shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

The Bloomsbury Companion to Ethics

 日本から街の小さな「本屋さん」が消えていく趨勢が収まる気配はなく、むしろその勢いは加速しているように見える。そして「選択と集中」の結果として、都市部は特に大型書店だけが繁盛する傾向が著しい。そうした時代中でも、京都の一条寺に店を構える恵文社が特色ある「本屋さん」として僕のお気に入りの一つである。だが悲しいかな、京都在住者ではないので頻繁に通うわけにはいかない。きっと細々とであれ続いているものと願っているが、この「本屋さん」は、外観上とても書店には見えないところからして既に個性を発揮している。一乗寺という場所は、大学が狭い街に密集している場所柄のせいか大学生・大学院生の下宿が他の場所に比べて相対的に多いということ以外は繁華街から離れたごく普通の情緒ある住宅街である。強いて言えば、特徴のあるラーメン屋が密集していることで有名ゆえ僕のような他都道府県からの訪問客もそこそこいるといった程度である。交通にしても、京都市街地より北部の出町柳-鞍馬間または出町柳八瀬比叡山口間を走る叡山電鉄というとても使い勝手がよいとは言えない路面電車の一条寺駅が最寄の静かな佇まいをみせている街だ。だから、よほど京都をくまなく歩いている者でなければフラッと立ち寄ることもないだろう。

 

 恵文社はその一角にある。洒落た喫茶店かアンティークショップなのかなと思える店構え。店内の明かりも白色ではなく、古びた喫茶店のようなやや茶色ががった明かりが灯されていて、店内もほんわかした風情。そうした雰囲気もさることながら何より個性的なのは、小さな書店でありながらも品揃えが豊富に思える点である。おそらく卸問屋の言われるに任せて陳列するのではなく、店主や店員が各分野で面白そうな本を個別に選び出しているのだろう。その代わり、一般書店で積まれているベストセラー本や通俗的なビジネス本や自己啓発本の類は置かれていない。もちろん、一般書店の店頭に山積みされている元放送作家の国辱モノの本の類も置かれていないだろう。受験参考書などもってのほか。そんな無粋な本はこの書店には似つかわしくないとばかりに個別にセレクトされた本の陳列にセンスを感じさせる。絵本の品揃えが目立つが、その絵本も店主が実地に検分してよいと思ったものを選択して店棚に陳列していることがうかがえる。贅沢をいわせてもらえば、まっとうな自然科学や社会科学の本も充実してもらえたらと思う。対して人文系の品揃えはあの規模の書店にしては豊富である。ニューヨークにいる時は、職場に近いバーンズ・アンド・ノーブルという大型書店に立ち寄ることが多いが、日本の大型書店と違って(ジュンク堂丸善は、かなりマシな方だと思うが)レイアウトがよく、何時間も時間をつぶせる。

 

 ところで、日本と米国あるいは英国の出版環境が大きく異なると思えるのは、一般の啓蒙書と専門書との懸け橋になる中間的な書物が充実しているという点である。特に自然科学系の書物にその傾向が強い。日本と違ってポピュラーサイエンスの書物の中でもバカにできない水準の書物は断然充実しているといってよい。日本には少年向けの講談社ブルーバックスのシリーズが科学啓蒙書として歴史を有するが、その中には例えば南部陽一郎クォーク』や竹内外史『集合とは何か』あるいは和田純夫量子力学が語る世界像』などの名著も数冊あるものの、基本的に少年向けの書物が多いので如何せん内容が薄すぎる。概して日本の一般的な啓蒙書の中には誤解を招きかねない危うい書き方をしているものが多いし、しかも内容が希薄なものだから一知半解のまま「ものすごい世界」に突き進んでしまう読者があまた生産されてしまうという悲劇=喜劇が反復されたりもする。例えば科学に関心のある者ならば誰でも手にするだろう相対性理論量子力学に関する一般的な啓蒙書となると、その情報量は驚くほど少ない。そこから更に学びたいと思う者が次に手にするのはいきなり専門書ということになってしまう。

 

 特殊相対性理論に関してはテクニカルな知識は不要で、高校生程度の数学や物理の知識さえあれば容易に読めるだろう。しかし一般相対性理論ともなれば事情が違って、やれテンソル解析は出るわ非線形偏微分方程式は出るわで挫折を余儀なくさせられる人が多いだろうと想像する。もちろん、一般相対論の重力場方程式の意味を理解しよう思うなら、リッチ・テンソルだのエネルギー・モーメンタム・テンソルだのスカラー曲率だの重力ポテンシャルだのといった諸々の概念の意味を理解することは必須で、逆にリーマン幾何学すら理解できないとなれば重力と時空の曲率との関係をなぜ重力場方程式が表現していることになるのかという肝心要のことが理解できなくなる。数式は単なる計算の道具ではない。理論物理学のような抽象的な概念を扱う分野においては特に、数式は概念を表現する言葉そのものだからだ。その数式の意味が理解できていないということは、すなわちその抽象的な概念を理解できていないということである。だから問題は、一般の啓蒙書と専門書を橋渡しする中間的な書物がないということなのである。内井惣七アインシュタインの思考をたどる』(ミネルヴァ書房)は科学哲学を専門とする者による書物で、一般相対性理論が時間や空間の哲学にとって持つ意味を知る上で必要欠くべからざる核心部分に的を絞った解説書である。特殊相対性理論においてローレンツ幾何学で表現されるミンコフスキ空間についての丁寧な解説から始め、一般相対性理論の解説の段ではメトリック=計量の持つ意味に触れた説明を含めて数学的形式の持つ物理学的意味を中心に論じている点において、ともすれば数学的形式のみが前面に出がちな他の解説書とは一味も二味も違った個性を発揮している。更に、物理学者の中にも誤解が見られがちな一般共変性やホール・アーギュメントの問題も取り上げてあおり、おまけに量子重力理論の中で注目を集めている無時間的な物理理論も最後にさらりと紹介している点が心憎い良書である。テクニカルな側面については石井俊全『一般相対性理論を一歩一歩数式で理解する』(ベレ出版)が文字通り一歩一歩基礎的レヴェルから数式を追って一般相対性理論の導出過程から理解させようと試みた優れた道案内の役割を果たしている。こうした例外的な書物もごくわずかながら存在することは確かである。

 

 しかしこの点では、米国は一歩も二歩も進んでいる。例えば相対論に関する中間的な書物としてはジョン・ホイーラーとエドウィン・テイラーが著した『時空の物理学-相対性理論への招待』(現代数学社)という名著がある。それだけでは満足できないというのであれば、ジョン・ホイーラーとチャールズ・マイスナーとキップ・ソーンが書いた電話帳以上に分厚い『重力』(GravitationとしてFreemanから出版されている。邦訳があるのかわからないが、もしされていなければ即刻邦訳されることが望まれる。米国の研究の裾野が広いことを知らされるような書物である)という書物がある。もちろん後者を素人が読みこなそうと思えば大変で、僕も辞書代わりに利用しているにすぎない。それでも『時空の物理学』は古い本ではあるものの、さほどの分量ではなく理解を確認するための演習問題も充実しており、僕のような素人でもついていくことができたくらいなので、この方面に興味関心を持つ僕のような素人の一般読者は、それこそ演習問題を全部とは言わず一部でも解いていこうとする面倒を惜しまないならば、必ずや一定の理解にまで至れるものと思われる。そもそもジョン・ホイーラーといえば宇宙物理学の分野では誰もがその業績を知っている大家中の大家である。弟子も数々のビッグネームが多く、長く合衆国大統領直属の科学顧問を務めていたことでも知られ、マンハッタン計画やその後の水爆開発計画においても貢献した。キップ・ソーンにしても相対論の分野における大家として知られ、その『ブラックホールと時空の歪み-アインシュタインのとんでもない遺産』(白揚社)という一般書は問題の水準を落とすことなく、しかも一般の読者の興味を満足させるような本である。その道の大家が相当な労力を割いてこのような中間的な書物を著すということが如何にその上を目指そうとする次世代の層を厚くするのに資するかということを考えると、なるほど英語圏の研究のレヴェルの高さも納得できるというもの。残念ながら、日本にはそうした「啓蒙の志」が欠けている。

 

 このことは哲学・思想系についてもいえる。もちろん自然科学のように素人と玄人との圧倒的な断絶がはっきりしている分野ではないが、それでもこの細分化・専門化が進行した時代において、素人と玄人との境界はおぼろげながら存在する。数理論理学や物理学などの知識を要する専門性の強い一部の哲学領域ともなると尚更である。そうすると、一般的な啓蒙書と専門書との間の中間的な書物があってもおかしくないはずである。現に米国では、先述の自然科学系と同様に、より専門的な興味関心を満足させるための哲学・思想系の中間的な書物が充実している。専門家の中で今何が中心的に論じられているのか、特にどの論文が注目されているのかといったことについて、テーマごとに紹介している書物が多くある。例えばOxford HandbookのシリーズやCambridge Companionのシリーズなどがそうである。一般的な啓蒙書をきっかけとして哲学や倫理学などの思想系に関心を持った者、特にそれを専門としないまでも興味関心を持ち続けている者に対して、専門研究の中心課題として何がどのように論じられているのかについての情報を供してくれるこれら書物は貴重である。日本の哲学業界でも「岩波講座」や「現代思想冒険者」シリーズなど全くないわけではないが、どうしても物足りなさが残る。新書の類は粗製乱造され、ごく一部の例外はあるものの正直言ってロクなものがない。「~入門」だの「超解読~」だのといったド素人の出来の悪い作文が氾濫しているばかりのお寒い状況。驚くべきことに、哲学者・倫理学者と名乗るのが恥ずかしくないのかと思われるような著者による「入門書」も溢れている。酷いものになると、古代ギリシア・ラテンの教養に欠け、これまで蓄積されてきた膨大な研究成果に一顧だにせず単にプラトンを読んだ後の感想をプラトンの入門書として世に出すような厚顔無恥な者までいるという悲惨な状況である。入門書というのは本来、一応その道で精進してきた研究者もしくはそれに準ずる者としてその業界で認められている者が書くべきという原則があって、そういう「標準」となる定評のある書物がオーソドキシーとして確立しているからこそ、それに反旗を翻す「異端」の側からの読み方が新たに提示されることに意味が認められるようになるわけだが、ハチャメチャな素人の独りよがりの見解を「入門書」として江湖に出すというのはまともなことではない。

 

 そうした者に書かせる編集者も大概だが、そのような通俗書は学問の発展を阻害することにしかならないわけだから、たとえ一定数売れるとの算段がたっても出版人の良心にかけて敢えて出版しないという矜持をもってもらいたいものである。時々、「世紀の大発見!」であるかのように当人や当人の周囲の数人しか支持していない珍説を自信満々に発表する者がいるが、それを「標準」的な学問的知見であると喧伝して出版するようになればおしまいである。もっとも中には、児玉聡『功利と直観-英米倫理思想史入門』(勁草書房)や安藤馨『統治と功利-功利主義リベラリズムの擁護』(勁草書房)といった出来のよい書物は確かにある(後者は入門の域を出てるかもしれないが)。他にも個別には良書と呼べるものがあるに違いない。

 

 しかし、現在の倫理学研究の最前線でどのような議論が展開されているのか、その全体をサーヴェイできるような書物がないのである。最近でこそ徳倫理学の基本論文のアンソロジーが出されるようになったが、まだまだ薄く研究者の責務怠慢の感が無きにしも非ず。功利主義の研究にしても、欧米の研究では経済学との関係を踏まえて論じられることが一般だが、日本のそれは必ずしもそうなっていない。おそらく単にミクロ経済学に不案内の者が多いからだと思われるが、経済学に対する賛否にかかわらずこれを踏まえていないような功利主義の研究など大して実を得られる研究にはならないだろう。「快楽」概念から私的「選好」概念に組み替えられ、この選好集合の無矛盾性とその選好集合からの選択行為をもたらす原理としての合理的選択の原理が議論され、この合理的選択による公共的規範の導出が問題になっている欧米の功利主義の研究動向からみればなおさらそう思われてならない。日本やシナなど東洋の倫理思想の研究にしても、学説史の整理はそこそこ進展してはいるものの、それを基底として倫理学を展開していく者はなかなか現れない。未だ和辻倫理学は乗り越えられていない有様である。とかく我が国の研究者は一過性の流行には敏感に反応する傾向が見られるが、じっくり腰を据えて研究する態度に欠ける者が多く、これでは「正統」に対する「異端」の反逆も勢い腰砕けになってしまうだけに、まっとうな「正統派」の研究者も出てもらわないことには困るというものである。「族」は「お巡り」がいてこそその暴走も盛り上がるわけであって、今はその「お巡り」がグダグダな状態になっているのだ。

 

 この点で、ロンドンのウォーターストーンで購入したThe Bloomsbury Companion to Ethics,Bloomsburyは、僕のような倫理学の素人にとって全体を鳥瞰する上で役に立つ書物だった。全体で約500頁の小さなフォントでびっちり文字が詰まった書物で、冒頭にこの書の利用方法から対象としている読者層は誰かを述べ、今日のメタ倫理学や規範倫理学の展望と、そこに至るまでの倫理学史の概観、重要な倫理学上の方法論的問題や専門用語の紹介を一通り触れた後に、道徳実在論や表出主義や道徳と実践理性との関係や心理学との関係、帰結主義、義務論、徳倫理、フェミニスト倫理などのトピックを詳細に論じ、さらには今後の研究動向として実験倫理学や生物学なかでも進化論と倫理との境界にある道徳起源論の問題にまで触れている。

 

加えて、読むべき著作や論文のデータベースも紹介して、ここから更なる勉強を積み増しして行こうと志す者への便宜も図っている。おそらく倫理学をこれから研究していこうという卵にとって、自らの方向性を定める手がかりとなることだろう。もちろん、すべてを組み尽くせているわけではない。確かに英米系のテクストに偏っていて東洋の倫理思想はほとんど触れられいないし、フランス現代思想における倫理学的側面に関してもフーコー以外は無視されている点は否めないが、今日、倫理学の世界的な主流は哲学と同様に英語圏のそれであるのだから、この傾向に批判的な者からしても叩き台としてこれを役立てることができるだろう。