shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

偶然性の倫理Ⅱ

 ヒュームによれば、理性という概念は必然性ないしは不可避性を意味するとともに、正邪善悪を判断する価値基準でもあるとされる。しかし、理性が必然性を有する場合は極めて限られている。数学のように前提から演繹していくような場合がそれである。逆に、数学とは異なる経験的諸学の諸観念を支えているのは事実関係である。とはいえ事実間の観念は、厳密な論理的意味における必然性を持たない。因果の関係について、原因と結果の観念は各々の特定の対象が過去のすべての実例で様々に相互に随伴していたことを知らせる経験に由来する、すなわち特定の事実の存在に伴って常に他の特定の事実が生起すると言いうるのは、数学的な論理的必然性によるのではなく、これまでそうした事実間の結びつきが確実に繰り返されたという経験によってである。よって、現実に生起する事実とその相関関係とを取り扱う経験的諸学は、単にある命題から他の命題を引き出す数学的・演繹的推論とは異なるのであり、理性の機能である必然性や不可避性は経験的諸学には妥当しないということになる(もっとも、こうした素朴な因果関係に関するヒュームの見解が、計算機科学と科学哲学の研究者でかつ人工知能研究の権威でもあるジューディア・パールの統計的因果推論に関する精緻な立論から見てどこまで耐えられるか疑問だが)。さらにヒュームが因果的相関を時間に関係させて捉えていたことは、よく知られている(この点についても、現代の哲学的思惟は、決定論と予測可能性との関係をめぐる認識論的、存在論的議論において、きめ細かな考察が進んでいる)。ヒュームはこの「原因」について、その主著である『人性論Treatise』で次のように特徴づけている。

 

...an object precedent and contiguous to another, and where all the objects resembling the former are placed in like relations of precedence and contiguity to those objects that resemble the latter...C causes E if and only if every event like C immediately precedes an event like E.

 

原因と結果の区別における規約主義的解釈に基づくこの主張は、伝統的には以下のような批判に晒されてきた。一つは、原因と結果が必ずしも近接することは要しないこと。二つは、異なるタイプの出来事の偶然的相関を排除しきれていないこと。三つは、何かの結果の原因であるために、ある結果が恒常的に連接することまでは含意しないこと。そこで、このヒュームの「原因」についての説明はポパーやヘンペルによって修正が加えられてきた。ここではそれが主題ではないのでこれ以上触れないが、いずれにせよヒュームは、因果相関は恒常的連接に基づくものであってそれ以上の根拠に支えられたものではないので(実はこの点に関して、ヒュームの見解はライプニッツの見解と類似している。問題は、ライプニッツはその先にまで思考を展開しているのに対して、ヒュームは「打ち止め」してしまっている点である)、因果的法則の一般的定立はなお懐疑に晒されたままであるという、後の科学哲学における「帰納の問題」を提起もした。

 

 そういう事情もあって、ヒュームは因果関係の必然性を否定したかのような俗説が現在もなお流通している。中には知覚連合の恒常的連接や帰納的証明への懐疑の議論に基づく認識論的懐疑主義を飛躍させて、世界の出来事の間の関係には必然性はなく偶然的なものであるという存在論的主張にまで拡張する解釈もあるが、こういった解釈は、ヒュームが世界について決定論者であったという事実の等閑視に基づくものである。例えば、平倉圭ゴダール的方法』(インスクリプト)における「世界のヒューム化」という表現は、それが存在論のレヴェルで用いられるとするならば、ことヒューム解釈としては誤りだろう。同じく千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)の「ヒューム主義」の存在論的拡張も、ヒューム哲学の解釈として牽強付会の感なきにしも非ずだ。もっとも、両者の優れた論考はヒューム哲学の厳密な解釈を展開する趣旨ではないのだから、そのことで両者の論考の価値が棄損されるわけではない。ただ、多分に誤解を招きかねない表現なので、それに相応しい表現が他になかったのか若干疑問が残るというのが率直な感想だ。もっとも千葉のドゥルーズ論は、ドゥルーズの思考の持つ二つの両極端に見える契機を取り出し、一方のベルグソン主義という連続性の思考と他方のヒューム主義という離散性の思考との緊張を際立たせた上で後者の側に戦略的に肩入れする方法論を選択したので(ヒューム論も残しているドゥルーズであっただけに)、そのような命名をしたのもやむを得ないのかもしれない。しかしながら、Philosophical Essays Concerning Human Understandingには以下のような記述がある。

 

Though there be no such thing as Chance in the world; our ignorance of real cause of any event has the same influence on the understanding, and begets a like spicies of belief or opinion. 

 

ヒュームが「世界の中には偶然というものはない」と言うとき、そこでヒュームが否定したことは、自然ないしは世界の根本の存在論的レヴェルにおいて確率あるいは偶然が介入しているとする主張である。そうすると、ヒュームがラプラス決定論を採っていたということがはっきりする。主観的な信念の度合いに絡むcredenceは認めても世界の客観的な様相に絡むchanceは認めないというのが、ヒュームが採った見解である。偶然や確率が入り込むのは無知からくる我々の信念の不確実性ゆえであり、この点でヒュームはドナルド・ギリースが確率概念をいくつかに分類したものの一つである古典的確率論の立場にあるラプラス『確率の哲学的試論』(岩波文庫)の立場と同じである。決して世界の側に偶然性を認める議論ではないのだから、ヒュームの認識論的議論を安易に存在論的議論に拡張適用することができないのは明らかである。

 

 哲学者もまた物理学者も、世界の側に偶然が介入することを恐れてきた。だからこそ、古典論的世界観の劇的な転換を要求することになった量子力学の登場が存在論に動揺を走らせもしたのたのである。波動関数の「波動」とは、三次元空間を満たす媒質の振動の伝播という意味での実在の波動を指すものではなく、対象の状態を表す物理量の測定値がどのような確率で得られるかを表現する「確率波」を意味する。確率計算の公式が振幅と位相を持つ「波動」によって表現されることが量子論の統計的解釈の基礎にあり、シュレーディンガー波動力学にある波動関数とハイゼンベルグ行列力学の遷移確率の計算アルゴリズム間の数学的同等性に物理的意味を付与したのがボルンが提示した「確率波」の概念であり、これが量子力学の標準的解釈として定着してきた。この解釈は、ハイゼンベルグが述べる通り、粒子性と波動性の相補性を現実態と可能態の様相的区別として表現する。ミクロな物理の対象の観測は、可能態から現実態への不可逆的移行であるが、この移行は、同一の波動関数によって表示されるミクロな物理的対象の測定が同一の測定値を与えるとは限らないという意味で非因果的過程である。多くの可能性の中でなぜ特定のこの可能性が現実化したかについては理由を与えることができず「偶然」というよりほかない。この点で「充足理由律」の制限が起こっている。エヴェレット流の多世界解釈が生まれた背景の一つとして、世界に偶然が介入することへの疑念があったわけだし、アインシュタインがあれほどまでに量子力学は間違ってはいないが未だ不完全な理論にとどまると頑固なまでに拘ったのも、世界がいかに存在するかは我々の観測行為に依存することなどなく客観的に確定しており、物理学の目的は我々と独立な実在を言語(数学的言語を含む)によって正しくかつ完全に表現することであるという古典的な実在論的立場からすれば(科学哲学者アーサー・ファイン『シェイキーゲーム-アインシュタインと量子の世界』(丸善)からすれば、アインシュタイン反実在論の立場を採らなかったことは確かだが同時に必ずしも科学的実在論の立場に与したわけでもなく、両者とは異なる「自然な存在論的態度natural ontological attitude」という第三の立場にあったことになろうが、ここはアインシュタイン研究の場ではないので、細かな詮索は控えておく)、量子論の記述は不完全であって同一の波動関数には異なる実在が対応しているにのに量子論はそれを十分に記述していないのではないかという疑問に基づくものであった。ちなみに門外漢としての感想を言うならば、たとえエヴェレット流の多世界解釈に依ったとしても、確率を理論体系から排除することはできないだろう。コペンハーゲン解釈における可能性の現実化という意味での波束の収縮は量子論の数学的定式を観測によって得られた統計的データと結合するとき使用されるメタ言語の中で言及されるに過ぎず、対象言語としての数学的定式においては語らないという不都合があるわけだが、そうした不都合を避けられる古典論の延長として量子論を捉える路線をとるにせよ、確率を排除することはできない。もちろん、その際の確率の意味は、古典的確率論でもなければ頻度主義的確率論でもなければ論理的確率論でもない。さらには主観的確率論でも傾向的確率論でもなく、エヴェレット的確率論という以外の言葉が見つからないような別の概念となろう。科学哲学者、物理学者、数学者が積み上げてきた膨大な蓄積を誇る量子力学の解釈問題という泥沼に嵌るつもりもなく、門外漢が出るようなジャンルでもないので、これ以上の言及は控えたい。

 

 というよりも、趣旨はそこに非ず(ウイスキーを飲みながら酔いに任せて書いているものだから、めちゃくちゃになっているかもしんないが)。偶然性の問題を存在論形而上学のレヴェルで論じるのは、以前も述べた通り、かなり困難な道だということだ。利用可能な有効な概念装置が整っていないからだ。前々から言っているように、社会存在論や倫理の土俵に移して、しかも厄介な形而上学抜きの倫理、形而上学抜きの社会存在論を語る方途を探る方が今のところ建設的な議論ができる。というのも、世界内のもののイメージを分析・理解の補助手段として用いることが容易だからである。さて一時期、爆発的な勢いで世界各国を動揺させたISILは「カリフ制を再興する」という目的を掲げて誕生し、スンニ派の中のサラウィー主義に立脚するバグダーディーは、自らを「カリフ」と称し強権的な支配体制を勢力下の地域に敷いていた。もっとも、イスラーム「国」と言ってもバグダーディ―が目指していたのはウェストファリア体制下の領域国家としての国ではなかった。それどころか、ウェストファリア体制そのものに否を突き付ける運動体という性格が顕著であったとさえ言える。その意味でISILは、他のムスリム国家をも含めた全世界の領域国家を敵に回していた。すなわち、一定の空間的領域を囲い込み、その領域内に属する者と属しない者とを選別し、領域内の者のみが利益を享受する体制そのものに異議申し立てしたわけである。全領域国家を敵に回したISILは、それゆえに全領域国家の逆鱗に触れた廉で早番叩き潰される運命にあった。

 

 イスラームは、そもそも人種や文化あるいは国籍に関係なく、唯一神アッラーに服属する「奴隷」の共同体なのであって、中田考『カリフ制再興』が述べている通り、空間的領域での絶対者たる主権者などという観念とは本質的に相容れない。いかなる空間も唯一神アッラーのものであって、主権者などいう西欧由来の人定法に基づく観念が入る余地などない。「人権」にしても「民主主義」にしても、西欧の市民革命由来の観念であって、その内実は普遍主義の装いだけを整えるだけで実際は特殊性の域にとどまっている。一定の領域に囲い込まれた者だけがその恩恵を享受し、排除された民には国家の保護はない。近代国民国家は、集権化による多元的秩序の解体によって生み出された均質化された個人を「国民」に編入させることで新たな社会秩序を構築した。ISILの闘争は、イスラーム的普遍主義と領域国民国家の特殊性との対立という側面を持っていた(だからといってISILを肯定するわけにはいかないのは当たり前である)。 

 

 本来イスラームが持つある種の普遍主義的思想は、井筒俊彦『神秘哲学』によると、イスラーム哲学に由来するらしい。中でもスーフィズムにつながる哲学の特質は、「存在一元論」ともいうべき独特の存在論にあるという。イブン・アラビーは、宇宙の森羅万象は「存在」の創造物でありかつ「存在」そのものであって、超越的絶対者は「存在」以外にはありえないとする。逆にいえば、森羅万象において「超越」はありえずすべては「存在」に「内在」する。或物が存在するのではなく、「存在」が或物と化するのである。ここに勝手な妄想を広げると、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性や『エチカ』(岩波文庫)におけるスピノザの実体についての考え方あるいは拡張された後期ハイデガーの思想に類似性を見ることもできるかもしれない。あるいは、アラン・バディウがGille Deleuze:la clameur de l'etreにおいてかつてファシズムと関連させて揶揄した『差異と反復』(河出書房新社)におけるドゥルーズに通じる面もあろう。なおバディウに関して、彼のよき読者でないことを断りつつ一言しておくと、率直に言って「この人、本当に集合論を理解した上で使っているのだろうか」という疑問が残る。ドゥルーズについての先の著書において、ドゥルーズが使用した数学の概念はあくまでメタファーでしかないと断固主張したいとするバディウその人もまた、仮に好意的に解釈しても、集合論をメタファーとして使用しているに過ぎず、しかもメタファーにしては、本旨が伝わりにくくなっている点において、バディウも失敗しているのではないか。超限集合論を現実的無限として捉えたカントル自身が集合論の発展と重ね合わせるように形而上学的意味をも含意させようと試みていたぐらいだから、集合論存在論に利用するということ自体が誤りであるとはまでは言わないが、結局カントルも果たせなかった集合概念と伝統的形而上学的実体論との間の関係についての厳密な考察がなされぬまま、バディウは聞き齧り程度の知識しかない集合論に勝手な意味を読み込んでいるだけにしか見えないのだ。これでは「数理神学」と称する人と変わらなくなってしまうだろう。だから、まともな数学者や数学に通じた科学哲学者から全く相手にされていないのである。

 

 しかし同時に、この「存在一元論」は、「存在の一義性」のもとで捉えられる連続した実体としての存在観とは異なる側面つまりは非連続的ないしは離散的な存在観の側面を持っている点である。といっても、古典論において連続量として扱われてきたエネルギーや角運動量といった物理量が正準量子化されて扱われる量子力学から連想された世界観をイスラーム哲学が先駆けていたなどという無茶苦茶な暴論を言うつもりはない。そんなことを言いだせば、例えば「刹那滅」の考えに見られるような一部の仏教学の教説の方が量子力的世界観に「世界観的イメージ」という点において親和的とも言える。もちろん、ここで仏教と量子論の親和性を言いたいのではない。全く由来が異なる知識体系について、その極く一部に見られる表面的類似点だけを取り出して、その他の各々の理論の構築過程やどの対象について論じる場合にどういった概念が登場することになったのかという全体の知の体系における文脈を無視して比較することは愚の骨頂である。例えば、アインシュタイン弘法大師は同様の思想的位境に立っていたなどとする言説は、科学についても仏教思想についても深く考えていない言説でしかない。当然のことながら、仏教は宗教思想であり量子力学は物理学であって、全く出自を異にする知識体系であり、そこに登場する諸概念が意味する対象も全く異なるわけだから、そもそも比較のために最低限必要な共通の土俵すらないのである。どうしても比較したければ余程慎重にならなければならず、先ずは比較するにあたって設定されるべき土俵をどう構築するのかの議論から始めるなど踏むべきステップは膨大な数に上ろう。もちろん、その基底的な概念が持つ様々な前提となる発想なり思考は、世界に対する根本的な見方が影響していないとは言えないわけだから、その根となる「世界に対する構え」の部分について比較すること自体は有益な場合も希にあるかもしれない。

 

 ここでいうイメージとは、むしろ遥かに単純なことである。この点で、渥美堅持『イスラーム基礎講座』(東京堂出版)が面白い指摘をしているので参考になる。乾燥しきった砂漠の砂は、湿り気のある土とは異なるイメージを喚起する。砂漠の砂は、他の砂粒と連続しているように見えて連続せず独立している(もっとも、土だって水だって原子・分子レベルでは独立しているけど)。言うならば「関係性なき関係」といもいうべきこの事態は互いに独立しているがゆえに、それらを直接連続させる契機はみられない。統合されることのなき本質的なアナーキーな世界。そうした砂漠の世界で互いに関係することを可能ならしめるものは、唯一神アッラーの媒介である。本来関係づけられないものが、神によって媒介されることを通じて間接的に関係づけられるという関係。これはちょうど、商品同士の関係と貨幣との関係とのアナロジーを想起させもする。ムスリムの共同体とは、我々が想起する共同体とはその性格を根本的に異にしているのかもしれない。環境や言語や風習や文化あるいは人種や振る舞いの仕方のパターン等による紐帯つまりは和辻哲郎的=廣松渉的共同主観性の成り立つ場における紐帯が根こそぎにされた後に残る離散的な存在の、神による媒介を通じた共同体の創造としての存在-神論といえるかもしれない。こうしたスーフィズムは、ある種社会的不公正に対する良心の反逆の帰結とも言え、罪に対する自省の念から自己の内面的浄化を熱望し、たとえいかなる犠牲があろうとも神を切望する。そこで、クルアーン対する沈思黙想と礼拝によって神に近づくことを希求して浮世の欲望を捨て去り、進んで貧しい生活を選択することになる。存在するのは神のみであり、神の他は何も存在しない。いかなるものもその本源に還る。人間は神に帰一することによって真の「存在」に吸収される。いかなる罪悪、欲望、苦痛は須らく自我に根源を有するものであり、この自我こそが幻影であるので、真に実在するものではないというのである。しかし、この考えを推し進めていくと、果ては唯一神アッラーと人間との「主人ー奴隷関係」すなわち絶対的な非対称性が崩れかねなくなる。「存在一元論」はこの絶対的な非対称性が無化し、ともすれば無神論にすらつながることすらありうる。「超越なき内在」ばかりが強調されると、それは神との関係においてもアナーキーを招来させる。これは本居宣長の皇国思想にも言えることで、宣長アナーキーにつながる側面でもある。