shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

国家緊急権と例外状態

 自由民主党憲法改正推進本部は、改正条項に国家緊急権を条文化することを提案している。周知の通り国家緊急権とは、戦争や内乱及び大規模な自然災害や経済的困難など平時の統治機構では対処不可能な非常事態において、国家権力が国家の存立すなわち現代では憲法体制の存立の維持をかけて立憲的な法秩序の全部または一部を停止し、執行権者に付与された非常措置を執る権限のことを指す。憲法秩序を保障するために一時的にであれ、立憲的法秩序を停止させるという意味で憲法保障の側面を有しつつも、同時に立憲主義そのものを恒久的に破壊せしめる危険性を併せ持つがゆえに、特に日本の憲法学で真正面から議論されることがなかったといっても過言ではない論点の一つでである。

 

 もちろん、全く議論がなかったとまでは言えない。事実、国家緊急権を日本国憲法上どう位置づけるのか、それを直接認める明文規定を欠いていることから複数の学説が存在している。その中で有力な学説は、日本国憲法が明文で国家緊急権を認めていない以上、恣意的に運用されかねない国家緊急権を認めることは憲法の許容するところではないという解釈である。この解釈は、仮に国家そのものの存立にかかわる非常事態が出来したとしても、それはもはや事実上・政治上の問題であるとして憲法理論から放逐すべきであるとの考えを背景にしている。しかしこの問題は、戦争や内乱その他重大な危機などのために通常の制度的枠組みを前提としていては国家自体の存立にかかわる事態に言われるということでしかないということを改めて想起する必要があるように思われる。

 

 なぜ国家緊急権が問題となるのか。それは、国家それ自体の存立にかかわる事態に対応して国家の「国家性」のみの要求が前面におしだされるなかでも、辛うじてもう一方の「規則性」・「法治性」の要求に応えうるにはどのような法理論がありえるのかという問題が依然として残るからにほかならない。したがって、非常事態において立憲的な法秩序は一時的に停止するものの、そこに全く法理が反映されないということではなく、「非常事態の法理」に基づく国家の権限を観念でき、このレベルにおいても授権と制約が効く法理論でなければならないとの要請に応えることになる。この点、大日本帝国憲法では天皇の非常大権や戒厳の権限が認められ、伊藤博文憲法義解』にもそのことが解説されているが、なによりもワイマール憲法48条2項に規定される大統領の非常措置権の解釈をめぐるカール・シュミット憲法理論が参照されるべきであろう。シュミットやアベ・シエイエス憲法制定権力論についてはルソーの立法論と絡めて書いたものがあるので、ここではシュミットのいう「委任独裁」を見ていきたい。シュミットは、体制全般の危機に際しての克服の手段として「独裁」を提起したことはよく知られている。

 

 シュミットは「独裁」を危機克服の有効な手段と位置づけ、なおかつ、「独裁」が必ずしもデモクラシーに対立する関係に立つわけではないことを理論化した。『政治神学』では、現行法秩序の無効ないし欠如した「規範的無」を例外状態として想定し、不可避的な「決断」の契機をその主権論に結合させる。「例外状態において決断する者こそ真の主権者である」というわけである。改めて確認するまでもなく、シュミットが意味するデモクラシーとは、我々が憲法学を学ぶ最初に触れられるデモクラシーの本義と同じ「治者と被治者の自同性ないし形式的同一性」であり、シュミットはそこからさらに拡張させて、この同一性は異質な他者を排除することによって成立する民族的同質性を意味すると解した。この点でリベラルデモクラシーとは部分的に一致する要素こそあれ、その内容は大きく異なる。シュミットによると、「独裁」はデモクラシーの対立物ではないことはもちろんのこと、近代デモクラシーの欠くべからざる前提でもある「代表」の最良の選出方法を選挙ではなく大衆による「喝采」に求め、その「喝采」によって推戴された「独裁者」による統治の方が議会主義よりも本質的にデモクラシーの本義に叶うとすら主張した。

 

 シュミットは、この独裁を二種類に分ける。一つは「委任独裁」、もう一つは「主権独裁」。前者は現行憲法体制の存続が危惧される非常事態に際して当該憲法の授権の下、憲法の全部または一部の停止により憲法体制を防衛するための緊急の要に迫られた独裁である。ワイマール憲法48条にある大統領の非常措置権は、この「委任独裁」を認める規定であるとシュミットは解釈する。対して「主権独裁」とは、新たな憲法を頂点とする法秩序創造のための独裁であり、憲法制定権力による独裁と言い換えてもいい。この二つの独裁の違いは授権する権威の所在の違いにこそある。対して共通点としては、「手段性」・「過渡性」・「例外性」をメルクマールとして持つ点である。『憲法の番人』によると、ワイマール憲法は大統領を一般政治的かつ党派政治的には中性的な制度・権能のほかの中心点とすることによって政治的全体としての国民的統一体を確信しようと試みる。ワイマール憲法は特に大統領の権限を直接にドイツ国民の政治的総意と結合させ、それによって大統領とドイツ国民の合憲的統一と全体性の番人ないし擁護者として行動しうるための可能性を付与しようと試み、かかる試みこそがドイツ国家の存在を基礎づけるのだとする。

 

 こうした考えが拡張され、『国家・運動・国民-政治的統一の三重構造』においては、現代国家の政治的統一を国家・運動・国民の三重構造的結合として把握される。この三系列が相互に同列に併存するのではなく、その中の一つが国家機構の操作を通じて同時に運動を究極的には担うところの国民に「浸透」していくのであるというのである。ここでいう国家のうち、独裁において捉えられた中性国家=「政治静態的部分」は官僚制や常備軍組織といった国家機構を指し、運動は「政治動態的要素」を指し、国民は「非政治的側面」を指す。要は運動として党(ここでは国家社会主義ドイツ労働者党)が頂点に立ちながら国家機構を操作し、「非政治的側面」としての国民を指導するという。なるほど、国家緊急権としての点で見る場合、シュミットの主張はある意味もっともな見解であるといえるだろう。しかしながら同時に、このシュミットの立論には大きな矛盾が潜んでいるとも思われる。なんとなれば、シュミットの独裁概念は不連続的に「国家・運動・国民」という三重構造を持つ新国家の中に吸収され恒久化されてしまう構図になっており、そうすると、「委任独裁」のメルクマールとして挙げられた「手段性」・「過渡性」・「例外性」の定義と齟齬をきたすことになるからである。事実上恒久化されてしまうからというのではなく、その法理論からして恒久化されてしまう構図になっている。そのことがシュミットの「委任独裁」を内破してしまいかねない矛盾を見出すことができるように思われる。この「委任独裁」を内破しかねない矛盾によって「主権独裁」へと転化されてしまう危険性を考えておかねば、単純に国家緊急権の必要性だけを強調する主張に賛同するのは危なっかしいと言わねばならない。

 

 シュミットの主権論の持つ哲学的含意を真剣に検討しているのは、今では憲法学ではなくて「フランス現代思想」系の思想家の方であるといえるかもしれない。デリダの『友愛のポリティクス』(みすず書房)や『法の力』(法政大学出版局)そしてイタリアの哲学者・美学者ジョルジョ・アガンベンの『例外状態』にみられる思考がその極北である(この点、デリダアガンベンの「例外状態」論について分析しているのは、佐藤嘉幸『新自由主義と権力-フーコーから現在性の哲学へ』(人文書院)である)。確かに、デリダを含めた「フランス現代思想」がアラン・ソーカルらによって批判を受け(少なくとも『「知」の欺瞞-ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店)では、デリダについて触れられているものの直接の批判対象にはなっていない。デリダがこの騒動に関して批判を受けたのは、ソーカルらの批判に対するデリダポストモダン側に立った弁明の言い分が、フランスの科学哲学者ジャック・ブーブレスの『アナロジーの罠-フランス現代思想批判』(新書館)によって批判されたということなのである。

 

 もちろん、ブーブレスの批判は的を射た適切なデリダ批判であることは肯定するが、デリダの思想の核心部分については主題ではなかった)、ファイヤアーベントの方法論的なアーナーキズムや科学相対主義やハンソンによる観察の理論負荷性などに対する批判になお慎重な議論を要するがゆえに条件付き留保がともなうの一方、ことポストモダンの思想家たちが無意味に科学用語や数学用語を濫用して人をたぶらかすかのような文章をものしていたことに対するまっとうな批判に関しては当然に首肯すべきものと思われるものの、シュミットの主権論に対する哲学的考察としてはデリダアガンベンの思考には否定しがたい輝きがあることも同時に強調されるべきであろう。