shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

Fools, Frauds and Firebrands

 以前、神田神保町古書店で108円という値で叩き売られていた谷沢永一『悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊12人』(クレスト社)は、あからさまに「岩波系」の「進歩的文化人」とされた知識人だけを狙い撃ちした、思想研究というより単に一部の字面だけを抽出してイデオロギー的な糾弾をするというクズ本の類なのであるが、このクズ本の推薦文を谷沢のお友達だった渡部昇一だけでなく作家の阿川弘之までもが寄せていたことに些かショックを覚えたことを思い出す。阿川弘之『雲の墓標』(新潮文庫)の全く無駄のない間然するところなき名文に触れて、阿川への尊敬と憧憬の念を抱いていただけに、何故、ある程度思想を学んできた者ならばその初歩的な誤謬を容易に指摘できるようなクズ本を「胸のすくような快著」などと誉めそやかすような短文をよこしたのか。志賀直哉の弟子として理想的な文体を確立するまでになった大作家のやるべきことではなかった。谷沢と同様、粗製濫造しまくっていた渡部昇一にしても、希少な古書を含む約15万冊もの蔵書を誇る世界有数のビブリオフィルとしての面に対しては尊敬するものの、この谷沢永一のクズ本に書かれている、コミンテルンの「32年テーゼ」と「進歩的文化人」との恣意的なこじつけによって結びつける主張に対して、思想研究史上の「世紀の大発見」と、およそまともな精神では書けないような戯言を弄していたのは、つくづく残念である。この書物のせいで、批判されている者の読みもしないで知ったかぶりで罵るという不誠実な連中がわんさかわいて出てきたのは、あたかもソーカルやブリクモンの著作もその著作で批判されている論者の著作も全く読みもしないで、知っている振りをしてポストモダンだけでなく人文学そのものまで罵倒する連中が出てきた現象と類似している(だいたい出来損ないの自称「理科系」の人間か、物事を突っ込んで考える癖のない単なる偏差値人間それも中途半端な偏差値の高さで勘違いしているボンクラか)。

 

 谷沢の主張によると、国際共産主義運動の指導組織であるコミンテルンの本部のあるモスクワから、コミンテルン日本支部と位置づけられていた日本共産党に対して下った「32年テーゼ」は、日本における近代化の過程をほぼ全面的に否定する内容でなっており、1932年時点での日本社会はいまだ近代ならざる半封建的残滓が存在する資本主義としても未成熟な体制であって、先ずは国内の民主革命とさらなる社会主義主義革命という二段階革命論を指令するものであって、このテーゼに従って戦後の進歩的文化人は言論活動を行ってきたというトンデモな内容を谷沢は滔々と主張していく。もちろん論証など微塵もない。ともかく、代表的な進歩的文化人12人を取り上げ、彼らがこの「32年テーゼ」を「聖典」として反日活動を展開してきたという正気とは思えない珍妙な主張をこれでもかというほど語り下ろしていくわけで、ギャグとして読めばそれなりに読める。その意味で、中川八洋の『正統の哲学・異端の思想-「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店)や『保守主義の哲学-知の巨星たちは何を語ったか』(PHP研究所)や『正統の憲法・バークの哲学』(中央公論新社)と同様、ある程度勉強した者がそこに書かれている誤りをいくつ見つけ出すことができるかを試してみるのに利用できるだろう(学術論文で、こんな本を自説の補強資料として引用しようものなら、一撃で研究者生命は破壊されるだろう)。

 

 例を挙げると、「戦後の学界、言論界の大ボス・大内兵衛への告発状」-「日本は第二次大戦の主犯」と言う歴史の偽造家。「日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状」-「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の煽動者。「戦後民主主義の理論的指導者・丸山真男への告発状」-国民を冷酷に二分する差別意識の権化。「進歩的文化人の差配人・安江良介への告発状」-金日成に無条件降伏の似非出版人。「「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収への告発状」-恫喝が得意な権力意識の化身。「進歩的文化人の麻酔担当医・加藤周一への告発状」-祖国をソ連に売り渡す“A級戦犯”。「日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状」-その正体は、北京政府の忠実な代理人。などなど、この調子の文章が12人分続いていくわけだが、正味の内容はといえば、思想研究の名には値しない噴飯物で、しかも文章の曲解も甚だしい。文脈を無視した片言隻句をとらまえて、これに感情的な罵倒の言葉をぶつけるに終始している。笑えるのは、「32年テーゼ」に従って、これに忠実に反日活動を展開していると言いながら、いきなり労農派の大内兵衛を持ってくるのはお笑いとしか言いようがない。「32年テーゼ」は日本資本主義発達論争における講座派マルクス主義と親和的であって、労農派の立場とは明らかに矛盾・衝突する。また丸山真男は、日本共産党と対立関係にあったわけで、特に「戦争責任」論において、丸山が政治は総じて結果責任でもあるから、戦争を食い止める現実的に有効な運動を組織しえなかった日本共産党に責任がなかったとは言えないと主張したことに、正義の立場を貫いた自らには何ら責任はないと開き直る共産党が御用聞きを集めて丸山批判を展開させたほどだ(この辺にも日本共産党の独善体質を見る思いがする)。もちろん丸山真男には度し難いエリート主義と差別意識の持ち主であったことは確かだから、谷沢の批判にも一理あるが、しかし、思想史研究においては犯さない誤謬を谷沢が連発しているのを見ると、いくら大量の読書量を誇ると言っても肝心の理解力が不足すると、ほとんど無意味であることがわかる好例である。

 

 このような質の悪い批判本くらいしかない日本の現状であるが、外国を見渡せばいわゆる保守の側から左翼の論者数人を集めて批判を展開するレヴェルのそこそこ高い著作が存在する。ロジャー・スクルートンのThinkers of New Leftは、何かにつけて「解放」のプログラムを主張する左翼知識人の一群に対して、保守派の立場から「いいかげんにせい!」と一括した一般人向けの左翼批判本である。

 

Conservatism or at least, conservatism in the British tradition is a politics of custom, compromise and settled indecision. For the conservative, political assosiation should be seen in the same way as friendship: it has no overriding purpose, but changes from day to day, inaccordance with the unforseenable logic of human intercourse. Extremists within the conservative alliance, therefore, are isolated, eccentric and even dangerous.

 

ジョン・グレイだとかロジャー・スクルートンといった英国の保守主義を標榜する哲学者による批判本は、その論旨に全て賛同するわけではないが、読んでいて痛快である。ジャーナリスティックな物書きでもあるロジャー・スクルートンのFools, Frauds and Firebrands:Thinkers of New Leftはその一例だ。この書は、30年ほど前に出されたThinkers of New Leftの第2弾という位置づけで、第1弾の1985年に出された著作では、特に1960年代から1970年代に持て囃された新左翼的な傾向の思想家14人を槍玉にあげて自らの保守主義的立場を展開するものとなっている。第1弾も第2弾になる2015年の著作もともに、冒頭にWhat is Left?と末尾にWhat is Right?とする構成。レイモンド・ウィルアムズやルイ・アルチュセールのようなマルクス主義者を標榜する者だけでなく、むしろ逆に直接はマルクス主義と関わらないはずのロナルド・ドウォーキンの平等主義的リベラリズムにも批判の矢が放たれる。マルクスの影響下にありながらも、オーソドックスなマルクス主義とは一線を画しているイマニエル・ウォーラーステインに対しても、レーニン帝国主義』が想定していた国際的に連帯したプロレタリアートが現実には不在であることから、その代わりとしての「第三世界」論が持ち出されるという意味で、構造的にはマルクス主義の亜種でしかないという仕方で批判の対象とされている。「第三世界」論がいわば隠れ蓑になっているという。第2弾になると、第1弾には出てこなかったラカンドゥルーズさらにはバディウジジェクも槍玉にあげられる。しかも、批判の調子は抑制されていた調子の第1弾より過激さを増し、題名に現れているように、「愚か者」・「詐欺師」・「扇動家」と谷沢永一的な表現になってきているのが面白い。バディウとかラカンとかジジェクへの罵倒に関しては異論はないが、好きなドゥルーズが「詐欺師」呼ばわりされるのは、些か反発を覚えるのも確かだ。ドゥルーズ自身ではなく、ドゥルーズの読まれ方あるいは消費のされ方には確かに当てはまるかもしれないけど、ドゥルーズは他の「フランス現代思想」の左翼知識人とは違って、17世紀のスピノザライプニッツからニーチェを経てベルクソンに至る、カントの超越論哲学とは別の哲学者の系譜に位置づけられる伝統的な形而上学者だというのが、僕の意見なのだが。確かに知識人としての発言は左翼がかっていたにしても、その哲学の核心部分においては、右でも左でもないというのが僕の見立てだ。

 

When, in the works of Lacan, Deleuze and Althusser, the nonsense machine began to crank out its impenetrable sentences, of which nothing could be understood except that they all had “capitalism” as their target, it looked as though Nothing had at last found its voice.

 

 英米ではかなり著名な哲学者・批評家であるスクルートンの膨大な著作の邦訳はない。スクルートンだけでなく、保守系の思想家の邦訳が少なく、逆にそれほど著名でもなければ一流の知識人ともみなされていな人物であっても、左翼というだけで邦訳されている日本の出版状況は相当歪つだろう。あるいは、保守的な立場なのにその側面を無視した紹介がなされたりもする。エリザベートアンスコムマイケル・ダメットも、信仰においては極めて保守的なカトリックの信徒で、個々の政策においてはいわゆる「リベラル」とされる政策を支持することはあっても、その道徳的倫理的信条は明らかに保守の立場だが、そうした政治色が見えない部分だけが紹介されている(もっとも、アンスコムもダメットも、社会思想や政治思想とは独立した形而上学や科学の問題を扱う純粋哲学者だから、そうした紹介が誤りであるとまでは言えないが)。また、アイザリア・バーリンマイケル・オークショットなどの邦訳もないわけではないが、依然として少ない。哲学者ではないが著名な保守主義者である詩人のコールリッジやエリオットの文献も少ない。文学ではギルバート・チェスタートンがよく知られているくらいだろうか。バーナード・ウィリアムズだって有名なのに、英米での知名度の割には、日本では倫理学の研究者を除いて一般人にはなじみが薄い。そのくせ逆に、欧米ではごく一部の特定集団を除き、広範なインテリの世界では大して知られてもいないバディウジジェクの著作となると、左翼というだけでやたらと翻訳される(バディウに関しては、肝心の『存在と出来事』や『世界の論理』が訳されていないけど。ただ、これまでの翻訳書を見ると、おそらく凄まじく酷い翻訳になりそうで怖いが)。これはどう考えても変だろう。