shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

刺青と伝統

 いよいよ三社祭が季節がやってきた。それに合わせて、一寸前、ある彫師の男性が医師法違反で略式起訴された件で、同法違反を認定して罰金刑を言い渡した一審判決を覆して逆転無罪判決を下した控訴審判決が報道されたことが思い出される。一審判決は、医師法17条に医師でなければ許されないと規定されている医業としての医行為を「医師でなければ保健衛生上危害を生ずるおそれのある行為」と広く解釈し、タトゥーの施術がこの「医行為」に該当するので、医師免許を持たない彫師の男性の行為は医師法違反に該当すると判示した。この解釈だと、タトゥーの施術のみならず、本人以外の者によるピアッシング行為も、サスペンションなど身体に傷害を及ぼす行為も全て「医行為」に該当しかねない。

 

 さすがにこの解釈は広範に過ぎ、しかも社会の実態にそぐわない解釈であろう。逆転判決を下した控訴審判決は、至極常識にかなった判断を下したものと思われる。大阪高裁は、「医行為」と認めらるには具体的な疾病の治療や診断または投薬などの「医療関連性」を要するとし、彫師によるタトゥーの施術はこれに該当しないという論理で無罪判決を下した。のみならず、この控訴審判決は、判決文の内容から、タトゥーないし刺青の文化的・歴史的価値をも認めているなど、まっとうな判断を示したことでも注目された。

 

 他方、橋下徹大阪市長を務めていた時、市職員の「刺青問題」がメディアでも取り上げられたことがある。市職員に対して、身体のどこの部位にタトゥーないしは刺青を入れているかの調査を行ったことが問題視された件である。憲法問題になるという識者もいたが、刺青調査そのものが直ちに憲法問題になるかと言われれば、必ずしもそうとは言えない。もちろん、刺青をしているとの理由のみを以って分限処分をするとの事態に発展すれば、おそらくその処分の取り消しを求める訴訟の中で、憲法上の権利として保障されるのか否かという点が争点の一つを構成することになるだろうが、最高裁が、刺青の自由を憲法13条後段にて保障される人格的生存に不可欠な権利に含まれるとまで判断するとは思われず、せいぜい一般的行為の自由として扱い、したがってその判断基準は緩やかな基準にとどまるに違いない。したがって、こと憲法論としてみた場合、大きな問題にはなりにくいだろう。

 

 但し、真正面から憲法上の権利と認めるか否かとは別に、単に刺青をしている一事を以って免職するとの事態に発展すれば、最高裁は、当該処分に対し、処分権者による権限濫用ないしは、処分が著しく不相当なものであるとして権限逸脱と解釈し、違法の判断を下すだろうことが予想される。とはいえ、例えば、市民と直接接する部署に配置されているにも関わらず、当該職員が明らかに見える部位に刺青をしているならば、その職員に対して配置転換を命ずる措置を行うものとすれば、当然に違法にはならないだろう。市民への公的サービスを面前において提供する場にて、社会通念上畏怖を催させると考えられる格好で以って対することを事前に回避すべく他の部署に配置転換することは、合理的な裁量の範囲内とされる公算が大であるからだ。

 

 とりわけ若者の間では、刺青ないしタトゥーに対する違和感や畏怖感が取り除かれ、ファッションの一つとして浸透しつつあれど、それでも極く一部の範囲にとどまっている。そうでない年長世代の中には、今もなお刺青に対して恐怖心を抱く者もかなり存在することだろう。そうした実情から、仮に市がそうした措置を講じたからといって、非難に値する不合理な措置となるわけではない。

 

 現代日本社会では、刺青はアウトローの存在が入れているものとの社会通念が、いまなお支配的である。しかし、刺青を単なるファッションを超えて、自己の人格的自律に必要不可欠なものだと考える者も僅かながら存在する。それゆえ、個別の事情を勘案せずして一括して論じることにどうしても無理が出てくる。昔は、博徒だけでなく、大工などの職人や火消しも「一度選んだ道は何があっても引き返さない」との覚悟の証として刺青を背中一面に彫った者もいる。昔のアイヌの人々は、民族的な慣習として魔除けの意味を込めて刺青を施している者も少なからず存在した。吉原の女郎の中には、惚れた男の名前をつけて「~命」と肌に彫りつけていた者もいた。男色がごく普通の習わしとなっていた武士社会では、男同士で好きな恋仲の男や好みの若衆の名をこれまた肌に刻み付けてもいた。今でも、身体改造としてボディ・ピアッシングのみならず、刺青・タトゥーを自己のアイデンティティを構成するものとして、あるいは逆に、そうしたアイデンティティを破壊するものとして入れる者もいる。右翼や極道に生きる者の中にも、己の生き様を刺青に託して肌に刻んだり、あるいは亡くなった兄貴分の名を彫り込む者もいる。したがって、単なるファッションだから保障の限りではないと単純に解するわけにもいかない。

 

 とはいえ、そういう格好に畏怖を催す者が少なからず存在することもまた事実であって、そういう人たちの感覚を全く無視するわけにも到底いかない。とりわけ、公的機関は民間とは違って、住民である限りはそこを利用せざる得ず、別の機関を選択する余地はない。公務員は「全体の奉仕者」であるのだから、その理念に基づき、社会通念上一般に不愉快な感情を与えるような恰好は相応しくないとの考えも理解できる。個性的な格好をしたいと思う人の自由もさることながら、見たくないという人の権利・自由が全く蔑にされてよいというわけでもない。窓口業務に携わる者が、明らかに目に見える部位に刺青をしたまま市民と対することを問題と考え、その者に対しては適宜配置転換を考えるという方策を一概に批判するわけにはいかないだろう。

 

 反対解釈をとれば、見えない部位に刺青を施していることは何ら市民サービスに支障をきたすことにはならないし、市民と直接対する立場に就くことを予定していない立場の職員の刺青にまで干渉し、さらに何らかの不利益な処遇をするとなると、個人の自由に対する過度な介入となろう。

 

 東京五輪が近づき、観光庁は、入浴施設などに対してタトゥー禁止措置の緩和を呼び掛けているが、これもまたおかしな話である。問題は、インバウンドの客のおもてなしが云々ではないはず。刺青に対する過度なタブー視と具体的な忌避措置が社会全体に蔓延していることの窮屈さである。確かに、「ドンブリ」にしている人を見ると、一瞬仰け反りそうにもなる。ただ、社会全体が潔癖症になって排除の力学が強化されていくに連れ、息苦しさが蔓延する社会になって行くことも同時に恐れるべきである。欧米社会がタトゥーに寛容だから、日本も寛容であるべきだという理屈は確かにおかしい。別に、欧米社会の価値観が今後我が国の目指すべき社会の手本だと考えるべき根拠はない。欧米以上に人口を抱えるイスラーム社会がこうなっているからといって、日本もイスラーム社会の規範や慣習あるいは価値観に合わせろとは誰も言わないだろう。

 

 問題は、日本の良き文化的伝統でもあったという事実が、まるで顧みられていないという点なのである。大人しい「お利口さん」に合わせて日本社会がどんどん窮屈になり、その活力が消えていっている。腑抜けしかいないような、清潔だけが取り柄のニュートラルなクズみたいな社会になって欲しくない。刺青の文化も立派な日本の文化伝統の系譜に位置づけられる文化であり、それが和彫であろうが洋彫であろうと変わりない。『魏志倭人伝』によると、邪馬台国の人間は刺青を入れていたそうである。若者よ、躊躇せずに刺青を入れよう。その数が増えれば、多少は社会もマシになる。