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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

三島由紀夫と北一輝

 昭和45年11月25日、東京市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部の二階にある総監室にて、三島由紀夫が「楯の会」学生長であった森田必勝とともに自決した。11月25日の四十九日後の1月14日は三島由紀夫の誕生日である。高度経済成長を謳歌する「昭和元禄」の世に突如として起った理解に苦しむエキセントリックな行動として受け止められることの多いこの事件について、当時の内閣総理大臣であった佐藤栄作は「気が狂ったとしか思えない」と言い、防衛庁長官であった中曽根康弘は「一人の者の思想や常軌を逸した行動で、せっかく戦後日本の国民が築いてきた民主的秩序を破壊するような事態に対しては、徹底的に糾弾しないといけない」と、三島らの行動への無理解を表明していた。

 

 吐き気がするほどの醜い国家の有様が、戦後の時空間に現出したのである。昭和45年7月7日付「サンケイ新聞」夕刊に掲載された「果たし得ていない約束、恐るべき戦後民主主義-私の中の二十五年」と題する文章で、三島由紀夫は次のように述べている。

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。・・・個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの『近代』という意味は、古代についても妥当するのであり、万葉集でいえば大伴家持ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。・・・私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

 

 万能とされた「文」が「武」を容易に封じ込め、理性が肉体から湧き出てくる情念を統御できると思い上がった「近代」に、三島は否を突き付ける。普遍の名を借りた単なる一般性を振りかざし、これまで積み重ねられ時熟しながら積み上げられてきた他ならぬこの「日本」をかなぐり捨てて「ユニヴァーサルなもの」へと帰順していく人々の醜悪ぶりに対する憤りを通り越した諦念の中にあるのは、かつて本居宣長が「漢意」として指弾したあの不気味でおぞましいものの正体をつかんでしまったことと共通しているように思われる。

 

 三島由紀夫は、眼下の自衛隊員たちが自らの呼びかけに応じて蹶起することなどおそらくつゆほども信じていなかっただろう。それほどまでに三島の絶望は深かった。だが三島は、そうとわかってもなお檄文を残し、蹶起することのない自衛隊員に向けて蹶起を促す言葉を発した。その本来の相手は誰だったのだろうか。どこの誰かも想像つかない者へ言霊が浮遊していくことを願ったのだろうか。それとも別の意図があったのだろうか。檄文の中の有名な一節である。 

われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。・・・共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

 

 三島由紀夫の言う「生命尊重以上の価値の所在」とは、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」であるという。ここでいう「日本」とは、個々の日本人に否が応でも刻印され、またその歴史を生きているところの存在の基底としてある日本である。三島は、個々の生命の尊重以上に個々の存在の基底となっている言わば可能性の条件としての「日本」という超越論化された意味をあてがわれた価値を至上とする。三島由紀夫は「七生報國」と書いた鉢巻を頭に巻いて、宮城へ遥拝しつつ聖寿万歳を叫んで自決した。生まれ変わって再び皇国に報いんと欲したのだろうか。

 

 この11月25日という日は、ちょうど大蔵省を退官して職業作家として生きていく覚悟を決めた三島の実質的な文壇デビュー作というべき『仮面の告白』が起筆された日であり、最後の小説『豊饒の海-四部作』の最後にあたる『天人五衰』最終回原稿を書き上げた日でもあった。計算高い三島のことゆえ、当然にこうなることを知って行動したのだろう。『豊饒の海-四部作』は、わが国古典の『浜松中納言物語』に典拠した「夢と転生の物語」としてある。その第三巻の『暁の寺』は頗る難解との悪評高い小説として知られ、今まで批評でまともに取り扱われた例は極めて少ない。しかしこの作品は、三島自決の鍵を握る謎を解明する上で必要欠くべからざる作品である。

 

 上の檄文に見られるように、三島はここで盛んに「魂」なる語を頻繁に使用している。しかし三島は、おそらく「魂」なるものの実在を否定していた。三島が『暁の寺』で論じているように、仏教を他の宗教と分ける特色の一つに「諸法無我」という概念がある。仏教は生命の中心主体となるアートマンを否定し「無我」説を称える。よって、アートマンといった「来世」へ存続する実体として考えられている「霊魂」なるものも当然否定される。三島は正しくも、『ミリンダ王の問い-インドとギリシアの対決-』を引用し、仏教における「無我」説の論証を説明している。この「無我」説と「輪廻転生」の概念をどう整合させるのか。

 

 この理解のために持ち出されるのが、大乗仏教中観派と並んでその教説が難解なことで知られる唯識派の教説を利用する。『豊饒の海』第一部にあたる『春の雪』に登場する綾倉聡子が出家した月修寺は法相宗の寺院であり、この法相宗とは唯識派仏教を研究する場でもある。仏教哲学としての唯識論は、インドのアサンガやヴァスバンドゥによって大成され、三蔵法師によってインドからシナへと伝わり法相宗が創立された。日本には7世紀中頃に伝えられたとされている。元々アサンガやヴァスバンドゥ大乗仏教の論敵であった上座部説一切有部の論客であったが、後に大乗に転向して唯識論の大家となる。

 

 ヴァスバンドゥの主著『唯識三十頌』によると、「縁起」に関しては頼耶(ラヤ)縁起説を基礎としてその中核をなすものが「阿頼耶(アーラヤ)識」であって、この阿頼耶(アーラヤ)の原義は、一切の活動の結果である種子を蔵めることであるという。我々は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に第七識としての末那識という自我の意識を持っているが、さらにその奥に阿頼耶識があって、これは「恒に転ずること暴流のごとし」と言うように相続転起して絶えることのない「有情」の総報の果体である。

 

 アサンガの『摂大乗論』は、時間に関する縁起説を展開し阿頼耶識と染汚法の「同時更互因果」を説明する。つまり唯識論は、ある刹那だけ諸法が存在し刹那を過ぎれば滅して無くなると考え、因果同時とは阿頼耶識と染汚法が現在の刹那に同時存在していて、それが互いに因となり果となる関係をいい、この刹那を過ぎれば双方共に無に帰するが、次の刹那には再び阿頼耶識と染汚とが新たに生じ、それが更互に因となり果となって存在者が刹那毎に滅することによって時間が成立していると説く。

 

 仏教は自己なる実体を認めない。それゆえ、仏教哲学の帰結として「自我」ないしは「自己」など存在しないことが導かれる。ところが、阿頼耶識と末那識との間の相互作用によって末那識は存在しないものを錯覚を起こして存在するものだと思量してしまう。そこから自我執着心=我執が発生するものと考える。阿頼耶識から一切は生成され、またこれによって一切のものが認識される。存在するのは識だけであるという究極の観念論が帰結するかに見える。

 

 但し仏教哲学にあって、「観念論」であるのか「実在論」であるのか「唯物論」であるのかということは、実はほとんど無意味と化す。というのも、「存在するのは知覚することである」という主観的観念論者として理解されてい英国のバークリーの表現に似た「存在するのは識だけである」というこの表現は文字通り受け取ることはできないというのが、仏教哲学の複雑なところなのである。要するに「存在する」という表現は説明のための「方便」に過ぎず、より厳密には「存在するものでもあり、かつ、存在しないものでもある」というべきである。親鸞の『正信偈』の一節にもある「有無の邪見」に陥ってはならないというわけである。したがって、阿頼耶識といっても実体として存在しているわけではない。『天人五衰』の一節には次のような表現がある。

海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服さない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義アナーキー)。・・・刹那刹那、そこで起こっていることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎている。世界が存在しているなどということは、まじめにとるにも及ばぬことだ。生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。船があらわれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいている。一つの存在。

 

また『暁の寺』には、こうある。

世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ。それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、という問いに対する、阿頼耶識の側からの最終の答である。もし迷界としての世界の実有が、究極の道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる阿頼耶識こそ、その道徳的要請の源なのであるが、そのとき、阿頼耶識と世界は、すなわち、阿頼耶識と染汚法の形づくる迷界は、相互に依拠していると云わねばならない。なぜなら、阿頼耶識がなければ世界は存在しないが、世界が存在しなければ阿頼耶識は自ら主体となって輪廻転生をするべき場を持たず、したがって悟達への道は永久に閉ざされることになるからである。しかも、現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである」。

 

 では結局、輪廻転生の業の本体は何か、今のところ、この世とあの世を一つながりにする「終夜を燈す明かりの火」としか言い様がない。とはいえ、早急に結論を出す前に、このような実在や時間の概念が果たして歴史の概念と両立するのかと問うてみることで間接的な接近方法を企ててみたい。

 

 『意志と表象としての世界』(中央公論新社)のショーペンハウアーにとって、「実体」とは「意志」そのものであり、「意志」は非時間的なものであるからこそ「歴史」概念は不可能になる。すなわちショーペンハウアーに言わせれば、実在の唯一の形は現在であり、実在的なものに直接に遭遇するのは現在のみであって、また実在が全体として含まれているのは現在である。そして真に実在的なものは時間に無関係であり、ありとあらゆる時点において唯一であり同一である。

 

 加えて、時間は我々の知性の直観形式であるから物自体(Ding an sich)とは異質である。回帰的時間概念は宇宙の始まりも終わりもなく、当然に終末論も入る余地はない。創造者もなければ「最後の審判」を下す神も存在しない。先述した『ミリンダ王の問い』において、ナーガセーナは時間の回帰的な性質を説明し、種子と植物の循環や鶏と卵の循環を例に挙げている。輪廻転生とは、この回帰的なイメージで語られる時間概念と相関する。涅槃はこの円環からの離脱である。ニーチェ永劫回帰の概念は、彼の「瞬間」の概念と密接に結びついている。

 

 『ツアラトストラかく語りき』(岩波文庫)において、ニーチェは「瞬間」を以下のように捉えている。一つは第一部「贈り与える徳」の章に、二つは第三部「幻影と謎」の章に、三つは「正午」の章に、各々微妙に意味を変えながら登場する。細かな解釈論は無視するとして、いずれにせよこの「瞬間」には時間が停止する瞬間と自己を反復することを欲する瞬間が存在している。そこから一気に飛躍して「時間のない瞬間」の観念を得たというのである。

 

 仏教哲学によれば、世界霊魂もなければ世界の唯一の実体も存在しない。各個人は他のすべての諸個人を反映し、各瞬間は同時に永遠であるという、いわば世界のモナド論的把握が特徴として挙げられる(もっとも、ライプニッツモナドジーとは異なる。ライプニッツにとってモナドとは実体に他ならないからである)。大乗経典の中の『法華経』には「一念三千」の概念が登場し、これは小宇宙と大宇宙とが同一の統一的原理に支配されており、単一で無二の存在を形作ることが意味されている。また同じく大乗経典たる『華厳経』には、「一即一切」・「一切即一」という言葉があって、これは単に空間的にのみではなく時間的にも適用され、ここでいう「一」とは瞬間の云いである。道元による『正法眼蔵』(講談社学術文庫)には、「有時」という章があって、ここには「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」とある。 

時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。

 

 存在=時間の今は瞬間であって、道元はここで二つの瞬間の様相を提示しているのである。一つは時の流れにおける「動く点」としてであり、もう一つは常に現前し動くことのない「永遠の今」としてである。この道元のテーゼすなわち存在=時間の概念は、ニーチェの無時間的瞬間の概念にそう遠い距離にはないように思われる。

 

 昭和11年2月26日未明、雪の舞う帝都において、近衛歩兵第3連隊などに所属する帝国陸軍皇道派青年将校1483名が「昭和維新断行」・「尊皇討奸」を掲げて蹶起した。このいわばクーデタ未遂事件は、その後の日本の進路を大きく左右することになったわけだが、その真相が解明されたとは言い難い謎に満ちた事件でもある。陸軍を二分した統制派と皇道派の派閥に争いに端を発し、東北の農村の窮状など社会経済状況が背景となってあのような大事件に至ったのだが、「国家革新」を訴える青年将校の純粋な思いたるや切なるものがあった。

 

 だが、青年将校たちの思想的・精神的支柱となった北一輝も指摘していたように、これほど大規模な部隊を率いていた割にはクーデタ計画としてはまだ稚拙なレベルを脱しえていないほど準備不足・時期尚早の感は否めなかった。昭和天皇の側近を暗殺しておいて、その願いが聖上の御耳に届くだろうとの過剰な楽観はもろくも崩れ去り、むしろその後の陸軍内部における皇道派の一掃及びそれにともなう統制派支配の貫徹を加速させ、結果的にあの大東亜戦争の泥沼に嵌まる先鞭をつけてしまったことは、まさに歴史の皮肉と言うべきである。昭和天皇は「朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮圧にかからん」と仰せになった由。昭和天皇が直接政治に関われたのは、この事件と終戦の御聖断を下された二つである。ともに内閣がその輔弼機能を喪失した時に限定される。仮に統制派のような積極的な大陸政策を採らず、先ずは窮乏する国内の状況を政治経済体制の根底からの革新により打破することを第一義とした皇道派の主張が通っていたならば、その後の歴史はおそらく変わっていたに違いない。

 

 この大事件を起こした皇道派青年将校らの「思想的・精神的導師」ともいうべき北一輝の関与の度合いが今も謎のままである。もちろん裁判記録は残っている。しかし、そこには北一輝が直接的には関与した形跡は見られない。蹶起を時期尚早とし、実際に事に至った段階においても無暗な殺生は慎むようにとの助言をしたに過ぎない北一輝の関与は、直接的な関与に限定すれば、「ない」との結論に至りつく。「魔王」との異名を持った北一輝は、日本思想史上でも指折りの第一級の思想家であった。北一輝がつかみどころのない思想家であるのは、『国家改造法案大綱』よりも『国体論及び純正社会主義』を読むことでわかるだろう。我が伝統的な国体も、元はといえば「東洋の土人部落の習俗」でしかないと表現していることにも端的に現れているように、彼が伝統的な復古主義者ではなく、所によっては吉野作造民本主義とも接触する思考をするといった広範な射程を持つ思想家だからである。(「天皇機関説」を理解していたのは、昭和天皇北一輝だった)。

 

 吉田喜重の映画『戒厳令』が、モノクロームの画面と一柳慧の音楽がもたらす効果と合わさって、この「つかみどころの無さ」を上手く表現するのに成功している。北一輝が事件の黒幕として銃殺される際、死刑執行人から「あなたも天皇陛下万歳と唱えて死にますか」と問われるも、「万歳」を叫んで処刑された他の青年将校とは異なり、「私は、死ぬ前に冗談は言わないことにしている」と返答するラストシーンである。この北一輝の思想家としての一流を認めたのは、皮肉なことに真逆の左翼的立場にある久野収「日本の超国家主義昭和維新の思想」(『現代日本の思想』(岩波新書)に所収)である。なおこの論文は、昭和維新運動の契機となった事件を大正時代末期に起きた朝日平吾による安田財閥当主安田善次郎暗殺事件と見て、朝日平吾の遺書の分析から始めている優れた論考である。

 

 北が23歳で著した1000頁にものぼる大著『国体論及び純正社会主義』は、伊藤博文が確立した明治憲法体制の支配層にとって危険極まるテクストだった。久野収が言うように、明治憲法体制は「顕教」と「密教」の二重構造で以って統治してきた体制である。そうすると、北は支配層の本音と建前を使い分けた「支配の二重構造」を破壊しようと試みていたことになる。「顕教」側の装いで実は「顕教」を解体し、「密教」一元化を「顕教」の中心としての天皇を奉ずることによって現前化させるという北一輝の狙いを敏感に察知した支配層は、北一輝その人を危険人物として葬り去ることを選択した。北一輝のテクストを読むと、その立場は明らかに天皇機関説の立場にくみするものであって、国体明徴声明の立場とは全く異なる。ともすれば、明治以来の近代国家体制を支える二重構造を解体することを通じて根こそぎにしようという意図さえ読めてしまうこのテクストを伝統的支配層が恐れたのも無理からぬことである。

 

 三島由紀夫は、決して霊魂の輪廻転生を信じてはいなかった。だが同時に「七生報國」の鉢巻をして死に赴いた。これをロマンティッシュイロニーとみるかはともかく、はっきりしていることは、三島由紀夫は別に左翼に立腹して自決したわけではなかったということである。左翼は単に馬鹿なだけで体制を揺動させる力など微塵もないので、放置しておけばよかった。三島の怒りの対象は、安楽椅子に座って畜群化した支配層を代表とする日本の大衆なのであった。