shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

巷の卒業式を見て

 久方ぶりにブログを更新しようとやってきたら、旧来のHatenaダイアリーが機能停止しているというので、新たにこの場に移行して、己の備忘録めいたものを、一応他者の視線が届くことを意識しつつ記すために続行する次第。

 

 中学校の卒業シーズンにあたり、東京都心部ではあまり見られないが、地方ではまだなおヤンキー中学生が十万円から二十万円ほどかかるであろう刺繍ランや特攻服を着こんで街中を闊歩し記念撮影に興じる姿がちらほら見受けられる。

 

 ここ数年、そうした行動に対して、警察が規制をかけるようになってきているというのである。例えば、ニュースにもなる岡山駅前の桃太郎像に集結する刺繍ランや特攻服を着こんだ中学生は、今年は別の場所に排除されているというし、博多駅構内をうろちょろするヤンキー中学生も追いやられたという。規制の理由は、刺繍ランや特攻服を着こんだ集団が集まることによって、その威嚇的ファッションが周囲の人の迷惑になるということらしい。

 

 こうした排除の動きの元は、かつて暴走族が隆盛を極めた広島市において定めれられた「暴走族条例」にある。これは、広島市のアリスガーデンに週末夜に集結して集会を開いていた「駅裏会」、「誘義」、「舞姫」、「國皇連」、「観音連合」といった有名な暴走族チームを排除するために、共同危険行為など道路交通法違反をしているわけでもないにも関わらず、単に特攻服を着こんで集まること自体が違法であるとして取り締まる条例であって、当時から憲法違反の疑いが濃厚であった。事実、最高裁の小法廷判決においても、3対2という僅差で辛うじて合憲の判決が出たといういわくつきのものなのである。これをギリギリ合憲と判断した最高裁ですら、形式的に見れば憲法違反であることを暗に認め、立法技術の稚拙さを批判していたほどだった。無理やりに合憲限定解釈を施して法文を救うよりも、明確に憲法違反の条例である旨の判断をすべきであったとする藤田宙靖判事の意見がまっとうであった。

 

 警察が暴走行為を取り締まる際の根拠法令は、主として道路交通法だが、中でも67条の共同危険行為が持ち出される。刑事罰を伴う処分行為においては、被害は抽象的なものではなく具体的な法益侵害が認められねばならないことが原則であるにもかかわらず、実際の運用も徐々に変化してきており、今では具体的な被害の申告なしでも共同危険行為に該当すると判断できるとするのが現行の解釈枠組みになっている。

 

 また、取り締まりの際の採証活動として赤外線カメラを使用することは、被写体を丸裸にしてしまうこととなりかねず、これは特に保護されるべき法律上の利益を侵害することになるのだから、たとえ検証の一環として、あるいは捜索差押時の付随的処分として、許される写真撮影であろうと、丸裸にして撮影するには、これとは別の身体検査令状を要するほどのことである。こうした捜査活動に対して何ら異議が出ないのも、彼ら彼女らがひとえに「善良な市民の敵」との烙印を集団的に押されているからに他ならない。

 

 特攻服を着て集まるだけで違法とされたり、特攻服に刺繍を入れた業者が道路交通法違反(共同危険行為)の幇助に問われる事件も発生している。刺繍など服飾業を営む老夫婦が依頼されて刺繍を施しただけで罪に問われたというケースも耳にする。これが異常なことであるのは、例えば、自動車を利用して何らかの犯罪を実現した者がいたとして、自動車製造業や販売業に携わった者が幇助に問われてしまうことを想像すれば理解されよう。

 

 また、暴走族を取り上げていた雑誌「チャンプロード」が、各地域で有害図書指定され、遂には廃刊にまで追い込まれてしまった。もちろん、廃刊の理由はそれだけに限らないだろうが、これら一連の法令上あるいは事実上の規制行為に対する反対の声に関して、当該雑誌を出す出版社以外、出版業界全体として反対の意思表示をしたとは寡聞にして知らない。「あの雑誌は単車の改造やら暴走行為を助長する雑誌なのだから規制をかけて当然だ」という見解なのだろうか。

 

 成人式の際、マスメディアは毎年のように「荒れる成人式」として暴れる成人を取り上げ、扇動するだけして、調子に乗りすぎた彼らを断罪する。僕が所属している(仕事で多忙なため、現在は籍だけ置いている、活動していない構成員と化しているが)民族派団体に所属する新成人は、街宣車を出動させて成人式会場に参上し、警察といざこざを起こしていたわけだが、そこでも、普段は人権やら自由やらを言祝いでいるリベラル系の政治団体の人間から蛇笏のごとく嫌う軽蔑の眼差しをひしひしと感じ取ったという。彼ら彼女らからすれば「健全な市民」はなく、「チンピラ」や「ごろつき」同然の輩として、最も忌み嫌うべき存在に映ったのであろう。

 

 「清く・正しく・美しく」という標語を絵に描いたPTA的な存在にとって、我々のような右翼は「見たくないアウトロー」とし潜在的な抹殺の対象なのであろう。ヤクザや暴走族であろうと、当然に認められるべき権利や法律上保護されるべき利益があるにもかかわらず、それを蔑ろにし、「市民社会の敵」に対しては、いかなる手段を講じても構わないとの扱いが常態化されている現実がある。その姿は、治安機関のお先棒を担いで糾弾キャンペーンを展開することに抜かりない連中の姿と重なる。

 

 何も、違法行為を放置せよというのではない。違法行為があれば、捜査機関としては捜査を開始し、将来の公訴提起及び公判の維持等を見据えて必要性と理由があれば身柄を拘束し証拠の収集・保全に努めることは当然の行為である。一般人に対するのと同様の基準で以って同様の取扱いをするべしということなのである。

 

 アウトロー集団は、戦後リベラル左派の代表的論客の一人であった丸山真男の『(増補版)現代政治の思想と行動』(未来社)の「補記」からすると、端的に「市民社会」の成員として相応しからぬ類型に属する人間と位置づけられるであろうから、いずれにせよ、リベラル左派の多くが忌み嫌う「市民社会の敵」として遇されることは決まりきった話ではある。所詮、市民社会は、その秩序を維持する強大な公権力の存在を背後に控えさせておくほかに成り立ちようがないと考えられているからであり、その意味で市民社会と国家権力は「共犯関係」に立たざるを得ない。

 

 市民社会とは、それと全く同視することまではできないまでも、国家装置の一部を構成するものでしかない。その現実を直視することなく、安全な場所を確保した上で権力の当事者を政治的に糾弾することで自己のアイデンティティを確立していく。権力機構の基軸を揺るがすようなことまでは決してしない。否、できないのである。

 

 戦後のリベラル系知識人は、大学や論壇なり文壇なりでの守られた立場に安住し、左派であることがまるで知識人としての当然の在り方であるという納得の風土の中に於いて、それらしき言説を「権威」の衣を身にまといながら弄してきた。しかしその言説は、陰に陽に権力の保護下での言説でしかなかった。

 

 現在は、必ずしもそうならなくなってきているが、かつて権威化していた「朝日・岩波・NHK」というメディアを通じて、これまた権威の中枢を担っていた東京大学法学部の教授たちが「啓蒙」としてお説教を垂れていた。権力に守られながら庶民の留飲を下げる意味もあって多少の権力批判を展開しているだけで、「知識人」として祭り上げられていたわけである。事実、これらリベラル系知識人は、東京大学法学部をヒエラルキーの頂点とする強固な官僚機構による支配構造を崩そうとはしなかった。それどころか、この権威を居丈高に振り回し周囲を睥睨し続けるばかりだ。

 

 しかし、それが可能だったのは、戦後冷戦構造が相対的な安定性を保持していたからである。冷戦構造の相対的安定性のおかげで享受していた経済的繁栄も、国際政治構造の変化と軌を一にしたバブル経済崩壊とそれ以後の停滞によって、リベラル系知識人の「権力」の安定も揺動されてくる。彼ら彼女らが「右傾化」と呼ぶ昨今の日本の政治状況は、僕としては決して右傾化などとは思わないが、彼ら彼女らの言説の影響力の低下とともにやってきたかはともかく、少なくとも多くの国民が、その言説の欺瞞を鋭く嗅ぎ始めたこととも関係しているのかもしれない。

 

 そうした状況を斎藤環のように「ヤンキー化する日本」と揶揄する者もいることだろう。レベルとして同列には扱えないが、斎藤のヤンキーに対する態度の背後に見え隠れするのは、かつて丸山真男アウトローを排除する際の視線と同種の視線である。もっとも、その主張の当否についてはともかく、一応戦後日本を代表する論客の一人と目されていた知識人丸山真男に、明らかに「知識人」とまでは言えない斎藤環を比すことはできないし、国民を二分する差別意識をあられもなく開陳していた自他ともに認めるエリートとしての丸山真男の言説と、単純にヤンキーが嫌いなだけだろうと思われる斎藤環のそれを同列におくべきではないのかもしれない。

 

 斎藤には、ヤンキーを「DQN」という隠語で揶揄していた一部ネット住民の言動以上の見識を見ることは困難である。仮にこのヤンキー化が「反知性主義」の体現だというのであれば、喜んでこの「反知性主義」を称揚したい。なぜなら、ここで言われる「知性」とは、ヘタレの自己防御の身振りでしかないからである。