shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

「憲法記念日」にあたって

 今日は、占領憲法が施行されたことを記念する「憲法記念日」で、民族派も街宣活動や護憲派集会への抗議活動を展開する団体も多かっただろうが、概して民族派の多くは、安倍晋三が主導する憲法改正プランには賛同していない。あくまで自主憲法制定を主張するものであって、小手先だけの小賢しい改憲プランは、事態をより悪化させることになるので反対する立場の者も実は多い。かく言う僕も、安倍晋三内閣は左翼政権と位置づけているので、このような政権が主導する改憲に対しては反対の立場である。

 

 昭和20年8月14日、日本が「ポツダム宣言」受託の意思を連合国に通知し、同年9月2日に「降伏文書」に調印して以後、連合国総司令部(GHQ)の命令によって、「ポツダム宣言」の第6項や7項及び9項に基づいた全面的武装解除が着手され、計587万にのぼる帝国陸海軍各部隊の兵士たちの武装解除が同年10月にほぼ達成された。連合国総司令部のダグラス・マッカーサーが、日本軍の復員完了とその解体の完了を宣言したのは、同月16日のことである。その後、昭和25年の朝鮮動乱を期に、警察予備隊が設置され、その2年後には保安隊への改組と警備隊の設置がなされ、昭和29年には自衛隊が創設されたことは誰もが知っていることだろう。この創設によって、これまで「警察力」の範疇で捉えられていた「実力」が、「防衛力」としての「実力」として変質することとなった。

 

 この間に、大日本帝国憲法明治憲法)の改正が議論されることになり、昭和21年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行されるかたちとなったわけだが、この辺の事情については、様々な研究がなされいるので繰り返さない。NHKでも「日本国憲法の誕生」として何度か取り上げられたこともある。また、現行憲法の正当性をめぐる諸議論も憲法学の世界だけでなく、様々な政治勢力の中で行われている。そうした中で、実際にどういうやりとりが交わされたのかを知っておくことが重要だ。とりわけ、国務大臣松本烝治を委員長とする「憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)」での美濃部達吉と他の委員とのやり取りが面白い。

 

 美濃部達吉といえば、特に戦前の我が国の憲法学を主導し、東京帝国大学法学部で憲法学と行政法学を担当した国法学の大家であって、「大正デモクラシー」の一翼を担ったオールド・リベラルな学風で知られる大学者であったが、後の「天皇機関説事件」により貴族院議員を依願免職したことで、日本史の教科書からほぼ全ての国民の認識に刻み込まれている。なお昭和天皇は、美濃部の今後を御案じなされていたようで、侍従の入江相政に「天皇機関説で何が悪いことがあるのか」との御言葉を残されている。立憲君主としての帝王教育を受け、事実そのように振舞われておられた聖上からすれば当然のことだったのだろう。久野収は『現代日本の思想』(岩波新書)に所収されている論文にて、この「天皇機関説」を明治憲法体制の「密教」的側面として位置づける。ちなみに安倍晋三の母方の祖父である岸信介は、東京帝大法科に在籍時に美濃部と学説上対立していた「天皇主権説」の主唱者上杉慎吉教授に学び、上杉から東大に残って憲法学者になるよう説得されたようだが、狭いアカデミズムの中で生息するだけに満足できるわけもなかった岸は、大学に残って研究者の非常に狭く偏った世界で「井の中の蛙」として安穏と自足するだけの道を蹴り、また東大法科首席を我妻栄と競った程の優秀を誇るも、内務省や大蔵省といった官庁の中の官庁に入省するのではなく、農商務省という二流官庁に就職を決める。この辺が並みの東大生ではないことを示してもいる。岸には後の国家統制計画経済を主導していくとの構想があったのであろう。実際、岸信介回顧録によると、最も大きな影響を受けたのは上杉ではなく北一輝であって、岸は北の家に出入りしていた。そりゃそうだろう。上杉は現在の大学教員よりは権威はあったのだろうけど、だが所詮は単なる一介の大学教員でしかない。それに比べて北一輝は、ある意味この日本を動かすほどの力を持った知性なのだから格がまるで違うわけだ。岸は本来、資本主義には懐疑的で、社会主義統制経済を旨としており、終戦後に巣鴨プリズンから釈放されたときは、日本社会党に入党しようと画策していた形跡が見られるのである。その頭脳と実行力は、満洲帝国の経営にも戦時統制経済にも、そして戦後の高度経済成長に役立つことになる。先述の通り、岸信介は、旧制第一高等学校の学生時代から「魔王」として政財界でも恐れられていた右翼の巨頭北一輝のもとに出入りしており、北一輝の思想は、むしろ徹底した「天皇機関説」に立脚するものであった。岸の考えは明らかに北一輝に近かったのである。戦後の国民皆保険、国民皆年金、最低賃金法など社会保障制度の基盤を作ったのも岸信介である。田中角栄も今日の政治家には見られない大局観を持ち、大きなスケールの政治家であったと思うけれども、岸信介は、かなり問題含みの政治家であるとしても、破格のスケールの政治家であった。そのスケールは石原莞爾甘粕正彦レベルであったのではないかと見ている。安倍晋三とは頭脳も器の大きさも比較にならない)。美濃部達吉は、憲法問題調査委員会顧問として次のような言葉を残している。

 

「私ハ野村君(野村淳治顧問のこと)ノ考ヘル様ナ意見ニ反対デアル。日本ノ現在ハ軍備ヲ撤廃シタレドモ永久ニ陸海軍ハ無クテ良イモノデアラウカ。憲法ハ永遠ナルモノデアル。故ニ私ハ早急論(ポツダム宣言に基づく軍備の撤廃のこと)ニハ反対デアル。・・・憲法改正ノ方向ハ現在ノ様ナ制限主権状態ヲ前提トシテ定メラレルベキモノデアルノカ、永久ニ陸海軍ヲ無クシテ良イノデアルカ」。

 

美濃部達吉にとって、憲法とは永久性を持つ存在である(もっとも、この永久性はある長期にわたってという意味であろう)。大日本帝国憲法の軍に関する規定を全面削除するという「早急論」に美濃部が反対するのは、「ポツダム宣言」に基づく軍備の廃棄は、日本国にとってはあくまで非常事態の一時期に基づくだけの永続性のない事柄であったこと、そして、その決定は制限主権の下でなされるべき事柄でもないということである。それゆえ、美濃部は

 

憲法ノ改正ニハ降伏ノ結果トシテノ現在ノ状態ヲ基礎トスベキヤ又ハ将来国家ノ独立ヲ回復シ得ベキコトヲ期シ独立国タルコトヲ基礎トスベキヤ。・・・若シ現在ノ状況ヲ基礎トスベシトセバ、陸海軍、外交、戒厳、兵役ニ関スル第11、12、13、14、20、32ノ各条ヲ削除スルト共ニ、第1条ヲモ『日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ天皇之ヲ統治ス』トイウガ如キ趣旨ニ修正スル必要アルベシ。寧ロ現在ノ状態ハ一時的ノ変態トシテ考慮ノ外ニ置キ、独立国トシテノ日本ノ憲法タラシムベキニ非ズヤ」。

 

 憲法学者の高見勝利は、こうした明治憲法の軍規定の削除に反対して存続を主張した美濃部の立場を「存置論」とし、美濃部の反対者である野村のような軍規定削除の立場を「削除論」として整理している。ところで、美濃部達吉の弟子である宮澤俊儀は、昭和20年9月2日、ちょうど「降伏文書」に調印したその日の東大法学部で行われた「戦争終結憲法」と題する補講において、大日本帝国憲法の軍規定を全面削除することによって、軍の不存在となる状況に憲法を合わせるべきであるとし、同趣旨の発言を9月28日の外務省条約局でのヒアリングで行っている。「ポツダム宣言」に基づく軍の解体、軍需産業の禁止、平和的傾向を有する政府の樹立によって、日本は「武備なき国家」になるとしている。この立場は、明らかに師である美濃部達吉の立場と反するだろう。ところがその一方で、宮澤俊儀は、10月19日付『毎日新聞』に寄せた「憲法改正について」と題する文章において、大日本帝国憲法は弾力性にとんだ憲法であって、「ポツダム宣言」の履行は、憲法改正を俟たずとも相当な範囲において可能だとも言っているのである。宮澤の言説は移り変わりが激しいので、こうした事実があっても不思議ではないが、それにしてもこの短期間での変化である。これを別異に解するか、それとも単なる変節とみるか、ここでは断言を慎むことにする(小堀桂一郎などは、宮澤の変化に対して「変節漢」と批判しているが、おそらくその評価は当たっているだろう)。美濃部を中心とする「存置論」は国会の中でも一定の影響を保っていたが、現実に軍が解体されている状態で敢えて軍規定を存置させることの問題性が徐々に焦点化され、将来的に日本が独立を回復して再軍備をするということになるかもしれないが、現状は軍の不存在の事実に立脚した憲法にすべしとの議論が勢いを増していくことになる。しかし重要なことは、多くの議員や委員が、日本が将来的に独立を回復した暁には当然に軍備を持つだろうという観念が共有されていたということである。さらに憲法の諸規定は、それを支える事実の上に立脚しなければならないとの立法事実論の認識を共有していたことである。美濃部は泣く泣く、『法律新報』の昭和21年4月・5月合併号に寄せた「憲法改正の基本問題」の中で、次のように述べるに至る。

 

「戦争の権利を永久に放棄し、軍備を永久に撤廃するのは頗る重大であるが、平和日本、文化日本の為にこれを歓迎するに躊躇しない。但し、武力に依る外国の攻撃に対して、若し列国の安全保障が無いとすれば、日本は自己の生命を維持する力の全く無いものとならなければならない。其の点に付き連合国又は国際連合との間に必要な諒解が既に成立つているのであらうか懸念に堪えない」。

 

日本国憲法原論』には次のように述べている。

 

憲法9条は、何等の留保も無く無条件に戦争を放棄したのであるから、万一外国から侵撃を受けた場合にも自衛的戦争の途なく徒に滅亡を待つの外ないことになるやうであるが、それは他日完全なる独立を回復した後に考慮せらるべき問題で、其の時までは『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』国の生存を保持する外はない」。

 

 日本国は、サンフランシスコ講和会議において調印することによって、昭和27年4月28日に一応の独立を回復した(残念ながら、沖縄の施政権は切り離されたままになった。ここでも沖縄は結果的に本土の捨て石にされる格好になってしまった。大東亜戦争における地上戦で塗炭の苦しみを体験し、牛島満陸軍中将の電報「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との言葉が実現していない現状には怒りを覚えるが)。

 

 占領下で制定された憲法は、当初の予想に反して1度も改正されていない。独立の気概を持っていた当時の人々は、何も保守や右翼の側だけではなかった。当時の左翼の一部も、武装解除はすなわち独立を認めないことと同義であるという当然のことを問題にし、自主防衛能力を持つ必要を主張していたのである。ところが、東西冷戦の力学が日本政治にまで反映する事態となって、実質的に旧ソ連など社会主義陣営に加担する左翼と、反共のために米国の側に立つことを選択する保守派とに二極的に分裂し、保守派の中では、明らかに愚かな主張をする左翼に反対しておけばそれでよしとする態度が蔓延し、冷戦終結後においても「反左翼」であることだけに固執するばかりで自らの依って立つ思想や自分がおかれている状況に対する懐疑を伴った省察もしてこなかった。1990年代以降の保守派の言論の質が驚くべき速度で劣化し、2000年代にもなると、ますます劣化の傾向に拍車がかかり、かつての敵であった米国の保護領と化している日本の現状に安住し、中韓への罵詈雑言だけ並べていれば一端の保守であるかのような連中が大量に生み出された。百田尚樹のような者がもてはやされるのは、この国の末期症状であることを示している。彼の言説に保守の思想伝統に深く根ざした賢慮を感じとられるだろか。また、保守派を自認するならば当然の知識としておさえておくべきことが彼には欠けている。左翼が馬鹿なことは昔から変わらないが、それに対する保守派や右翼が馬鹿になっては、これはもう戯画である。まだ日本に「論壇」なるものが機能していた頃の保守派は左翼よりも知性の上で勝っていた。田中美知太郎や小林秀雄あるいは福田恆存がまだ健筆を奮っていた頃の保守論壇の優越は、特に今から見るならば明らかだった。左翼のお花畑にいるかのような能天気な言説や過激であることだけが自己目的化したような言説が幅をきかす中で、保守派重鎮は、知性とまっとうな歴史感覚と常識に則った議論を残してきた。しかし今は、見る影もなく、敢えて馬鹿を集めたとしか思えない人選でメディアを賑わしている。安倍晋三櫻井よしこあるいは百田尚樹などが論壇ででかい面をしているこの日本の姿は、かつての愚かな左翼のネガでもある。