shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

哲学における一部の流行現象について

 今から8年ほど前になろうか、NHKで放映されていた「ハーバード白熱教室」がきっかけとなって、日本ではちょっとしたマイケル・サンデルのブームが起きたことを覚えている人も多いだろう。ハーヴァード大学での「正義」と題するサンデルによる聴衆との対話を通じた授業が、日本の視聴者の関心を惹きつけたのだろう。あのようなソクラテス・メソッド型の授業は、特に米国の大学の中でもロー・スクールやビジネス・スクールのような専門職大学院で多く活用されていて、しかも教授達は適当なおしゃべりをするというのではなく、講義のために講義時間以上の時間を費やして入念に準備にあたるので、確かに良き教師にかかると充実した授業が出来上がる(もっとも、糞教師が相手だと悲惨なことになるが)。

 

 確かに、サンデルの見解に同意するか否かとは別に、授業の運び方は上手かった。だからだろうか、小説やノンフィクションのルポルタージュなどを読むことが多くとも、哲学や思想系の書などほとんど読まないはずの僕の母親でさえサンデルの著作『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)を読んでいたことに驚嘆した記憶がある。どうやらNHKの番組を視聴していたらしく、書店に平積みになっているサンデルの著書を手に取ったようだった。それから続けて『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房)を読んだらしいが、ロールズの主体像を批判する文脈で論じた「負荷なき自己unencumbered self」批判について、母親はどこまで理解して言っていたのかわからないが、「何だかポイントがズレてるんじゃない?」と疑問を呈してもいた。

 

 僕自身はサンデルに同意できない者であるが、こうした政治哲学が日本でも盛んに論じられるようになったことはいいことかもしれないと思いつつも、同時に日本の哲学者でまともに政治哲学をやっている人が何人いるのだろうかとなると、お寒い状況であるのは今日でも変わらないのが残念。なぜだか、政治哲学を専門とする研究者による鳩山由紀夫礼賛本も出版されたりもした。「友愛」だの何だのと陳腐な演歌の節回しじゃあるまいし、祖父鳩山一郎が信条としていた「友愛」なんぞ、鳩山一郎がかつて何をやってきた人間なのかを見ればそのインチキもわかろうものなのに、歯の浮くようなお世辞を弄するピエロもいた。

 

 政治哲学について云為するには、法哲学に対するのと同様、最低限の政治学・法学の知識が不可欠であり、これを無視した言説は、たとえ「深遠な哲学的思索」のような装いを凝らそうとも所詮は夜郎自大な与太話に終わっていくしかない。特に、日本の哲学研究者が法律や政治学について語る際に陥りがちなのは(哲学者よりむしろ「何でも評論家」と言わんばかりにしゃしゃり出ずにはいられない社会学者に目立つのだが)、明らかな法律や政治についての無知からくる誤解を前提にして立論することである。

 

 法哲学や政治哲学の研究者になるためには司法試験や国家公務員試験を合格しておくべしという意味ではない(もっとも、その程度の知識は必要だと思われるが)。例えば、法現象を哲学的思索の対象として扱うには、実際に法というものがどのように運用されているのかという現象面を捉え、その解釈のための技法にある程度通じておかねばならないという意味である。法解釈は、法典の条文を単に読むことだけからは出てこないからである。法解釈は解釈技法がある程度まとまった形で積み上げられてきているので、尚更である。

 

 ヴィノグラドフ『法における常識』(岩波文庫)を始めとして、ハート『法の概念』(みすず書房)やその批判であるドウォーキン『法の帝国』(未来社)にしても、具体的場面における法の解釈・適用のあり方に対する詳細な記述と分析が見られる。規定文言の意味をどう解釈していくか、裁判所をはじめ法解釈学者が色々思索を練りつつ、いかなる事案にいかなる規定をいかなる文脈で適用していったのか、またそうした事案がどの程度積み重なってきているのか、更には積み上げられた解釈から導き出されたある判例の射程がどこまで及ぶのかといったことの知識は、法典を眺めたところで生まれてきはしないのであって、長い間の解釈の積み重なりを分析する技法なくしてかなうものではない。

 

 だから、法解釈には条文の知識だけにとどまらず、具体的事案を前にした分析・検討を通じた解釈のための訓練が求められる。例えば、民法を少し齧った者ならば誰でも知っているであろう不動産物権変動の第三者対抗要件としての登記について規定する民法177条に関して、その規定文言自体は短いながらも、その解釈をめぐりべらぼうな判例が蓄積されている。更には、所有権の概念をどう解するかという問題にも絡んでくる。こうした判例ないし学説の理解なくして土地法制のあり方について建設的な主張を期待することはできないだろう。自由をめぐる思索においても、その結論の是非についてはともかく、憲法上自由がどう扱われているのかといったことについての最低限の知識を踏まえておかねば、現代日本における具体的な自由について何か言うこともできない。

 

 法学・政治学に不案内な哲学者が目立つことを書いたが、だからといって全ての哲学者が法学・政治学に通じろといっているわけでもない。ただ、これらで扱う問題について専門家として一言なりとも云々したければ、最低限でもある程度の知識を踏まえてくださいよということを申し上げているに過ぎない。もちろん、目立たないが堅実な研究をしている人は僅かながら存在する。しかし、そういう人は商業誌「現代思想」(青土社)などで本格的に取り上げられることはない。

 

 いずれにせよ、こうした政治哲学の書がお茶の間に流通することは決して悪いことではないし、流通するにはそれだけのわけがあってのことであろう。政治や経済の状況が混沌としている最中、身近な税金や年金等の問題を今後どのような方向に持っていくかという問題一つとっても、その背景にある考え方にロールズノージックあるいはサンデルらの政治哲学と密接に関連するわけだから。

 

 ところが最近では、あの当時のサンデルブームはどこへやら。結局、日本の出版業界のマーケティング戦略の一環として仕掛けられたものであったのかも知れない。そういう観点からすると、最近のマルクス・ガブリエルを推した出版業界の動きは、本を売らんがためのマーケティング戦略でしかないのだろう。早々に忘れられていくだろう。

 

 我が国だけに当てはまる状態ではないにしても、とかく流行に流されやすい日本の思想シーンにおいて、ある種の「スターシステム」が出版業界を維持してきた側面もあるし、また味をしめた出版業界が無理繰りにでも「スター」を作り出すというマッチポンプの意図的に作られた流行現象の一つである。その売り出し方からして、そうした側面を如実に現している。いわく、「最年少でボン大学の哲学教授に就いた人」というキャッチフレーズで売り出し、それが学校歴信仰と若ければ若い方がいいという故のない思い込みが蔓延する現代日本社会で受け入れられる理由ともなっている。

 

 しかし冷静に考えてみると、哲学の教授に最年少で就任することが哲学者としての優秀さを証しているわけではないし、十代の半ばで大学の哲学教授に就きたいと願う者の哲学など底が知れるというものではないだろうか。

 

 蓮實重彦が、かつて『「知」放蕩論序説』(河出書房新社)において、十代のガキがいきなり哲学者になりたいなんて言っていたら、そんな奴はぶん殴ってやればよいと述べていたが、至言というべきではないか。実際、正味の内容はといえば、さして重要な新規な思考が展開されているわけではなく、ただ自然主義化の隆盛の中で学問の主役の地位を喪失したばかりか増々脇役に追いやられてしまっている哲学の衰退期に対抗し、無理やりでも哲学の復興を宣揚したいという意図が露骨に感じられることは確かだ。

 

 グレアム・ハーマンとの対談では分析哲学や大陸系哲学との分断が議論されていたが、ここで言われる分析哲学の姿がかなり矮小化され実証主義と同義であるかのように語られているかに読めてしまう箇所もあれば、特にこれはハーマンの方に言えることだろうが(この対談を読む限り、ハーマンに関しては「こいつはダメだな」と思う)、分析哲学への対抗心のあまりその「断絶面」を強調しすぎるきらいがある。

 

 マルクス・ガブリエルは、もちろん分析哲学総体を批判しているわけではないし、分析系と大陸系と二分して哲学を捉える愚は犯していないとは思うが、自然主義化の方向性に対して異議を唱えていることははっきりしている。

 

 ただ分析哲学は、必ずしも認識論や存在論における自然主義化を主張する立場もあれば反自然主義の立場もあるわけであって、いわゆる「分析哲学」と一枚岩で語れるべきものなのか甚だ疑問である。

 

 そもそも分析哲学の始まりにおいては、むしろ反自然主義的な立場の者の方が多かったのではないか。ムーアやウィトゲンシュタインは反自然科学ではなかったが、自然主義や科学主義には抵抗を示していたし、アンスコムも明らかな反自然主義であった。論理実証主義に対する広範な批判を展開したのも分析哲学内部から沸き起こった批判だった。

 

 クワイン論理実証主義には反対したが、認識論の自然主義化を主張した。ダメットだって決して自然主義や科学主義にコミットしたわけではなかった。自然主義や科学主義に強くコミットしている哲学者ももちろん増えてきてはいるが、では彼ら彼女らがライヘンバッハがそうであったような強力な科学主義者であるかというと、なお慎重な判断を要するだろう。強いて共通性を挙げるとするなら、分析哲学とは一つのテクストを半ば「聖典化」し、逐語解釈で満足する文献学に拘泥するのではなく、何が哲学上の解明を要する概念的問題であるのかを見出だし、その問題に対して論理を一つ一つ積み上げていくことによって当該問題の解決にあたろうとする態度であって、その際、とりわけ言語によって表現される命題の構造や意味に対して意識的に配慮することになるので、当然にその分析が目立つ傾向にあるが、「分析哲学学派」なる集団があるわけではない。分析哲学といっても、とらえどころのない面があるとの言葉も残しているので、さすがに一枚岩の把握はしていないものと思われるが。

 

 科学的実在論を批判する科学哲学者ファン・フラーセンによる分析的形而上学批判も一言触れられているが、彼の批判の基軸になっている構成的経験主義については触れず、一体ファン・フラーセンの批判の趣旨がどこにあるのかがわかっているのか首を傾げざるをえない表現もある。しかも、分析哲学そのものではないが分析哲学的支軸を持ちつつ科学哲学を展開している論者に対する目配せがまるでない。一部の論者がブライアン・グリーンやスティーブン・ホーキングによるポピュラーサイエンス本にある物理学の理解に基づいているなどと言うが、それが当てはまるのは例えばドゥルーズなどであって、先端を走る広義の「分析系」の哲学者には当てはまらない。ドゥルーズは重要な仕事をなした哲学者であるし、僕も好きな哲学者の一人であるので、決してドゥルーズを貶す意図はないのだが、ドゥルーズの数学や自然科学の知識は、相当な部分においてプリゴジーヌとスタンジェールによるポピュラーサイエンス本から取り込んだ知識の受け売りのような表現が多く、実際のところ数学や自然科学の知識はさほど深くはないものと見受けられる。もちろん、そのことがドゥルーズの哲学を低評化する理由にはならないだろう。

 

 だからカブリエルが、結局ここで誰を想定して言っているのが不明なのである。そのことは、例えば科学哲学が科学的実践と無縁な状態で営まれているという表現から、彼がある一群の哲学者たちの営為を知らないのか、都合が悪いので意図的に無視しているのかがわかる。彼はジョン・アーマンの論文を読んだことがないのだろうか。あるいはジェレミー・バターフィールドとクリストファー・アイシャムの共著論文を読んだことがないのか。さらにはデイヴィッド・ドイッチュやデイヴィッド・ウォレスとの共同研究を知らないのだろうか。全くの素人である僕ですら知っているし、全部ではないにしろ一部は目にしてその抽象化が厳密な仕方で遂行される思考の鋭利さに驚嘆させられるわけだが、そうした自説にとって不都合な存在には目をつぶっている。読めないから適切な評価ができないのかもしれないが。

 

 認識論や存在論における全面的自然主義的理解に抗する意図は理解できるが、しかしそれが哲学者の経験的諸科学の無知に対する居直りになっては元も子もない。自然科学や社会科学の動向を一顧だにせず、ひたすら思弁だけで存在論や認識論の問題を解明できると考えるなら、それは独善的な傲慢な態度でしかない。自然主義に与するか反自然主義に与するかとは関係がない。行為論を展開するにしても、反自然主義的立場から自然主義化して行為を理解する立場に対して反駁するには、当然脳科学認知科学がどういう見解に立って行為全体を捉えているのか、またそこには概念の扱いとして見逃せない問題点を抱えていないかについての適切な見識を持たなければ話にならないわけである。

 

 存在論や認識論だけでなく倫理学においても、道徳哲学から派生した経済学との関係を完全に無視して功利主義の現代的展開を考えることなどできるはずもないし、国際的な正義論を展開するにしたいとして、その者がアマルティア、センの潜在能力アプローチとかに対して全くの無知ならもはやお笑い草であろう。現代功利主義の分析でパレート効率性を無視する議論など実りある功利主義の研究になるわけがない。形而上学は自然学との緊張関係において意味をもつし、形而上学なき自然学も自己完結できるわけではない。究極的な問いの場面で両者は邂逅せざるを得ないからだ。

 

 哲学が自己完結した学知であるかのように振舞ってこられたのは、ひとえに制度的理由からである。ヨーロッパの大学で一つの専攻として細分化された諸学の一部門として制度化されて生き残ってきたからだ。しかし本来なら、哲学を専攻する者は哲学だけを学ぶのではなく副専攻として他の学問も併せて学ぶようなシステムが望ましいように思われるが、果たして日本の哲学研究の現状がそうした変化を容認するだろうか。

 

 学問が細分化した今日、難しい要求かも知れないが、哲学が何ほどか人類の知に対してアクチュアルな刺激をもたらしていくことを志向するならば、自閉的な状況のままだと不可能だろうし、この自閉的な状況に居直るなら、制度的に守られたごく一部の閉域において営まれるだけの実のないものになってしまいかねない。哲学という人類の知の歴史において長い伝統を誇る学知は、その占める地位は低下しているとしても重要な役割を果たしてきたし、これからも一定の役割があるはずだが、自閉的なあり方に甘んじるならそれすら不可能になってしまうだろう。