全くの素人である僕ですら知っているし、全部ではないにしろ一部は目にしてその抽象化が厳密な仕方で遂行される思考の鋭利さに驚嘆させられるわけだが、そうした自説にとって不都合な存在には目をつぶっている。読めないから適切な評価ができないのかもしれないが。

 

 認識論や存在論における全面的自然主義的理解に抗する意図は理解できるが、しかしそれが哲学者の経験的諸科学の無知に対する居直りになっては元も子もない。自然科学や社会科学の動向を一顧だにせず、ひたすら思弁だけで存在論や認識論の問題を解明できると考えるなら、それは独善的な傲慢な態度でしかない。自然主義に与するか反自然主義に与するかとは関係がない。行為論を展開するにしても、反自然主義的立場から自然主義化して行為を理解する立場に対して反駁するには、当然脳科学認知科学がどういう見解に立って行為全体を捉えているのか、またそこには概念の扱いとして見逃せない問題点を抱えていないかについての適切な見識を持たなければ話にならないわけである。

 

 存在論や認識論だけでなく倫理学においても、道徳哲学から派生した経済学との関係を完全に無視して功利主義の現代的展開を考えることなどできるはずもないし、国際的な正義論を展開するにしたいとして、その者がアマルティア、センの潜在能力アプローチとかに対して全くの無知ならもはやお笑い草であろう。現代功利主義の分析でパレート効率性を無視する議論など実りある功利主義の研究になるわけがない。形而上学は自然学との緊張関係において意味をもつし、形而上学なき自然学も自己完結できるわけではない。究極的な問いの場面で両者は邂逅せざるを得ないからだ。

 

 哲学が自己完結した学知であるかのように振舞ってこられたのは、ひとえに制度的理由からである。ヨーロッパの大学で一つの専攻として細分化された諸学の一部門として制度化されて生き残ってきたからだ。しかし本来なら、哲学を専攻する者は哲学だけを学ぶのではなく副専攻として他の学問も併せて学ぶようなシステムが望ましいように思われるが、果たして日本の哲学研究の現状がそうした変化を容認するだろうか。

 

 学問が細分化した今日、難しい要求かも知れないが、哲学が何ほどか人類の知に対してアクチュアルな刺激をもたらしていくことを志向するならば、自閉的な状況のままだと不可能だろうし、この自閉的な状況に居直るなら、制度的に守られたごく一部の閉域において営まれるだけの実のないものになってしまいかねない。哲学という人類の知の歴史において長い伝統を誇る学知は、その占める地位は低下しているとしても重要な役割を果たしてきたし、これからも一定の役割があるはずだが、自閉的なあり方に甘んじるならそれすら不可能になってしまうだろう。

名著復刊

蓮實重彦『帝国の陰謀』がちくま学芸文庫から復刊されていることに今頃気がついたのであるが、この書は日本文芸社から出版されたのが元で、僕の手元にあるのも確か神保町の古書店で売られていた初版本である。本書に関係する『凡庸な芸術家の肖像-マクシム・デュ・カン論』(ちくま学芸文庫)や『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)といった大部の書物と比べてはもちろんのこと、小説を除く蓮實のどの書物よりも薄い書物でありながら、蓮實自身おそらく一際愛着を持って書いた書物ではないかと想像する。

このとき、「私生児」は、権力の座にとどまり得るなら、それが大統領であろうと一向にかまわないと思っている弱気な「嫡子」に、初めて現実的な決断を促すことに成功する。大統領が真の権力を行使するには、対立する権力機構としての立法府を蹂躙せねばならず、それなくしては、いかなる権力の維持も実践的な意味を持たないだろうし、それが、第二共和国の憲法の不備から導きだされる当然の結論にほかならない。そのとき、陸軍大臣として軍隊を掌握すべき信頼するに足る軍人サン・タルノーを、この義兄弟はすでに陰謀に引きいれている。かくして現実主義者の義弟は、律義なまでに議会制民主主義にこだわる優柔不断な義兄に、皇帝として君臨するしかない必然を理解させることに成功する。近代国家における最初のクーデタとして歴史的な意味を持ち、少なからぬ数の後世の野心家たちに有効なモデルを提供することになるこの陰謀が「父親の名」と「他人の名」にまつわる「双生児」的な兄弟の巧みな連携によって実現されている事実を、ここで改めて思い出しておくことにしよう。

 

この一節は、その『帝国の陰謀』にある文章である。文芸批評家の福田和也は、文藝春秋社の雑誌『諸君!』誌上で、蓮實のこの一節を持ち出し、「脳ミソに金髪のカツラを」と揶揄したことがあった。その評価とは逆に、蓮實重彦の著作の中では、短くしかも簡便に書かれているものの、1851年12月2日のルイ・ボナパルトによるクーデタが開示する「20世紀的主題」が華麗な筆致によって描かれており、物書きならばいつかこのような書物を残してみたいという思いを抱かせてしまうような魅力を放つ。この点については、福田和也の罵倒は全くのお門違いというものだろう。それにしても、フランス滞在時に蓮實のパリ大学に提出された博士論文を読んだ際の感想として、いつものナメクジみたいな異様な文体とは異質な、ごく普通のフランス語の文章で書かれたごく普通の内容の論文だったと述べる福田の執拗さと、僕もこうして『諸君!』のバックナンバーまで繰ってこの福田の文章を探し出したことを重ねてみると、随分と暇なことをしたもんだと思わずほくそ笑んでしまう。

 

『帝国の陰謀』は、蓮實重彦の著作の中では容易に読める部類ものだが、この短い書物には、ベンヤミンの「複製技術」の問題系、デリダの「署名」や「散種」といった問題系、はたまたドゥルーズの「反復」と「シミュラークル」の問題系といった主題で編まれた織物となっており、「フランス現代思想」のちょっとした応用問題を解いている側面もある。ちょうど、「署名と空間」という発表原稿が『Anywhere』(NTT出版)に掲載されていて、そこで『帝国の陰謀』にある主題が簡潔に表現されているので、本書と併せてこの「署名と空間」を読むと、より理解が増すものと思われる。

 

この書物は、「近代」と呼ばれる特殊な一時期において、ド・モルニーというナポレオン三世という具体的な人間によってなされた署名が、どのような空間において可能となり、不可能になるのかという関心の下、1851年12月2日に起こったクーデタとそこから始まった「第二帝政」が、ことによると、20世紀後半に可視化されてきたポストモダンな状況を先駆ける意味を持っていたのではないかという問題意識に貫かれている。このクーデタは、周知の通り、マルクスをして、『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』における「反復された笑劇(ファルス)」と書かしめたあの事件であるが、蓮實は、マルクスですら掴み損ねていた「第二帝政期」に現出した、モダンとポストモダンの並行関係を読み取ろうとする。蓮實によると、マルクスのこの断定は政変によって開示された政治的空間を支えもする複製技術時代における「シミュラークル」の「祝祭」ともいうべき事態について意識的ではない、というのである。オリジナルの「正統性」を欠いたいかがわしいイメージが無限に反復されることで、かえって「現実味」を帯びてしまう空間が、フランス第二帝政期に出現したというのでる。

 

かつて松浦寿輝は、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』(河出書房新社)の解説文において、この蓮實重彦のテクストを「優雅と贅沢の輝き」と形容していた。また浅田彰は、『逃走論』所収の、蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』(冬樹社)の書評において、それを「反動的な美しさ」と表現していた。普通の者が真似をすれば、単なる出来損ないの「おフランス野郎」の滑稽に転じかねないわけで、蓮實重彦は安易な模倣を寄せつけない。安易に近づくと、かえって己のデタラメさ加減が明らかにされてしまう効果をもたらす毒牙を持った批評家でもある。この『帝国の陰謀』も同じく、安易な模倣を拒絶する書物になっており、こうした名著が文庫の形で復刊されることは良い傾向である。

 

『饗宴Ⅰ』(日本文芸社)や『饗宴Ⅱ』(同)または『魂の唯物論的擁護のために』(同)などの対談集も絶版になって久しいが、何よりも復刊を望まないわけにはいかないのは、江藤淳蓮實重彦『オールド・ファッション-普通の会話』(中央公論社)である。改築前の東京ステーションホテルにおいて泊りがけで交わされた対談を収めた書物なのだが、後世に生まれた僕が否定しがたい嫉妬の感情を催してしまうほど、無性に贅沢さを感じてしまうもの。読んでいる時も、ほとんど夢見心地でこの二人の知性による気負わない会話の妙を楽しんだものである。今の日本社会に失われてしまった贅沢さが詰まっている書物で、是非とも復刊して欲しい。一度中公文庫で再刊されたが、この文庫本も絶版となってしまった。

 

山内昌之との対談も結構面白い。『地中海-終末論の誘惑』(東京大学出版会)では、二人の対談がラストに掲載されている。その拡張版として、まとまった対談が収録されている蓮實重彦山内昌之『20世紀との訣別-歴史を読む』(岩波書店)も文庫化して欲しいものだし、二人の『われわれはどんな時代に生きているか』(講談社現代新書)も同様。この2つの書物は、「私とは何者なのか」という問いには興味を持たない一方で、「私がどういう時代を生きているのか」という問いには俄然興味を示す蓮實重彦と、歴史家の山内昌之との対談(前者)と往復書簡(後者)であり、気軽に読めるが決して手抜きしたわけではない二人の対話が楽しめる。

 

最後に、『近代日本の批評』(講談社文芸文庫)も絶版になっているが、これも復刊して欲しい。近代日本の批評の歴史を全体化して捉える一定水準以上の書物はほとんどなく、現在の、特に「若手批評家」の、全部とは言わないまでも大部分が、近代日本の批評の歴史を全く踏まえていない夜郎自大な低レヴェル作文ばかりを氾濫させるという驚くべき「学力低下」の様相を呈しているこの時代において、最低限のレベルを確保したスタンダードな知識を再度提供することは有意義であるはずだからだ。