shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

歴史と伝統

 歴史は、絶えず新たな意味を纏って生き直される。皇紀2679年4月30日、今日から上皇となられた先帝陛下の御譲位を告げる御言葉があり、この5月1日を以って東宮であられた新帝の御即位と相成り、令和の御代が始まりを迎えた。先帝の御言葉の通り、我が国の令和の御代が平成の御代と同様、戦争のない平和な時代であるとともに、皇室の弥栄を祈るばかりである。

 

 令和の御代の始まりを国民全体が言祝ぐことは当然の理であると思う反面、僕自身の生がほぼ平成の時間と重なることもあって、尚更現時点では平成の御代が過ぎ去っていったことへの寂しさが募り、周囲と同様に喜べる心境になれないのが偽らざる気持ちである。普段はさして道徳的な人間であるどころか、むしろ無法者である僕のような分際でさえも、ある種のアンティミティの感情と畏怖の感情を抱いてきた英君の御姿を拝する時は無意識に背筋に緊張が走るわけだが、あの時にはまた別の寂寥感とでも言うべき不思議な感情に包まれていた。退位礼正殿の儀を終えて宮殿松の間を後にされる折、先帝陛下がやおら参列者の方に振り返って一礼される御姿を拝見した時、自ずと涙が滴り落ちてしまった。粛々と執り行われる儀式ゆえよもや涙することなどあるまいと思っていたが、さにあらず。あの瞬間は、平成の御代との永遠の別れに改めて向き合った瞬間だったのだと今にして思う。

 

 先帝陛下は、君主としての徳を体現しておられた。そして日本国民も、そうした有徳の君に臣下として応えようとお仕え申し上げてきた。連綿と継承されてきた万世一系の皇統を仰ぎ奉ってきた皇御国の精華である。上皇陛下及び皇太后陛下(歴史的に「上皇后」という呼称は些か問題含みであり、この点においても「朝敵」安倍晋三の逆賊たる所以がある)にあらせられては、日々の多忙な御公務から離れた時間をゆっくりとお過ごしくださるよう、甚だ畏れ多いことながら祈念申し上げたい。

古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎へ入れて、これを生きてみるといふ事は、歴史家が自力でやらなければならない事だ。そして過去の姿が歪められず、そのまま自分の現在の関心のうちに蘇つて来ると、これは、おのづから新しい意味を帯びる。さういふ歴史伝統の構造を確める事が、宣長にとつて「古を明らめる」といふ事であつた。

 

 小林秀雄本居宣長』はこう述べている。平成の御代を終えて令和の御代と新たな意味が生み出され、かつこの令和の民草としてその意味を生きていく。歴史は問う人の問い方に応じて様々な姿を見せるものである。とはいえ同時に、歴史は手前勝手に拵えられた観念遊戯の自由になるものでもない。

古典が、在つたがままの姿で、現在に生き返つて来るのは、言はばこの源泉の感情が抱いた宣長にとつては、まことに尋常な知覚であつて、もしそんな風に完全な姿で生き返らなければ、それはまるで生き返りはしない、どちらかだといふ考へは、宣長には恐らく自明のものであつた。

 

 古典とは、古典との真摯な対話によってその都度の姿を顕にしていく。歴史を俯瞰してとやかくいう自分というものを考えては歴史を見誤る、と小林秀雄は言う。人間には歴史を模倣するより他は何もできはしない。刻々と流れる歴史の流れを虚心に受け止めて、その歴史の中に自己の顔を見るというのが正しい。「歴史と文学」には、こうある。

母親にとつて、歴史事実とは、子供の死といふ出来事が、幾時、何処で、どういふ原因で、どんな条件の下で起つたかといふ、単にそれだけのものではあるまい。かけ代へのない命が、取返しがつかず失はれてしまつたといふ感情が伴はなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死といふ出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなほ眼の前にチラつくといふわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在つたといふだけでは足りぬ、今もなほその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。・・・母親の愛情が、何も彼も元なのだ。死んだ子供を、今もなほ愛してゐるからこそ、子供が死んだといふ事実が在るのだ、と言へませう。愛してゐるからこそ、死んだといふ事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであつて、死んだ原因を精しく数へ上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。

 

  上手に「思い出す」ことは、歴史主義イデオロギーの都合に合わせて鋳型にはめることではない。同時に、客観が単純に反映された像でもない。虚心に古典や死者に向き合い心通わせることで見えてくる鏡である。それは、近代の弱い基盤しかない自我と真逆の動じないものとして屹立している。小林秀雄「実朝」の最後の文にあるように、「伝統とは現に眼の前に見える形ある物であり、遥かに想い見る何かではない」のである。

 

 歴代の天皇は、「国安かれ、民安かれ」と祈り続けてこられた。たとえ、ふやけた国民が愚かなことをしていた時ですら、日々祈りの伝統を継承してきた連綿と続く時間軸を生きておられている。天皇は、世俗の欲にまみれた凡俗で悪逆な愚者でしかない我々民草の安寧を祈りかつ見守ってこられた。この聖域を是が非でも死守すること。伝統を守護するとは、我が国の歴史そのものであられる上御一人を守護し奉ることでもある。

 

 ともかく、平成の御代が終わりを告げた。しばらくこの寂寥感は残るのかもしれない。幸いというべきかわからないが、生前の御譲位のため、昭和から平成への御代がわりの際に見られた大行天皇の御跡を追っての殉死がなく新たな御代を迎えることができた。かつては、明治天皇崩御の後の御大喪にあわせて乃木希典、静子夫妻が自刃するという出来事もあった。昭和天皇崩御の際も、全国で殉死と見られる自死が全国方々で見られた。そうした方々の喪失感とは比較にならないのかもしれないが、年末のカウントダウン・イベントのように浮かれている今の日本人を眺めていると、戦後日本は何か決定的なものを失ってしまったのではないかという思いがいやましてくる。江藤淳にしても西部邁にしても、双方細君を亡くされ身体の自由も効かなくなってきていたという事情があるとはいえ、自裁を選択した根本の理由は、ますます醜態をさらけ出してきた今の日本及び日本人への拒絶の意思表示だったのではあるまいか。

 

 乃木将軍は晩年に、学習院院長として後の昭和天皇になられる迪宮裕仁親王殿下に対して、ある種の「遺書」として自ら朱字で注釈を書き入れた山鹿素行の『中朝事実』を託したことも、また先帝は常々自らを「つなぎの存在」だと自覚されておられたことも同様に、ある時間軸の存在がこの日本には存在していること、そして自らの存在がこの時間軸に位置する存在であることを理解しておられたことを示している。戦後日本人の大半は、この時間軸において生きていることの感覚を喪失してしまったのである。

 

 三島由紀夫も影山正治野村秋介自裁を選んだ。彼らは、戦後の日本がかなぐり捨ててしまった「歴史感覚」を持ち続けていた。時間の喪失は、「超越的なもの」への畏怖の感覚を喪失したことの必然的な帰結である。そう思う時、天皇陛下におかせられては、令和の御代においても永遠に日本を亡したまわざらんことを謹んで冀い奉りますとの言葉しか出ないのである。

 

聖寿萬歳、皇尊弥栄