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民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書)のすすめ

 社全体の政治傾向に対する反発や、専門書であっても事項索引を付けない省エネ編集方針に対する批判はあるが、昔の岩波新書の質は老舗の名門出版社としての岩波書店らしいレベルの高さを誇っていた。だからこそ、全集や著作集を岩波書店から出すのは一種のステータスともなっていた。湯川秀樹にしても、西田幾多郎廣松渉大森荘蔵そして丸山真男など「ビッグネーム」の全集や著作集は岩波書店から出されている。それに比べて最近の新書は、岩波に限らず粗製乱造の紙資源の無駄と言いたくなるレベルのものが目立つ。昔の岩波新書は、人文学、社会科学、自然科学と満遍なく後世においても名著と言われ続けるだろう良質の著書を生み続けてきた。岩波の論壇雑誌『世界』は北朝鮮のキム・イルソン礼賛の文章が書き散らかされた「トンでも雑誌」で、読み返して見れば恥ずかしくて道を歩けまいと思われる駄文のオンパレードだった。

 

 しかし、新書や文庫に関しては概ね良質なものを生んできた岩波書店の我が国の出版文化にもたらしてきた功績は大なるものがある。もっとも現在では、岩波書店が必ずしも最も優れた出版社であるというわけではない。ある程度の規模の会社組織になると、経営基盤の確保のため、どうしても売れる著作を出さないことには成り立たないというジレンマを抱える好例だろう。そこで、愚にもつかぬ著作を出版してしまうこともある。だから、ロバート・キヨサキの駄本を筑摩書房が出版してしまったのもやむを得なかったのかもしれない。だが、みすず書房とかその種の駄本を出すまいとの矜持を保ち続けている出版社もあるわけだから、そうした多くの誠実な出版社には生き残ってもらいたい。そのために我々にできることは、とにかく「身銭を切って買え!」ということにつきる。出版という営みは単なる営利事業に還元できない文化的な貢献を社会に対してなしうる営みであり、たとえ資本が弱小であっても、その資本の大きさとは別の次元で社会に影響を与え得る営みでもある。だから本来、編集者という仕事は博覧強記であることが常に求められ、その上に目利きまで要する仕事だから、社会的にもっと評価されてよいはずの仕事であろう。

 

 さて、良質な新書を世に出してきた岩波新書であるが、その良質な著作を列挙しようとすると、あまりに数が多すぎて書ききることはできそうもない。その中で飛び切り良質な名著を戦後に限定して挙げるとするならば、数学を含む自然科学系だと(数学は経験科学ではないので自然科学には含まれないはずだが、ここでは便宜上数学も含めておく)、朝永振一郎『物理学とは何だろうか』や中谷宇吉郎『科学の方法』と『雪』、遠山啓『無限と連続』そして吉田洋一『零の発見』は掛け値なしの名著だし、社会科学系だと丸山真男『日本の思想』、福田歓一『近代民主主義とその展望』、大塚久雄『社会科学の方法』、内田義彦『読書と社会科学』そして川島武宜『日本人の法意識』は必読の書だろう。何より、経済学な知の背景となる考え方を論じたものとして宇沢弘文『経済学の考え方』や森嶋通夫『思想としての近代経済学』は格好の素材を提供してくれる。人文学だと、吉川幸次郎漱石詩注』や貝塚茂樹諸子百家』、田中美知太郎『ソクラテス』、野田又夫デカルト』、廣松渉『新哲学入門』そして大江健三郎『新しい文学のために』などなど枚挙に暇がない。

 

 ここでは、森嶋通夫『思想としての近代経済学』を強く推したい。森嶋は京都帝国大学経済学部を卒業し、助手として高田保馬と青山秀夫に師事しつつ経済学を中心にウェーバー社会学をも学び、27歳で京都大学経済学部助教授に就任した後、我が国の近代経済学研究の拠点であった大阪大学に移ってしばらくして、LSEの教授として渡英。ジョン・ヒックス記念講座教授という栄誉ある地位に就きながら数理経済学者として名を馳せ、多部門成長モデルの研究やリカードの理論の動学的再定式化やマルクスの理論の数理的再構成などの世界的業績によって、日本人としては宇沢弘文と並んでアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行賞(いわゆる「ノーベル経済学賞」だが、僕としてはこの賞は廃止が望ましい。もっとも、だからといって個別の受賞者の個々の業績を否定するものではない。例えば、天才的な数学者ジョン・ナッシュの業績を称え、これを有名にするのに寄与した面も否定できない。もっとも、受賞対象はナッシュの輝かしい業績の中では一番つまらないとされる21歳の時に書いた論文「n人非協力ゲーム」であったと言われるが。しかし僕に言わせると、ナッシュのゲーム理論の凄さは、「n人非協力ゲーム」単独で評価されるべきものではなく、その後の論文においてナッシュ均衡解と交渉解との驚くべき関係を明らかにした点にある!)の候補としても取り上げられたりもした。現実の政治情勢や防衛の問題に関しては専門外ということもあって時折頓珍漢なことを述べていたことは確かだが、このことが森嶋の偉大な業績の価値を棄損するものではないことは言うまでもないだろう。

 

 『思想としての近代経済学』は、当時NHKの教育テレビで放映されていた「人間大学」という番組でのテキストを元にして幾分か書き足したものであるので、森嶋の数式だらけの学術論文とは打って変わって平易な日本語で表現されている(一部、式が入るが、簡単な四則演算の類しかない)。それにしても、この番組が放映されたのは平成5(1993)年だというのだから皮肉なものである。というのも、この年は自民党が下野して細川護熙を首班とする非自民連立政権が発足した年であり、この細川政権こそが、かつて中曽根康弘が先鞭をつけた「構造改革」政治の本格的幕開けとなった政権であるからだ。もっとも、細川護熙というよりは小沢一郎が敷いた路線であるのが実態で、小沢の新自由主義的政権構想は『日本改造計画』(講談社)という実際は読売新聞の記者が書いたと思われる小沢の著書にも現れている。それはそうと、本書の目的は近代経済学の歴史を解説することにあるが、他の類書と趣が異なる点は、時系列的に構成するのではなく、理論を形作っている論理的な順番に即して再構成されているというのが一点目。リカードマルクスの労働価値説に対立するものとしてワルラスなどの限界効用説を論じた上で、この限界効用説を基礎として一般均衡理論が構築されたとしつつ、新古典派経済学がいかにしてマクロ経済学としてのケインズ経済学と総合されたかを論じる「サミュエルソン史観」で叙述される通説的な見解に異を唱えている。これが二点目の特徴である。

 

 ケインズが登場するまで新古典派理論は内部に未解決の問題を抱懐していたが、自身としてはそれが何であるかがわからず、新古典派に批判的な外部からの視点を持ったケインズだからこそ問題の本質が「セイ法則」にあることを掴むことができたのだと森嶋通夫は指摘する。「セイ法則(日本の経済学の教科書は「セイの法則」と表記しているものが多いが、ここでは森嶋の表現のまま「セイ法則」と記しておく)」とは、簡単に言うと「供給は、それ自身の需要をつくる」というものである。供給があれば直ちに需要が適用するというのであるなら、需要分析がおざなりになったとしても問題はない。しかし、この法則が妥当しないとするならば、需要が供給より少ない/多い場合には供給が減らされ/増やされ供給が需要に適応する。それゆえ、需要が少ない場合には生産は停滞し非自発的失業が発生することになるはず。完全雇用は需要が十分に大きい異常事態の例外は別として、通常は成立しない夢となる。「セイ法則」が妥当しない現実の経済では非自発的失業の発生が常態化する。既に「セイ法則」が妥当しなくなった状況においても「セイ法則」が成り立っているとの虚偽の前提に立脚した理論分析がなされているところに新古典派経済学理論の致命的な誤謬が存しているというのである。更に森嶋は、これに加えて「耐久財のディレンマ」の問題をも提起する。おそらく、ここが本書の眼目となるところであろう。経済が発展して耐久財が重要となるに連れて「セイ法則」は現実離れしたものとなり、その結果「セイ法則」に依拠する理論では現実の経済を処理しえなくなった。こうした時代状況の中にケインズが現れたわけだ。その意味で、「有効需要の原理」とは「反セイ法則」のマニフェストでもあったとみることもできよう。

 

 森嶋の基本的視軸から構成された近代経済学説史で取り上げられる人物は、紙幅の関係上、11人に絞られる(これは、NHK「人間大学」が計12回の放送だったからだろう)。取り上げられる「近代経済学者」とは、リカードワルラスシュンペーター、ヒックス、高田保馬、ヴィクセル、マルクスウェーバー、パレート、フォン・ミーゼス、ケインズである。経済学史の知識が多少でもある者からすると、この面子を見て奇異な感覚を持つに違いない。というのも、ワルラスを「近代経済学者」と見るのは当然としても、なぜリカードリカードの亜流とも言えるマルクスが「近代経済学者」に当てはまるのか。更には、ウェーバーは明らかに社会学者であって「経済学者」の範疇にすら入らないのに、なぜ「近代経済学者」として括られているのかといった疑問が寄せられるだろうからだ。この点も森嶋流「近代経済学」学説史の面白い点である。リカードマルクスは「近代経済学者」には含まれないと解する通説に対して、森嶋は両者がいかにワルラスの理論と共通の基盤に立っているかを例示することによって通説に反論する。例えば、リカードの差額地代論とワルラスの希少性理論は本質において変わらず、しかもリカードは差額地代論において限界分析を使用している点を取り上げる。極めつけは、ワルラス『純粋経済学要論』の結論として出される発展しつつある経済における価格変動法則はリカード『経済学と課税』の結論と瓜二つである旨を指摘する。さらに、マルクス『賃労働と資本』の市場観はワルラスの市場観と同一という点などを取り上げ、リカードマルクスを「近代経済学」の系譜に位置づけることに相応の理由があることを論じている。

 

 特に面白い指摘は、マルクスも含めて伝統的に経済学者の市場観が妥当するのは中近東の市場と近代資本主義の一部の市場に限定されており、多くの国々の市場の実情に適合していない点を強調していることである。サミュエルソンを直接題材に取り上げてはいないが、サミュエルソン、ヒックス、アロー、ドゥブローの一般均衡論とケインズ経済学を並立させて矛盾を意識せずに「新古典派総合」などと自賛しているサミュエルソンに対して手厳しい批判を下していることも意外に思われるかもしれない(何せ森嶋は、LSEの「ヒックス記念講座」教授という名誉あるポストに着任していたのだから)。サミュエルソンの45度線の図を使ったケインズ理論の説明に関しても「それは幾何学であっても、経済理論ではなく、ケインズ理論の核心を教えるものではさらさらない」と辛辣だ。

 

 もっとも、大学の経済学史の講義とは随分異なるだろうから本書がテストの点を稼ぐのに資するものであるとは言えない。点取り虫専用のテキストなら山のようにあるだろうし、その程度のものなら数時間あれば頭に叩き込めるだろう。しかし、そこは世界的な碩学によりなる本書。格別な経済学説史を提供してくれる。もっと原基的な場面に立ち返って経済活動の本質を思考してきた偉大な学者たちの学説を、これまた世界的な経済学者としてその能力を誰も疑わないだろう碩学森嶋通夫がどう捉えていたのか、それを学ぶだけでもそこらの凡百な研究者やアナリストが書いた安直な駄本にはない何かを読者は掴みとれるに違いない。新書の名著というのはそうした贈り物なのだ。