shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

日本は、ふさわしく遇してきたか-渡辺恭彦『廣松渉の思想-内在のダイナミズム』(みすず書房)を読んで

この題は、平成6(1994)年の秋に、大江健三郎ノーベル文学賞受賞が発表された直後に、蓮實重彦が「朝日新聞」夕刊の文芸時評に寄稿した文章の題をもじったものだ。蓮實重彦は、大江健三郎の作品の質からすれば、このような栄誉がいつ訪れても不思議ではなかったとする一方、当然の受賞が現実のものとなった今、果たして日本は大江健三郎の文学的業績をそれに相応しく遇してきたのかと問い、その返答は勢い複雑なものとならざるを得ないと述べていた。確かに、東大の五月祭賞をとった『死者の奢り』を皮切りに、在学中に『飼育』で芥川賞を受賞、その他谷崎潤一郎賞など国内の文学賞をほぼ総なめにしただけでなく、モンデッロ賞やユーロパリア文学賞など海外の文学賞に輝くなど、少なくとも20世紀後半から21世紀前半にかけての現代世界の中で最高峰に位置するその業績だけを見れば(今の日本において、大江の文学的才能に匹敵する小説家は皆無であることくらい、文学者でなくとも断言できる)、その作品の質は、国内外の文壇から正当に評価されてきたと言えるかもしれないが、現代との緊張関係において発揮されるべき真価をそこから読みとろうとする意思が、今の日本社会には些か欠けており、その意味において、大江健三郎は孤独な闘いを強いられていたのではないだろうかと言うのである。

 

このことは、(大江のように、世界最高峰に位置しているとは思わないが)廣松渉にも当てはまるのではないかと思われる。確かに廣松渉は、既存のマルクス解釈に異議を唱える先鋭的学者としてアカデミズムに颯爽と登場し、哲学史に関する該博な知識に裏づけられた独自の哲学体系を打ち立て、制度的にも、大森荘蔵の後任として東京大学教授に就任して科学史科学哲学研究室を主導していく立場にまで登り詰めた経歴を見れば、表面上アカデミズムは、廣松をその業績に相応しく遇していたかに見える。東大というアカデミズムの牙城に包摂されてしまったがゆえに、廣松哲学の「狂暴性」が換骨奪胎され、悪く言えば、人畜無害化してしまったと捉える人も中にはいる。必ずしも全面的に同意できるわけではない評だが、廣松渉の哲学を革命を志向する哲学という側面から見るならば、そうした指摘も強ち的外れというわけではないだろう。

 

概して、大学人の書き物は詰まらないものが多い中、廣松渉の著作は、幾多の日本の講壇哲学研究者の著作と比べると遥かに面白いし、そう読めるように仕組まれてもいる。しかし、本当にそれに相応しく遇してきたと言えるだろうか。なるほど、廣松の事実上のアカデミズムにおけるデビュー作『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房)は、アカデミズムを超えて広範な読者に迎え入れられたし、『マルクス主義の地平』(勁草書房)も、旧ソ連公認学説と化していた弁証法唯物論哲学や、反対の初期マルクスの哲学的営為に見られる人間主義的な主体的唯物論双方に異を唱える斬新な解釈を提示し、これまた多くの一般読書人に読まれた。アカデミズムの者以外誰も読まないという圧倒的多数の哲学研究書とは、当初から趣が違っていた。

 

また、疎外革命論批判に端を発した「疎外論から物象化論へ」のテーゼが、新左翼運動に多大な影響を与えたことも確かだろう。更には、廣松哲学体系の根幹をなす共同主観性論や関係の第一次性に基礎づけられた「事的世界観」に対して、一定の哲学者からの応接はなされてきた。しかし、これだけの体系を打ち立てた哲学者の割には、とりわけその主著『存在と意味』に対する反応はイマイチであって、現在の哲学思想シーンでこの路線を発展的に継承するなり批判的に継承するなりの動きがあまりないというのが気になっていた(『存在と意味』第一巻が出た当初は、東大生協の書店で売れに売れたようだが)。

 

廣松哲学を構成する一部である物象化論に対しては、特に党派的な立場からの批判が展開されてきた。、日本共産党系の知識人も、廣松哲学に対して「主観的観念論」と、誤読も甚だしい批判をぶつけたりもしてきた。中には、師である出隆と同じく日本共産党員であった岩崎允胤による「盲動集団ブントの理論的支柱で主観的観念論哲学の主唱者」という罵倒すら見られた。もっとも、この共産党員の哲学研究者は、廣松哲学のみならず、自身が信奉するマルクスレーニン主義哲学(ある日を境に、日本共産党は「マルクスレーニン主義」という言い方を辞めにして、「科学的社会主義」という表現に改め、そこからは岩崎も「科学的社会主義」という言い方に改めた。わかりやすいと言えば、これほどあからさま人物も珍しい)以外の近現代哲学に対しては「観念論」のレッテルを貼って葬り去るのだ。分析哲学論理実証主義だと一括りにした上で、これらをまとめて観念論哲学だとして一蹴するなど、現代哲学の歩みに対する誤認が酷く、哲学者としてはあるまじき噴飯モノの罵倒を繰り返すのみであった。『弁証法現代社会科学』(未来社)や『現代社会科学批判―経済学と哲学の接点』(同)における確率論の理解など、まあ酷いことこの上ない。とにかく、日本共産党系の研究者による廣松哲学に対する一知半解に基づく非難は枚挙に暇がなく、山科三郎『日本型トロツキズム』(新日本出版社)や、榊利夫『現代トロツキズム批判』(新日本出版社)など酷い代物。ちなみに榊利夫は、パトリス・ルムンバの著作を翻訳しているが、旧ソ連のパトリス・ルムンバ記念民族友好大学(クートヴェ)は、共産主義テロリスト養成校としてもしられていた学校であった。

 

共産党系ではないが、例えば、黒田寛一を精神的指導者とする新左翼セクト革マル派」は、旺盛に廣松批判をしてきたし、廣松死後かなり経ても、廣松の薫陶を受けた熊野純彦を批判する形を借りた『<異>の解釈学-熊野純彦批判』(こぶし書房)を通して廣松哲学批判をしていた(熊野は、この書に対して黙殺するより他なかっただろうと想像する。廣松の愛弟子の一人とは言え、廣松のようにブントにコミットするなど政治的主張をするような人物ではないので、21世紀にもなって、妙な党派論争に巻き込まれるのは御免蒙りたいといったところだろう)。今では、相当な希少種とも言える北朝鮮の独裁体制を正当化するイデオロギーに過ぎないチュチェ思想を奉じる鎌倉孝夫のような人からも、廣松に対する批判がなされてきた。チュチェ思想を支持して、廣松哲学を批判するとは、一体どういう頭の構造をしているのか理解不能だが、ここでそのことを追及しても仕方ない。もっとも、それなりの業績のある研究者が突如として新興宗教に入れ込んでしまう事例は存在し、滝沢克己がそうであったように、鎌倉も宇野弘蔵の学派に属する研究者としてそれなりの業績があるのに、こと北朝鮮となると、豹変してイカれたことを言うものだから、その類だったのかもしれない。チュチェ思想に入れあげた研究者は日本国内に僅かながら存在し、鎌倉の他にも、井上周八などが存在する。北朝鮮から勲章をもらい、記念切手にまでなっている人物なので、相当チュチェ思想イカれちゃった口なのだろう。

 

他には、廣松版『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)に対する平子友長ら一橋大学系統の者による批判もなされてきたし、平子と学問的師弟関係にあると思しき佐々木隆治『マルクスの物象化論-資本主義批判としての素材の思想』(社会評論社)も、哲学的認識論にひきつけ過ぎの感のある廣松の物象化論理解に対して批判を展開している。佐々木の批判は、平子友長など一橋系統の一極をなしていると言えるだろう。一橋大学社会学部という所はある意味特殊な所で、その特殊性は、日本共産党の党員やそれに極めて近い関係にある者が相当数存在した、イデオロギー的偏向性が顕著な所であって、その意味で、一橋大学系統の研究者と、新左翼の「ブント」に近い立場にあった廣松渉との相性が悪いだろうことは容易に想像できる。

 

廣松渉にしても宇野弘蔵にしても、戦後日本のマルクス主義を代表する研究者として知られた存在として影響力があったが、マルクス主義研究者全体の中での絶対数だけから見れば、決して多数派とは言えなかった。ここは、佐々木の著作の感想を述べる場ではないので、これ以上この著作について触れる気はないが、ただ一言しておくと、勢い余ってか、廣松に対する感情的な揶揄表現とも取られかねない罵詈雑言と、対照的な平子への過剰評価が、読む者を白けさせてしまう。若手マルクス研究者として佐々木の優秀さを疑うわけではないが、せっかくの労作に対していらぬ感情的反発を招き寄せてしまうところが欠点だろう。そもそも、廣松哲学における物象化論は、マルクスの物象化論とその意味内容が完全に一致するわけではなく、しかも『物象化論の構図』(岩波書店)の最後の章を読めばわかるように、廣松は「物象化論」と「物象化理論」とを使い分けて用いており、後者は前者を更に一般化した広範囲な射程を持つ。したがって、廣松物象化論(物象化理論)を批判する際は、いずれの意味なのかをはっきりさせておく必要があるのに、そうした読み方はされていない。

 

いずれにせよ、特定党派のバイアスがかかった批判を除いて、哲学や思想史のサイドからの廣松哲学体系に対する本格的なサーヴェイが、所謂「廣松シューレ」以外からなされる例は、その業績の大きさの割には少なく、あるいは、その業績の広範さのためか、敬遠されていた様相を呈してもいた。このような状況の中で、渡辺恭彦廣松渉の思想-内在のダイナミズム』(みすず書房)という著作が、昨年刊行された。著者は、僕より十歳以上も年長の社会思想史を研究する研究者で、この著作は、京都大学大学院人間環境学研究科に提出された博士学位論文が元になっているというから、おそらく人的関係において、所謂「廣松シューレ」に属する人ではないだろうと思われる。

 

本書の魅力は、廣松渉の哲学・思想を単に公刊されている出版物から追うだけでなく、廣松の幼少時代からの活動に関する情報を知人・友人からも聞き取りするなどして、近しい者以外にはあまり知られていない廣松渉という人物像を浮かび上がらせながらまとめ上げているところである。また、否が応でも、物象化の力学に絡めとられざるを得ない我々の存在や認識のあり方を捉える廣松哲学を、「内在のダイナミズム」というモチーフをもって読み抜こうとする視点で貫かれている点も見逃せない。『日本の学生運動』から『存在と意味』まで、ほぼ時系列的に記述して行くには、『廣松渉著作集』全16巻(岩波書店)だけでは足りなく、『廣松渉コレクション』全6巻(情況出版)や、それらには収録されていないものまで含めて、広範な著作に目を通し、更に分析していかねばならない。

 

僕も、著作集やコレクションその他未収録の著作、例えば講演集『東欧激変と社会主義』(実践社)まで持っているほど廣松関連の著作は読んでいるが、全部読み通すのは結構大変だから、渡辺が本書に割いた労力は相当なものだっただろうと想像される。とにかく渡辺のこの著作は、今後の社会思想史だけでなく、日本哲学史という文脈において廣松哲学を捉え返す時には無視できない存在になるかも知れない。それだけでも、本書の意義はあるし、廣松を初めから擁護したいという意図や、逆に初めから貶めようという意図から読むような、党派的バイアスがかかった読み方ではなく、戦後日本の代表的哲学者であることは間違いのない存在である廣松渉の哲学を、西田幾多郎田辺元和辻哲郎、九鬼周蔵、三木清、戸坂潤、黒田亘、大森荘蔵といった優れた哲学者の中に位置づけられた「古典」として読まれ継がれていくための土台の一つになるだろう。

 

但し、僕から見て批判すべき点がないわけではない。その問題点の第一は、廣松の科学哲学に果たした貢献への配慮に欠ける点である。廣松が制度上、東京大学科学史科学哲学研究室の主任教授であったからというだけではない。廣松の若い頃の関心はエルンスト・マッハであり、マッハといえばレーニン唯物論と経験批判論』においてアヴェナリウスとともに「敵」とされ攻撃を受けた存在である。旧ソ連共産党公認の哲学では、このマッハと深い関係にある相対論や量子力学に対して「主観的観念論」や「プラグマティズム」などのレッテルが貼られたが、廣松のマッハへの並々ならぬこの関心は、後の党派的な批判を受けることになる廣松の唯物論理解やマルクス解釈に直接関連することであるだけに、詳細に分析される必要があるし、のみならず、マッハ研究以降の『相対性理論の哲学』(勁草書房)や『事的世界観への前哨-物象化論の認識論的=存在論的位相』(勁草書房)所収の諸論文(これは著作集に細切れになって収録されているが)あるいは『科学の危機と認識論』(紀伊国屋書店)に対する分析は、三部作として構想されながら未完に終わった『存在と意味-事的世界観の定礎』(岩波書店)でまとめられる「事的世界観」の定立にとっても欠くことのできない要素であり、廣松渉の思想として全体を鳥瞰する意図で本書が書かれたことを特に意識するならば、この点を無視して論じることはできない。

 

問題点の第二は、『青年マルクス論』(平凡社)、『マルクスの思想圏-本邦未公表資料を中心に』(朝日出版社)、『マルクス主義の成立過程』(至誠堂)そして『エンゲルス論』(情況出版)といった、マルクス主義の成立過程を論じる際の必須でもあるヘーゲル左派に関する思想史研究も、「思想史家」としての一面を持つ廣松を捉える上で必要であるばかりか、廣松のヘーゲル左派への拘りは、疎外論批判から物象化論を展開する基本モチーフあってこそのものなので、そこへの目配りが希薄なのが残念だ。

 

問題点の第三は、細かい用語の問題に見えて実は重要な点であるのだが、「共同主観」という言葉遣いは、決して廣松はしていないということである。四肢構造論はあくまでも関数的な構造成態を意味する議論であって、「共同主観性」とは表現できても、「共同主観」と言うことはできないはずだからだ。確かに、廣松について書いている何人かの論者の中には、「共同主観」という表現を用いている人もいるし(しかし、少なくとも「廣松シューレ」ないしは、廣松と近い関係にあった者は、「共同主観」という表現は決して用いていないはずだ。熊野純彦にしろ野家啓一にしろ、そのことを強調していたはずだ)、更には、吉本隆明の「共同幻想論」と並べて論じる人もいるが(確か吉本自身も並置して論じていたと思うが)、これらは全くの誤読によるものであって、共同主観性論は共同幻想論とは直接の関係はない。共同幻想論と強いて廣松の論説を結びつけたければ、『唯物史観と国家論』(講談社学術文庫)もしくは『唯物史観の原像』(三一書房)の第二章あたりではないだろうか。

 

問題点の第四は、やや無いものねだりの側面があるのだが、『存在と意味』第2巻の実践的世界の存立構造の最後、または『新哲学入門』(岩波新書)の最後にある<通用的正義>と<妥当的正義>(これは<通用的真理>と<妥当的真理>とパラレルの関係にあるが)の性急すぎる立論はかなり問題含みの箇所なので、より突っ込んだ批判的考察をして欲しかったが、他の記述に比して、明らかに踏み込みが足りなかった。普通の読み方をすれば、認識論的相対主義や価値相対主義を主張するような立論になっているわけだが、これが書かれた時期は、ちょうど日本におけるポストモダ二ズ全盛期と重なっている。そこで、同時代の思想シーンとの比較検討があってもよさそうなものなのに、そうした考察がなされていないのも、思想史研究として物足りなさが残る一因となっている。以上のような諸々の問題点もあるが、しかし若い世代の研究者でしかも廣松周辺の者によらない思想史から見た廣松渉の思想の俯瞰図を提示した意義は大きい。

 

廣松は晩年、東大倫理学科で和辻倫理学の演習を行っているわけだが、これは廣松の「近代の超克」というモチーフを共有する観点から批判的にであれ京都学派の遺産を継承しようとしていたことからもある意味必然であったというだけでなく、廣松の表には現れない民族的ないしは土着的な要素が図らずも表面に現れ出た稀有な出来事とも解釈できる。関係主義という共通点から仏教思想にも関心を寄せていたというだけではなく(『仏教と事的世界観』(朝日出版社)という対談集もある)、対西欧近代の強烈な思いからは、半ば「国士」然とした趣を感じとることができるはずである(日本思想史研究者マイケル・サントンとの対談において、それが露骨に現れていた。そこで廣松は、デリダ程度の思考は東洋では既に二千年も前からあったと述べていたはず)。

 

廣松の幼少期の環境が左翼人士に囲まれた環境であったことが大きく影響して、13歳で「共産青年同盟」に加入するなど早くから「おませな」マルクス主義者になった廣松だが、その気質から、世が世なら環境が環境なら大陸浪人になってアジア主義を掲げて暗躍した右翼になっていたとしてもおかしくはないものだった。最晩年に編集に携わった『哲学思想事典』(岩波書店)において、東洋の思想に関して西洋の思想と同じくらいの分量を充てることに拘ったというエピソードは、廣松渉が革命を志向するマルクス主義者という側面だけではない別の側面を持っていたことを間接的に物語るものではないだろうか。「内在のダイナミズム」は、廣松に関してヒュームやドゥルーズと関連させて論じた松井賢太郎の論文にも共通している視点と言えるが、そのことは哲学・思想を離れて、この土着の風土からふつふつと湧き上がってくるダイナミズムと見ることもできなくもないのである。