shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書)のすすめ

 社全体の政治傾向に対する反発や、専門書であっても事項索引を付けない省エネ編集方針に対する批判はあるが、昔の岩波新書の質は、老舗の名門出版社としての岩波書店らしいレヴェルの高さを誇っていた(全集や著作集を岩波書店から出すのは、一種のステータスだった。湯川秀樹にしても、西田幾多郎廣松渉大森荘蔵そして丸山真男など"ビッグネーム"の全集や著作集は岩波書店から出されている)。それに比べて最近の新書は、岩波に限らず粗製乱造の、ほとんど紙資源の無駄と言いたくなるレヴェルのものが目立つ。

 

 それはともかく、昔の岩波新書は、人文学、社会科学、自然科学と満遍なく後世においても名著と言われ続けるだろう良質の著書を生み続けてきた。岩波の論壇雑誌『世界』は僕から言わせればトンデモも部類に属する雑誌で、とても後世に伝えられるような論考はほぼ皆無であるが、こと新書や文庫に関しては概ね良質なものを生んできた岩波書店の我が国の出版文化にもたらしてきた功績は大なるものがある。もっとも現在では、岩波書店が必ずしも最も優れた出版社であるというわけではない。ある程度の規模の会社組織になると経営基盤の確保のため、どうしても売れる著作を出さないことには成り立たないというジレンマを抱える。

 

 そこで愚にもつかぬ著作を出版してしまうこともある。だからロバート・キヨサキの駄本を筑摩書房が出版してしまったのも、ある意味やむを得なかったのかもしれない。しかし、みすず書房とか、その種の駄本を出すまいとの矜持を保ち続けている出版社もあるわけだから、そうした多くの誠実な出版社には生き残ってもらいたい。そのために我々にできることは、とにかく身銭を切って買え!ということだ。出版という営みは、単なる営利事業に還元できない文化的な貢献を社会に対してなしうる素敵な営みであり、たとえ資本が弱小であっても、その資本の大きさとは別の次元で社会に影響を与え得る営みでもある。だから本来、編集者という仕事は博覧強記であることが常に求められ、その上目利きまで要する仕事だから、社会的にもっと評価されてよいはずの仕事であろう。

 

 さて、良質な新書を世に出してきた岩波新書であるが、その良質な著作を列挙しようとすると、あまりに数が多すぎて書ききることはできそうもない。ただ、その中でも飛び切り良質な日本人による名著を戦後に限定して挙げるとするならば、数学を含む自然科学系だと(数学は経験科学ではないので、自然科学には含まれないはずだが、ここでは便宜上数学も含めておく)、朝永振一郎『物理学とは何だろうか』上・下や中谷宇吉郎『科学の方法』や『雪』、遠山啓『無限と連続』、吉田洋一『零の発見』は掛け値なしの名著だし、社会科学系だと丸山真男『日本の思想』や福田歓一『近代民主主義とその展望』や大塚久雄『社会科学の方法』、内田義彦『読書と社会科学』、川島武宜『日本人の法意識』は必読の書だろうし、そして何より経済学そのものというより経済学な知の背景となる考え方を論じたものとして森嶋通夫『思想としての近代経済学』は格好の素材を提供してくれる。人文学だと、吉川幸次郎漱石詩注』や貝塚茂樹諸子百家』、田中美知太郎『ソクラテス』、野田又夫デカルト』、廣松渉『新哲学入門』そして大江健三郎『新しい文学のために』などなど枚挙に暇がない。

 

 ここでは、森嶋通夫『思想としての近代経済学』を強く推したい。森嶋は京都帝国大学経済学部を卒業。助手として高田保馬と青山秀夫に師事し経済学を中心にウェーバー社会学をも学び、27歳で京都大学経済学部助教授に就任したあと、近代経済学研究の拠点であった大阪大学に移ってしばらくして、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス(LSE)の教授として渡英。ジョン・ヒックス記念講座教授という栄誉ある地位に就きながら数理経済学者として名を馳せ、多部門成長モデルの研究やリカードの理論の動学的再定式化やマルクスの理論の数理的再構成などの世界的業績によって、日本人としては宇沢弘文と並んでアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行賞(いわゆるノーベル経済学賞)の候補としても取り上げられたりもした。現実の政治情勢や防衛の問題に関しては専門外ということもあって頓珍漢なことを述べていたが、このことが森嶋の偉大な業績の価値を棄損するものではないということを断っておかねばらならないだろう。

 

 『思想としての近代経済学』は、新書という理由からだけではなく、当時NHKの教育テレビで放映されていたという「人間大学」という番組でのテキストを元にして、幾分か書き足したものであるので、森嶋の数式だらけの学術論文とは打って変わって平易な日本語で表現されている(一部、式が入るが、簡単な四則演算の類しかない)。この番組が放映されたのは平成5(1993)年だというのだから皮肉なものである。というのも、この年は自民党が下野して細川護熙を首班とする非自民連立政権が発足した年であり、この細川政権こそが、かつて中曽根康弘が先鞭をつけた「構造改革」政治の本格的幕開けとなった政権であるからだ(細川護熙というよりは、小沢一郎が敷いた路線であるのが実態で、小沢の新自由主義的政権構想は『日本改造計画』という実質は読売新聞の記者が書いたであろう小沢の著書にも現れている。皮肉なことに、小沢構想は、後に小泉純一郎によって継承されていくわけである)。

 

 本書の目的は近代経済学の歴史を解説することにあるが、他の類書と趣が異なる点は、時系列的に構成するのではなく理論を形作っている論理的な順番に即して再構成して論じられるという点が一つ。もう一つの点は、リカードマルクスの労働価値説に対立するものとしてワルラスなどの限界効用説を論じた上で、この限界効用説を基礎として一般均衡理論が構築されたとして、この新古典派経済学がいかにしてマクロ経済学としてのケインズ経済学と総合されたかを論じる、僕から言わせるとサミュエルソン史観とでもいうべき流れで叙述される通説的な見解に異を唱えている点である。

 

 ケインズが登場するまで、新古典派理論は内部に未解決の問題を抱懐していたが、自身としてはそれが何であるかがわからず、新古典派に批判的な外部からの視点を持ったケインズだからこそ、その問題がセイ法則にあることをつかむことができたのだ、と森嶋通夫は指摘する。セイ法則(日本の経済学の教科書は「セイ法則」より「セイの法則」と表記しているものが多いが、ここでは森嶋の表現である「セイ法則」と記しておく)とは、「供給は、それ自身の需要をつくる」というものである。供給があれば直ちに需要が適用するというのであるなら、需要分析がおざなりになったとしても問題はない。しかし、この法則が妥当しないとするならば、需要が供給より少ないあるいは多い場合には、供給が減らされあるいは増やされ供給が需要に適応する。それゆえ需要が少ない場合には生産は停滞し失業が発生する。完全雇用は需要が十分に大きい異常事態の例外は別として通常は成立しない夢となる。

 

 セイ法則が妥当しない現実の経済では、失業が発生するのが常態化する。既にセイ法則が妥当しなくなった状況においてもなおセイ法則が成り立っているとの虚偽の前提に立脚した理論探究がなされているところに新古典派経済学理論の致命的な誤謬が存しているというわけだ。森嶋はさらに、これに加えて「耐久財のディレンマ」の問題をも提起する。おそらく、ここが本書の眼目となるところであろう。経済が発展して耐久財が重要となるに連れてセイ法則は現実離れしたものとなり、その結果、セイ法則に依拠する理論では、現実の経済は処理しえなくなった。こうした時代状況にケインズが現れたわけだ。その意味では、有効需要の原理とはこの反セイ法則のマニフェストでもあったとみることもできよう。

 

 こうした森嶋の基本的視軸から構成された近経済学説史で取り上げられる人物は、紙幅の関係上、11人に絞られる(これは「人間大学」が計12回の放送だったからだろう)。取り上げられる近代経済学者とは、リカードワルラスシュンペーター、ヒックス、高田保馬、ヴィクセル、マルクスウェーバー、パレート、フォン・ミーゼス、ケインズである。通常近代経済学者と見なされていない人物もいるだけでなく、そもそも経済学者の範疇にさえ入らない人物もいるのが森嶋学説史の面白い点でもある。リカードマルクス近代経済学には含まれないと解する通説に対しても、森嶋は例えば、リカードの差額地代論とワルラスの希少性理論は本質において変わらず、しかもリカードは差額地代論において限界分析を使用している点を取り上げ、極めつけはワルラス『純粋経済学要論』の結論として出される発展しつつある経済における価格変動法則はリカード『経済学と課税』の結論と瓜二つである旨を指摘する。さらにマルクス『賃労働と資本』の市場観はワルラスの市場観と同一という点を取り上げ、リカードマルクス近代経済学の系譜に位置づけることに理由があることも示している。

 

 特に面白い指摘は、マルクスも含めて、伝統的に経済学者の市場観が妥当するのは中近東の市場と近代資本主義の一部の市場に限定されており、多くの国々の市場の実情に適合していない点を強調していることである。サミュエルソン自身を取り上げていないが、サミュエルソン、ヒックス、アロー、ドゥブローの一般均衡論とケインズ経済学を並立させて矛盾を意識せずに「新古典派総合」などと自賛している連中に対して手厳しい批判を下していることも意外に思われるかもしれない(何せ森嶋通夫は、LSEのヒックス記念講座教授という名誉あるポストに着任していたのだから)。サミュエルソンの45度線の図を使ったケインズ理論の説明に関しても、「それは幾何学であっても、経済理論ではなく、ケインズ理論の核心を教えるものではさらさらない」と辛辣だ。

 

 もっとも、大学の経済学史の講義とは随分異なるだろうから、本書がテストの点を稼ぐのに資するものであるとは言えない(点取り虫専用のテキストなら山のようにあるだろうし、その程度のものなら数時間あれば頭に叩き込めるだろう)。しかし、そこは世界的な碩学によりなる本書。また格別な経済学説の歴史を提供してくれる。もっと原基的な場面に立ち返って経済活動の本質を思考してきた偉大な学者たちの学説を、これまた世界的な経済学者としてその能力を誰も疑わないだろう碩学森嶋通夫がどう捉えていたのか、それを学ぶだけでもそこらの凡百な研究者やアナリストが書いた安直な駄本にはない何かをそれぞれの読者が掴みとれるに違いない。新書の名著というのは、そうした贈り物なのだ。