shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

満洲

 昭和6(1931)年9月18日午後10時半頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条溝において、南満洲鉄道の線路が爆破された。関東軍は、これを張学良軍閥の仕業と断定して直ちにその本拠である北大営を攻撃し、翌日19日午前6時頃までに張学良軍を敗走させ占拠することに成功した。軍事的には見事な電撃作戦で、満洲事変の火蓋が切ってとられた。

 

 この作戦の成功は、関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐の周到な計画と、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐の決断力による。当時、奉天に駐屯していた部隊は、独立守備歩兵第二大隊と駐箚第二師団歩兵二十九連隊であり、前者については、第一中隊と第四中隊を奉天に、第二中隊を撫順に、第三中隊を虎石台に配置されていた。

 

 第三中隊は、9月18日午後7時から奉天北方約11kmの文官屯南側で夜間演習を実施。川島正第三中隊長は河本末守中尉に北大営西方の鉄道路線巡察を命じ、河本中尉は部下数名を連れて柳条溝に向かい、騎兵用小型爆薬を装置して線路を爆破した。午後10時半頃だった。もっとも、満鉄の通過車両に影響がでぬように爆薬の量を抑えたために、爆破の規模といえば、枕木の破損が二本で、レールの破損個所も1mにも満たなかったらしい。実際、線路が爆破されても奉天行の列車が悠々と通過できたほどの規模だったのである。

 

 爆破の報告が大隊本部と特務機関になされ、川島正率いる第三中隊が北大営を急襲した。関東軍側の兵力は105名に対して、北大営を拠点にしていたシナ軍の兵力は約6800名だったが、関東軍の死者は2名にとどまった。第二十九連隊も奉天城内のシナ軍を早朝までに駆逐することに成功し、作戦開始から約8時間ほどで奉天全域を制圧することができた。

 

 この柳条溝事件を契機として一気に関東軍満洲全土を制圧し、昭和7(1932)年(満洲元号では大同元年)に「満洲国」が建国され、蒋介石率いる国民党軍による北伐を機に紫禁城を追われて天津の外国人租界にあった日本領事館に匿われていた清朝最後の皇帝であり、辛亥革命後退位させられた宣統帝愛新覚羅溥儀を、土肥原賢二甘粕正彦の工作によって執政として招き入れることに成功する。二年後の昭和9(1934)年(満洲帝国元号では康徳元年)、愛新覚羅溥儀は皇帝位に就き、「満洲国」は「満洲帝国」と呼ばれるようになった。

 

 ちなみに中華人民共和国政府は、あくまでこの満洲国をシナ東北部を侵略した大日本帝国によってつくられた傀儡国家であるとして「偽満」と呼称し続けている。しかし、それは後に触れるように、実態に反する。実質的に傀儡に見えようと、列記とした独立国家であった。清朝が崩壊して再び解体された蒙古は満洲国建国を歓迎していたし、当時のシナの社会が総じて満洲国を認めなかったわけではなく、むしろ満洲国への流入者が後を絶たなかったほどだし、何より、当の満州族が独立を念願していたのである。

 

 「柳条湖事件」に関しては諸説あるとはいえ、上記通説によるならば、関東軍板垣征四郎と「日本陸軍創設以来の天才」との誉れ高い石原莞爾による発案で(ちなみに「日本海軍第一の大秀才」とうたわれたのは、岸信介の実の兄である佐藤市郎中将である。岸信介の回想録によると、頭の出来は佐藤市郎、岸信介佐藤栄作の順で、度胸の順だとその逆だったとのこと)、本庄繁関東軍司令官の了承の元になされた謀略事件であった。

 

 当初の日本国政府の方針とは明らかに外れた関東軍による暴走ともとれる不測の事件ではあったとはいえ(日本国内の世論は、「満洲問題は武力解決の他なし」との意見が多数を占めていた)、その後の日本政府の追認と介入とりわけ日満議定書付属文書の内容からすると、「傀儡」と言われても致し方ない側面も確かにある。但し、完全な「傀儡政権」として片づけてよいかと言われれば必ずしもそうでもない。確かに、この事件は国際的に非難されたが、日本による一方的な侵略行為とまでは言えるかどうかは、なお慎重を要する。

 

 左翼の側からのいわゆる「十五年戦争」史観は、満洲事変以後一貫して日本政府がシナ大陸侵略を企ててきたと解している点において明らかに無理がある。国際連盟からの批判の元にあった「リットン報告書」ですら、日本が中華民国の主権を侵害したとする記載はしていない。なぜなら、後に触れるように、満洲の地が中華民国の領土であったと決めつける共通した認識がなかったからである。歴史的にも一貫してシナの版図と言える事情は存在しない。批判の対象は、日本が締結していた「九ヶ国条約」違反に該当するという点であって、この点に関しては、明らかに日本側に非があったことは認めねばならないだろう。せっかくの幣原喜重郎外務大臣の折衷案も御破算にされ、結果として日本政府が関東軍の行動を事後追認するような格好で国際連盟からの脱退を決断したのは、外交上の愚策であったと思われる(ちなみに幣原の認識は、満洲はロシア領であるというものだった)。

 

 しかし同時に、その後の満洲帝国の発展ぶりから、バチカンをはじめとしてドイツ、イタリア、スペイン、エルサルバドルコスタリカなどの国々が満洲帝国を承認し国交を樹立しているし、国交樹立とまでは至らずとも、ソ連のように連絡事務所を設置して事実上の国交を結んだ国々まで含めると、50もの国々が満洲帝国と関係を結んでいたことも指摘しておかねばらない。つまり、当時においてはかなりの数の国々が、その成立過程において瑕疵があったことを指摘しつつも、満洲国の発展ぶりを目にして次々に承認していったという事実も見ておかねばならない。

 

 ともかく、国務院総務庁を中心として、ソ連の五か年計画に範をとった工業化が推進され、「王道楽土」・「五族協和」を理念とした多民族が集う「人工国家」が満洲の地に作られた(ちなみに「王道楽土」という造語は、小澤開作によるものであるという。なお、小澤開作の息子が、指揮者の小澤征爾である。この「征爾」という名は、板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」からそれぞれ採ってつけられたものらしい)。そこにはナチの迫害から逃げてきたユダヤ人も移り住んできたことも知られているし、共産主義者による迫害から逃れてきた白系ロシア人もいた。

 

 南満州鉄道株式会社の誇る技術はつとに知られ、満鉄調査部は最高のシンクタンクとして、多くの日本の優秀なスタッフが集まった。中には、日本国内で弾圧されたマルクス主義者も多くいた。いわゆる昭和17(1942)年の「満鉄調査部事件」によって弾圧されるまで、このシンクタンクは最高の情報調査能力を誇った。大杉栄伊藤野枝を殺害したとされる(事実は違うと思われるが)甘粕正彦が、満洲の運営方針をめぐる対立から石原莞爾を追放する形で満洲帝国での実権を握り、満洲映画協会満映)理事長に就任して、一方の表舞台では映画を使った大衆プロパガンダを展開し、他方の裏側では諜報活動に従事したと言われる。

 

 先述の通り、奉天特務機関長であった土肥原賢二の指揮の下、天津租界の日本領事館に匿われていた愛新覚羅溥儀を密かに満洲に脱出させる工作に携わったのも、甘粕正彦である。甘粕は、岸信介らとともに阿片密売による工作資金調達にも携わるなど、満洲帝国を発展させていくために様々な謀略活動に従事し、挙句は「夜の満洲は、甘粕が支配する」と言われたほどにまでの実力者になっていった。甘粕正彦は、その諜報や謀略の側面ばかりが注目されダークなイメージがつけられているが、満映スタッフによれば、甘粕は日本人と日本人以外の民族との待遇の差別を許さず等しく遇した理事長として慕われる存在だったという(五族協和の理念がありながらも、恥ずべきことに、日本人とその他の民族とでは賃金に格差があり、また食事にも差がつけらるのが実態であった。この辺の事情は、山室信一『キメラ-満洲国の肖像』(中公新書)が詳しい。甘粕は、このような差別的待遇を断固廃したのである)。自決の前でも、甘粕理事長が自決するのでないかと心配したスタッフたちが理事長を死なせてはならないと見守るほどであった。葬儀に参列した人々の数は物凄い数であったらしい。当初は大日本帝国のためと思って満洲国に赴任した甘粕であったが、最後は心底満洲国に尽くし満洲国に殉じる気持ちだったのだろうと推察される。私利私欲を捨ててストイックなまでに国家に殉じた甘粕正彦は、満洲帝国崩壊とともに「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」との辞世の句を遺して自らの命を処した。

 

 日本からの投資もあって、岸信介、古海忠之、星野直樹革新官僚満洲総務庁を中心に、日本国内では行い難かった大胆な統制計画経済政策を断行して、満洲国の経済力を飛躍的に高めた。この時の経験が、戦後日本の高度経済成長に生かされることになったのである。奉天や新京(現在の長春)あるいは旅順(現在の大連の一部)などは近代都市として整備され、その成功ぶりは、岸信介をして「満洲は私の作品」と言わしめたほどである。哈爾濱のキタイスカヤ通りは上海のバンド地区や天津のヴィクトリア・ロード以上の華やかな多国籍な文化が漂う目抜き通りとなり、東京の銀座や大阪の御堂筋など比べ物にならないほどの賑わいを見せていた、と満洲時代を懐かしむ往時の日本人も多くいる。

 

 何をしているかわからない大陸浪人や内地で弾圧を受けた左翼から、果ては日本最高のエリートであった革新官僚が、目的達成のための方法に関しては非常にリアリスティックな視点を持ちながらも、その目的において、ともすれば「誇大妄想」ともとれる理想主義に突き動かされて走った巨大機関車の如き国。恰も、遥かな地平線に夕陽が沈み行く大陸の大地を満鉄特急「亜細亜」号が疾走する情景が象徴するように、多分に日本人のロマンティシズムを喚起させもする存在。安倍公房の小説には、そんな満洲への郷愁とも言える感情が所々に見え隠れする。新国家建設で躍動する人々の熱気と裏腹に、全てが虚構と虚飾に彩られたかのような束の間の幻影、虚実皮膜のただ中にあった国。満洲に対する日本人の持つ一つのイメージである。

 

 この遺産を中華人民共和国はフルに利用することによって、シナ社会の工業化が可能になった。もし満洲の遺産がなければ、おそらくシナの工業化はさらに遅れていただろうことは、もはや大半の人の常識である。満洲以外に工業化可能な素地は何もなかったからだ。毛沢東は「東北部さえあれば中華人民共和国の工業化は可能である」と言い、中華人民共和国建国時から長い間、同国の工業生産の約9割は満洲国の遺産によってもたらされた。

 

 中国共産党の「正統性」に抵触せぬように遠慮がちに行われてきた感のあるこれまでの左翼的な歴史研究の動向にも疑問符がつけられはじめたおかげで、歴史研究は正常化されてきつつある。それでも十分とは言えない。満洲研究におけるネックは、そもそも満洲という土地は歴史的に見て必ずしもシナ人の領土であったとは言えないという視点が抜けているということである。何もシナの固有の領土であることを否定するからといって、日本の満洲占領を正当化して構わないと言っているわけではない。少なくとも当時の状況からして、国家三要素説に基づく現在の領域国民国家の領土概念をこの地に当て嵌めて見ることはできないと言っているのである。

 

 辛うじて清朝の版図にはなっていたとは言えるが、清朝はもちろん満州族の王朝であり、辛亥革命以後、清朝は各民族ごとにバラバラに解体され、少なくともシナ大陸の南方しか勢力範囲にしていなかった中華民国の版図ではなかった。満州族蒙古族朝鮮族やロシア人その他有象無象の馬賊が跳梁跋扈していた土地であって、長い期間にわたってシナの版図とは言えなかった。

 

 柳条湖事件以後の日本の行動を全肯定するつもりはないが、満洲事変に関しては、中華民国の主権を侵害する軍事的侵略行為として全否定することはできない。強いて言えば、満洲満洲族の土地であって漢族の土地ではなかった。そもそも歴代のシナの王朝は一貫して漢族の王朝であったわけでもなかった。ウイグルチベット内蒙古満洲も漢族の勢力下であった時代はなく、漢族が長期間にわたって掌中に収めていた地域は、せいぜい万里の長城までである。軍閥の張学良が、日本が満洲に投資した資産に関して「俺のものだからよこせ」といったぐらいしか根拠がないのである。

 

 もちろん、満洲での「負の歴史」が存在したことも否定できないし、総体として、少なくとも満洲全土の占領という点に関しては、当時の日本の行動は行き過ぎた行為であった。だが同時に、当時の日本の行動を当時の世界情勢下における具体的事情、とりわけ日露戦争後に得た権益や投資した莫大な資本の保護または在留邦人保護を図るために、満洲権益を守ろうとした日本の意図と行動にも一定の合理的な理由があったということも認めるべきだ。

 

 満洲事変も、日に日に拡大していく排日運動から満洲権益や在留邦人をいかに守るかという切実な問題に直面していたことが背景にあった。事態打開の策として日本による満洲領有化か、または親日的な独立国家の設立かの二者択一の選択に迫られていたのである。この満洲権益への強い拘りが、後の対米英開戦の原因となるわけだが、それを考えると、なるほど米国側の最後通牒を受け入れることが難しかったことも理解される。

 

 日米対立が深刻になった契機は満洲事変ではなく、支那事変や日独伊三国同盟仏印進駐である。昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件以後、当初の不拡大方針にもかかわらず拡大してしまった支那事変の本格化によって米国の対日姿勢が硬化し、昭和14(1939)年7月に日米通商航海条約の廃棄通告に至るまでに日米関係は悪化した。

 

 米国は昭和15(1940)年には、日本の北部仏印進駐の動きを牽制するために輸出許可性を規定した国防法を成立させる。一方、松岡洋右外務大臣の対米牽制構想では、日独伊三国同盟を締結するとともに、昭和16(1941)年4月に日ソ中立条約を締結して日独伊ソ4か国による対米包囲網を実現する予定であった。

 

 ところが間抜けなことに、その2か月後にドイツがソ連に対する電撃作戦による開戦を通告、松岡の構想はもろくも崩れ去った。三国同盟とは皮肉なことに互いの足を引っ張り合う同盟だったのである(ドイツからすれば、対米開戦は避けたいところ、日本が真珠湾攻撃をしたものだから、ドイツも米国と戦争状態に巻き込まれる事態に至った)。

 

 独ソ開戦の10か月後に、予想される米国の対日石油輸出決定への恐れから南部仏印進駐を行うことで石油資源の確保に努めつつ、時期を見計らって対ソ戦に踏み切るとの御前会議決定が下される。南部仏印進駐が現実になるや米国は資産凍結命令と対日石油禁輸を発動したわけだが、この時点ではまだ対日強硬論一枚岩ではなかった面も見ないといけない。

 

 海軍作戦部長だったターナーは、対日石油禁輸は日本の蘭印やマレーの進出を招来し、その結果として米国が早い時期に太平洋上の戦争に介入せざるを得ない状況になってしまうとルーズベルト大統領に進言し、ルーズベルトも当初はウェルズ国務副長官に対して石油の全面禁輸を避けるようにとの指示を出していた。事実、輸出管理局も国務・財務・司法省合同外交資金管理委員会に対して日本に45万ガロンのガソリンを含む輸出許可を出していたのである。

 

 ところがこの決定は、アチソン国務次官補の決定によって覆された。ルーズベルトは、8月3日からニューファンドランド沖の船内でおこなれるチャーチルとの秘密会談のためにホワイトハウスを不在にしていたわけだが、そのルーズベルトチャーチルとの秘密会談の場で、対日開戦を決意するとともに、開戦の口実作りのために日本から先に攻撃をするよういかに挑発するか、また日本に勝利した後で日本を永久に武装解除させ米国のアジア拠点として属国にする計画を練り始める。

 

 つまり、真珠湾攻撃の4か月も前にルーズベルトは日本が戦争に踏み切るよう仕向け、勝利後の日本の武装解除を決断していたわけである。対日石油禁輸にあたり近衛文麿内閣は、事態打開のために近衛・ルーズベルト会談を提案し、あくまで外交交渉を優先して対米政策を講じたのだが、東条英機陸軍大臣が拒否して近衛内閣が崩壊してしまう。

 

 この時点では日本としても、少なくとも近衛からすれば、シナからの撤退、南部仏印からの撤退、三国同盟からの離脱ないしは事実上の骨抜きという米国側の要求にも応じる心づもりはあったと見られる。米国の国務省も暫定協議案を日本に提示する予定もあったという。ところが、突如として国務長官ハルが日本が絶対に飲めない満洲権益の放棄という条件を追加した要求すなわち「ハル・ノート」を突き付けるわけだが、これはその内容から事実上の外交交渉打ち切りの宣告を意味した。

 

 内容が日本政府に打電された11月26日、連合艦隊の約50隻の艦艇がハワイ攻撃に向けて択捉島から出港したのであった。

 

 事後的な視点から日本側の行動を全否定し、あたかも中国共産党の正当性の承認に基づく歴史観でなければリヴィジョニストであるかのような見方をする主張は、むしろ歴史を政治イデオロギーとして利用する行為に加担するようなものである。満洲の可能性の肯定的な面も見据えないと公平な歴史の見方とはならない。

 

 井上清『日本の歴史』(岩波新書)などは、マオイズムにかぶれた者によるプロパガンダの一例として後世に残るだろう。井上清尖閣諸島の領有権を急に中華人民共和国が主張するようになるや、わざわざ北京政府の意向に沿うかのように「釣魚島は中華人民共和国の領土である」と主張した人間であるし、プロレタリア文化大革命を支持した人物である。ともかく、満洲が古来シナの領有であり、その領土を日本が一方的に軍事侵略して奪ったという見解は一面的な見方であろう。

 

 同じく、今も激しい独立運動が起こっている内蒙古ウイグルチベットもまたシナの領土とは言えず、中華人民共和国による軍事占領が続いている土地だということである。とりわけウイグルチベットの侵略は、旧日本軍の行為など比較にならないほどの蛮行だろう。これら侵略行為には目をつぶり、あろうことか中華人民共和国少数民族との共生の理想的モデルとして言祝いでいた左翼のプロパガンダも、徐々にその嘘がバレ始めている。

 

 1992年の鄧小平の「南巡講話」から更に加速度を増した改革開放路線が30年目を眼前に控えている今、社会主義市場経済という訳のわからない国是に牽引されてきた中華人民共和国は、もはや日本とは比べ物にならぬほどの階級社会となった。支配層内部では太子党共産主義青年団出身者との間の軋轢がありながらも、両者ともども汚職にまみれ、日本では考えられないほどの不正蓄財によって財を増やした中国共産党幹部の子弟たちは、権力闘争に敗れるか国家崩壊時に備えて二重国籍を持ちながら、国営企業の経営者やヘッジファンドを営む投機マネーの仕掛人でもある現状がある。

 

 元ゴールドマン・サックスのポールソンは、そんな彼らと懇意であって、その蜜月ぶりはヘンリー・キッシンジャーも顔負けするほどである。ゴールドマン・サックスやブラック・ストーンなどの金融資本は、とうの前から日本を見限ってシナを見据えている。毛沢東周恩来から鄧小平を経て現在の指導部まで今も昔もリアリストであり、そのリアリストであることから波長が合うという要素も手伝っている。米国の国務省は本音のところでは、日本よりシナを好む傾向が昔からあったのは、利害得失に敏感なシナの政治家や役人とはリアリストであるがゆえに話が通じやすかった。この点が日本の政治家と違っている。

 

 観念論者は最終的にはリアリストの前に敗北する。大陸の歴史を見れば、生存競争に勝ち抜いてきたリアリストの前に、日本は手に追えないものをうすうす感じていたはずであり。日本の政治家や役人は、昔も今も観念論的に過ぎるのだ。

 

 戦前日本の対シナ政策は、総合的に見るならば誤りだったと言える。だがそれは、左翼が言うような「侵略戦争」というレッテルで片付けられるようなイデオロギーゆえの理由ではない。確かに「侵略」と言われても仕方がない行動があったことも事実である。日本が軍事的威力を背景に対華二十一か条の要求をした頃から、明らかに日本の政策には傲慢な態度が目立ったことも事実だし、大陸での軍事行動の最中で日本軍によって多大な被害を受けた住民が存在することも事実だ。この点に関しては、日本として真摯に歴史に向かわねばならないだろう。

 

 だが、問題はそこだけではなく、明らかに日本の行動にリアリズムが欠けていたこと、それゆえ大陸での行動が常に場当たり的な行動に終始し、あってはならぬ残虐な行動まで許してしまったのである。したがって、少なく見積もっても、盧溝橋事件以後の日本軍の行動は侵略であったと評価されても仕方がない。仮に、東京裁判で持ち出された「共同謀議」なるものが成立していたならば、このような場当たり的な行動よりはもっとマシな行動になっていただろう。逆に言うならば、そのような「共同謀議」などなかったということを推認できる間接的な事実ではないかと思われるほどである。

 

 いずれにせよ、世界史的視点からすれば、大日本帝国の最大の失敗は、シナ大陸の共産化に結果的に手を貸してしまったということである。防共を掲げた戦いが、かえって共産化を招いてしまったということである。