shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

丸山真男と「日本的なるもの」

江藤淳は、クロード・レヴィ=ストロースとの対談を終えた後、在パリ日本大使館で催された夕食会の席に夫人とともに招かれた時の思い出をについて、『天皇とその時代』(PHP)で触れている。中でも、同席していたフェリックス・ガタリとの会話が印象深い。時は昭和63年。昭和天皇崩御の前年である。

 

夕食会の席でガタリと交わされた話題は、先のレヴィ=ストロースとの間で交わされた東洋思想と西洋思想についての両者の考え方をはじめとして、昭和天皇の御不例を案じて皇居前広場に詰めかけている日本人のことにまで及んだという。その席で、ガタリは次のように言った、と江藤は記している。 

私たちフランス人は、神を殺し、王を殺しました。そして皇帝を追放し、もう一人の皇帝をも倒しました。更には人民戦線の神を殺し、共産主義の神を殺し、実存主義の神をも殺してしまいました。その結果、私たちの国は御覧の通り解体の一途をたどっているではありませんか。それに引き換え、日本人はどうでしょう。私は精神病理学者ですが、皇居前に集う日本人の心理を、個人の病理からは説明することができません。これはおそらく一つの祭儀なのです。日本人にとってこの上なく深い意味を含んだ、厳粛な祭儀であるに違いないのです。そのなかで、終焉が再生を喚び起す大切な祭儀、それに日本人は参加しつつ、いま再生しようとしているのです。

 

江藤淳は、最近の自称「保守」の連中とは一線を画す、戦後日本にごく僅かしか存在しない良質な保守の知性の一人だから、クロード・レヴィ=ストロースが相手であろうと、フェリックス・ガタリが相手であろうと、相応の対話をなしうることにさしたる驚きはないが、ガタリのテクストを読む限りでのイメージからは、些か距離のある発言内容に意外な思いがしたものである。この発言が、時が時、場所が場所、相手が相手のために吐かれた単なる社交辞令の域にとどまるものとは思われない。単なる儀礼上の発言にしては、ガタリの態度についての描写と相容れがたいものがあるからだ。

 

昭和天皇の御不例から崩御に至る一連の日本人の行動を苦々しい思いで見つめていただろう一人の知識人に、丸山真男がいた。皇室の伝統を含め「日本的なるもの」に対して苛立つどころか、露骨に嫌悪の感情を顕にしていた丸山であるが、その「日本的なるもの」を徹底的に呪詛する意図を正面切って表出した論文は、『日本の思想』(岩波新書)所収の論文「日本の思想」であろう。

 

あまりにも有名なこの論文の要点は、乱暴にまとめると以下のように整理されるだろう。日本においては、座標軸となるべき思想的伝統が形成されないまま、近代において「伝統」的とされる思想と「外来」思想が雑居するという奇妙な事態が出来した。それゆえ、思想が歴史的に構造化されがたい「無構造の構造」というべき特有の「構造」が抽出される。このような「無構造の構造」においては、新たな思想は次々と受容されはしても、決して血肉化されることはない。それゆえ、傍らに忘却されていた「過去の伝統」が突如として「背後から現在のなかにすべりこ」み、ある時ふと「思い出」といった形で噴出する事態が繰り返されるというのである。

周知のように、宣長は日本の儒仏以前の「固有信仰」の思考と感覚を学問的に復元しようとしたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的な形にせよ、究極の絶対者というものは存しない。・・・(中略)・・・この「信仰」にはあらゆる普遍宗教に共通する開祖も経典も存しない。・・・(中略)・・・「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習俗」してその教義内容を埋めてきた。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもなかろう。

 

これまでの丸山の営為とは随分趣きが違うように思われるが、ここで指弾されている対象とは、前近代的論理としての「日本的なもの」である。公私の分離、個人の内面性の解放と保持、主体的作為という近代性の論理の欠如態として「日本的なもの」を見る視点の発生である。この「日本的なもの」の中核となる「無構造の構造」という論理は、いわゆる「天皇制」国家の「無責任の体系」を生み出す原基と位置づける際の論理ともなっている。

 

『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)に収録されている第一論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」を一瞥してみよう。朱子学自然法則と道徳法則を連続性の相において考えていたのに対して、荻生徂徠の学問においては、そうした朱子学的思惟様式から離脱して自然法則と道徳法則の分離、及び政治的・社会的「公」と個人的・内面的「私」の分離という思惟様式が見出される。その営為には、徂徠の学問に「近代的なもの」の重要な標徴を見る当時の丸山の思考が反映しているわけだが、こうした思考と『日本の思想』収録の諸論文に見られる「日本」叩きの論理に見られる思考との間には明らかに思想的断絶が存する。

われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公的=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現はれたのである。

 

抑々この様にして儒教思想の自己分解のなかに近代意識を探ることに一体如何なる現代的価値があるのか、さうした近代的な思惟こそまぎれもなく現在『危機』を叫ばれるゐるところではないのか。現代精神のあらゆる混乱も無秩序も遡つて行けば、そこに源泉が見出されるのではないか。われわれはこの疑問にたいしてかう答へるよりほかない。まさにその通りである。しかしながら問題は近代的思惟の困難性は果たして前近代的なものへの復帰によつて解決されるかといふ点に存する。市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代的なそれの素朴な連続を受け入れる事は出来ない。

 

つづく第二論文「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」は、第一論文で描かれた私的道徳と「政治的なもの」の分離に続く、「作為の論理」が抽出される。

完全に近代化されたゲゼルシャフト的思惟様式に於ては、自由意思の主体としての人間が社会秩序を作為すると構成がすべての個人について認められる。『社会契約説』はその必然的帰結である。しかるに徂徠学では秩序を作為する人格は第一義的に聖人であり、次にそのアナロギーとして一般的支配者である。しかもその聖人は殆ど宗教的絶対者にまで高められてゐる。

 

この様にして維新の身分的拘束の排除によつて新たに秩序に対する主体的自由を確保するかに見えた人間は、やがて再び巨大なる国家の中に呑み尽され様とする。『作為』の論理が長い忍苦の旅を終つて、いま己れの青春を謳歌しようとしたとき、早くもその行手には荊棘の道が待ち構へてゐた。それは我が国に於て凡そ『近代的なるもの』が等しく辿らねばならぬ運命であつた。徳川時代の思想が決して全封建的ではなかつたとすれば、それと逆に、明治時代は全市民的=近代的な瞬間を一時も持たなかつたのである。

 

ここには、明らかに後の丸山の思考との断絶がみられる。丸山真男の初期の思考は「政治学に於ける国家の観念」(『戦中と戦後の間』みすず書房)という東大法学部緑会懸賞論文から始まるわけだが、そこでは、近代個人主義にもまた全体主義でもない「弁証法全体主義」の立場が提起されている。この「弁証法全体主義」の立場は、務台理作『社会存在論』(こぶし書房)ひいては田邊元の「種の論理」の理路と軌を一にしていると言ってよい。ところが、いつの間にかこの立場が放棄され、上記の通り、近代的主体の萌芽を江戸思想に見出す方向へとシフトし、そこから転じて「日本的なるもの」一般を徹底的に糾弾する方向へと様変わりしていく。

 

「日本よ、死ね!」と藁人形に五寸釘を打ち付けるかのように、丸山真男が「日本的なるもの」への呪詛の言葉を弄するようになるのは、おそらく昭和20年代後半、ちょうど我が国がサンフランシスコ講和会議を経て主権を回復する前後である。特に「ある自由主義者への手紙」や「日本におけナショナリズム」あるいは座談会「日本人の道徳」に端的に現れている。「日本におけるナショナリズム」では、

戦後日本の民主化が高々、国家機構の制度的=法的な変革にとどまつていて、社会構造や国民の生活様式にまで浸透せず、いわんや国民の精神構造の内面的変革には到つていない

 

としている。「日本人の道徳」では、遂に「天皇制」に対する呪いの言葉をぶつけるに至る。

天皇制がモラルの確立を圧殺している。これを倒さなければ絶対に日本人の道徳的自立は完成しない。・・・天皇制の批判は、それが天皇を含めて日本人の人間解放を執拗にはばむ一番非人間的な制度だという点に重点を置くべきだ。

 

まるで、「郵便ポストが赤いのも何もかも、天皇制が悪い!」と叫んでいるようなものである。前近代的思惟様式を決定づけてもいる「日本的なるもの」への批判にとどまることなく、その責任を天皇の存在に帰すようなことまで言ってのけている。その論理は無茶苦茶である。

 

丸山が蛇笏のごとくに嫌った「日本的なるもの」への徹底的批判は、最終的には論文「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫)となって結実する。本居宣長が取り出してみせた日本人の「固有信仰」こそが、その原基であるとして捉え返されたのである。

 

ここに、『日本政治思想史研究』において「内面性」の契機を取り出した宣長への肯定的評価が打って変わって、今度は呪いの対象と化したという大転換を見ることができる。カトリシズムに典型な超越の観念を持つことのなかった日本の歴史意識の基底に流れつづけていた思惟様式が、『古事記』・『日本書紀』に基づいて、「つぎつぎとなりゆくいきほひ」という「古層」として抽出された。

 

もっとも、この論文に対して、「日本的なるもの」の抽出方法として選択された消去法について、丸山自身も「一種の循環論法になる」おそれを認めている通り、あまたの批判がなされており、その代表的なものが雑誌『現代の理論』に掲載された子安宣邦の論文「『古層』論への懐疑」である。この論文はアカデミズムを超えて様々な論者が言及するに及び、例えば精神科医斎藤環による『世界が土曜の夜の夢なら-ヤンキーと精神分析』(角川書店)おいても触れられている。その読み方は、政治思想史から見れば当然に疑問符がつくものであり、学術的水準には到底達していない「評論」として消費されていく読み物に過ぎないわけだが、さほどにこの論文が伝播して読み継がれていることを示す例証にはなるだろう。だが、そこに含意されている時間論がうまく摘出・分析れていないし、引用される割にはそのテクストの読み込みがなされているとは言い難いのが実情である。

 

このような丸山真男とは逆に、もともとは『作家は行動する』(講談社文芸文庫)を著しつつも、後に『小林秀雄』(講談社文芸文庫)や『一族再会』(講談社文芸文庫)において保守回帰を遂げた江藤淳が、昭和天皇崩御に際して雑誌『文藝春秋』に寄稿した文章はこうある。

願わくは「平成」の時空間が、「昭和」の時空間と同じように悠久の古代に通じ、そのなかで死者と生者が相逢うことのできるような時空間でありつづけることを。そして「後世子孫」のために、皇室の「尊厳神聖」が「我国の至宝として之に触るることなく」、とこしえに伝えられんことを。謹んで天皇陛下に冀い奉る、われらの死後もそののちの世にも、この国をとわに亡し給わざらんことを。

 

平成の御代が終わろうとしている今、改めて昭和の御代の終焉にも思いを馳せねばならないと思う。