shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

京都という場と学知

 桜の季節も終わり花見客も消えたとはいえ、いまだ朝から夜半まで国内外からの観光客が絶えない様子の京都についてテレビで報じられていたが、桜の季節が終わっても次は大型連休や修学旅行の時期がやってくるから、京都の喧騒はしばらく止みそうにないだろう。東京に生まれ育った者であるからこそ抱いている京都への憧憬の中にあるイメージと齟齬が出始めている実態を、観光客の激増による経済的豊かさとのトレードオフとして半ば諦めねばならないのかと思うと残念でならない。ただでさえ混み入った街であるので、自家用車で行くのは明らかに愚かな選択だろう。さりとて、私鉄や地下鉄あるいはバスといった公共交通機関を利用しようにも限界がある。地下鉄にしても路線数の多い東京や大阪と違って、京都には南北に走る烏丸線と東西に走る東西線の二本だけしかない。市内を走る路面電車である嵐電叡電もあるが、前者は四条大宮から嵐山まで(北野白梅町から帷子ノ辻までの区間もあるが)、後者は出町柳から鞍馬や八瀬方面に走っているだけで、情趣ある電車ではあっても利便性の点では使えない。JRにしても阪急京都線にしても京阪本線鴨東線にしても京都と大阪を結ぶのがメインであって、市内めぐりには使えない。京都市営バスや京都バスなどが網の目のように市内に張り巡らされているが、車内は観光客で混雑し、また交通渋滞に巻き込まれるやほとんど身動きがとれず、一日で数か所周ろうと思うなら絶望的な状況となる。だからバスに頼るのも問題で、そんなときに重宝するのがレンタサイクルだ。幸い、京都は東山や北山の一部が坂道が多いくらいで(清水寺南禅寺などに行く際は上り坂が控えることになる)、残りは平地が多い。強いて言っても、北山方面に向かう際に緩やかな上り坂になっている程度だ。アップダウンの激しい東京の街に比べれば総じて平坦な道ばかりと言ってよい。しかも、京都市街地は、東京や大阪などの都市の市街地に比べて格段に狭い。

 

 そんな狭い市街地しかない京都市の人口の約1割は、大学生・大学院生・専門学校生などの学生で占められている。各キャンパスが町中に点在するオックスフォードのような大学町といった感じか。また学者や文化人も多く京都に住んでいるので、異分野の交流が東京に比べても盛んで、それが「共同研究」に結実したりもしている。そんな事情も伝ってかは知らないが、京都からは独創的な研究が出されているのだと何かの本で目にしたことがある。もちろん、実際のところはわからないし、現在もそうなのかもわからない。少なくともかつては京都から独創的な研究が出ているし、先端企業が京都に多いことから見ても、新しいものを生み出すことと、この京都の風土との間に何らかの関係が存するのではないかと想像することができる。京都に対して持つイメージは、長い歴史に培われた伝統と新しいものとが邂逅することで緊張を生み出され、そこから様々な独創的な文化が産出され、またそれが次第に堆積していくに連れて洗練度と成熟度を増していく文化伝統を形作ってきた町というものだ。人・モノ・カネそして情報ばかりがただ単に忙しなく集約され、各々が忙しなく流通しているだけでは、真に創造的なものは生み出されはしない。そこでは、人は生真面目になるのが唯一の取り柄となるからだ。「忙しなさ」・「生真面目さ」は何も生み出しやしないのである。

 

 かつての京都大学理学部の知的伝統・学風は東京大学のそれとは違う。最近は、京大の独自色はなくなってきつつあり「第二東京大学」化しているのかもしれないが、湯川秀樹朝永振一郎坂田昌一や林忠四郎などの独創的な理論的貢献をした理論物理学者や岡潔森重文、廣中平祐のような純粋数学者あるいは岡田節人や木村資生のような生物学者本庶佑利根川進山中伸弥といった生命科学者などなど輝かしい学者を生んできた大学だ。京都大学数理解析研究所は、東大出身の佐藤幹夫によって主導されて今日のような姿になったが、佐藤の弟子の柏原正樹をはじめとする「佐藤スクール」の面々やら望月新一などが集う名実ともに日本一の陣容を誇る研究機関になっている。そうそう、僕の仕事に直結する伊藤清も確かここのメンバーであったはず。戦前の西田幾多郎田辺元、九鬼周蔵に和辻哲郎、戸坂潤に三木清といった日本の哲学の代表者からなる「京都学派」や戦後の京都大学人文科学研究所を中心とした「新京都学派」にしても、それぞれ問題を抱えつつも、東大には為しがたい結果を残してきた。と言ってしまうと、学問すべてに関してと誤解されるかもしれないので、一言断りを入れておくと、理論物理学純粋数学あるいは哲学などの基礎学問をするには、京都という場所は最も相応しい場所ではないかということである。これら長いタイムスパンで「待つ」ことを要する基礎的な学問にとって、「忙しなさ」は最も忌むべき敵であるからだ。逆に、国家運営を間違いの少ないよう取り計らっていかねばならないとの要請から設けられた東京大学法学部は、政府中枢機関が集まる場所になければならないのかもしれない。明治期以来、官僚養成機関としての役割を担わされてきたのだから仕方がない。対して、京都大学法学部は東京大学法学部とは別の役割を担うべきだし、実際に京都帝国大学が設立された当初はそう意気込んでいたという(潮木守一『京都帝国大学の挑戦』(講談社学術文庫)には、東京帝国大学法科の授業風景を「湯呑」を抱えた学生に教授がお湯を注いでいくだけの風景に例える揶揄が紹介されている。戦後の体制も変わらない。現在は文科一類の入学定員を若干削減したから多少はマシにもなっているが、基本的には法文一号館25番教室での講義風景は相変わらずである。その中でもマシだったのが藤原帰一教授の講義だった。大講義室での講義ながらも創意工夫の甲斐あって人気していたことは確か。とはいえ、僕は藤原帰一の考えに同調はしないし、むしろ藤原帰一のような「リベラル」は僕にとっての敵である。しかし公平に言って藤原帰一の講義は上手かったのは確か)。しかしながら、今の京大法学部はどうかというと、正直言って「ミニ東大法学部」化してしまっているらしい。

 

 文化の成熟度合では逆立ちしても京都に敵いっこない東京であっても、逆に京都にはない特色を生かせばよいものを、どうも己の文化的貧困を自覚していそうにない。のみならず、文化的中心とばかりに居丈高になっている滑稽に気づきもしない。ファストフードしか食べたことのない者が食通を自称しているようなものだ(事実、本来の東京の食文化は貧しい。ほとんどはよそからの借り物なのだ。さしあたり現在のロンドンのようなものかもしれない。今でこそロンドンには美味い店があるけど、どうも一昔前はとても食えたものではなかったらしい)。しかしファスト・フードにはファスト・フードの、「にせもの」には「にせもの」の輝きとでもいうべきものが東京にはあって、逆に京都にはそうした「にせもの」の光学が欠けているとも言える。かつて市川崑監督によって映画化された谷崎潤一郎細雪』の蒔岡四姉妹の長女鶴子演じる岸恵子が言った「うちは、京都より東へは出たことあらしまへん」という台詞に現れた上方文化に対する強烈な自負に反対するわけではないが、「いや、そうはいっても東京には『にせもの』の持つ怪しい輝きもあるのですよ」と思わずつぶやいてしまう自分もいる。こういうと、「今はホンモノ/ニセモノの区別が無化された時代だ」などと、シミュラークルがどうのこうの、複製技術時代がうんたらかんたらと訳知り顔でそれらの理論を曲解して主張する者が出てきそうだが、よほどのバカでない限り区別ぐらいはつく。野々村仁清の京焼と二束三文の瀬戸物との違いぐらいは、いくら感性が磨滅した者であろうと見分けることはできるし、良寛様の残された書とそこらの落書も全く違う。問題は、区別が無化したなどというバカな話ではなく、ニセモノの方にもニセモノとしての輝きを示すこともあるのだということ。ニセモノだからといって無価値であるわけでは必ずしもないということだ。基礎学問をするには京都こそ相応しいという信念を持ちつつも、個人的には嵯峨野の奥やら大原あたりに庵を構え、思い立ったら気軽に市街地に出るというのがいいかもしれない。冬の京都は底冷えするらしいが、ニューヨークやシカゴの真冬だって更に底冷えする寒さだ。僕の勤務先のヘッドクオーターたちは、ニューヨークから鉄道で一時間ほど離れたところのコネチカット州グリニッジに居を構え、お気楽生活を営んでいるようだが、なるほどこの丘陵地帯は、ニューヨークの喧騒とは無縁の環境で時間もゆったりと流れているように思える。数学・物理学のPh.D持ちの密度にかけては異様に高いのである。

 

 日本において「京都」という場は、とりわけ知的シーンにおいて、昔ほどではないにせよ、ある種の「特権的な場」であり続けている。ある意味、浅田彰も京大人文研の所員を中心に構成された緩やかなサークルの末席にいたとも言えるわけで、実際、共同研究である上山春平編『ルソー研究』の執筆者に含まれていたように記憶する。学者としてのコアな研究業績の面から見ると「業績ほぼ皆無」に近い浅田彰がある種の「ステータス」を確立できたのも、京都という土地の持つ「特権性」と無縁とは言いきれない。もちろん、学者としての「業績ほぼ皆無」ということで浅田を貶めたいという意図は微塵もない。むしろ博覧強記な知識人としての性格が際立つという点を指摘したいだけである。「余裕の人」としての知識人の存在が今やほとんどいなくなった中で、浅田彰の存在は、たとえその言説に同意できない点が多々あろうとも、貴重な存在であることに変わりないからだ。知識人は著作を多く残せばいいというものでもないし、学問に対する見識は必要であっても学究肌である必要まではない。研究者=知識人というわけでは必ずしもない。かつて博覧強記でならした「百科全書派」的知識人として知られた林達夫は、その圧倒的な教養に比して寡作であることで有名だった。インプットとアウトプットの異常なまでの非対称が顕著だった林達夫のような大教養人は林の他にも存在し、また世間もそんな「余裕の人」たる知識人の存在を受け入れ、更には敬意をもって遇してもいたのである。『思想のドラマトゥルギー』(平凡社)での対談相手である久野収も主著と呼べる著作は残さず、その活躍の場は主として対談であったり、谷沢永一『悪魔の思想-進歩的文化人という名の国賊12人』(クレスト社)が一章分割いた「『進歩的インテリ』を自称する道化・久野収への告発状」という箇所において雑誌『思想』の編集顧問について影響力を発揮した「左翼ジャーナリズムの奥の院」と揶揄した通り(谷沢永一のこの書は愚にもつかないクズ本の類なのだが、中川八洋『正統の哲学・異端の思想-「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店)や『保守主義の哲学-知の巨星たちは何を語ったか』(PHP)などと同様、ある程度勉強した者がその記載の「間違い探し」に利用するなどしてみるとよいかもしれない。まあ間違いチェックの朱字だらけになるけど)、様々な媒体の編集に携わったりするばかりで、体系的な学問研究の業績を残したわけではなかった。しかし久野収は、そこらの研究者とは桁違いの正に博覧強記という言葉が相応しい教養人だった。その意味で浅田彰も、狭義の京都学派には属さないものの、林達夫久野収といった「余裕の人」としての京都系教養人の系譜に位置づけられるかもしれない。

 

 一時的に流行した「新京都学派」の代表的学者の梅棹忠夫による「文明の生態史観」は、今から見ると実証性に乏しい学説に思われるが、その発想は極めてユニークだった。梅棹生態史観は批判を受けつつその内容を変化させていったところもあるが、少なくともこれを好意的に読んだ人の中には、講座派マルクス主義史観が席巻していた当時の歴史学界を反映して特にアカデミズムにおいて広まっていた唯物史観への対抗理論を期待した人も多かったと聞く。実際、生態史観が提起された当初、「日本主義イデオロギーを喧伝する悪しき学説」と悪し様に罵る批判も現れ、マルクス主義陣営から寄せられる批判に対応するかたちで、生態史観は梅棹のみならず上山春平など周囲の者らの協力によって彫逐されていった過程が読み取れる。水準は相当落ちるが、例えば谷沢永一『人間通でなければ生きられない』(PHP文庫)が梅棹生態史観を紹介する際に「マルクス主義の誤りを的確に指摘した英傑」であるかのように嬉々として描いているわけである。そこに対マルクス主義理論を見た人々が多かった理由は、生態史観の持つ極めて特徴的な性格に起因している。梅棹生態史観の特徴は、多くの文明論に見られる「東洋と西洋」という区分とは異なる枠組みを持ち出している。西欧及び日本を「第一地域」とし、それ以外の領域を「第二地域」とに分け、この両地域が「第一地域」の内部同士あるいは「第二地域」の内部同士でそれぞれ並行的進化の過程を経てきたことを述べた上で、この相違と内部的関係における並行的進化を「遷移」という生態学的現象についての知見に帰着させて説明したという点である。これが何ゆえマルクス主義における唯物史観への対抗理論として受け取られたかといえば、マルクス主義は人類の発展過程は単系発展の過程であるとみなしているのに対して生態史観は多系発展過程を対置したという点、そして唯物史観では歴史的分析の視軸を経済的生産関係に基づかしめるのに対して、生態史観は生物学的主体環境関係に基づいて歴史を分析する視点を対置した点に由来していた。

 

 生態史観は、その理論的不備も目立つことを差し引いても、当時流布していた唯物史観への対抗言説としては十分魅力的に写ったであろうことは想像に難くないことだし、旧ソ連の公認学説とさしてたがわぬ理論を科学的社会主義と奉じている集団による哲学的著作が存在している状況の「毒消し」として、その理論的価値は失われていない。もちろん、梅棹生態史観が現在の理論水準において何ら修正なしに維持できるものではないことは言うまでもない。旧ソ連公認のマルクス主義(「正統派」マルクス主義ないしはマルクス・レーニン主義)によると、マルクス主義哲学は弁証法唯物論に帰するのであり、この弁証法唯物論を自然現象に適用したところの「自然弁証法」と、社会現象に適用したところの「史的唯物論」とに分けることができるという。史的唯物論は、弁証法唯物論の見地から人間社会の構造と発展を歴史的に把握する哲学上の立場であり、それは社会現象を物質的なものと観念的なものとに分け、前者を経済現象に後者をイデオロギー現象に見た上で、観念的なるものとしてのイデオロギー現象は物質的なものたる経済的土台に規定される上部構造と位置づける。そして物質的なるものと観念的なるものとは作用と反作用の唯物弁証法的関係を有するとし、物質的なるものは生成・変化・発展(量的発展・質的発展・新たな生成)・死滅の自律的かつ唯物弁証法的運動を歴史的に展開するという論理を持つ一方で、観念的なるものは物質的なるものの自律的かつ唯物弁証法的運動への規定性を孕みつつ生成・変化・発展・死滅の相対的独立的な唯物弁証法的運動を歴史的に展開するものと把握する。この史的唯物論による社会現象の弁証法的把握は、したがって、当該社会現象を一定の構成要素の相互必然関係に基づく構成体として認識することになるわけだが、社会現象を固定的なものとして認識するのではなくして、対立物の統一と闘争の法則、量から質への転化の法則、否定の否定の法則という弁証法3原則を適用して、客観的運動過程として把握する。このような観点から、歴史は客観的実在の発展過程として把握されることになるので、人間の歴史は人類の客観的発展過程として認識されるというわけである。人類社会の発展過程は、経済的土台とそれに規定される上部構造との統一体としての社会構成体(Gesellschaftsformation)の発展的順次交代過程を形作ることになる。すなわち原始共産制的社会構成体から奴隷制的社会構成体へ、そこから封建制的社会構成体を経て資本制的社会構成体へと順次移行発展していくものと把握し、さらに資本制的社会構成体から社会主義的社会構成体に、最終的な発展形態としての共産主義的社会構成体に至るというストーリーである。もちろん、これがマルクスのテクストから直接帰結するのかどうかは怪しい。ただ少なくともエンゲルスレーニンのテクストから得られる内容を基にして、いわば多くのマルクス主義者の公式見解として世上に流布されていた唯物史観なるものは上記のような単純な図式にすっぽりおさまるものであった。

 

 生態史観は、このような単純な歴史理解に対するアンチテーゼとして受容された。これが実証に裏づけられた現実的妥当性を持つ理論であるか否かというよりも、こうした大胆な学説が生い立つ知的土壌が京都という場と無関係ではないだろうというのが、僕の仮説なのである。