shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

保守の劣化

 鴉の鳴かない日はあれど、「改革」の絶唱が鳴り止む日はない。そう思えてくるるほど世間ではとかく「改革」の言葉が好まれる。「改革」さえすれば全ての問題が解決されるかのような幻想が振りまかれ、見せかけの特効薬の効用書に惑わされた大衆が踊らされ、後に裏切られるといったことが何度反復されたことか。「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」との名言をカール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(国民文庫)は残したが、なんのことはない。二度とはいわず何度も反復されるのだ。

 

 小学校から教わる江戸時代における「三大改革」として称揚されてきた八代将軍徳川吉宗による享保の改革松平定信による寛政の改革そして水野忠邦による天保の改革の末路を仔細に見ていくと、江戸期の「改革」と言えども近年の「改革」のバカ騒ぎと同様、ろくな結果をもたらさなかったという点で「御多聞にもれず」反復される喜劇の中に位置づけられるように思われる。家康・秀忠・家光の三代の世を通して徐々に完成されていった徳川幕藩体制は、四代家綱の治世になるともはや将軍の威光による支配という側面は鳴りを潜め、実際は酒井忠勝松平信綱などの補佐役による統治へと変貌していく。その証拠に、家綱が亡くなろうとする時、幕閣連中は老中堀田正俊を除いて将軍継嗣を鎌倉幕府の時と同じように皇族から迎え入れる案を主張していた事実がある。もちろん事実はそうはならず、堀田が死につつある家綱の枕元に赴き五代将軍を弟である館林藩主であった徳川綱吉にするとの遺言を受けることで綱吉が徳川幕府第五代征夷大将軍に就いたのだが、皮肉なことに後に綱吉に煙たがられるようになった堀田が殿中にて刺殺されるに至り、その後は元々二千石の家柄にすぎなかった牧野成貞およびそれに次ぐ百六十石の小身者であった柳沢吉保側用人として頭角を現していくにしたがって、それまで幕府の執権の中心となってきた譜代大名の力は削がれていった。ある種のヒエラルキーの転倒が起こったのである。武家社会の権力中枢ににおいて反復されるこのメカニズムについて分析したのが、丸山真男「政事の構造」という講演録である。さて六代将軍家宣の世になると、側用人間部詮房や一介の浪人の出でしかなかった新井白石が侍講として重用され、彼らが凡庸な家宣に代わって幕府の実権を掌握するに至る。とりわけ間部の権勢は頗る大きく、また木下順庵の愛弟子で当代きっての学者で「天下に並ぶ者なし」と言われた新井白石による統治は、文治政治の完成形であった。家宣により発令された宝永令は家康時代以来の元和令の方針を抜本的に変えるもので、一言で要約するならば、徳川家による統治体制を徳川家の血統そのものに依拠せずともよい形で再定礎された「徳川ダイナスティ」の恒久的確立を企図した壮大な企てとも言いうるものだった。ところが、間部・白石の企ては志半ばで頓挫することになる。紀州徳川家から吉宗が八代将軍として江戸に入城するや否や、間部・白石の企てを潰し旧体制(アンシャンレジーム)の復活が成る。それまで活気づいていた江戸の町は吉宗入城後に様変わりし、その疲弊ぶりは江戸に新築の家が一軒も見当たらなくなるほどの酷さであったことが近衛摂関家日記に記されている。経済活動は収縮し、武士階級の生活苦が深刻となり、幕府天領の年貢も大幅に増やされ農民はますます疲弊していった。加えて、幕府の財政再建のために米相場にも介入したため相場が混乱しその不利益が町人の生活にも飛び火しさらなる困窮を招くに至った。百姓一揆などが頻発し始めるようになるのも、この吉宗の治世からであった。吉宗は、こうした事態に対して身分制強化を強権的に断行することで不満を封じ込めようとしたのである。言論や表現活動に対する弾圧が強化され、新たな本の出版やこれまでの通説に反する一切の他説を論じることすらも禁じられた。また風紀を乱す輩には容赦なくあたり、少し派手な着物を身につけていようものならその場で身ぐるみ剥がされ没収されるという光景があちこちで見られたともいう。江戸町奉行大岡忠相を登用したり目安箱を設置するなどの功績もあるには違いが、明らかに経済・文化・生活は疲弊し社会全体は停滞することになったというのが実際のところなのである。

 

 吉宗が大御所として一線を退いて後に、頭角を現した田沼意次小姓組番頭格に就くと田沼は徐々に能力を発揮し遂には老中として権勢を握ると、後に「田沼時代」と称される二十年間の経済・文化の発展期を演出した。田沼時代は「賄賂政治」との後世の悪評があるが、実際のところ田沼が金権政治の下手人であったのかどうか詳細定かならぬところがあり、後世の作り話であるとの説もある。いずれにせよ田沼時代は経済発展著しく、文化面から見ても本居宣長が『古事記伝』を執筆していた頃だし、与謝蕪村柄井川柳上田秋成が活躍し、また変人発明家平賀源内が出現した。蘭学研究にしても『解体新書』や『蘭学階梯』が書かれたし、林子平『三国通覧図説』や工藤平助『赤蝦夷風説考』が出版されたりもした。はたまた鈴木春信の錦絵や浮世絵も普及してくる。これらは吉宗治下ではいずれも禁圧されていたことである。田沼はこれまでの幕府の経済政策を改め商品経済化を推進した。近代市民社会成立のための経済的素地が形成されるチャンスでもあったのである。ところが松平定信が「腐敗した」田沼時代の政治を抜本改革するとして寛政の改革に乗り出すと、これら活動は再び禁圧され経済活動も収縮していくことになった。林子平は『海国兵談』を執筆した廉で弾圧され、山東京伝も弾圧の憂き目にあった。寛政異学の禁で学問研究の制限を行い、町人が髪結を頼むことや菓子を食うことも禁止し、景気が悪くなり失業者が増えると人足寄場を設けてそこに収容する措置をとった。何のことはない、今で言う強制収容所である。当然街から活気が失われ、「服装の乱れは心の乱れ!」と絶叫してまわるどこぞのPTAのオッサンやオバハンのように風紀を乱す者を取り締まらんと幕吏が街を監視してまわる。堪忍袋の緒をきらした江戸や大坂の町人たちは「ふざけるな!」とばかりに天明の打ちこわしとして知られる暴動を連発したのである。「白河の清きに魚もすみかねてもとの濁りの田沼恋しき」とばかりに松平定信が失脚して後は、しばらく「エロ将軍」として知られる家斉の治世の下、文化文政の爛熟した文化が栄えることになるも、これまた水野忠邦による天保の改革で大弾圧を蒙ることになる。蛮社の獄がその一例である。これら一連の「改革」がなく、例えば田沼政治の路線が継承されていたならば、ともすると徳川将軍家を最高最大の封建領主とする「大名連邦」であった幕藩体制の崩壊を早め、維新前夜に模索された「大君制度」による中央集権国家(初代「大君に」はおそらく徳川宗家の当主が就任することになっていたであろうが)に早々に移行しえていたかもしれない。少なくとも「外圧」によって触発された明治維新により表向き王政復古を掲げた薩長土肥藩閥政府が主導するその後の極端な欧化政策とその反動としての国粋主義化に振り回されることはなかったのかもしれない。 

 

 「改革」なんぞされなかった慶長から寛永の世、すなわち社会の流動性が失われ幕藩体制が徐々に確立した結果として武士が「サムライ」から「小役人」と化してくるにつれ、そんな社会に反発するかのように「かぶき者」たちが町中を暴れまわった。それは旗本や御家人の子弟から始まり後に町人にまで広がり、今で言うところのある種の「ヤンキー集団」となって「小市民的生活」をあざ笑うかのように無法者として江戸を中心に跋扈し暴れ回り独特の文化の開花をも用意しもしたのである。現在の暴走族の派手な特攻服や卒業式のシーズンになると地方のヤンキー中学生が数万円から十数万円かけて作る刺繍欄、三段シートやテール、風防を装着したりブチアゲにした派手な改造単車やLEDや蛍光ランプなどを使って内装したり極端に車高調にして着かざられたVIPカーなどの独特のスタイルは、この種の「かぶき者」の粋の系譜と言えなくもない。

 

 「改革」の標語が連呼されてよくなった例は歴史上一度としてなかったように、まともな見識を持つ者ならば予見できたであろう大阪府大阪市政の「都構想」という名の「改革」騒ぎは、遅かれ早かれその破綻が明確なかたちで世に露見され、後世「バカ騒ぎ」という形におさまるだろう。最終的にはほめそやかしていた者らによって「梯子を外される」ことになるに違いないからである。ただ、その「バカ騒ぎ」のドサクサに紛れて、よからぬ勢力が大阪府・市政のトップに位するバカ2人と彼らを支持する者たちの頭の悪さに乗じてあらぬ方向に導きいれようとしている事態を座視しておくわけにはいかない。教育に民意を反映しろと耳障りのいいことをいうが、教育内容を「民意」に委ねることぐらい危険かつ愚かなことはない。「2次方程式が人生に役にたったことはない」などとのたまい、夫とともに政治家に取り入ることと愚にもつかぬ散文を書き散らかすだけに長けた三流女流作家が己の貧しい人生経験だけを頼りにして文部科学省の審議会委員を務め暴論を捲し立てて周囲の失笑を買っていたぐらいだ。その際にも「民意」とやらの名のもとに為されたというだからたまらない。それとお近づきの者がまたぞろわいてでてくるとなると、尚更酷いことになるだろうことは火を見るより明らかなのだが、今度は「道徳教育の復興」を掲げる団体(複数の新興宗教が関与している団体)が、胡散臭い道徳本を頒布している。そのような下らないものを頒布するのではなく、古典を直接読み聞かせればればよいのである。論客としても三流・四流の能無しが徒党を組んで保守論壇で暴れて荒らすだけ荒らし回るだけにでは飽き足らず、何かにつけて「国民運動」とやらを組織して新興宗教の信者どもを大量に動員する一方で、国会議員や地方議会議員の連中にも食い込んで、日本という国を蝕もうと企んでいるかに見える。

 

 かくのごとき連中が今日の保守論壇に巣食ってしまったことは、同時に左派論壇も保守論壇と同じく崩壊してしまったことを意味する。保守論壇の質の劣化は、左派論壇の崩壊に歩調を合わせるかのように加速度的に進んでいった。もはや保守の名に値しない夜郎自大な妄想狂の戯言が誌面におどりだし、悪質なデマ雑誌が氾濫するありさま。三流・四流の「論客」が登場して、保守とは名ばかりの伝統と乖離し古典の教養すら皆無の斉東野人か米国の御殿女中のような連中か、そんな悪質なデマゴーグしか登場しなくなってしまった。そもそも「国民運動」なるものを大量動員して進めようということ自体が保守ならざることの証にほかならず、かかる「動員の思想」は前衛党を自称する政党なり政治集団なりが、勢力下におさめる労働組合の連中を大量動員して指導していた発想と何ら違いはない。殊更に「敵」を拵え、それへの憎悪を徒に掻き立て、声高に独り善がりの珍説・妄説を絶唱し思想を一色に染め上げようとする態度に些かの保守的精神も見られようはずもないではないか。確かに左翼はバカである。しかし左翼叩きのただ中でそのバカまで伝染し左翼のやり口を真似て何がしたいというのか。

 

 福田恆存が「私の保守主義観」で述べているように、保守とは確固としたイデオロギーでもまたそのもとに結集した者の集まりでもない。したがって「保守主義」という言葉は、文脈次第で他に適切な用語が見当たらない場合に「とりあえず」に宛がわれた符牒にすぎず、本来ならば「保守主義」という用語は相応しくない。ただ、かろうじて言えることは、「保守的精神」ないしは「保守的態度」のみである。それがイデオロギー的仮構と化した「保守主義」となるならば、それはもはや保守と遠い隔たりにあるといってよいかもしれない。別異のイデオロギーを対置しただけに過ぎないのだから。何かしら言わんとすることに対する制度的な圧迫や矢鱈と知的力技を誇示することで相手の沈黙と屈服を強いる狡猾な言葉への抵抗。こういう「抵抗の精神」もしくは「常識」の働きにしか保守は宿らない。

 小林秀雄本居宣長』(新潮社)の一節にはこうある。

 

「問題は、人の情といふものの一般的な性質、更に言へば、その基本的な働き、機能にあつた。何事も、思ふにまかす筋にある時、心は、外に向つて広い意味での行為を追ふが、うちに顧て心を得ようとはしない。意識は「すべて心にかなはぬ筋」に現れるとさへ言へよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るやうに促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさへ言へよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言ふ時、ひそかに考へてゐたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせてゐれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのづから意識される、さういふ生活感情の本性への見通しなのである」。

 

再び『本居宣長』より。

 

「この誠実な思想家は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか、決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に染められた文体であしか表現できぬものでもあつた。この困難は、彼によく意識されてゐた」。

 

同じく小林秀雄「常識」(『考えるヒント』(文春文庫))より。

 

「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するやうに考へてゐるところにある。さういふ形の考へのとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないやうに思われる」。