shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

学問研究の誠実性

 毎年同様、4月12日に東京大学の入学式が行われたが、そこでの上野千鶴子東京大学名誉教授の祝辞が一部で話題になっているようだ。その内容に賛同する者もいれば反発を覚える者もいて、入学式での話題をさらったという意味では上野千鶴子の狙いは半分以上果たせたと言えるのかもしれない。

 

 東大入学式をフェミニズム運動のパフォーマンスの場としてよいのかという疑問を差し挟む者もいようが、僕としては程度の問題という留保を伴いものの、多少のパフォーマンスは構わないと考える。伝統の継承というような特別な意義を持つわけでもない儀式でしかない単なる東大入学式という場を特別視する必要などない。

 

 むしろメディアの態様に見られるように、いまだに東京大学の入学式を特別扱いする真似は馬鹿馬鹿しいのでやめるべきであろう(おそらく関西のメディアならば、京都大学の入学式を取り上げているだろうと想像するが、これもアホらしいことなので京都大学を特別視するような真似はやめるべきである)。

 

 東京大学京都大学の所属研究者の個別の研究成果について人類史における知の発展として取り上げることは結構だが、単に入試に合格しただけに過ぎない者たちを殊更取り上げることは、中身がないのに根拠のない自尊心だけを逞しくする鼻持ちならない勘違い野郎を生むだけにしかつながらない。

 

 上野千鶴子も若干触れていることだが、世界的に見て東京大学はさして有名な大学とは思われていない。僕の所属する職場には米国のアイビーリーグの大学や英国のオックスブリッジやLSEの出身者が大量にいるが、東京大学の存在すら認知していない者などざらに存在する。一部の理科系分野の研究者は個人として知られているが、その所属先の東京大学まで知っている人となると多いとは言えない。会社に在籍しながら通ってMBAを取得したコロンビア大学大学院(コロンビア・ビジネススクール)の学生の中でも認知度は低く、アジアの大学ではシンガポール国立大学清華大学あるいは香港大学の方が知られているとさえ言える有様だ。文科系ともなると、東京大学の「ブランド」など世界では全く通用しない。

 

 東大生は、ともすればメディアに躍らされているうちに、ただ東京大学に在籍しているというだけで己が一端の知性を有したエリートだと勘違いする「井の中の蛙」と化してしまわぬように、よほど注意しなければならない。

 

 かつて蓮實重彦は「東大生の3割程度は世界的にも通用する人材」だと述べていたが、残念ながらこの評価は甘過ぎであり、実態は1割もいないものと思われる。東大の事務方の上層部は薄々そのことに気がついているものだから、今更ながら「グローバル人材」がどうのこうのと言い出しているが、これがまた完全に的外れである。

 

 東京大学を真に優れた大学にしたければ、まず入試段階での抜本的な改正が求められるだろう。そもそも共通一次試験を導入した時点から間違っていたわけだし、さらに言うならば、福田恆存が述べていた通り、明治期以来の教育システムが失敗していたと率直に認めて、立身出世主義からくる学校歴社会を破壊しなければ、つまらない人材を大量に産み落とすことにしかならないだろう。

 

 だから、事の本質は東大だけにあるのではなく、教育システム全体にある。少なくとも、大学院に世界中の優秀な学生が押し寄せてくるような環境づくりが必要であろう。最近では外国人教員も増えてはきているが、やはり日本人教員が多すぎる。女性研究者も層が薄い。大した業績もない教員が山のようにいて、しかも経歴からして画一的である。

 

 世界から一流の研究業績を持った研究者を大金払ってでも来てもらえるような研究環境を整えることもやってみるべきだろう。清華大学から米国のMITに進んだ職場の同僚が言っていたことだが、清華大学の学事顧問には大量の外国人がいるらしい。中には、米国の金融資本も絡んでいるから、それが一概に良いとまでは言わないが、世界的な研究業績を誇る学者たちによるアドバイザリーにより、重要な基礎研究費用もどんどん積み増ししており、また彼ら彼女らが米国のアイビーリーグをはじめスタンフォード大学シカゴ大学といった大学の大学院との橋渡し役をも努め、研究者の人的交流も盛んに行われている。

 

 ところが東大となると常に内向きで、諸外国の優秀な連中は、日本研究者を除き、誰も見向きもしない。身内だけで自画自賛してことさら東大を特別視する状況をみるにつけ、ますます日本の大学の地盤沈下は進行していくだろうと憂国の情にかられる。

 

 入学式での上野千鶴子の祝辞の内容に関して、個別にコメントすることは控えるが、半分賛成・半分反対というのが正直な感想だ。どうしても付きまとう違和感は、統計的データの恣意的解釈が目立つという点である。統計的有意な差とまでは言えないデータをさも女性差別があるかのようにほのめかす言説は、この人の学問に対する誠実性への疑念を招き寄せてしまいかねないので、おやめになった方がいいかと思う。論文に求められる首尾一貫性は必要ないものの、明らかな矛盾を矛盾と考えずに述べてしまう軽薄さには首を傾げざるを得ない。また、自己の業績を自画自賛したい気持ちもわからぬではないが、ともすれば独り善がりの滑稽とも映るので、これもやめた方がいい。

 

 上野の学問に対する姿勢に関して疑念を表明している堀茂樹慶應義塾大学名誉教授の発言を目にすることがあったが、その批判の趣旨は、社会運動家としての立場と学者としての立場を峻別しないことを是とするかに見える上野千鶴子の学問に携わる者としての「知的誠実性」の欠如に対する批判と言えるだろう。

 

 ちなみに堀茂樹はフランス語の熟達者で、アゴタ・クリストフ悪童日記』の翻訳者としても知られている。またアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる『「知」の欺瞞-ポストモダン思想における科学の濫用』を日本に一早く紹介した一人であり、この書の翻訳の協力者でもある人物である。大学の語学の授業では到底物足りないと感じた僕は、東京日仏学院に一時期通ったことがあり、そこの日本人やフランス人の講師陣の中に堀茂樹がいたことを覚えている。どうしても発音が下手糞な日本人学者の話すフランス語が多い中(フランス留学経験のある研究者ですら、残念ながら会話も発音も下手糞なのが多い。実は、東京大学法学部の教員も英仏独語は一応読めはするものの、まともに書けない話せないというがごまんと存在する。名前は差し控えるが、英語でさえヤバいのがいる。国際学会では用意したスピーチ原稿は読めるが、質疑応答になるとアワアワ言っているだけで何言ってるかわかんないという感じ)、堀茂樹のフランス語は見事で感心させられたりしたものである(但し最近、ちょっと小沢一郎を買いかぶり過ぎてる感がしないでもないが)。

 

 堀茂樹上野千鶴子への批判は、僕が上野の祝辞や上野のこれまでの研究姿勢に対して抱いた違和感と重なるものがある。研究者が一個人として社会運動に参画すること自体は自由だし、学問研究に入った動機が社会の諸矛盾を改善したいというものでも構わない。しかし、社会運動の都合に合わせて学問を捻じ曲げることは、絶対やってはいけない不文律であろう。

 

 最低限の知的誠実性を持って研究しているとの信頼があるからこそ、学者が専門にしている学問分野について述べる見解に対して、一般の者は一応の敬意を持って尊重するという態度で遇するわけだ。しかし、統計的有意さがない誤差でしかないデータのみを取り出して自説に都合よく利用したり、逆に自説に不利なデータを意図的に無視するといったことを仮に肯定しているとするなら、それは学問研究とは言わず単なるデマゴギーと化する。

 

 かつて江藤淳が、上野千鶴子のことを学者にしては文学がよくわかっている珍しい学者であると褒めていたが、そうした優れた資質を持った人物が、よもやそんなことまではしていないと信じたい。真実追求義務を持つ検事が、被告人の罪を立証するために被告人にとって有利な証拠を隠しても構わないとする態度を肯定するのと同じ過ちを犯していることになるからだ。社会運動家としての立場と研究者としての立場の最低限の峻別が求められる所以である。

 

 社会学の研究には中立的位置などありえないと開き直るならば、社会学の研究は単なるイデオロギーであって、学問的な議論の建設など不可能となり、極論すればゲバルトによる正当化しか残されないだろう。もちろん、中立を装いながらも実は特定の政治的経済的利害に絡めとられた言説は確かに存在する。そこで、その言説のイデオロギーを暴露する知的営為も学問への反省的姿勢として意味は持つだろう。

 

 しかしその意義から、極端に中立などありえないと開き直って学問上の知的誠実性を失って自身のイデオロギーを喧伝することを肯定してしまっては、それはもはや学問としての資格はない。イデオロギー批判を展開したマルクスは、しかし全てがイデオロギーで科学的認識は成り立たないなどという暴論は吐いていない。イデオロギー批判の自家撞着に関する議論を今更反復するまでもなかろう。学問として可能な限りイデオロギーを払拭した姿勢を理念としつつ、しかし同時に自らの営為が何によって可能となっているか、あるいはともすれば特定利害に絡めとられ誘導されているやも知れぬという懐疑的反省意識を伴いながら遂行する意志がなければ、学問は自らの場を喪失してしまうことだろう。