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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

毛沢東のマキャベリズム:遠藤誉『毛沢東-日本軍と共謀した男』(新潮新書)を読む

 毛沢東は、大日本帝国による大陸進出によって追い込まれた自国の窮状を打開せんがために「抗日救国」を掲げて日本軍との戦闘を勇敢に戦い抜き、大日本帝国敗戦後において蒋介石率いる国民党との革命戦争に勝利して中華人民共和国を建国した英雄的革命家であり、建国後は大躍進政策プロレタリア文化大革命といった幾つかの過ちがありつつも総体としては中華人民共和国を世界有数の大国たらしめた偉大な政治指導者である。このような評価が今も尚、中華人民共和国の少なくとも表向きの評価として続いている。しかし実際のところ、かかる毛沢東像は事実に基づかない虚像であり、毛沢東は自己の権力欲を実現するために自国の民を平気で裏切り、あろうことか日本軍と共謀して抗日戦争の足を引っ張ることすらやっていた「中華民族の裏切者」であった実像を歴史資料の詳細な分析の上に描き出したのが、2015年11月に上梓された遠藤誉『毛沢東-日本軍と共謀した男』(新潮新書)である。

 

 毛沢東率いる中国共産党こそが日本軍による侵攻を撃ち破り、蒋介石率いる国民党軍を台湾にまで追い込むことによって革命を成し遂げたという「神話」を国家統治の正統性の源泉にしている中華人民共和国の、正にそのレジティマシーの源泉に対する疑義を呈する点において、本書は中国共産党から見て「危険な書」と映るに違いない。かつて毛沢東の私生活の一面を暴露した著作を書いた著者が謎の不審死を遂げたことがあったが、本書も、中国共産党の統治の正当性に関わる著作だけに、危険を顧みず本書を世に提起した著者の勇気にまず敬意を表したい。

 

 著者は、その学究生活を理論物理学の研究から始めたという。理学博士号取得後、千葉大学筑波大学の教授を歴任する一方で、中国社会科学院客員教授上海交通大学客員教授をも務めた理論物理学者で、現在は筑波大学名誉教授、東京福祉大学国際交流センター長、特任教授におさまっている。著者は旧満洲国新京で生まれ、中国共産党による長春包囲網で数十万人もの餓死者を出した死線から命からがら生き延び、昭和28(1953)年に帰国するまでシナ大陸で育ったという経歴を有している。1980年代からはシナ人留学生受け入れに関わり、シナでの体験記や現代シナ社会論についての著作もある。最近の著書は『「中国製造2025」の衝撃-習近平は今何を考えているのか』(PHP研究所)で、この書では中国共産党が世界覇権を目指して量子暗号技術や宇宙開発技術に傾注する姿が描かれている。最近の米中衝突は単なる貿易摩擦ではなく、次世代の科学技術の基幹を担う分野のスタンダードを米中どちらが担うかという経済的覇権及び軍事的覇権と結びついた国家安全保障全般に関わる覇権争いであることがよく理解できる著作になっている。

 

 まず断っておくべきは、本書は最近書店に平積みされている数多の反中韓本のような自称「保守」による単純なプロパガンダ本ではなく、日本側の資料や中共側の資料そして米国へ逃げ延びた元中共の者の残した資料を突き合わせて、そこから合理的に推論される毛沢東の実像を描き出そうとしており、反共イデオロギーに基づいて事実を捻じ曲げて論じるような真似はしていない。その意味で、著者の姿勢はどこぞの国のメディアに盛んに登場し、政権の覚えめでたく嬉々として審議会などのメンバーになっている類の御用イデオローグのような恥ずべき人物とは異なり、本書は特定のイデオロギーから立論した書物にはなっていないことを明確にしておかねばならない。また毛沢東の言動をあげつらって、これに対して道徳的に断罪するようなこともしていない。それどころか、むしろ毛沢東という男のスケールの大きさが際立つような記述ぶりであることに特徴がある。それと同時に、幼い頃、毛沢東の言葉に胸を熱くさせた経験がありながらも毛沢東の実像を知った時の複雑な感情との葛藤に苦しんできた著者自身の毛沢東への訣別の言葉として個人的意味合いをも併せ持つところが、本書を更に面白くさせている。

 

 毛沢東の権力欲や残虐性については国内外の数多の書物が伝えているし、左翼系の知識人による毛沢東に好意的な書物からでさえ、そのことが伝えられてきた。例えば竹内実『毛沢東』(岩波新書)は、毛沢東に肯定的評価を抱きながらも、毛沢東にあったであろう学歴コンプレックスから来る知識人への憎悪や秦の始皇帝を憧憬し皇帝権力を掌中に収めつつ個人崇拝をも要求する権力欲の強さを、『中国の赤い星』の著者であり毛沢東崇拝者であったエドガー・スノーに対して述べた彼自身の言葉を紹介することを通じて表現しているし、秦の始皇帝の行った焚書坑儒に倣って大量の自国民を弾圧・殺害しても始皇帝の数十倍、数百倍のことをやったと自慢するなどの残虐性も描いている。『毛沢東の私生活』を読めば、毛沢東が他人には禁欲的な質素倹約の生活スタイルを求めておきながら自分だけは贅の限りを尽くし、ロリコン趣味が高じて多くの少女との奔放な性生活を弄んでいたこともわかる。

 

 遠藤の本書は、そういう意味での毛沢東の悪人的性格の暴露本という性格のものではない。支那事変の最中、毛沢東は何をやってきたのかという点にスポットを当てた極めて貴重な研究の記録であり、その意味するところとは、「抗日救国」を掲げて革命戦争を戦い抜いたという「神話」が実際のところ虚像であって、むしろ日本軍に国民党軍の情報を密かに売り渡すことで日本軍と戦っていた国民党軍の足を引っ張り、自らは日本軍のシナからの撤退後にひかえる国民党軍との戦闘のための組織の温存を図り、あくまで日本軍とは戦う振りをしていたに過ぎなかったことを、日本の特務機関と中共のスパイとの共謀関係に焦点を絞って詳細に描写していくことを通じて明らかにしていくところが本書の真骨頂なのである。手軽に一般読者が手にしやすい新書というかたちで世に出されたことを喜びたい。

 

 本書は、「はじめに-中華民族を裏切ったのは誰なのか?」から「おわりに-毛沢東は何人の中国人民を殺したのか?」までの間に7章からなる文章を挟む形で構成されている。まず「はじめに」の箇所で、本書の趣旨が一瞥できるようになっている。中華人民共和国の人民は、シナ事変において毛沢東率いる中国共産党軍こそが大日本帝国軍と勇猛果敢な戦いを行い日本を敗戦に追いやり、反対に蒋介石率いる国民党軍はまともに戦おうとしてこなかった売国奴だと教育で教え込まれており、現在の北京政府も、2015年9月3日に開催された「中国人民抗日戦争勝利と世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に見られる通り、その「神話」を大々的に喧伝している。しかし実際は、中共軍はほとんど日本と戦わず山奥の延安に籠り、それどころか日本軍と戦う国民党軍を敗退させるべく日本側の特務機関と内通して国民党軍の情報を流し続けた事実について、その概要を述べている。その目的は、国民党軍の力を消耗させて機が熟せばその国民党軍を叩くことで自分がシナの覇者になるというものだった。

 

 毛沢東と日本の特務機関との関係を、特に潘漢年という中共のスパイと日本の特務機関「岩井公館」との関係を中心に描いていく。1939年に毛沢東は、潘漢年を「岩井公館」に潜入させ、外務省の岩井英一と懇意にさせ、日本側からの高額の情報提供料の見返りに国民党軍の軍事情報を提供するとともに、岩井英一に中共軍と日本軍との停戦案すら打診していた事実を述べる。また潘漢年は、毛沢東の密命を受けて大日本帝国陸軍参謀影佐禎昭大佐と密会し、日本の傀儡と言われた汪兆銘政権の特務機関「76号」とも内通し、中共軍との和議を申し込んでいることまで描いている。ところが、1949年の中華人民共和国建国の直後、毛沢東の個人的な意思決定により潘漢年は逮捕投獄され、1977年に獄死する。死後5年後に潘漢年を知る者らの努力によって「名誉回復」されることになったが、その際、中共側は潘漢年や袁殊といったスパイを、日本軍の情報を引き出して中共軍が日本軍と戦うのに有利なスパイ活動を行った英雄と転倒したかたちで祭り上げる。

 

 著者は、資料に基づきこの中共側の主張が全くの虚偽であったことを示していくことを、この場で予告する。さらに、中華人民共和国元帝国陸軍軍人を招聘した際も、「日本は謝罪する必要はなく、むしろ我々は日本軍の進攻に感謝しているぐらいだ」と述べた件を紹介し、また南京事件についても毛沢東は一生涯ただの一度も触れたこともなく、また教科書にも書かせなかったことも、『毛沢東年譜』という中共中央が編集した資料から示していく。もっとも、著者は南京事件が歴史上の事実としてあったかなかったについては言及していない。ここで重要なのは、毛沢東自身が南京事件について触れたことがないという事実なのである。よって著者が「南京事件否定説」を主張していると早とちりして誤解するようなことがないよう注意しておくべきであろう。ちなみに僕の南京事件についての見解は、事件の直接証拠の存否は専門家ではない僕は知る由もないので断言は慎むべきだろうが、様々な間接証拠を積み重ねていくならば、中共側の主張は大いなる誇張に満ちてはいるものの、少なくとも1937年12月13日からの数週間の間に、陸軍中央に動揺が走った程の何らかの虐殺行為があったのだろうと推認する立場である。したがって、いわゆる「南京事件否定派」ではない。もちろん犠牲者数が中共が主張する30万人あるいは40万人という規模の大虐殺が起きたとは信じられず、また犠牲者が全て無辜の市民だったのか疑わしいとも思っている。無辜の市民を装った便衣兵であったかもしれないからだ。ただ、支那派遣軍総司令官を務めた岡村寧次大将の残した日誌など諸々の間接証拠から推察するに、本土の陸軍中央に動揺が起こるほど軍紀が乱れあってはならぬ事態が発生するといった緊迫した状況があったと考えるのが合理的ではないかと思われる。「大虐殺派」の主張は誇張に過ぎるし、さりとて渡部昇一のような「まぼろし派」の主張は無理筋の説だろう。秦郁彦南京事件』(中公新書)のような「中間派(数百人~数万人)」が当たらずとも遠からずといったところかもしれない。

 

 さて第一章「屈辱感が生んだ帝王学」では、毛沢東の生い立ちと後の知識人憎悪のきっかけとなったエピソードが描かれている。毛沢東1893年12月26日に湖南省長沙府湘潭県韶山の富農の5人兄弟の三男として生まれたが、兄たちは早世したので実質的には長男として育てられた。貧乏人からのし上がって富農になった父親は、教育の重要性を認めず、勉強しても何の得にもならないとして勉強好きな毛沢東をしかりつけるも、無類の読書好きだった毛沢東は父親に隠れながらもの凄い勢いで貪欲に勉強するという生活を送った。清朝時代の禁書扱いだった書物にも手を出すほどの少年だったという。14歳の頃に『支那瓜分之命運』という本に出会い、国家というものを意識し始めることになり、明治維新関係の書物を読み漁り西郷隆盛に憧れて実家の元を離れる。授業料が無料だった湖南第四師範学校入学して楊昌済という倫理学者と運命的な出会いを果たす。楊昌済は1902年から6年間日本留学しており、東京高等師範学校(後の筑波大学)で学んだ後、英国、ドイツ、スイスと留学して1913年に湖南省に戻ってきていた。毛沢東の先生というわけだ。楊昌済は毛沢東を気に入り、毛沢東も楊の講義を欠かさず聴講するという関係だったが、この講義に使用した教科書がドイツ人哲学者フリードリヒ・パウルゼンが著した『倫理学講義』で、毛沢東は空白部分にびっしり書き込みするなどこの書物を熟読した跡が残っているらしい。著者は、ここから毛沢東が「現実主義」という論理を引き出したことを指摘し、後の『矛盾論』や『実践論』の基礎を形成する柱を作り上げていったと推理している。北京大学に異動になった楊昌済は、当時知識青年の流行であったフランス留学(周恩来や鄧小平もフランス留学組だ)に毛沢東を誘い、そのためにも北京大学受験を進めている。ところが受験資格を充たす学歴がなかったので、例外的に一年間北京大学の図書館の雑用を務めることを条件に受験を許可する提案がなされ、毛沢東はその雑用係に就くが、エリートが集まる北京大学の教員や学生たちに邪険に扱われるなど屈辱的な経験を味わい、そのプライドが傷つけられた毛沢東は、北京大学の学生を中心に起こった「五・四運動」の直前にもかかわらず北京を去って長沙の小学校の教員に戻っていく。

 

 著者は、この北京大学図書館での屈辱感が復讐心となって後の知識人憎悪の言動につながったのではないかと推察している。確かに、後に権力を手に入れた毛沢東は、この時期に出くわした人間のことを一々記憶していて、その時の怒りの感情を罵詈雑言で表現している。劉少奇の失脚と再び権力の表舞台に立つ目的のためにプロレタリア文化大革命を発動したときも、大学を閉鎖し大学院を撤廃し、北京大学清華大学を頂点とする学校教育制度を破壊し(但し、核物理学の研究者に対しては手厚く遇したという。核開発が不可能になってしまうからである)、普通高校以上の学歴を持つ者を「知識人」として辺境の地に下放し肉体労働に従事させ、その者に対して民衆に暴力をふるわせ屈辱を与え、息絶えた時にはじめて毛沢東は爽快感を味わうというほど、この時の屈辱に対する復讐の怨念は凄まじかった。

 

 第二章、第三章は、満洲事変から支那事変そして西安事件と第二次国共合作までの歴史を辿り、中共が日本軍のおかげで窮地を乗り切り、日本軍と戦っていた国民党軍の力を削ぐための活動に従事していた事実が描かれる。ここでは、革命の根拠地延安において毛沢東共産党内での権力を確立するために数多くの同志たちを虐殺していた事実が描かれている。目的達成のためには手段を選ばず、権謀術数によって同志を罠にはめ粛清を連続していくことで恐怖による支配を達成していく過程が描かれるのだ。建国後の反右派闘争やプロレタリア文化大革命の時にも見られた手法である。

 

 第五章がメインの章にあたり、ここでは潘漢年や袁殊という中共スパイを日本の特務機関「岩井公館」や汪兆銘政権の特務機関「76号」に派遣して国民党軍の情報を高額な情報提供料と引き換えに売り渡し、中共自身はその力を国民党軍を打倒するために温存するという戦略をとって、日本軍とはほんとんど戦わなかったという事実が具体的な資料に基づいて立論していく。後の中共側の理屈が辻褄の合わない詭弁であるかを一つ一つ暴いていく手捌きは見事というほかない。第六章は、毛沢東の政敵であった王明の手記と照らし合わせながら自説を補強していく役割を果たしている。第七章は、毛沢東が戦後に元帝国軍人を台湾から切り離し自らの味方につけようと画策したこと、また本音のところで日本軍に感謝していることが、元帝国軍人を中南海の自らの執務室に招いたときの話とともに語られる。特に遠藤三郎との会見での発言も面白いし、毛沢東支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を極めて高く評価し、岡村を自陣に招き入れたいと工作した箇所も見物だ(毛沢東は、岡村ら旧大日本帝国陸軍将校の優秀さを評価しており、また彼らが蒋介石の側につくのを恐れてもいた)。「おわりに」では、毛沢東が一体何人のシナ人民を殺したのかの推計も書かれており、稀代の殺人鬼としての毛沢東の実像をまとめている。

 

 というように本書は、自己の権力欲の実現のために権謀術数を張り巡らし、人民の生命などつゆほどにも感じずに目的達成に手段を選ばず邁進していったマキャベリストとしての毛沢東という男の人並外れたスケールを描いている。だが著者は、だから毛沢東は稀代の大悪人であったと告発しているわけではない。あの広大なシナ大陸において「天下を獲る」ということが日本では想像もつかないほど困難を極め、またそのぐらいのスケールを持った男であったからこそ、あのような皇帝型権力を掌握することができたのだということがよくわかる書物になっている。天安門広場に群がる人民を睥睨しつつ毛沢東エドガー・スノーに語った言葉が思い出される。「シナには皇帝が必要であり、個人崇拝も必要なのだ」と。

 

 もっとも、若干の違和感は残る。それは、毛沢東が日本軍との戦いをサボタージュしていた事実をクローズアップするあまり、他方の蒋介石がともすれば日本軍と勇猛果敢に戦った中華民国の英雄であるかのように映ってしまう効果を持ってしまうという点である。蒋介石毛沢東ほどではないにせよ胡散臭い男で、清朝王室の墓を荒らして宝物を分取って妻の宋美齢へのプレゼントにするなどの行為を働き、満洲族と漢族との相互不振を助長して中華民国の人民として「国民化」する契機を流産させてしまった点や、故宮博物院の宝物を強奪して台湾に持っていった点などを考えるならば、蒋介石こそ中華民族のために日本軍と勇猛果敢に戦った者だとする評価を与えるのは、甘すぎるような気もしないではない。加えて贅沢を言えば、共産党と国民党との間を多重スパイとして暗躍していた野坂参三にも多少はスポットを当ててもらいたかった。それはともかくとして、本書が浮かび上がらせた問題は、こうした毛沢東及び中共のたどってきた歴史的事実を捻じ曲げて美談の「革命神話」で国民統合を図りつつ、日本に対して「歴史カード」をちらつかせて外交的恫喝をしかけてくる現在の中華人民共和国政府の欺瞞であり、その欺瞞に呼応して嘘を真実と受け止め恭しく傅く外務省をはじめ日本の左翼やその同調者に見られる媚中姿勢である。そのことを明確にしてくれたことが本書の優れた点である。残念ながら、左翼系知識人が多い状況やシナ大陸での誤った日本の行動に対して過剰なまでの贖罪意識を持つ者が多い状況のため、事実を事実として指摘する行為ですら、ともすれば反中プロパガンダの右翼的行為であると糾弾されかねない。レッテル貼りが横行する日本の知的風土の中で、本書を上梓した著者の勇気に改めて敬意を表したい。

 

 かつて、その死が第二次天安門事件のきっかけとなった胡耀邦は、1979年2月の中共中央での講演において次のような発言をしている。胡耀邦には一分の良心があったのである。それがまた、鄧小平や楊尚昆江沢民らにつけこまれる余地を与えてしまったのが残念というほかない。

もし、中国人民が我々中国共産党の歴史の真相を知ったなら、彼らは必ず立ち上がり、我々の政府を倒すであろう。

 

胡耀邦追悼のために天安門広場を埋め尽くした民衆に対して銃口を向けて鎮圧し、今なお、海外に逃げた活動家を国家安全部が追いかけまわしている現状がある。国内において、この事実がなかったことにして言論封殺している北京政府が「反日愛国教育」に本格的に乗り出すのは、この第二次天安門事件から数年後の90年代初めである。