shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

名著復刊

 蓮實重彦『帝国の陰謀』が、ちくま学芸文庫から復刊されていることに今頃気がついたのであるが、この書は日本文芸社から出版されたのが元で、僕の手元にあるのも確か神保町の古書店で売られていた初版本である。本書に関係する『凡庸な芸術家の肖像-マクシム・デュ・カン論』(ちくま学芸文庫)や『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)といった大部の書物と比べてはもちろんのこと、小説を除くその他の蓮實のどの書物よりも薄い書物でありながら、蓮實自身おそらく一際愛着を持って書いた書物ではないかと思われてならない(一番薄い書物は、おそらく小説『陥没地帯』(河出文庫)か『オペラ・オペラシオネル』(日本文芸社)ではないか)。

 

「このとき、『私生児』は、権力の座にとどまり得るなら、それが大統領であろうと一向にかまわないと思っている弱気な『嫡子』に、初めて現実的な決断を促すことに成功する。大統領が真の権力を行使するには、対立する権力機構としての立法府を蹂躙せねばならず、それなくしては、いかなる権力の維持も実践的な意味を持たないだろうし、それが、第二共和国の憲法の不備から導きだされる当然の結論にほかならない。そのとき、陸軍大臣として軍隊を掌握すべき信頼するに足る軍人サン・タルノーを、この義兄弟はすでに陰謀に引きいれている。かくして現実主義者の義弟は、律義なまでに議会制民主主義にこだわる優柔不断な義兄に、皇帝として君臨するしかない必然を理解させることに成功する。近代国家における最初のクーデタとして歴史的な意味を持ち、少なからぬ数の後世の野心家たちに有効なモデルを提供することになるこの陰謀が『父親の名』と『他人の名』にまつわる『双生児』的な兄弟の巧みな連携によって実現されている事実を、ここで改めて思い出しておくことにしよう」。

 

 この一節は、その『帝国の陰謀』にある文章である。文芸批評家の福田和也は、既に廃刊になった文藝春秋の雑誌「諸君!」誌上で、蓮實のこの『帝国の陰謀』の一節を持ち出して「脳ミソに金髪のカツラを」と揶揄したことがあったが、その評価とは逆に、蓮實重彦の著作の中では短くしかも簡便に書かれているものの、その筆致は本書の帯文にあるように、「1851年12月2日のクーデタが開示する20世紀的主題」が華麗な筆致によって描かれており、このような書き物を残してみたいという思いすら抱いてしまうほどの書物。だから先に触れたように、おそらく蓮實重彦自身も愛着を持っている自著なのではないかと想像させられもするのだ。優れた文芸批評家の一人である福田和也だが、この罵倒は全くのお門違いというものだろう(石原慎太郎に対する不可解な高評価には同意できないが)。フランス滞在時に蓮實の博士論文を読んだ際の感想として、日本語での文体とは異質なごく普通のフランス語の文章で書かれたごく普通の内容の論文だったと述べる福田の執拗さと、僕もこうして「諸君!」のバックナンバーまで繰ってこの福田の文章を探し出したことを重ねてみると、随分と暇なことをしたもんだと思わずほくそ笑んでしまう。

 

 『帝国の陰謀』は比較的容易に読めるものだが、この短い書物にはベンヤミンの複製技術の問題系、デリダの署名や散種といった問題系、はたまたドゥルーズの反復とシミュラークルの問題系といった主題で編まれた織物となっており、「フランス現代思想」のちょっとした応用問題を解いている側面もあるが、もちろん面白さはそこだけではない。ちょうど「署名と空間」という発表原稿が確か『Anywhere』(NTT出版)に掲載されていて、『帝国の陰謀』にある主題が簡潔に表現されているので、本書と併せてこの「署名と空間」を読むといいかも知れない。

 

 この書物は、「近代」と呼ばれる特殊な一時期において、ド・モルニーというナポレオン三世具体的な人間によってなされた署名がどのような空間において可能となり不可能になるのかという関心の下、1851年12月2日に起こったクーデタとそこから始まった「第二帝政」が、ことによると20世紀後半に可視化されてきたポストモダンな状況を先駆ける意味を持っていたのではないかという問題を提起する書でもある。このクーデタは、周知の通りマルクスをして『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)における「反復された笑劇(ファルス)」と書かしめたあの事件であるが、蓮實はマルクスですら見逃していた意味を読み取ろうとする。すなわちマルクスのこの断定は、政変によって開示された政治的な空間を支えもする複製技術時代におけるシミュラークルの「祝祭」ともいうべき事態について意識的でないでないという点である。オリジナルの正統性を欠いたいかがわしいイメージが無限に反復されることで現実味を帯びてしまう空間がフランス第二帝政期に出現した。この意味を、あのマルクスでさえ掴み損なったというのである。

 

 かつて松浦寿輝は、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ』(河出文庫)の解説文において、蓮實重彦のテクストを「優雅と贅沢の輝き」と形容していた。また浅田彰は『逃走論』に収録している蓮實の『映画 誘惑のエクリチュール』(冬樹社)の書評において、「反動的な美しさ」と表現していたかと思う。普通の者が真似をすれば、単なる出来損ないの「おフランス野郎」の滑稽に転じかねないわけで、蓮實重彦は安易な模倣を寄せつけない古典的な教養人である。その意味で、この『帝国の陰謀』も、同じく安易な模倣を拒絶する書物になっているはずだ。こうした名著が文庫の形で復刊されることはよい傾向である。特に新しく出版される書物が、残念ながら相当お粗末な知的レヴェルのものが大半なので、過去の名著の復刊によって底上げがなされてしかるべき。

 

 『饗宴Ⅰ』や『饗宴Ⅱ』または『魂の唯物論的擁護のために』などの対談集も絶版になって久しいが、何よりも復刊を望まないわけにはいかないのは、江藤淳蓮實重彦『オールド・ファッション-普通の会話』(中央公論社)である。改築前の東京ステーションホテルにおいて泊りがけで交わされた対談なのだが、これがなんといえばいいのか、後世に生まれた僕が否定しがたい嫉妬の感情を催してしまうほど無性に贅沢さを感じてしまうものなのだ。読んでいる時もほとんど夢見心地でこの二人の知性による気負わない会話の妙を楽しんだものである。今の日本社会に失われてしまった贅沢さが詰まっている書物で、是非とも復刊して欲しい。一度中公文庫で再刊されたが、この文庫本も絶版となってしまった。

 

 山内昌之との対談も結構面白い。UP選書の『地中海-終末論の誘惑』(東京大学出版会)では二人の対談がラストに掲載されているが、その拡張版としてまとまった対談が収録されている蓮實重彦山内昌之『20世紀との訣別-歴史を読む』(岩波書店)も文庫化して欲しいものだし、二人の『われわれはどんな時代に生きているか』(講談社現代新書)も同様。この2つの書物は、「私とは何者なのか」という問いには興味を持たないが、私がどういう時代を生きているのかという問いには俄然興味を示す蓮實重彦山内昌之との対談(前者)と往復書簡(後者)であり、気軽に読めるが決して手抜きしたわけではない二人の対話が楽しめる。最後に、『近代日本の批評』(講談社文芸文庫)も絶版になっているが、これも復刊して欲しい。近代日本の批評の歴史を全体化して捉える一定水準以上の書物はほとんどなく、現在の特に「若手批評家」の全部とは言わないまでも大部分が、近代日本の批評の歴史を全く踏まえていない夜郎自大な低レヴェル作文ばかりを氾濫させるという驚くべき「学力低下」の様相を呈しているこの時代において、最低限のレヴェルを確保したスタンダードな知識を再度提供することは有意義であるはずだからだ。