shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

任意処分再び

 ほぼ10年ぶりに以前書き散らかした文章をほぼ修正なしに再掲することになるが、警察官職務執行法(以下、警職法)2条1項によると、警察官は何からの犯罪を犯したあるいは犯そうとするとの疑いがもたれるなどの挙動不審者を停止させて質問することができる。この警職法における職務質問は、既に発生した特定の犯罪の捜査といった司法警察活動とは一応区別される犯罪の予防・鎮圧を目的とした行政警察活動である。もちろん、何もない状況でいきなり職務質問が可能であるとは考えられず、したがって職務質問とは、一定の不審事由の存在を前提にした警職法2条1項に根拠規定を持つ行政活動という理解がなされている。自動車の無差別一斉検問の合法性が今なお議論されているのも、一見して不審事由の存否が不明確な段階での検問行為が警職法2条1項適用前の段階に思われるからである。だから警察法という組織規範を定める法を根拠とする苦し紛れの解釈が登場した訳だろう。

 

 ともかく職務質問は、強制処分法定主義(刑事訴訟法197条1項但書)や令状主義(憲法33条、同35条)の制約を受けない任意処分としての性格を有しているとされる。ところが、刑事訴訟法(以下、刑訴法)の講義を聴講した経験のある者ならば誰でも最初に疑問を持つだろうが、強制処分や任意処分の定義は明文規定として存在しない。それは専ら解釈に委ねられており、この点につき最高裁は、任意処分を強制処分ではないものとして控除的に捉えていることはよく知られている。では、強制処分とは何かについてであるが、この点について昭和51年最高裁決定は次のように判示している。

強制手段とは、有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の規定がなければ許容することが相当でない手段を意味する。

 

 要するに、有形力を行使したからといって直ちに強制と判断されるわけではないということ(世間一般の常識からすれば、有形力を伴うなら何らかの意思の制約があるのだから少なくとも「任意」とは言えないではないかということになるだろう。しかし、最高裁はそうは考えない。有形力が行使されようと、なお任意処分とされることもあるということである)。その度を超えて「強制」であると評価するためには、「個人の意思の制圧」(これは「制約」ではない!制約の程度を超えて、意思を「制圧」するに至るまでの行為を要するということである)により、身体、住居、財産等の重要な権利・利益を制約した場合において、初めて「強制」と判断されるというのである。

 

 後の、「強制的に捜査目的を実現する行為」や「特別の規定がなければ許容することが相当でない手段」という表現は、それ自体が強制処分の形式的意味なのだから同義反復の表現でしかなく、強制の実質的意義を確定するにあたっては全く無意味な内容しかない表現である。したがって、最高裁が示した強制であるか任意であるかを判断するメルクマールは、①個人の意思の制圧の存否、②それによる重要な権利・利益への制約の存否ということになるだろう。もちろん、強制ではないものとしての任意手段であるとはいっても、何らかの法益を侵害するおそれがあるのだから、警察比例の原則は当然遵守されねばならず、そのことを踏まえ最高裁も、

強制手段にあたらない有形力の行使であっても、何らかの法益を侵害し又は侵害するおそれがあるから、…(中略)…必要性、緊急性なども考慮したうえ、具体的状況のものとで相当と認められる限度において許容される。

 

と判示している。

 

 この最高裁決定は、既に捜査段階に入った事案における任意捜査の許容性及び限界について判断されたものであって、その段階以前の行政警察活動としての警職法上の職務質問の場合について直接判示されたものではないということに注意する必要があろうが、行政警察活動と司法警察活動との境界は相対的になっており、また行政警察活動としての職務質問が後の司法警察活動としての犯罪捜査活動の端緒ともなっている実情を踏まえると、学界通説の通り、この判例の射程は基本的には行政警察活動としての職務質問における有形力行使の許容性及び任意性と強制性との区別に関する事案にも及ぶと解してよい。

 

 警察比例原則によって、任意であっても必要性・緊急性を踏まえて相当性をもった方法・手段によりなされるべきとの制限が加えられるので、たとえ強制処分とみなされるほどの有形力の行使までは認められずとも、そのやり方如何によっては違法な任意処分とされることもありうるということである。要するに、この必要性・緊急性・相当性というメルクマールは、事案の内容によりある程度伸縮自在の概念として機能する。事実、銀行強盗発生後に犯人であるかもしれないとの不審を抱かれるだけの外形を持ちながらも、現行犯逮捕ないしは緊急逮捕の要件までは具備しているわけではなかった事案(確か「米子銀行事件」だったか?)においては、最高裁職務質問に伴う所持品検査において許される行為の範囲を相当広く解している。もし、客観的状況やら外形からでも不審事由がほとんど見られない場合に上記事件と同様の態様の行為がなされれば間違いなく違法との評価が下ったであろうと想像される。

 

 このように、必要性・緊急性・相当性とは許容される行為の範囲を具体的事案に無理なく伸縮させる機能を持つ。よく、「職質はあくまで任意のみ許されるのだから『任意であるので質問に答える義務はない』といってやり過ごせるばよい」と言う人がいる。もちろん、原則はそうである。職務質問警職法2条1項に一般的根拠規定を有するが、あくまで任意の手段によって果たされるべきなので質問に答える義務はないことになる。しかし、現実はそう単純ではない。場合によっては、その態度が不審事由をなお一層高めたと評価され、それゆえに許容される有形力の程度もそれに比例して高まっても、必ずしも違法とは言えないと判断されるおそれもある。実際の職務質問の方法・態様も、こうした考え方に基づいたものとなっている。そして、そう解釈することも現実の事案を考えれば仕方がない面もある。

 

 それにしても当初から疑問だったのは、何ゆえ任意手段として許容される行為が根拠規定を要すると解されねばならないのか、すなわち警職法2条1項にその根拠を求めねばならないのかということである。強制処分法定主義(刑訴法197条1項但書)は、強制処分を行うには必ず法律に特別な根拠規定がなければならないという考えを指す。つまり、例えば逮捕・勾留などの対人的強制処分にせよ、捜索・差押えなどの対物的強制処分にせよ、およそ強制手段を用いてなされる活動には刑訴法にその旨の根拠規定が存在することを要する。強制とは何かをめぐって解釈の争いはあるものの、一応判例法理として定着している上述の強制処分の定義規定に該当しないものならば、それは任意処分として控除的に扱われることも確認した。この強制処分法定主義を反対に解釈すれば、任意処分は特別の根拠規定を要しないということになりそうである。

 

 行政法学上の「法律による行政の原理」とは、①法律の専権的法規創造力の原則、②法律の優位の原則、③法律の留保の原則により成る。法規とは、狭義においては国民の権利・自由を制限しまたは義務を課すことを内容とする法規範を指す。それ以外は広義の法規範といえども法規とは言われない。この法規としての効力を持つ法規範については国会で制定する法律の形式でその根拠が定められめられねばならないというわけである。この法律の専権的法規創造力の議論は、憲法41条をめぐる憲法学上の解釈、つまりは実質的意義の立法をめぐる解釈論争と直接に関係している。法律留保原則は、様々な形態がありうる行政の行為形式の内でどの範囲の行為形式が直接法律の根拠規定を必要条件とするかという点をめぐる原則であって、複数の学説がある中で一応今のところ学界通説の座を保ちかつ最高裁もその考えに依拠すると思われるところの侵害留保説は、ドイツ公法学、なかでもオットー・マイヤーの学説に基づき、行政が私人の自由と財産を侵害する行為についてのみ法律の根拠を要するというものである。

 

 再び任意処分の話に戻ろう。任意処分は特別な根拠規定を要さずして行うことができるはず、ということであった(なぜなら、特別な根拠規定がなければ許容されないことが強制の形式的意義なのだから)。行政法学上の侵害留保説では、私人の自由と財産の侵害となる行為については法律に根拠規定を求めねばならないということだった。特別な根拠規定を求めなくともよい任意処分においても根拠規定を必要とするとは、これいかに?重要な権利・利益の制約を伴わないが、それでも一定の侵害があると認めて、任意であれ侵害行為とみなし、これをもって侵害留保説からの説明として根拠規定を必要条件であると考えるというわけか、それとも、個人の意思制圧とまではいかないが、いずれにせよ重要な権利・利益の侵害はあったとみて、しかるがゆえに侵害留保説により根拠規定を必要条件と考えるというのか、この辺が判然としないのである。

 

 前者であれば、重要な権利・利益の制約とまではいかないが重要な権利・利益の侵害があると考えなければならないので、何だか形容矛盾と思えるし、後者ならば、重要な権利・利益の制約はあると認めるが個人の意思抑圧まではないということになるので、普通は重要な権利・利益の制約であるならば通常個人の意思の制圧はあるだろうと見られるだろうから、これまた妙なことになってきはしないかと思われたのである。素直に考えれば、この両者のいずれの考えにもくみせずに、あくまで任意と判断される以上は根拠規定は不要であり、ただ野放図に拡大されて適用されることを防ぐためにも法の一般原則としての比例原則によりその限界を画するという考え方もありえ、むしろその方がしっくりとくると思われたのだった。

 

 しかし、この文章に対して当時コメントしてくれた人(この方は、ブログの文章の内容から明らかに専門の法学者か、さもなくば判事クラスの、いずれにせよその道に習熟した法解釈学のプロフェッショナルだったが)の理解が素直な解釈なのだろうと今にして思う。その人の考えは、行政警察活動と司法警察活動を一体的に考えた上で、昭和51年最高裁決定の判示通り、強制処分とは意思制圧と身体、住居、財産等の制約を伴う刑訴法に特別の根拠規定を要する処分と理解し、任意処分とは強制処分でない以上、任意処分を行うには、刑訴法の特別の根拠規定は不要だが、任意処分は、あくまで強制処分に該当しないというだけのことであるから、相手方の自発的協力の存在は前提とされず、そうすると場合によっては任意処分に侵害とされうる行為はありうると解する。任意処分とされる職務質問の実態は、多くの場合、拳銃・警棒を所持して制服を着用した複数の体格のよい男が有無を言わさぬ態度で市民の前に立ちはだかって、質問や所持品提示の要求を行なうわけであって、その質問・要求自体は直ちに「強制の処分」(刑訴法197条1項但書)ないし警職法2条3項所定の行為には当たらないとはいっても、そこには公権力による一定の心理的圧力を伴った「移動の自由」ないし「プライバシー」の侵害を観念できるから、行政法学上の侵害留保説からは、法律の根拠(警職法2条1項)が必要とされてしかるべき、というものである。確かに、この理解が筋の通った理解だろう。