shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

国際政治学の貧困と「御用学者」

 今から3年ほど前に、国会で可決した平和安全法制整備法をめぐる国会前での反対派のデモがマスメディアで大きく取り上げられていたことは、記憶に新しい。中でも、この法制を危惧する「SEALDs」を中心とする大学生等の若者の行動が目立った。おそらく、「3.11」以後の「脱原発」運動あたりから、これまで「政治離れ」していたと言われた若者が声を上げ始めたことの延長現象とも見られる。もっとも、「若者」が「大人」に比べて政治意識が著しく乏しいというのは、おそらく俗説だろう。

 

 確かに投票率だけ見ると、20代の投票率は上の世代に比べて低いかもしれないが、20代の場合、大学を卒業して「社会人」になるのは概ね22歳であり、その分直接的に政治経済問題に直面する機会が少ない学生時代の分を差し引いて考えるべきだろうし、投票率の高さがすなわち政治意識の高さを意味するのか疑問であるからだ。例えば、新興宗教の信者が動員されるがままに投票行動する様を見て、それが政治意識の反映と解するわけにはいかないだろう。あるいは、過疎地の中には、町会ごとで投票する候補者を決めてから各自が投票するという妙な政治慣習を持った地域だってある。言われるがままに投票行動する「大人」が、果たして政治意識が高いと言えるかは、ちょっと考えればわかるだろう。

 

 いずれにせよ、現在や将来における自らの生活がおかれる境遇を考えると、国会で議論されている議題が実は密接に関係していることの実感を伴って理解され始めたことが一因だったのだろう。既存の政党や労働組合の動員だけからなるデモではなく、組織的背景を持たない「若者」たちが個々の立場から声を上げ始めたことがSNSやマス・メディアを通じて拡散され、それがきっかけとなってごく普通の会社員や主婦をも巻き込んだ「国民運動」として盛り上がっていき、それに呼応するように、労働組合や政党も次々と運動に参画するようになっていったというのが真相ではないか。特定党派の指示によって動員されたとする意見は、事態を正しく見ていないと言うべきだろう。

 

 「SEALDs」の中心メンバーの明治学院大学の学生だった奥田愛基が、「民主主義を守れ!」、「立憲主義を蔑にする安倍政権打倒!」などと国会前や首相官邸前などで主張する姿がクローズアップされ、半ば市民運動側の「ヒーロー」として祭り上げられることもあった。対して、この法制に賛成する者たちの中には、奥田愛基個人を誹謗中傷する者もいて、ネット上には読むに堪えない罵詈雑言が溢れかえった。また、安倍政権を擁護する意図を持って登場したとしか思われない言動を普段から弄しているジャーナリストや評論家あるいは研究者の類が、この一人の大学生を槍玉にあげてこの運動を戯画化するかたちで攻撃したり、あるいはデモの中に「民主青年同盟(いわゆる「民青」)」という日本共産党系の団体の一員が参加していた一事を以って共産党系のデモであると揶揄したり、酷いケースだと中核派革マル派といった極左暴力集団の一味と同視するような非難を浴びせかけるなど、フェアでない批判キャンペーンが展開されもした。もっとも奥田は、そういう反応が出てくるであろうことは百も承知で活動しているわけだろうから気にかけないのかもしれないが、おそらく奥田の政治的主張に同意できない点が多々ある僕のような右翼の立場から見ても、奥田糾弾キャンペーンの醜悪さは際立っていた。立場は真逆ながらも、義憤にかられて思わず奥田の活動を支持していたことを思い出す。

 

 とはいえ、その意見には一つの錯綜が見られたことも確かだった。もちろん、発言の一部のみしか知らないので、ともすれば僕が彼の主張の趣旨をつかみ損ねているのかもしれない。だから、あくまでメディアを通じて知った主張内容という限定がつくわけだが、その錯綜とは、反対の対象が(1)集団的自衛権行使を限定的に可能とする法制そのものなのか(政策論上の問題)、(2)現行憲法の解釈として違憲の疑いが濃厚な法制についての審議が十分に尽くされずに国会で強行採決されてしまうことへの立憲主義の観点から見た問題点なのか(法解釈論上の問題)ということである。要するに、政策論上の問題と憲法解釈論上の問題がごっちゃになっているのである。

 

 もちろん、この混同は奥田にのみ見られる問題ではなく、この法制に賛成する者にも見られた。大雑把に整理すると、4つの立場が考えられる。①安全保障の観点から、集団的自衛権行使の限定的容認は必要であり、かつ憲法解釈上もこれを容認する法制は憲法違反にならないと解する立場。②安全保障の観点から、集団的自衛権行使の限定的容認は必要だが、憲法解釈上違憲の疑いが濃厚であると解する立場。③集団的自衛権行使の限定的容認は不要であるが、憲法解釈上許容されると解する立場。④集団的自衛権行使の限定的容認は不要であり、憲法解釈上も許容されないと解する立場。安倍政権や安倍政権の決定を支持する立場は①の立場であり、それに反対するのが②から④までの立場である。③の立場は論理的にはありうる立場だが、実際に③の立場を採る人を見たことがないので、ここでは②と④の立場だけ取り上げておけばいいだろう。

 

 デモ隊の大多数は左翼だったので、④の立場の者が多かったのだろうが、あそこまで盛り上がったのは、④だけの立場にとどまらず②の立場の人も包摂しうる可能性を持っていたからであろうと思われる。②の立場の者は、安全保障上の必要性に関して集団的自衛権行使を認めることが必要であるものの、現行憲法解釈上認められないことは明らかなので、もし集団的自衛権の行使容認に踏み切りたければ、現行憲法を改正する手続きを行うことを先決すべきとする立憲主義的理由による反対を表明するのである。

 

 反対する憲法学者は、もちろん④の立場の人も多かろうとは思うが、しかし露骨に④の立場を主張するものではなく、(2)に関して研究者としての立場から所見を述べていたにすぎない。したがって、その所見は④だけでなく②の立場をも包含するものであった。ところが、反対者に対する批判は、専ら④の立場にのみ批判を向けていて、②の立場の者を説得する批判になっていなかった。再度確認すると、(2)に関して当該法制に反対している者は、④だけでなく②もそうなのである。②は、安全保障上の必要性に関する主張に関係なく、専ら違憲の疑いの濃厚な法律を成立させることに対して立憲主義の観点から反対していたのである。

 

 対して、国際政治学者なかでも安全保障に関する研究に携わっている者の多くは、安全保障上の必要性の観点から集団的自衛権行使の容認をすべきという意見を表明していた。つまり(1)に関しては、②の立場と共通している。賛成するには(1)と(2)の双方をクリアしなければならないが、(1)に関して正当なことを論じても、(2)に関しては説得的論理を持ち合わせていなかったのである。要するに、法律論と政策論とがごちゃごちゃになって議論されていたのが、あの当時の我が国の世論の混乱だったわけである。

 

 そこで、(2)に関してクリアしようと、憲法学者の中でも百地章西修などが解釈上容認できると主張し、国際政治学者の中からも坂本一哉のように憲法解釈論上も許容できると主張する者が現れたわけである。何度も報道でも取り上げられたことだが、憲法解釈としてこの法が違憲の疑いが濃厚と考える憲法学者内閣法制局OBそして元最高裁判事ら法解釈の専門家は大多数を占めており、アカデミズムにおいて相応の業績を残し評価もされている学者でいうならば、圧倒的大多数が違憲の疑いが強いと考えている。憲法解釈学を生業とする研究者の中で、百地や西のような解釈を主張する者はかなり少数であるのが事実である。

 

 国際政治学者の中には奇特な解釈を持ち出して合憲を主張する者もいたが、解釈上かなり無理筋のものであった。その主張内容とは、いわゆる砂川事件最高裁判決の文言を取り出し合憲論をぶつという、多少法学を学んだ者ならばよほどのアホでない限り犯さないであろう誤った議論である。しかし、これは解釈論として破綻している。砂川事件日米安全保障条約に基づく米軍の駐留が争点になった訴訟であって、集団的自衛権の行使を認められるか認められないかが争点になった訴訟ではないので、そもそもどう取り繕っても合憲論の論理にはなりえない。のみならず、彼らが持ち出す判決文の一部は、判決主文を導き出すための中心的な理由を構成するレイシオ・デジデンダイとはなっていない。

 

 法解釈学には独特の解釈のための技法があって、相応の訓練を積む必要がある。また論理だけでなく、具体的妥当性ある結論を導き出すための経験も重ねていく必要もある。我妻栄が言ったように、法解釈において重要なのは、一般的確実性を重んじつつも具体的妥当性に配慮した解釈の技術であって、そうした訓練を十分に積んだ法解釈の専門家の知性を舐めてはいけない。憲法学者の議論は、国家の安全保障論上の必要性に関する議論とは直接関わりのない専ら憲法解釈上の許容性に関する議論(2)であったわけだが、生半可な知識で砂川判決の文言を持ってきて嬉々として合憲論を国会の場で専門家として発言するような真似を、国際政治学者はすべきではないだろう。

 

 安全保障政策にも関わる国際政治学者は、憲法学者の場合と違って、(1)の問題を強調するから賛成派が多数であるという。その理由は、中華人民共和国の露骨なまでの膨張政策に伴う安全保障環境の急激な変化や、北朝鮮、ロシア、中華人民共和国といった我が国の周囲の核保有国に囲まれた地政学的リスク、その上、北東アジアの軍事的均衡状態が徐々に不安定化していく中で、米国との同盟関係を強化することが我が国の安全保障上有益であるとの判断が背景にあるからだ。その危惧が背景にあるからこそ、集団的自衛権行使を容認し、日米のパートナーシップを強化することで対外的抑止力を高める狙いがある。安全保障論からすれば、別に珍妙な理屈を弄しているわけではない。

 

 結論から言えば、集団的自衛権行使の限定的容認は、憲法解釈上許容される範囲を逸脱しているがゆえに違憲が強く疑われ、これを国会で可決したことは立憲主義にとって大きな禍根を残すことにつながる。今後、当該法制に関する具体的事件が発生し、裁判所において憲法判断が下される機会が訪れようものなら、違憲の判決が下される可能性がある。他方で、日本をとりまく安全保障環境は深刻化しており、特に中華人民共和国の覇権的膨張政策は直接・間接に我が国の安全保障上のリスク要因になるだけでなく、経済的にもカントリー・リスクとなって跳ね返ってくる恐れも否めないことから、当座は米国との安全保障上の緊密な関係を維持しつつ、迫りくるリスク要因に対処するための防衛力の強化・整備は不可欠であって、そのための集団的自衛権行使の限定的容認の必要性はある。したがって②の立場に立つ。そうすると、考えられる道筋は、真正面から憲法改正の手続きを踏んで国民の意思を問うことが先決であり、その上で中途半端でない法制を整備するという手順を踏むべきとなる。

 

 我が国の国際政治学は、欧米のそれとは全く異なる様相を呈している。特に米国では大学のみならずシンクタンクが充実しているので国際の政治経済状況に関する論文やレポートが飛び交い、金融業者の中でも政治的リスク分析のためにその類のものを読まされる機会がある。それを読むと、日本の国際政治学の状況がいかに歪な状況であるかがわかる。戦後日本の国際政治学は、坂本義和に代表される「理想主義」の側と高坂正尭永井陽之助に代表される「現実主義」の側に主として分かれていた時期がしばらく続いたが、いずれも米国の国際政治学の主流とは異質であり、東西冷戦構造の二極構造がアカデミズムにも反映された歪とも言うべき状況が具現化したと言ってもいい。

 

 例えば、高坂正尭永井陽之助などは「現実主義」と括られて理解されているが、米国の国際政治学における古典的リアリズムやネオ・リアリズムには該当しないように思われるし、もちろん「理想主義」と括られる坂本義和リベラリズムであるとも思われない。さりとてコンストラクティビズムにも当てはまらない。国際政治を見る際の基本となる主要パラダイムのいずれにも該当しないのである。

 

 もっともこう見えるのは、僕が国際政治学ないしは国際関係論なる学問分野に関して門外漢だからかもしれないし、日本人研究者による国際的な学術誌に掲載される論文で理論的な仕事と言えるものがほぼ皆無で、あくまで政策論レヴェルでの議論に終始しているからこそ見えにくいという事情も関係していると思われる。それゆえに日本の国際政治学者で「現実主義」を掲げる者が関係する米国の研究者がリアリストではなくリベラリストとされる側で、逆に「理想主義」とされる坂本義和が古典的リアリストの代表的論者であるハンス・モーゲンソーに師事していたという奇妙な関係性が目立ってしまう。

 

 本来、ジョセフ・ナイJr.であったりジョン・アイケンベリーもリアリストではなくリベラリストに括られるはずだ。学者ではないが知日派ということにされているアーミテージにしてもリアリストではない。そして彼らリベラリストこそ、米国の一極的覇権構造の維持に拘り、対日封じ込めや中東の民主化などの米国の覇権を拡張する政策を推進してきた。日本の独立を手を変え品を変え妨害してきたのも、またベトナム戦争イラク戦争といった侵略性が濃厚な戦争を推進または支持してきたのも彼らリベラリストであった。

 

 オバマ政権は核なき世界を標榜し、広島や長崎の式典などに大使を派遣したり、オバマ大統領自ら慰霊訪問をし被爆者団体の代表者との接触も果たしたが、オバマは同時に約100兆円もの予算を新しい核兵器開発に投入する政策決定を下し、更には米国に好ましからざる者の暗殺を命じる国家安全保障覚書に最も多く署名した大統領であることを知らない者たちが、まるでオバマ反核・平和の使徒として好意的に評価するという滑稽も見せつけられたりもした。

 

 こうした米国の動きは、何もオバマの見せかけだけの核兵器廃絶の理念に基づいて起きたわけではない。その背景には北朝鮮によるミサイル発射実験や核兵器保有宣言がある。日本の周辺国で核ミサイルで牽制をかける北朝鮮に対抗するために核武装が必要と考える日本国民が増えることを危惧した米国が、国民の中の反核世論を盛り上げるために、被爆者団体や反核団体に大使館職員を通じてコミットするようになったというのが実際のところだろう。

 

 日本とドイツは米国の潜在的脅威であり、戦後の米国の一貫した方針は何であれ日本とドイツを独立させないという基本テーゼに支えられてきた。中東の人間は米国の偽善に飽き飽きしているので、能天気な日本人よりはリアルな世界認識をしているだろう。逆にリアリストは冷静な分析からの帰結として、米国の経済的覇権の相対的低下によって米国が圧倒的なヘゲモニーを維持することが不可能になりつつある現実を直視し、無謀なベトナム戦争イラク戦争にも反対する者が多かった。ロバート・ギルピンもそうだしケネス・ウォルツもそうだし、スティーブン・ウォルトもそうだし、ロバート・ジャービスやジョン・ミアシャイマーもそうだ。攻撃的リアリズムや防御的リアリズムに関係なく、リアリズムに立脚するリアリストは長期的に米国の覇権低下を加速させることになる無益・無謀な戦争を諫めてきた。イラク戦争は合理的理由のない無謀な戦争であり、現に米国のまともなリアリストが警告した通り、その後の中東情勢は一層混乱の度を増している。

 

 その意味で、ナイやアイケンベリーなどのリベラリストは、結局イラク戦争を支持しその馬脚を現したかのようだった。彼らは米国の措かれた事態を冷静に分析するよりも前に是が非でも米国の世界覇権を維持したいという願望を優先した手前、合理的判断を犠牲にしたのである。ある意味でイラク戦争は、国際関係の研究者としての言説の信用度や深浅度を判定するリトマス紙のような役割を果たしたと言えるのかもしれない。日本で「現実主義」の立場にあると自他ともに認識する者の多くがイラク戦争に賛成してきたし、その際相当無理筋な屁理屈を弄して米国の行動の合理性と正当性を擁護する活動に勤しんでいたことを想起しよう。

 

 米国の「保護領」に甘んじることこそがリアル・ポリティクスに基づく現実的な選択であると言わんばかりの言動を続けてきた。北岡伸一田中明彦から中西寛や坂本一哉や村田晃嗣などに至るまで、こぞって盲目的と言える対米追随外交を宣伝してきた。その主張は、アングロ・サクソンと懇ろにやっていけば済むと言っていた岡崎久彦田久保忠衛のような従米派のそれと変わらなくなっていた。

 

 しかし、こうした主張をする者は、実は米国の「知日派」とされている者に踊らされた主張をしてくれる者として表向き歓迎されているとしても、国務省国防総省のアジア担当者からだけでなく、当の「知日派」からも裏では軽蔑の眼差しにさらされている。どこの国の人間でも独立自尊の志のない者は軽蔑される。リベラリストとされる国際政治学者や「知日派」とされている外交担当者が、実は最も日本を軽蔑しているし、ことあるごとに日本の台頭を抑えてきた。逆にリアリストのウォルツは、殊更日本に関心があるわけではないが、それでも日本と米国の国益が常に一致するとは限らず時には対立することもあるし将来的に国際政治のパワーバランスが変化して米国の北東アジアでのプレゼンス後退という事態に至ればますます国益の対象の不一致は増すわけだから、日本外交が対米追随姿勢を一貫することはむしろリスクを高めることに繋がるという長期的視野に立った判断が要求されるし、そのためには日米同盟を基軸とする当座の方向性は是としても、日米同盟への過度な思い入れを止めてもう少しフリーハンドに近い外交政策を模索しなければならないと言う。

 

 軍事力の背景のない外交などというのは所詮は絵に描いた餅でしかないので、日本もいずれは自主防衛能力の向上に向かわざるを得ず、その際は日本の核武装の選択も視野に入れざるを得ないとも言う。ところが、日本の「現実主義」と呼ばれる国際政治学者や安全保障論を研究する者は、米国が日本の自立に反対していることを知ってか、日米同盟の重要性だけ強調し、自主防衛能力の向上を含めた対米自立を語ろうとは決してしないし、むしろ逆にそうした自立化を求める言説を潰しにかかろうとさえする。日本の国際政治学者にはそうした視点が欠けている、いや少なくとも欠けていると思われても仕方がない主張を展開する者が多く、一層不安になってくる。もちろん短期的に言えば日米関係こそ日本外交の基軸であることに変わりなく、それを無視して「東アジア共同体」などという世迷言に加担するのは論外である。

 

 長期的視野に立った外交戦略を立案できない日本の国際政治学の貧困はそのほとんどが政策論レヴェルでの議論に終始し、国際政治そのものをどういう基本的枠組みのもとで把握するのかとうパラダイムに関わる議論が決定的に不足していることに端的に現れている。日本の国際政治学の現状は、真に理論的と呼べる比較的抽象度の高い研究の層が薄く、外交史や地域研究の研究者がとりあえず国際政治学者を名乗っているケースがほとんどだ。外交問題で覚えがめでたい北岡伸一にしても専門は日本政治史だし、藤原帰一にしても確かに坂本義和に師事し最近でこそ国際政治学者として認知されてはいるが、元はといえばフィリピンをはじめとする東南アジアの地域研究者であるわけで、国際政治理論そのものの研究者ではない。確かに、古典的リアリズム以前までの国際政治学の研究は外交史の研究に偏っていた。モーゲンソーにしたって抽象度の高い理論をものする能力に欠けていた。ウォルツのネオ・リアリズムの登場によって理論的と呼べる研究内容に進化したのは、ごく数十年前の出来事にすぎない。

 

 全く賛同はできないが、アレクサンダー・ヴェントはこのレヴェルにまで踏み込み、Social Theory of International Politicsを著しウォルツの敷いたネオリアリズムパラダイムに挑戦する者の一人となり、最近では近代社会科学のパラダイムそのものを解体し量子論的社会科学なる胡散臭く見えるQuantum Mind and Social Scienceまで書いて基礎的次元から国際関係論の再構成を果たそうとする。日本の国際政治学者にそこまでの仕事を期待をするのは無理としても、国際政治学は歴史が浅いこともあって、学問としての基礎づけの必要を感じて著したウォルツのTheory of Internatinal Politicsのような理論的な仕事がほとんど存在しないことが、政策論レヴェルにおいてもアドホックな主張しかできない日本の国際政治学の貧困を端的に物語っている。だから語られることはといえば、理論的な裏づけのない「床屋政談」に毛が生えた程度の立論しかできないという状態に至る。リアリストであるからこそ、米国のイラク戦争は米国のヘゲモニーの長期的低下傾向を加速させることにしかならないことや、単純な対米追従姿勢は日本の国益を棄損することになりうることへの危機感を表明する者がいてもおかしくはないのに、「現実主義」をうたう陣営の国際政治学者からそうした声がなかったのも、結局彼ら彼女らがリアルポリティクスに立った長期的視点など持たず、徒に対米追従姿勢を強化させる政権の意向を組んで発言しているだけではないのかとの疑念を生んでしまうわけである。

 

 政権と意見が一致するからといって、この研究者を直ちに「御用学者」と断言するのは、もちろん暴論である。それなら、政権の意見に反することを主張する研究者は野党の「御用学者」なのか、と返す刀で斬られるだけの無毛に陥る。では、「御用学者」という言葉は何もかもをタメにする符丁でしかないのかというと、必ずしもそうではない。世間には、特にメディアに頻繁に登場する研究者の中には「御用学者」との疑念を持たれても仕方ない者が、確かに存在するからである。ただ、その識別が難しい。

 

 一番わかりやい例は、政権または政権に近い者から、直接的もしくは間接的な利益が供与された結果、その政権の主張を無理くり屁理屈を弄して肯定する者。こういう者は、研究者よりも評論家やジャーナリストに目立つ。あからさまな擁護を展開する者は、「御用イデオローグ」と言われても仕方がない。但し、このレヴェルの研究者を見つけるのは難しい。次に、研究者としてさしたる業績もないのに、やたらとメディアに露出したり、政府の委員会のメンバーに選抜されている者で、それ以前の主張と比較して、明らかに政権の都合に合う言動が多くなってきた者は「御用学者」と疑われるだろう。ましてや、政治や経済に関連する領域を研究する者が、政権に誘われて会食したりすることは、ただでさえ政権との適切な距離を確保しなければならない職業上の倫理があろうところ、いかにも無防備と言われても仕方がない。

 

 もちろん、政権の側が研究者の知見を参考にしたい場合、会食の場を設けるという選択はあるだろう。今後の我が国の科学技術政策に関して、理論物理学者としての長期的視点に立った意見を拝聴したいと政権が思うこともあろう。その場合、その理論物理学者の研究内容と政権の政策とは直接の関係はない。ところが、政治学や経済学の場合は事情が異なり、ともすればその研究者の研究内容とも直接絡むことが多い。そのことによって学問研究が歪められてしまう危険性は大いにある。だからこそ、用心深く政権には応接しなければないわけだが、そうした用心を欠いたまま政権からの誘いに嬉々として馳せ参じ、その後は露骨な政権擁護の主張を始めたとなると、この者は既に政権に手なずけられたなと疑われても弁明のしようがない。

 

 同じ領域を研究する者の中に自分より業績を持つ者がいるにもかかわらず、なぜ自分が呼ばれるのか、なぜ自分がメディアに重宝されているのかということを深く自省することなく、政権の誘惑に乗せられている姿に対して寄せられる「御用学者」という批判が、故のないレッテル貼りだと反論できるのか。なぜ他ならぬ自分がメディアに重宝され、時には政権から何らかの接触が図られるのか、そこには何らかの思惑が絡んでいるはずだと疑ってかかるのが全うな知識人の態度であろう。特に、広義の政治に関わる研究者には、現実の政治との関係において用心深さが求められる。予想される批判に対して、単に故のないレッテル貼りだと居直るのではなく、そういう疑念を持たれかねない言動をしていないかを再度自省する態度が求められるし、研究領域の特殊性から、特に意識的な政権との距離の取り方を確保することに努めようとしなければならない。そうした態度が見られない者は、「御用学者」と批判されても、おそらく弁明には何ら合理性がないということになろう。

 

 かつてケインズの弟子の女性経済学者ジョーン・ロビンソンは、「経済学を学ぶ理由は、経済学者に騙されないためだ」と諧謔を込めた警句を残したが、「国際政治学を学ぶ理由は、国際政治学者に騙されないためだ」という文句を、特にメディアに露出する政治学者、政府の審議会等各種委員会に召喚され喜び勇んで馳せ参じる政治学者、政権の誘いで会食に招かれて嬉々として呼ばれた政治学者、彼ら彼女らの全てが「御用学者」であるとは断言できなくとも、その可能性が大いにあるということを肝に銘じながら、メディアに登場する姿を用心して拝見しなければならないだろう。