shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

移民とナショナリズム

 Douglas MurrayのThe Strange Death of Europe: Immigration, Identity, Islamは、西欧諸国が抱える移民問題に真正面から向き合った書として反響を呼び、ともすれば類似の問題を抱えるかも知れぬ日本と無縁ではないとばかりに邦訳も出されたようだが、安倍政権の進める「移民法制」が日本社会にどういう影響をもたらすかを考える際に参考になるはずだ。そしてこの書は、多文化主義リベラリズムを言祝いできた知識人たちへの痛烈な批判にもなっているところが面白い。といっても、著者は所謂「レイシスト」の類ではない。むしろ何でもかでも反対者に「レイシスト」のレッテルを貼るばかりで後先を顧みない能天気な言説こそが、民族間対立・文化間対立宗教間対立を修復不能なまでに増幅させている次第を丹念に追っていくものとなっている。リベラルな価値観に則り大量の移民を受け入れたはいいが、明らかに共同体の規範から遥かに逸脱する者の存在もいることを見て見ぬ振りをしてごまかし続けてきたつけが、今日の西欧社会の深刻な歪みとなって現象しているとも言える。

 

 フランスの公立校で起きたスカーフ事件など氷山の一角であったわけだ。ハーバーマス自然主義と宗教』(法政大学出版局)も、こうした西欧市民社会イスラームとの衝突を背景として婉曲的な表現ながらも向き合った書物である。ハーバーマスもその一員に含めてもいいだろうその他西欧の広義のリベラリストたちが多文化主義と寛容を掲げながら想定している他者とは、あくまでも西欧市民社会のコードに随順するコミュニケーション可能な他者でしかなく、結局彼らは西欧市民社会の基底となる規範に包摂可能な他者という想定内で考えていたに過ぎない。スカーフ事件も、公的領域に宗教を持ち込むことを禁じるフランス市民社会が教会権力と政治との間の緊張の歴史の過程において打ち立ててきた規範への随順を強いるものであって、イスラームの教義への帰依を人格的核心部分にしている者にとっては、自らの人格的生存そのものを否定されることと同義だった。いずれが正しいか安易に決着がつかぬこの問題は、西欧のリベラリズムが真の意味での他者を考えてこなかったことを証立ててもいる。逆にイスラームの移民の中には、少女奴隷売買や集団での強姦あるいは少女への強制割礼その他の現在の西欧のリベラリズムからすればおよそ容認し難いおぞましい行為がなされても、適切な対処を怠ってきた。西欧社会に移民として流入した者の中には、イスラームの規範を可能な限り遵守しつつも「郷に入っては郷に従う」として、同時にその社会の根本規範に抵触せぬように努める者もいる。宗教と世俗の分離が当然の事理となってはいないイスラーム社会の規範を受け入れて育った者からすれば容易に容認し難いことであっても、溶け込める範囲で溶け込もうとしてきたムスリムも多数存在する。しかし、原理主義的傾向を持つ厳格なムスリムにとっては、西欧市民社会のコードに随順させようという明示的ないしは黙示的な声は、自らの人格的核心に無下に入り込んでくる暴力以外の何物でもないだろう。ムスリムにとってイスラームの教義は、単なる趣味嗜好とも違うし、場当たり的に変化する政治的な思想とも違う存在を支える基盤なのであって、それに即した生き方に誇りと矜持を持つ者に対して西欧的なリベラリズムの規範や価値観を押しつけることは、その存在を否定することと変わりない。逆に西欧社会の伝統的な価値観や規範を当然の理として生きている者にとっては、自分たちのコミュニティに入ってきたからにはその価値観や規範を遵守してもらうよう望むのも無理ないことである。だから当然、そこには摩擦や衝突が起こる。摩擦や衝突がエスカレートしていくにしたがって、当初は寛容だった市民も遂には堪忍袋の緒が切れたとばかりに移民への違和感がふつふつと募り出し、その怒りの感情が移民排斥という極論に吸収されて排外主義という良からぬ方向へと推移していった。欧州の極右政党の台頭は、その反映だろう。

 

 しかし、こうなることは予想がついていたはずだ。詩人のトマス・エリオットも、移民自体に反対はしないが、保守的な立場から、ある一定数以上の移民があるコミュニティに一気に流入するとそのコミュニティは瞬く間に崩壊していくだろうと警告していたはず。このエリオットの言葉は極めて常識的なことを述べたに過ぎないわけだが、新しく刊行された全集からこの言葉は削除された。おそらく「レイシスト」との左翼からのレッテル貼りを恐れてのことだろう。エリオットは保守的傾向のある人だが、そうであるがゆえに極端な移民排斥を唱える排外主義者でもなければレイシストでもなかった。コミュニティが崩壊しかねない程の大量かつ急速な移民の流入に対して慎重な態度をとることと、移民を排斥せよという排外主義者との主張の間には相当な距離があるにもかかわらず、その区別をせず乱暴に同じように「レイシスト」のレッテルを貼り、その理想主義の御旗の下で大量かつ急激な移民の流入を容認してきた結果が、西欧の市民社会の基礎的なコミュニティの崩壊を招きかねない事態を招来し、それが人種間宗教間の対立を増幅させてしまったことは、当然の帰結とはいえ皮肉な話でもある。もちろん、西欧社会にはかつてのユダヤ人差別やジプシー差別に対する深刻な反省があって、その反省故の移民政策という側面と、中東諸国を植民地化したことへの負目も手伝っていることだろうと想像する。その良心を認めるに吝かではないが、人間の文化共同体に外部から大量かつ急激な撹乱が起きれば、その文化共同体は脆くも崩れ、そこに生きる人間たちを不安な状態に陥れることに対して十分な配慮をしていたならば、このような事態に至る手前で何とか善処可能な知恵を発揮できたというものを、理想と理念だけを振り回すだけで人間の具体的生活の有り様に関わる機微に疎い者らの浅薄な思想や価値観が、社会をぶち壊しにかかっている状況がEUではあちらこちらで見られる。極端な移民排斥は論外であっても、後先顧みない安易な歓待も同時に問題を含んでいることを示す好例だ。

 

 数年前、パリ市内の複数の場所において「同時多発テロ」が起こり、世界各国でテロの犠牲者を追悼する催しが営まれているという。主張の当否についてはともかく、あのような形で無辜の市民を巻き込んだテロ行為は断じて容認できないし、事件の現場の一つはパリ10区の繁華街で、ちょうど街が賑やかな午後9時頃を見計らった犯行であることから、可能な限り犠牲者を出そうとの邪悪な意図が感じとれる犯行でもあった。週刊誌シャルリー・エブドがある場所と目と鼻の先である。シャルリー・エブドの件に関しては、シャルリー・エブドに同情は覚えないし、「私はシャルリー」と掲げて「表現の自由」を叫ぶだけで、イスラーム社会全体を侮辱するかのような表現をしたことへの何らの反省も見られない「市民デモ」には違和感しか覚えなかった。今日の中東の混乱の要因には、英国をはじめフランスをも含む欧州の旧帝国主義国らが、オスマン朝を解体して人為的に国境線を敷き、しかもわざと対立と緊張が生じるように分断統治して中東諸国を手なづけようとした中東政策があることを無視していることに加え、フランス社会で差別の対象になってもいるムスリムへの追い討ちをかけるがごとき預言者ムハンマドに対する侮辱がイスラーム社会全体への侮蔑表現にもなることへの無自覚が目立った。イスラーム社会に向かって、次は自らの文明の優位性を前提にした居丈高な物言いを見るにつけ、あいかわらずフランスという国の独善・偽善には腹立たしいものがあった。どの国の国民も自分たちのコミュニティを守りたいと思うし、自分の中にあるナショナルなものをそれほど極端にならない形で保持したいと思う者も多い。そうした点を無視して、極論をぶち上げてナショナルなものへの率直な感情までをも否定することで、どういう事態が出来することになるのかの想像力があまりに希薄なのである。まるで地球市民のお花畑に住んでいるかのような能天気な言説が、かえって憎悪を掻き立てる装置となっているわけである。重要なことは、ナショナルなものへの思いが程度の差こそあれ誰しもが持っているという常識を踏まえて、しかしそれが極端にならぬよう調整のための力学を働かせることだろう。もちろん、国家への過度なアタッチメントを求めることはかえって極端なデタッチメントの感情をも呼び起こすことにもなる。その辺のころ合いをとるのが生きた知恵というものかもしれない。

 

 大澤真幸ナショナリズムの由来』(講談社)は、そうしたナショナリズムの存立機序について些か抽象的な表現で分析した大著であり、毎日出版文化賞受賞も伊達ではない内容となっている。とにかく分厚いのなんの、フォントを小さくしてもっと詰めて印刷したら薄くすることができたであろうのに、なにゆえこんな電話帳よりも分厚い書物にしたのか、その真意は計りかねる。その内容面に関しては、大澤のいつもの<第三者の審級>論が魔法の如意棒の如く振り回されている傾向が否めないものの、理論的分析としては大変面白い。但し、この書物の肝心要の「逆説的な仕方での〈第三者の審級〉の回帰」論の箇所は、論理的な点での飛躍が相当目立つということも確認しておかねばならないだろう。大澤は、とにかく書くわ書くわで、かつて大量にテクストを量産していた廣松渉に対して大森荘蔵が「週刊ヒロマツ」と呼んだことを想起させもする。大量生産に付き物の紋切り型の文章の生産だけでなく、中には粗製乱造と思われるものも生産されている。だから、『量子の社会哲学-革命は猫が救うと過去が言う』(講談社)というアナロジーにつぐアナロジーによる「こじつけ」の域を出ない書物もたまに書いてしまうのは、ご愛敬ということにしておこう。「量子力学の深遠」とか何とか言うのは結構だが、量子力学の哲学的な問題は、正直言って社会学者の手に負えるものではないと思う。これは何も大澤を貶す意図ではない。大澤は日本の社会学者の中では指折りの理論社会学の研究者である。しかし、流石に量子力学の哲学までをフォローするのは無理がある。この方面の英米の研究は相当進んでいて、生半可な知識じゃ太刀打ちできない極めて専門的な領域なのだから。復刊された渡辺慧『時』(河出書房新社)の端書を執筆したり、永井均マクタガートについての対談本を出すくらい時間論に関して興味を持っているようだが、渡辺の立論内容にはほとんど踏み込まず、とりあえず結論だけ触れている他は、我田引水なことが羅列されているばかりで、正直言って解説になっていない。社会学においても時間論が躓きの石になっているということは理解できるが、渡辺がこの書の主要部分である論文や渡辺の『時間と人間』(中央公論社)などで述べている物理学的時間論は、直接的に社会学的時間論に結びつけて論じることはできないだろう。そもそも初めから過去と未来の非対称を前提にした歴史的時間に立脚しないと、どうやって社会学理論の中に時間論を導入するのか皆目わからなくなる。だから論じるならば、渡辺慧が物理学的な時間論を逸脱して語っていり箇所、とりわけ最後の「時と永遠」やベルグソン論あたりを対象に絞って論じたとすれば、読める解説になっていたのではないかと思われる。この『ナショナリズムの由来』は、大澤の社会哲学を構想する能力がいかんなく発揮されており、ナショナリズムの問題を論じる大澤の手捌きの冴えがかえって目立つのである。

 

 この『ナショナリズムの由来』は、三部構成となっている。第一部は、ナショナリズムとネーションの構造と発生そして展開が論じられる。第二部は、第二次大戦後の第三世界に起こった「ナショナリズムの最後の波」の後のナショナリズムの構造と資本主義との関係が論じられる。第三部はファシズムの問題が論じられる。おそらく一読した読者は、この書がベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』とジョルジュ・アガンベンの『ホモ・サケル』を下敷きに構成されていることを了解するに違いない。大澤は、経済現象に限定されない社会システム一般の特徴としての資本主義を「広義の資本主義」と命名し、この「広義の資本主義」とナショナリズムの相同性を論定する。すなわち「広義の資本主義」は、より包括的かつ普遍的な規範的地平つまりは経験可能領域の先取をめぐる競争によって定義され、社会システムの標準的な経験可能領域も順次包括的なものへと遷移していくものと理解される。この経験可能領域の包括化とは、許容される行為とそうでない行為の区別つまりは行為の当/不当を区別する境界が弛緩していく過程として把握される。包括化した多様な行為の間に機能的に有効な連関を与えるために、規範は同時により抽象的なものへと転換される必要がある。この拡張性を本来とする資本主義は、規範的地平を拡張させていく一方で、それにともない規範は抽象度を増すことにより対応するというのである。

 

 資本主義は、<第三者の審級>の不断の抽象化の結果として、その不在にまで至りつくことになり、これは社会的規範の完全な失効を含意することになる。だからこそ社会システムとしては、最小限の具象性を備えた超越的審級が抽象化傾向の抵抗として措定され、最小限の積極的かつ実定的な内容を有する規範によって構築される統一性が、ある特定の範囲の共同体に対して想定されることになる。そうは言っても、普遍的な規範が要請する社会的世界の均質性に関する想定は現実には充足されない。なぜなら、それは規範が通用しない外部を含むからであり、多様性を呈さざるを得ないのが実際の社会的世界だからである。それゆえ、この社会の規範的均質性の想定と実際上の不可能性との乖離を埋める装置としてナショナリズムが要請されるのだと大澤は分析する。規範的均質性の要請とそれをもたらす視点の措定に絡み、ナショナリズムとノヴェルの「二つのN」の相同性を導き出す(この作業事態は、かつて蓮實重彦が『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)に収録されている「小説の構造」にて暗に指摘していたことを、改めて定式化したものとも読めるだろう)。

 

 大澤は、この「広義の資本主義」とナショナリズムの関係を、カントロヴィッツの「王の二つの身体」すなわち〈政治的身体〉と〈自然的身体〉の二重性の話に仮託させて、その先駆的形態を西欧中世に見る。このように大澤は、<第三者の審級>論を振舞わすわけだが、極めつけは「逆説的な<第三者の審級>の回帰」として論じる段である。その論筋はこうだ。すなわち資本主義のダイナミズムは、<第三者の審級>をより抽象度の高いものへと置換させていく過程であるということを確認した上で、かかる過程は、その度に<外部>が見出され、それを経験可能領域へと包摂していくことの反復であると捉えられる。対して逆に、<外部>の側から見ると、かかる過程は<外部>が<第三者の審級>を「これは求めていたものではない」としての拒絶作用の反復として捉えられる。そして「この普遍性は、不十分であって限界があること」だけが真の普遍性の可能性を保証しているという仕方で逆説的に捉え返されて、「この<第三者の審級>は違う」という否定性そのものを具現する<第三者の審級>が立ち現れると考えるという。すなわち、逆説的な仕方で回帰する<第三者の審級>というわけである。この<第三者の審級>が普遍化不可能性を直接に実定化するものであるならば、それは具象的現れにおいて他にありえない。その具象的現れがナショナリズム成立を保証する可能性の条件となる。以上が、大澤の立論内容の肝になると思われる部分の大雑把な要旨である(中身を読まないと、あまりに抽象的な内容なので理解しにくいと思われるが)。

 

 実証主義的スタンスで社会学研究を行っている者からすると、これがどうして社会学なのかとの疑問がおそらくは呈されるかもしれないが、日本における社会学研究の主流とは違うというだけの話だろう。大澤は、社会学の研究者としては珍しく抽象的に概念を操作する能力に長けており、実際に社会哲学としてみた場合、こういう概念操作的方法でナショナリズムを語る論説は希少であり、それ自体貴重だろう。その意味で大澤は、社会学者というよりも寧ろヘーゲル哲学の影響下で仕事をしている社会哲学者といった方が似つかわしいかもしれない。想像するに、大澤は直接引用することは少ないが、ヘーゲルを相当読み込んでいることが端々から伝わってくる。もちろん、ルーマン廣松渉からも多大な影響を受けている。『行為の代数学』(青土社)や『身体の比較社会学』(勁草書房)そして『意味と他者性』(勁草書房)を経て、幾度も繰り返し登場する「<第三者の審級>論」を手当たり次第に振り回してまで電話帳より分厚いナショナリズム論をものした大澤真幸の力技をみるだけでも価値ある書物になっている。僕は、スペンサー・ブラウンの妙な「数学」をこねくり回した『行為の代数学』の「宇宙の微分方程式」や『意味と他者性』のクリプキ解釈には全く賛同できないが、そこでも社会学者より哲学者に依拠した分析が圧倒的に多いほど、大澤の社会哲学者としての側面がはっきりと浮かび上がっている。この限りでは大澤の分析はかなりまともな事を論じている。