shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

吉本隆明と日本の批評

 米国の歴史社会学者イマニエル・ウォーラーステインは、1848年の二月革命と並んで1968年のパリ五月革命を近代史における転換点となる「革命」として位置づけている。僕自身が金融に携わっている者だからなのかも知れないが、この見解はウォーラーステインの学説自体への評価とは別にどうも陳腐に見えてしまう。世界経済における特に金融史を多少調べてみればわかるように、世界史を駆動させてきた主要な動力は思想や文化などではなく、また欲望などといった曖昧模糊としたものでもなく、基本的には経済であり、特に資本主義経済システムが世界の大半の地域を覆い尽くしてからは金融が決定的な要因となっているのは火を見るより明らかなことだからである。金融が世界史を牽引してきた影響力に比べたら、パリ五月革命が担った歴史的影響力など雀の涙程度のものでしかない。

 

 もちろん、経済的な要素が社会の意識諸形態を一意に決定するかのような単純な経済決定論には与しないが(そうした極論を吐いているのは、せいぜい教条的なマルクス=レーニン主義者くらいしか存在しない)、基本的には経済的要因によって社会の状態やその意識諸形態は多分に条件づけされている。その意味で、「意識が存在を規定するのではなく、その社会的存在が意識を規定する」というマルクスの言葉の正当性は揺るがない。但し、『経済学批判』序文の所謂「唯物史観の公式」なるものがあまりにも簡潔な表現に過ぎ、単純な経済決定論のような理解が流通してしまった。ともあれ、日本においても1968年が時代を画するメルクマールになるなどと思っているのは、ノスタルジーに浸る当時の左翼運動家かお花畑の革命幻想にとりつかれた者くらいしかいない。

 

 戦後日本社会にとって決定的な年を強いて選択するとすれば、1968年より遥かに重要な年である1985年だろう。さもなくば1971年か1973年が選ばれるべきかと思われる。1971年といえば、米国のニクソン大統領が金ドル兌換停止に踏み切ったことで第二次世界大戦後の国際通貨体制であったブレトン・ウッズ体制が崩壊した年である。1973年は、ベトナム和平協定が調印されたはいいが、次に第4次中東戦争が勃発したことを契機に第1次石油危機やインフレーショナリークライシスが起き、さらにはスミソニアン体制が早くも崩壊して為替が変動相場制へと移行した年である。だから、この1971年や1973年を選択するというのなら理解はできる。しかし、1968年が二つ目の革命の年になるなどというのはどう見ても我田引水もいいところだろう。そもそも、世界システム論が歴史における偶然をほとんど顧慮していないことによって成立した立論ではないかとの疑念を払拭することができないわけだが、ここでの疑問はその学説に対してではない。彼の学説からしても、68年が世界史的な革命であり日本においても決定的に重要な年だと評価することには無理があるということである。全共闘世代のおっさん達が「俺たちの青春」を美化した上で、そうした装飾されたノスタルジーを68年に投射した描像に基づく評価に過ぎないということである。

 

 もちろん68年の評価とは別に、ウォーラーステインに見られる歴史理論について、またウォーラーステインが化学者イリヤ・プリゴジーヌの散逸構造論や歴史家フェルナン・ブローデルの長期持続の理論からアイディアを咀嚼して「脱・社会科学」を主張した言説にも異論が次々と沸き起こってくる。現象論的な熱力学的記述に合致する進化発展パターンを系のもたらす動力学的不安定性の表現として自己組織化的創発と結びつけられた不可逆的時間概念が歴史的な時間の基礎づけを提供するものとして期待されもしたので、ウォーラーステインの史的社会科学に使えると思ったのかもしれない。カオス系において軌道の統計的記述は力学的概念に還元できないので、カオス力学系の存在は決定論的世界観からのラディカルな離脱の必要を示しているとするプリゴジーヌの考えが、ウォーラーステインだけでなく哲学者ジル・ドゥルーズをも魅了したのだろう。

 

 必ずしもその主張に全面的に賛同するわけではないにせよ、この種の歴史理論に対する強い懐疑を表明するのがウォール街で数週間もの長い期間にわたってベストセラーの位置にあったThe Black Swan;The Impact of the Highly Improbableの著者ナシーム・ニコラス・タレブである。本書は『ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質』(東洋経済新報社)として邦訳もあるけれど、上下2冊本になっているので、1冊に収まっている原書の方が安上がりで済むだろう。ペンギン・ブックスのペーパーバック版なら日本円にして2000円程度で入手できるので、できれば原書で読んだ方がよいだろう。それというのも、このタレブという人は様々な古典からの引用や独特の毒舌ぶりで読む者を退屈させない文章を書かせるとピカ一であるので、その表現を直に味わうには原書を読むに限る。タレブはFooled by Ramdomness(本書は『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』(ダイヤモンド社)として邦訳されている。『ブラック・スワン』と内容が重複するが、こちらの方がまとまっているかと思う。散文としての妙味は『ブラック・スワン』で、まとまりの点では『まぐれ』になるだろうか)においても、この種の作り物の歴史を考える際にどうしても触れないわけにはいかない「似非思想家」の始祖としてヘーゲルを取り上げる。タレブの最新刊のSkin in the Game(本書はまだ邦訳がないけど、いずれ近いうちに訳されるだろう。早い話が「自腹を切れ」というものだ。自らはリスクを背負わず安全な場所から傍観者的に何かを語っている者は信用ならないし、そうした者の言説はたいてい頓珍漢な誤謬に犯されているというわけだ)も相変わらず面白いので一読されんことを!なお、タレブと同様に元トレーダーで、数学者そして確率論の哲学を研究する科学哲学者へと転身したエリー・エイヤッシュのThe Medium of Contingencyも大変深い思索に富んだ著作だ。タレブと同じレバノン出身で、フランスのエコール・ポリテクニーク卒業後に金融の世界に飛び込みデリバティブ・トレーダーとして活躍するうちに同時に確率論を研究する数学者へ、そして最終的には関心を確率や偶然性をめぐる哲学的問題へ移して科学哲学者へと転身した変わり種だ。タレブもパリ大学において確率論の研究にてPh.Dを取得し、またペンシルバニア大学のウォートン・ビジネス・スクールのMBAを取っているトレーダー兼不確実性の科学を研究する大学教授であり、世界あちこちのカフェで瞑想に耽りながら読書に勤しむ遊び人だ。残念ながら、このクラスのインテリが日本にはほとんどいない。普段は多様性を言祝ぐくせに自らは多様性と程遠い画一的かつ狭隘な世界を形成する日本のアカデミズムは、実社会に出たことのない「純粋培養型」の研究者が圧倒的に多く、蓮實重彦が指摘したように「グレる」体験を経ていない者ばかりで構成されるという閉塞状況に陥っている。逆に民間から大学入りした者といえば、マスコミ人の「天下り」とか選挙で落選した者の「腰掛」となっていてどうしようもない。学部、修士、博士と全て異なる学問分野を専攻し「グレる」体験または「迂回」を経験し多くの「ノイズ」を吸収してきたインテリがザラにいる欧米知識人の世界と比べて日本のアカデミズムが貧困に見えるのは、何も日本人の能力が不足しているからではなく、そのあまりの画一性のためだろう。

 

 科学哲学者カール・ポパーがその無意味さをあげつらったヘーゲルのある一文を引用しながら、タレブは次のようにヘーゲルの言を「戯言」とした上で、幾分ユーモアを交えつつこの類の「似非思想家」に対して「学部レヴェルの統計的標本抽出論の単位を取るまで自由な世界に釈放してはならない」というほど辛辣に批判する。もっとも、この「似非思想家」という表現はあくまでタレブによる表現であって、僕自身はヘーゲルを必ずしも似非思想家とは思わないが、ただタレブならずとも多くの知識人が指摘するように、ヘーゲルには難解さを装った不必要な表現がたたって無意味な文章になっているケースあることも確かだ。だからこそ、ことあるごとにヘーゲルの文章はよく槍玉にあげらる。僕の記憶が正しければ、確かハンス・ライヘンバッハ『科学哲学の成立』(みすず書房)の冒頭もヘーゲルの文章を引用した上で、いかにヘーゲルが無意味な戯言を述べているかを例証して批判を展開していたはずだ。ヘーゲルですらこうなのだから、フランス現代思想に対してタレブが何と言うかは想像するに容易いだろう(確か『ブラック・スワン』の中で、タレブが機内でアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによるFashionable Nonsenseを読みながらゲラゲラ声をあげて笑ったエピソードが触れられていたはず)。いずれにせよ、タレブによるヘーゲルの「歴史主義」的な言説に対する主張は手厳しい。

By history I refer to the anecdotes, not the historical theorizing, the grand-scale historicism that aimes to interpret events with theories based on uncovering some laws in the evolution of history-the sort of Hegelianism and preudoscientific historianism leading to such calls as the end of history(it is pseudoscientific because it draws theories from past events without allowing for the fact that such combinations of events might have arisen from randomness; there is no way to verify the claims in a controlled experiment).・・・It is hard to resist discussion of artificial history without a coment on the father of all pseudothinkers, Hegel. Hegel writes a jargon that is meaningless outside of a chic Left Bank Parisian cafe or humanities department of some university extremely well insulated from the real  world. ・・・People call that philosophy and frequently finance it with taxpayer subsides! Now consider that Hegelian thinking is generally linked to a "scientific" approach to history; it has produced such results as Marxist regimes and even a branch called "neo-Hegelian" thinking. These "thinkers" should be given an undergraduate-level class on statistical sampling theory prior to their release into the open world.  

 

 閑話休題。1985年は阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年であり、乗客乗員524人中520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故があり、「グリコ森永事件」と称される警察庁広域指定第114号事件において犯人とされる「かい人21面相」による終結宣言が出された年であり、その他新聞の社会面を賑わす事件や事故が多かった年である。チェルネンコの後継としてゴルバチョフソ連共産党書記長に就任してペレストロイカに着手した年でもある。

 

 しかし、これら一連の事件事故があったからといって時代を画するメルクマールとなった年となるわけではない。この年が決定的だったのは、もちろんプラザ合意があったからである。米国ニューヨークのプラザホテルに集まった先進5か国の蔵相によるドル高是正の合意と各国の協調介入による急激な円高とその後の不況に直面することで内需拡大政策に舵を切った日本経済は、資金が株式や不動産の投機に集中することでバブル経済を招き寄せることになった。この一連の日本社会の変質が日本人の精神史に与えた影響は頗る大きい。ところが、この事件に対する批評の側からの反応が極めて鈍感な言葉での対応でしかなかったところを見ると、この頃から我が国の批評はリアリティを喪失していたのだということがいやましに募ってくる。江藤淳福田恆存などは、必ずしも経済に明るい批評家ではなかったものの肌で感じ取っていたのだろうか、それとわかるような言説を残しているわけだが、その他の批評家となると壊滅的なのであった。それでも、この時期は辛うじて論壇というものがわずかながら存在していたので、今と比べると格段にレヴェルは高かった(現在の日本の批評は全部とは言わないまでも、ほぼ絶滅といっていいだろう)。

 

 それはともかく、この時期に完全に馬脚を現した思想家として吉本隆明を挙げることができる。吉本を紹介する言葉として何かにつけて持ち出される表現に「戦後最大の思想家」という「接頭辞」がある。僕が生きている時間はほぼ平成の御代と同一なので、吉本隆明が「スター」であった時代を知らない。昭和10年代生まれの祖父に聞いてようやく吉本隆明が脚光を浴びていた時代をうかがうことができるといった感じだ。ただ、祖父にしても吉本がいつから「戦後最大の思想家」と形容されるようになったかの記憶は無いようだ。とにかく吉本の「伊勢物語論」は読んでいたのみで、その後の『共同幻想論』やら『言語にとって美とはなにか』などには関心が向かなかったらしい。小熊英二が『<民主>と<愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)で触れていたように、「60年安保」当時はある種素朴とでもいってもいい「反米愛国主義」が広がっていて、祖父はそうした文脈で吉本のテクストも消費されているとあざとく感じ取ったためか、吉本隆明への傾倒を経験したことはなかったという。むしろ「朝日・岩波・東大」に象徴される戦後民主主義の擁護者としての東大法学部アカデミズムへの信頼は揺るがなかったようだ(この評価に僕は全く同意できないわけだが)。オールド・リベラリストである祖父にとっては、吉本隆明丸山真男への非難攻撃は「言いがかり」程度にしか聞こえなかったものと思われる。

 

 吉本隆明著作集に収められている「政治思想」と題される著書にある「擬制の終焉」等のテクストを読む限り、学生の集団に東大法学部の丸山研究室が荒らされた際に「日本の軍国主義者やナチスですらやらなかった暴挙」といった類の丸山の言葉には僕も違和感を覚えるが(この点、団藤重光は大衆団交でつるし上げにあいかけた際も、堂々と議論をふっかけて取り囲んでいた数百人の学生相手に一向に動じなかったことと比べると対照的である)、丸山や丸山的なものへの嫌悪と反発の感情を持つ僕ような者でも、吉本のテクストからは何故そこまで丸山に対して憎悪の情が沸き起こるのかが全くわからかった。このような「言いがかり」ともいうべき表現で以って丸山を攻撃する者が何故に「戦後最大の思想家」などと形容されているのか不思議でならなかった。その疑問を解消しようと、『共同幻想論』(河出書房)やら80年代の消費社会を肯定的に捉えた『マス・イメージ論』(ちくま学芸文庫)や『ハイ・イメージ論』(ちくま学芸文庫)なども目を通してみたが、やはりよくわからない。『共同幻想論』は『古事記』や『遠野物語』の二つのテクストに定位して国家論をぶつという構想自体は面白い試みだと思うが、論証は杜撰のきわみだし、80年代消費社会を肯定する著作も、日本政治史についての基本的な認識さえあれば犯さないであろう誤りがあちこちに見られ、とても現代日本社会分析に使用できるものではなかった。

 

 浅田彰の「読解不能」という感想も、むべなるかな。そのわりには、英国の定評ある左翼ジャーナリズム雑誌であるNew Left Reviewに寄稿した論文では、日本の左翼の特異性を日本共産党の歴史を基軸にして手際よくまとめて論じる文脈にて吉本隆明もちゃんと紹介している。日本の知識人なら当然知っている左翼の歴史の総覧図でもあるこの論文は浅田彰のまとめの上手さが光っているし、英文自体はぎこちなさが残るものの日本の大学教師の割にはきちんと書けている(大学のセンセーの書く英文には酷いものが多い。これも、日本の受験教育の失敗の一例だろう)。

 

 一度、吉本の文章を翻訳して掲載してみると面白いだろう。意味の読み取れる英文になるのか幾分怪しい気もするが、仮に有意味な文章を読んだとして、おそらく読者の多くはこれのどこが左翼なのだろうかと訝しがるに違いない。吉本隆明には、自分の言葉が外国語に翻訳されるとするならそれがどう理解され受けとめられるのだろうかということの意識は希薄であったと思われる。翻訳の容易さまたは難しさとは別に、自国語と外国語との緊張を意識しない現代の思想というものは考えにくく、仮にあったとしても、それは大したものではないだろう。吉本ではないが、とかく日本人研究者の英文は、同じ論文なのに、物凄く平易な表現で書かれているかと思えば、急に物凄く気負った表現が登場するなど、まるで現代の緩いエッセイ文が急に擬古文に変わるようなぎこちなさが目立つ英文になっているケースがしばしば見られる。

 

 イメージ論で社会を分析できるほどに社会は単純ではない。確かに、80年代は消費社会の実現という側面もある。だが、どいつもこいつもそうした消費社会を生んだ日本の「市民社会」の構造の分析に手をつけているようには思えなかった。80年代とは、それまで徐々に緩やかな下降線をたどってきた労働時間が再び上昇に転じ、史上稀に見る長時間労働が見られ、過労死が激増し、ノイローゼ患者が増え、家庭崩壊・校内暴力の激増に現れる教育現場の崩壊など、陰に陽にこれまでの資本・賃労働関係の諸矛盾が一挙に顕在化した時代でもあった。それは、1970年代において、資本・賃労働関係の大規模な構造変動過程のなかで潜伏的に醸成されていったことの顕在化だった。生産部門での変容だけでなく政治部門においても支配構造の再編成が起こった。しかもこの動向は、実は司法部門でも起こっていた。最高裁の「反動化」ないし「保守化」の流れが促進され、幾多の諸判決にもそれが反映されている。法学部出身者ならば誰もが知っている憲法に絡む労働関係の事件で有名な「猿払事件」や「全農林警職法事件」を見れば明らかだろう。東大法学部教授を退官して(わずかに慶應義塾大学教授の期間を経て)最高裁判事になった団藤重光は、後に最高裁長官になることが有力視されていたが、その予想が覆り保守派の石田和外が長官に就く人事にも現れていた(石田は、最高裁長官を退官後、日本会議の前身である日本を守る国民会議の初代議長に就いている。なお同じく、元最高裁長官の三好達日本会議会長に就いている)。

 

 そうした市民社会の構造とともにあった日本経済の未曾有の「繁栄」として、例えば「金満日本」を象徴する海外旅行者の急増現象が見られ、休日に家族サービスとして海外に楽しげに出かける労働者群がクローズアップされるなか、同時にその同じ労働者群がぽっくり過労死するなんてことがあったわけだし、企業別労働組合の体制内化に一段と拍車がかかり、企業社会の中での権威的支配秩序の形成によって醸成された諸矛盾が、そうした資本・賃労働関係と一見無関係に見える周辺部分にて歪な形で社会現象となって顕在化したのもこの時期であった。こうした社会構造の変動を高度成長期に実現した日本型市民社会の分析として提出した研究はまったくないわけではないが、旧来型左翼はその「日本型」の力点を日本社会の前近代性ないし半封建制といった未成熟性に求める議論が主流でポイントを外していたし、社会学はといえば、これまで資本・賃労働関係の分析をおざなりにして薄っぺらい分析しかしておらず、日本社会の構造分析としてあまり使い物にならない。

 

 この時期の批評を読むと、現在でも読むに値するものがあまりなく、ほとんどゴミ同然といったのが多い。選択消費が増えて労働者の望む社会になったとして消費社会を肯定した吉本隆明の批評はその典型だ。浅田彰柄谷行人も全然見えてなかったようで、同様に寝ぼけたことを語っていた。この時期の柄谷の文章を見ると完全に浮かれていて、その言説自体がチープな消費財に成り果てていた。浅田彰『逃走論』(ちくま文庫)にある柄谷、浅田、岩井克人の鼎談の内容たるや、今から見ればお笑いだ。不思議なことに、この意味不明な「戦後最大の思想家」という「接頭辞に」対して、アカデミズムの権威を叩いてきた吉本隆明は何ら違和感を表明した形跡がないのである。まんざらでもないと思っていたのだろうか。「偉大なる首領」だの「親愛なる指導者」だのいった接頭辞のようで、吉本についてまわる「戦後最大の思想家」という陳腐な「接頭辞」は、かえって吉本隆明の思想の程度がうかがい知れることを物語っているような気もする。

 

 いずれにせよ僕は吉本隆明のよき読者ではないこともあって、「戦後最大の思想家」だの「戦後思想の巨人」だのと吉本隆明を崇め奉る者たちへの軽蔑をも抱いてきた。数々の論争を罵倒の連呼で凌ぎながら論壇での地歩を確固たるものとしてきた吉本隆明の歩みは、後世「論壇政治」の中でのヘゲモニー奪取過程の悪しき先例として語り継がれることはあれど、肝心の吉本が遺したものはといえば、歴史に残る思想家の業績としてはみるべきものはそれほど多くはない。なぜ、こうした言説が一定の領域で機能し受容され、あげくは「戦後最大の思想家」だのといった実態とかけはなれた虚像が形づくられ祭り上げられていったのか。後の世に「墜ちた偶像としての吉本隆明」として俎上にのせられることになるだろう。吉本隆明新左翼運動に影響を与えた人物とされているが、吉本の遺した文章を孫の世代よりも更に若い世代に属する僕が読む限り、吉本は「反体制」を貫くどころか露骨なまでに「体制」の擁護者であり、一見「反体制」を装いつつも「反体制」運動が盛り上がりかけると水をさして早急な火消しにまわったといってよい。

 

 埴谷雄高との論争のいわば「場外戦」として大岡昇平に噛みついた時も、大岡・埴谷の共著『二つの同時代史』(岩波書店)での大岡の吉本に対する「スパイ」をにおわす発言に対して怒り狂って裁判闘争も辞さずとの穏やかならざる対応をしていたことからも、かえって図星ではないかなとの勘繰ってしまうほどだ。そう思わずにはいられないほど吉本の言動には首を傾げないわけにはいかないし、少なくとも「支配層」からすれば自らの御用聞きとして巧く動いてくれる「ありがたい存在」に映ったに相違ない。もっとも、「体制」・「反体制」、「支配層」・「被支配層」といった二分法で片付けられるわけでもないし、そうした二分法が判断する目を曇らせることもありうるが、やはりマクロなレベルでの権力構造の存在を無視することも到底できるものではない。マクロなレベルでの権力構造ではなく、個々の関係の網の目に形成されるミクロな権力をこそ注視するべきとの考えがその主唱者の本意とは別に流通し、それがマクロなレベルでの権力構造への視座を忘れさせもした日本の批評の歴史を一瞥するならば、なおさらこの点を意識しないわけにはいかない。その上で、改めて吉本隆明の言説がどう機能してきたのかを顧みると、先述した通り「支配層の御用聞き」として結果的に機能したのだという点を強調しておくべきだ。

 

 具体的な言説をあげつらえばキリがないので、ここでは吉本の論争での態度が強圧的であったことを思い返そう。先ほどの埴谷雄高との論争は、大岡昇平とのそれを除くならば幾分か穏やかなものであるが、例えば花田清輝との論争にしても谷沢永一との論争にしても、はっきり言って論理は支離滅裂で一貫して相手を罵倒・中傷する子供の喧嘩の態度であった。谷沢永一の他人に対する批判・罵倒も同じく理不尽なものが多かったが、こと吉本隆明との論争に関しては谷沢の主張に理があることは、この論争の過程を調べた者ならば了解されよう。と同時に、浦西和彦の求めに対して理不尽な言動で返した吉本の非常識ぶりと権力欲剥き出しの態度に閉口する思いをするだろう。丸山真男に対する態度に見られるアカデミズムの権威を非難する吉本その人自身も、否、むしろ吉本こそが権威主義的なパーソナリティの最たるものであることを証明する結果に終わったのが、谷沢永一との論争の顛末であった。

 

 批評家と称する者たちが、自身を売り込むことに傾注し「論壇政治」に明け暮れてなんとかヘゲモニーを確保せんと、時には「重鎮」に媚を売り、時には敢えて相手と反対の立場に立って目立とうして小賢しい小細工をしながら「身を立て」ていくことは何も吉本に始まったわけではなく、昔から存在した。論壇自体が消滅した今の日本で、そういった事態が出来することはないのかと言えば、甚だ疑問だ。メディアは商品として何かを無理やりにでも担ぎ出す。何度も繰り返されていることだ。中には優れた批評がゴミの山から発見されることもある。だからこそ、「これだ!」と見つけた時の喜びは大きくもなる。ただ気になるのは、現在の批評家とされる者の経歴が極めて画一的であるということである。悲しいかな、我が国では特にその傾向が顕著なことに、文科系における優秀な層は、元々アカデミズムの世界が刺激的ではない「ぬるま湯」的環境であるという理由以上に、経済的なリスクを回避して先行不安定なアカデミズムの道に進もうとはしないので、文科系アカデミズムは先細りの傾向に拍車がかかり、優れた研究者が育たないという絶望的な状況である(かつての東大法学部の学士助手制度は、そうした事情から、優秀な者をアカデミズムに繋ぎ止めるために設けられていた制度であった。この制度により、大学院を丸々すっとばして公務員としての給与が支給される助手に3年間採用され、25歳で東大法学部助教授ないしは東大法学部の植民地の大学の法学部助教授に赴任するというシステムが整えられた。特に理科系の人からすれば考えられないような特権が付与されていた。あのフィールズ賞級の天才的な数学者である望月新一京都大学数理解析研究所教授でさえ、飛び級で19歳でプリンストン大学を卒業し20代前半にPh.Dを取得したにも関わらず助教授の地位についたのは20代後半だったことに比べて異常な措置であるか。ところが、それでも研究職を志向する優秀層はそう多くないのが東大法学部の現状である)。

 

 アカデミズムの研究者として大学等に籍をおくのではなく筆一本で勝負するかつての文士は飯が食えないのでほぼ皆無となり、そうした事情もあって、これまた優れた能力を持つ者は、経済的社会的地位を捨てて率先して批評の現場に立とうとは思わない。批評の読者層が薄くなっていくと同時に、批評家の劣化も激しいものとなっていく。特に日本の場合、この傾向は著しい。

 

 かつての西欧社会がよかったとは全く思わないが、階級社会が顕著であった頃の批評は今でも読んでいて面白いものが多い。悔しいかな、今日の日本と比べて書き手の教養の差が歴然としているのである。余裕のある暇人が単に暇で暇で仕方がないので、小賢しい立身出世のための知識ではなく、それ自身では直接「役に立たない」教養を腹に貯めていたからこそ得られた批評だったのだろう。日本の教育は、近代化の果てに立身出世主義のための教育に成り下がってしまった。その象徴が東京大学である。その点から考えれば東大解体もありなのかもしれないが、第二の東大が登場するだけに終わってしまうのだろうから解決策にはならない。いずれにせよ、余裕のある暇人が出てこないような高度大衆社会の出現を見た日本社会からは、刺激的な批評は中々生まれてこないのかもしれない。