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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

解除の法的性質について

法学部(厳密に言うと、教養学部文科Ⅰ類在籍の者は2年時の後期から民法の一部分に関して履修が始まるが)で民法の講義を受講した者ならば必ず触れたことのある解除の効果についての法的性質に関し、学修したばかりの者からすれば、判例及び通説の見解に納得が行かず、あれこれイチャモンをつけていたことを思い出す。令和2年4月1日施行改正民法では、債権法分野が主として大規模に改正され、解除が認められる要件も変更されたが、判例・通説に対する当時の違和感の所在をはっきりさせるため、改正前民法施行時で下記の状況が与えられていたと仮定して、この問題を再考するとしよう(久しく日本法には触れていないので、当時の記憶も学説の理解もあやふやになっているだろうが)。

 

AとBとの間でA所有の土地につき売買契約が成立し、本件土地の引渡し及び所有権移転登記手続が完了してBの所有に帰した。ところが、代金支払債務が履行されず、数度の催促にも関わらず不履行状態が続いたために、Aが当該売買契約を債務不履行を理由に解除したという状況を想定しよう。

 

解除の効果について、判例・通説は直接効果説を採用するので、解除によって売買契約の遡及的無効という債権的効果のみならず、物権行為の独自性を認めないがゆえに、所有権も当初からBに移転しなかったものとみなされることになる。ところが、Bから第三者であるCに土地所有権が譲渡されていた場合、第三者Cが現れる時期が解除前であるか解除後であるかによって理論構成が異なる。

 

解除前にCが現れた場合、民法545条1項但書により第三者の利益を害することはできないので、AはCに対して解除の遡及効を主張することができない。もっとも判例は、Aが失う重大な利益との考量から、Cが保護されるには登記を要するとしていた。この登記の性格について、これを対抗要件と解するか、それとも権利保護要件と解するかについて争いがあるが、第三者との関係を対抗関係と見るのは妙であるという考えは今も変わらない。解除後にCが現れた場合、民法545条1項但書の問題ではなく、専ら民法177条の対抗問題として処理される。すなわち、Cが背信的悪意者でない限り、登記の具備により解決する方法が採られる。

 

この点につき、この理論的処理に違和感が残るとした文章を書き殴ったわけだが、何せ10年ほど前のことなので、もっと乱暴に記したような気がする。ともかく、解除の効果として直接効果説を採りつつ、解除後の第三者の扱いに関して復帰的物権変動論で処理することに何ら実務上の問題はないし、理論的にも不整合な解釈とは思われないという、おそらく法曹もしくは研究者と思しき方からの反論が寄せられたことを記憶している。もちろん、僕も実務上ほとんど問題が生じない処理であることは理解できることは認めるものの、やはり、どこか気色の悪さが拭えずにいたのである。

 

解除の効果として直接効果説を採用する以上、解除により当該契約の遡及的消滅が前提になるわけだから、当該土地所有権は当初から移転しなかったものとみなされる。そうすると、AとCは対抗関係に立つとする構成がなぜとれるのかという疑問が生じる。登記を「対抗要件」と解することはできないからこそ、「権利保護要件」と解する学説が出てくるのではないか。そう思われたのである。もちろん、「対抗要件」と解そうと、「権利保護要件」と解そうと、結論においては相違はない。

 

解除後の第三者が登場した場合の処理を考えてみよう。我妻栄が提起した復帰的物権変動論は、解除後の第三者が現れた場合、545条1項但書ではなく、177条の問題として処理する見解の根拠として持ち出される解釈論である。つまり、解除後のAは物権復帰の登記を具備できる状態であることを捉えて、Bを基点とした復帰的物権変動が生じるとする二重譲渡類似の関係としてAとCは対抗関係に立つ。そこで登記を具備しているかによって所有権の帰属が決せられる。しかし、そもそも契約が遡及的に消滅しているわけだから、Bを基点とした復帰的物権変動を観念すること自体が当初の前提と整合するのか疑問が生じる。今もその疑問は残ったままである。

 

この疑問を呈したことに対して寄せられた反論の一つは、論理的整合性を追求するならば、民法545条1項本文と同項但書の関係すらも矛盾の関係ということになってしまわないかというものであった。しかし、同条同項の本文と但書とでは矛盾の関係には立たないことは明白である。というのも、但書は本文の原則に対して制限を加えて適用領域を限定、もしくは原則の制限を一部解除するといった機能を果たすものなので、制限を加えられた領域もしくは制限を解除された領域とそうでない領域の内包が異なるわけだから、競合する関係にそもそも立たず、それゆえ矛盾は生じようがない。

 

次に、契約の遡及的消滅はあくまで法律上の擬制にすぎず、事実上の関係がなかったことまで含意しないので問題ないという反論もある。もちろん、解除による遡及的消滅はある種の法的擬制であるが、問題の本質はこの点にあるのではなく、理論内部の論理的整合性の問題こそが本質的な疑問点なのである。例えば、契約が最初から存在しなかったものと擬制しておきながら、他方で債権者に履行利益賠償を認めて契約目的の利益状態を損害賠償の形で許容することは、「契約が最初から存在しなかったものとみなす」という前提をとりつつ、「契約は最初から存在しなかったものみなすわけではない」という相反する前提を同時にとることを含意するということである。履行利益賠償は、契約の存在を当然に含意するものだからである。遡及的構成をとりつつ損害賠償を許容するには、履行利益賠償ではなく信頼利益賠償しか許容されないとの帰結に至らないのだろうか。

 

当時、拙いオツムを使って下した結論は、こと解除の性質について遡及的構成は採れないのではないかというものだった。では、間接効果説に立つのかと問われれば、答えは否。なぜならば、間接効果説において、解除は既履行給付についての返還請求権を発生させる制度であって、この返還請求権の行使を通じて既履行給付分の返還がされた結果として、間接的に契約が効力を失うのと同様の結果がもたらされるとする。すなわち解除は、返還請求権を通じて契約の失効へと間接的に作用するに過ぎないと解する見解である。

 

ところが間接効果説だと、未履行給付について厄介な問題を抱えてしまう。すなわち、未履行給付については、解除をしたからといって契約が消滅するのではないから、履行請求権は依然として消滅しはしないという帰結に至る。なるほど、間接効果説からの説明として、未履行給付については履行拒絶の抗弁権が発生するという仕方でこの不都合を回避できるかに見える。しかし、抗弁権不行使時に生じる不都合を回避できないという点で、依然として問題が残るだろう。折衷説もあるが、既履行給付については新たな原状回復義務を生じさせる一方、未履行給付については将来に向かってのみ契約を消滅させる制度と捉えており、結果の妥当性のみに合わせたアドホックなつじつま合わせで、とてもじゃないが賛同できない。

 

原契約が変容すると解する方が整合的な理論になるだろう。すなわち。解除により、原契約関係は契約からの離脱を実効たらしめるために本来履行すべきであった債務内容を含めて原状回復へと向けた内容の清算過程へとむかう債権関係に転換されると解するのである。既履行給付に関する原状回復は清算関係であり、未履行債務からの解放という効果は、原契約変容による清算関係の一環として位置づけられるというわけである。解除されても、原因となった契約が遡及的に消滅しないため、遡及的構成と違って「法律上の原因」に基づいた給付として位置づけられる。したがって、民法545条1項本文に規定された原状回復請求権は、不当利得返還請求権とは位置づけられない。あくまで、解除の意思表示の結果として、「法律上の原因」に基づいた既履行給付を含めて清算過程に取り込むことを明記した規定として解釈される。

 

そうすると、545条3項の損害賠償については、以下のように捉えることができることになる。すなわち、解除は債務不履行の結果として契約の拘束力を維持する利益が脱落することを理由として解除権者に契約からの離脱を認めるものである、と。債務不履行による契約解除および契約関係の清算債務不履行による履行利益賠償は論理的に併存可能になり、545条1項と同条3項を整合的に理解することができるというわけだ。なお、545条1項但書の趣旨をそこから捉え返すと、同条にいう「第三者」を原状回復関係に取り込まず、この者との関係では契約に基づく権利変動が存続している状態を仮定して、その法的地位を確保するものと解する。

 

例えば、AとBとの契約が解除される前に、BからCが目的物の所有権を譲り受けたという場合、Cから見てA、B、Cの関係は相次譲渡として構成され、Cとの関係では、BからAへの復帰的物権変動を考慮する必要はなくなる。よって、二重物権変動の対抗関係ないしは二重物権変動対抗関係類似の関係と構成する必要はない。545条1項本文の解除の法的性質が、「契約の解除」及び「契約関係の清算」という二つの意味を持っていると考えるということである。このように二つの意味を持つと解することは許容されている解釈論の方法の一つである。

 

例えば、民法424条の詐害行為取消権の法的性質をめぐる解釈論において、多数説である相対的取消権説が(僕自身は、「歩く通説」こと我妻栄より、「歩く反対説」こと四宮和夫の方が好みということもあって、多数説である「相対的取消権説」にも反対という立場だ)、請求権としての性質と取消権としての性質を併有するものとして捉えているように、多少技巧的すぎるきらいはあるものの、解釈論として許容されるレベルだろう。この立場からすると、契約の解除により契約は終了するが、遡及的消滅と解する必要はない。

 

契約の終了後の原状回復関係については以下の処理となるだろう。既履行給付については原状回復義務の発生が、未履行給付については、原状回復義務の発生は抽象的に観念できるものの履行がそもそも不要だから消滅する。原状回復義務は損害賠償義務とは直接関係しない。一旦有効に成立した契約及び当該契約によって保証されている債権者の契約利益まで否定するのではなく、契約に基づく個別債務だけを消滅させる。すなわち、既履行給付であれば返還させるだけであり、それでもなお償われずに残ることのありうる債権者の利益については、債務不履行を理由とする損害賠償請求の可能性を残していると捉えれば済む。

 

問題は、その範囲である。原物については返還、給付物の利用利益については、金銭の場合は解除により金銭を返還する時はその金銭を受領した時から利息を付して返還することが義務となる(545条2項)。金銭受領者が善意であっても、金銭の利用可能性を取得したのだから、その価値をも返還しなければ原状を回復したことにはならないので、利息返還義務が生じる。この点、遡及的構成を採って、不当利得返還請求権として理論構成した場合、民法703条、同704条では、善意・悪意によって処理が異なることになってしまうだろう。

 

他方、金銭以外の場合は、目的物から生じた法定果実を取得した場合、金銭の場合と同じく、相手方に返還しなければ原状を回復したことにはならない。現実に果実を収受しなくとも、目的物の利用可能性を取得したのであれば、その価値を返還しなければならないことは当然である。なお、545条3項は、あくまで損害賠償することを妨げるものではないと明記しているだけであって、履行利益賠償まで認められると一義的には捉えられない。遡及的構成だと契約が最初からなかったこととみなされるので、論理的には、履行利益賠償を請求できると解せず、せいぜい信頼利益賠償が導けるのみと解するのが素直な読みであろうと思われる。この点も10年前の考えと全く変わっていない。したがって、545条3項があるから、遡及的構成を採っても、履行利益賠償まで認められるのだとの主張は説得力に欠けるように思われる。

 

では、損害賠償と原状回復義務との関係について、どう考えるべきか。解除の効果は原状回復に限られ、損害賠償責任とは無関係である。したがって、損害賠償責任は債務不履行における損害賠償の原則規定たる民法415条により認められ、545条3項は原状回復義務を認めることが債務不履行による損害賠償請求の妨げになるものではない、つまりは原状回復義務と損害賠償責任との併存可能性を許容する規定と解されることになる。事実、545条3項の文言は、「解除は損害賠償請求を妨げない」との規定となっており、文意に沿う。

 

解除の効果については、そもそも契約の遡及的消滅まで認める必要ない。未履行の義務についてはそれ以上履行の必要がないとし、かつ既履行給付については、返還を認めさえすれば解除の目的は達成できるのに、わざわざ契約を遡及的に消滅させるまでの必要はないはず。むしろ、損害賠償責任を基礎づける際に難点を抱え込むおそれがある。そもそも遡及的消滅構成をとる見解が登場したのは、ドイツ法では直接効果説の遡及的構成を採る見解が通説だったからである。しかし、ドイツにおいて直接効果説が主張された理由は、解除を選択した場合、同時に損害賠償を請求することができない旨の規定が存在したからである。解除を選択しても、それが損害賠償請求することを妨げることにはならないとする545条3項を持つ我が国の民法とは事情が異なるのである。

 

解除後の第三者の扱いについては、以下のように考える方がいいだろう。この第三者は、545条1項但書の「第三者」には該当しない。この点は判例・通説と共通している。しかし、不遡及的構成を採るならば、177条によって処理する法的構成は可能であると考えるが、遡及的構成を採りつつ復帰的物権変動論を採ることは整合しないと考える者からすれば、177条の問題として処理する判例・通説の立場には首肯できず、94条2項の類推適用によって処理が図られるべきであるというのが僕の結論であったわけである。

 

(再度、断りを入れておくが、改正前民法施行時とする)

日本におけるポストモダニズムと批評

柄谷行人(編)『近代日本の批評』シリーズ全3巻(講談社)は、Ⅰ-昭和篇(上)、Ⅱ-昭和篇(下)、Ⅲ-明治・大正篇から成る。各巻前半後半に分かれ、柄谷行人三浦雅士浅田彰蓮實重彦野口武彦が執筆した論文を叩き台にして共同討議を展開するというものである(野口は、Ⅲのみに参加)。

 

触れられている批評については概ね有名どころで、批評を通史的に読み通したことのある者なら誰でも一読したことがあるものが多く、そこに物足りなさを覚える者もいるかも知れない。例えば、谷沢永一『紙つぶて-自作自注最終版』(文藝春秋)、『明治期の文芸評論』(八木書店)、『大正期の文芸評論』(塙書房)に掲載されているものまでは網羅されていない。とはいえ、読後約10年ほどの歳月を経た今でも、その内容を思い起こすことがあるほど、楽しんで読めた書物であった。

 

もっとも、柄谷行人が「批評は文芸批評の範疇に収まるものではない」と言いながら、結局は文芸批評に偏ったものに終わっていて、社会科学方面の言説についての言及が少ないのが欠点である。「日本資本主義発達史論争」についても「主体性論争」についても触れられていない。疎外論と物象化論との論争については軽く触れられているにとどまり、この論争において廣松渉が果たした役割が正当に評価されていないという不満も残る。

 

これら論争は、社会科学のみならず文学や哲学・思想に深く影響していたわけだし、テーマがテーマだけあって、近代化論そのものを問うている論争なのだから、マルクス主義を取り上げるならば、相当程度突っ込んだ分析が不可欠であるはず。でなければ、戦後の丸山真男の言説についてもまともなことは一言も言えないし(丸山自身は講座派でも労農派でもないが、講座派的な史観が色濃く反映されているとも言えるし、そう見なければ、丸山の言説における「転回」の理解も困難になろう)、戦後の日本史学に深い影を落としていた講座派的な史観やそれに影響された知的言説一般についての分析・記述も覚束なくなってしまう。

 

こうしたことを無視して語られる批評史は、それこそ蓮實重彦が「『大正的』言説と批評」と題する論文で問題視していた、標語による抽象的イメージの交換だけで具体的な分析・記述を欠いた「大正的言説」とさして代わらないものと堕してしまうだろう。

 

小林秀雄マルクス主義との関係を見るのは悪くはない。事実、小林秀雄の批評は当初、マルクス主義的批評との対決により開始されたわけであるし、小林秀雄が、戸坂潤とのいわば「共同戦線」を企図していたと思われる節を嗅ぎ取るのは、とかく共産党サイドから「戦争協力者」として糾弾されがちな小林秀雄に対する一面的見方を相対化する上で必要なことであろう。しかし、「27年テーゼ」や「32年テーゼ」を出し、「福本イズム」の隆盛とその失墜を紹介するならば、講座派的な見方がマルクス主義陣営での覇権を握ったことの内実を丁寧に分析の対象にしなければ、共産党をめぐる評価について目が曇らされてしまう。

 

戦後の言説が当初、社会科学者によって先導された事実には言及するものの、ほとんど分析の対象から外されている。丸山真男の名は出すものの、大塚久雄の経済史学や藤田省三天皇制国家批判については皆無。丸山真男の政治思想史学上の「転回」についても極めて重要なことなのに、これについても言及なしである。蓮實重彦が、『現代日本文化論1-私とは何か』(岩波書店)所収の「『読みやすさ』という虚構:丸山真男『日本の思想』を読む」と題する論文にて、丸山の分析の然るべきところは今なお、現代日本社会の分析として有効性を失っていないと指摘しているにもかかわらずにである。

 

ちなみに、蓮實の丸山評については、この他にも山内昌之との共著『20世紀との訣別-歴史を読む』(岩波書店)でも見られる。例えば「タコ壺型」と「ササラ型」として取り出された思考は、ともすればジル・ドゥルーズの言う「リゾーム」の思考と通低するものと見ることができるものの、丸山には「比喩に賭ける意志」が欠けており、その分析が一定の有効性を持っていたとしても、引用しようという気を起こさせないものになってしまっていると述べていたはず。

 

様々な欠陥を抱えつつも、それでも興味が持てたのは、Ⅰの昭和篇(上)である。このⅠは、時局との緊張関係の中で書かれた昭和前期の批評を対象とするだけあって、討議自体も勢い緊迫感を伴うものになっていた。論者たちが言うところの「大正的なもの」との切断において紡ぎ出されていった昭和初期の批評の強度すら感じられる。蓮實重彦があれほどまでに福本和夫を評価していたとは意外だったし(確かに、福本和夫の知的水準は、当時の日本のマルクス主義者はおろか、モスクワの連中をも凌駕していたわけだけど)、保田輿重郎にもしかるべき分量があてがわれていたことには好感が持てる。

 

この昭和篇(上)は、扱う時期が関東大震災から終戦までの約20年と短いながらも、その内容がある意味濃すぎるので、柄谷の論文も2本に分けられている。ただ、文学界グループや日本浪漫派への言及が多いのに比べて、京都学派への言及が少な過ぎた。特に、西田は単純化されすぎているし、田辺元の西田批判や数理哲学の分野での貢献も無視されている。悪名高い「歴史的現実」だけを取り上げるのはあまりに酷だろう。

 

三木清を貶めたいためか、それとも戸坂を持ち上げたいためか、三木清が「噛ませ犬」に仕立てられる一方、戸坂潤への過剰評価は如何なものかと首を傾げないわけにはいかない点など問題は多々ある。さすがに、マルクスレーニン主義の「模写説」を無理くり擁護する戸坂の論説まで肯定するとなるとついていけない。

 

熊野純彦が指摘する通り、和辻哲郎マルクス理解の水準は高かったというべきなのに、和辻評価が著しく低いのは不当と言うべきだろう。また、高山岩男ヘーゲル研究や高坂正顕のカント研究は世界的な水準であったという廣松渉の評価を踏まえるならば、京都学派第二世代に対する正当な評価がない偏向ぶりも気になる。

 

しかも、戸坂潤を評価する割には、戸坂の主著たる『空間論』にはあまり触れず、『日本イデオロギー論』(岩波書店)所収の「反動期における文学と哲学」をやたらと持ち上げるなど、極端な見方で染め上げられているものだから、この辺りは異論を持つ読者も多かろう。

 

蓮實重彦中井正一の「委員会の論理」を持ち上げるのは、中井と蓮實の父蓮實重康が知り合いだからということが関係しているのかも知れないが(確か『齟齬の誘惑』(東京大学出版会)にも、「名コックス、中井正一」という、おそらく七帝戦での来賓挨拶として読み上げられた原稿にも触れられてあったはず)、いずれにせよ中井正一の難解と言われる「委員会の論理」は、実際に読んでみると、主張自体は最終節にほんの少し申し訳程度に触れられるにとどまり、それまではだらだらとした内容が綴られている。それだけに、蓮實の中井評価のポイントがいまいち理解できないものになっている。中井正一の思考は、むしろ経営学的思考と親和的であって、下手な経営学のテキストを読むよりは中井のテキストを読んだ方がよほどためになるはずだ。なぜ、日本の経営学者で中井正一を取り上げないのか不思議だ。まあ、単に知らないだけかもしれないが。

 

検討の対象になっている批評は限られているし、また偏りも目立つ。最もつまらないのが、Ⅱの昭和篇(下)である。戦後日本の批評を総ざらいし、三浦雅士の論文を叩き台にして論じている前半はまだましで、後半は浅田彰の略年表で誤魔化した短い文章の手抜きが目立ち、「こりゃ、ちょい酷いな」という感想しか漏れて来ない。確かに、短い期間の担当であるだけに、読むべき批評が極端に少ないということもわかるが(自分たちの営為を間接的に批判しているとでも言うのだろうか)、それもあって柄谷行人は「わが道を行く」という感じで我田引水にすぎる発言が多く、蓮實重彦といえば、「オイルショックには興味がなく、むしろ同じ年にジョン・フォードが死んだことに執着している」だのといった人を食ったような発言してるし、浅田による80年代の批評シーンの整理は教科書をまとめた淡泊なものでしかない。

 

もちろん、戦後に活躍した社会科学者からなる批評は考慮されていない。Ⅲの明治・大正篇は、この四人に野口武彦を加えた五人によって討議され、野口による明治篇の論文も、蓮實による大正篇の論文も非常に面白い。それだけに、Ⅱの浅田のレポートの手抜きぶりが際立つ。

 

日本の批評シーンにおいて、「ポストモダニズム」が盛んに論じられるようになったのは1980年代である。1970年代から徐々に、日本にもその言説が導入されるようになり、80年代に全盛期を迎え、それが90年代後半になると下火になっていった。

 

1990年代末には、批評の世界は完全にかつての勢いは見られず、社会のニーズも様変わりして「論壇」そのものが死滅に近い状態になった。世界的には冷戦終結、我が国ではそれに加えてバブル経済崩壊以降の長期低迷期に突入したことに相即しているのかもしれない。

 

象徴的な意味で、蓮實重彦が第26代東京大学総長に就任した平成9(1997)年に、我が国における「ポストモダニズム」批評は終わりを告げたと乱暴に言っておこう。また、潜在していた「ポストモダニズム」的言説に対する反発が、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『「知」の欺瞞-ポストモダン思想と科学の濫用』(岩波書店)の紹介を機に一気に噴き出したことも追い討ちとなり、我が国における「ポストモダニズム」的言説は急速に萎んで行ったように思われる。

 

話を元に戻して、1970年代から80年代の批評シーンを顧みると、主としてフーコードゥルーズデリダの思考が、雑誌「エピステーメー」などを介して紹介された。例えば、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』(朝日出版社)は、この「エピステーメー」に連載されていた文章を纏めたものである。この著書が昭和53(1978)年の出版であり、同じ年に柄谷行人マルクスその可能性の中心』(講談社)が出された(雑誌「群像」に連載開始されたのは、その5年前)。

 

遡ること昭和48(1973)年には、ジル・ドゥルーズのPrésentation de Sacher-Masoch : le froid et le cruelが『マゾッホとサド』として蓮實重彦訳によって紹介されていた。ドゥルーズによるフーコー論「新たなるアルシヴィスト」と、フーコーによるドゥルーズ論「哲学としての劇場」を収録した『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』として蓮實重彦の訳で出版された。昭和49(1974)年に出た蓮實の『批評あるいは仮死の祭典』では、ラストに収録されている「批評あるいは仮死の祭典-ジャン・ピエール・リシャール論」と併せて、フーコードゥルーズやバルトへのインタビューなどが収録されている。

 

また、フランス現代思想ほどではないが、米国のヘーゲリアン・マルクス主義フレドリック・ジェイムソンによるポストモダニズム批判も紹介され、『弁証法的批評の冒険-マルクス主義と形式』(晶文社)や『のちに生まれる者へ-ポストモダニズム批判への途1971-1986』(紀伊國屋書店)などが早速紹介されていたし、度々訪日していたジェイムソンは、湾岸戦争直後の雑誌「批評空間」の共同討議にも呼ばれているし、浅田彰柄谷行人磯崎新などが中心となって企画されたAny会議にも参加していた。

 

ポストモダニズム」の日本への紹介とともに、『朝日ジャーナル』などのメディアが、「若者たちの神様」として、当時京都大学助手で、『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房)で一躍脚光を浴びた浅田彰が取り上げられたり、山口昌男の下で東京外国語大学助手を務めていた中沢新一の『チベットモーツアルト』(せりか書房)がサントリー学芸賞を受賞してベストセラーとなるなど、両者ともメディアから「ニューアカデミズムの旗手」と持て囃されたわけだが、想像するに、当時は左翼学生運動が急速に下火になっていった後、旧態依然としたマルクス主義に代わる新たな思想の風が吹くことが漠然と期待されていた状況だったのだろう。

 

とはいえ、反発ももちろんあって、例えば、浅田彰『逃走論』所収の「マルクス主義ディコンストラクション」に対しては富山太佳夫から批判がなされたし、中沢新一に関しては、東京大学教養学部の教員同士の「権力抗争」とが絡んだ「東大駒場騒動」の渦中に巻き込まれ、東京大学教養学部助教授採用案が教授会において否決され、刑事法学者渥美東洋が仕切る中央大学総合政策学部に拾われる。中沢の採用案に物言いがついたのは、「科学や数学の概念を理解せずに、それらを見せかけのファッションとして利用するばかりで、学問的にナンセンスな戯言を弄しているペテンではないか」という疑念が持たれたからである。正に、後の「知」の欺瞞の告発に先駆ける騒動でもあったのである。

 

その頃、蓮實重彦柄谷行人も急接近し、雑誌「現代思想」において、例えば「マルクス漱石」などの対談を繰り返し行われるようになり、昭和63(1988)年にはそのクライマックスとして両者の対談『闘争のエチカ』(河出書房新社)が出されたと言ってもよいだろう。「形式化の問題」に憑りつかれ、同時にオカルトに嵌っていた柄谷が、『批評とポストモダン』(福武書店)、『内省と遡行』(講談社)、『探究Ⅰ』(同)、『探究Ⅱ』(同)と立て続けに出版したのも80年代であり、こうした柄谷の営為に対して蓮實が「闘争の光景―『探究Ⅰ』を読む」というエールを送るなど、蓮實・柄谷の蜜月時代が続いた。日本におけるポストモダニズム擁護の「共同戦線」が張られていた時代とも言えようか。

 

蓮實重彦『帝国の陰謀』(日本文芸社)が出版されたのは、平成3(1991)年である。3年前に出された『凡庸な芸術家の肖像-マクシム・デュ・カン論』(青土社)の「副産物」として生まれたこの短い書物には、ベンヤミンの「複製技術」の問題系、デリダの「署名」や「散種」といった問題系、はたまたドゥルーズの「反復」と「シミュラークル」の問題系といった主題で編まれた織物となっており、「フランス現代思想」のちょっとした応用問題を解いている側面もある。さらに、この書物の一部をコンパクトにまとめた形になっている、「署名と空間」と題された発表原稿が『Anywhere』(NTT出版)に掲載された。

 

「近代」と呼ばれる特殊な一時期において、ド・モルニーというナポレオン三世の異父弟である「私生児」によってなされた署名が、どのような空間において機能したのかという関心の下、1851年12月2日に起こったクーデタと、そこから始まった「第二帝政」が、ことによると、20世紀後半に可視化されてきたポストモダンな状況を先駆ける意味を持っていたのではないかと、蓮實は提起する。このクーデタは、マルクスをして、『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』で「反復された笑劇(ファルス)」と書かしめたあの事件である。蓮實は本書で、マルクスですら掴み損ねていた「第二帝政期」に現出した、モダンとポストモダンの並行関係を読み取ろうとする。

 

蓮實によると、マルクスのこの断定は、政変によって開示された政治的空間を支えもする複製技術時代における「シミュラークル」の「祝祭」ともいうべき事態について意識的ではないというのである。オリジナルの「正統性」を欠いたいかがわしいイメージが無限に反復されることで、かえって「現実味」を帯びてしまう空間が、フランス第二帝政期に出現したというわけだ。

 

蓮實重彦などによって紹介されていたドゥルーズだが(小林秀雄は、その前からドゥルーズを読んでおり、そのベルグソン解釈に興味を持っていた。その小林秀雄が亡くなるのは、昭和58(1983)年である)、1980年代に、「ニューアカデミズムの旗手」浅田彰の『構造と力-記号論を超えて』が火付け役となってドゥルーズのブームが沸き起こり、大して読まれもしない単なるファッションとして世間に広まっていった。

 

この時期はまだ、「知」らしく見えるものが意匠として一定の機能を持っていたのだろうか。倉橋由美子『聖少女』で登場する、ポントリャーギン『連続群論』を携帯する少女の如く、『構造と力』を片手に持ち歩く変な学生もいたというのだから、後世の者からすれば俄には想像し難い時代だったわけだ。

 

蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』や中沢新一チベットモーツアルト』や宇野邦一『意味の果てへの旅-境界の批評』(青土社)などが矢継ぎ早に刊行された時期があった。

 

面白いのは、浅田彰に対する批判は、旧来の左翼から起こったということである。特に、マルクス主義者からの浅田批判が多かったことがわかる。何せ、日本共産党系の言論人も浅田彰批判を展開していたのだから、日本に「ポストモダニズム」がブームになった頃は、「ポストモダニズム」はマルクス主義批判の一つとして受容された側面がある。旧来の左翼が「ニューアカデミズム」や「ポストモダニズム」に対する反発を強くしていったのである。

 

90年代になると、ドゥルーズのブームは収束したかに見え、90年代後半のドゥルーズ自死の際は、雑誌「現代思想」や「批評空間」で特集は組まれたようだが、ブーム再来というわけには行かなった。一旦終息した後、2010年代に入ると、再び活況を呈してきたかのように、ドゥルーズ関連の書籍が刊行され続けた。

 

2010年代のドゥルーズ関連本の相次ぐ出版状況と、80年代のそれと異なる点は、80年代のブームが社会思想史(経済学部に講座が開設されていることが多いだろう)やフランス文学または表象文化論の領域といった、哲学以外の領域の研究者に支えられていたのに対し、2010年代のそれは、もちろん東大駒場表象文化論系の者によるものもあるとはいえ、主として哲学を専攻してきた若手研究者によりなる書籍が目立つようになってきたという点である。

 

但し、そうは言っても、哲学専攻者の中でドゥルーズを学位論文の対象に選ぶ者はごく少数であるというのが現状であり、まだまだ「壁」の存在を思わせもする。

 

しかし間違いなく、ドゥルーズやその他「フランス現代思想」の研究が、決して主流には到底及ばないものの、哲学アカデミズムでの「市民権」を徐々に得つつあることの証しとも言える。以前なら、研究テーマとして認められ辛かったドゥルーズやその他「フランス現代思想」の文献が、いわば哲学の「古典」として認められつつあるということかもしれない。こうした流れの中で、ドゥルーズその他「フランス現代思想」を学位論文などの主題にすることが憚られてきた暗黙の軛が徐々に取り外されて行った。

 

英米の哲学アカデミズムでは、いわゆる分析系の哲学や科学哲学ないしは従来の古典研究が主流を占めているので(もっとも、カーネギーメロン大学のような極端な傾向を持つところもあるが。ここは、数学専攻か計算機科学専攻かと見紛うような研究のラインナップであり、イスラエルの哲学にも見られる傾向であろう)、「フランス現代思想」が狭義の哲学の中核に据えられて研究されることはほとんどなかった。否、それのみならず、「フランス現代思想」への反発を強く表明してきたのは、哲学アカデミズムの中枢だったとも言える。ウィラード・クワインやデイヴィッド・アームストロング、トマス・ネーゲル、アドルフ・グリュンバウム、バーナード・ウィリアムズなど英米錚々たる哲学者が、また御当地フランスでもジャック・ブーブレスが公然と批判を展開していた。もっとも、たいていは不干渉を決め込んでいたが、いずれにせよ、「フランス現代思想」は、哲学アカデミズムの中枢からは閉め出されていたというのが実態である。

 

日本においても似たようなもので、あたかも東大系の研究者が「フランス現代思想」の研究者で席巻されてしまったかのように言う主張やら、「フランス現代思想」が哲学アカデミズムの中で権威を帯びるに至ったという主張やらが時折ネット上で散見されるが、端的に言って事実誤認である。東大であろうと京大であろうと、哲学アカデミズムの中で「フランス現代思想」が広まった事実などないし、ましてやアカデミズムにおいて権威を身に纏うに至った事実などない。

 

伝統的な本郷の哲学研究室においても居場所を持たなかったし(神戸大学から母校に戻った鈴木泉も、別に「現代思想」の研究者ではなく、元はと言えば、デカルトスピノザなど西洋近世哲学の研究を主戦場とする研究者であって、ドゥルーズの思考をその系譜に位置づけて解釈する立場から、現代フランス哲学に接近しているに過ぎないだろう)、駒場科学史科学哲学研究室でも同様。様々な分野が混交する表象文化論だとか比較文学比較文化のスタッフに「現代思想」を中心に研究する者が少数存在するという程度で、東大系哲学アカデミズムが「フランス現代思想」に偏っているという事実など見られない。

 

京都大学にしても、哲学の研究者は文学部と総合人間学部に散らばっているが、文学部の哲学専修や西洋哲学史専修、あるいは日本思想史専修や倫理学専修や科学哲学科学史専修を見渡しても、「フランス現代思想」の研究者は見当たらないし、総合人間学部の哲学系研究者にも存在しない。大阪大学でも、例えばドゥルーズフーコーを論じる檜垣立哉が所属するのは、豊中キャンパスにある伝統的な文学部ではなく、医学部などが移転した際に作られた吹田キャンパス内の人間科学部であり、しかも元はと言えば、ベルグソンの研究者だったわけで、多少軛がとれてきたと言える今でもなお、「フランス現代思想」の研究を専らとする研究者がアカデミズムの中で主要な位置を占めているなどという事実はないのである。

 

再度確認するように、若手研究者が研究テーマとして「フランス現代思想」を選択することを躊躇わせるほどに、隅に追いやられていたのが実態であり、その中で、西洋近世哲学や中世哲学を研究してきた層がドゥルーズなどを取り上げ、アカデミックな論文として認められる論攷を積み重ねてきたおかげで、漸く最近になって「現代思想」を学位論文のテーマにする者が出てきたというのが事実。スタッフの変遷なり、学術誌のバックナンバーを隈なく調べればわかる話である。

 

最近までは、哲学アカデミズムから批判されたり黙殺されるという形で遇されてきた「フランス現代思想」であるが、一般的にも知られるようになった目立った批判としては、やはり物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる批判が大きな役割を果たした。しかし、ソーカルとブリクモンによる批判の内実が決定的な批判になったと言いたいわけではない。それなら、ブーブレスによる批判や、ある意味ではロジャー・スクルートンによる批判も既に存在したわけであって、ソーカルやブリクモンの批判は、単に数学や自然科学の用語を出鱈目に使用してナンセンスな戯言を抜かすのはやめろという主張が主で、この主張自体は至極真っ当なものであるが、それを超えた決定的な批判までには至っていなかった。

 

のみならず、ソーカルとブリクモンが特定の哲学的立場を忍ばした上で批判しているのではないかと思わせる内容も含むだけに、完全に同意できるわけでもない。大きく分けて三つの異なる主張がごちゃごちゃに混ざった批判になっており、その内説得力がある批判としては一つしかないこともあり、実はソーカル批判の射程は思われているものよりも射程は短い。

 

しかも、ソーカルとブリクモンの著作すら読みもしないで、「フランス現代思想」と耳にするだけで条件反射のように否定する知的不誠実な者を大量に生むという「負の副産物」を残したことも指摘しておかねばならないだろう。「フランス現代思想」の一部の論者に見られた知的不誠実を告発する真っ当な声が、知的不誠実な者が群がる蜜になっちまい、ドゥルーズすらも全否定するような酷い偏見も罷り通っている。

 

英米の哲学アカデミズムに居場所を持たなかった「フランス現代思想」ではあるが、しかし、その関連分野においては「フレンチ・セオリー」として、デリダ研究やフーコー研究とともに、ドゥルーズ研究も旺盛に取り上げられてきた。ところが、英国のエディンバラ大学を中心にドゥルーズスタディーズが盛んに行われ、研究叢書も刊行され始めていることからすると、徐々にではあれ、いわゆる「ポストモダニストドゥルーズという見方とは異なる、これまでの哲学者・哲学史家の系譜に位置づけられたドゥルーズという見方が時間の経過とともに浸透していくのだろう。

 

日本の哲学アカデミズムにおけるドゥルーズ研究「解禁」に先鞭をつけたのは、おそらく平成12(2000)年に刊行された小泉義之ドゥルーズの哲学-生命・自然・未来のために』(講談社)だろう。これを機に、江川隆男『存在と差異-ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館)といった本格的な研究書が出され、雑誌「思想」に連載された論文をまとめた檜垣立哉『瞬間と永遠-ジル・ドゥルーズの時間論』(岩波書店)も世に出た。まとまった著作こそないが、鈴木泉もドゥルーズに関する論文を数篇執筆している。

 

興味深いのは、小泉も鈴木も、そして早くから『差異と反復』などの翻訳を手掛けていた財津理も西洋近世哲学の研究者であるということである(檜垣は確か元はベルグソンの研究者だったか)。ドゥルーズについて論じる山内志朗は、西洋中世哲学の研究者だ。なお、山内の『「誤読」の哲学: ドゥルーズフーコーから中世哲学へ』(青土社)は滅法面白い。ドゥンス・スコトゥスに関する学術論文を読みこなすまでの力量には欠ける僕にすら(西洋中世哲学の高峰は敷居が高く、何となく近寄り難いものを感じているけど、クザーヌスやライプニッツといった中世と近代の狭間の「近世」的思考に強く惹かれる者としては、本当は避けて通ることはできないのだろう。意外なことに、先端の確率論や確率の哲学に関心のある僕の周囲の者は、古代のヘレニズム哲学や中世の哲学が好きと言うのが多いのだ)、雑誌「現代思想」のバックナンバーを繰ってみればいいが、山内が若い時分に寄稿した論文や岡本賢吾との対談だけからでも、山内が優れた研究者であることは一目瞭然であった。

 

ここから見えてくるのは、やはり伝統的な哲学者の系譜に位置づけられるドゥルーズという像であろう。しかも、中世スコラ哲学、そしてスコラ哲学と近代哲学の狭間で思考を紡いできた17世紀近世哲学の研究者からも着目されるドゥルーズという像は、これまで「ポストモダニズムの旗手」ないしは流行の「フランス現代思想」の代表としてのドゥルーズという像が一面的に過ぎたことを告げ知らせてもいる(もちろん、どちらが正しくて、誤っているというものではないだろう)。ドゥルーズ自身、自らをスピノザライプニッツの研究者であることを自認していたわけだから、当然と言えば当然なのだろう。

 

フッサール現象学に元々関心があった研究者が、その延長線上でジャック・デリダやエマニエル・レヴィナスへと論域を拡大させていったのも、例えば、フッサールの『幾何学の起源』と、それに対するデリダによる本文より長い序説を読めば理解できる。この文章がフッサール現象学についての入門にもなること、そして特に「歴史的アプリオリ」の概念の理解をめぐってモーリス・メルロー=ポンティと対立する解釈を供するデリダの見解の方に分があること、そしてフッサールの思考には、デリダが指摘する「現前の形而上学」が色濃く反映されていること、この問題意識から「差延」や「散種」の思考が紡ぎだされて行ったこと等々なども容易に理解でき、デリダも元はと言えば、優れた現象学の研究者であったことがわかるはず。

 

だから、「フランス現代思想」の一部論者に見られるナンセンスな戯言を批判する指摘が全うな内容を持つものであったとしても、そのことから直ちに「フランス現代思想」を総まとめにして葬り去ろうとする主張に首肯するわけには到底行かないし(中には、「ポモ」だのと揶揄して済ませようとする者もいるが、これは論外である)、逆に味噌も糞も一緒くたにする乱暴な言動こそ、知的不誠実の謗りを受けることだろう。

 

広義の「哲学畑」の比較的若手の研究者によるものだと(どこまでを若手と呼ぶかは、はっきりしないけど)、全ては網羅できないものの、少なくとも僕自身が目にしたものでは、國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学-超越論的経験論の生成と構造』(人文書院)、渡辺洋平『ドゥルーズ多様体の哲学-20世紀のエピステモロジーにむけて』(人文書院)、小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)、近藤和敬『ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』を精読する <内在>の哲学試論』(講談社)、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)などで、これからしばらく「哲学畑」の研究者によるドゥルーズ研究書が量産されていくことだろう(どこまで長続きするかは疑問だけれど)。

 

そのこと自体は悪くはないものの、ちとやりすぎの感なきにしもあらず。哲学者は何もドゥルーズばかりではあるまい。ドゥルーズは確かに哲学アカデミズムにおいて研究対象として認知されてきはじめたこともあって、抑えられていたものが一気に噴き出るかのように量産され気味になるもの無理はない。

 

さらに言うなら、ドゥルーズよりも冴えた哲学者は他にいるのだから、哲学研究の全体の動向と出版業界の方向性に些かのギャップを感じてしまう人もいるだろう。哲学アカデミズムにおいて、ドゥルーズ研究はもちろんメインストリームを形成しているわけではない。あまりに偏りが生じれば、それはそれで研究環境も否応なく歪なものになっていく。もちろん、この責任は当のドゥルーズ研究者に帰されるべきことではないわけではない。

 

ドゥルーズ研究は、哲学アカデミズムでの「市民権」を得つつある。それはそれで、まことに結構なことなのだろうが、しかし同時に、ドゥルーズなり「フランス現代思想」の持っていた凶暴な思考が講壇哲学に取り込まれてしまうことで、その毒牙が抜かれてしまってはつまらない。

 

「哲学のヤンキー的段階」理解を追求したい僕としては、毒牙が抜かれるくらいなら、講壇哲学化されない方がいいと思っているが、とはいえ、出鱈目になってはどうしようもないので、なるほど、この塩梅が難しい。

「美的な乱暴」の系譜-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察②

1990年代後半から2000年代にかけて、東京の繁華街、中でも渋谷センター街を中心に遊んでいる、概ね15歳から22歳までの若者の中で目立った存在であった「ギャル」とその男性形の「ギャル男」といったある種の「トライブ」を対象に、比較的長期にわたる参与観察とインタビューに基づいて、その生態や価値観などを分析・記述した著書として注目を浴びたのが、荒井悠介『ギャルとギャル男の文化人類学』(新潮社)である。

 

本書は、一種のエスノグラフィーとして社会学に分類される一般向け書物であるが、10年ほど前に出版されたかと思う。当時は大学生で、雑誌「men' egg」はまだ存在していた。方向性は全く異なるが、「有害図書」としてPTAなどから攻撃を受けた影響で、一時は「VIPカー雑誌に様変わりしてしまったのか」と思えたほど牙が抜かれていた「低迷期」を脱して元の姿に戻りつつあった雑誌「チャンプロード」も辛うじて存在していた。

 

独特の、時にはエキセントリックに見えもするファッション、濃いアイメイク、明るく染めた髪、不自然なまでに日焼けした肌の露出、キャバクラ嬢のような格好でデコレートした「ギャル」。同じく、明るい髪色に日焼けした肌、仁侠界の若い衆のような不良っぽい格好の「ギャル男」。彼ら彼女らは、様々なメディアに取り上げられたが、中には、「コギャル」、「ガングロ」、「ヤマンバ」、「マンバ」、「センターGUY」など、昔の傾奇者を彷彿とされるような素っ頓狂なファッションで注目される者も多くいた。とはいえ、社会の視線は、まるで「珍獣」を見るかのようなものでもあった。

 

荒井の著書が対象としたのは、そうした「ギャル」や「ギャル男」の中でも、さしたる目的もない妙なイベントを企画・運営する「イベサー」と呼ばれる集団に属する若者たち、すなわち「サー人」と呼ばれる連中である。

 

「イベサー」は「イベント・サークル」の略に由来するので、若者版「お達者倶楽部」か、多摩川の河川敷でゲートボールに興じている爺さん婆さんの集まりの如きものと思われるかも知れないが、さにあらず。この集団は、クラブイベントを行う「インカレ」と、「チーマー」と呼ばれる繁華街の愚連隊擬きの文化が混ざり合って形成された、若者たちの「逸脱集団」の要素も持っていた。

 

「イベサー」は、学生たちの集まりにしては多額の金が動くことや、場合によっては犯罪ともなりうる行為など合法・違法の境界線での「ビジネス」にも関わっている者も含まれていたこと、あるいは繁華街での大規模な集団が目立って活動することなどから様々なトラブルに遭遇することが頻繁で、それに対応するため、渋谷を「シマ」にしている地元ヤクザと交渉できる「ケツモチ」と呼ばれる管理者が置かれていた。

 

「ケツモチ」という言葉は暴走族にもあり、時代や場所によって意味合いが違ってくるのだが、概ね二つの意味で使用されている。一つは、暴走集団の最後尾を担当し、追跡する警察や、暴走族の行為に業を煮やして自動車で集団に突っ込んでくる「ツブシ」などから仲間を守るために、最後方で楯となる役割を担う者を指す。もう一つは、暴走族の「後見人的な」役割を担う暴走族OBもしくは、OBが所属する右翼団体ないしヤクザを指す。

 

それはともかく、この「イベサー」は、主として高校1年生から大学3年生あたりまでの若者を構成員とし、22歳くらいになると、「引退式」という「儀式」を経て「イベサー」から去って行く。この点、暴走族にも「引退暴走」という「儀式」があり、それを機に引退することになるが、「高齢化」している状況では、引退したはずの20代のOBでも集会に参加してともに暴走行為に興じていることがごく普通に見られる(但し、「特攻服」は着ていないはずである)。著者である荒井悠介自身も、学生時代に大所帯の有名「イベサー」に入り、後にその代表格になったという経歴を持つ元「当事者」でもある。

社会学には、こうした規範逸脱的な若者の行動態様や価値観などを調査した先行研究は、古くは佐藤郁哉『暴走族のエスグラフィー』(新曜社)があるし、打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)など結構存在する。最近では、米国のオハイオ州コロンバスのゲイのギャング集団などへの参与観察を通してゲイやバイのギャング構成員の行為態様や内面等に迫った、犯罪社会学者バネッサ・パンフィルのThe Gang's All Queer: The Lives of Gay Gang Members. New York UP.などもある。荒井の著書は、暴走族など地域社会に生きるヤンキーたちを扱ったエスノグラフィーとは違って、地域社会とは切断された「渋谷」に集う、かつ必ずしも貧困家庭の子女とは言えない階層の若者たちの逸脱行動を扱っている点で、特徴ある研究であった。

 

.但し、僕が興味深いと感じるのは、この点ではない。社会学の研究は、それとして重要なのかもしれないが、荒井の研究目的や意図とは違って、これを社会学研究とは別の光のあて方をすることで、様々な読み方が可能であろう。

 

例えば、『知の技法』(東京大学出版会)所収の松浦寿輝「レトリック-Madonnaの発見、そしてその彼方」のような表象文化論としての読み方もできるかもしれない。哲学的解釈学的に読むと、九鬼周造『「いき」の構造』のような思考が開けるかもしれないとの密かな期待が持てるという点でも興味深い。

 

例えば、「サー人」のメンタリティにおいて高い価値が付与された「悪徳性」の徴表として、①非常識で煽情的な方法で注目を集めたり、脱社会的な発想や行動をするという「ツヨメ(脱社会的逸脱行動)」・②異性愛を利用するという「チャライ(性愛の活用)」・③逮捕されない範囲で反社会的行動をとるという「オラオラ(反社会的暴力性)」が抽出されるわけだが、それを社会学的に分析・記述するという範囲を超えて、それこそ九鬼が行ったような哲学的な分析によって、九鬼の言葉でいう「大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つ」を顕揚する仕事になれば、それは現代における『「いき」の構造』の再来となるやもしれないと。新たな社会的存在論倫理学を思考する契機にもなり得るだろう。

 

九鬼周造の哲学的営みは、戦前日本の哲学研究の世界で決して主流ではなく、傍流の中の傍流である。京都帝国大学で教鞭をとり西田幾多郎からも高く評価されていたことから九鬼周造を「京都学派」に含める者もいるようだが、「京都学派」はやはり西田幾多郎の後継の田辺元であるとか高山岩男高坂正顕あるいは戸坂潤や三木清中井正一久野収あたりまでを指し、和辻哲郎九鬼周造を含めると、「京都学派」の意味がインフレ化してしまって何が何だかわからなくなる。いずれにせよ、「ハグレ者」としての九鬼周造が選んだ最大のテーマは、「偶然性の問題」であった。

 

『「いき」の構造』において、相対立する要素の二元性を弁証法的に止揚してしまうのではなく、個々の異質な要素を緊張関係において捉える思考を顕著に見せる九鬼周造だが、主著『偶然性の問題』では、偶然性を「偶々然かあるの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないこと」であり、「有と無の接触面に介在する極限的存在」と位置づける。

 

九鬼は、偶然性が必然性の対概念であることに着目し、必然性の三様態に応じた偶然性の三様態を「定言的偶然」・「仮説的偶然」・「離接的偶然」と振り分けて、それぞれについて思弁的な「偶然性」論を展開していた。あのままでは、「確率の哲学」で世界的に見て主流の議論に直ちに接続可能とは行かないが、九鬼が考えていたことを考えている者は、少なくとも僕の知る限り、英米にもイスラエルにもいる。

 

「定言的」・「仮説的」・「離接的」という表現では若干わかりにくいが、要するに九鬼自身も言い換えているように「論理的」・「経験的」・「形而上学的」と理解しておけばよい。一つ目が単なる現実としての一つの実存がこの偶然性を実践的内面化するときに、無数の個同士の「間柄」の自覚に至るというのである。この『偶然性の問題』が、『「いき」の構造』とがどのように関係しているかについての論考はおそらく存在するのだろう。

 

九鬼周造は、「いき」という我が民族独特の概念の意味を明らかにするために、西洋哲学の流儀に合わせて、『「いき」の構造』を著した。但し、九鬼自身が予め断っている通り、「類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によつて何らか共通点を見出す」方法は、民族の存在様態としての文化存在の理解にとって適切な方法論的態度ではない。なぜなら、民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域において理念化したところで、それは単にその現象を包含する抽象的類概念を得るに過ぎないからであり、文化存在の理解の要諦にとっては、「事実としての具体性を害うことなくありのままの生ける形態において把握すること」が肝要だからである。さらに、「いき」を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を求めてはならないとも言う。

意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問ふ前に、まず「いき」の existentia を問ふべきである。一言にしていへば「いき」の研究は「形相的」であつてはならない。「解釈的」であるべきはずである。

 

そこで、まず意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」を会得し、その次に客観的表現を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならないことを主張する。決して、前者を無視したり、または前者と後者との考察の順序を逆にしては、「いき」の把握は覚束ないのである。

既にいつたやうに、この種の現象と「いき」との共通点を形式化的抽象によつて見出すことは必ずしも困難ではない。しかしながら、形相的方法を採ることはこの種の文化存在の把握に適した方法論的態度ではない。しかるに客観的表現を出発点として「いき」の闡明を計る者は多くみなかやうな形相的方法に陥るのである。要するに、「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づひて自然形式および芸術形式に現はれたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていへば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。

 

九鬼によると、「いき」とは三つの徴表をその契機とするいう。第一の徴表は、異性に対する「媚態」である。第二の徴表は「意気地」である。第三の徴表は「諦め」である。但し、注意しなければならないことは、これら三つの徴表は、それらが構成要素となって集まることによって「いき」となると考えてはならないということである。この徴表は、あくまで三つの「契機」として分析的に見出される徴表であって、各々を分離可能な構成要素として捉えるならば、「いき」を捉えそこなうことになる。

 

第一の徴表の「媚態」、すなわちの異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかると九鬼は主張する。異性間の尋常ならざる交渉は媚態の皆無を前提としては成立を想像することができない。そして、この「媚態」とは、「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」である。

 

「いき」のうちに見られる、「なまめかしさ」や「つやつぽさ」あるいは「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする「緊張」だという。にほかならない。いわゆる「上品」と違う。「上品」だと何かが足りない。媚態とは、「その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたもの」でなければならないからこそ、「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して倒れないアキレスといった人間だけが本当の「媚態」を知っていると九鬼は説明する。

しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。さうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いはゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示してゐる。さうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であつて、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失ふ場合には媚態はおのづから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもつたものである。

 

第二の徴表は、「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されており、「江戸児の気概」が契機として含まれていると言うのである。九鬼は言う。

意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されてゐる。江戸児の気概が契機として含まれてゐる。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」を尚だ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ」といふやうに、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもつた意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋なゆかり」を象徴する助六は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といつて喧嘩を売る助六であつた。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌はれた三浦屋の揚巻も髭の意休に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思ひ切つた気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立が粋で」とはこの事である。かくして高尾も小紫も出た。「いき」のうちには溌剌として武士道の理想が生きてゐる。

 

第三の徴表は「諦め」である。「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」であるので、「いき」は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。

運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしてゐなくてはならぬ。あつさり、すつきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。この解脱は何によつて生じたのであらうか。異性間の通路として設けられてゐる特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与へやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿にあり乍ら、お前は鬼か清心様」といふ歎きは十六夜ひとりの歎きではないであらう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴な信頼を失つてさつぱりと諦むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情ないは唯うつり気な、どうでも男は悪性者」といふ煩悩の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻びて」といふ万法の運命とを蔵してゐる。さうしてその上で「人の心は飛鳥川、変るは勤めのならひぢやもの」といふ懐疑的な帰趨と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛と思ふ人もなし、思うて呉れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」といふ厭世的な結論とを掲げてゐるのである。

 

以上から、九鬼は「いき」を次のように概括している。

「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示してゐる。さうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定してゐる。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一相容れないやうであるが、はたして真に相容れないであらうか。さきに述べたやうに、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめやうとする。すなはち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によつて限定することは、畢竟、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かへつて媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命によつて強要され、可能性の措定が必然性によつて規定されたことを意味してゐる。すなはち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」といふ存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによつて、存在完成にまで限定されるのである。

 

九鬼は、具体的には化政期における京の島原、江戸における吉原の遊女の姿を念頭においているのかも知れない。「いき」を示す身体の例として、冬であろうと素足で通そうとする遊女が挙げられているが、こうしたことは、実は、時代を下った現代でも見られたと言えそうえある。

素足もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といひながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かつたといふ。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表はしてゐる。しかし、この着物と素足との関係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反対の方向を採つてゐる。そこにまた素足の「いき」たる所以がある。

 

花街の遊女ではないが、例えば、特にヤンキーには、冬でもサンダルに素足というスタイルを通そうとする者をちらほら散見する。一昔前では、ボンタンのようにダボダボな感じに着流したスウェット姿あるいはジャージに、足元はハローキティの健康サンダルという格好の者が多くいたし、それがクロックスやナイキのベナッシに変遷しても、この点は変わらなかった。

 

あるいは、僕の父親の世代のヤンキーの写真なり映像なりを見ると、確かに素足にサンダルかスリッポン姿の者が目立つ。米国にもギャングその他不良集団は存在するが、そのようなスタイルの一貫性はない。明らか、他国の文化にはない「いなせ」な気風が現在も続いているのではないか。

 

あるいは、今ではめっきり姿を見なくなった東京都内や千葉県や茨城県南部の「老舗」の硬派の暴走族チームは、日章旗旭日旗のワッペンや刺繍を施した右翼スタイルの「特攻服」に雪駄履きというスタイルのところが多かった(これが、群馬や栃木といった北関東になると、「特攻服」自体がロングにびっちり刺繍を施したスタイルが多くなり、また足元はビニールテープを巻いたブーツというのが多くなる。関西になると、雪駄はもとより、ブーツも少なくなり、白の地下足袋が多くなる傾向が見られたように思われる。あくまで、僕自身の経験や、休刊した暴走族雑誌「チャンプロード」を見た印象に基づくので、必ずしもそうではないのかもしれないが)。

 

こうした若者の文化は、何も現代だけに見られるものではなく、相当古くから存在した。江戸時代には、傾奇者と呼ばれた若者の不良集団が暴れ回って、幕府は手をこまねいていたわけで、旗本奴やそれに影響を受けた町奴がその典型である。いずれも、人が思わず目を背けるような派手な衣装を身にまとい、男でも華美な化粧を施して、秩序を逸脱する行為それ自体に快楽を見出していたわけだし、女であるか男であるか関係なく放縦な性行為に耽り合っていた。

 

暴走族の「特攻服」も、様々な古風な文言(民族派右翼が街宣車に掲げている文句など)を始めとして、銘々の誌めいた文言が刺繍されている。優に十万円くらい費やしたと思われる立派な衣装に仕上げている者もいるくらいだ。以前、存在した「センターGUY」も、奇抜なメイクと派手な髪型、アルバローザの華美な衣装を纏ったその姿は、乱暴・狼藉こそ働かないまでも、かつての旗本奴の華美な装いを思い起こさせてくれよう(元暴走族のGUYが、知る限り一人は存在したが)。

 

折口信夫によると、規範逸脱行動著しい「ごろつき」と呼ばれた連中は、鎌倉期から存在したというのである。『古代研究Ⅱ-祝詞の発生』(中央公論新社)所収の「ごろつきの話」という文章がある。そこで、折口は次のように言う。

無頼漢などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。・・・ごろつきが発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。

 

先の旗本奴や町奴の「奴」とは、この「ごろつき」のことである。折口は、この「奴」について、以下のように表現している。

「奴」といつた。奴の名は髪の格好から出たものと思はれる。鬢を薄く、深く剃り込んだ其形が、当時ははいから風であつたのだ。そして、其が江戸で流行を極める様になつた。町奴の称が出来たのは、旗本奴が出来たからであつて、もとは、かぶきものと言うた。旗本奴もかぶきもの・かぶき衆などいはれたのであつた。併し、後には、此二者が交錯して、かぶきの中に奴が出る様なことにもなつたのであつた。・・・かぶかんとは「あばれよう」と言ふ事である。即、舞ひに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、此が六法となつて残つてゐる。尚、六法は、前に言うたかぶき者の別名ともなり、其一分派には、丹前など言ふものも出来た。共に、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練つて歩いたのであつた。「六法はむほふとも訓むべし」など言ふやうになつたのは、恐らく、彼等の、さうした行動から出たものであつたらう。併し、六法は、其以前からもあつた。室町の中期頃に、六法々師と言ふものがあつて、祭礼に練つて歩いた。京の街では、早くから、祇園祭に異風の行列が流行つた。これのはつきりして来たのは、室町からであつたが、既に、其以前、平安朝に於ても、其風はあつたのだ。さうして、これの愈発達して来たものが、風流であり、六法である。彼等は、仮装をして、盛んに暴れ廻つた。当時としては、其がはいからであり、さうして人目を驚かすことに、社会一般の興味があつたのだと思ふ。彼等は、好んで外国渡来の品などを身に著けた。かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じたのである。

 

こうして見ると、今も昔も「ヤンキー」と呼べるであろうような連中は存在している点で、何ら変わらないことが理解できる。しかも、そのメンタリティまで現代の者ですら想像できるくらいである。「かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じた」とあるように、イケイケな状態で逸脱行動に踏み切った際の興奮に伴う快楽には、単に「心地よい」というのではなく、ある種の「性的興奮」によってもたらされる「性的快楽」が付随する。公道を暴走しながら興奮状態が高じて雄たけびをあげタコ踊りする暴走族の脳内は快楽物質が大量に分泌し、中には、性行為をしているわけでもなく勃起してしてしまう者もいる。「異風と荒っぽいことに性欲を感じた」というのは、この文脈においても想像できるだろう。

 

人生行路の上では、単にメリットがないというだけでなく、警察に逮捕される危険性や暴走中の事故による死傷の可能性あるいは対立チームとの抗争による負傷の危険性という大きなデメリットを抱えながら、それでも敢えて危険を冒し、彼女とのデートなどにも目もくれずに暴走行為に向かうのは、それだけの「見返り」となる「快楽」が伴ってのことであると考えれば、その行為を理解することができよう。

 

荒井悠介が研究対象にした「サー人」の特徴の一つである③「オラオラ」は、反社会的逸脱行動に喜びを見出す面が含まれている点で共通性があるが、「オラオラ」は「サー人」の持つ打算性のために自制がかかっているという点では、暴走族その他「ごろつき」の系譜とズレる面もあるようだ。しかも、ここには、我が民族独特の特質もあることを忘れてはならないだろう。この点についても、折口は次のように述べている。

 

此二者が相寄つて、美的な乱暴を創始した。美的とは言うても、其は美学的見地からのものではない。尤、中には「助六」の様な美しくて、力のあるものもある。殊に、当時の、さうした風潮を念頭に置いて此を見るならば、団十郎の此を作つた気持ちは、容易に訣ると思ふのである。かやうに、かぶき・かぶくと言ふ語の、元の意味は、乱暴する・狼藉するといふことであつたので、歌舞妓芝居はそれから生れたのである。

 

美学的意味とは異なる「美的な乱暴」、これも一つの我が国の伝統を形づくる「ごろつき」のもたらした文化の徴表の一つとなっているのではないか。折口信夫国学者民俗学者であったので、この点について哲学的に概念化するような思考はしていない。

 

しかし、間違いなく、我が国の社会の伝統には、和辻哲郎的な伝統や社会の捉え方では削ぎ落されてしまう「美的な乱暴」の系譜が存在する。飛躍を承知で言うならば、この系譜に視線を注ぐことから構想される新たな社会哲学、ないしは和辻哲郎的営為として遂行される倫理学を考えることができそうである。それは、和辻倫理学とは全く異なるものになるだろうし、さらには「近代的市民」を理想化して、その人間類型にそぐわない存在を「アウトロー」として排除することによって得られた、「公-私」のリゴリスティックな分離を言祝ぐ「リベラル」の思想に激しい違和感を持つ者が待望する哲学・倫理学になるに違いない。哲学にとって、「レーニン的段階」理解など、取るにたらない。重要なのは「哲学のヤンキー的段階」理解なのである。

空間論・時間論に対して共同主観性論及び物象化論はどの程度寄与しうるのか

世界観総体の革命を企図する壮大な哲学体系樹立を目指した廣松渉にとって、世界認識の範疇的枠組たる空間や時間の概念がその検討さるべき主題となるのは必然的であろうと思われるところ、その膨大な業績を見渡しても、廣松哲学に固有の空間論・時間論と呼べるものを見出すことは難しい。『廣松渉著作集』(岩波書店)第2巻に収録されている短い論文「時間論のためのメモランダ」で、廣松は以下のように述べている(なお、この論文は、元はと言えば、『事的世界観の前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』所収の論文であったが、著作集では、各章がテーマごとに分解されて収録されている)。

時間というものをいかなるものとして了解するかは「世界観」の総体と相即的に関わっている。それゆえ“近代的”世界観の全般的超克が課題となっている今日、時間概念の抜本的再検討が要件をなすことは更めて言を俟たない。

しかしこの論文は、廣松曰く「覚書風に書留め」たものに過ぎず、本格的な時間論と呼べるものとは言い難い。何より論域が狭く、その内容も、見田宗介『時間の比較社会学』(岩波書店)のような、地理的・歴史的な時間観念ないしは時間意識の相違の記述と分析が大半を占める。結論を先取りして言えば、廣松哲学固有の時間論として、現代の科学の知見から導かれた主要な時間論などと建設的対話が可能と言えるほどの内容は、残念ながら展開されていない。空間論についても、同様のことが指摘できるだろう。この空間論・時間論を欠いている点が、壮大な哲学体系を展望していた廣松哲学の「弱点」の一つとなっているものと思われる。

 

「主観-客観」図式の排却と四肢的構造論、「対自的-対他的」認識とその共同主観的存立構造の議論は、現代物理学の認識論的問題提起に触発された一面を持つと断っている通り、空間論・時間論の動向に対して無視を決め込む態度をとらない。実際、『著作集』第3巻に収録されている『相対性理論の哲学』や『科学の危機と認識論』において、ニュートン力学からマッハ主義の再検討を経由して、アインシュタイン相対性理論に対する論述へと至り、最終的には量子論までをも論域に収めた考察を残している。『科学の危機と認識論』では、以下のように述べている。

認識論はもとより自然科学の“後追い”を宗とするものではない。しかし、嘗て物理学の専攻を志していた著者が「哲学専攻」へと進路を転じた機縁からいっても、著者の個人的な事情に即するかぎり、現代物理学の当面している認識論的問題状況を慮外に措いては、認識論的構案について語ることができない。

 

ここでの廣松の主要目的は、近代以降の自然科学の代表的な学問である物理学の進展に配視して、相対性理論量子力学の提起した深刻な認識論的=存在論的な問題次元を照射することで、「物的世界像」の最大の堡塁たる物理学的実在概念の本拠を突き、以って「事的世界観」への推転を諭すことである。『相対性理論の哲学』には、次のような記述がある。

相対性理論は、ヨーロッパ思想の宿痾となっている実体主義的な存在観を「実体主義の第一拠点たる物理学」の内部から震盪させ「関係の第一次性」を顕揚したこと、存在論的な視角ではとりわけこの件に留目させられる。筆者の謂う「事的世界観」にとってこれが一つのインパクトをなしていることは言うまでもない。認識論的な視角では、方法論的全構制を支える間主観的(相互主観的=共同主観的)な観測における「観測結果の間主観的同型化による対象的所知措定」の構制に着目したい。これは筆者流にいえば、「対自-対他」的な「共同主観的四肢構造」の構制にほかならない。

 

ここで注目すべきは、他の主題における論じ方とは若干異なっている点である。その異なる点とは、ニュートンにおける絶対時間・絶対空間の概念がアインシュタインの相対論によりもはや維持しえなくなっている事態を、近代において支配的であった空間・時間概念の破綻として論じるだけでなく、相対論と量子論が「近代的パラダイム」に収まりきれないことを強調して、自説の共同主観性や関係の第一次性の主張に引き付けて論じることに終始し、空間論・時間論の核心については触れられていないという点である。換言すれば、あくまで近代的世界観の崩壊の萌芽を自然科学の理論的進展によって論じることに止まっており、空間や時間の「真実態」の探究がなされているとは言い難い。

 

確かに、時間論における真の問題構制として、「過去」・「未来」の世界と「現在」の世界との相関性の構造を問うてはいる。ところが、時間概念の歴史的・文化的変遷を確認した上で、認識の四肢的構造連関に時間概念の成立機序を帰着させることで以って、相関性の構造の解明とされてしまっている。これでは、「過去」・「未来」・「現在」の観念の形成に関する仮説の提示であっても、「過去」の世界・「未来」の世界とこの「現在」の世界の相関性の構造を解明したことにはならないだろう。

 

『存在と意味』第1巻では、第三篇第一章「事物的世界の分節態勢と空間・時間」及び第三節「時間的規定の形象化」において論じられている。ここでは、所謂“近代人”の代表的時間表象として、ニュートン力学において前提される絶対時間に見られる線型時間が取り上げられている。この時間表象が、歴史的・文化的に特異な時間表象である旨が確認され、「狩猟民族型」・「農耕民族型」・「遊牧民族型」・「旅商人型」という時間表象の4類型が抽出される。時間表象の類型としては、狩猟民族や農耕民族に見られる循環的時間表象が多数派であり、線型的時間表象は、元来は遊牧民の行路が時間経過の形象化として具現化されたものであって、一般的な時間表象ではないことが論じられている。

 

廣松は更に、この4類型を身体的自我とその移動的変様形態に定位して、以下のように説明している。①身体的自我そのものは止住しつつ世界が移動的に変様する場合には「狩猟民型」に該当する。②身体的自我そのものは止住し世界も非移動的に変様する場合に、表象的世界と知覚的世界とのうち、一者から他者への変様がもっぱら変様的変化として了解されているとき、これが「農耕民型」に該当する。③身体的自我そのものが移動するとはいえ世界もまた一緒に移動的に変様する場合、これが「遊牧民型」に該当する。④身体的自我は移動的に運動するが、世界そのものは移動しない場合、これが「旅商人型」に該当する。

 

体験的時間の分析に即して、知覚的現在は抑々が、物理学で論じられる瞬間的同時位相ではなく、一定の持続が体験される時間帯とでもいうべきものであって、旧来の哲学的・物理学的時間論の理論閉塞は、こうした瞬間的同時位相としての「今」を前提にすることから立論していることに起因するとされ、この前提は体験的時間の実情に沿わないとして退けられる。そして、時間なるものが瞬間的現在の継起的持続であるかのように観念される傾向こそが、瞬間的現在としての「今」の遷移としての「過去」・「現在」・「未来」の時間の措定とその物象化的錯視をもたらす要因になっている。さらに、時間の自体的存在性を前提とする運動に先行する条件としての時間概念を転倒した考えであると論じ、運動の先行性とそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間概念を説明している。

アインシュタイン相対性理論をまつまでもなく、時間・空間・質量等々は相互制約的な有機的聯関態をなしており、現代物理学的に言っても、時間は空間や質量から独立に存在するものではない。しかるに、時間・空間・質量が聯関態においてのみ存在するということは、視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している。-時間や空間といった規定性は、この原基的存在たる運動態のモメンテを悟性的に抽象し、それを運動なるものの先行的存在条件とみなしつつ宛かも自存的な存在であるかのように扱ったものにすぎない。-翻って思うに、われわれの体験的時空間は、まさにそのような聯関態において存在する。・・・過現未にわたって既在する時間なるものがあるからこそ、運動・変化(の知覚)もはじめて存在しうるというがごときは、悟性的抽象に立脚した物象化的倒錯にほかならない。

 

体験的時間の先後関係を持った持続性及び運動の一貫性を以って時間表象を組み立てることによって、時間の自体存立性と線型性を否定し、そうした体験から来る先後関係を持った持続性が理念化された形象として、時間が観念されるというのである。『存在と意味』には、以下の記述がある。

時間なるものの流過的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界はそれぞれ「時間」の一部分を分有するという表象になるし、時間なるものの路線的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界がさながらモノ・レールのように「時間」に跨っているという表象になる。・・・世界の内実をなす変化的現相は「先後的布置をもった持続」という存在様式を現示するが、この「先後的布置をもった持続」という存在様式をイデアジーレンしたもの、それが「時間」にほかならない。

この時間論における特徴は、体験的時間の持続の一貫性と「原基的存在」の運動態のモメントを並列させて、①時間の先行性、②自体的存立性、③「点」として表象される「今」の抽象化を否定していることである。しかし、理念化された抽象概念の自立的展開とその経験的基底となる「生活世界Lewenswelt」の忘却という、お馴染みの批判と同種の批判を並列させて論じられるのかが、そもそも怪しい。

 

アインシュタイン相対性理論は、ミンコフスキー由来の、時間と空間を分離不可能な「時=空」概念の描像に基づく「事象の存在論」を示している点から、確かに時間・空間・質量が「有機的聯関態」を形成していると論じることは可能だとしても、しかし、そこから直ちに「原基的存在」としての運動態のモメントとそこからの悟性的抽象化の帰結としての時間という理解が肯定されているわけではない。相対性理論が証したのは、時間と空間の非独立的存在性格なのであって、運動態の先行性と時間の抽象化という廣松の主張は、相対論からは帰結しはしない。また、物体の配置の変化を基底とする時間の再構成と、運動態を基底とする時間の抽象化に結びつけことにも慎重でなければならないだろう。

 

だから、「視角を変えていえば、運動態のみが存立するということを意味している」との廣松の主張は、必ずしも言えないのである。しかも、体験的時間の持続の一貫性を強調する文脈でアインシュタインが持ち出されているが、「過去」・「現在」・「未来」の存在論的位置づけの差異を認めず、時空多様体として捉えたアインシュタインの立場と明らかに齟齬を来す点が無視されている。線型的絶対時間及び絶対空間からなる描像を批判したいがあまり、体験的時間の持続の一貫性と相対性理論が同一次元に並列されて論じられているところは、明らかに議論が錯綜している。

 

廣松の空間論・時間論の立論は、歴史的・文化的な時間概念の概観を踏まえつつ、知覚的現認対象たる自己と予期的世界に表象される自己との二重性、言うなれば身体的自我の「自己分裂的自己統一」という覚識を媒介環とする時間意識の発生機制及び時間の形象化の可能性条件についての論述としては示唆に富む考察であるが、あくまで「主観的」な時間の形象化に関する立論にとどまっており、「客観的」時間を、各共同体の歴史的・社会的・文化的生活世界における、相互の自己分裂的自己統一を媒介とする世界の変容態として共同主観的に形象化されたものと見るその論理には、明らかな飛躍が見られる。

 

相対性理論における異なる「観測系」の相互関係に基づき、同一事態を交換可能な双方当事者の両視座に立って定式化可能な事態を以って、共同主観性の理論的補強を試みる廣松の『相対性理論の哲学』での立論は、以下の通りである。

相異なる運動・観測系に所属する二人の観測者にとって、所与の物理現象の直接的現相は合致しない。一者にとっての対自的現相と対他的現相(すなわちもう一人の観測者たる他者にとっての現相)とは、直接的な所与性においては相貌が異なる。こうして、対自的現相と対他的現相は相違するにもかかわらず、観測者たちは所与現相の観測的定式化(自己の属する観測系に即しての描写的定式化)に所定の変換を施すことによって、対他的見地を“脱自的”観念的に扮技することができ、当の事象を共同主観的に同一の相で認識・定式化することができる。

すなわち、相対性理論の異なる「観測系」の“互換性”を以って、個別的主観性と共同主観性の相互関連性の理由づけとなしている。なるほど、相対性理論はその理論内部に「観測者」概念を取り込んでいるかに一見したところ思われるかもしれない。だが、相互に相対運動する「観測者」同士では質量や長さや時間についての測定結果が一致しないことはあるが、とはいえ、質量や長さや時間の集合間の関係を支配する法則については一致するし、相対運動していない際の特定の質量や長さや時間の記述については完全に一致するのだから、理論内部から「観測者」概念をいわば“消去”したとしても問題は生じない。相対性理論量子論と異なり、「観測者」概念を理論内部に包含している体系とは必ずしも言えないのである。個別的主観性と共同主観性との二重化された相互関係性を根拠づけるのに際して、相対性理論を「観測者」を取り込んだ理論体系とみなした上で利用する方法は、明らかに失敗しているという他ない。

 

のみならず、この立論内容では、科学哲学者や物理学者の世界で論じられている時間の実在性や方向性等の問題に代表される時間論に対応させることは難しい。確かに、アインシュタイン相対性理論の成果を取り上げ、空間と時間が各々単独で独立して存在するものとして扱うことの非を主張し、運動の先行性と空間・時間の自体存在性の否定を主張する立論は、マッハの主張、あるいは更に遡るとライプニッツの主張と一部重複する。しかし、アインシュタイン相対性理論が空間と時間の非分離的規定態として時空概念を提起したといっても、「時空」概念が実体的な「ブロック宇宙」として理解されるべきか否かという問題は、未だ決着つかない問題であり、認識論的側面における四肢的構造連関に基づく共同主観性論による実体主義的解釈への批判の射程が、こうした論争に対して積極的な寄与を果たすかと問われれば、些か心許ないと言わざるを得ない。

 

仮に、廣松渉の空間論・時間論が、徹底した関係主義を採る「ライプニッツーマッハ」路線の踏襲として自らを位置づけるのならば、少なくとも物理学理論における関係主義的理論構成が未だ成功していない現実に配視すべきところ、この点に関する問題意識が希薄であると言うべきである。また、ニュートン的絶対時間の概念が、アインシュタイン相対性理論が含意する時間概念からすると背理の関係に立つことを論じはしても、この点に定位して論を進めるならば、相対性理論量子力学の時間概念も同じく齟齬を来すはずである。

 

一般相対性理論の「時間」と量子力学の「時間」は、相互に互換性のない概念である。この非互換性は、ブラックホールや初期宇宙など双方の条件が適用される状況において、両者を単一の枠組に置換する際に多くの問題を生じさせる。量子力学ニュートン的絶対時間に基づいており、ここでは、時間は固定された背景となるパラメータである。時間にユニタリーな発展があり(つまり、確率は常に1になる)。この発展は、時間依存的な波動方程式(時間依存的シュレーディンガー方程式)と一致し、ヒルベルト空間のスカラー積は、保存された確率流束につながる。

 

ニュートンの外部的絶対時間とは対照的に、相対論では時空の別の座標としての時間という意味が与えたれている。従来の一般相対論的時空は、<M, g>すなわち、Mを時空位多様体とし、gをアインシュタイン重力場方程式に従うメトリックにより定式化される。座標の一般的な選択としての時間は、一般相対性理論的時空が、その時間の定数値に対応する一連の空間のような超曲面にスライスされる方法で幾何学的に具体化される。相対論と量子論が統合される閉じた量子宇宙論のような真に閉じた系を記述することと、外部的絶対時間の概念は両立しない。特定の時間に行われる測定は、従来のコペンハーゲン解釈(特権的な時間の存在に固定されている)の基本的な要素である。観測可能量は、所与の時間値を測定できる量である。一方、「履歴」は、一連の時系列測定の結果を参照する場合を除いて、直接的な物理的意味はない。その「履歴」は、経路積分形式では量子力学に似ているが、一般相対性理論に似た機能を保持することもでき、一般相対性理論量子力学の調整(の一部)の前兆となる可能性もあるが、いずれにせよ、宇宙全体で量子力学をどのように解釈すべきかは、今もなお謎に満ちた問題である。

 

両者の統一を試みる量子重力理論の抱える最大級の難問が、この”The Problem of Time”であり、有力な理論として考えられる超弦理論とループ量子重力理論は、相対論に軸足を置くのか、それとも量子論に軸足を置いて考えるかの違いを反映していると見ることもできないわけではない(あくまで素人しての印象でしかないが、超弦理論は相対論に、ループ量子重力理論は量子論にそれぞれ軸足を置いて思考しているように見受けられる)。それゆえ再び、両者における時間概念の不一致がどうしても現れ出てくるように思える。それほどの難問中の難問であり、いまなお解決を見ていないが、その中から、様々な時間論が思いもよらぬ副産物として生み出されている。米国ではピッツバーグ大学、英国ではケンブリッジ大学やオックスフォード大学などが、世界的な研究拠点になっているが、この連中の議論と比べて、やはりどうしても見劣りしてしまう。あるいは、イスラエルヘブライ大学で哲学の教授を務めていて、最近亡くなったイタマール・ピトフスキーのようなピカ一の頭脳を持った者が我が日本から登場することは期待できそうもない(ピトフスキーは、主として確率の哲学で著名だが)。

 

ともかく、相対論や量子論にまで論域を広げて空間論・時間論を展開するのであれば、この齟齬に対して踏み込んだ考察がない限り、さして実りある成果は期待できないだろうし、さすがの廣松も自分の手に負えることではないとの直感が働いたのか、新たな世界観の宣揚を打ち出す割には、空間論・時間論に触れる論考が著しく少ない理由になっているものと思われる。

真理についてのquid factiとquid juris-「哲学のヤンキー的段階」理解のための予備的考察①

廣松渉は、広く実践哲学・価値哲学・社会哲学・歴史哲学・文化哲学をも論域に収めた哲学体系を打ち立てることにより、「近代的世界観」の地平を超克し、新たな世界観の定礎を目論んだ哲学者であった。この目論見は、哲学の理論的な動機からというより、「資本主義時代に照応するイデオロギー」たる「近代的世界観」の超克は、「現体制の批判者たり、革命的変革の志向者」(廣松渉『新哲学入門』(岩波書店)の最後の一文)としての実践的理由に急かされてのことであったように思われる。『廣松渉著作集(全16巻)』(岩波書店)の巻頭を飾る第1巻に収録されている若き日の代表作『世界の共同主観的存在構造』の冒頭の文章だけでなく、ことあるごとに、廣松はこの点を強調している。『廣松渉コレクション(第5巻)-哲学体系の新視軸』(情況出版)所収の「私にとって哲学とは-既成的世界観への体系的批判」で、以下のように、廣松は述べている。

私にとって“哲学”、それは「近代的世界観」という現体制に照応するイデオロギーの地平に対する“体系的批判”でなければならないと考える次第です。体制内的思想の準位に堕した“既成マルクス主義”の批判をも試みつつ、より広くは「物的世界像」に対する「事的世界観」の体系的論述を私なりに志向してきました。

 

理論的哲学の課題に関して、世界の被媒介的存在構造の究明を第一義と位置づける廣松の思考の根幹は、第1巻「認識的世界の存在構造」、第2巻「実践的世界の存在構造」、第3巻「文化的世界の存在構造」の三部構成として構想された主著『存在と意味-事的世界観の定礎-』という題にも反映されている通り、「近代的世界観」を支える「物的世界像」を批判し、「事的世界観」にとって代わられるべきとの意図を背景にした議論になっている(第3巻は、廣松の若すぎた死によって日の目を見なかったことは、我が国の哲学・思想にとって残念なことである)。『著作集』15巻に収録されている『存在と意味-事的世界観の定礎-(第1巻)』には、次のような記述が見られる。

管見によれば、人類文明はかなりの以前から世界観的次元でのパラダイムの推転局面-十七世紀におけるいわゆる近代的世界観への転換期に次ぐ新たな現代的世界観への転換期-を即自的に径行しつつある。茲に胚胎している新しい世界観的パラダイムを対自化し可及的に定式化すること、これが哲学の今日的一大課題であり、この課題に対して著者なりに応える拙い構案が謂うところの「事的世界観」である。

 

世界の認識論的=存在論的「真実態」を対自化することを目指す廣松は、近代的思考の特徴の一つである「主観-客観」の二元論的図式を批判するため、その前提となる「認識対象-心的内容-認識作用」の三項図式を批判することから始める。この図式においては、対象的事物から認識主体へのと刺激が到来し、当該刺激が知覚心象という形で結像するという仕組みで知覚が成立するという考え方が基底にある。先方に対象が存在し、こちら側の知覚機構内部に写像が形成されるという形で理解される知覚観・意識観を、写真機の構造に例えて「カメラモデルの知覚観」と命名した上で、この図式が成立し得ないことを廣松は論じる。代わって、主観的契機における「能知的誰某-能識的或者」と、客観的契機における「質料的所与-形相的所識」という主客両側の二肢的二重性として把捉される「四肢的構造連関」に基礎を措く「共同主観的」認識構造の定礎を試みる(初期の『世界の共同主観的存在構造』と後期の『存在と意味』とでは、用語が若干異なっている)。

 

この共同主観性論に加え、その斬新なマルクス主義哲学に関する解釈により再定式化された「物象化」概念を活かした「物象化論」及び「物象化理論」の射程を極限にまで拡大させることによって、「実体主義」から「関係の第一次性」に視座を据えた「関係主義」への転換を図る。「近代的世界観」が概ね「実体主義」として特徴づけられる「物的世界像」に彩られるものであるならば、廣松渉が新たな「パラダイム」として措定する「事的世界観」は、「関係の第一次性」の認識による「関係主義」に基礎を置くものでなければならない。かくして、廣松渉独自の哲学体系として定礎される「事的世界観」を構成する「太い幹」を三つにまとめるとするならば、①共同主観性、②関係の第一次性、③物象化というこの3つになるだろう。

 

廣松渉は、特に1845年以降のマルクスエンゲルスこそが、この「近代的世界観」を超克する地平を切り開いたと評価する。マルクスエンゲルスは、その「近代的世界観」を超克する地平を開いたと言えるほどの体系的哲学のテキストを残しはしなかったので、この見解はやや我田引水、牽強付会な感もしないでもないが、何故そう考えるのかが明確に表明されたテキストに、『著作集』第10巻に収録されている『マルクス主義の地平』を挙げることができるだろう。この書は、ロシア・マルクス主義に代表される「客観主義的」解釈及び西欧マルクス主義に代表される「主観主義的」解釈のいずれをも退ける廣松のマルクス解釈の本領が発揮されている。

 

マルクスエンゲルスは、自然と人間を乖離させて考えるフォイエルバッハに対し、『ドイツ・イデオロギー』で、次のように批判している。

フォイエルバッハは、彼をとりまいている感性的世界は決して永遠の昔から直接無媒介的に存在している恒常的に自己同一的な事物なのではなく、産業と社会状態の生産物であるということを理解しない。

フォイエルバッハの哲学には、物理学者や化学者の眼にしか開示されない客観的存在としての自然、あるいは人間とは無関係に永遠の昔から存在している自然という描像が根底にあるが、そういう自然なるものは、人間から切り離して悟性的に抽象化されたフィクションに過ぎない。現実の感性的自然は産業と社会状態の生産物であり、しかも、それが歴史的な生産物であるという意味で、諸世代の全系列の活動の成果である。感性的な労働と創造、この生産こそが現に存在している全感性界の基礎である。自然と言えども、決して生の自然ではない。里山や森林云々と言えども、それは耕作や栽培を通じて「文化」化された人工の所産である。住居、調度、衣服、食品、われわれをとりまく物的世界は、人間の抱く観念の物象化された定在である。人間の歴史に先行するこの自然なるものは、フォイエルバッハが現に生活している自然ではない。

 

対して、マルクスエンゲルスは、「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」を原理とする「客観主義」も、「自然から切り離して形而上学的に改作した精神」を原理とする「主観主義」も批判した上で、両者を止揚統一しようとした。人間は、歴史的に送られてくる世界geschichtlich-geschickt-werdende Weltに対して、その関わり方をすら共同主観的・社会的に「存在によって決定」されており、用在的な歴史的世界に被投的に内・存在しつつ対象的活動を営むという「歴史・内・存在」と言うべき存在である。この「歴史・内・存在」の根本的な構えの地平に展らかれる世界は、科学主義的な物在、つまり「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」ではなく、歴史的自然=自然的歴史である。人々が、そこにおいて、本源的に共同主観的な在り方で自然を歴史化していく対象的な営みは、歴史的存在被拘束性においてある。このように、廣松はマルクスエンゲルスにおける自然観を捉える。『マルクス主義の地平』において、廣松は以下のように論じる。

マルクス主義唯物論においては、われわれの意識と存在は、いわば函数的連関の項としての構造的契機であって、文字通り弁証法的な動力学において把捉される。そのご登場したいくつかの哲学思想が、フェノメナルな問題場面から出発しつつも、マッハ主義その他において現にみられる通り、フェノメノンの被媒介性を説く段になると、所詮は近世的な主客図式Subject-Objekt-Schemaないし、身心図式Leib-Seele-Schemaを復元してしまうのに対して、マルクス主義唯物論は、人間の在り方を対象的活動として、しかも歴史的・社会的に共同主観化された“被投的な”対象的活動としてとらえ返し、この対象的活動の動力学に即し、そのObjektion-Objektivationに即してフェノメノンの被媒介性を定礎する。その際、「自然のプリオリテートは残るが」、有史以前の歴史化されざる自然というがごときものは「君の頭蓋骨は、かつてたしかに存在はしたが、もはやどこにも存在せぬ」のと同様、もはやどこにも存在せず、即自的な自然Natur an sichとわれわれにとっての自然Natur für sichとの区別だては「人間と自然とを区々別々のものとして考察する限りにおいてしか意味をなさぬ」ことが向自化されている。向自的な自然Natur für sichの被媒介性の解明を志向するに当って、旧来の諸哲学、わけても「近世哲学」は、認識論的に截断した媒介項と被媒介項とを存在的な截断と二重写しにしてしまい、即自的な自然そのもの(科学はこれを究明するものと私念される)を要請するが、マルクス主義唯物論の哲学的世界了解の次元でいえば、如上の悟性的抽象的な截断を固定化しない限りで、天体界のごときも、その実、歴史的・社会的・共同主観的に展らけるNatur für unsである。

 

この廣松の言は、若干言葉を変えながら、様々なテキストで繰り返し説かれている。廣松の重要な著作として、おそらく5本の指に入るであろう『物象化論の構図』(『著作集』第13巻に収録)には、次のように表現されている。

歴史においてはどの段階にあっても、或る物質的な成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見い出される。これは、各世代に先行世代から伝授されるものであるが、このものはなるほど一面では新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもするということ、こうして人間が環況を作るのと同様、環況が人間を作るわけである」ということ、人間存在の斯くの如き「歴史的」な在り方に視座を据えて、マルクスエンゲルスは世界を捉え返す。この“歴史・内・存在”ともいうべき在り方にあっては、自然的与件に対する人間の関係は、第一次的には、対象認識というテオレーティッシュな関係ではなく、物質的生活の関心に根差したプラグマティッシュ・プラクティッシュな関与である、そこではまた、汝をはじめ他者との関係は、第一次的には他我としての認知といったスタティックなAnerkennungではなく、物質的生活の場での分業的協働という役割的に編制されたぺルソナ的な関係である。-この対自然的かつ間個人的な関係行為は、即自的には動物においてすら存立しうるにしても、「動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係として存在しない」「動物は対自的には何ものとも“関係”せず、そもそも関係しない」のであって、当の対自然的・間主体的な関係が対自的に存在するのは人間においてのみである。-唯物史観が、上部構造としていわゆる精神文化的次元を視野に配しつつも、さしあたり、物質的な生産と交通の場面に基礎的視座を構えるというのは、人間の対自然的かつ間主体的な関係の基底を如上の視角で観ずることの謂いにほかならない。マルクスエンゲルスは、この視座に構えを執ることによって、先行哲学において初めから抽象態で論件とされていた対自然的関係ならびに間人間的関係を現実的・具体的な相で見据え、人間と自然とを二元的に截断することなく、まさしく動態的な編制の構造に即して捉え返す次第なのである。

 

なお、廣松がマルクスから取り出し、廣松哲学の枢要を占める概念にまで祭り上げられた「物象化」概念の使用の仕方には、若干注意を要することを付言しておくべきだろう。というのも、マルクスが『資本論』で僅かにしか用いていなかった「物象化Versachlichung」に対して、廣松は、あまりに多くの意味を含ませて論じているからである。この「物象化Versachlichung」とは、「物化Verdinglichung」や「物神崇拝Fetischismus」あるいは「物神的性格Fetischcharakter」と密接な関連があるわけだが、廣松のマルクス主義解釈にとっては、後期マルクスと前期マルクスを分かつ一つのメルクマールになっていることから、廣松固有の哲学体系にとっても、「物象化」概念は決定的重要性を担っているはずである。廣松は、『ドイツ・イデオロギー』編輯問題を巡る議論の中で、マルクスが1845年において、それまでのヘーゲル左派の影響下で形成された疎外論の立場を脱却して物象化論の立場を鮮明に打ち立て、既存の世界観とは異なる世界観を宣揚したという意味において、ここに決定的な思想的切断線を入れている。この点は、同じく1845年において認識論的切断を見るルイ・アルチュセールと共通していた。

 

「物象化論」と「物象化理論」とは若干異なり、後者はマルクスの「物象化論」にとどまらず、拡張された一般理論として定立された内容を指す。その関係は、『物象化論の構図』のⅡ「物象化論の構制と射程」と跋文「物象化理論の拡張」を比べてみれば理解されるだろう。同書で廣松は、次のように述べている。

「物象化論の構制」ということは、著者にとって、マルクスの後期思想を理解するうえでの重大な鍵鑰を成すものであり、また、著者自身の構想する社会哲学・歴史哲学・文化哲学の方法論的を成すものである。

 

廣松によると、「物象化」とは、「人と人との社会的関係が、“物と物との関係”ないし“物の具えている性質”ないしは“自立的な物象”の相で現象する事態」である。また、廣松哲学のテーゼの一つ「疎外論から物象化論へ」というテーゼは、「マルクスの物象化論」として以下のように説明されている。『マルクス主義の地平』は、以下のように記している。

マルクスのいう抽象的人間労働は「労働」から諸々の具体的特殊的規定を捨象した「残りかす」ではありえない。抽象的人間労働とは、実は、或る社会的関係-後にふれる通り、それは労働価値説の根本的大前提をなすかの労働配分にかかわるのだが-の物象化的表現なのである。従ってまた、人間労働の物化・凝結・対象化という言い方も、ヘーゲル学派的な意味での「人間の類的本質力としての労働の外化」「疎外」ではなく、社会関係が倒錯視的に物神化された世界了解に即しての、便宜的な言い方にすぎない。『資本論』における物象化論は-これについては立返って論ずべき数々の論点を残しているが、さしあたり本章で着目したコンテクストでいえば-ヘーゲル学派的な、従ってまた、初期マルクス的な疎外論の発想とは異質の地平に立っている。

 

廣松哲学の主眼である「事的世界観」の定礎につき、『廣松渉著作集』第3巻に収録されている『事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』の序文は、以下の通り述べる(但し、この書は、まとまった形で『著作集』に収録されてはおらず、各章がバラバラにされて収録されている。おそらく編集委員会は、限られた予算と制約の中で、どう本書を収めるかに相当苦心したのではないかと想像される)。

著者が先学の正負の遺産に定位して摸索を続けてきたのは「事的世界観」とでも呼びうる観方に照応する新しい世界了解の構図と枠組である。それは、認識論的な射影においては従前の「主観-客観」図式に代えて四肢的構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。

 

廣松渉の認識論の要諦をなす共同主観性論を基礎づける認識における四肢的構造連関とは、対象的側面に定位すれば、主語的指示対象たる与件を述語的表明対象たる「別のあるものetwas Anderes」、「以上のあるものetwas Mehr」として覚識し、主体的側面に定位すれば、自己分裂的自己統一おいてある限りでの主体(単なる私以上のあるもの)に「対して」展かれる認識のあり方である。単刀直入に言うならば、単なる私ではない何者かとしての私に対して、現象がそれ以上・それ以外のものとして覚識されるという在り方を意味する。『世界の共同主観的存在構造』(『廣松渉著作集』(岩波書店)第1巻に収録)には、以下のように説明されている。

フェノメナルな世界は“所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或る者に対してある(Gegebenes als etwas Mehr gilt einem als jemandem)というべき、四肢的な構造聯関において存立していること

このフェノメノンが「~に対してある」“主体”が、かれとして登場する「或る者jemand」が不特定多数として現れる場合の判断主観一般は、「所与-所識」構制のもとで成立する限り、既に間主観的=共同主観的に存立していると廣松は指摘する。

 

真理性ないし虚偽性は、「SはPである」または「SはPでない」という判断成態、つまりは「命題」の特徴であるところ、命題的事態が単なる個々人の心理的意識態以上の相として自存化されて認識される所以は、「所与-所識」成態における「所識」的契機が「表象記号-所識」と関連づけられており、かつそのこと故に間主観的=共同主観的に形成されて存立していることに負う。そして、認識の客観的真理性は間主観的=共同主観的に妥当とみなされることに還元される。すなわち<ヒト>一般を自らに内在化させた二重相として存立する個別的主観の判断における正当性は、その内在化された<ヒト>一般の承認が「判断主観一般」の承認として肯定されることによって得られる。『存在と意味-事的世界観の定礎-(第1巻)』(『著作集』第15巻に収録)は、こう指摘する。

判断の現実的当事者である個別的主観は、・・・間主観的に同調的・同型的な相に共同主観的な自己形成を遂げて(遂げさせられて)いる。・・・現実の認識主観たる能知は特個的な「能知的誰某」と普遍的な“同型的”な「能識的或者」との二肢的“成態”であり謂うなれば「ヒト」を“内在化”せしめている。

 

廣松は、判断的認識の真理性・虚偽性を、判断と客観的事象または客観的事態との一致・不一致によって区別する伝統的な真理論の枠組を踏襲し、個別的認識主観が肯定あるいは否定を問わず措定する判断は、客観的な事象や事態と合致する場合を真とし、合致しない場合を偽とみなす判断図式を承認する。しかしながら、この「客観的事象」ないしは「客観的事態」の意味を、別の事態に還元することにおいて承認するという組み換えを行うのである。端的に言うと、客観的真理性を間主観的=共同主観的妥当性判断の一致に還元するという組み換えである。つまり、伝統的な真理論の議論だと、認識の真理性は端的に客観的妥当性を指すと了解されており、意識対象と照合的に合致する意識内容が真なる認識と見なされるところ、廣松はその構図を受け入れたとしても、その受け入れは判断の形式のみの受容に徹している。すなわち廣松の表現では、「判断的成態」と対象となる事態・事象との照合的一致ないし不一致が、真理性・虚偽性の判別基準という考えを受け入れるけれど、実質的には、認識の客観的妥当性とは、意識対象と意識内容の照合的合致ではなく、対象となる事態・事象そのものが、間主観的=共同主観的に形成され、認識論的主観ないしは判断主観一般に妥当する命題的事態なのであるから、認識の客観的妥当性は、判断的成態の対象となる事態に即した共同主観的妥当性に還元されることになる。

さしあたり「事実問題quid facti」の次元で言えば、当の価値判断、遡っては当該の判断が、人々(当人の属する一定の時代の一定の共同世界)によって“公認”されるかどうか、人々との同調性が事実問題として成立しているかどうか、これによって真理性・虚偽性が決まるのである。・・・ここにおいて、判断的認識の真理性・虚偽性は、人々の共同主観性と相対的であり、従って、歴史的・社会的・文化的に相対的であることになる。

 

客観的真理性が間主観的=共同主観的一致に還元され、かつ間主観的=共同主観的妥当性判断が歴史的・社会的・文化的に相対的であるとするならば、廣松自身の理論的営為の真理性を保証するものは何かという疑問が生じるだろう。既存の「真理体系」が、歴史的・社会的・文化的に相対化された共同主観的妥当性判断の一致の所産とみなされるならば、これら体系に対する現在の我々の認識は、「事実問題」としての「真理体系」の認識として考えられる。つまり、ある時代・ある社会・ある文化において「真理」と見なされた体系は、歴史的・社会的・文化的な理由から共同主観的にその妥当性が承認されていたものであるという認識である。

 

しかしながら、これら「真理体系」の誤りを指摘し、あるべき立論を行う場合、少なくとも当事者からすれば、「権利上」の問題としてその真理性を主張しているはずである。そうでなければ、「真理」を探究する際の当為言明は端的に無意味と化すだろう。すなわち、廣松の認識「前」と「後」によって、言明の性質が「事実問題」としての真理に関する言明と、「権利問題quid juris」としての真理に関する当為言明に区別されているわけだ。そのことに関して廣松は自覚的であり、前者のような「事実問題」として「真理」性が承認されている「真理」を「通用的geltend」な真理とし、後者のような「権利問題」として「真理」性が主張されている「真理」を「妥当的gültig」な真理と区別する。

 

だが、この区別によって問題は解決するどころか、なお一層、問題は錯綜するだろう。というのも、この「妥当的gültig」な真理は、現時点より時間的に後の将来において事実性に支えられうることによって初めて、「妥当的gültig」な真理たりうるとの立論であり、「権利性」が将来の「事実性」により根拠づけられるとするなら、任意の時点における「真理」性の主張は、共同体の大多数の承認が得られる時期の到来いかんによって妥当性・不妥当性の区別がされてしまう。

妥当する真理”なるものは、われわれの見地では、それが現実に間主観的同調性を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのであって、認識(真なる認識)の“権利根拠”なるものは終局的には共同主観性以外のところに求められるべきもない。・・・真理をして真理として成立せしめる間主観的な共同世界は、現実的には歴史的・社会的・文化的に多層的である。・・・“妥当する真理”は“通用”しうる真理としての実を示し、“通用する真理”に成らなければならない。

 

認識の客観的妥当性ないし真理性は、判断的成態の対象となる事態に即した共同主観的妥当性・不妥当性に還元されるとはいっても、廣松は認識における「真理性」に関する言明の、単なる歴史的・社会的・文化的相対性を主張しているわけでも、認識論を事実学に解消しているわけでもない。事実、認識論的議論は、「権利問題」と「事実問題」を分かつことができることを前提とした、前者に関する問題の主題化であるとするというカント的了解を廣松は受け入れている。廣松がカントの影響を多分に受けてその哲学的営為を遂行してきたという事実だけからではなく、当の廣松の哲学観すなわち眼前に開かれる現相的世界がいかにして成立しているかという可能性の条件を問う、世界の被媒介的構造の認識論的究明という理論哲学に課せられた主題を論じてきた事実からも、一先ずそう指摘できそうである。廣松渉東京大学文学部卒業時に提出した論文「認識論的主観に関する一論攷」(『著作集』第16巻に収録)や大学院人文社会系研究科(廣松在籍時には、確か名称が異なっていたように思われるが)に提出した修士論文「カントの『先験的演繹論』」(世界書院)は、カントの問題意識に貫かれた論文であったし、廣松が学生時代に、夏季休暇中に何度もカントの三批判書を読み直す習慣を自らに課していたというエピソードからも、うかがえる。但し、前者と後者の分離は“一応”のものにとどまり、いかなる場面においても明確に区分できるかについて疑問なしとしないというのが、廣松の立場である。

 

では、当為的言明を含む、判断の正当化の可能性の条件をめぐる廣松の議論そのものを正当化する根拠をどこに求めればよいか。廣松の場合、認識の妥当性を保証する審級であるはずの認識論的主観(もちろん、この表現は、あくまで物象化された相において措定されたものであるとの前提である)は、経験的自我と身体を通しての自己分裂的自己統一としての二重性のもとに捉えられ、かつ当該主観すら歴史的・社会的・文化的に共同主観的同型化を経て形成されたものであるので、「真理性」の主張は、事実としての共同的な承認に支えられるわけだが、そう主張する廣松の判断の「真理性」を保証する審級がなければ、現状において、少なくとも廣松の主張を「妥当である」とする共同主観的一致は事実として存在するとは未だ言えないわけだから、何故かかる言明が正しいと言えるのかが不明となろう。

 

この点廣松は、自らの言説に、ある種の認識論的“階梯”を設ける。ある一定の階梯での主張と別の階梯での主張を弁証法止揚の概念を用いて、「学知的反省にとってfür uns」と「当事者意識にとってfür es」の区別を設け、この二層構造が螺旋を描いて上向していく論理を持っていくことで、この問いに応答しようとする。この区別は、例えば、

物象化と呼ばれる事態は、それ自体としては、とりたてて特異なことがらではない。それは日常的意識にとって物象的な存在に思えるものが学理的に反省してみれば、単なる客体的な存在ではなく、いわゆる主観の側の働きをも巻き込んだ関係態の「仮現相(quid pro quo=錯視されたもの)」である事態を指す。

のように用いられ、その論理は、弁証法的展開におけるan sich-für sich-für es-für unsの構制である。ところが同時に、この学知的反省の立脚点たるfür unsすらも相対化にさらされるところに、認識を可能ならしめる条件の歴史的相対化がなされていることが了解される。すなわち、

世界観の地平は歴史的・社会的に相対的であり、学問的な世界観といえども当代の「日常的生活体験」に根ざした「民衆的先入見」(マルクス)の大枠を端的に超出することは不可能であって、結局のところ“世人の日常的な世界了解の構図”を準拠枠frame of referenceにせざるをえない。

学知的反省の立場すなわちfür unsのWirといっても、歴史の中から抜け出ることは不可能であり、歴史的“パラダイム”の変遷の<外>に立脚点を持ちえず、その意味で歴史的相対化の力から自由ではない。「権利」として主張される「妥当的なgültig」真理は、歴史の過程において後の「通用的なgeltend」真理と承認される事実性を持ち得ると考える限りでの「真理性」であるので、逆に言うならば、自ら「妥当的なgültig」真理と呼称することは、歴史を俯瞰した上でこれが将来的に「通用的なgeltend」真理としての事実性を持ち得ることを予見している(少なくとも、予見できたかのように振る舞う)のでなければならないだろう。なぜならば、廣松からすれば「“妥当する真理”なるもの」は、現実に共同主観的同調性を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのだから。

 

歴史の中に拘束されるとしつつも、歴史の過程の上で、かくあるべき真理が将来的に「真理」として承認されうる事実性を持つことになるとの俯瞰的視点を同時に持たねば、この言明自身無意味と化す。だとするならば、認識の可能性の条件の歴史的相対性は、いかなる真理言明もアプリオリに無意味と化さしめるか、あるいは、あらゆるものを相対化する者の暗黙に前提されている特権的絶対性を、換言すれば、あらゆるものを歴史的相対化にさらし得る者の暗黙に確保された絶対的視点を含み持つと言えないだろうか。標準労働日を巡る問題を論じるマルクス資本論』第1部第3篇第8章では、

どちらも等しく商品交換の法則に保障された同等の権利と権利との数世紀にわたる闘争を決するのはGewalt(暴力)である。

と述べられている。なお、このGewaltを「暴力」ではなく「強力」という訳語を当てるのが日本共産党である。「マルクスレーニン主義」を「科学的社会主義」に、「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアート執権」に、「暴力」を「強力」にという風に言葉を誤魔化し、マルクスエンゲルスレーニンのテキストの翻訳を一斉に差し替えることで、何をしたいというのだろうか。「ソフト路線」の甘い仮面を被って無知な大衆をオルグしようとでも言うのだろうか。しかし、こうした態度からイメージされることは、これまでのマルクスレーニン主義者が、自分たちの都合に合わせて「歴史改竄」を厭わなかったという事実である。一早くスターリン批判を展開してきたと言うが、これも歴史的事実に反するし、ソ連崩壊時に「諸手を挙げて歓迎する」と強がっていたものの、直前までは、ゴルバチョフの「新思考外交」を批判していた張本人が日本共産党だったはずだ。スターリンレーニンを切り離して、スターリンだけを断罪し、レーニンを美化して救おうとしているが、果たして、そのような無理筋な理屈をいつまで通し続けられるだろうか、見ものである。今後、レーニンの行いがますます暴露されるようなことにでもなれば、その時は、またどうにかごまかしを図るに違いない。世界で初めて国家規模の「強制収容所」を設けた人物こそ、その人である。宮本顕治チャウシェスクとの懇ろな関係も、いつの間にか消えた。

 

いずれにせよ、正しさと正しさが二律背反の状態に立ち至った時、対立するものの高いレベルの同一性においてVersöhnungもされなければ、Vermittlungもされず、事を決するのは究極的にはGewaltであるということは、「真理」主張の闘争においても等しく当てはまるというのが、geltendとgültigとの闘争として描写する廣松渉の結論なのではないだろうか。仮に、そうだとするならば、廣松哲学は、「革命の哲学」になりうるという主張は、同時に「保守の哲学」にもなりうるという主張をも含意するはずである。

デボーリンとイリエンコフ

赤色教授養成学校哲学部での教え子マルク・ミーチンによる攻撃によって失脚したアブラム・デボーリンは、ロシア革命を経て建国されたばかりのソヴィエト社会主義共和国連邦哲学界を牽引する一人であった。ゲオルギー・プレハーノフの弟子であり、1920年代に戦わされた「弁証論-機械論」論争において「弁証論派」として頭角を現し、『マルクス主義の旗の下にPod znamenem marksizma』誌の編集長まで務めた。

 

ところが1930年代に入り、ヨシフ・スターリンによる独裁が強化されていくに連れて、暗雲が立ち込めることに。遂には、ミーチンをはじめかつての教え子から攻撃を受けて失脚した。だが、デボーリンの哲学そのものは、実質的には後々まで、ソヴィエト共産党公認のイデオロギーである「マルクス=レーニン主義哲学」として生き残った。

 

ミーチンらによるデボーリン批判は思想闘争上の批判という形式を装うも、具体的中身を見るならば、およそ哲学論争の名に値しない単なる権力闘争の際の「言いがかり」に過ぎなかった。元から何らの思想的内容も無いので、デボーリンの哲学を「拝借」せざるを得なかった結果、実質的な変更を加えられずに残ったというわけである。

 

デボーリンが攻撃された直接の理由は、デボーリンがマルクス主義における「レーニン的段階」の重要性を理解できなかったことや、理論を実践から切り離して理解していたこと、弁証法理解においてヘーゲル弁証法を引き写したに過ぎないこと等であった。こうした点が、「メンシェビキ化した哲学」だの「右翼日和見主義」として断罪の対象となったのである。

 

デボーリン派一掃の報は日本にも伝わり、ミーチンらによる「言いがかり」を真に受けた戸坂潤は、『現代哲学講話』において、「右翼日和見主義」であるとデボーリン派をなじり倒していた。新カント派から唯物論への移行過程で書かれたと思われる「空間論」や、日本の思想状況に対する批評「反動期における文学と哲学」等において、時に鋭利な分析を見せた戸坂でさえ、「宗主国ソ連」への忠誠のあまり、ことソヴィエト哲学となると、完全に目が曇らされていたことを示す好例である。

 

デボーリン失脚の真相は、「スターリンを最も優れた哲学者として位置づけるように」との党中央からの要請にデボーリンが承服しないことを奇貨として、虎視眈々と共産党内での出世を狙っていたミーチンがデボーリン攻撃に対するスターリンの事前了解を取りつけ、「哲学のレーニン的段階」を掲げてデボーリン批判を展開し、デボーリンに代わってソヴィエト哲学界に君臨せんとした個人的野心も大きく寄与しているように思われる。その功績を買われてか、ミーチンは、哲学博士号を取得した。とは言うものの、論文の書面審査も口頭試問もなされずに博士号が授与されるという不可解なものであったらしい。スターリンの威を借りて出世を遂げたミーチンは、一時的な例外はあれど、スターリン勲章を授与されるなど長くソヴィエト哲学界の親玉として君臨し続けた。正に、ロシア哲学の「暗黒時代」である。

 

ミーチンは日本の哲学界の招待に応じて二度訪日しているが、このことは当時の日本の哲学界において教条的なマルクス=レーニン主義に被れた左翼が一大勢力を誇っていたことを物語る一つのエピソードでもある。しかし、ミーチンを日本に招いた者たちが果たしてミーチンの哲学者としての業績や行動履歴をどこまで把握していたのか。ほとんど何もわかっていなかったのではあるまいか。

 

『近代日本の批評Ⅰ-昭和篇(上)』(講談社)において、蓮實重彦が戦前の福本和夫の理論的水準はその他の日本やモスクワのマルクス主義者より遥か上を行くにも関わらず、この連中はそれを理解できなかったと述べていたかと記憶するが、正しくその通りだろう(当時、第一級の知性であった福本和夫が、その思想的立場を異にする柳田國男と書物のやり取りをし合う仲であったことは知る人ぞ知る事実。その使いを仰せつかっていたのが、後の日本の裏社会で暗躍するフィクサーとして名を馳せた息子福本邦雄だったというのが面白い)。

 

そのミーチンによって、やれ「主観的観念論だ」やれ「メンシェビキ化された観念論だ」とレッテルを貼られた多くの哲学者や科学者はたまったものではない。一切の公職を解かれた者、著作の発表を禁止された者、シベリアに流刑になった者、果ては銃殺される者までいたというのだから、いかに当時の日本の左翼の認識がボケていたかが伺われる。

 

その本質において、マルクス=レーニン主義哲学とさほど遠い距離にはないと言っても過言ではない日本共産党系統の哲学者もまた、「異端」と見なす者に対してレッテル貼りして攻撃してきた。そうした姿勢を見るにつけ、旧ソ連時代の恐怖政治を思い起こさせてくれもする。今は、何食わぬ顔して「マルクスレーニン主義」という表現を改めて「科学的社会主義」という言葉を多用して、いかにも旧ソ連共産党の公認イデオロギーと無縁であるかのように装っているものの、何のことはない、昭和51(1976)年の第13回党大会まで「マルクスレーニン主義」の名称を頻繁に使用していたし、その宣伝に努めてきた事実は誤魔化せない。

 

このように、日本共産党は何かと都合が悪くなると、言葉を封印してそしらぬ顔を決め込むことがある。例えば「プロレタリアート独裁Diktatur des Proletariats」にしてもDiktaturの訳語は「独裁」であるのに、昭和48(1973)年の第12回党大会で突如「プロレタリアートの執権」という訳語を使うと言い出し、以後息のかかった出版社から出されたテキストは、党の方針で一斉に「執権」に差し替えられた。この点について、旧日本社会党最左派「社会主義協会」の理論的支柱である向坂逸郎らが『プロレタリアート独裁』(社会主義協会出版局)という小著を著して批判を展開したものの、今も「独裁」は「執権」に差し替えられたままである。

 

マルクスレーニンのテキストに登場するGewaltも「暴力」ではなく「強力」というよくわからない言葉に差し替えられている。「強力」という名詞化表現を造語してまで誤魔化そうとする共産党の小癪ぶりには毎度呆れさせられる。

 

これだけではない。今では「護憲」を叫んでいるけれど、憲法の欠陥を追及していたのは他でもない、日本共産党自身である。当時の首相吉田茂に対して野坂参三憲法9条の不条理を追及する質問を国会で行ったことは今ではよく知られているが、この点を問い質されるや、苦しい弁明に終始している。

 

今では「人権」を強調する論陣を張っているが、これだって、ちょい前までは寧ろ「人権」概念を批判していたはずだ。そりゃ当然と言えば当然で、「人権」が前提にする「人一般」の観念は現実の階級の存在を隠蔽する機能を果たす抽象化された個人という幻想を振り撒くブルジョアイデオロギーであるという考えが、左翼とりわけマルクス主義陣営では常識であったからである。だからこそ、久野収の対話篇形式で書かれた論文「市民主義の成立-一つの対話」が『思想の科学』に掲載された時、論壇や思想界に激震が走ったのであろう。市民運動の先駆となった久野の論文は、その意味で戦後民主主義を代表する論文だったのである。

 

党派闘争が激しかった頃には「御用イデオローグ」たちを動員して、梅本克己や黒田寛一吉本隆明や藤本進治や廣松渉へのレッテル張りによる激しい攻撃をし続けた。榊利夫『現代トロツキズム批判』(新日本出版社)や山科三郎『日本型トロツキズム』(同)、岩崎允胤『「新左翼」と非合理主義』(同)などがその典型である。

 

岩崎の著書は、「新左翼」の理論的支柱の一人をフランクルト学派のマルクーゼと見て、これに攻撃を加えているものの、当時の西ドイツではともかく少なくとも日本の新左翼運動にマルクーゼが決定的な影響を及ぼしたと見るべき根拠は乏しく、全く以ってピントがずれた批判しか展開できなかった。山科の著書にしても、廣松渉の哲学を「主観的観念論に堕した非合理主義哲学」だのと攻撃し、同じく先の岩崎允胤は、日本共産党中央委員会機関誌『前衛』や共産党系の新日本出版社から刊行されている雑誌『経済』における論文や対談などを通じて、「マッハ=ボグダーノフ主義」だの「妄動集団ブントのイデオローグ」だのと言いたい放題であった(何年の何月号かは失念したが、『経済』に掲載された「現代の思想的状況について」や平野喜一郎との対談「哲学と経済学の対話」などは特に酷い内容である)。

 

岩崎允胤弁証法現代社会科学』(未来社)や『中国の哲学とソヴェトの哲学』(啓隆閣)などの著書でも盛んに、プラグマティズム分析哲学あるいは確率論や集合論に対してまで唯物弁証法に反するものとして非難していた。そもそも分析哲学論理実証主義と解している時点で「誤解も大概にしてくれ!」と言いたいところだが、確率の解釈にしても、これまでに散々なされてきた科学哲学や数理哲学での議論をほとんど無視する形で(エヴェレット以後の「量子確率」については、当然に全く触れられていない。デイヴィッド・ウォレスやイタマール・ピロフスキらの登場はずっと後なので、年齢的に厳しかったかもしれないが)、統計的合法則性に還元してしまうという恐るべき単純化をし、その他の哲学の見解については「ブルジョアイデオロギー」とレッテルを貼って葬り去るという旧ソ連の体制イデオローグのような主張を繰り返すばかりであった。マルクス主義者の立場から実りある批判をしたいというのなら、ヘンリー・カイバーグやデイヴィッド・ウォレスあるいは最近亡くなったイタマール・ピロフスキなどの洗練された確率の哲学までは射程を及ぼさなくてもいいから(ウォレスは無理か。岩崎死後に注目されるようになったので)、最低でもThe Oxford Handbook of Probability and Philosophyに収録されている諸論文で紹介されている当該分野でのベーシックな知識を身につけてから論じてくれと叫びたいくらいだ。

 

こうした「思想闘争」が「マルクス・サークル」内で完結する分には支障はないだろうが、他に普及して「思想検閲」のようなことに至ると、取り返しのつかない悲惨な事態に陥ることは必至。第二第三の「ルイセンコ」擬きの連中が幅をきかせ真の研究者の活動が阻害され、学問の発展の芽がことごとく摘み取られてしまう。旧東側諸国で見られた教条的マルクス=レーニン主義に基づく弾圧によりどれだけの可能性が流産させられてきたのか。

 

こうした教条的マルクス=レーニン主義の犠牲にされた典型に、確率論や集合論を例に挙げることができる。

 

公理論的な確率論や集合論の草創期において、それらに対する「ブルジョア的」とのレッテル貼りによる攻撃は、ロシアの偉大な数学者コルモゴロフにも襲い掛かった。コルモゴロフは既に1922年時点で数学者としての国際的な名声を確立し、ロシア内戦の終わり頃には関数解析で重要な結果を生み出していた。1929年に博士号を取得し1931年にモスクワ大学教授就任。フランスとドイツへの旅行中に確率に興味を持ったという。

 

1874年から1884年までの一連の論文でカントルが代数的集合論を導入したことで数学にパラダイム・シフトが起こり、大部分の数学者はカントルの理論とその超限数の考えを受け入れたが、マルクス主義数学者のシュトリュークやブラウアーは物理的徴表のない「理念的な」実体に依存する証明を拒否した。

 

コルモゴロフの指導教官であったニコライ・ルージンは「抽象的すぎてブルジョア的である」と批判され、1936年にはその廉で有罪判決を受けた。コルモゴロフは自らにもそうした嫌疑がかけられないか敏感にならざるを得ず、当時のソ連数学界の意向を絶えず意識ながら研究を進める他なかった。こうした弾圧がなかったとするならばおそらくもっと幅広い領域でコルモゴロフの才能が活かされていただろうと想像すると、教条的なマルクス=レーニン主義哲学を信奉する哲学者たちの罪は重いと言わざるをえない。

 

それでもなおソヴィエト数学・物理学が一定の水準を誇っていたのは、皮肉なことに米ソ冷戦における軍拡競争が寄与していたのだろう。宇宙科学や情報科学の進展も、軍事抜きではありえなかった。量子力学草創期には、唯物弁証法に反する観念論として攻撃し、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスが登場した際も、「ブルジョア科学」と非難していたマルクスレーニン主義者たちであったが、それを無視しては米国との冷戦において敗北必至なので、どうにか唯物弁証法と矛盾を来さないように屁理屈を弄して折り合いをつけていたようだ(なお、あれほどサイバネティクスを攻撃していた旧ソ連だが、ちゃっかり情報科学研究所を設立していたわけで、日本より早かった。当時も今も大して変わらないが、日本の場合、旧通産省、旧文部省、旧科学技術庁、旧防衛庁と関係省庁が「縦割り」行政となっていたために情報科学や宇宙科学の発展の弊害になっていた)。

 

確率への従来の頻度主義的アプローチの問題は、物理学における確率への転換とともに明らかになった。1890年ポアンカレは、(宇宙が想定されているように)固定された総エネルギーを持つ有限空間に閉じられた系が最終的に初期状態に近づく必然性があることを証明したし、この結果は宇宙が「再発」することを意味すると解する者もいて、ニーチェの『悦ばしき知識Die fröhliche Wissenschaft』における「永劫回帰」の考えに関心のある人々によって取り上げられたりもした。物理学の問題は、時間の確率論の文脈において、この結果は時間が可逆的であり熱力学の第二法則が破られたという含意を持つのではないかと考えられたのだった。

 

何より、量子物理学の影響である。19世紀の終わりには、物理​​学における連続的な現象は決定論的であると見なされ、離散的な現象はランダムであると見なされていた。1877年に離散エネルギー状態が特定された結果、プランクの1900量子仮説と離散的時間と長さの考えが生まれた。この離散化は、物理法則が確率論的であり決定論的ではないことを示唆するとされた。

 

物理学からの確率の問題に取り組む最も洗練された試みは、論理実証主義者の「ウィーン学団」と関係するリヒャルト・フォン・ミーゼスに由来する。彼は観察可能な事実に基づいて確率の公理を定めようとした。結果は1931年にドイツ語で公開され、『確率、統計、真理』として英語版で普及した。これは、非決定論の原則に基づいて「ラプラスの魔」に関連する確率論的アプローチの正当化と見なされたのだった。

 

一方、経済学も同様に確率に対する従来のアプローチに挑戦していた。フランク・ナイトは『リスク・不確実性・利益』で、経済学が財の価値(価格)をコストと等しくする競争理論を発展させたとの見方をした。しかし、この平等は実際には「偶発的な事故」に過ぎなかった。経済問題における利益(および損失)は、「リスク」(つまり、既知の確率)に基づく分析に従わなかった根本的に不確実な事象(ナイト的不確実性)だったのである。ナイトは、不確実性が偶然性を支配しなければすべての価格がわかり、起業家は冗長になるだろうと主張した。経済学には「自由意志」はなくなってしまう。

 

同時にジョン・メイナード・ケインズは『確率論』の中で、場合によっては基本的な確率が推定される可能性があることを主張した。他の例では、序数の確率(さしあたり、ある事象が別の事象よりも多かれ少なかれ可能性が高いかの大きさくらいに思っておけばよい)を推測できたが、確率の概念に還元できない大きなクラスの問題があった。やがてケインズはナイトのように、彼の経済学の中心に不確実性を置くことになった。

 

フランク・ラムジーは論文「真理と確率」で、前提と結論の間に確率関係が存在すると主張したケインズに異議を唱えた。ラムジーは(賭け)市場を通じて確立できる「合理的信念の度合」という意味で「確率」を定義している。現代の経済学者が主張するように、ラムジーが合理的期待を正当化しているとする主張が正しいかどうかは再考する余地があるが、いずれにせよこのラムジーのアプローチは、ブルーノ・デ・フィネッティとレナード・サヴェッジを通じて知れ渡った。まとめると、これらのアプローチは主観主義者またはベイズ主義と見なされ、18世紀のベイズの定理との関係を示していた。

 

コルモゴロフは、確率を事象の測度と等置することによって確率の基礎を築いた。確率変数は事象空間から数値への写像であり、これは数学的期待値が確率測度に関して確率変数の積分になることを意味する。これに基づいてコルモゴロフは、頻度主義的確率概念の基本である大数の法則と主観主義的概念の基本であるベイズの法則の両方を導き出すことができた。

 

こうした一般化は、確率に対する物理学および社会科学のアプローチの統合に繋がるかもしれない。確率論や集合論の発展やその哲学的思考への刺激的な影響に対して、教条的なマルクス=レーニン主義は抑圧ないしは弾圧をする立場にあった。マルクスエンゲルスレーニンのテキストの内容と齟齬を来すものは許さざるものとばかりに、多くの哲学者は「異端審問官」として振る舞ったのだ。

 

弁証法唯物論」ないし「唯物弁証法」という呼称は、周知の通りマルクスはもちろんエンゲルスも使わなかった。この呼称が使われる契機となったのは、「ロシア・マルクス主義の父」と言われるゲオルギー・プレハーノフであり、デボーリンはプレハーノフに大きな影響を受け、その「唯物弁証法(Diamat)」のソビエト流解釈の存在論的基礎を提供したと言われる。

 

但し、ソビエト哲学に顕著に見られる「存在論化」傾向の理由は、フリードリヒ・エンゲルスと彼の「自然弁証法」の影響はもちろん否めないだろうが、それだけでなく元々ロシア哲学の傾向として、カントによる「コペルニクス的転回」以降の認識論の優位性の考えに対する拒絶があり、この反カント主義的傾向が革命後のソヴィエト哲学の存在論優位の傾向を用意した可能性があるように思われる。

 

ソヴィエト哲学の基礎となった存在論優位の傾向が徹底された唯物弁証法の教義的概念は、レーニンからよりもプレハーノフとデボーリンに多くを負っていると見る者もいるようである。プレハーノフとデボーリンにとって、弁証法とは「全体としての世界」について科学であり、この弁証法が「すべてが発展している」ことを継続的に強調したことを除いて、クリスチャン・ヴォルフの『神、世界、そして人間の魂、その他すべての事物についての理性的思考Der Vernünfftige Gedancken von Gott, der Welt und der Seele des Menschen, auch allen Dingen überhaupt』で展開された存在論のような、一種の形而上学と化してしまった。ヴォルフにとって、存在論は哲学の始原または形而上学に他ならず、その任務は存在の最も一般的な特徴を分析・記述することであり、存在論は、最も一般的な科学であるという点でのみ他の領域科学と異なっていた。つまり、物理学は物体の相互作用と運動を研究し、数学は更に抽象的で量自体についての研究であり、存在論は最も抽象的な科学であり一般的に「存在」そのものを反映しているというのである。

 

唯物弁証法を定式化したデボーリンは、このヴォルフの哲学に極めて近い距離にいる。1920年代の哲学的議論の間に発表されたデボーリンの論文では、弁証法についてのデボーリンの定義は存在論的アプローチに基づいていた。弁証法は、自然、社会、思考における一般法則と運動の形態の科学であり、実在を扱う真に科学的な方法を構成するのである。

 

マルクスエンゲルスによって考案されたマルクス主義の全体像は、デボーリンによれば、Engel’s i dialektičeskoe ponimanie prirodyで以下のように要約される。①法則に支配された関係の科学としての唯物弁証法は、一般的方法論、一般的運動法則の抽象的科学を構成する。②自然弁証法は、数学、力学、物理学、化学、生物学のレベルで構成される。③社会に適用される唯物弁証法史的唯物論である。デボーリンもヴォルフもともに、哲学は一領域を扱う学問分野ではなく全体についての「科学」であった。

 

どちらの場合も、科学と哲学は存在論的特徴を持ち、存在の異なる層が従属し、各層に存在する統一されたシステムを形成する。デボーリンの場合、最も抽象的な(したがって哲学的な)「科学」は、自然と社会、弁証法唯物論及び史的唯物論の科学である。マルクス主義哲学のデボーリン主義者の解釈は非常に影響力があった。

 

こうした哲学を抱くデボーリンからすれば、ジェルジ・ルカーチ『歴史と階級意識マルクス主義弁証法の研究Geschichte und Klassenbewußtsein–Studien über marxistische Dialektik』の立場は容認できないものに映った。ルカーチマルクス主義の「主観主義」的解釈を提示し、「自然弁証法」は一種の自然主義的な形而上学に過ぎないと喝破した。ルカーチからすれば弁証法は人間の主体を前提としているので、それは歴史と社会でのみ起こり得る。このルカーチの見解に対するデボーリンの批判は、Lukač i ego kritika marksizmaにある通り、ヘーゲルのEnzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisseの弁証法の定義を以って返すしかできなかった。デボーリンの弁証法は、対象の存在を前提とはしていない。それはむしろ存在論的性格を持った普遍的発展理論でなければならなかった。

我々は、有限なものすべてが変化し、破壊されることを知っている。その変化と破壊は、その弁証法に他ならない。それはそれ自身に他なるものを含むので、それは即自存在の境界を超えて、その反対に向かう。

 

散々指摘されている通り、エンゲルスの「自然弁証法」は、哲学として見た場合、決して水準が高いとは言えないものである。しかし、少なくともエンゲルスは、デボーリンやその他のソビエト哲学を担った者らに顕著に伺える存在論優位の主張などしていない。それどころか、状況によってエンゲルスは明確な「認識論者」の立場を採ってさえいたとも言える。

 

『反デューリング論Anti-Dühring』において「すべてを包括するもの」の理論を供することを豪語していたオイゲン・デューリングを批判する際、エンゲルスはそのような荒唐無稽な野心を嘲笑していたはずだ。エンゲルスによれば、デューリングの考えの最も滑稽な部分は、無神論者であるにもかかわらず我々が存在しているということを考える際、それを単独の思惟として考えていることを証明しようとする神学上の存在論的議論を利用していることであった。エンゲルスは世界の統一はその存在にあるのではないと述べ、我々の観察範囲が終了する時点を超えて存在しているか否かという問題は未解決の問題であると釘をさしていた。エンゲルスのこの発言は、カントによるヴォルフ批判と極めて類似してるだろう。エンゲルスが指摘したことは、認識プロセスと認識対象の独立性の問題であって、この点に関しては別にカントも否定していないことである。

 

とはいえエンゲルスは、ヘーゲルフォイエルバッハ以外の哲学者・思想家のテキストについてはさほど読み込んでいなかったようである。実際、エンゲルスは明らかにカントの哲学を、そのテキストに沿って研究したわけではない。というのも、カントの哲学を新カント派の立場と混同していると思われる節が所々見られ、そのためエンゲルスのカントに対する見方は極めて偏頗している。カントについての新カント派の解釈を額面通りに受け止めており、カントは不可知論者ないしは主観的観念論者であると考えていた。

 

『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie』を読むと、エンゲルスは認識論的問題を「実践」の問題についての理論に置き換えているとさえ言える。そこまでは言えるだろう。では、エンゲルス存在論優位の思想を抱いていたとまで言えるかと問われると、そうは結論づけられない。マルクス主義哲学における「存在論主義者」はプレハーノフやデボーリンであると見た方が正しいだろう。

 

デボーリンは、カントの超越論的統覚の考えに誤りを見つけたという。そして以下のように、Očerki po istorii dialektiki. Očerk pervyj. Dialektika u Kantaにて、カントを批判する。

主観的なエゴの内容をすべての人間に移すことは、重大な矛盾である。・・・超越論的統覚、一般的意識は、主観の境界を越える必要性を示すものに他ならない。

明確なことは、超越論的統覚が我々に意識の一般的な構造を与え、それがすべての個々の意識に適用できるというカントの考えを、デボーリンは明らかに誤解しているということである。デボーリンは、カントの超越論的統覚の考え全体をそれとはほとんど関係のない理論つまりカント以前の存在論的カテゴリーに分類されるものに結びつけているのである。

認識内における弁証法は対象が判断を表現することであり、その内容は対象から完全に独立している。判断では、私は常に自分の判断の境界を超え、あらゆる「私」から抽象化される。これは、「我思う」という思考が私の判断にまったく付随していないことを意味する。認識的判断は本質的に客観的な意味を持ち、外界や脱私的領域つまり私の表現ではない領域を指す。私の表現は主観的だが、表現されるものは客観的である。つまり外界を参照する限り、主観的であるという特徴はないのである。

そして、これを踏まえて、

認識行為の前に、既に我々の「自我」が客観的存在の一部であるため、客観的知識が可能である。

と結論づけている。言い換えればデボーリンは、私の表現には客観的内容と主観的内容の両方があり、心の中に客観的内容が存在することは、外界におけるその存在の十分な証拠であるという主張に同意している。デボーリンは、カントが超越論的統覚の行為について話す時、異なるのはこの行為自体であるということに気づいていない。「我思う」が物質界を構成するものの表現に反対しているからこそ、後者の存在は思考の行為から結論づけることはできない。我々の表現の中に、我々の外にあるものの存在の存在論的理論の真理を保証する客観的な証拠が既にあるというデボーリンの主張は、ウルフが既に行っていた主張と類似した形而上学である。

 

唯物弁証法の教義は、同様の存在論的仮説に基づいていると言える。しかし、デボーリンは、独自の存在論的視点をそこに付加する。デボーリンは、カントに対するヘーゲルの批判を利用して、カントのコペルニクス的転回は主観主義者の逸脱であると考えた。この時デボーリンの脳裏には、Conspectus of Hegel’s Book The Science of Logicにおけるレーニンの言葉すなわち

ある観念論者が別の観念論者の観念論の基礎を批判する時、唯物論は常にそれによって何かを獲る。

という言葉がよぎっていたのかもしれない。カントの「物自体Ding an sich」の概念自体を批判するデボーリンによれば、

カントの形而上学において、物自体と現象との間に弁証法的な関係は何もない。しかし、この裂け目は、不可避的に問題の弁証法的解決を準備するはずである。

 

デボーリンによる弁証法存在論的解釈の主な支持者である哲学者ヴァシーリ・トゥガリノフに代表される「レニングラード存在論学派」は、スピノザの哲学的遺産に目を向ける。スピノザ哲学は形而上学存在論として解釈され、マルクス主義哲学でも存在論的カテゴリーにおける物質の優位性を主張する文脈で参照されてきた。

 

しかし、スターリンの死後では、マルクスレーニン主義哲学内部で綻びの兆しが出始めてきた。1955年から始まった、モスクワ大学でのいわゆる「イリエンコフ-コロビコフ事件」は、マルクス主義哲学が存在論の教義であるか否かという問題についての論争の渦中で起きた。エヴァルド・イエレンコフとヴァレンティン・コロヴィコフは、認識論を強調しすぎたと非難された。

 

「認識論者」とのレッテルを貼られたイリエンコフは唯物弁証法存在論的解釈を批判し、ドイツの古典哲学特にヘーゲルの遺産の重要性を強調した。曰く「存在論」は本質的にカント以前の形而上学への回帰であり、「認識論」はロックとヒュームの認識論への回帰であると。「存在論主義」とは「ヴォルフに回帰する」方法である。したがって、ソヴィエト哲学の特徴の一つである「弁証法存在論化する」ことは、ドイツ古典哲学によってもたらされた成果さえ奪ってしまうことになる。イリエンコフのようなヘーゲル学派の見方は、ソヴィエト哲学の一般的な「存在論主義」との決別を意味していたのであった。

 

ヘーゲルによれば、カントは現象と物自体あるいは感性と悟性など未解決の対立に満ちた二元論的哲学を構築することによって多くのアポリアをもたらしたという。ヘーゲルは、これらの対立するものの高いレベルの「同一性」において「和解Versöhnung」させる。この観点から、カントのコペルニクス的転回による存在論と認識論の間の対立でさえ、主客の「調停Vermittlung」のプロセスの産物の絶対精神において解消される。そこでは、存在論と認識論は進化する精神の全体に従属する視点に還元されることだろう。

 

イリエンコフはヘーゲルの絶対的観念論そのものは拒否した。イリエンコフにとって、存在論と認識論の間の隔たりは、ヘーゲルのような絶対精神においてではなく、またそれを物質にパラフレーズしただけのソヴィエト的唯物弁証法哲学の全体性においてでもなく、人間の「社会的協働連関(この言葉は、廣松渉の言葉であるが)」つまりは「活動dejatel’nost ’」または「実践」の過程で実現される高次の「同一性」において解決される。優秀の誉高く、ソヴィエト哲学界を背負って立つ存在と嘱望されたイリエンコフは、公認イデオロギーから離れた地点に辿り着いた。当局から睨まれ弾圧を受けていたエヴァルド・イリエンコフは、1979年自ら命を絶った。この年、ソ連最高指導者レオニード・ブレジネフ共産党書記長は、アフガニスタン侵攻の決定を下した。

 

外国人投票権について

先週、米国のニューヨーク市議会は、永住権もしくは就労許可を得ている、同市に30日以上滞在する外国籍の者に対して、市長選及び市議会議員選挙における投票権を付与する法案を可決した。これによって、来年初めからニューヨーク市在住の要件を満たす約80万人の外国籍の者にも新たに投票権が付与されることになる。

 

現在の市長デブラシオは、今年いっぱいで退任。来年早々に、新市長に就くアダムズも賛成の意を示しているので、基本的には結果が覆ることはないとは思うが、すんなり行くかどうか。

 

こうしたことは、別にニューヨーク市が初めてというわけではなく、既に10ほどの市が、一定の要件を満たす外国人に対して、市長選挙や市議会議員選挙の投票権を付与している。但し、それはメリーランド州イリノイ州のごく一部の田舎町のことであって、ニューヨーク市のような大都市で認められたことは、やはり衝撃的である。当然、共和党は反発しており、ひょっとすれば法廷に争いが持ちこまれることになるやもしれない。

 

外国人参政権問題は国民主権の原理に抵触しかねないデリケートな問題なので、ともすれば感情的な対立にまで発展しやすく、そうであればこそ、なおのこと冷静かつ慎重な議論が必要となる。国政選挙に関しては、どこをどう解釈しても国民主権の原理に反するので、国民主権原理を憲法の大原則として採用している国々では、外国籍の者に対して参政権を付与すること自体が憲法に違反するとされるため、問題になりにくい(浦部法穂説のような特異な見解でも採らない限り、どうしても不可能との帰結になる)。

 

対して、地方参政権に関しては、有権者団を構成する主体が「住民」となり、この「住民」の意味をどう解するかについて複数の解釈があるため(「住民」というのは「国民」の部分集合であることが本来予定されているので、「住民」とは、当該自治体の区域に住所を有する日本国籍保持者を指すと解するのが、ごく自然な理解だと思われるけれど)、その是非をめぐって様々な意見が入り混じった争いが起きてしまう。

 

このように、ニューヨーク市議会でも揉めていた外国人投票権の問題は日本の一部自治体においても生じているようで、武蔵野市の外国人住民投票問題が、揉めに揉めているという。但し、武蔵野市の場合、ニューヨーク市とは違って、市長選挙や市議会議員選挙における投票権付与の是非が争われているのではなく(日本の場合、地方自治体の首長選挙や議会選挙における投票権を条例だけを以って付与することはできず、仮に平成7年最高裁判決における傍論部分を是とした場合でも、「法律」にそれを認める規定を設けなければ不可能であろう)、形式的には、その結果について法的拘束力を持たせない住民投票における投票権を、武蔵野市に3か月以上居住する外国籍の者に対して付与するのが是か非かという問題だ。

 

住民投票制度を設けている自治体は近年増えてきてはいるものの、まだ大部分の自治体は住民投票制度を定めておらず、ましてや、単に3か月以上居住しているという要件を満たすだけで、外国人に住民投票における投票権を付与する制度を設けている自治体となると、(調べたわけではないが)皆無に近いか皆無なのではないだろうか。ともかく、住民投票制度は二元代表制を補完するための制度であり、あくまで原則は二元代表制の方であるから、憲法地方自治法の趣旨を反映して、住民投票の結果には法的拘束力を持たせないとされる諮問型であるのが通常である。

 

では、なぜ武蔵野市の場合に揉めているのか探ってみると、どうやら政策決定プロセスがほとんど見えない中での唐突な市長による提案であったことに加え、制度の建付が悪すぎるという点が見られるからではないかと思われる(単に「外国人が嫌い」というだけの者やら、「在日韓国・朝鮮人を日本から叩き出せ!」と叫んでいるだけの排外主義者の主張は検討に値しないので、ここでは無視しておく)。

 

市長から提案されている素案によれば、例えば、住民投票結果に法的拘束力は認められないとしても、その結果について、市長や市議会は尊重する義務があるとされているので、たとえ形式的には拘束性がないと言っても、実質的には拘束力を認めたも同じことだとの批判を招き寄せてしまうだろう。

 

条例案に反対する意見の中には、憲法上の疑義からの批判と政治的理由からの批判が含まれるが、このうち前者に絞って軽く検討してみると、日本国民に限り地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有すると規定した地方自治法11条、18条及び公職選挙法9条2項の、憲法15条1項、93条2項適合性が争われた平成7年最高裁判決がまず参照されることだろう。もっとも、本件の争点と同種の争点とは言えない事案なので、平成7年判決の趣旨をどこまで斟酌するかによって見方が異なってくる。いずれにせよ、本事案を考えるにあたってどこまで参考になるかは、これ自体おそらく一つの議論になるに違いない。レイシオ・デジデンダイを構成しない「傍論」であるので、それを金科玉条のように扱うわけにもいかない。とはいえ、外国人地方参政権に対する最高裁の見解が記されているという点で、全く無視するわけにも行かないし、その見解の中に、本条例案の是非を考えるにあたっての重要な視点が含まれていると考えることもできよう。

 

平成7年判決は、理由中の判断において、これまでの最高裁判例と同様に、憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上、日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、在留外国人に対しても等しく及ぶものであることを確認した上で、但し、憲法15条1項に規定する公務員の選定・罷免権の保障が在留外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かという点について、同規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものに他ならず、主権が日本国民に存するものとする憲法前文及び1条の規定に照らせば、憲法国民主権の原理における「国民」とは、日本国籍を有する者を意味することは明らかであるから、同規定は日本国民のみが対象であって、在留外国人の権利を保障したものではないと判示している。

 

そしてまた、地方自治について定める憲法第8章について、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることから、憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、在留外国人に対して地方自治体の首長選挙や議会の議員選挙における選挙権を保障したものではない。これは、外国人の政治活動の自由が争点の一つとなった「マクリーン事件」大法廷判決の趣旨からも明らかである。

 

なお、当該大法廷判決では、「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動等」について、憲法21条1項の保障対象に含まれる政治活動の自由と言えども、こと外国人に対しては、これを保障するものではないということが示されていた。もちろん、「マクリーン事件最高裁大法廷判決で判示されたこの部分は、本判決主文を導く理由中の判断に含まれている。

 

但し、平成7年最高裁判決は、判決主文を導く理由中の判断には含まれない「傍論」において、憲法第8章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性を考慮するならば、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解される以上、在留外国人の中でも、永住者等、当該居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者について、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、特段憲法上禁止されているものではなく、そうした措置を講ずるかどうかは、専ら国の立法政策に関わる事柄であるとも述べている。

 

武蔵野市条例案の対象となっている住民投票制度は、通常の住民投票制度と同様、住民投票結果に法的拘束力が付与されていない諮問型住民投票制度である。といっても、素案によれば、その結果に対する尊重義務を市長および市議会に課しているのであって、たとえ形式的には自由な裁量を観念できることになっていても、実質的には法的拘束力を認めているのも同然という疑義が残る。その上、当該区域の住民の権利義務に関係する事項の是非をめぐる問題を解決するための政治的意思決定プロセスに参画させることは、広く解すれば、外国人には保障対象外であるはずの「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動」を認めることに繋がるとの危惧が生じる。

 

住民投票における投票権を在留外国人に認めたからと言って、直ちに違憲となるとまでは断定できないにせよ、民主主義における自己統治の観念(ここでの「自己」とは、「国民」自身である)を毀損する、外国人による「わが国の政治的意思決定及びその実施に影響を及ぼす活動等」となりかねないことを考慮するならば、慎重の上にも慎重を重ねる必要があるだろう。

 

仮に、在留外国人に住民投票権を付与するとしても、少なくとも、「永住者等、当該居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」に限定した上で、かつ、住民の日常生活に”特に”密接に関係する地方公共団体の公共的事務の処理についての提案の是非を問う住民投票のみに限られるとするなどの一定の制約を課す必要があろう。かく解したからといって、長年当該自治体に住所を有し、その日常生活に関わる公共的事務の処理に特別な関心のある永住者または特別永住者は、ここで言う「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」に該当すると解釈されるので、例えば、日本のみにしか生活の拠点を持たない在日コリアンを排除することにはならないはず。

 

但し、特別永住者として扱われている在日韓国・朝鮮人に関しては、別の問題が生じることもまた確かである。というのも、地方自治体の諮問型住民投票制度の中での投票権に過ぎないので、同列に論じるわけにはいかないにしても、在日韓国人は帰属国である大韓民国の選挙において投票権を持つ身分であり、朝鮮籍の中でも朝鮮民主主義人民共和国を帰属国とする者は、朝鮮民主主義人民共和国公民として最高人民会議代議員選挙の選挙権を行使できる身分を持つ。そうすると、帰属国での選挙権を行使できるのに、日本でも住民投票制度の中での投票権とはいえ、これを行使できるというのは、「二重帰属」を認めるようなものであって納得できないという声が出てくるかもしれない(もちろん、国政と地方行政とは一応区別されるわけだが)。しかも、朝鮮民主主義人民共和国公民としての自覚ある者は、むしろ日本における選挙権要求は「同化」にあたるとして消極的な姿勢を示しているはずである。

 

ともあれ、できるだけ多種多様な住民の意見が反映された地方自治体の運営にすべく、二元代表制の原則だけでは掬いとれない住民意思を明確に問う住民投票制度を補完的に活用し、その中で、そこに生活の拠点を置く在留外国人の意思も参考意見として聞く必要があるとの意見にも一定の理がある。しかし、広く解すれば参政権に含まれるだろう住民投票権を権利として認めるとなると、事は国民主権の原理に密接に関係するだけに、性急な判断は将来にわたって重大な禍根を残す恐れもなしとは言えない。

 

だから、国民主権の原理を規定する憲法前文及び1条の規定に抵触しないようにしつつ、しかし同時に、当該自治体と緊密な関係を持つに至った住民の意思を幅広く反映させようとする地方自治制度の趣旨との調和を図ることのできるギリギリの範囲で許容される方法が模索されねばならない。しかし武蔵野市条例案では、3か月以上の居住を要件としているしているだけであって、これでは、およそ「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」とは言い難い者までも対象に含められてしまうという問題を抱える。

 

平成7年最高裁判決の傍論を斟酌するといっても、その内容は、あくまで「法律」で以って在留外国人に対して地方公共団体首長選挙および議会選挙における選挙権を付与しても直ちに違憲にはならず、したがって付与する・しないの問題は立法政策に委ねられるというものであり、「条例」によってそれが可能となるとは述べていない。この点を以っても、平成7年最高裁判決の傍論を根拠に、「特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる者」とは言い難い者まで投票権者の対象に含める本条例案を肯定しようとする主張は、些か杜撰な主張ではないかと思われる。対象者をどこまでに限定するかは、もちろん解釈論上の様々な議論が行われるだろうが、少なくとも、3か月以上の居住を要件とするのみでは、制約としてほとんど無きに等しいと言うべきである。

 

市は本条例案を一旦撤回するべきである。それでもなお、外国籍の者に対して住民投票権を付与する必要があるというのならば、慎重な議論を尽くしたと言えるような状況になって後に、例えば、永住権を持つ者、少なくとも就労許可を得て長期滞在している者などに限定するなど一定の制約を付した案に改ためた上で議会にかければよいだろう。ともかく、本条例案はあまりに唐突で、かつ意思決定プロセスも不透明である。その上、制度の建付も杜撰である。やはり、一度撤回することが望ましい。