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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

空間論・時間論に対して共同主観性論及び物象化論はどの程度寄与しうるのか

世界観総体の革命を企図する壮大な哲学体系樹立を目指した廣松渉にとって、世界認識の範疇的枠組たる空間や時間の概念がその検討さるべき主題となるのは必然的であろうと思われるところ、その膨大な業績を見渡しても、廣松哲学に固有の空間論・時間論と呼べるものを見出すことは難しい。『廣松渉著作集』(岩波書店)第2巻に収録されている短い論文「時間論のためのメモランダ」で、廣松は以下のように述べている(なお、この論文は、元はと言えば、『事的世界観の前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』所収の論文であったが、著作集では、各章がテーマごとに分解されて収録されている)。

時間というものをいかなるものとして了解するかは「世界観」の総体と相即的に関わっている。それゆえ“近代的”世界観の全般的超克が課題となっている今日、時間概念の抜本的再検討が要件をなすことは更めて言を俟たない。

しかしこの論文は、廣松曰く「覚書風に書留め」たものに過ぎず、本格的な時間論と呼べるものとは言い難い。何より論域が狭く、その内容も、見田宗介『時間の比較社会学』(岩波書店)のような、地理的・歴史的な時間観念ないしは時間意識の相違の記述と分析が大半を占める。結論を先取りして言えば、廣松哲学固有の時間論として、現代の科学の知見から導かれた主要な時間論などと建設的対話が可能と言えるほどの内容は、残念ながら展開されていない。空間論についても、同様のことが指摘できるだろう。この空間論・時間論を欠いている点が、壮大な哲学体系を展望していた廣松哲学の「弱点」の一つとなっているものと思われる。

 

「主観-客観」図式の排却と四肢的構造論、「対自的-対他的」認識とその共同主観的存立構造の議論は、現代物理学の認識論的問題提起に触発された一面を持つと断っている通り、空間論・時間論の動向に対して無視を決め込む態度をとらない。実際、『著作集』第3巻に収録されている『相対性理論の哲学』や『科学の危機と認識論』において、ニュートン力学からマッハ主義の再検討を経由して、アインシュタイン相対性理論に対する論述へと至り、最終的には量子論までをも論域に収めた考察を残している。『科学の危機と認識論』では、以下のように述べている。

認識論はもとより自然科学の“後追い”を宗とするものではない。しかし、嘗て物理学の専攻を志していた著者が「哲学専攻」へと進路を転じた機縁からいっても、著者の個人的な事情に即するかぎり、現代物理学の当面している認識論的問題状況を慮外に措いては、認識論的構案について語ることができない。

 

ここでの廣松の主要目的は、近代以降の自然科学の代表的な学問である物理学の進展に配視して、相対性理論量子力学の提起した深刻な認識論的=存在論的な問題次元を照射することで、「物的世界像」の最大の堡塁たる物理学的実在概念の本拠を突き、以って「事的世界観」への推転を諭すことである。『相対性理論の哲学』には、次のような記述がある。

相対性理論は、ヨーロッパ思想の宿痾となっている実体主義的な存在観を「実体主義の第一拠点たる物理学」の内部から震盪させ「関係の第一次性」を顕揚したこと、存在論的な視角ではとりわけこの件に留目させられる。筆者の謂う「事的世界観」にとってこれが一つのインパクトをなしていることは言うまでもない。認識論的な視角では、方法論的全構制を支える間主観的(相互主観的=共同主観的)な観測における「観測結果の間主観的同型化による対象的所知措定」の構制に着目したい。これは筆者流にいえば、「対自-対他」的な「共同主観的四肢構造」の構制にほかならない。

 

ここで注目すべきは、他の主題における論じ方とは若干異なっている点である。その異なる点とは、ニュートンにおける絶対時間・絶対空間の概念がアインシュタインの相対論によりもはや維持しえなくなっている事態を、近代において支配的であった空間・時間概念の破綻として論じるだけでなく、相対論と量子論が「近代的パラダイム」に収まりきれないことを強調して、自説の共同主観性や関係の第一次性の主張に引き付けて論じることに終始し、空間論・時間論の核心については触れられていないという点である。換言すれば、あくまで近代的世界観の崩壊の萌芽を自然科学の理論的進展によって論じることに止まっており、空間や時間の「真実態」の探究がなされているとは言い難い。

 

確かに、時間論における真の問題構制として、「過去」・「未来」の世界と「現在」の世界との相関性の構造を問うてはいる。ところが、時間概念の歴史的・文化的変遷を確認した上で、認識の四肢的構造連関に時間概念の成立機序を帰着させることで以って、相関性の構造の解明とされてしまっている。これでは、「過去」・「未来」・「現在」の観念の形成に関する仮説の提示であっても、「過去」の世界・「未来」の世界とこの「現在」の世界の相関性の構造を解明したことにはならないだろう。

 

『存在と意味』第1巻では、第三篇第一章「事物的世界の分節態勢と空間・時間」及び第三節「時間的規定の形象化」において論じられている。ここでは、所謂“近代人”の代表的時間表象として、ニュートン力学において前提される絶対時間に見られる線型時間が取り上げられている。この時間表象が、歴史的・文化的に特異な時間表象である旨が確認され、「狩猟民族型」・「農耕民族型」・「遊牧民族型」・「旅商人型」という時間表象の4類型が抽出される。時間表象の類型としては、狩猟民族や農耕民族に見られる循環的時間表象が多数派であり、線型的時間表象は、元来は遊牧民の行路が時間経過の形象化として具現化されたものであって、一般的な時間表象ではないことが論じられている。

 

廣松は更に、この4類型を身体的自我とその移動的変様形態に定位して、以下のように説明している。①身体的自我そのものは止住しつつ世界が移動的に変様する場合には「狩猟民型」に該当する。②身体的自我そのものは止住し世界も非移動的に変様する場合に、表象的世界と知覚的世界とのうち、一者から他者への変様がもっぱら変様的変化として了解されているとき、これが「農耕民型」に該当する。③身体的自我そのものが移動するとはいえ世界もまた一緒に移動的に変様する場合、これが「遊牧民型」に該当する。④身体的自我は移動的に運動するが、世界そのものは移動しない場合、これが「旅商人型」に該当する。

 

体験的時間の分析に即して、知覚的現在は抑々が、物理学で論じられる瞬間的同時位相ではなく、一定の持続が体験される時間帯とでもいうべきものであって、旧来の哲学的・物理学的時間論の理論閉塞は、こうした瞬間的同時位相としての「今」を前提にすることから立論していることに起因するとされ、この前提は体験的時間の実情に沿わないとして退けられる。そして、時間なるものが瞬間的現在の継起的持続であるかのように観念される傾向こそが、瞬間的現在としての「今」の遷移としての「過去」・「現在」・「未来」の時間の措定とその物象化的錯視をもたらす要因になっている。さらに、時間の自体的存在性を前提とする運動に先行する条件としての時間概念を転倒した考えであると論じ、運動の先行性とそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間概念を説明している。

アインシュタイン相対性理論をまつまでもなく、時間・空間・質量等々は相互制約的な有機的聯関態をなしており、現代物理学的に言っても、時間は空間や質量から独立に存在するものではない。しかるに、時間・空間・質量が聯関態においてのみ存在するということは、視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している。-時間や空間といった規定性は、この原基的存在たる運動態のモメンテを悟性的に抽象し、それを運動なるものの先行的存在条件とみなしつつ宛かも自存的な存在であるかのように扱ったものにすぎない。-翻って思うに、われわれの体験的時空間は、まさにそのような聯関態において存在する。・・・過現未にわたって既在する時間なるものがあるからこそ、運動・変化(の知覚)もはじめて存在しうるというがごときは、悟性的抽象に立脚した物象化的倒錯にほかならない。

 

体験的時間の先後関係を持った持続性及び運動の一貫性を以って時間表象を組み立てることによって、時間の自体存立性と線型性を否定し、そうした体験から来る先後関係を持った持続性が理念化された形象として、時間が観念されるというのである。『存在と意味』には、以下の記述がある。

時間なるものの流過的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界はそれぞれ「時間」の一部分を分有するという表象になるし、時間なるものの路線的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界がさながらモノ・レールのように「時間」に跨っているという表象になる。・・・世界の内実をなす変化的現相は「先後的布置をもった持続」という存在様式を現示するが、この「先後的布置をもった持続」という存在様式をイデアジーレンしたもの、それが「時間」にほかならない。

この時間論における特徴は、体験的時間の持続の一貫性と「原基的存在」の運動態のモメントを並列させて、①時間の先行性、②自体的存立性、③「点」として表象される「今」の抽象化を否定していることである。しかし、理念化された抽象概念の自立的展開とその経験的基底となる「生活世界Lewenswelt」の忘却という、お馴染みの批判と同種の批判を並列させて論じられるのかが、そもそも怪しい。

 

アインシュタイン相対性理論は、ミンコフスキー由来の、時間と空間を分離不可能な「時=空」概念の描像に基づく「事象の存在論」を示している点から、確かに時間・空間・質量が「有機的聯関態」を形成していると論じることは可能だとしても、しかし、そこから直ちに「原基的存在」としての運動態のモメントとそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間という理解が肯定されているわけではない。相対性理論が証したのは、時間と空間の非独立的存在性格なのであって、運動態の先行性と時間の抽象化という廣松の主張は、相対論からは帰結しはしない。また、物体の配置の変化を基底とする時間の再構成と、運動態を基底とする時間の抽象化に結びつけことにも慎重でなければならないだろう。

 

だから、「視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している」との廣松の主張は、必ずしも言えないのである。しかも、体験的時間の持続の一貫性を強調する文脈でアインシュタインが持ち出されているが、「過去」・「現在」・「未来」の存在論的位置づけの差異を認めず、時空多様体として捉えたアインシュタインの立場と明らかに齟齬を来す点が無視されている。線型的絶対時間及び絶対空間からなる描像を批判したいがあまり、体験的時間の持続の一貫性と相対性理論が同一次元に並列されて論じられているところは、明らかに議論が錯綜している。

 

廣松の空間論・時間論の立論は、歴史的・文化的な時間概念の概観を踏まえつつ、知覚的現認対象たる自己と予期的世界に表象される自己との二重性、言うなれば身体的自我の「自己分裂的自己統一」という覚識を媒介環とする時間意識の発生機制及び時間の形象化の可能性条件についての論述としては示唆に富む考察であるが、あくまで「主観的」な時間の形象化に関する立論にとどまっており、「客観的」時間を、各共同体の歴史的・社会的・文化的生活世界における、相互の自己分裂的自己統一を媒介とする世界の変容態として共同主観的に形象化されたものと見るその論理には、明らかな飛躍が見られる。

 

相対性理論における異なる「観測系」の相互関係に基づき、同一事態を交換可能な双方当事者の両視座に立って定式化可能な事態を以って、共同主観性の理論的補強を試みる廣松の『相対性理論の哲学』での立論は、以下の通りである。

相異なる運動・観測系に所属する二人の観測者にとって、所与の物理現象の直接的現相は合致しない。一者にとっての対自的現相と対他的現相(すなわちもう一人の観測者たる他者にとっての現相)とは、直接的な所与性においては相貌が異なる。こうして、対自的現相と対他的現相は相違するにもかかわらず、観測者たちは所与現相の観測的定式化(自己の属する観測系に即しての描写的定式化)に所定の変換を施すことによって、対他的見地を“脱自的”観念的に扮技することができ、当の事象を共同主観的に同一の相で認識・定式化することができる。

すなわち、相対性理論の異なる「観測系」の“互換性”を以って、個別的主観性と共同主観性の相互関連性の理由づけとなしている。なるほど、相対性理論はその理論内部に「観測者」概念を取り込んでいるかに一見したところ思われるかもしれない。だが、相互に相対運動する「観測者」同士では質量や長さや時間についての測定結果が一致しないことはあるが、とはいえ、質量や長さや時間の集合間の関係を支配する法則については一致するし、相対運動していない際の特定の質量や長さや時間の記述については完全に一致するのだから、理論内部から「観測者」概念をいわば“消去”したとしても問題は生じない。相対性理論量子論と異なり、「観測者」概念を理論内部に包含している体系とは必ずしも言えないのである。個別的主観性と共同主観性との二重化された相互関係性を根拠づけるのに際して、相対性理論を「観測者」を取り込んだ理論体系とみなした上で利用する方法は、明らかに失敗しているという他ない。

 

のみならず、この立論内容では、科学哲学者や物理学者の世界で論じられている時間の実在性や方向性等の問題に代表される時間論に対応させることは難しい。確かに、アインシュタイン相対性理論の成果を取り上げ、空間と時間が各々単独で独立して存在するものとして扱うことの非を主張し、運動の先行性と空間・時間の自体存在性の否定を主張する立論は、マッハの主張、あるいは更に遡るとライプニッツの主張と一部重複する。しかし、アインシュタイン相対性理論が空間と時間の非分離的規定態として時空概念を提起したといっても、「時空」概念が実体的な「ブロック宇宙」として理解されるべきか否かという問題は、未だ決着つかない問題であり、認識論的側面における四肢的構造連関に基づく共同主観性論による実体主義的解釈への批判の射程が、こうした論争に対して積極的な寄与を果たすかと問われれば、些か心許ないと言わざるを得ない。

 

仮に、廣松渉の空間論・時間論が、徹底した関係主義を採る「ライプニッツーマッハ」路線の踏襲として自らを位置づけるのならば、少なくとも物理学理論における関係主義的理論構成が未だ成功していない現実に配視すべきところ、この点に関する問題意識が希薄であると言うべきである。また、ニュートン的絶対時間の概念が、アインシュタイン相対性理論が含意する時間概念からすると背理の関係に立つことを論じはしても、この点に定位して論を進めるならば、相対性理論量子力学の時間概念も同じく齟齬を来すはずである。

 

一般相対性理論の「時間」と量子力学の「時間」は、相互に互換性のない概念である。この非互換性は、ブラックホールや初期宇宙など双方の条件が適用される状況において、両者を単一の枠組に置換する際に多くの問題を生じさせる。量子力学ニュートン的絶対時間に基づいており、ここでは、時間は固定された背景となるパラメータである。時間にユニタリーな発展があり(つまり、確率は常に1になる)。この発展は、時間依存的な波動方程式(時間依存的シュレーディンガー方程式)と一致し、ヒルベルト空間のスカラー積は、保存された確率流束につながる。

 

ニュートンの外部的絶対時間とは対照的に、相対論では時空の別の座標としての時間という意味が与えたれている。従来の一般相対論的時空は、<M, g>すなわち、Mを時空位多様体とし、gをアインシュタイン重力場方程式に従うメトリックにより定式化される。座標の一般的な選択としての時間は、一般相対性理論的時空が、その時間の定数値に対応する一連の空間のような超曲面にスライスされる方法で幾何学的に具体化される。相対論と量子論が統合される閉じた量子宇宙論のような真に閉じた系を記述することと、外部的絶対時間の概念は両立しない。特定の時間に行われる測定は、従来のコペンハーゲン解釈(特権的な時間の存在に固定されている)の基本的な要素である。観測可能量は、所与の時間値を測定できる量である。一方、「履歴」は、一連の時系列測定の結果を参照する場合を除いて、直接的な物理的意味はない。その「履歴」は、経路積分形式では量子力学に似ているが、一般相対性理論に似た機能を保持することもでき、一般相対性理論量子力学の調整(の一部)の前兆となる可能性もあるが、いずれにせよ、宇宙全体で量子力学をどのように解釈すべきかは、今もなお謎に満ちた問題である。

 

両者の統一を試みる量子重力理論の抱える最大級の難問が、この”The Problem of Time”であり、有力な理論として考えられる超弦理論とループ量子重力理論は、相対論に軸足を置くのか、それとも量子論に軸足を置いて考えるかの違いを反映していると見ることもできないわけではない(あくまで素人しての印象でしかないが、超弦理論は相対論に、ループ量子重力理論は量子論にそれぞれ軸足を置いて思考しているように見受けられる)。それゆえ再び、両者における時間概念の不一致がどうしても現れ出てくるように思える。それほどの難問中の難問であり、いまなお解決を見ていないが、その中から、様々な時間論が思いもよらぬ副産物として生み出されている。米国ではピッツバーグ大学、英国ではケンブリッジ大学やオックスフォード大学などが、世界的な研究拠点になっているが、この連中の議論と比べて、やはりどうしても見劣りしてしまう。あるいは、イスラエルヘブライ大学で哲学の教授を務めていて、最近亡くなったイタマール・ピトフスキーのようなピカ一の頭脳を持った者が我が日本から登場することは期待できそうもない(ピトフスキーは、主として確率の哲学で著名だが)。

 

ともかく、相対論や量子論にまで論域を広げて空間論・時間論を展開するのであれば、この齟齬に対して踏み込んだ考察がない限り、さして実りある成果は期待できないだろうし、さすがの廣松も自分の手に負えることではないとの直感が働いたのか、新たな世界観の宣揚を打ち出す割には、空間論・時間論に触れる論考が著しく少ない理由になっているものと思われる。

真理についてのquid factiとquid juris-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察①

廣松渉は、広く実践哲学・価値哲学・社会哲学・歴史哲学・文化哲学をも論域に収めた哲学体系を打ち立てることにより、「近代的世界観」の地平を超克し、新たな世界観の定礎を目論んだ哲学者であった。この目論見は、哲学の理論的な動機からというより、「資本主義時代に照応するイデオロギー」たる「近代的世界観」の超克は、「現体制の批判者たり、革命的変革の志向者」(廣松渉『新哲学入門』(岩波書店)の最後の一文)としての実践的理由に急かされてのことであったように思われる。『廣松渉著作集(全16巻)』(岩波書店)の巻頭を飾る第1巻に収録されている若き日の代表作『世界の共同主観的存在構造』の冒頭の文章だけでなく、ことあるごとに、廣松はこの点を強調している。『廣松渉コレクション(第5巻)-哲学体系の新視軸』(情況出版)所収の「私にとって哲学とは-既成的世界観への体系的批判」で、以下のように、廣松は述べている。

私にとって“哲学”、それは「近代的世界観」という現体制に照応するイデオロギーの地平に対する“体系的批判”でなければならないと考える次第です。体制内的思想の準位に堕した“既成マルクス主義”の批判をも試みつつ、より広くは「物的世界像」に対する「事的世界観」の体系的論述を私なりに志向してきました。

 

理論的哲学の課題に関して、世界の被媒介的存在構造の究明を第一義と位置づける廣松の思考の根幹は、第1巻「認識的世界の存在構造」、第2巻「実践的世界の存在構造」、第3巻「文化的世界の存在構造」の三部構成として構想された主著『存在と意味-事的世界観の定礎-』という題にも反映されている通り、「近代的世界観」を支える「物的世界像」を批判し、「事的世界観」にとって代わられるべきとの意図を背景にした議論になっている(第3巻は、廣松の若すぎた死によって日の目を見なかったことは、我が国の哲学・思想にとって残念なことである)。『著作集』15巻に収録されている『存在と意味-事的世界観の定礎-(第1巻)』には、次のような記述が見られる。

管見によれば、人類文明はかなりの以前から世界観的次元でのパラダイムの推転局面-十七世紀におけるいわゆる近代的世界観への転換期に次ぐ新たな現代的世界観への転換期-を即自的に径行しつつある。茲に胚胎している新しい世界観的パラダイムを対自化し可及的に定式化すること、これが哲学の今日的一大課題であり、この課題に対して著者なりに応える拙い構案が謂うところの「事的世界観」である。

 

世界の認識論的=存在論的「真実態」を対自化することを目指す廣松は、近代的思考の特徴の一つである「主観-客観」の二元論的図式を批判するため、その前提となる「認識対象-心的内容-認識作用」の三項図式を批判することから始める。この図式においては、対象的事物から認識主体へのと刺激が到来し、当該刺激が知覚心象という形で結像するという仕組みで知覚が成立するという考え方が基底にある。先方に対象が存在し、こちら側の知覚機構内部に写像が形成されるという形で理解される知覚観・意識観を、写真機の構造に例えて「カメラモデルの知覚観」と命名した上で、この図式が成立し得ないことを廣松は論じる。代わって、主観的契機における「能知的誰某-能識的或者」と、客観的契機における「質料的所与-形相的所識」という主客両側の二肢的二重性として把捉される「四肢的構造連関」に基礎を措く「共同主観的」認識構造の定礎を試みる(初期の『世界の共同主観的存在構造』と後期の『存在と意味』とでは、用語が若干異なっている)。

 

この共同主観性論に加え、その斬新なマルクス主義哲学に関する解釈により再定式化された「物象化」概念を活かした「物象化論」及び「物象化理論」の射程を極限にまで拡大させることによって、「実体主義」から「関係の第一次性」に視座を据えた「関係主義」への転換を図る。「近代的世界観」が概ね「実体主義」として特徴づけられる「物的世界像」に彩られるものであるならば、廣松渉が新たな「パラダイム」として措定する「事的世界観」は、「関係の第一次性」の認識による「関係主義」に基礎を置くものでなければならない。かくして、廣松渉独自の哲学体系として定礎される「事的世界観」を構成する「太い幹」を三つにまとめるとするならば、①共同主観性、②関係の第一次性、③物象化というこの3つになるだろう。

 

廣松渉は、特に1845年以降のマルクスエンゲルスこそが、この「近代的世界観」を超克する地平を切り開いたと評価する。マルクスエンゲルスは、その「近代的世界観」を超克する地平を開いたと言えるほどの体系的哲学のテキストを残しはしなかったので、この見解はやや我田引水、牽強付会な感もしないでもないが、何故そう考えるのかが明確に表明されたテキストに、『著作集』第10巻に収録されている『マルクス主義の地平』を挙げることができるだろう。この書は、ロシア・マルクス主義に代表される「客観主義的」解釈及び西欧マルクス主義に代表される「主観主義的」解釈のいずれをも退ける廣松のマルクス解釈の本領が発揮されている。

 

マルクスエンゲルスは、自然と人間を乖離させて考えるフォイエルバッハに対し、『ドイツ・イデオロギー』で、次のように批判している。

フォイエルバッハは、彼をとりまいている感性的世界は決して永遠の昔から直接無媒介的に存在している恒常的に自己同一的な事物なのではなく、産業と社会状態の生産物であるということを理解しない。

フォイエルバッハの哲学には、物理学者や化学者の眼にしか開示されない客観的存在としての自然、あるいは人間とは無関係に永遠の昔から存在している自然という描像が根底にあるが、そういう自然なるものは、人間から切り離して悟性的に抽象化されたフィクションに過ぎない。現実の感性的自然は産業と社会状態の生産物であり、しかも、それが歴史的な生産物であるという意味で、諸世代の全系列の活動の成果である。感性的な労働と創造、この生産こそが現に存在している全感性界の基礎である。自然と言えども、決して生の自然ではない。里山や森林云々と言えども、それは耕作や栽培を通じて「文化」化された人工の所産である。住居、調度、衣服、食品、われわれをとりまく物的世界は、人間の抱く観念の物象化された定在である。人間の歴史に先行するこの自然なるものは、フォイエルバッハが現に生活している自然ではない。

 

対して、マルクスエンゲルスは、「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」を原理とする「客観主義」も、「自然から切り離して形而上学的に改作した精神」を原理とする「主観主義」も批判した上で、両者を止揚統一しようとした。人間は、歴史的に送られてくる世界geschichtlich-geschickt-werdende Weltに対して、その関わり方をすら共同主観的・社会的に「存在によって決定」されており、用在的な歴史的世界に被投的に内・存在しつつ対象的活動を営むという「歴史・内・存在」と言うべき存在である。この「歴史・内・存在」の根本的な構えの地平に展らかれる世界は、科学主義的な物在、つまり「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」ではなく、歴史的自然=自然的歴史である。人々が、そこにおいて、本源的に共同主観的な在り方で自然を歴史化していく対象的な営みは、歴史的存在被拘束性においてある。このように、廣松はマルクスエンゲルスにおける自然観を捉える。『マルクス主義の地平』において、廣松は以下のように論じる。

マルクス主義唯物論においては、われわれの意識と存在は、いわば函数的連関の項としての構造的契機であって、文字通り弁証法的な動力学において把捉される。そのご登場したいくつかの哲学思想が、フェノメナルな問題場面から出発しつつも、マッハ主義その他において現にみられる通り、フェノメノンの被媒介性を説く段になると、所詮は近世的な主客図式Subject-Objekt-Schemaないし、身心図式Leib-Seele-Schemaを復元してしまうのに対して、マルクス主義唯物論は、人間の在り方を対象的活動として、しかも歴史的・社会的に共同主観化された“被投的な”対象的活動としてとらえ返し、この対象的活動の動力学に即し、そのObjektion-Objektivationに即してフェノメノンの被媒介性を定礎する。その際、「自然のプリオリテートは残るが」、有史以前の歴史化されざる自然というがごときものは「君の頭蓋骨は、かつてたしかに存在はしたが、もはやどこにも存在せぬ」のと同様、もはやどこにも存在せず、即自的な自然Natur an sichとわれわれにとっての自然Natur für sichとの区別だては「人間と自然とを区々別々のものとして考察する限りにおいてしか意味をなさぬ」ことが向自化されている。向自的な自然Natur für sichの被媒介性の解明を志向するに当って、旧来の諸哲学、わけても「近世哲学」は、認識論的に截断した媒介項と被媒介項とを存在的な截断と二重写しにしてしまい、即自的な自然そのもの(科学はこれを究明するものと私念される)を要請するが、マルクス主義唯物論の哲学的世界了解の次元でいえば、如上の悟性的抽象的な截断を固定化しない限りで、天体界のごときも、その実、歴史的・社会的・共同主観的に展らけるNatur für unsである。

 

この廣松の言は、若干言葉を変えながら、様々なテキストで繰り返し説かれている。廣松の重要な著作として、おそらく5本の指に入るであろう『物象化論の構図』(『著作集』第13巻に収録)には、次のように表現されている。

歴史においてはどの段階にあっても、或る物質的な成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見い出される。これは、各世代に先行世代から伝授されるものであるが、このものはなるほど一面では新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもするということ、こうして人間が環況を作るのと同様、環況が人間を作るわけである」ということ、人間存在の斯くの如き「歴史的」な在り方に視座を据えて、マルクスエンゲルスは世界を捉え返す。この“歴史・内・存在”ともいうべき在り方にあっては、自然的与件に対する人間の関係は、第一次的には、対象認識というテオレーティッシュな関係ではなく、物質的生活の関心に根差したプラグマティッシュ・プラクティッシュな関与である、そこではまた、汝をはじめ他者との関係は、第一次的には他我としての認知といったスタティックなAnerkennungではなく、物質的生活の場での分業的協働という役割的に編制されたぺルソナ的な関係である。-この対自然的かつ間個人的な関係行為は、即自的には動物においてすら存立しうるにしても、「動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係として存在しない」「動物は対自的には何ものとも“関係”せず、そもそも関係しない」のであって、当の対自然的・間主体的な関係が対自的に存在するのは人間においてのみである。-唯物史観が、上部構造としていわゆる精神文化的次元を視野に配しつつも、さしあたり、物質的な生産と交通の場面に基礎的視座を構えるというのは、人間の対自然的かつ間主体的な関係の基底を如上の視角で観ずることの謂いにほかならない。マルクスエンゲルスは、この視座に構えを執ることによって、先行哲学において初めから抽象態で論件とされていた対自然的関係ならびに間人間的関係を現実的・具体的な相で見据え、人間と自然とを二元的に截断することなく、まさしく動態的な編制の構造に即して捉え返す次第なのである。

 

なお、廣松がマルクスから取り出し、廣松哲学の枢要を占める概念にまで祭り上げられた「物象化」概念の使用の仕方には、若干注意を要することを付言しておくべきだろう。というのも、マルクスが『資本論』で僅かにしか用いていなかった「物象化Versachlichung」に対して、廣松は、あまりに多くの意味を含ませて論じているからである。この「物象化Versachlichung」とは、「物化Verdinglichung」や「物神崇拝Fetischismus」あるいは「物神的性格Fetischcharakter」と密接な関連があるわけだが、廣松のマルクス主義解釈にとっては、後期マルクスと前期マルクスを分かつ一つのメルクマールになっていることから、廣松固有の哲学体系にとっても、「物象化」概念は決定的重要性を担っているはずである。廣松は、『ドイツ・イデオロギー』編輯問題を巡る議論の中で、マルクスが1845年において、それまでのヘーゲル左派の影響下で形成された疎外論の立場を脱却して物象化論の立場を鮮明に打ち立て、既存の世界観とは異なる世界観を宣揚したという意味において、ここに決定的な思想的切断線を入れている。この点は、同じく1845年において認識論的切断を見るルイ・アルチュセールと共通していた。

 

「物象化論」と「物象化理論」とは若干異なり、後者はマルクスの「物象化論」にとどまらず、拡張された一般理論として定立された内容を指す。その関係は、『物象化論の構図』のⅡ「物象化論の構制と射程」と跋文「物象化理論の拡張」を比べてみれば理解されるだろう。同書で廣松は、次のように述べている。

「物象化論の構制」ということは、著者にとって、マルクスの後期思想を理解するうえでの重大な鍵鑰を成すものであり、また、著者自身の構想する社会哲学・歴史哲学・文化哲学の方法論的を成すものである。

 

廣松によると、「物象化」とは、「人と人との社会的関係が、“物と物との関係”ないし“物の具えている性質”ないしは“自立的な物象”の相で現象する事態」である。また、廣松哲学のテーゼの一つ「疎外論から物象化論へ」というテーゼは、「マルクスの物象化論」として以下のように説明されている。『マルクス主義の地平』は、以下のように記している。

マルクスのいう抽象的人間労働は「労働」から諸々の具体的特殊的規定を捨象した「残りかす」ではありえない。抽象的人間労働とは、実は、或る社会的関係-後にふれる通り、それは労働価値説の根本的大前提をなすかの労働配分にかかわるのだが-の物象化的表現なのである。従ってまた、人間労働の物化・凝結・対象化という言い方も、ヘーゲル学派的な意味での「人間の類的本質力としての労働の外化」「疎外」ではなく、社会関係が倒錯視的に物神化された世界了解に即しての、便宜的な言い方にすぎない。『資本論』における物象化論は-これについては立返って論ずべき数々の論点を残しているが、さしあたり本章で着目したコンテクストでいえば-ヘーゲル学派的な、従ってまた、初期マルクス的な疎外論の発想とは異質の地平に立っている。

 

廣松哲学の主眼である「事的世界観」の定礎につき、『廣松渉著作集』第3巻に収録されている『事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』の序文は、以下の通り述べる(但し、この書は、まとまった形で『著作集』に収録されてはおらず、各章がバラバラにされて収録されている。おそらく編集委員会は、限られた予算と制約の中で、どう本書を収めるかに相当苦心したのではないかと想像される)。

著者が先学の正負の遺産に定位して摸索を続けてきたのは「事的世界観」とでも呼びうる観方に照応する新しい世界了解の構図と枠組である。それは、認識論的な射影においては従前の「主観-客観」図式に代えて四肢的構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。

 

廣松渉の認識論の要諦をなす共同主観性論を基礎づける認識における四肢的構造連関とは、対象的側面に定位すれば、主語的指示対象たる与件を述語的表明対象たる「別のあるものetwas Anderes」、「以上のあるものetwas Mehr」として覚識し、主体的側面に定位すれば、自己分裂的自己統一おいてある限りでの主体(単なる私以上のあるもの)に「対して」展かれる認識のあり方である。単刀直入に言うならば、単なる私ではない何者かとしての私に対して、現象がそれ以上・それ以外のものとして覚識されるという在り方を意味する。『世界の共同主観的存在構造』(『廣松渉著作集』(岩波書店)第1巻に収録)には、以下のように説明されている。

フェノメナルな世界は“所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或る者に対してある(Gegebenes als etwas Mehr gilt einem als jemandem)というべき、四肢的な構造聯関において存立していること

このフェノメノンが「~に対してある」“主体”が、かれとして登場する「或る者jemand」が不特定多数として現れる場合の判断主観一般は、「所与-所識」構制のもとで成立する限り、既に間主観的=共同主観的に存立していると廣松は指摘する。

 

真理性ないし虚偽性は、「SはPである」または「SはPでない」という判断成態、つまりは「命題」の特徴であるところ、命題的事態が単なる個々人の心理的意識態以上の相として自存化されて認識される所以は、「所与-所識」成態における「所識」的契機が「表象記号-所識」と関連づけられており、かつそのこと故に間主観的=共同主観的に形成されて存立していることに負う。そして、認識の客観的真理性は間主観的=共同主観的に妥当とみなされることに還元される。すなわち<ヒト>一般を自らに内在化させた二重相として存立する個別的主観の判断における正当性は、その内在化された<ヒト>一般の承認が「判断主観一般」の承認として肯定されることによって得られる。『存在と意味-事的世界観の定礎-(第1巻)』(『著作集』第15巻に収録)は、こう指摘する。

判断の現実的当事者である個別的主観は、・・・間主観的に同調的・同型的な相に共同主観的な自己形成を遂げて(遂げさせられて)いる。・・・現実の認識主観たる能知は特個的な「能知的誰某」と普遍的な“同型的”な「能識的或者」との二肢的“成態”であり謂うなれば「ヒト」を“内在化”せしめている。

 

廣松は、判断的認識の真理性・虚偽性を、判断と客観的事象または客観的事態との一致・不一致によって区別する伝統的な真理論の枠組を踏襲し、個別的認識主観が肯定あるいは否定を問わず措定する判断は、客観的な事象や事態と合致する場合を真とし、合致しない場合を偽とみなす判断図式を承認する。しかしながら、この「客観的事象」ないしは「客観的事態」の意味を、別の事態に還元することにおいて承認するという組み換えを行うのである。端的に言うと、客観的真理性を間主観的=共同主観的妥当性判断の一致に還元するという組み換えである。つまり、伝統的な真理論の議論だと、認識の真理性は端的に客観的妥当性を指すと了解されており、意識対象と照合的に合致する意識内容が真なる認識と見なされるところ、廣松はその構図を受け入れたとしても、その受け入れは判断の形式のみの受容に徹している。すなわち廣松の表現では、「判断的成態」と対象となる事態・事象との照合的一致ないし不一致が、真理性・虚偽性の判別基準という考えを受け入れるけれど、実質的には、認識の客観的妥当性とは、意識対象と意識内容の照合的合致ではなく、対象となる事態・事象そのものが、間主観的=共同主観的に形成され、認識論的主観ないしは判断主観一般に妥当する命題的事態なのであるから、認識の客観的妥当性は、判断的成態の対象となる事態に即した共同主観的妥当性に還元されることになる。

さしあたり「事実問題quid facti」の次元で言えば、当の価値判断、遡っては当該の判断が、人々(当人の属する一定の時代の一定の共同世界)によって“公認”されるかどうか、人々との同調性が事実問題として成立しているかどうか、これによって真理性・虚偽性が決まるのである。・・・ここにおいて、判断的認識の真理性・虚偽性は、人々の共同主観性と相対的であり、従って、歴史的・社会的・文化的に相対的であることになる。

 

客観的真理性が間主観的=共同主観的一致に還元され、かつ間主観的=共同主観的妥当性判断が歴史的・社会的・文化的に相対的であるとするならば、廣松自身の理論的営為の真理性を保証するものは何かという疑問が生じるだろう。既存の「真理体系」が、歴史的・社会的・文化的に相対化された共同主観的妥当性判断の一致の所産とみなされるならば、これら体系に対する現在の我々の認識は、「事実問題」としての「真理体系」の認識として考えられる。つまり、ある時代・ある社会・ある文化において「真理」と見なされた体系は、歴史的・社会的・文化的な理由から共同主観的にその妥当性が承認されていたものであるという認識である。

 

しかしながら、これら「真理体系」の誤りを指摘し、あるべき立論を行う場合、少なくとも当事者からすれば、「権利上」の問題としてその真理性を主張しているはずである。そうでなければ、「真理」を探究する際の当為言明は端的に無意味と化すだろう。すなわち、廣松の認識「前」と「後」によって、言明の性質が「事実問題」としての真理に関する言明と、「権利問題quid juris」としての真理に関する当為言明に区別されているわけだ。そのことに関して廣松は自覚的であり、前者のような「事実問題」として「真理」性が承認されている「真理」を「通用的geltend」な真理とし、後者のような「権利問題」として「真理」性が主張されている「真理」を「妥当的gültig」な真理と区別する。

 

だが、この区別によって問題は解決するどころか、なお一層、問題は錯綜するだろう。というのも、この「妥当的gültig」な真理は、現時点より時間的に後の将来において事実性に支えられうることによって初めて、「妥当的gültig」な真理たりうるとの立論であり、「権利性」が将来の「事実性」により根拠づけられるとするなら、任意の時点における「真理」性の主張は、共同体の大多数の承認が得られる時期の到来いかんによって妥当性・不妥当性の区別がされてしまう。

妥当する真理”なるものは、われわれの見地では、それが現実に間主観的同調性を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのであって、認識(真なる認識)の“権利根拠”なるものは終局的には共同主観性以外のところに求められるべきもない。・・・真理をして真理として成立せしめる間主観的な共同世界は、現実的には歴史的・社会的・文化的に多層的である。・・・“妥当する真理”は“通用”しうる真理としての実を示し、“通用する真理”に成らなければならない。

 

認識の客観的妥当性ないし真理性は、判断的成態の対象となる事態に即した共同主観的妥当性・不妥当性に還元されるとはいっても、廣松は認識における「真理性」に関する言明の、単なる歴史的・社会的・文化的相対性を主張しているわけでも、認識論を事実学に解消しているわけでもない。事実、認識論的議論は、「権利問題」と「事実問題」を分かつことができることを前提とした、前者に関する問題の主題化であるとするというカント的了解を廣松は受け入れている。廣松がカントの影響を多分に受けてその哲学的営為を遂行してきたという事実だけからではなく、当の廣松の哲学観すなわち眼前に開かれる現相的世界がいかにして成立しているかという可能性の条件を問う、世界の被媒介的構造の認識論的究明という理論哲学に課せられた主題を論じてきた事実からも、一先ずそう指摘できそうである。廣松渉東京大学文学部卒業時に提出した論文「認識論的主観に関する一論攷」(『著作集』第16巻に収録)や大学院人文社会系研究科(廣松在籍時には、確か名称が異なっていたように思われるが)に提出した修士論文「カントの『先験的演繹論』」(世界書院)は、カントの問題意識に貫かれた論文であったし、廣松が学生時代に、夏季休暇中に何度もカントの三批判書を読み直す習慣を自らに課していたというエピソードからも、うかがえる。但し、前者と後者の分離は“一応”のものにとどまり、いかなる場面においても明確に区分できるかについて疑問なしとしないというのが、廣松の立場である。

 

では、当為的言明を含む、判断の正当化の可能性の条件をめぐる廣松の議論そのものを正当化する根拠をどこに求めればよいか。廣松の場合、認識の妥当性を保証する審級であるはずの認識論的主観(もちろん、この表現は、あくまで物象化された相において措定されたものであるとの前提である)は、経験的自我と身体を通しての自己分裂的自己統一としての二重性のもとに捉えられ、かつ当該主観すら歴史的・社会的・文化的に共同主観的同型化を経て形成されたものであるので、「真理性」の主張は、事実としての共同的な承認に支えられるわけだが、そう主張する廣松の判断の「真理性」を保証する審級がなければ、現状において、少なくとも廣松の主張を「妥当である」とする共同主観的一致は事実として存在するとは未だ言えないわけだから、何故かかる言明が正しいと言えるのかが不明となろう。

 

この点廣松は、自らの言説に、ある種の認識論的“階梯”を設ける。ある一定の階梯での主張と別の階梯での主張を弁証法止揚の概念を用いて、「学知的反省にとってfür uns」と「当事者意識にとってfür es」の区別を設け、この二層構造が螺旋を描いて上向していく論理を持っていくことで、この問いに応答しようとする。この区別は、例えば、

物象化と呼ばれる事態は、それ自体としては、とりたてて特異なことがらではない。それは日常的意識にとって物象的な存在に思えるものが学理的に反省してみれば、単なる客体的な存在ではなく、いわゆる主観の側の働きをも巻き込んだ関係態の「仮現相(quid pro quo=錯視されたもの)」である事態を指す。

のように用いられ、その論理は、弁証法的展開におけるan sich-für sich-für es-für unsの構制である。ところが同時に、この学知的反省の立脚点たるfür unsすらも相対化にさらされるところに、認識を可能ならしめる条件の歴史的相対化がなされていることが了解される。すなわち、

世界観の地平は歴史的・社会的に相対的であり、学問的な世界観といえども当代の「日常的生活体験」に根ざした「民衆的先入見」(マルクス)の大枠を端的に超出することは不可能であって、結局のところ“世人の日常的な世界了解の構図”を準拠枠frame of referenceにせざるをえない。

学知的反省の立場すなわちfür unsのWirといっても、歴史の中から抜け出ることは不可能であり、歴史的“パラダイム”の変遷の<外>に立脚点を持ちえず、その意味で歴史的相対化の力から自由ではない。「権利」として主張される「妥当的なgültig」真理は、歴史の過程において後の「通用的なgeltend」真理と承認される事実性を持ち得ると考える限りでの「真理性」であるので、逆に言うならば、自ら「妥当的なgültig」真理と呼称することは、歴史を俯瞰した上でこれが将来的に「通用的なgeltend」真理としての事実性を持ち得ることを予見している(少なくとも、予見できたかのように振る舞う)のでなければならないだろう。なぜならば、廣松からすれば「“妥当する真理”なるもの」は、現実に共同主観的同調性を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのだから。

 

歴史の中に拘束されるとしつつも、歴史の過程の上で、かくあるべき真理が将来的に「真理」として承認されうる事実性を持つことになるとの俯瞰的視点を同時に持たねば、この言明自身無意味と化す。だとするならば、認識の可能性の条件の歴史的相対性は、いかなる真理言明もアプリオリに無意味と化さしめるか、あるいは、あらゆるものを相対化する者の暗黙に前提されている特権的絶対性を、換言すれば、あらゆるものを歴史的相対化にさらし得る者の暗黙に確保された絶対的視点を含み持つと言えないだろうか。標準労働日を巡る問題を論じるマルクス資本論』第1部第3篇第8章では、

どちらも等しく商品交換の法則に保障された同等の権利と権利との数世紀にわたる闘争を決するのはGewalt(暴力)である。

と述べられている。なお、このGewaltを「暴力」ではなく「強力」という訳語を当てるのが日本共産党である。「マルクスレーニン主義」を「科学的社会主義」に、「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアート執権」に、「暴力」を「強力」にという風に言葉を誤魔化し、マルクスエンゲルスレーニンのテキストの翻訳を一斉に差し替えることで、何をしたいというのだろうか。「ソフト路線」の甘い仮面を被って無知な大衆をオルグしようとでも言うのだろうか。しかし、こうした態度からイメージされることは、これまでのマルクスレーニン主義者が、自分たちの都合に合わせて「歴史改竄」を厭わなかったという事実である。一早くスターリン批判を展開してきたと言うが、これも歴史的事実に反するし、ソ連崩壊時に「諸手を挙げて歓迎する」と強がっていたものの、直前までは、ゴルバチョフの「新思考外交」を批判していた張本人が日本共産党だったはずだ。スターリンレーニンを切り離して、スターリンだけを断罪し、レーニンを美化して救おうとしているが、果たして、そのような無理筋な理屈をいつまで通し続けられるだろうか、見ものである。今後、レーニンの行いがますます暴露されるようなことにでもなれば、その時は、またどうにかごまかしを図るに違いない。世界で初めて国家規模の「強制収容所」を設けた人物こそ、その人である。宮本顕治チャウシェスクとの懇ろな関係も、いつの間にか消えた。

 

いずれにせよ、正しさと正しさが二律背反の状態に立ち至った時、対立するものの高いレベルの同一性においてVersöhnungもされなければ、Vermittlungもされず、事を決するのは究極的にはGewaltであるということは、「真理」主張の闘争においても等しく当てはまるというのが、geltendとgültigとの闘争として描写する廣松渉の結論なのではないだろうか。仮に、そうだとするならば、廣松哲学は、「革命の哲学」になりうるという主張は、同時に「保守の哲学」にもなりうるという主張をも含意するはずである。

デボーリンとイリエンコフ

赤色教授養成学校哲学部での教え子マルク・ミーチンによる攻撃によって失脚したアブラム・デボーリンは、ロシア革命を経て建国されたばかりのソヴィエト社会主義共和国連邦哲学界を牽引する一人であった。ゲオルギー・プレハーノフの弟子であり、1920年代に戦わされた「弁証論-機械論」論争において「弁証論派」として頭角を現し、『マルクス主義の旗の下にPod znamenem marksizma』誌の編集長まで務めた。

 

ところが1930年代に入り、ヨシフ・スターリンによる独裁が強化されていくに連れて、暗雲が立ち込めることに。遂には、ミーチンをはじめかつての教え子から攻撃を受けて失脚した。だが、デボーリンの哲学そのものは、実質的には後々まで、ソヴィエト共産党公認のイデオロギーである「マルクス=レーニン主義哲学」として生き残った。

 

ミーチンらによるデボーリン批判は思想闘争上の批判という形式を装うも、具体的中身を見るならば、およそ哲学論争の名に値しない単なる権力闘争の際の「言いがかり」に過ぎなかった。元から何らの思想的内容も無いので、デボーリンの哲学を「拝借」せざるを得なかった結果、実質的な変更を加えられずに残ったというわけである。

 

デボーリンが攻撃された直接の理由は、デボーリンがマルクス主義における「レーニン的段階」の重要性を理解できなかったことや、理論を実践から切り離して理解していたこと、弁証法理解においてヘーゲル弁証法を引き写したに過ぎないこと等であった。こうした点が、「メンシェビキ化した哲学」だの「右翼日和見主義」として断罪の対象となったのである。

 

デボーリン派一掃の報は日本にも伝わり、ミーチンらによる「言いがかり」を真に受けた戸坂潤は、『現代哲学講話』において、「右翼日和見主義」であるとデボーリン派をなじり倒していた。新カント派から唯物論への移行過程で書かれたと思われる「空間論」や、日本の思想状況に対する批評「反動期における文学と哲学」等において、時に鋭利な分析を見せた戸坂でさえ、「宗主国ソ連」への忠誠のあまり、ことソヴィエト哲学となると、完全に目が曇らされていたことを示す好例である。

 

デボーリン失脚の真相は、「スターリンを最も優れた哲学者として位置づけるように」との党中央からの要請にデボーリンが承服しないことを奇貨として、虎視眈々と共産党内での出世を狙っていたミーチンがデボーリン攻撃に対するスターリンの事前了解を取りつけ、「哲学のレーニン的段階」を掲げてデボーリン批判を展開し、デボーリンに代わってソヴィエト哲学界に君臨せんとした個人的野心も大きく寄与しているように思われる。その功績を買われてか、ミーチンは、哲学博士号を取得した。とは言うものの、論文の書面審査も口頭試問もなされずに博士号が授与されるという不可解なものであったらしい。スターリンの威を借りて出世を遂げたミーチンは、一時的な例外はあれど、スターリン勲章を授与されるなど長くソヴィエト哲学界の親玉として君臨し続けた。正に、ロシア哲学の「暗黒時代」である。

 

ミーチンは日本の哲学界の招待に応じて二度訪日しているが、このことは当時の日本の哲学界において教条的なマルクス=レーニン主義に被れた左翼が一大勢力を誇っていたことを物語る一つのエピソードでもある。しかし、ミーチンを日本に招いた者たちが果たしてミーチンの哲学者としての業績や行動履歴をどこまで把握していたのか。ほとんど何もわかっていなかったのではあるまいか。

 

『近代日本の批評Ⅰ-昭和篇(上)』(講談社)において、蓮實重彦が戦前の福本和夫の理論的水準はその他の日本やモスクワのマルクス主義者より遥か上を行くにも関わらず、この連中はそれを理解できなかったと述べていたかと記憶するが、正しくその通りだろう(当時、第一級の知性であった福本和夫が、その思想的立場を異にする柳田國男と書物のやり取りをし合う仲であったことは知る人ぞ知る事実。その使いを仰せつかっていたのが、後の日本の裏社会で暗躍するフィクサーとして名を馳せた息子福本邦雄だったというのが面白い)。

 

そのミーチンによって、やれ「主観的観念論だ」やれ「メンシェビキ化された観念論だ」とレッテルを貼られた多くの哲学者や科学者はたまったものではない。一切の公職を解かれた者、著作の発表を禁止された者、シベリアに流刑になった者、果ては銃殺される者までいたというのだから、いかに当時の日本の左翼の認識がボケていたかが伺われる。

 

その本質において、マルクス=レーニン主義哲学とさほど遠い距離にはないと言っても過言ではない日本共産党系統の哲学者もまた、「異端」と見なす者に対してレッテル貼りして攻撃してきた。そうした姿勢を見るにつけ、旧ソ連時代の恐怖政治を思い起こさせてくれもする。今は、何食わぬ顔して「マルクスレーニン主義」という表現を改めて「科学的社会主義」という言葉を多用して、いかにも旧ソ連共産党の公認イデオロギーと無縁であるかのように装っているものの、何のことはない、昭和51(1976)年の第13回党大会まで「マルクスレーニン主義」の名称を頻繁に使用していたし、その宣伝に努めてきた事実は誤魔化せない。

 

このように、日本共産党は何かと都合が悪くなると、言葉を封印してそしらぬ顔を決め込むことがある。例えば「プロレタリアート独裁Diktatur des Proletariats」にしてもDiktaturの訳語は「独裁」であるのに、昭和48(1973)年の第12回党大会で突如「プロレタリアートの執権」という訳語を使うと言い出し、以後息のかかった出版社から出されたテキストは、党の方針で一斉に「執権」に差し替えられた。この点について、旧日本社会党最左派「社会主義協会」の理論的支柱である向坂逸郎らが『プロレタリアート独裁』(社会主義協会出版局)という小著を著して批判を展開したものの、今も「独裁」は「執権」に差し替えられたままである。

 

マルクスレーニンのテキストに登場するGewaltも「暴力」ではなく「強力」というよくわからない言葉に差し替えられている。「強力」という名詞化表現を造語してまで誤魔化そうとする共産党の小癪ぶりには毎度呆れさせられる。

 

これだけではない。今では「護憲」を叫んでいるけれど、憲法の欠陥を追及していたのは他でもない、日本共産党自身である。当時の首相吉田茂に対して野坂参三憲法9条の不条理を追及する質問を国会で行ったことは今ではよく知られているが、この点を問い質されるや、苦しい弁明に終始している。

 

今では「人権」を強調する論陣を張っているが、これだって、ちょい前までは寧ろ「人権」概念を批判していたはずだ。そりゃ当然と言えば当然で、「人権」が前提にする「人一般」の観念は現実の階級の存在を隠蔽する機能を果たす抽象化された個人という幻想を振り撒くブルジョアイデオロギーであるという考えが、左翼とりわけマルクス主義陣営では常識であったからである。だからこそ、久野収の対話篇形式で書かれた論文「市民主義の成立-一つの対話」が『思想の科学』に掲載された時、論壇や思想界に激震が走ったのであろう。市民運動の先駆となった久野の論文は、その意味で戦後民主主義を代表する論文だったのである。

 

党派闘争が激しかった頃には「御用イデオローグ」たちを動員して、梅本克己や黒田寛一吉本隆明や藤本進治や廣松渉へのレッテル張りによる激しい攻撃をし続けた。榊利夫『現代トロツキズム批判』(新日本出版社)や山科三郎『日本型トロツキズム』(同)、岩崎允胤『「新左翼」と非合理主義』(同)などがその典型である。

 

岩崎の著書は、「新左翼」の理論的支柱の一人をフランクルト学派のマルクーゼと見て、これに攻撃を加えているものの、当時の西ドイツではともかく少なくとも日本の新左翼運動にマルクーゼが決定的な影響を及ぼしたと見るべき根拠は乏しく、全く以ってピントがずれた批判しか展開できなかった。山科の著書にしても、廣松渉の哲学を「主観的観念論に堕した非合理主義哲学」だのと攻撃し、同じく先の岩崎允胤は、日本共産党中央委員会機関誌『前衛』や共産党系の新日本出版社から刊行されている雑誌『経済』における論文や対談などを通じて、「マッハ=ボグダーノフ主義」だの「妄動集団ブントのイデオローグ」だのと言いたい放題であった(何年の何月号かは失念したが、『経済』に掲載された「現代の思想的状況について」や平野喜一郎との対談「哲学と経済学の対話」などは特に酷い内容である)。

 

岩崎允胤弁証法現代社会科学』(未来社)や『中国の哲学とソヴェトの哲学』(啓隆閣)などの著書でも盛んに、プラグマティズム分析哲学あるいは確率論や集合論に対してまで唯物弁証法に反するものとして非難していた。そもそも分析哲学論理実証主義と解している時点で「誤解も大概にしてくれ!」と言いたいところだが、確率の解釈にしても、これまでに散々なされてきた科学哲学や数理哲学での議論をほとんど無視する形で(エヴェレット以後の「量子確率」については、当然に全く触れられていない。デイヴィッド・ウォレスやイタマール・ピロフスキらの登場はずっと後なので、年齢的に厳しかったかもしれないが)、統計的合法則性に還元してしまうという恐るべき単純化をし、その他の哲学の見解については「ブルジョアイデオロギー」とレッテルを貼って葬り去るという旧ソ連の体制イデオローグのような主張を繰り返すばかりであった。マルクス主義者の立場から実りある批判をしたいというのなら、ヘンリー・カイバーグやデイヴィッド・ウォレスあるいは最近亡くなったイタマール・ピロフスキなどの洗練された確率の哲学までは射程を及ぼさなくてもいいから(ウォレスは無理か。岩崎死後に注目されるようになったので)、最低でもThe Oxford Handbook of Probability and Philosophyに収録されている諸論文で紹介されている当該分野でのベーシックな知識を身につけてから論じてくれと叫びたいくらいだ。

 

こうした「思想闘争」が「マルクス・サークル」内で完結する分には支障はないだろうが、他に普及して「思想検閲」のようなことに至ると、取り返しのつかない悲惨な事態に陥ることは必至。第二第三の「ルイセンコ」擬きの連中が幅をきかせ真の研究者の活動が阻害され、学問の発展の芽がことごとく摘み取られてしまう。旧東側諸国で見られた教条的マルクス=レーニン主義に基づく弾圧によりどれだけの可能性が流産させられてきたのか。

 

こうした教条的マルクス=レーニン主義の犠牲にされた典型に、確率論や集合論を例に挙げることができる。

 

公理論的な確率論や集合論の草創期において、それらに対する「ブルジョア的」とのレッテル貼りによる攻撃は、ロシアの偉大な数学者コルモゴロフにも襲い掛かった。コルモゴロフは既に1922年時点で数学者としての国際的な名声を確立し、ロシア内戦の終わり頃には関数解析で重要な結果を生み出していた。1929年に博士号を取得し1931年にモスクワ大学教授就任。フランスとドイツへの旅行中に確率に興味を持ったという。

 

1874年から1884年までの一連の論文でカントルが代数的集合論を導入したことで数学にパラダイム・シフトが起こり、大部分の数学者はカントルの理論とその超限数の考えを受け入れたが、マルクス主義数学者のシュトリュークやブラウアーは物理的徴表のない「理念的な」実体に依存する証明を拒否した。

 

コルモゴロフの指導教官であったニコライ・ルージンは「抽象的すぎてブルジョア的である」と批判され、1936年にはその廉で有罪判決を受けた。コルモゴロフは自らにもそうした嫌疑がかけられないか敏感にならざるを得ず、当時のソ連数学界の意向を絶えず意識ながら研究を進める他なかった。こうした弾圧がなかったとするならばおそらくもっと幅広い領域でコルモゴロフの才能が活かされていただろうと想像すると、教条的なマルクス=レーニン主義哲学を信奉する哲学者たちの罪は重いと言わざるをえない。

 

それでもなおソヴィエト数学・物理学が一定の水準を誇っていたのは、皮肉なことに米ソ冷戦における軍拡競争が寄与していたのだろう。宇宙科学や情報科学の進展も、軍事抜きではありえなかった。量子力学草創期には、唯物弁証法に反する観念論として攻撃し、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスが登場した際も、「ブルジョア科学」と非難していたマルクスレーニン主義者たちであったが、それを無視しては米国との冷戦において敗北必至なので、どうにか唯物弁証法と矛盾を来さないように屁理屈を弄して折り合いをつけていたようだ(なお、あれほどサイバネティクスを攻撃していた旧ソ連だが、ちゃっかり情報科学研究所を設立していたわけで、日本より早かった。当時も今も大して変わらないが、日本の場合、旧通産省、旧文部省、旧科学技術庁、旧防衛庁と関係省庁が「縦割り」行政となっていたために情報科学や宇宙科学の発展の弊害になっていた)。

 

確率への従来の頻度主義的アプローチの問題は、物理学における確率への転換とともに明らかになった。1890年ポアンカレは、(宇宙が想定されているように)固定された総エネルギーを持つ有限空間に閉じられた系が最終的に初期状態に近づく必然性があることを証明したし、この結果は宇宙が「再発」することを意味すると解する者もいて、ニーチェの『悦ばしき知識Die fröhliche Wissenschaft』における「永劫回帰」の考えに関心のある人々によって取り上げられたりもした。物理学の問題は、時間の確率論の文脈において、この結果は時間が可逆的であり熱力学の第二法則が破られたという含意を持つのではないかと考えられたのだった。

 

何より、量子物理学の影響である。19世紀の終わりには、物理​​学における連続的な現象は決定論的であると見なされ、離散的な現象はランダムであると見なされていた。1877年に離散エネルギー状態が特定された結果、プランクの1900量子仮説と離散的時間と長さの考えが生まれた。この離散化は、物理法則が確率論的であり決定論的ではないことを示唆するとされた。

 

物理学からの確率の問題に取り組む最も洗練された試みは、論理実証主義者の「ウィーン学団」と関係するリヒャルト・フォン・ミーゼスに由来する。彼は観察可能な事実に基づいて確率の公理を定めようとした。結果は1931年にドイツ語で公開され、『確率、統計、真理』として英語版で普及した。これは、非決定論の原則に基づいて「ラプラスの魔」に関連する確率論的アプローチの正当化と見なされたのだった。

 

一方、経済学も同様に確率に対する従来のアプローチに挑戦していた。フランク・ナイトは『リスク・不確実性・利益』で、経済学が財の価値(価格)をコストと等しくする競争理論を発展させたとの見方をした。しかし、この平等は実際には「偶発的な事故」に過ぎなかった。経済問題における利益(および損失)は、「リスク」(つまり、既知の確率)に基づく分析に従わなかった根本的に不確実な事象(ナイト的不確実性)だったのである。ナイトは、不確実性が偶然性を支配しなければすべての価格がわかり、起業家は冗長になるだろうと主張した。経済学には「自由意志」はなくなってしまう。

 

同時にジョン・メイナード・ケインズは『確率論』の中で、場合によっては基本的な確率が推定される可能性があることを主張した。他の例では、序数の確率(さしあたり、ある事象が別の事象よりも多かれ少なかれ可能性が高いかの大きさくらいに思っておけばよい)を推測できたが、確率の概念に還元できない大きなクラスの問題があった。やがてケインズはナイトのように、彼の経済学の中心に不確実性を置くことになった。

 

フランク・ラムジーは論文「真理と確率」で、前提と結論の間に確率関係が存在すると主張したケインズに異議を唱えた。ラムジーは(賭け)市場を通じて確立できる「合理的信念の度合」という意味で「確率」を定義している。現代の経済学者が主張するように、ラムジーが合理的期待を正当化しているとする主張が正しいかどうかは再考する余地があるが、いずれにせよこのラムジーのアプローチは、ブルーノ・デ・フィネッティとレナード・サヴェッジを通じて知れ渡った。まとめると、これらのアプローチは主観主義者またはベイズ主義と見なされ、18世紀のベイズの定理との関係を示していた。

 

コルモゴロフは、確率を事象の測度と等置することによって確率の基礎を築いた。確率変数は事象空間から数値への写像であり、これは数学的期待値が確率測度に関して確率変数の積分になることを意味する。これに基づいてコルモゴロフは、頻度主義的確率概念の基本である大数の法則と主観主義的概念の基本であるベイズの法則の両方を導き出すことができた。

 

こうした一般化は、確率に対する物理学および社会科学のアプローチの統合に繋がるかもしれない。確率論や集合論の発展やその哲学的思考への刺激的な影響に対して、教条的なマルクス=レーニン主義は抑圧ないしは弾圧をする立場にあった。マルクスエンゲルスレーニンのテキストの内容と齟齬を来すものは許さざるものとばかりに、多くの哲学者は「異端審問官」として振る舞ったのだ。

 

弁証法唯物論」ないし「唯物弁証法」という呼称は、周知の通りマルクスはもちろんエンゲルスも使わなかった。この呼称が使われる契機となったのは、「ロシア・マルクス主義の父」と言われるゲオルギー・プレハーノフであり、デボーリンはプレハーノフに大きな影響を受け、その「唯物弁証法(Diamat)」のソビエト流解釈の存在論的基礎を提供したと言われる。

 

但し、ソビエト哲学に顕著に見られる「存在論化」傾向の理由は、フリードリヒ・エンゲルスと彼の「自然弁証法」の影響はもちろん否めないだろうが、それだけでなく元々ロシア哲学の傾向として、カントによる「コペルニクス的転回」以降の認識論の優位性の考えに対する拒絶があり、この反カント主義的傾向が革命後のソヴィエト哲学の存在論優位の傾向を用意した可能性があるように思われる。

 

ソヴィエト哲学の基礎となった存在論優位の傾向が徹底された唯物弁証法の教義的概念は、レーニンからよりもプレハーノフとデボーリンに多くを負っていると見る者もいるようである。プレハーノフとデボーリンにとって、弁証法とは「全体としての世界」について科学であり、この弁証法が「すべてが発展している」ことを継続的に強調したことを除いて、クリスチャン・ヴォルフの『神、世界、そして人間の魂、その他すべての事物についての理性的思考Der Vernünfftige Gedancken von Gott, der Welt und der Seele des Menschen, auch allen Dingen überhaupt』で展開された存在論のような、一種の形而上学と化してしまった。ヴォルフにとって、存在論は哲学の始原または形而上学に他ならず、その任務は存在の最も一般的な特徴を分析・記述することであり、存在論は、最も一般的な科学であるという点でのみ他の領域科学と異なっていた。つまり、物理学は物体の相互作用と運動を研究し、数学は更に抽象的で量自体についての研究であり、存在論は最も抽象的な科学であり一般的に「存在」そのものを反映しているというのである。

 

唯物弁証法を定式化したデボーリンは、このヴォルフの哲学に極めて近い距離にいる。1920年代の哲学的議論の間に発表されたデボーリンの論文では、弁証法についてのデボーリンの定義は存在論的アプローチに基づいていた。弁証法は、自然、社会、思考における一般法則と運動の形態の科学であり、実在を扱う真に科学的な方法を構成するのである。

 

マルクスエンゲルスによって考案されたマルクス主義の全体像は、デボーリンによれば、Engel’s i dialektičeskoe ponimanie prirodyで以下のように要約される。①法則に支配された関係の科学としての唯物弁証法は、一般的方法論、一般的運動法則の抽象的科学を構成する。②自然弁証法は、数学、力学、物理学、化学、生物学のレベルで構成される。③社会に適用される唯物弁証法史的唯物論である。デボーリンもヴォルフもともに、哲学は一領域を扱う学問分野ではなく全体についての「科学」であった。

 

どちらの場合も、科学と哲学は存在論的特徴を持ち、存在の異なる層が従属し、各層に存在する統一されたシステムを形成する。デボーリンの場合、最も抽象的な(したがって哲学的な)「科学」は、自然と社会、弁証法唯物論及び史的唯物論の科学である。マルクス主義哲学のデボーリン主義者の解釈は非常に影響力があった。

 

こうした哲学を抱くデボーリンからすれば、ジェルジ・ルカーチ『歴史と階級意識マルクス主義弁証法の研究Geschichte und Klassenbewußtsein–Studien über marxistische Dialektik』の立場は容認できないものに映った。ルカーチマルクス主義の「主観主義」的解釈を提示し、「自然弁証法」は一種の自然主義的な形而上学に過ぎないと喝破した。ルカーチからすれば弁証法は人間の主体を前提としているので、それは歴史と社会でのみ起こり得る。このルカーチの見解に対するデボーリンの批判は、Lukač i ego kritika marksizmaにある通り、ヘーゲルのEnzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisseの弁証法の定義を以って返すしかできなかった。デボーリンの弁証法は、対象の存在を前提とはしていない。それはむしろ存在論的性格を持った普遍的発展理論でなければならなかった。

我々は、有限なものすべてが変化し、破壊されることを知っている。その変化と破壊は、その弁証法に他ならない。それはそれ自身に他なるものを含むので、それは即自存在の境界を超えて、その反対に向かう。

 

散々指摘されている通り、エンゲルスの「自然弁証法」は、哲学として見た場合、決して水準が高いとは言えないものである。しかし、少なくともエンゲルスは、デボーリンやその他のソビエト哲学を担った者らに顕著に伺える存在論優位の主張などしていない。それどころか、状況によってエンゲルスは明確な「認識論者」の立場を採ってさえいたとも言える。

 

『反デューリング論Anti-Dühring』において「すべてを包括するもの」の理論を供することを豪語していたオイゲン・デューリングを批判する際、エンゲルスはそのような荒唐無稽な野心を嘲笑していたはずだ。エンゲルスによれば、デューリングの考えの最も滑稽な部分は、無神論者であるにもかかわらず我々が存在しているということを考える際、それを単独の思惟として考えていることを証明しようとする神学上の存在論的議論を利用していることであった。エンゲルスは世界の統一はその存在にあるのではないと述べ、我々の観察範囲が終了する時点を超えて存在しているか否かという問題は未解決の問題であると釘をさしていた。エンゲルスのこの発言は、カントによるヴォルフ批判と極めて類似してるだろう。エンゲルスが指摘したことは、認識プロセスと認識対象の独立性の問題であって、この点に関しては別にカントも否定していないことである。

 

とはいえエンゲルスは、ヘーゲルフォイエルバッハ以外の哲学者・思想家のテキストについてはさほど読み込んでいなかったようである。実際、エンゲルスは明らかにカントの哲学を、そのテキストに沿って研究したわけではない。というのも、カントの哲学を新カント派の立場と混同していると思われる節が所々見られ、そのためエンゲルスのカントに対する見方は極めて偏頗している。カントについての新カント派の解釈を額面通りに受け止めており、カントは不可知論者ないしは主観的観念論者であると考えていた。

 

『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie』を読むと、エンゲルスは認識論的問題を「実践」の問題についての理論に置き換えているとさえ言える。そこまでは言えるだろう。では、エンゲルス存在論優位の思想を抱いていたとまで言えるかと問われると、そうは結論づけられない。マルクス主義哲学における「存在論主義者」はプレハーノフやデボーリンであると見た方が正しいだろう。

 

デボーリンは、カントの超越論的統覚の考えに誤りを見つけたという。そして以下のように、Očerki po istorii dialektiki. Očerk pervyj. Dialektika u Kantaにて、カントを批判する。

主観的なエゴの内容をすべての人間に移すことは、重大な矛盾である。・・・超越論的統覚、一般的意識は、主観の境界を越える必要性を示すものに他ならない。

明確なことは、超越論的統覚が我々に意識の一般的な構造を与え、それがすべての個々の意識に適用できるというカントの考えを、デボーリンは明らかに誤解しているということである。デボーリンは、カントの超越論的統覚の考え全体をそれとはほとんど関係のない理論つまりカント以前の存在論的カテゴリーに分類されるものに結びつけているのである。

認識内における弁証法は対象が判断を表現することであり、その内容は対象から完全に独立している。判断では、私は常に自分の判断の境界を超え、あらゆる「私」から抽象化される。これは、「我思う」という思考が私の判断にまったく付随していないことを意味する。認識的判断は本質的に客観的な意味を持ち、外界や脱私的領域つまり私の表現ではない領域を指す。私の表現は主観的だが、表現されるものは客観的である。つまり外界を参照する限り、主観的であるという特徴はないのである。

そして、これを踏まえて、

認識行為の前に、既に我々の「自我」が客観的存在の一部であるため、客観的知識が可能である。

と結論づけている。言い換えればデボーリンは、私の表現には客観的内容と主観的内容の両方があり、心の中に客観的内容が存在することは、外界におけるその存在の十分な証拠であるという主張に同意している。デボーリンは、カントが超越論的統覚の行為について話す時、異なるのはこの行為自体であるということに気づいていない。「我思う」が物質界を構成するものの表現に反対しているからこそ、後者の存在は思考の行為から結論づけることはできない。我々の表現の中に、我々の外にあるものの存在の存在論的理論の真理を保証する客観的な証拠が既にあるというデボーリンの主張は、ウルフが既に行っていた主張と類似した形而上学である。

 

唯物弁証法の教義は、同様の存在論的仮説に基づいていると言える。しかし、デボーリンは、独自の存在論的視点をそこに付加する。デボーリンは、カントに対するヘーゲルの批判を利用して、カントのコペルニクス的転回は主観主義者の逸脱であると考えた。この時デボーリンの脳裏には、Conspectus of Hegel’s Book The Science of Logicにおけるレーニンの言葉すなわち

ある観念論者が別の観念論者の観念論の基礎を批判する時、唯物論は常にそれによって何かを獲る。

という言葉がよぎっていたのかもしれない。カントの「物自体Ding an sich」の概念自体を批判するデボーリンによれば、

カントの形而上学において、物自体と現象との間に弁証法的な関係は何もない。しかし、この裂け目は、不可避的に問題の弁証法的解決を準備するはずである。

 

デボーリンによる弁証法存在論的解釈の主な支持者である哲学者ヴァシーリ・トゥガリノフに代表される「レニングラード存在論学派」は、スピノザの哲学的遺産に目を向ける。スピノザ哲学は形而上学存在論として解釈され、マルクス主義哲学でも存在論的カテゴリーにおける物質の優位性を主張する文脈で参照されてきた。

 

しかし、スターリンの死後では、マルクスレーニン主義哲学内部で綻びの兆しが出始めてきた。1955年から始まった、モスクワ大学でのいわゆる「イリエンコフ-コロビコフ事件」は、マルクス主義哲学が存在論の教義であるか否かという問題についての論争の渦中で起きた。エヴァルド・イエレンコフとヴァレンティン・コロヴィコフは、認識論を強調しすぎたと非難された。

 

「認識論者」とのレッテルを貼られたイリエンコフは唯物弁証法存在論的解釈を批判し、ドイツの古典哲学特にヘーゲルの遺産の重要性を強調した。曰く「存在論」は本質的にカント以前の形而上学への回帰であり、「認識論」はロックとヒュームの認識論への回帰であると。「存在論主義」とは「ヴォルフに回帰する」方法である。したがって、ソヴィエト哲学の特徴の一つである「弁証法存在論化する」ことは、ドイツ古典哲学によってもたらされた成果さえ奪ってしまうことになる。イリエンコフのようなヘーゲル学派の見方は、ソヴィエト哲学の一般的な「存在論主義」との決別を意味していたのであった。

 

ヘーゲルによれば、カントは現象と物自体あるいは感性と悟性など未解決の対立に満ちた二元論的哲学を構築することによって多くのアポリアをもたらしたという。ヘーゲルは、これらの対立するものの高いレベルの「同一性」において「和解Versöhnung」させる。この観点から、カントのコペルニクス的転回による存在論と認識論の間の対立でさえ、主客の「調停Vermittlung」のプロセスの産物の絶対精神において解消される。そこでは、存在論と認識論は進化する精神の全体に従属する視点に還元されることだろう。

 

イリエンコフはヘーゲルの絶対的観念論そのものは拒否した。イリエンコフにとって、存在論と認識論の間の隔たりは、ヘーゲルのような絶対精神においてではなく、またそれを物質にパラフレーズしただけのソヴィエト的唯物弁証法哲学の全体性においてでもなく、人間の「社会的協働連関(この言葉は、廣松渉の言葉であるが)」つまりは「活動dejatel’nost ’」または「実践」の過程で実現される高次の「同一性」において解決される。優秀の誉高く、ソヴィエト哲学界を背負って立つ存在と嘱望されたイリエンコフは、公認イデオロギーから離れた地点に辿り着いた。当局から睨まれ弾圧を受けていたエヴァルド・イリエンコフは、1979年自ら命を絶った。この年、ソ連最高指導者レオニード・ブレジネフ共産党書記長は、アフガニスタン侵攻の決定を下した。

 

外国人投票権について

先週、米国のニューヨーク市議会は、永住権もしくは就労許可を得ている、同市に30日以上滞在する外国籍の者に対して、市長選及び市議会議員選挙における投票権を付与する法案を可決した。これによって、来年初めからニューヨーク市在住の要件を満たす約80万人の外国籍の者にも新たに投票権が付与されることになる。

 

現在の市長デブラシオは、今年いっぱいで退任。来年早々に、新市長に就くアダムズも賛成の意を示しているので、基本的には結果が覆ることはないとは思うが、すんなり行くかどうか。

 

こうしたことは、別にニューヨーク市が初めてというわけではなく、既に10ほどの市が、一定の要件を満たす外国人に対して、市長選挙や市議会議員選挙の投票権を付与している。但し、それはメリーランド州イリノイ州のごく一部の田舎町のことであって、ニューヨーク市のような大都市で認められたことは、やはり衝撃的である。当然、共和党は反発しており、ひょっとすれば法廷に争いが持ちこまれることになるやもしれない。

 

外国人参政権問題は国民主権の原理に抵触しかねないデリケートな問題なので、ともすれば感情的な対立にまで発展しやすく、そうであればこそ、なおのこと冷静かつ慎重な議論が必要となる。国政選挙に関しては、どこをどう解釈しても国民主権の原理に反するので、国民主権原理を憲法の大原則として採用している国々では、外国籍の者に対して参政権を付与すること自体が憲法に違反するとされるため、問題になりにくい(浦部法穂説のような特異な見解でも採らない限り、どうしても不可能との帰結になる)。

 

対して、地方参政権に関しては、有権者団を構成する主体が「住民」となり、この「住民」の意味をどう解するかについて複数の解釈があるため(「住民」というのは「国民」の部分集合であることが本来予定されているので、「住民」とは、当該自治体の区域に住所を有する日本国籍保持者を指すと解するのが、ごく自然な理解だと思われるけれど)、その是非をめぐって様々な意見が入り混じった争いが起きてしまう。

 

このように、ニューヨーク市議会でも揉めていた外国人投票権の問題は日本の一部自治体においても生じているようで、武蔵野市の外国人住民投票問題が、揉めに揉めているという。但し、武蔵野市の場合、ニューヨーク市とは違って、市長選挙や市議会議員選挙における投票権付与の是非が争われているのではなく(日本の場合、地方自治体の首長選挙や議会選挙における投票権を条例だけを以って付与することはできず、仮に平成7年最高裁判決における傍論部分を是とした場合でも、「法律」にそれを認める規定を設けなければ不可能であろう)、形式的には、その結果について法的拘束力を持たせない住民投票における投票権を、武蔵野市に3か月以上居住する外国籍の者に対して付与するのが是か非かという問題だ。

 

住民投票制度を設けている自治体は近年増えてきてはいるものの、まだ大部分の自治体は住民投票制度を定めておらず、ましてや、単に3か月以上居住しているという要件を満たすだけで、外国人に住民投票における投票権を付与する制度を設けている自治体となると、(調べたわけではないが)皆無に近いか皆無なのではないだろうか。ともかく、住民投票制度は二元代表制を補完するための制度であり、あくまで原則は二元代表制の方であるから、憲法地方自治法の趣旨を反映して、住民投票の結果には法的拘束力を持たせないとされる諮問型であるのが通常である。

 

では、なぜ武蔵野市の場合に揉めているのか探ってみると、どうやら政策決定プロセスがほとんど見えない中での唐突な市長による提案であったことに加え、制度の建付が悪すぎるという点が見られるからではないかと思われる(単に「外国人が嫌い」というだけの者やら、「在日韓国・朝鮮人を日本から叩き出せ!」と叫んでいるだけの排外主義者の主張は検討に値しないので、ここでは無視しておく)。

 

市長から提案されている素案によれば、例えば、住民投票結果に法的拘束力は認められないとしても、その結果について、市長や市議会は尊重する義務があるとされているので、たとえ形式的には拘束性がないと言っても、実質的には拘束力を認めたも同じことだとの批判を招き寄せてしまうだろう。

 

条例案に反対する意見の中には、憲法上の疑義からの批判と政治的理由からの批判が含まれるが、このうち前者に絞って軽く検討してみると、日本国民に限り地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有すると規定した地方自治法11条、18条及び公職選挙法9条2項の、憲法15条1項、93条2項適合性が争われた平成7年最高裁判決がまず参照されることだろう。もっとも、本件の争点と同種の争点とは言えない事案なので、平成7年判決の趣旨をどこまで斟酌するかによって見方が異なってくる。いずれにせよ、本事案を考えるにあたってどこまで参考になるかは、これ自体おそらく一つの議論になるに違いない。レイシオ・デジデンダイを構成しない「傍論」であるので、それを金科玉条のように扱うわけにもいかない。とはいえ、外国人地方参政権に対する最高裁の見解が記されているという点で、全く無視するわけにも行かないし、その見解の中に、本条例案の是非を考えるにあたっての重要な視点が含まれていると考えることもできよう。

 

平成7年判決は、理由中の判断において、これまでの最高裁判例と同様に、憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上、日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、在留外国人に対しても等しく及ぶものであることを確認した上で、但し、憲法15条1項に規定する公務員の選定・罷免権の保障が在留外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かという点について、同規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものに他ならず、主権が日本国民に存するものとする憲法前文及び1条の規定に照らせば、憲法国民主権の原理における「国民」とは、日本国籍を有する者を意味することは明らかであるから、同規定は日本国民のみが対象であって、在留外国人の権利を保障したものではないと判示している。

 

そしてまた、地方自治について定める憲法第8章について、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることから、憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、在留外国人に対して地方自治体の首長選挙や議会の議員選挙における選挙権を保障したものではない。これは、外国人の政治活動の自由が争点の一つとなった「マクリーン事件」大法廷判決の趣旨からも明らかである。

 

なお、当該大法廷判決では、「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動等」について、憲法21条1項の保障対象に含まれる政治活動の自由と言えども、こと外国人に対しては、これを保障するものではないということが示されていた。もちろん、「マクリーン事件最高裁大法廷判決で判示されたこの部分は、本判決主文を導く理由中の判断に含まれている。

 

但し、平成7年最高裁判決は、判決主文を導く理由中の判断には含まれない「傍論」において、憲法第8章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性を考慮するならば、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解される以上、在留外国人の中でも、永住者等、当該居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者について、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、特段憲法上禁止されているものではなく、そうした措置を講ずるかどうかは、専ら国の立法政策に関わる事柄であるとも述べている。

 

武蔵野市条例案の対象となっている住民投票制度は、通常の住民投票制度と同様、住民投票結果に法的拘束力が付与されていない諮問型住民投票制度である。といっても、素案によれば、その結果に対する尊重義務を市長および市議会に課しているのであって、たとえ形式的には自由な裁量を観念できることになっていても、実質的には法的拘束力を認めているのも同然という疑義が残る。その上、当該区域の住民の権利義務に関係する事項の是非をめぐる問題を解決するための政治的意思決定プロセスに参画させることは、広く解すれば、外国人には保障対象外であるはずの「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動」を認めることに繋がるとの危惧が生じる。

 

住民投票における投票権を在留外国人に認めたからと言って、直ちに違憲となるとまでは断定できないにせよ、民主主義における自己統治の観念(ここでの「自己」とは、「国民」自身である)を毀損する、外国人による「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動等」となりかねないことを考慮するならば、慎重の上にも慎重を重ねる必要があるだろう。

 

仮に、在留外国人に住民投票権を付与するとしても、少なくとも、「永住者等、当該居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」に限定した上で、かつ、住民の日常生活に”特に”密接に関係する地方公共団体の公共的事務の処理についての提案の是非を問う住民投票のみに限られるとするなどの一定の制約を課す必要があろう。かく解したからといって、長年当該自治体に住所を有し、その日常生活に関わる公共的事務の処理に特別な関心のある永住者または特別永住者は、ここで言う「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」に該当すると解釈されるので、例えば、日本のみにしか生活の拠点を持たない在日コリアンを排除することにはならないはず。

 

但し、特別永住者として扱われている在日韓国・朝鮮人に関しては、別の問題が生じることもまた確かである。というのも、地方自治体の諮問型住民投票制度の中での投票権に過ぎないので、同列に論じるわけにはいかないにしても、在日韓国人は帰属国である大韓民国の選挙において投票権を持つ身分であり、朝鮮籍の中でも朝鮮民主主義人民共和国を帰属国とする者は、朝鮮民主主義人民共和国公民として最高人民会議代議員選挙の選挙権を行使できる身分を持つ。そうすると、帰属国での選挙権を行使できるのに、日本でも住民投票制度の中での投票権とはいえ、これを行使できるというのは、「二重帰属」を認めるようなものであって納得できないという声が出てくるかもしれない(もちろん、国政と地方行政とは一応区別されるわけだが)。しかも、朝鮮民主主義人民共和国公民としての自覚ある者は、むしろ日本における選挙権要求は「同化」にあたるとして消極的な姿勢を示しているはずである。

 

ともあれ、できるだけ多種多様な住民の意見が反映された地方自治体の運営にすべく、二元代表制の原則だけでは掬いとれない住民意思を明確に問う住民投票制度を補完的に活用し、その中で、そこに生活の拠点を置く在留外国人の意思も参考意見として聞く必要があるとの意見にも一定の理がある。しかし、広く解すれば参政権に含まれるだろう住民投票権を権利として認めるとなると、事は国民主権の原理に密接に関係するだけに、性急な判断は将来にわたって重大な禍根を残す恐れもなしとは言えない。

 

だから、国民主権の原理を規定する憲法前文及び1条の規定に抵触しないようにしつつ、しかし同時に、当該自治体と緊密な関係を持つに至った住民の意思を幅広く反映させようとする地方自治制度の趣旨との調和を図ることのできるギリギリの範囲で許容される方法が模索されねばならない。しかし武蔵野市条例案では、3か月以上の居住を要件としているしているだけであって、これでは、およそ「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」とは言い難い者までも対象に含められてしまうという問題を抱える。

 

平成7年最高裁判決の傍論を斟酌するといっても、その内容は、あくまで「法律」で以って在留外国人に対して地方公共団体首長選挙および議会選挙における選挙権を付与しても直ちに違憲にはならず、したがって付与する・しないの問題は立法政策に委ねられるというものであり、「条例」によってそれが可能となるとは述べていない。この点を以っても、平成7年最高裁判決の傍論を根拠に、「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」とは言い難い者まで投票権者の対象に含める本条例案を肯定しようとする主張は、些か杜撰な主張ではないかと思われる。対象者をどこまでに限定するかは、もちろん解釈論上の様々な議論が行われるだろうが、少なくとも、3か月以上の居住を要件とするのみでは、制約としてほとんど無きに等しいと言うべきである。

 

市は本条例案を一旦撤回するべきである。それでもなお、外国籍の者に対して住民投票権を付与する必要があるというのならば、慎重な議論を尽くしたと言えるような状況になって後に、例えば、永住権を持つ者、少なくとも就労許可を得て長期滞在している者などに限定するなど一定の制約を付した案に改ためた上で議会にかければよいだろう。ともかく、本条例案はあまりに唐突で、かつ意思決定プロセスも不透明である。その上、制度の建付も杜撰である。やはり、一度撤回することが望ましい。

高天原とは

辛酉正月一日、太陽暦にして2月11日。日向を出立され、大和にたどり着かれたカムヤマトイワレヒコノスメラミコト(『古事記』と『日本書紀』とでは漢字表記が異なるだけでなく、その御名も微妙に変わるので、とりあえず『日本書紀』の記載をカタカナで表記しておく)が大和を平定し、橿原宮にて初代の天皇たる神武天皇として即位された日本建国の日である。『古事記』と『日本書紀』における東征過程の記述が微妙に異なっているのだが、変わらないのは、何れも即位そのこと自体についてはごくあっさりと記載されるにとどまっているということである。

 

記紀の記載とは別に、考古学の成果によると、紀元3世紀頃には、相当程度大きな勢力が大和地方に発生しており、それが邪馬台国と関係しているのかどうかはともかく、全国の土器が集まってくるほどの求心力を誇っていた大国の存在が徐々に明らかになってきている。なお、大和朝廷邪馬台国を連続的に捉えるのか否かという問題は、邪馬台国の比定地をめぐる論争、すなわち「邪馬台国論争」の中心争点になっている。本居宣長和辻哲郎あるいは内藤湖南の書き残した各々のテキスト、具体的には、本居宣長「馭戎慨言」、和辻哲郎『日本古代文化』、内藤湖南卑弥呼考」が邪馬台国比定地問題を扱っているし、さらに時代を遡ると、新井白石まで辿ることができる。現在もなお、未解決問題として、専門の研究者のみならず、アマチュアの歴史愛好家で、単なる趣味の域を超えたレベルの知見を持つ者もいるほどに、こうして江戸時代から戦わされてきた論争への興味は尽きない。

 

本居宣長は、邪馬台国について、次のように述べている。

筑紫の南のかたにていきほひある、熊襲のなどのたぐいなりしものの、女王の御名のもろもろのからくにまで高くかがやきませるをもて、その御使といつはりて、私につかはりたりし使也。

要するに、南九州の一部を勢力下に治め、勢い盛んだった熊襲か何かの、訳のわからん女酋長が、その名がシナにまで轟いていた皇国の女王の名声を利用し、自らがその女王であると詐称して魏に遣いを出していただけだと言うのである。邪馬台国とは、大和朝廷とは何ら関わりがない、単なる南九州の一部族集団だったと言いたいのであろう。

 

此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。

対して内藤湖南は、この宣長の見解を上記のように「破天荒」として一蹴し、宣長の見解を現代的な意味で「継承」しているとみなした白鳥庫吉「倭女王卑弥呼考」に見られる九州説を批判して「卑弥呼神功旧説引戻論」を立て、畿内説それも大和に比定地を求める見解を提示した。さながら古代史・考古学における東京学派対京都学派といった様相である。

 

和辻哲郎も『日本古代文化』において、この「邪馬台国論争」に首を突っ込んでおり、「魏志倭人伝」と記紀の記述の共通点を探り当てる方法に基づき、邪馬台国の比定地を九州に求めた。但し、和辻の場合、邪馬台国大和朝廷を断絶したものと見るのではなく、邪馬台国は勢力を拡大し、徐々に大和へと勢力を延ばして行ったとする見解、すなわち「邪馬台国東遷論」を提起した。「邪馬台国東遷論」にはいくつかのバリエーションが存在するが、和辻哲郎によると、天照大神卑弥呼に、高天原邪馬台国として解釈し、記紀の記述に基づきつつ、邪馬台国大和朝廷とを連続的に捉えるのである。

 

以上、この三人だけみても、内容はバラバラ。況や、その他論者の見解を見渡せば、邪馬台国の比定地をめぐって百家争鳴の様相である。その主張も玉石混交。文献学的、考古学的な裏づけに一応基づいたそれなりに堅実な立論もあれば、ほとんど思い込みの類の珍説・妄説も数多氾濫し、それら珍説・奇説・妄説の一々を相手にしていては、いつまでたっても前には進まない。

 

そんなこんなの論争状況でありながら、それなりの学者・研究者の唱える有力な説は、概ね二分されてきた。一つは、畿内説、なかでも大和に比定地を求める見解。この見解は、大和朝廷邪馬台国の延長線上の国と位置づける見解に繋がりやすい。もう一つは、北九州地方のどこに置くかどうかで様々な見解に分かれるものの、北部九州にあったと解する九州説である。邪馬台国問題に対する基本的なアプローチとしては、言うまでもなく文献学的アプローチと考古学的アプローチが考えられるが、文献学的アプローチに傾斜しがちであった過去の邪馬台国論争は考古学の発達にともない、徐々に考古学的アプローチの占める割合が相対的に高まってきた。

 

とりわけ、この時代にはこれといった文字史料は残されていないわけだから、その分考古学的知見に一層頼らざるを得ない。最近の考古学的知見により、俄然支持者が増えてきた畿内説であるが、年代測定の見方の変化にともない、大和で発掘された遺跡が従来思われてきた時代より更に遡られるのではないかとされて以降、特に纏向周辺が邪馬台国の比定地として相応しいのではないかとの見解が学界の中でも有力説を形成している。この問題は、単に邪馬台国の所在地をめぐる議論に収まらず、後の大和朝廷との連続性を考えるならば、国家成立史に深くかかわる問題であるので、歴史学・考古学上の一つの論争で済む話ではない。

 

邪馬台国については根拠薄弱な論拠しか示さなかった本居宣長であるが、それまで読めなかった『古事記』を厳密な文献学的考証に基づいて解読した『古事記伝』に見られるように、本居宣長実証主義的な方法論を身に着けていた、賀茂真淵の薫陶を受けた偉大な学者でもあった。その宣長が、弟子にせがまれて、その学問方法論として『うひ山ぶみ』を執筆した。これは、学問をするための心構えを説くものであるのだが、『古事記』などの古典を読む際の心構えとしても理解すべきでろう。そうしなければ、決して宣長を読むことはできないし、また読んだところで得られるものは少ないだろう。

道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし。

小林秀雄本居宣長』(新潮社)は、こうした姿勢に貫かれた著作であり、だからこそ、宣長を論じるまず先に、桜についての話から説き起こすことができたのだと思われる。現在の宣長研究の水準から見た場合、所々誤りも散見されるものの、そうした欠点があろうと、なお尽きせぬ魅力をたたえている名著である。

 

本居宣長は、ことのほか桜の花を愛した。現在の日本人も、桜を愛でる習慣を持っているし、そんな習慣を、谷崎潤一郎細雪』は流麗な文体で綴っている。京都の平安神宮神苑の枝垂桜を見物する有名な一節である。

古今集の昔から、何百首何千首とある桜に関する歌、-古人の多くが花の開くのを待ちこがれ、花の散るのを愛惜して、繰り返し繰り返し一つことを詠んでいる数々の歌、-少女の時分にはなんという月並みなと思いながら無感動に読み過ごして来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただ言葉の上の『風流がり』ではないことがわが身にしみてわかるようになった。

不思議なことに、『万葉集』には桜が登場することはほとんどない。『古今和歌集』になっても、意外に少ないと思われるのではないだろうか。頻繁に登場し出すのは、後の『新古今和歌集』からであろう(宣長の新古今注釈の書『美濃の家つと』は、その源氏物語論である『玉の小櫛』や『紫文要領』ほどには知られていないが、素晴らしくも謎に満ちた書である)い。吉野の山桜(現在の日本で知れ渡っている桜の大半は染井吉野であって、本居宣長の愛した桜ではない)をこよなく愛し、吉野山へ幾度となく参じた本居宣長は、上千本・中千本・下千本と山一面に咲き誇る、この吉野山について次の有名な歌を残している(谷崎潤一郎吉野葛』においても、「義経千本桜」の挿話がある)。

 

漢国にはない我が国固有の桜に対する、ある種異様なまでの執着を見せた宣長は、(小林秀雄本居宣長』の冒頭に紹介されている通り)自分の墓に桜の木を植えてくれと、遺言書に指示していたのだが、その宣長の「よし野山の歌」はこうある。

神代より たうとき山と いてましの 宮しかしけむ みよしのの山 さくら花 訪ねて 深く入る山の かひありけなる 雲の色かな 櫻花 かつ咲きそめて ここかしこ 霞色つく 美吉野の山 見渡せば 花よりほかの 色もなし さくらに 埋む み吉野の山 咲き続く さくらの中に 花ならぬ 松めずらしき み吉野の山 あかさりし 花の名残りと みよしのの 山は青葉も 懐かしきかな み吉野の 花は日数も かぎりなし 青葉の奥も なほ 盛りにて。

 

日本書紀』は明確な漢文で綴られているものの(大和言葉に関しては、漢語に訳すのではなく、音を漢語に当てているわけだけど)、一方の『古事記』はと言えば、とてもまともな漢文とは言えない奇妙な文章になっており、宣長より前は、読めない文献であると言われてきた。そのためか、『日本書紀』の写本は腐るほど存在するのに対して、『古事記』の写本はほとんど存在しない(確か、愛知県のどこぞの寺で発見されたもののみではなかったか)。だから、『古事記』は偽書であるという見解も存在するくらいである。いずれにせよ、賀茂真淵との出会い、そして「松阪の一夜」から、三十年にもわたる研究の末に出た畢生の大業『古事記伝』によって、後世の我々は、漸く『古事記』を読めるようになった。小林秀雄の言うように、「大変ありがたいこと」である。

 

その序文にあたる『直毘霊』には、

そもそも此天地のあひだに、有りとある事は悉有に神の御心なる。・・・そも此の道はいかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、神祖伊邪那岐伊邪那美大神始めたまひて天照大神の受けたまひもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故是以神の道とは申すぞかし。

とあり、これを受けて、『古事記伝』には、

人は人事を以て神代を議るを、我は神代を以て人事を知れり。・・・凡て世間のありさま、代々時々に、天下の閲かる大事より、民草の身々のうへの事にいたるまで、悉に此の神代の始めの趣きに依るものなり。・・・古へより今に至るまで、世の中の善悪き、移りもて来しさまなどを験むるに、みな神代の趣に違へることなし。

と記す。この世に生起する出来事は、須らく神代に生い立った出来事にほかならず、したがって、この世の森羅万象すべてが神の御心なのである。そう、宣長は喝破する。ここで問題なのは、神代とは何か、神とは何かということであり、神代や高天原を現在から遡及した時点として、また、この世に一定の領域を占める空間上の地点して解する常識的な見方を宣長は排除する。『古事記伝』には、こう書かれている。

高天原は、すなわち天なり。然るを、天皇の京を云ふなど云る説は、いみじく古への伝へにそむける私説なり。凡て世の物知人みな漢意心に泥み溺れて、神の御上の奇霊きを疑ひて、虚空の上に高天の原のあることを信ぜざるはいと愚かなり。かくしてただ天と云ふと、高天の原と云との差別は如何ぞと云に、まず天は、天つ神の坐します御国なるが故に、山川木草のたぐひ、宮殿そのほか万つの物も事も全御孫命の所知看此の御国土の如くにして、なほすぐれたる処にしあれば、大方のありさまも、神たちの御上の万づの事も、此の国土に有る事の如くになむあるを、高天の原としも云ふは、其の天にして有る事を語るときの称なり。

 

産巣日は、字は皆借字にて、産霊は生なり。其は男子女子、又苔の牟須など云牟須にて、物の成出るを云ふ。日は、書紀に産霊と書れたる、霊の字よく当れり。凡て物の霊異なるを此と云。高天の原に坐します天照大御神を、此の地よりみさけ奉りて、日と申すも、天地の間に比類なく、最霊異に坐すが故の御名なり。されば産霊とは、凡て物を生成すことの霊異なる御霊を申すなり。あらゆる神たちをみな此神の御児なりと云むを違はず。神も人もみな此神の産霊より成出づればなり。されば世に神はしも多に坐せども、此の神は殊に尊く坐々して、産霊の御徳申すも更なれば、有るが中にも仰ぎ奉るべく、崇き奉るべき神になむ坐ける。

 

ここで宣長は、高天原をこの世界の特定の場所とは考えていないし、神代を現在の点として表象される線型的時間イメージの端点として措定してもいない。また、現在とそれが基底としてもたざるを得ないそれとともにある共存せる過去ととして把握される時間像をも同時に退けている。それとは別の時間把握がなされていることに注目すべきであろう。「つぎつぎとなりゆくいきおひ」を歴史意識の「古層」として取り出す丸山真男に反して、本居宣長は『古事記伝』において、正にこうした丸山真男の把握の仕方を明確に否定していたことは、注目に値するだろう。宣長にとって、神々は時間的順序にしたがって生まれてきているのではなく、一挙に与えられているものでなければならない。

 

神代とは、過去でもありかつ現在でもありかつ未来でもある。一切は、「永遠の今」での出来事として「とうの昔」に起こっており、それが「いつ」・「どこで」起こったのかと問うことが全く無意味な問になるのだ。そしてこの時間・空間の捉え方に対して視線を向けるとすれば、それは出来事が次々とある順序にしたがって出来する考えをも退けていることが指摘される。そのような考え方は、むしろ伊藤仁斎が出来事の逐次的継起としての時間という考えを示していた。また、自ずからなる流れとしての時間でもない。それは、「天地おのづからなる道」である老荘思想の一種だとして、宣長は否定していた。宣長が、仁斎に示された儒者の考えも、老荘思想のそれをも退けた上で、敢えて「ムスビの神」を持ってきている意味を理解しなければならないだろう。宣長は、注釈にて以下のように指摘する。

是をよく弁別て、かの漢国の老荘などが見と、ひとつに思ひまがへそ。

一体、なぜ「ムスビの神」の媒介を宣長は必要と考えたのか。これを物活的自然観とみることはできない。単なる物活的自然観というならば、その発想の根底は、仁斎のそれとさしたる差はないことになる。しかし、先述の通り、宣長は仁斎の考えるような自然の捉え方をしてはいなかった。これは、いまだ解明されていない謎のままである。

危険なリベラリスト

我が国の国際政治学は、米国のそれとは全く異なる様相を呈している。特に米国では、大学のみならずシンクタンクが充実しているので、国際の政治経済状況に関する論文やレポートが飛び交い、金融業者の中でも、カントリー・リスク分析のために、その類のものを読む機会がある。それを読む限り、日本の国際政治学の状況が、いかに歪な状況であるかが理解できる。

 

戦後日本の国際政治学は、坂本義和に代表される「理想主義」の側と、高坂正尭永井陽之助に代表される「現実主義」の側に主として分かれていた時期が暫く続いた。いずれも、米国の国際政治学の主流とは異質であり、東西冷戦の二極構造がアカデミズムにも反映された状況が、日本において具現化されていたと言ってもいいだろう。例えば、高坂正尭永井陽之助などは「現実主義」と括られて理解されているが、米国の国際政治学における古典的リアリズムやネオ・リアリズムとは一部しか共通性を持たないし、「理想主義」と括られる坂本義和リベラリストであるかと問われれば、明らかに性格を異にする。

 

そもそも、「非武装中立」を叫んでいる者など、米国の国際政治学の世界には皆無に近い。坂本義和が一般読書人向けに雑誌「世界」に寄稿した論説を読む限りは、「このおっさんはアホなのか?」という感想を持つ者も多かろうが、しかし、坂本はシカゴ大学にて、攻撃的リアリズムの国際政治学者ハンス・モーゲンソーの下で学び、のみならず、保守思想のエドマンド・バークについての学術論文をものしていたたけあって、どうも、単なるアホとして片づけられるような人物ではなさそうだし、坂本が非武装中立をその学問的知見から支持したとも考えにくい。当時の「進歩的文化人」をはじめとする左翼の大半がそうだったように、むしろ戦後日本の知的空間を覆っていた左翼的イデオロギーに引きずられてしまった可能性が大きい。いずれにせよ、坂本の頭の中がどうなっていたのか、黄泉の国から引っ張り出してきて尋ねてみたいところだ。

 

米国の国際政治学の世界で、いわゆる「リベラリスト」と括られている代表的な存在は、我が国でも一般によく知られているジョセフ・ナイJr.やジョン・アイケンベリーである。学者ではない実務家だが、「知日派」ということになっている元国務次官補リチャード・アーミテージにしても、少なくともリアリストではなく、どちらかと言えばリベラリストに属するだろう。共和党がリアリストで、民主党リベラリストであるというわけでは必ずしもないのだ。

 

確かに、民主党の方がリベラリストの比率は高いと言えるが、共和党にもリベラリスト外交政策を主張する者は多い。ただ共和党には、リベラリストと歩調を合わせるネオ・コンサーバティブつまり「ネオコン」も含まれているので、より錯綜している。

 

しかし「ネオコン」は、元はと言えば、民主党だった者たちが多く、それ以上の左翼過激派だった者も含まれる。「ネオコン」の代表格であるポール・ウォルフォウィッツはケネディ政権の熱烈な支持者で民主党最左派に属していたし、その師の一人アルバート・ウォルステッターに至っては、元トロツキストである。

 

対して、リアリストとして知られる学者は、先のハンス・モーゲンソーはじめ、ケネス・ウォルツ、ロバート・ギルピン、スティーブン・ウォルト、ロバート・ジャービス、ジョン・ミアシャイマーである。実務家では、ジョージ・ケナンドワイト・アイゼンハワーが代表的(ヘンリー・キッシンジャーをリアリストに分類する向きもあるが、キッシンジャーに関しては若干疑問符が付く)。

 

興味深いことは、リベラリストこそが、米国の一極的覇権構造の維持に拘り、あるいは覇権拡張を目論み、世界中で戦争を引き起こしてきたという事実である。昔から「平和主義者が戦争を起こす」と言われてきたが、米国の外交軍事政策を顧みると、正にその言葉があてはまることが理解できよう。

 

古くは、日本との開戦に消極的であったリアリストの意見を押し切って戦争に踏み切り、その渦中で、東京や大阪など数多の都市に焼夷弾の「雨」を降らせたり、広島と長崎に原子爆弾を投下して、一般人を大量虐殺したのはフランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマン率いる民主党政権であったし、ベトナム戦争を始めたのも民主党ケネディ政権である。その後継のリンドン・ジョンソンは更に事態を泥沼化させ、見境なく枯葉剤を散布して後遺症に苦しむ者を生み続けた。

 

中東やアフリカ諸国の大混乱を引き起こしてきたのも、クリントン政権オバマ政権といった民主党政権であった。特に、オバマ政権は、オバマはじめ、国務長官を務めたヒラリー・クリントンが何をやってきたのかを観察すれば、リベラリストこそが世界に混乱の種を蒔いてきたことがはっきりするだろう。

 

バラク・オバマは「核なき世界」を標榜し、これ見よがしに広島や長崎の原爆犠牲者追悼式典などに大使を派遣したり、オバマ自ら慰霊訪問をし被爆者団体の代表者との接触するなどの白々しいパフォーマンスをし、単純な日本人がそれを喜ぶという滑稽を見せつけられたが、なんのことはない。米国のreassurance strategyにまんまと引っかけられただけのことである。

 

そんなアホな日本人をからかうかのように、オバマは同時に、今後20年間を通して、約100兆円もの予算を費やし新しい核兵器開発に投入する政策決定を下し、更には、米国に好ましからざる者の暗殺を命じる大統領令に署名した者である(オバマが署名した数は、これまでの歴代大統領の暗殺命令の合計より多い)。

 

何のことはない。米国が、広島長崎の式典に大使を派遣したり、反核団体への支援をし始めたのは、最近のこと。そのきっかけは、北朝鮮によるミサイル発射実験や核兵器保有宣言である。日本の周りを北朝鮮中華人民共和国、ロシアと核保有国が取り囲む中、まともな安全保障論を考えるなら当然、我が国の核武装が議論されても不思議ではないはずで、そうした声が高まることを警戒する米国が、日本の反核テーゼを放棄させたくないために、一方では被爆者団体や反核団体に大使館職員を通じてコミットするようになり、他方で核武装の議論を封じ込めようと躍起になっていた(政権中枢にいながら、核武装の議論を検討するべきとの意見を表明した中川昭一は、案の定、潰された。興味深いことに、当時「中川バッシング」を最も強力に展開したのは、反核団体や左翼陣営の者ではなく、米国の息のかかった自民党の連中だったという点である。左翼の連中が何を騒ごうと、何の影響もない)。

 

米国の無謀な一極覇権主義に拘るリベラリストに対して、米国の経済的覇権の相対的低下によってその圧倒的なヘゲモニーを維持することが不可能になりつつある現実を直視し、無謀なベトナム戦争イラク戦争などに反対してきたのはリアリストであった(ついでに言えば、対日開戦ですらリアリストは消極的であった)。旧ソ連に対して圧倒的戦力格差を誇った時期に、米国ではソ連への先制攻撃論が俄に叫ばれるようになったが、その声に対して自制を呼び掛けたのは、リアリストのアイゼンハワーであった。

 

防御的リアリズムか、それとも攻撃的リアリズムに立脚するかに関わらず(ちなみに僕は、防御的リアリズムに大いに共感する)、先述のロバート・ギルピン、ケネス・ウォルツ、スティーブン・ウォルト、ロバート・ジャービス、ジョン・ミアシャイマーは、一貫して戦争という手段に訴えることを反対してきた。別に、リアリストが平和主義者であるというわけではない。また、いついかなる際にも軍事オプションをとるべきではないと主張していたわけではない。いざとなれば軍事オプションがとれるという状況を維持しつつ、それでいて軍事オプションはあくまで「最終手段」として謙抑的に行使されるべきものであって、都合よく振り回せる「玩具」ではない。

 

リアリズムに立脚すればこそ、長期的に米国の覇権低下を加速させることになる無益・無謀な戦争を諫めてきたということである。イラク戦争は合理的理由のない無謀な戦争であり、現に、リアリストが警告した通り、その後の中東情勢は一層混乱の度を増している。その意味で、ナイやアイケンベリーなどのリベラリストは、結局イラク戦争を支持し、その馬脚を現したと言える。

 

イラク戦争は、共和党ジョージ・ブッシュJr.の政権時に起きた戦争だが、実はイラクの体制を軍事的・強制的に変革する「イラク・レジーム・チェンジ」計画は、その前のクリントン政権の時に着々と進められていたことが判明しており、「9.11」はそのトリガーとなっただけのことである。ブッシュ政権時に注目されたハースやウォルフォヴィッツなど「ネオコン」と呼ばれた連中は、一見リベラリストの見解とは異なるように見えるが、実際は彼らの外交政策は米国一極覇権主義をとるリベラリストと歩調を合わせていたし、沿革的にも元トロツキストという最左派の連中であった。

 

リベラリストや「ネオコン」に対抗する言説は、主として伝統的なリアリストたちによってなされていたという事実を直視するべきだろう。リベラリストや「ネオコン」は、米国の措かれた事態を冷静に分析するよりも前に、是が非でも米国の世界覇権を維持・拡張することでアメリカン・ヘゲモニーによって世界は平和になるという誇大妄想に捉われて、合理的判断を犠牲にした。結果的に、米国のヘゲモニーはますます減退し、更に無謀な戦争とその後の混乱によって多くの命が奪われ、今も奪われ続けているのである。

 

ある意味でイラク戦争は、国際関係の研究者としての言説の信用度や深浅度を判定する「リトマス紙」のような役割を果たしたと言えるのかもしれない。日本で「現実主義」の立場にあると自他ともに認識する者の多くがイラク戦争に賛成してきたし、その際、相当無理筋な屁理屈を弄して米国の行動の合理性と正当性を擁護する活動に勤しんでいたことを想起しよう。米国の「保護領」に甘んじることこそがリアル・ポリティクスに基づく現実的な選択であると言わんばかりの言動を続けてきたわけだ。

 

北岡伸一田中明彦中西寛、坂本一哉、村田晃嗣など、こぞって盲目的と言える対米追随外交を宣伝してきた。その主張は、アングロ・サクソンと懇ろにやっていけば済むと言っていた岡崎久彦田久保忠衛のような従米派のそれと変わらなくなっていた。しかし、こうした言説は、本来のリアリズムとは言わない。

 

こうした主張をする者は、実は、米国の「知日派」とされている者に踊らされた主張をしてくれる者として表向き歓迎されているとしても、国務省国防総省のアジア担当者からは、米国の立場を率先して宣伝してくれる好都合な人間としてだけ見られている。リベラリストとされる国際政治学者や、「知日派」とされている外交担当者が、実は、最も日本を軽蔑してきたし、ことあるごとに日本の台頭を抑えてきた。

 

逆にリアリストは、殊更日本に関心があるわけではないし、日本贔屓というわけでもない。ただ、日米両国の利益が常に一致するとは限らず、時には対立する局面もあるし、将来的に国際政治のパワーバランスが変化して米国の北東アジアでのプレゼンス後退という事態に至れば(その可能性が濃厚だろう)、ますます国益の対象の不一致は増すわけだから、日本外交が対米追随姿勢に固執することは、むしろリスクを高めることに繋がりかねない。

 

現時点では、日米同盟を基軸とする方向性は是としても、しかし同時に、日米同盟への過度な思い入れを止めて、もう少しフリーハンドの度合を高めた自立的外交政策を模索しなければならないと言う。そのためには、可能な限り、自国のことは自国で防衛するための実力が伴う必要がある。軍事力の裏づけのない外交などというのは、所詮は「絵に描いた餅」、あるいは「車輪の片方のない車」でしかないので、対米従属的地位からの脱却を図りながら同時に中華勢力圏に飲み込まれることを阻止するためには、日本は、嫌が応でも自主防衛能力の向上を急がねばならず、その際は、最低限の反撃能力を確保しておくべく、必要最小限の巡航核ミサイルを自国の意思に基づいて発射できるだけの体制を構築すべく、日本の核武装の選択も視野に入れざるを得ない。

 

ところが、日本の「現実主義」と呼ばれるリアリストならぬ国際政治学者や安全保障論を研究する者の中には、米国が日本の自立に反対していることを知ってか、日米同盟の重要性だけ強調し、自主防衛能力の向上を含めた対米自立の戦略については語ろうとは決してしないし、むしろ逆に、そうした自立を求める言説を潰しにかかろうとさえしてきた。

 

この観点から興味深い著作がある。安全保障論の専門家で、MIT教授のバリー・ポーゼンによるRestraint: A New Foundation for U.S. Grand Strategy., Cornell UP.である。MITの政治学部、特にその国際関係プログラムは、今や米国で最も優れた部門の1つを形成している。ポーゼンは、米国のグランド・ストラテジー大戦略)の研究者として著名である。米国は、東西冷戦終結後の大戦略を立て直す作業に従事したが、残念ながら、バリー・ポーゼン、ハーベイ・サポルスキー、ユージン・ゴールツ、ダリル・プレスら防御的リアリズム(防御的リアリズムの巨星は、あのケネス・ウォルツだ)に立つリアリストの理論は採用されず、リベラリストの主張する米国の一極覇権構造の拡張路線が選択され、今日の大混乱に至っている。

 

ポーゼンらは、米国の一極覇権構造が安定的に推移するとは考えず、むしろ世界を不安定化させ、米国の力はさらに低下することを”Come Home, America”で警鐘を鳴らしていた。彼らは、伝統的な不介入主義のアプローチを想起させる「自己抑制」の大戦略が必要であると主張していた。

 

ポーゼンは、現在の大戦略の議論を、リベラリスト覇権主義とリアリストの抑制主義という2つの主要なライバルの間にあるものとして描く。リベラリスト覇権主義は、リベラリズムと国家安全保障のために、米国の一極覇権構造に基づく世界支配を断固として維持することを目的とした大戦略である。この大戦略は、冷戦終結以来、支配的な米国の大戦略となっており、リベラリストと「ネオコン」双方の主要な外交軍事政策設定のコンセンサスである。この大戦略に対して、ポーゼンは、「不必要で、逆効果で、費用がかかり、無駄である」、そして最終的には「自滅的」であると批判する。

 

本書の前半部分は、リベラリスト覇権主義の内容と、それが如何に米国の最終的破局に繋がるかを滔々と説明している。後半部分は、覇権主義に対するリアリストの抑制主義について説明する。その中で、抑制主義が、米国の戦略的位置に関する事実関係の説明を通して合理的戦略であることを論じる。米国は非常に強力な「パワー」であり、地政学的に見て、海に囲まれ、周辺諸国は弱い「パワー」しか持たず、米国の脅威となる国は存在しない。社会主義国キューバの存在は、ソ連消滅後は今のところ米国の脅威にはならない。

 

ポーゼンによると、リベラリスト覇権主義の2本の柱は、第一に、「他のすべての大国と比較して米国の大国の優位性に基づいて構築されており、その優位性を可能な限り維持することを意図している」ため覇権的であるということ。それは、潜在的な挑戦者が米国と競争しようとすることさえ思いとどまらせ、世界中の米国が支配する安全保障関係を管理することを思いとどまらせる圧倒的な軍事力を構築することによってこれを達成する。

 

第二に、リベラリスト覇権主義は「リベラルである」。それは、「西洋社会一般、特に米国社会に関連する様々な価値観を擁護し促進することを目的としているからである」。特に、このアプローチが、「破綻国家、ならず者国家非自由主義的同盟国」を、米国と世界平和への脅威の主な原因として特定している。

 

要するに、これらのウィルソン主義者は、「米国は、我々のような国で満たされた世界でのみが真に安全でありえ、米国がこの結果を追求する力を持っている限り、そうすべきである」と信じているのである。

 

ポーゼンは、このリベラリスト覇権主義戦略は冷戦後の時代にはあまりうまく機能しておらず、変化する未来の世界では「ますます機能しない」と主張している。リベラリスト覇権主義は、血と財の面で非常に高額であり、今後も高額になる。米国は1992年以来、4つの戦争を戦い、これらの紛争と軍隊の維持に数兆ドルを費やしてきた。自由主義の覇権は、米国との完全なバランスをとっていないとしても、他の同盟国に対して米国への協力を促し、NATOや日本などの同盟国がより貢献できる時には「安い乗り物」に動機づけられてきた。米国の安全保障への取り組みは、コストに見合わない。

 

さらに悪いことに、リベラリスト覇権主義は、フランス革命以来のアイデンティティ・ポリティクスによってもたらされた困難を適切に考慮しておらず、したがって世界を形作るための米国の努力は国、民族、宗教的に動機づけられた力によって覆される。また、リベラルなヘゲモニストが支援する「人道的介入」は、戦略的な理由ではなく慈善活動のためにごく稀まれに行う価値があるケースの存することを認めはするものの、特に基本的な人道的危機の是正を超えた場合、軍事力で実行するのは複雑で困難を極めると釘をさす。

 

リベラルなヘゲモニストは、問題含みの「ドミノ理論」に依存して、事象の相互接続性と、それらが米国の安全保障上の懸念にどのように関連しているかを誇張している。米国の経済的利益のために覇権的な立場を維持することの重要性についての彼らの主張も誇張されている。

 

ポーゼンの主張する抑制主義は、本書の第2章で展開されている。ポーゼンは、主権・安全性・領土保全・地位を含む米国の担保についての議論から始め、次に潜在的な脅威とそれらに対処する方法を慎重に検討する。これらの中で最も重要なのは、「ユーラシア」の勢力均衡を混乱させる「大陸の覇権の台頭」である。「グローバルな野心を持っているテロ組織」の核兵器保有に注視している。ポーゼンは、「今日、ユーラシアには覇権の候補がない」ため、最初の脅威が実際に発生するリスクはほとんどないと考えている。これが、米国が段階的にコミットメントを削減し、世界的な軍事的プレゼンスを削減できる理由の1つである。

 

核兵器による脅威については、米国は他国による核攻撃とテロリストへの核物質の移送の両方を阻止する必要があり、米国は他の核保有国が核兵器を確保するのを支援すべきだと考えている。この点は、同じく防御的リアリズムに立脚するケネス・ウォルツと同じである。ポーゼンは、予防戦争の議論を正当化するために使用される仮定である「狂気の状態」を阻止することはできないという見解を支持していない。

 

しかし同時に、ポーゼンは、拡大抑止の頑健性についてそれほど楽観的ではない。したがって、米国は試練にさらされる可能性のあるコミットメントに警戒する必要があると言う。ポーゼンは、情報収集、武力の行使、特に特殊作戦やドローン攻撃、外交など、国際テロリストに対して積極的な措置を講じる必要があることを高く評価する一方で、米国の前方展開された軍隊と大規模な作戦は多くの場合事態を悪化させる可能性があると指摘している。

 

ポーゼンの分析は、特に中共が台頭する中で、東アジアを抑制主義を実施する「最も問題のある地域」として特定しており、米国は地域の勢力均衡を維持することに関心を持っている。但し、ポーゼンは中共旧ソ連ほど大きな脅威になることを心配しておらず、冷戦スタイルのアプローチは不要であると主張している。その代わりに、米国は、日本のような同盟国との安全保障支援関係を維持しながら、「同盟国が自国の防衛に対してより多くの責任を負うことを奨励する」べきであると述べ、日本の核武装の必要性を匂わせる。

 

他方、中東では、米国が地域全体、特にイスラエルパレスチナの紛争において、そのプレゼンスを減らすべきであると主張している。これは、石油の流れを維持し、単一の国がこの地域を支配するのを防ぐために、最小限の土地の存在を維持しながら「オフショア」に行くこと、すなわち、米国がこの地域の内戦に参加せず、湾岸の海軍力に焦点を合わせていくことを意味する。イスラエルに対しては、米国が「意図的に行動」して、私たちの利益にならないことが多いイスラエルの政策への補助金を削減すべきだと考えているようだ。それは、イスラエルが受ける軍事援助が少なく、自国の武器購入に資金を提供しなければならなかった、1967年以前の米国のアラブ・イスラエル戦争の立場に戻ることを意味するだろう。

 

第3章では、抑制主義と一致する軍事戦略と部隊構造について説明している。そのアプローチを「コモンズの指揮」と呼んでいる。このようなアプローチは、米国がその中核的利益を保護し、その戦略的立場を利用し、同盟国に彼らの安全に貢献するように奨励し、そして力を拡大する必要がある場合に時間を稼ぐことを可能にする。この戦略は、陸軍の削減を可能にしながら、海軍と空軍により大きな相対的負担を課すことになる。その間、海兵隊は水陸両用作戦に再び焦点を合わせるだろう。全体として、抑制主義は、特に海外での軍隊の規模とプレゼンスを縮小させることにより、国防費を約2割削減する効果を生むというのである。

 

本書の最大の強みは、リアリズムの基盤の上に構築された冷静な分析であろう。ポーゼンは世界をそのまま見て、「暗い悪夢」や「理想主義的な夢」が米国を迷わせることを拒否する。米国が国際的な課題、特に非国家主体からの挑戦の影響を受けないという楽観論に与しないが、しかし米国は、不自然な一極覇権構造を維持するために多額の代償を払わずに、リベラリリスとの覇権主義を追求し続けることは現実的に不可能であることを強調する。いずれにせよ、国際政治の急速な変化の不安定化効果に対するポーゼンの洞察は、米国の安全保障を考えたならば、不必要な戦争を狂ったように反復してきた危険なリベラリスト覇権主義からの移行の必要性を説得的に論じている。

 

イラクやイランを根絶やしにしてしまえ」と国家安全保障会議でまくし立て、リビアの独裁者カダフィ大佐がリンチによって殺害された映像を目にして、We came, We saw, He died!と目を輝かせ手を叩いて喜んだヒラリー・クリントン、そして「イスラエルを地上から抹殺せよ」と叫ぶイルハン・オマル、あるいは、非合法な暗殺を命ずる大統領令に歴代大統領のそれの合計より多く署名し、中東を大混乱に陥れて平然としているバラク・オバマのようなリベラリストこそが、世界をかえって混乱に陥れているということがよくわかる本書を読む価値は大きい。

大東亜戦争開戦から80年目を迎えて

昭和16(1941)年12月8日は、日本が米英に宣戦を布告した大東亜戦争開戦の日であり、今日は、真珠湾攻撃から数えて、ちょうど80年目を迎える。日米対立が決定的となった直接的契機は、南部仏印進駐であると言われる。確かに、この認識自体に誤りはないだろう。事実、南部仏印進駐が現実になるや、米国は資産凍結命令と対日石油禁輸を発動したのだから。但し、この時点では、米国政府内部は対日強硬論一枚岩であったわけではなかったことも確か。

 

当時の海軍作戦部長だったターナーは、対日石油禁輸は日本の蘭印やマレー進出を招き、そうなれば、フィリピンを植民地として抱える米国としては、その権益保護のため、太平洋上での戦争に入らざるを得ない状況に至るとの内容をルーズベルトに進言していた。この進言を受け入れたルーズベルトは、ウェルズ国務副長官に対して、石油の全面禁輸を避けるようにとの指示を出し、輸出管理局も、国務・財務・司法省合同外交資金管理委員会に対して、日本向けに45万ガロンのガソリンを含む輸出許可を出していたのである。

 

しかしこの決定は、アチソン国務次官補によって覆されてしまう。ルーズベルトは、8月3日からニューファンドランド沖の船内で予定されていたチャーチルとの秘密会談のためにホワイトハウスを不在にしていた。ただ、そのルーズベルトはと言えば、チャーチルとの秘密会談の席で対日開戦を決意するとともに、開戦の口実作りのために、日本から先に攻撃させるよう如何に挑発するか、また日本に勝利した後、日本を永久に武装解除させ、米国のアジア拠点として属国化する計画を練り始める。真珠湾攻撃の4か月も前のことである。ルーズベルトは、日本が米国に対して戦争を仕掛けるように仕向け、対日戦に勝利した後の日本の武装解除まで予定していたというのである。そうすると、アチソンの決定にルーズベルトが了承を与えていたということになりそうである。

 

では、この時期に米国政府内全体の意思決定として対日開戦が決断されていたのかというと、国務省内ではまだ外交交渉による妥結を模索する動きが見られたことから、暴露された秘密会談の内容で以って断言することは難しい。他方、米国による対日石油禁輸措置に対して、近衛文麿内閣は、事態打開のために「近衛・ルーズベルト会談」を提案し外交交渉を優先する策を講じたが、東条英機陸軍大臣が拒否して近衛内閣が崩壊してしまう(一度廃された軍部大臣現役武官制廣田弘毅内閣によって再び復活されていたことのツケが、ここで回ってきたというわけだ)。

 

近衛からすれば、①シナからの撤退、②南部仏印からの撤退、③三国同盟からの離脱ないしは事実上の骨抜き、という米国側の要求に応じる心づもりはあったようで、米国国務省の側も、暫定協議案を日本に提示する予定があったという。

 

ところが、国務長官ハルが、日本としては絶対に飲めない、④満洲権益の放棄という条件を追加した「ハル・ノート」を突き付け、事態は一触即発となる。米国は、日本が④については応諾できないことを認識していた。日本側が承諾することのない条件を付加した提案を敢えてすることによって、事実上、外交交渉打ち切りを暗黙に宣言したのである。

 

日本政府としては、①~③は承諾できても、④までとなると無理な相談。結果として、日本から米国に宣戦を布告して事態を一気呵成に打開する賭けに出るより他ないと、「清水の舞台から飛び降りる覚悟」で対米英戦を決断した。「ハル・ノート」が日本政府に打電された11月26日、連合艦隊約50隻の艦艇が、ハワイ攻撃に向けて択捉島から出港した。だから問題としては、「ハル・ノート」に至る手前で阻止できたかどうかということになるだろう。したがって、④が追加された事情が明らかにされる必要があるが、これについては、どのような力が働いてそうなったのかはわかっていない。

 

大東亜戦争における「連合国」の勝利は、アジア・アフリカ諸国にとって「解放」を意味したわけではなかった。全体主義諸国に対する民主主義諸国の勝利でもなかった。スターリン率いる旧ソ連は、民主主義とは程遠い共産主義者による恐怖政治だったし、バルト三国を不当に占領した侵略者だったし、日ソ中立条約を一方的に破棄して南樺太や千島列島を占拠し、あわよくば北海道北東部をも占領しようと、ポツダム宣言受諾の意向を通知した8月15日以降においても我が国への攻撃を止めなかった。また、旧宗主国は、アジアやアフリカの植民地化は欧米列強諸国の権利であるとばかりに、日本の敗戦後に再植民地化に乗り出した。

 

欧米列強、とりわけ英仏蘭など西欧の列強諸国は、単に「先発的」帝国主義国でしかなかった。英蘭は、自国だけでは我が帝国陸海軍を前にして手も足も出ず敗走するより他なかったので、彼ら彼女らのプライドが痛く傷ついたであろうことは容易に想像できよう。マレー沖海戦では、英国が誇る東洋艦隊が全滅。プリンス・オブ・ウェールズが海の藻屑と化したという報を耳にした宰相ウィンストン・チャーチルは号泣したという。栄ある我が大英帝国海軍が、「極東の猿」どもなんぞに負けるわけがないと内心で思っていたことだろう。それが、どうしたことか。日本軍の一撃に東洋艦隊は木っ端微塵に粉砕され、長年アジア地域に居座ってきた英国があっという間に蹴散らされたというのだから、チャーチルの屈辱感は相当なものであったに違いない。

 

今も、旧日本軍の行動に難癖をつけて糾弾する声が英蘭などに僅かながら存在するが、ことごとく己の行為については棚に上げていることが甚だ滑稽。英蘭が、長年にわたってインドやジャワなどで何をしてきたのかを考えてみればいい。支那事変や大東亜戦争の戦場と化した地域の住民から批判されるのなら、その批判に対しては誠実に対すべきだろうし、もちろん、旧日本軍の振る舞いにも決して誉められるような態様ではなかった点が存し、また一部捕虜の扱いについても問題があった非を認めるに吝かではないが、少なくとも、英蘭のような「先発的」帝国主義諸国から非難される言われはないだろう。

 

列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル恂ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ。

と、大東亜戦争の開戦の詔書にはある。大東亜戦争単独で捉えるとするならば、昭和26(1951)年5月3日に行われた、米国連邦議会上院軍事外交合同委員会の席において、後にダグラス・マッカーサーも“Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.”と認めざるを得なかった通り、主として安全保障上の必要に迫れての自存自衛のための戦争という理屈は成り立つかも知れない。このマッカーサー証言の最後は、次の一文で締めくくられている。

There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asian basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

すなわち上記の通り、当時の日本には、蚕を除いて国産の資源は実質的にほとんど存在しなかった。綿も羊毛も石油製品もスズもゴムもその他多くの資源もなく、それらすべての物はアジア海域に存在していた。"They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan."とあるように、これら必需品の供給が断たれた場合、日本では1000万人から1200万人の失業者が発生するだろうとの恐怖に駆られてもいた。それゆえ、"Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security."と、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったという結論を下した。

 

なるほど、そういう一面は確かにある。しかしながら、開戦に至る過程全体を俯瞰して見るならば、全くの「自存自衛のための戦争」と位置づけることは難しい。しかし、20世紀に入ってからの我が国の振舞は(日露戦争より後というべきかも知れないが、対朝鮮関係については微妙な問題が残る。朝鮮からすれば日本の保護国にされた契機だったかも知れないが、我が国からすれば、日露戦争の原因を作ったのは、元はと言えば朝鮮の事大主義的外交政策なのであって、それによって我が国は安全保障上の危機が切迫する事態にまで陥ったのだから、朝鮮こそある意味で「加害者」であるとの論理も成り立つ。とはいえ、保護国化までに留めておくべきであった)、「後発的」帝国主義国家としての一面を有していたことは否めず、こうした視点から捉えるならば、大東亜戦争とは、「先発的」帝国主義諸国と「後発的」帝国主義諸国との権益争い・勢力争いの末、我邦が選択肢を狭められ、追い込まれた状況において起きた、ある種重層的ともいうべき構造を持つ戦争であったのではないだろうか。

 

それゆえ、単純に「自存自衛の戦い」であったとするわけにも、ましてや、「アジア解放のための聖戦」とするわけにも行かない。確かに、「大東亜共栄圏」の理念を本気で信じた者もいて、敗戦後も現地に居残り、再植民地化を仕掛ける欧州帝国主義諸国に対して現地人に協力して戦った旧日本軍兵士も数多く存在した。また当時の世情を見ても、欧米列強に対抗する「アジアの盟主」としての日本という認識が蔓延していたことも確かである。しかし、大東亜戦争の遂行に携わっていた政策決定者の意思は必ずしもそうではなく、「アジア解放」という理念は後知恵的に付加されたものでしかなかったと言われても仕方ない実態を参酌するならば、「アジア解放のための戦い」と理解することは、かなり無理筋なことである。

 

もちろん、左翼が主張するように、「アジア諸国に対する侵略戦争」と断罪して済ますわけにも行かない。自分たちの政治的主張を実現するための「印籠」としての「アジアの民衆」を有効に活用するため、アジア諸国の領土を侵略した「悪の帝国」日本と、それに抵抗した「アジアの民衆」という単純な善悪二元論的構図の中にあの戦争を位置づける左翼の主張も恐るべき単純化であり、歴史を単なるイデオロギーとしてしか見ていないことの何よりの証左であろう。特異なイデオロギーに任せて、特定の局面のみを都合よく切り取って平仄を合わせるような見方は、極めて乱暴な歴史の切り取り方であり、その道徳主義的断罪の姿勢は、必ずどこかの国の利益を代弁するプロパガンダに容易く変貌してしまう。どの視点から見るかによっても見方は違ってくるだけでなく、どういう文脈に位置づけて理解するかによっても見方は大いに異なってくる。

 

大東亜戦争に至る過程で致命的だったのは、我が国の大陸政策が既に失敗を決定づけられていたという点である。個別の戦局においては、俄然その能力を遺憾なく発揮し、国民党軍に勝利を収めていた我が軍であったが、大局的な見通しに基づく国家戦略に欠き、場当たり的な対応に終始した。こうした大陸政策の失敗の起点は、対華二十一か条の要求をした大正4(1915)年にまで遡ることができる。中共は、日清戦争以後の我が国の行為を糾弾するが、日清戦争に関して言えば、元は双方の対朝鮮政策の衝突の末に起きた戦争であって、我が国が清国に対して侵略した戦争ではない。

 

問題は、大正4年以後の我が国の対支外交が露骨な覇権主義的な行動に様変わりしたことである。当時は、列挙諸国に共通して見られた振舞いであったとはいえ、対華二十一か条の要求は、中華民国に対する露骨な覇権主義的な恫喝行為であり、これを理不尽な要求だと反発して、「中華ナショナリズム」が湧き起こるのも無理ない話であった。仮に、大東亜戦争で日本が敗北せず、大陸での権益を確保できていたとしても、おそらく、その後、「植民地解放」の世界的な流れの渦中に我が国も巻き込まれ、大陸や台湾、朝鮮など現地人からの猛烈な反発に悩まされていた可能性もあろう。

 

ハル・ノート」については、近年、中華民国の対米ロビー活動が果たした役割も注目されているようだが、それが決定的な重要性を持っていたかは、歴史学の研究者でもない僕にはわからない。ただ、いずれにせよ、突如として④の項目が追加されたのはなぜなのかを理解するにあたって、注目しなければならないのは、やはりニューファンドランド島沖に停泊していた船内でのルーズベルトチャーチルの秘密会合の果たした役割と、中華民国側からの猛烈な対日強硬策の具申ではないかと思われる。だとするなら、対米開戦は、米国により仕掛けられた罠にまんまと嵌められた結果だと言えなくもないけど、その前提には対支政策の失敗という観点を無視するわけにはいかないのではないか。罠であれ何であれ、罠を罠として見抜けず、しかも早期収拾が可能だとの甘い見込みに反して泥沼化した支那事変を抱えながら対米開戦に踏み切った判断は、当時の状況に身を置いて考えたとしても肯定できるものではないだろう。

 

昭和6(1931)年9月に勃発した満洲事変は、旧関東軍高級参謀の石原莞爾板垣征四郎が首謀した事件であることは明らかで、あの事件は中華民国への侵略行為とは言えないとしても、少なくとも、「後発的」帝国主義国である日本が、大陸での権益確保(当時の日本は、満洲に莫大な資本を投下していた)と防共のための防波堤構築の一環として満洲地域に地歩を固めるための行為であり、事変の発端となった柳条湖事件は日本政府の意向に基づくものではなかったとはいえ、満洲事変を事後追認し、挙句は満洲国を建国させ、日満議定書を締結し、満洲総務庁など主要部門に大量の官僚を投入していった過程を総合的に勘案すれば、覇権主義的拡張政策として評価されても仕方がない。

 

但し、中華民国への領土侵略と断ずることができないのは、あの地域がそもそも中華民国領土と誰もが認めるような事由が存在せず、歴史的に見ても、漢族が長くあの地域を支配していた歴史もないからである。昔から、様々な民族・部族が群雄割拠する領域だったのであり、領域国家が主流になった時代の論理を直接当てはめて理解することは困難である。だからこそ、国際連盟の「リットン報告書」にも、日本による中華民国領土に対する侵略とは記されていない(対日非難の理屈は、既に日本が締結していた九ヶ国条約に違反するという内容である)。例えば、幣原喜重郎の認識によれば満洲地域はロシア領であったし、軍閥の張学良からすれば、満洲中華民国の領土であるということになる。それほど人によって認識が異なっていて、共通認識が形成されていたとは言えない状況であった。

 

とはいえ、どう理屈を捏ね繰り回そうと、日本領であると強弁することは不可能であるから、あくまで満洲族による独立国家の体をとるより他なかった。「五族協和」・「王道楽土」との掛け声は形ばかりの欺瞞であったことは確かだろうが、馬賊が闊歩するあの荒野を開発して短期間で近代国家に仕上げた満洲国の経験は、我が国の戦後の高度成長のための政策に活きたし、何より、中華人民共和国も、建国後しばらくは、全工業生産の9割を旧満州国の遺産から賄っていたわけで、結果的には、中華人民共和国の経済を支える源に満州国がなっていたという点も見なければならないだろう。

 

そうした点を踏まえてもなお、こうした日本の一連の行動が、中華民国からすれば、自分たちの権益を侵食する行為に映ったのも当然と言えば当然で、五・四運動あたりから徐々に芽生えてきた「中華ナショナリズム」に基づく「日貨排斥運動」への「逆ギレ」から華人蔑視の態度を強くしていった日本の傲慢な姿勢に対する、「国民」化していった華人の憤怒が沸点に達した事情も理解できる。

 

日本側の認識としては領土侵略の意図はなくとも(いわゆる東京裁判において認定された「共同謀議」などあろうはずもない。もし、あったとするならば、あのような場当たり的とも言える戦略性に欠く行動はとらなかっただろう)、中華民国から見て、日本の行動によってもたらされた一連の事象を連続的に捉えるとするならば、満洲事変から支那事変への流れを「侵略戦争」という一語で片づける乱暴な主張には与し得なくとも、我が国の大陸政策の一側面に「侵略性」が微塵もなかったと断言することもできそうにない。

 

支那事変における南京攻防戦の末に生じたとされる、いわゆる「南京事件」が、歴史的事実としてあったのか、なかったのか。仮にあったとして、それが実際にはどの程度の規模だったのかという問題は、専ら歴史学の議論の範疇を超えて、政治問題やイデオロギー対立にまで飛び火しているので、中々冷静な議論ができない状況が続いている。

 

中共はもとより、中共と懇ろな関係にある日本の左翼が、日本批判を展開するための恫喝用カードとして最大限利用する際に、殊更事件を大きく見せようと躍起になっており、逆に、そうした恫喝外交に屈しまいと意気込むあまり、全くの虚構であると抗弁する者たちの極端な主張が対置されるという、およそ建設的とは言えない茶番劇が反復されているというのが実態である。

 

一つ確認しておきたい点は、毛沢東自身は「南京事件」について触れたことがないという事実である。中共中央が編纂した『毛沢東年譜』にも、「南京事件」が発生したとされる昭和12(1937)年12月13日から数週間もの間、事件についての直接的な言及もなければ、事件を匂わせる記載すらない。それ以後も、毛沢東自身が「南京事件」に言及した形跡もない。

 

もちろん、日本軍と戦闘していたのは、主として蒋介石率いる国民党軍であって、共産党はというと、延安に引きこもって大したことをしておらず、散発的にゲリラ戦を遂行していたに過ぎないので、ほとんど無関心だったとも考えられよう(中共が「抗日戦勝利」などというのは、実態とは程遠い戯言の類である)。あるいは、秦の始皇帝より多くの人間を殺害したことを自慢していたほどの稀代の「殺人鬼」であった毛沢東のことであるから、「南京事件」で何人死のうと、取るに足らないことだと考えていたのかもしれない。ただ、後の中共があれほど大仰に騒ぎ立て、対日外交のカードとして利用している割には、毛沢東自身がこれについて何も触れていないのは、極めて不自然と言える。

 

もちろん、これを根拠に、「南京事件」は捏造された虚構の事実であったと言いたいわけではないし、これによって、渡部昇一東中野修道のような「まぼろし派」の主張が肯定されるわけでもない。渡部昇一は、東京裁判で証言したマギー神父が実際に目撃したとする人数を以って、南京での虐殺行為を否定する論陣を張っていたかと思われるが、さすがに根拠薄弱であるし、他の否定派の論者にしても、例えば松井石根の日記を改竄した者もいるなど、その主張の信頼性は乏しい。

 

とはいえ、もし「南京事件」が、現在の中共が主張するような数十万人規模の組織的な大量虐殺であったというのならば、毛沢東は何らかの言及をしていて然るべきではないかという疑問は依然として残る。しかも毛沢東は、中華人民共和国建国後、その能力を高く評価していた、支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を北京に招待していたというのだから(岡村は、台湾への気遣いから、この申し出を断って北京に行くことはなかったが)、この点から見ても、少々合点のいかぬ話ではある。

 

戦史研究者でも何でもない素人の認識が正しいのかどうかわからないが、いわゆる「南京事件」と称される虐殺行為が事実としてあったと思うかと問われたら、規模の点ではまだ不明確な点が残るものの、何らかの虐殺行為があったのだろうと答えることにしている。但し、中共の政治プロパガンダと化している数十万人規模の大虐殺とも、上海派遣軍の組織的方針に基づく虐殺とも思わない。

 

南京陥落時において、日本軍の軍紀が相当に乱れていたのは確かであって、「便衣兵」の存在に悩まされ混乱状況にあった現場のレベルで、「便衣兵」狩りと称した捕虜殺害や一般市民の虐殺あるいは婦女への暴行・強姦といった事案が方々で発生し、収拾つかなくなったというのが真相なのではあるまいか。「首都攻防戦」で誰が敵かと疑心に苛まれている状況において、正気を保ち続けられる者は中々いないのではないか。特に、職業軍人ではなく、徴兵された市井の者であるならばなおのことである。そのように、素人として考えるより他ない。

 

いずれにせよ、近・現代史ないしは戦史を専門で研究している者の著作や論文を見渡すと、先の「まぼろし派」は皆無に等しいのが現状で、規模や態様などについて争いはあるものの、何らかの虐殺行為の存在はあったとする見解が支配的であるように見受けられる。と同時に、数十万人規模の大虐殺があったとする、中共の政治プロパガンダに呼応する見解に与する者は、もはや少なくなっているように思われる。

 

あくまで素人の意見でしかないことの断りを入れての話だが、事件そのものを映した写真や映像など、事件の存在を直接的に証明する証拠として大部分の専門家が認める物証は、今のところ見当たらないことが事実であるとしても(証拠とされてきた写真や映像には、それが旧日本軍による南京での行為を映したものであるのか大いに疑わしいもの、国民党軍による自国民殺害の写真、プロパガンダ用に捏造されたことが明白なものまであり、学術的検証に耐えうる直接証拠は、将来はともかく、現時点では存在しないようだ)、岡村寧次大将の残した日誌など諸々の間接証拠を積み重ねることから推察されることは、東京の陸軍中央に動揺が走るほど緊迫した状況があり、その渦中で、ある程度の規模に及ぶ虐殺事案が発生したのだろうということである。少なくとも、昭和12(1937)年12月13日から数週間、捕虜や兵士あるいは「便衣兵」に対する虐殺が行われ、その中には、巻き添えを喰らった無辜の一般市民も含まれていたと推察される。したがって、「まぼろし派」の見解は採れない。

 

さりとて、中共が主張する30万人ないしは40万人という規模の大虐殺が起きたとは信じられず、また犠牲者全てが「無辜の一般市民」であったのかどうかも疑わしく、一般市民を装った「便衣兵」が相当数存在したのではないかと思われる(確定的なことは言えないが)。

 

いずれにせよ、「大虐殺派」の主張は誇張に過ぎるし、さりとて「まぼろし派」の主張は無理筋の説に思える。「便衣兵」の存在をどの程度見積もるか、あるいは南京城外の戦死者まで計測に入れるのか、はたまた通常の戦闘行為による戦闘員の死者数まで含めるのか否か、こうした諸々の点から被害規模の評価も異なってくるのだろうから、規模については当然に諸説争いは残るだろうが、終局的には、秦郁彦南京事件』(中央公論社)のような「中間派(数百人~数万人まで幅広い)」の主張に収束して行くのではないだろうか(個人的な想像では、数千人から1万人、最大見積もって2万人くらいの数かなと。もちろん、それでも虐殺であることに変わりないのだけれどね)。