shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

柄谷行人について

哲学者ジョン・ロックは次のような文章を残している。

奇妙で馬鹿げた学説を流行させたり主張したりするには、曖昧でわかりにくく、意味のはっきりしない言葉をふんだんに用いて周りを固めるに若くはない。しかしながら、そうして出来上がる巣窟は、正々堂々とした戦士の要塞というよりも、山賊の住む洞窟か狐の住処にそっくりになってしまう。そこに逃げ込んだ者を追い出すのが難しいのは、その場所が持っている強さのためではなく、周りを囲む茨や棘、薮の暗がりのせいである。というのも、誤謬は元々人間の知性と相容れないので、不条理なものを擁護しうるのは、曖昧さしかないのである。

 

 

この文章においてロックの言わんとするところは、僕が何度も読んできたテクストだけに頻繁に引用する我が伊藤仁斎童子問』も述べているところである。期せずして、ロックも仁斎も同様な言葉を残していたのだ。

 

大抵詞直く理明らかに知り易く記し易き者は必ず正理なり。詞艱に理遠く知り難く記し難き者は必ず邪説なり。・・・卑きときは則ち自から実なり。高きときは則ち必ず虚なり。故に学問は卑近を厭うこと無し。卑近を忽にする者は道を識る者に非ず。故に知る凡そ事皆當に諸れを近き求むべくして遠きに求むべからず。遠きに求むるときは則ち中らず。学者必ず自ら其の道の卑近を恥じて敢えて高論奇行を為して以て世に高ぶる。・・・儒者の学は最も闇昧を忌む。須く是れ明白端的、白日に十字街頭に在つて事を作すが若くにして一毫も人を瞞き得ずして方に可なるべし。

 

 

時に蒙を啓かせる文章を書きもすれば、時にハチャメチャな文章も書くためだろうか、いずれにせよ毀誉褒貶の激しい柄谷行人であるが、元はと言えば文芸批評家として世に出た。ところが、柄谷は久しく文芸批評をものしてはおらず、したがって最近の仕事は、「文芸批評家」というより「批評家」もしくは「理論家」と形容した方が実態に相即しているのかも知れない。

 

その柄谷の仕事を通覧すると色々な分け方があろうが、概ね四つか五つの時期に分けられるのではないか。

 

東京大学在学時に書いた批評を除くとしても、「<意識>と<自然>-漱石試論」や「マクベス論-悲劇を病む人間」その他の漱石論を残した第一期。

1973年から雑誌『群像』で連載が開始された『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)や『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)に代表される第二期。

『隠喩としての建築』(講談社学術文庫)や『内省と遡行』(講談社学術文庫)や『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』(講談社学術文庫)に代表される第三期。

トランスクリティーク-カントとマルクス』(岩波現代文庫)から『近代文学の終わり』(インスクリプト)までの第四期。

そして『世界史の構造』(岩波現代文庫)から現在に至る第五期。細かく見れば、『探究Ⅰ』と『探究Ⅱ』の間には断絶があるように思えるが、ここではとりあえず無視しよう。

 

第一期の柄谷の仕事は遥か後の世代にあたる僕が読んでも面白い批評で、さすが江藤淳福田恆存の影響下で書いたものだけあって、彼らの若い時分に書いた文章に伍しているといっても言い過ぎではない出来栄え。特に「マクベス論」は、通常権力への妄執に捉われている存在として解釈されがちなマクベス像と真逆の描像を提示し、むしろマクベスは権力への妄執とは異質な茫漠とした憂鬱を抱え込んだ男と論じていく様は、上質な推理小説を読んでいる気持にさせられたりもした。ある意味、ポストモダン的雰囲気を醸し出している批評とも言える。

 

この時期の柄谷は比較的吉本隆明に好意的な態度だったのではないか(あの時期に吉本隆明が持ち上げられたのか理解に苦しむのだが、そんな僕のような感想は既に浅田彰が持っていたようで、浅田は吉本隆明のテクストに対して「読解不可能」と辛辣だ。僕はかつて吉本隆明を「堕ちた偶像」と書いたことがある)。

 

この吉本への態度が一転する頃に1回目の転回が起きる。第二期の『マルクスその可能性の中心』は、どこかで読んだ気もしないでもないのだけれど(だからといって、パクりだというつもりはない)、記号論が流行った時代以降の影響下で書かれたマルクスの新たな読み方を、マルクス研究の動向とは全く別の文脈で日本の読者に提示した意味は大きい。

 

ところが第三期になると、徐々に胡散臭い仕事が目立つようになる。しかも、浅田彰蓮實重彦もこの時期の柄谷を持て囃すものだから、調子に乗って「ええかっこしい」(熊野純彦の言)に増々拍車がかかっていった。蓮實重彦は「闘争の光景-柄谷行人『探究』を読む」という文章まで雑誌「群像」に寄稿してオベンチャラめいたことを書いていたくらいだ。

 

おそらく第三期が柄谷行人蓮實重彦の蜜月時代なのだろうか、両者の対談『闘争のエチカ』(河出文庫)もこの時期のものだ。また蓮實重彦夏目漱石論』(福武文庫)が出された直後の、雑誌「現代思想」での対談「マルクス漱石」は、絶頂期の二人の自信過剰振りが現れてもいた。ところが面白いことに、『闘争のエチカ』における両者のやり取りを改めて読み返してみると両者の主張はあまり噛み合っていたとは言い難く、銘々が別の方向の言葉を発しているにも関わらず互いに相槌を打っていただけのようにも思える。両者は、本来的に互いを相容れない存在だと密かに思い始めていたのではないか。

 

しかし、「名編集者」としての浅田彰の貢献が手伝って(思うに、浅田彰は学者には不向きではあるが、仮に出版社に入っていれば、おそらく大編集者になっていただろう逸材だ)、「論壇政治的」にとりあえずの「共同戦線」を張っておこうとの思惑から、あたかも互いが互いの理解者であるかのように振る舞っていたのではないかと邪推したくもなる。

 

この表向きの蜜月関係は、蓮實重彦が第26代東京大学総長に就任したことを契機に終わりを告げたようだ。こうした政治的理由で蓮實との関係を切った者として編集者の安原顕(自称「天才ヤスケン」)もいる。蓮實重彦夏目漱石論』(福武文庫)の解説にて蓮實を絶賛していた安原は、元々は中央公論社の雑誌「海」の編集長として蓮實と近しい関係にあったのだが、時期的には蓮實の東大総長就任以後、蓮實を口汚く罵倒する文章を残している。蓮實の東大総長就任という事件は、我が国の批評シーンに僅かなさざ波を起こすことになった。

 

柄谷行人江藤淳も、蓮實重彦東大総長の誕生がよほど癪に障ったらしく、特に江藤は文部大臣の椅子を狙っていたと噂される程だったという(江藤淳とも『オールドファッション-普通の会話』(中央公論社)では仲良く歓談する間柄だったのだが)。なるほど男の嫉妬ほど厄介なものはないというのも宜なるかな

 

蓮實重彦は「東大総長などなりたくはない」と公言していたらしいが、僕は蓮實が駒場教養学部長に就いた頃から総長への野心が具体的に芽生えたのではないかと勘繰っている。別に蓮實を貶す意図など微塵もないが、顧みるに、蓮實は表向きの発言とは異なり、東大への固執が強い人ではないかと思われてならないのである。蓮實重彦明治学院大学をはじめとする東大仏文科の「植民地」の一つに含まれる立教大学助教授に就任したにも関わらず、敢えて東京大学講師に降格する選択を行っている(こうした「植民地」開拓に貢献した先達の一人が渡辺一夫である)。

 

当時は、ひとたび専任講師に着任すれば余程のことがない限り、いずれは助教授から教授へと昇進するだろうことが期待されたわけで、実際に蓮實は講師を経て2年もしないうちに助教授に昇進する。立教大学助教授のままだと立教大学教授として終わっていく可能性が高い。それよりも、たとえ一時的に講師に格下げになってでも、将来的に東京大学教授に昇進する可能性の大きい道を選択したと言えよう。

 

ただ、蓮實が東京大学教授に着任するのは意外と遅く、50代になってからのことである。当時の東京大学の定年は60歳であったから(早めに退官して「植民地」の大学に天下りするか、後輩のための新たな「植民地」作りに精出すのが半ば慣例になっていたし、今もこうした不健全な体質は大して変わらないだろう)、東大教授としていられる年数は10年もなかった。

 

ところが、教授になってから間もなく教養学部長に就任する。この時期はちょうど駒場寮の廃寮問題で揉めており、反対派学生の弾圧に率先して取り組んだのが蓮實重彦一派であったとされる。また「駒場発」として売り出された『知の技法』(東京大学出版会)が左翼から問題視され、船曳建夫野矢茂樹が「団交」の場にて左翼学生や左翼活動家から「吊し上げられる」という出来事もあったという。そうしたこともあって、蓮實やその関係者の主として表象文化論に属する教員たちの権力体質が批判されたりもした。『闘争のエチカ』には駒場騒動のことが触れられているが、そこで蓮實は「階級闘争」なのだと、見ようによってはいけしゃあしゃあな言葉を吐いてもいた。

 

今もその名残があるのだが、東大の学内ヒエラルキーでは圧倒的に本郷が上で、駒場の教員を「教養学部奴隷」と秘かに蔑視する本郷の教員は意外に多かった(特に法学部では露骨にあった。聞くところ、蓮實が総長に就任した1997年でも駒場に対する露骨な嫌悪を示していた法学部の教授もいたらしい)。この学内ヒエラルキーとは逆に、とりわけ文科Ⅲ類から駒場の後期課程に進学することがちょっとした「ブランド」になっていた。

 

この現象は、簡単に説明可能である。有名進学校で東大の文系を志望する者は、東大では入学してから約1年半後に三年時に進学する専門課程にあたる学部学科選択を迫られるということもあって、たいてい文科Ⅰ類を目指すのが通常である。理科系の場合は理科Ⅰ類か理科Ⅲ類を目指す傾向にあり、理科Ⅱ類となるとちと落ちる。但し、理科Ⅲ類は原則として医学部医学科進学予定のコースなので、とりわけ医師を目指したい者でない限り、たとえ理科Ⅲ類に合格する力があろうと理科Ⅰ類を目指すわけだが(とはいえ、「偏差値エリート」の悲しい性なのか、医師を目指したいわけでもないのに単に受験難易度の高い理科Ⅲ類に合格したという「ステータス」を得るためだけに敢えて理科Ⅲ類を志望するという救い難い人種もまたかなりの数いるのが実態だ。そういうのが「鉄緑会」にはうようよいたそうである。そうは言っても灘高の連中に負けるのだけれど)、文科系の場合はとりあえず文科Ⅰ類を目指し、文Ⅰには届かない者が文科Ⅱ類や文科Ⅲ類を受験するという固定観念があるので、文科系で優秀とされる受験者は余程の変わり者でない限り、ほぼ間違いなく文科Ⅰ類を受験する。有名進学校になればなるほど文科系進学者における文科Ⅰ類志望者の数が圧倒的に多く、文科Ⅲ類志望者の数が極端に少ないことが物語っている。

 

合格基準点や合格者平均点ならびに合格者最高点のいずれにおいても文科Ⅰ類に劣る文科Ⅲ類からの入学者が、本郷の文学部や教育学部に進学するのではなく、ある種の見栄のために「点取り虫」らしく進学振分けにおいて文科Ⅲ類からでは高い成績が要求される駒場の後期課程を目指すという受験システムの延長が存在している。これは、受験時の「文Ⅰコンプレックス」が影響しているというのが僕の見立てである。

 

文科Ⅰ類の大半の者は、駒場の後期課程に進学せず本郷の法学部に進むという事実が如実に語っている。なぜか。これも単純で、「東大法学部」という「ブランド」価値の方が勝ると思い込んでいるからである。

 

東京大学を目指す者の多くは、愚かなことに、常に他者と比べて自分が優れているかを目に見えやすい物差しで計ることに拘り、他者から自分が優秀な存在であると見なされることに異常に執着する者たちだからである。中央省庁の官僚になるにしても、常に公務員試験の合格席次が決定的に重要な意味を持つのは、その席次が己の優秀さを示す物差しであると思いたい願望の反映であり、別言すれば、それしか誇れるものがないということだからである。有力官庁に入るには一定以上の合格席次が要求され、今はどうかは知らないが、国家公務員試験Ⅰ種(現在の国家公務員試験総合職)の合格証にわざわざ合格席次が明記されているのもその反映なのである。

 

そういう状況が長く続いたものだから、駒場の教員の対本郷意識は高く、駒場の大改革はそんな東大本郷の主流派からいくらかなりとも「ヘゲモニー」を奪い取ろうという目論見からなされたという見方も成り立つ。普段は「反体制」のポーズを決め込んでいる石田英敬小林康夫といった面々が駒場の「改革」と称して大学構内に警官隊を導入してまで廃寮反対派を力ずくで追い出したりもした。小森陽一にしても普段は極左的な言辞を弄しておきながら異論すら出さない様を、左翼側が批判する場面すらあったという。中には「総力戦体制と闘う」と言ってたらしい小林康夫に対して「お前が総力戦体制だろう!」という突っ込みすら入れられる始末。いずれも、表向きはリベラル風を吹かせ連中や「遅れてきた学生運動家」の如き落ちぶれ左翼の連中だ。

 

いずれにせよ、教養学部長就任後すぐに順調に副学長に就き、副学長は当然に次期総長の候補者になるという既定路線を作り上げ、本郷に対する駒場の対抗心をうまく利用して駒場票を固め、狙い通り総長の地位を得た。さすが「趣味は官僚」だけあって、学内政治で上手く立ち回った蓮實の手腕が発揮された結果だったと言えるだろう。

 

再度言うように、だからといって、蓮實重彦を糾弾しているわけではない。誰もが、程度の差こそあれ、権力欲や名誉欲を持っているのであって、蓮實もその例外ではないということである。特に、東大にはそういう人種が多い。かつて「東大解体」を叫んでいた連中の態度の裏には、「東大は格別の存在なのだ」という特権意識があったわけで、その意味では似たり寄ったりの存在なのだ。もちろん、事実は全く異なる。東京大学のネームバリューなど世界に出ればゼロに等しい。理科系の研究者で世界的に著名な教授がチラホラ存在するというだけのことである。

 

そうした振る舞いと権力欲を嫌悪したのかどうかわからないが、副学長時代には、まだ嫌味を言う程度の余裕を見せていた柄谷は、総長就任以後、蓮實の映画批評を間接的に否定するかのような言葉を述べ始める。例えば、小津安二郎の映画についても、批評家は御大層な芸術であるかのように色々な言葉で小難しく論じたりしているが、ごく普通の庶民が楽しんでいた大衆娯楽に過ぎないとして、あからさまに『監督小津安二郎』(ちくま学芸文庫)を意識した文句を残しているし、「フランス現代思想」に対する辛辣な批判を口に出し、更には、雑誌「批評空間」の共同討議「いま批評の場所はどこにあるか」において、阿部良雄蓮實重彦の影響を受けた松浦寿輝を「おフランス」だの「蓮實のエピゴーネン」だのと攻撃し始める。こうした一連の言動の批判の本丸は蓮實重彦であったことは見え見えだった。

 

さすがにまずいと思ったのか、浅田が火消しにまわる。確かに、松浦寿輝の『エッフェル塔試論』(ちくま学芸文庫)にしろ『表象と倒錯』(筑摩書房)にしろ、蓮實重彦の文体を真似たと思われる文章であるが、単なるエピゴーネンというのは公平な評価ではない。『折口信夫論』(太田出版)にしても、『表象のディスクール』に収録されている「国体論」にしても、相応に優れた論考だと思われるが、柄谷はそうした評価を下していない。

 

閑話休題。日本におけるポスト構造主義の隆盛に呼応するかのように(要するにミーハーだったわけだ)、1980年代から90年代にかけての柄谷行人数学基礎論トポロジーに関する一知半解な知識に基づき、トチ狂ったかのように「自己言及のパラドクス」やら「ゲーデル問題」やら「変換規則の同一性」やらといった言葉を振り回して読者を煙に巻く文章を量産し始めた。

 

この姿に露骨な嫌悪を公にしたのは、「ケンカ大岡」の異名をとる大岡昇平だった。大岡昇平は『成城だより』(講談社文芸文庫)においてこの時期の柄谷の文章を「数学的寝言」と称し、柄谷と数学について語るのは「ごめんこうむりたい」とまで辛辣に語る。「心の哲学」や言語哲学の研究で知られ、また論理学者ハオ・ワンによる長大なゲーデル伝である『ゲーデル再考-人と哲学』(産業図書)の翻訳者の一人でもある土屋俊も名指しこそしていないが、明らかにこの時期の柄谷行人の言説を意識してその種のインチキな議論を手厳しく批判する文章を残している。

 

80年代から90年代中頃にかけて柄谷自身の言うところの「形式化」に拘って「自己言及のパラドクス」だの「ゲーデル問題」だのと言って悦に浸っていたのは、一体何がきっかけだったのだろうか。フランスのコレージュ・ド・フランス教授でウィトゲンシュタイン研究で知られる哲学者ジャック・ブーブレスが『アナロジーの罠-フランス現代思想批判』(新書館)において、特にレギス・ドブレなどが社会や共同体の問題に対して何の前提もなくゲーデルの定理を濫用している点を指摘したわけだが、この批判が丸々この時期の柄谷行人にも当てはまるのである。

 

ゲーデルの定理は、所謂「自己言及のパラドクス」を論じる趣旨の定理ではない。また、人間の理性の限界や人間機械論への反駁を決定づけたものとして理解すべきものでもない。

 

人間の理性一般における限界を明らかにしたという受け取り方をした有名人は、物理学者で原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」の責任者でもあったロバート・オッペンハイマーである。頭脳明晰でかつ博覧強記で高名なオッペンハイマーともあろう知性がこのような受け取り方をしたのは故のないことではなく、当時は数学者ヒルベルトが抱いていた基本的な考え方が数学者・物理学者の想念を覆っていたからであろうと思われる。

 

その基本的な考え方とは、数学の真なる命題は、例えばホワイトヘッドラッセルによる『プリンキピア・マテマティカ』の体系といった、ある公理系で証明可能であること及び形式化された数学の無矛盾性が、素朴な組み合わせ論的な議論で出来るという考え方だった。しかし後世、こうしたオッペンハイマーのような受け取り方が伝播し、ゲーデルの定理についての誤解を生む温床ともなったことを指摘しておかねばならないだろう。

 

ゲーデルの完全性定理は1930年のPh.D論文「論理的関数計算の公理の完全性」によって証明されたわけだが、これはヒルベルトとアッケルマンが残した未解決問題に解答を与える形式で示され、一階述語計算は完全であることを疑問の余地なく証明してみせたものだった。それに対して、翌年に書かれた「プリンキピア・マテマティカおよび関連する諸体系の形式的に決定不可能な命題についてⅠ」において、第一不完全性定理を証明した。この論文でゲーデルは、『プリンピキア・マテマティカ』の形式的体系を考察して、もし体系がω-無矛盾であれば、すなわち、いかなるA(x)に対してもA(0),A(1),A(2),・・・の全てと¬∀xA(x)とがその体系内で証明可能でないならば、φと¬φのいずれもその体系では証明できないようなある算術的命題φが存在すること、および、もし体系が無矛盾ならば、その無矛盾性を表明していてしかもその体系内では証明できないある算術的命題が存在することを証明した。

 

体系の無矛盾性を表明する算術的命題をどう見出すかについてゲーデルが採った考え方を知るためには、メタ数学の算術化について確認しなければならないだろう。メタ数学の算術化は、基本的な記号を自然数で表現する。そうすると、論理式と証明が自然数列と自然数列の系列により表現される。有限の自然数列をすべて枚挙することができるので、論理式と証明をそれらの「ゲーデル数」と呼ばれる自然数を使用して異なる論理式や証明を異なる数に対応するように表現することができるようになる。「ゲーデル数」という概念の画期的なアイディアである。

 

「xは論理式である」、「xは証明である」、「xは証明可能な論理式である」といったメタ数学上の性質は、対応関係におけるゲーデル数xについての算術的な式によって表現できる結果として、その体系の無矛盾性を表明する算術的な命題が存在することになるはずだというものである。

 

このアイディアとカントルの対角線論法とを併用することで不完全性定理を証明したわけであるが、ここに見られるゲーデルの「形式的体系」とは、二つの意味で用いられていることがわかる。一つは形式的体系を意味のない記号列に関する規則として、もう一つは形式的体系内部でメタ数学を遂行するのにその数学的意味が用いられたというものである。

 

ゲーデルのもたらした結果は、どのような数学的命題をとってもその命題またはその否定がその体系内で証明可能であるように数学を形式化する公理論的理論が存在するとの信念が誤りであることを証明したということであって、数学に対する無矛盾性のある種の有限的な証明を見出す可能性を否定するものでは決してないということである。結局、ゲーデルの定理は、初等整数論が整合的であるならばその肯定も否定も定理では証明できない式が存在することを主張するものであって、ゲーデルの定理そのものは真であり、自己言及性に絡むものであっても決して一般的な「自己言及のパラドクス」なるものを抱懐した定理というわけではないのである。

 

「論理体系は必ず不完全であり、いかなる論理体系であろうとも全ての真なる命題を証明できない」などということすら意味しない。不完全性定理とは、極めて特殊な高階述語論理で体系づけられる数学の命題を表せる非常に強い論理体系においては証明不可能な命題を見つけ出すことができるという定理なのであるから、self-referenceの一般的不可能性を意味するわけでも何でもないのである。

 

ゲーデルの定理に関する柄谷行人の完全な誤解に基づいたこの時期の思考を下敷きにして「ゲーデル脱構築」が云々と言っていた東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』(新潮社)は、議論の初めから疑似問題と格闘していた茶番というべきかもしれないのだ。

 

ゲーデルの定理自体から離れて、では「自己言及性」が主題化されないで済むのかと言われれば必ずしもそうとも言えない。我々が物理的宇宙を考察する場合、数学的表現に置換して記述を行うわけだから、その記述の表現である数学自身を考察するメタ数学や集合論の考察を避けて通ることはできないからである。1903年ラッセルのパラドクスの発見は、数学の基礎を見直す契機となったが、その際にヒルベルト形式主義やブラウアーの直観主義などの立場が提唱されたことは、基礎論関係の書物を繙けば必ず書かれている。

 

ゲーデルの定理は、このヒルベルト形式主義のテーゼである無矛盾性と完全性を理論の健全性の証とする立場を否定する結果となったが、このことは、数学そのものが矛盾を内包した体系であることを含意しない。メタレベルにおいても集合論が成立すると仮定した上で、当の集合論的論理を対象レベルの理論である形式的な集合論に適用しようとすれば、矛盾が生じるというに過ぎない。

 

しかし、メタレベルにおいては有限な操作しか認めず、対象理論の側で無限を扱うということにすれば、矛盾の発生は回避される。但し、そうすれば、対象となる理論の無矛盾性自体が有限な立場では決定不能となる。逆に、対象理論が無矛盾だと仮定すれば、不完全になってしまう。

 

メタレベルでも対象レベルでも有限な立場に限定すれば、無矛盾でかつ完全になる。集合論において無限公理を仮定したり、自然数論において数学的帰納法を仮定するとかしなければ済む話に収まることになる。

 

いずれにせよ、完全に形式化された抽象体系を言語体系や思想体系あるいは社会システムの問題にパラフレーズして論じることには無理があるし、そのような仕事は一人の批評家の手に負えるような仕事ではない(というよりも、そんなことして意味があるのかすら不明だ)。その意味で、この時期の柄谷行人の企ては総じて無謀というか、もっと悪く言えば勘違いからくる空騒ぎだったというこである。

 

それゆえ、この時期の『批評空間』の「共同討議」での柄谷の発言を見ると、いかに陳腐で滑稽な発言をしていたかがわかろう。数理論理学や科学哲学に疎い素人連中に囲まれて悦に浸っていただけというのが実際のところなのである。多少勉強したら、素人ですらそのインチキがわかるほどの乏しい理数系の知識しかないくせに、なぜだかファッショナブル・ナンセンスに「熱病」の如くに魘されていたのは、実のところ柄谷行人のみではなかった。

 

プラザ合意後の円高不況を改善すべく極端な内需拡大政策を行った結果として余剰資金が株式や不動産に集中したために発生したバブル経済に突入した日本社会の浮ついた消費社会の雰囲気に合わせるように、ニュー・アカデミズムという名の非アカデミックな舞文曲筆が「知」の意匠を纏って読者を誑かすといった現象は他にも見られたのである。

 

中沢新一東京大学教養学部助教授任用をめぐる「東大駒場騒動」は、その『雪片曲線論』(中公文庫)などで書かれているコッホ曲線やマンデルブロ集合などの数学の知識が杜撰極まることを指摘する声もあって騒動となり、また折からの東大駒場内部の教授陣らの学内政治的対立もあって、結局中沢新一の東大助教授就任はお流れになり、中沢を推薦した西部邁は東大教授を辞し、中沢は著名な刑事訴訟法学者であった渥美東洋が仕切る中央大学総合政策学部に職を得ることになったわけだが、この騒動も同じ文脈に位置づけて理解することができるだろう。

 

こうした時代の「熱病」から覚め、ファッショナブル・ナンセンスの路線からまともな道に軌道修正するきっかけとなった著作が、『トランスクリティーク-カントとマルクス』である。この点、誰も指摘しないのだが、この書が岩波書店から再刊されたという点に着目すべきではないかと思われる。その後の柄谷は岩波書店との関係を密にしていき、主要著作を岩波から出版するようになる。これまで柄谷は岩波系とは無縁だったはずだ。岩波系知識人の一人だった中村雄二郎を中心とする「へるめす」グループに対しても批判的であった。このことを指摘する声が少ないのは驚きだ。

 

後期ウィトゲンシュタイン問題としての「教えるー学ぶ」関係の背後にマルクスの「売るー買う」関係を重ねて読み込む『探究』から離陸して、カントの読解を通してマルクスを読み直し資本主義の超越論的批判へと赴く作業が、この『トランスクリティーク』のモチーフである。カントの超越論的な「垂直的」なものすなわちトランスセンデンタールなものと、マルクスの「交通」の横断性といった「水平的」なものすなわちトランスヴァーサルなものを重ねるパララックス・ビューな試み。

 

そこで問われていたことの一つは、フーコーが近代的主体の特質として提示した「経験的主体と超越論的主体との二重体」の問題でもある。柄谷が言わんとしたことは、こうした経験的なものと超越論的なもの、すなわちオブジェクト・レヴェルとメタ・レヴェルの垂直的関係は横断的なトランスヴァーサルな関係あってこそなのだということであって、読み方如何ではドゥルーズのカント批判とも重なる面が見られる。

 

柄谷は、そこに宇野弘蔵の原理論に見られるようなヘーゲル的循環の論理には還元されない歴史における偶然的所与性を発見することこそがマルクス唯物論の要諦であることを示唆しているとも読める。これはこれで一つの卓見であって、後に熊野純彦が『マルクス資本論の思考』(せりか書房)でも指摘してたことでもある。

 

その後柄谷は、その豊富なマルクス読解の経験を総括するかのように『世界史の構造』(岩波書店)を世に問う。柳田国男論と併せてこの時期の柄谷行人の代表作だ。現在に連なるこの仕事の意味がはっきりしてくるのは、もうしばらくしてからだろう。

 

「文学においては新古今を頂点とし、政治においては尊皇派、宗教においては神道」という立場の僕は、終局的には柄谷とは相容れない立場になろうが、最近の柄谷は読んでいて為になるので、無視を決め込むことはできそうもない。『世界史の構造』は半分ほど流し読みしただけで後は放りっぱなしなので、きちんと腰を下ろして再読しなければならないと思っている。