shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

Quantum Mind and Social Science

 廣松渉の主著は、三巻で以って完結することが予告されていたものの結局は未完に終わった『存在と意味-事的世界観の定礎』(岩波書店)と言われているが、哲学者廣松渉として世に知られるきっかけともなった「第二の主著」というべき書は『世界の共同主観的存在構造』(岩波文庫)である。この書の主旨は、資本主義を基底とする近代ブルジョア社会に照応するイデオロギーである近代的認識を典型とする「近代知」ないしは「近代的世界観」の超克を目指す思考を提起することであった。その主たる内容は、認識論における「主観-客観」図式の解体とその乗り越え、実体主義的な世界像である物的世界像から関係主義を基底とした事的世界観への移行にあると乱暴に整理しておこう。『世界の共同主観的存在構造』には次のように言う。

 

「われわれは、今日、過去における古代ギリシャ的世界観の終熄期、中世ヨーロッパ的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面、すなわち、近代的世界観の全面的解体期に逢着している。こう断じても恐らくや大過ないであろう。閉塞情況を打開するためには、・・・”近代的”世界観の根本図式そのものを止揚し、その地平から超脱しなければならない。認識論的な場面に即していえば、近代的「主観-客観」図式そのものの超克が必要となる」。

 

 この近代的認識論において典型となっている「主観-客観」図式は、廣松に言わせると次のような了解事項が含意されているという。①主観は究極的には意識作用として常に各個人の人称的な意識として了解されるという主観の「各私性」、②認識主観に対して直接的に与えられている「意識内容」が客体そのものから区別され、対象認識は「意識作用-意識内容-客体自体」という三項図式で了解されているという認識の「三項性」、③認識主観に直接的に現前する与件は「意識に内在」する知覚心象、観念、表象など「意識内容」に限るとされ客体自体は意識内容を介してたかだか間接的にしか知ることができないものとして了解されるという与件の「内在性」によって特徴づけられているのが「主観-客観」図式である。廣松は、問題論的構制からいって哲学の沈滞とともに諸科学も同様に停迷するといった「諸学の停滞期」として20世紀中葉以降の時代を診断し、かかる停滞期の原因として近代的認識論をはじめとする旧来の発想法がもはや逼塞していることに求める。そこで、この閉塞状態を打破するためにも旧来の発想法を批判・解体し新たな世界観的構えを以って対することの必要を主張したのである。また、『科学の危機と認識論』(紀伊国屋書店)の序文ではこう述べている。

 

「認識論はもとより自然科学の”後追い”を宗とするものではない。しかし、嘗て物理学の専攻を志していた著者が『哲学専攻』へと進路を転じた機縁からいっても、著者の個人的な事情に即するかぎり、現代物理学の当面している認識論的問題状況を慮外に措いては、認識論的構案について語ることができない」。

 

 この書で廣松は、自然科学なかでも物理学に限定して古典物理学相対性理論量子力学素粒子論と順に論じているが、ここで廣松が問題にしている認識論の問題論的構制とは何も物理学に限られた話ではなく、先の『世界の共同主観的存在構造』において近代的な科学一般をも射程に含めたものと思われる。

 

 ところで、アレクサンダー・ヴェントAlexander WendtのQuantum Mind and Social Science:Unifying Physical and Social Ontology,Cambridge University Press.は、古典力学パラダイムを基底として理論構築がなされてきた社会科学の理論の閉塞状態を指摘し、それに代わる新たなパラダイムとして量子力学的認識論・存在論を基底的パラダイムとして再構成すべきことを説く書物となっている。この点で、先の廣松の問題意識の一部を共有するといってよいだろう。

 

 ヴェントといえば国際関係論の研究者として知らない者はいないほどの著名な研究者であり、国際関係論なかでも国際政治学を形成する三つの有力なパラダイムの一つであるコンストラクティビズムを代表する論客として知られる。因みに対する二つのパラダイムとは、ケネス・ウォルツに代表されるネオリアリズムとロバート・コヘインに代表されるネオリベラリズムである。日本ではそうでもないが、米国の国際政治学者の主流は、古典的リアリズムに立つ者をも含めると、やはりリアリストグループではないかと思われる。ケネス・ウォルツをはじめとして、ジョン・ミアシャイマー、スティーブン・ウォルト、ロバート・ギルピンなど錚々たる面子。ところが日本ではジョセフ・ナイJr.やジョン・アイケンベリーのようなリベラリストの方が有名だというのだから、いかに日本の国際政治学が偏っているかが想像される。

 

 なお、世界のGDPの約半分を占めていたかつての米国と比べ相対的に国力が低下しているにもかかわらずその世界覇権にしがみついているのは、日本でのイメージとは逆に、リベラリストのグループであり、ベトナム戦争にしろイラク戦争にしろ彼らは賛成してきたのに対して、両者の戦争に反対してきたのはむしろリアリストのグループだったということを想起するべきであろう。話を戻すと、ヴェントの主著はSocial Theory of International Politicsであり、これは明らかにネオリアリズムのケネス・ウォルツの主著であるTheory of International Politicsを意識した題名である。ヴェントがこの書によってコンストラクティビズムを理論的に基礎づけようと苦心していたかが窺える内容になっている。

 

 これら三つのパラダイムは、国際関係ないしは国際政治を理解・分析する上での基底となるパラダイムであり、このパラダイムに則ってポリシーレヴェルでの議論が積み上げられ行く。したがって、どのパラダイムに則って事象を分析するかによって当然に分析の方向性が違ってくる。もちろんパラダイム間に完全な通約不可能性が見られるというわけでもなく、幾分共通する側面もある。

 

 ここではこの三つのパラダイムのいずれが優れているか、またはその内容の吟味をしようというのではない。問題は、ヴェントが国際関係論だけの狭い枠を超えて社会科学の諸学問の基底となっている前提に古典力学的なモデルに則った世界理解があり、この世界理解の仕方が社会科学の諸学問の閉塞状態を決定づけているのだから新たな理解の枠組みを模索しなければならず、そうした哲学的基礎づけの作業を要する点では共通の課題を抱えていると診断しているということである。つまり新たな社会存在論としての量子論的社会存在論によって理論を組みなおしていく必要がある。それによって、例えばエージェンシー問題や心身問題や意識と社会構造との関係が解明され、社会科学を基礎づける基底となる理論枠組みを再定礎することができるというのである。どこまで正気なのかと疑う向きもあろうが、驚くべきことにヴェントは、量子論をアナロジーやメタファーとして使用するというのではなく、あくまでも量子論的社会存在論として文字通りの客観的記述を考えているようなのである。あの荒唐無稽な大澤真幸『量子の社会哲学-革命は過去が救うと猫が言う』(講談社)でさえ量子論をメタフォリカルに使用していたに過ぎなかったのに、ヴェントはともすれば一撃で学者生命を失うかもしれないような大胆不敵な主張を、それもCambridge University Pressという権威ある学術書出版社から出されている書物において展開しているわけで、トンデモ本であろうとデンパ系の本であろうと平気で出版する日本の商業出版社から出たというのとは訳が違う。

 

「私は本書で、量子論を介して社会科学を再読することによって、(古典物理学の実在像に基づく)これまでの社会科学の基本的前提が誤謬である可能性を探っていく。とりわけ私が主張することは、人間の存在それゆえその社会生活ということになるわけだが、それが量子論的可干渉性を示し実際上我々は波動関数を生きているということなのである。私の意図がどこにあるかというと、この議論は何もアナロジーでもメタファーでもなく、人間の真のあり方がどういうものなのかということについての一つの実在論者としての主張なのである。様々な学者が、人間と量子過程との間の多くのアナロジカルな関係性を指摘してきた。例えば、自由意志と波動関数の崩壊との間の関係や非局所性の持つホーリズムにおける意味などである。これらや他のアナロジー量子論の考え方を社会生活に適用するのに十分な示唆を与えるものである。読者は本書を一つのアナロジーとして読むこともできるが、私自身の信念は人間の存在とは正に量子系であるということなのである」。

 

 ヴェントは、この方向性を偶々シカゴ大学構内の書店で2001年に手にしたイアン・マーシャルIan Marshallとダナ・ゾハーDanah ZoharによるThe Quantum Societyを読んだときに得たと言っている(ヴェントは、この経験を「アハ!体験」と形容している)。ヴェントが言うには、これまでの社会科学は意識や社会生活は究極的には古典物理学的現象に還元しうるものという前提で理解してきたが、意識を理解するにはそれでは不十分である。というのも意識とはマクロレヴェルで現れた量子論的現象である。それゆえ社会科学者は、量子論量子論解釈について戦わされている科学哲学的議論を取り込んで理論の再構築に努めなければならないというのである。

 

 第一部では量子力学の基本理論とその解釈について整理し、第二部では量子論と意識の関係性について論じ、第三部・第四部では人間の量子論的モデルやホーリスティックな人間-社会理解について触れ、第五部ではエージェント問題を量子論的社会存在論から再構成するといった展開である。いくらCambridge University Pressから出されているといっても、一瞥しただけでは「トンデモ本」の類ではないか訝しがる者がいても不思議ではないほどの大胆な構想であるが、少なくとも第二部の途中までは、その個々の事象の解説に関してという限定付きで重大な誤謬は見られない。この方面の物理学者や科学哲学者による有名な論文も十分とまではいかずともある程度サーヴェイできている。

 

 しかし、第二部の途中あたりから徐々に雲行きが怪しくなってくるのである。意識の理解に量子力学の知見を導入するという議論は、もちろんヴェント以前にもみられた。事実、ヴェントはこの点で専ら先行する研究成果に則るだけで彼独自の見解を披露しているわけではない。高名な物理学者であるロジャー・ペンローズによるShadows of the Mindやその影響を受けて量産される量子脳理論の論文からの知見を惜しげもなく全面展開するわけだが、これ自体を直ちに「トンデモ」と断定したいわけではない。だからといって、この方向性がうまくいくには幾重ものハードルを乗り越えなければならないわけで安易に賛同もできない。否むしろ、現段階では眉唾モノとの感が勝ってしまうというのが正直なところである。仮にうまくいくとするなら、量子情報理論がその媒介役を果たすのだろうという漠然とした感想しか抱かないわけだが、いずれにせよこの分野の門外漢である僕としては、ヴェントの主張というよりペンローズらのように意識を量子論から理解するという試みが成功しているか否かを適切に判断する能力に欠けるので即断は慎みたい(あくまで想像するだけだが、アドルフ・グリュンバウムのような科学哲学者ならきっと容赦せずに猛攻撃するのではないだろうか)。

 

 とはいうものの、門外漢なりにどうしても氷解しない問題がある。意識を量子論に関係づけて理解する主張の前提には、概して非局所性と量子的干渉性の問題が脳の広範な領域同士が相互にどう干渉しあっているのかという問題に結びついているとの考えがある。ペンローズのいう波動関数がマクロなオブザーバブルへと客観的収縮する過程を意識に関係づけるわけであるが、この種の議論にはその波動関数の客観的収縮過程についての理論がすっぽり抜け落ちているのに、いきなり意識へと結びつけて論じることができるのだろうか。乗り越えねばならないハードルの数がどれほどにのぼるかを想像しないわけにはいかない。意識の非計算的過程につき証明論の観点からペンローズを批判するヒラリー・パトナムの主張に分があると思うの僕だけだろうか。そもそも、ある精神的状態を脳の特定の様相とみなすことは、あるクラスの脳の状態との同一視であって、このような同一視はクラス分けに明確な特徴づけがなされない段階で物理的概念に還元しているという点で概念的混乱をきたしている。量子論を意識のようなある種の精神的状態に適用しようとするならば、状態空間の数学的構造なりオブザーバブルの集合を考えなければならないはずで、果たして精神状態の空間というものが観念できると仮定しても、それが射影ヒルベルト空間の構造を有すると解すべき根拠はない。ある状態から別の状態への遷移確率を決定する内積を、ある精神状態と別の精神状態の間の関係から定義する方法すらない。その他いくつもの疑問が次々と思い浮かぶわけだが、今のところ説得力ある理論にはお目にかかったことはない。それほどまでにギャップがある議論なのである。それゆえ、自ずとヴェントの議論について行けなくなってしまうわけである。

 

 量子論が自然哲学上の存在論と密接に関係していることだけは確かだろうし、むしろ現代の存在論量子論のもたらした諸成果を一顧だにしないわけにはいかない。しかし人間や社会的行為の理解に関して、量子論を外挿して組み替えた社会存在論は俄かには受け入れがたい。マクロな社会的現象のレヴェルで解明されていない問題がただでさえ山積しているのである。廣松はヴェントと同様、社会科学が今日において閉塞状態に陥りその逼塞がパラダイムレヴェルでの視座転換を要請しているとの問題意識を共有しつつも、しかし安易に量子論的社会存在論などに飛びつくようなことはしなかった。蓋し賢明な判断といわねばならない。