shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

刑事訴訟法321条1項2号の改訂を

 渡部昇一『萬犬虚に吠える』(小学館文庫)に収録されているロッキード裁判批判と立花隆ロッキード裁判批判を斬る』全三巻(朝日文庫)を通じて互いに罵り合っていた渡部・立花論争は雑誌『朝日ジャーナル』での紙上論戦が元になっているが、論争という論争を見ることのなくなった現代に生きる者からすると、水準云々は別として、まだこの時代には論壇というものが機能していたのだなという思いに駆られる。

 

 渡部のロッキード裁判批判は反対尋問権の侵害ばかりを言い募る内容に終始し、まるで刑事訴訟法上の伝聞例外規定の存在に不案内であるかのような書きぶりで、批判のポイントがずれていたし、さりとて立花隆の立論も我が国刑訴法に明文規定を欠く事実上の刑事免責を付与した上での嘱託証人尋問調書の証拠能力がなぜ認められるのかという肝心な面をぼかし、専ら検察側の理屈を押し通すばかりで説得力を欠くものだった。

 

 それにしても解せないのは、なぜ渡部昇一ロッキード裁判だけに拘ったかということである。普段から、我が国の刑事司法制度の問題点を告発する人物ならば、この裁判批判も理解できよう。例えば、日本共産党系の自由法曹団の弁護士である石島泰だとか新左翼系団体の犯罪を弁護したりもした九州大学名誉教授ね井上正治だとかが、日本の刑事司法制度の問題点をアピールする目的でロッキード裁判批判の隊列に参加するのは理解できるのだが、渡部昇一が殊更に刑事被告人の権利について問題意識を持っているとは思えなかったので、このことが今も謎になっている。

 

 渡部昇一だけでなく、その周辺の人物である小堀桂一郎小室直樹も隊列に加わっていたのだから、ますますキナ臭い感じを抱くのは僕だけではあるまい。立花の著作にも触れられていたエピソードに、小室直樹の「検事をぶっ殺しでやりたい」というテレビでの発言がある。ロッキード裁判の最中、折からテレビのワイドショーに生出演していた小室直樹が椅子から立ち上がり拳を振り上げて「検事をぶっ殺せ!」と絶叫したそうである。翌日に、先の発言の弁明をすると再び出演した小室は、「政治家に道徳を要求するのは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は奥さんをぶっ殺したって何もなかったではないか。田中角栄は他に代わる者がいない有能な政治家である。対して検事なんか1ダース2ダース殺したって代えはいくらでもある。だから、検事を殺したって構わないのである」と弁明になるどころか、今なら大炎上間違いなしの火に油を注ぐかのような発言をしていたらしい。

 

 さらに加えて「今時、そこらのおちゃーぴーでも一億や二億くらいすぐちょろまかす。ちょっとマシなおばはんともなると10億くらい掠めとる。角栄の五億がなんだ!そんなことで騒ぐような検事は殺したって構わないんだ」などと述べていた。以後しばらく小室はマスコミから干されることになったようだ。無茶苦茶な主張だが、こういうイカれた発言は嫌いではないし、暴力肯定論者なんで批判する気はないが、『田中角栄の大反撃』(カッパノベルズ)を読んでもロッキード裁判批判の論理には説得力は皆無だ。

 

 田中角栄死後の最高裁決定(被告人の死亡により結局公訴棄却になったが)において、この刑事免責を付与した上で得た嘱託証人尋問調書の証拠能力について、最高裁は証拠能力を否定する判断を下したわけだが、このことは田中角栄は無罪だとする渡部昇一の主張が正しかったことを意味するわけではない。渡部昇一は、最高裁決定の後、あたかも自説が正しかったかのように主張していたが、完全に勘違いである。というか、裁判批判を展開していた割には判決文全てを読んでいるとは思えない主張をしており、この点につき立花隆から突っ込まれていた(特に、一審判決の判決文は物凄い分量なので、一々読むのは大変だろうけど)。

 

 渡部の批判の趣旨は、反対尋問が認められないのは暗黒裁判だということの一点張りだった。伝聞証拠であっても、後に触れるように、伝聞例外の規定に当てはまれば、たとえ反対尋問がなされなくとも真実性が担保できる限りは許容されており、ロッキード裁判以前から無数の事例が存在している。渡部の主張を文字通り解するならば、渡部は伝聞例外規定全てが違憲であるということになってしまう。

 

 もっとも、立花隆の立論にも問題があって、コーチャンやクラッターに対して不起訴宣明書を出して事実上の刑事免責を付与した上で得られた嘱託証人尋問調書の証拠能力は、先述の最高裁決定でも判示されている通り、我が国の刑事訴訟法には刑事免責制度を規定する明文を欠くので、これを認めることは反対尋問権を保障した憲法37条2項の趣旨を大きく逸脱する。伝聞証拠であっても刑訴法321条以下の伝聞例外規定に該当すれば反対尋問がなされなくとも証拠能力が認められることもあるわけだが、厳格な要件を満たす限りで認められるはずの伝聞例外を明文規定なき刑事免責を事実上付与する形で得られた証人尋問調書にまで拡張適用するようなことは許されるはずはない。

 

 この点につき、刑事免責の付与には該当しないという反論があるが、我が国の刑事訴訟法は起訴するかしないかは検察官の判断に委ねられているので、わざわざ不起訴宣明書まで出して得たことは実質的な刑事免責の付与と解釈するのが妥当だろう(この点で、井上正仁の論文「刑事免責と嘱託証人尋問調書の証拠能力」が参考になる。なお、井上正仁『刑事訴訟における証拠排除』(弘文堂)は名著。僕が「この人はオツムがきれるなあ」と思った数少ない法学者の一人。僕が尊敬する団藤重光の最後の弟子だ)。しかし、我が国の刑事法においてより本質的な問題はそこではない。

 

 刑事訴訟法320条1項に規定される伝聞法則とは、公判期日外での供述や公判期日での供述に代わる書面で、要証事実との関係において、当該原供述の内容たる事実の認定に供される証拠の証拠能力を原則として排除すること意味する。このことは法学部で学んだ者なら誰でも知っている常識的な知識である。

 

 伝聞法則の意義をさらっと確認した上で、伝聞例外に触れて与件となる事案において326条の要件を満たさない場合、321条以下の規定に適合するか否かについて検討を加えて答案を作成していくという典型的な答案作法は、証拠法関連の試験を受けた者なら大抵は心得ているところであろう。知覚・記憶・表現・叙述の諸過程をたどる供述証拠には、その過程に誤りが入り込む類型的危険性があるので、反対尋問によるテストにかけられることでその原供述内容にある事実が真実であるか否かの判断ができるわけだが、伝聞証拠には反対尋問によるテストが介されないために真実性の担保がないという理由による。

 

 そうすると逆に、たとえ反対尋問によるテストがなされなくとも、必要性とそれに代わりうる信用性の情況的保障があれば伝聞証拠に絡む類型的危険性を緩和することができるのだから、326条の規定にある同意書面として認められない限りは、321条以下の要件を課すことにより例外的にその証拠能力を認めることができるし、逆に真実性の担保ある証拠まで採用されないとすれば、今度は刑訴法1条にある実体的真実主義の要請に応えることができなくなる。すなわち伝聞例外の趣旨は、被告人の人権保障に配慮しつつ実体的真実を明らかにするという要請を満たすことにある。そういう理屈で伝聞例外が認められてきた。

 

 ところが、321条以下の伝聞例外規定の問題点はいろいろあって、例えば被告人の供述を内容とする書面について規定する322条の運用に関しても実際の裁判では、被告人の公判廷での供述と捜査機関による供述録取書の内容に食い違いが見られるとき、実質的に被告人に不利に扱われている事例が多い。司法警察職員や検察官の精神的な圧迫により無理やり司法警察職員や検察官の作文した供述録取書に署名押印させられたことが原因で無実の者が罪を負わされる冤罪事件は、知られているだけでも数多くある。そうした冤罪事件ではたいてい、裁判所が被告人の公判廷での供述を信用せず、無理やり署名押印させられた供述録取書の方を無批判に信用したから有罪認定に至ったというケースだ。

 

 もちろん、322条を削除するというわけにはいかない事情もあろうから、この点は裁判官の公正な事実認定判断に期待するより他ないが、一番の問題点は321条1項2号にある。いわゆる検察官面前調書の証拠能力に関する規定である。同項2号は参考人等被告人以外の者が検察官の面前で供述した供述書ないし供述録取書の取扱いに関する規定であるが、注目すべきは、ここで課される要件が同項3号と比べて著しく緩和されていることの問題性である。供述の相反性と特信性を充足するか、あるいは供述が不能である場合に検面調書の証拠能力が認められるわけである。

 

 対して同項3号は、被告人以外の者の司法警察職員に対する供述書ないし供述録取書などを含む書面(要するに1号にも2号に該当しない書面)が認められる要件として、供述不能であること及びそれを証拠として採用することの必要不可欠性ならびに特信性を充足することを課している。これらを対比すると、いかに2号の要件が激甘な要件であるかが理解されるだろう。

 

 しかも、2号と3号の特信性の内容は、前者がいわゆる相対的特信情況で足りると解されているのに対し、後者は絶対的特信情況が認められることをも要求する点で、文言規定上のみならず解釈上においても、2号は検察官にとって過度に好都合な規定であって、憲法37条2項適合性が疑われるような条文である(他にも合憲性に疑義があるのは、接見交通権の制約として捜査の必要性を条件として認められる「接見指定」を規定する39条3項ではないだろうか)。

 

 同項1号は、供述不能であるかもしくは供述の相反性が認められることを要件とするだけで、2号に比べて要件がより緩和されている。しかしこれは、訴追する側の検察官にも訴追される側の被告人にも味方しない「公正中立」な第三者的判断者であることが一応の建前になっている裁判官の面前での調書の証拠能力に関する規定なので、百歩譲ってまだ認められもしよう。

 

 だが2号となれば話が違う。検察官は被告人の単なる一対立当事者ではなく公益の代表者としての側面を有するというのが緩和される理由の一つになっている。判例・通説は2号書面の違憲性を否定しているが、少数説ながら違憲説も存在する。ただその少数説だって、2号全文の違憲性を主張する説もあれば、2号前段と後段を分けて、前段につき特信状況を相対的でななく3号同様の絶対的特信状況を補って解釈しない限り違憲であると解する学説もあれば、その他諸々の学説が存在している。

 

 いずれにせよ僕としては、当事者主義的訴訟構造を形成しているのがわが国刑事訴訟法の大原則であると解されてきた以上、利害対立者である検察官の面前でなされた調書の証拠能力は司法警察職員に対するそれと同様の扱いを、すなわち3号書面として扱うのが妥当であると思われる。検察官が参考人に対して誘導するかもしれないし、場合によっては別の事案について刑事訴追しないと約束して参考人の供述を得るという危険性だってある。その時、被告人にこの調書にある供述者に対して反対尋問できないということは、冤罪の温床になるだろう。

 

 一刻も早くこの321条1項2号を3号の要件に限りになく近づける内容に改正するべきだが、どうもそういう議論が巻き起こらないのである。「人質司法」の問題も当然批判されるべきだが、過剰に検察側に肩入れするこの刑訴法321条1項2号の改正も、目立たないかもしれないが実は大きな問題なのである。