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右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

謎としての自然

 『平家物語』巻九は、主として一の谷の合戦の様子が描かれているが、特に「知章最期」の段は、生田の森の大将軍新中納言知盛の心の動きを追っていくことを主旋律として、その知盛の子である知章の最期が物語られてゆく切ない箇所である。監物太郎という侍と知盛父子とただ三騎になって、助けの船の見える渚へと落ちていく場面は秀逸。結局、助けの船に乗れずに知章も首を打ち取られ、監物太郎も討死し、知盛ただ一人が生き残って名馬にまたがって海を泳がせ、総大将平宗盛の船に命辛々辿り着く。この一の谷で討死した平家一門は、一の谷の大将軍通盛、弟の業盛、小松殿重盛の末子師盛生年十四歳で、経正、清定、清房、経俊、忠度、敦盛、知章である。味方の軍勢に見捨てられて討死したも同然であったという。「落足」の段では、この哀切を滔々と次のような名文で綴っている。

 

「いくさ破れにければ、主上をはじめ奉つて、人々みな御船に召して出給ふ心のうちこそ悲しけれ。汐に引かれ、風にしたがひて、紀伊路へおもむく船もあり。芦屋の沖に漕ぎいでて、浪にゆらるる船もあり。あるは須磨より明石の浦伝ひ、泊り定めぬ梶枕、片敷く袖もしほてつつ、おぼろかかすむ春の月、心をくだかぬ人ぞ無き。あるは淡路の瀬戸を漕ぎ通り、絵嶋が磯にただよへば、波路かすかに鳴きわたり、友まよはせる小夜千鳥、これもわが身のたぐひかな」。

 

「小宰相身投」の段では、海上の船で恋しい人の安否を気遣う小宰相のもとに、通盛最期の様子を急ぎ伝えに来た侍がいて、君は今朝、湊河の川下で敵七騎に取り込められて遂には御最期を遂げられたと。小宰相は泣き臥して、もはや伝えに来た侍の言葉が耳に入らない。知らせを受けたのは二月の七日。この日暮れから十三日まで泣き臥したまま決して起きてこなかった。ところが船が屋島に到着せんとする十四日の夜更け、満月にほぼ近い月の光に照らされる海に、小宰相はわが身を投げて沈んでいった。

 

「ちつとまどろみたりけるひまに、北の方、やはら舷へ起き出でて、漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、そなたの空とは思はれけん、しづかに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天の戸渡る梶の音、折からあはれやまさりけん、忍び声に念仏百返ばかりとなへ給ひて、なむ西方極楽世界教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へみちびき給ひつつ、あがで別りし妹背の仲らへ、必ず一つ蓮にむかへたまへと、泣く泣くはるかにかきくどき、南無ととなふる声ともに、海にぞ沈み給ひける」。

 

 小林秀雄『無常といふ事』(新潮文庫)に所収の「平家物語」の中で、この「小宰相身投」の段を取り上げ、次のように書いている。

 

「通盛卿の討死を聞いた小宰相は、船の上に打ち臥して泣く。泣いてゐる中に、次第に物事をはつきりと見る様になる。もしや夢ではあるまいかといふ様な様々な惑ひは、涙とともに流れ去り、自殺の決意が目覚める。とともに突然自然が目の前に現れる、常に在り、而も彼女の一度も見た事もない自然が」。

 

この後すぐに小林は、

 

「漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らないけれども、月の入るさの山の端を」

 

を引用する。ここで小林のいう「自然」とはどのようなものであったのか、我々には想像することぐらいしかできないわけだが、この点に関し、フランス文学者杉本秀太郎が面白い指摘をしている。小林秀雄が小宰相に見させた「自然」とは、ランボーが『地獄の季節』によって暴いた「自然」であり、小林が自作の小説『おふえりあ遺文』でオフェリアに見させている「自然」であり、あるいは『平家納経』の表紙、見返しの随所に描かれている蓮の花や、死して『納経』の料紙に浮かぶ月輪こそが、ここでの「自然」なのであり、この「自然」とは、いわば謎を無現に吸い込む架空の実体だというのである。

 

 「自然」というものをどう捉えるべきなのか。もちろん立場や見方によって千差万別であろうが、哲学・思想の歴史を紐解いてみるならば、それこそ千差万別の「自然」に対する捉え方が見られる。哲学史の伝統からすれば、「自然」という概念に込められている意味とは、人間の主観なり技巧なりといった人為に依らず「それ自体で」そのようなものとしてある現象や存在者である。すなわち、アリストテレスの『形而上学』によれば、「自然」とは、神々や人間のその都度のテクネーに依存することなく、自らの内に生成消滅する原理ないしは原理を有するものである。自らの内に運動の原因を持っているので、他のものに依存することなく存立するものとして考えられた。こうしたアリストテレスの考え方は、その後の「自然」についての捉え方に大きな影響を与えた。

 

 ところでヘーゲルは、『小論理学』の補遺に

 

「悟性が主張するような抽象的な『あれか、これか』は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。・・・一般に、世界を動かすものは矛盾である」。

 

と述べ、『大論理学』の中の「矛盾」のカテゴリーに関する注釈において

 

「矛盾はあらゆる運動と生動性の根元であり、或るものは自分自身のうちに矛盾を持っているかぎりにおいてのみ、運動し、推進力と活動性を持っている。・・・矛盾というものはたんにあちこちに現れる一つの異常と見るべきものではなく、それは、その本質的規定のうちにある否定的なもの、あらゆる自己運動の原理であり、あらゆる自己運動は矛盾の現示にほかならない。運動は定有する矛盾そのものである。・・・或るものは、自分のうちに矛盾を含んでいるかぎりにおいてのみ、しかも、矛盾を自分のうちに容れ持ちこたえる力であるかぎりにおいてのみ、生動的である」。

 

と述べている。この箇所につきレーニンは『哲学ノート』で以下のようにコメントしている。

 

「運動と『自己運動』(これに注意せよ?自分自身のうちから生み出される、自主的な、自発的な、内的に必然的な運動)『変化』『運動と生動性』『あらゆる自己運動の原理』『運動』および『活動』の『推進力』-『生命のない存在』とまさに反対のもの-これが、あの『ヘーゲルぶり』の、すなわち抽象的でひどくわかりにくい(重苦しくて不合理な?)ヘーゲル主義の核心であることを、だれが信じるであろうか?ところが、人はこの核心をこそ発見し、理解し、『救い出し』、殻からとりだし、純化しなければならなかったのであって、このことをマルクスエンゲルスは実際になしとげたのである」。

 

この箇所は毛沢東『矛盾論』にも取り上げられている。それもそのはず、毛沢東はマルクのテクストからはほとんど引用せず、レーニンからの孫引きで書いているものがほとんどなのだ。毛沢東も、矛盾こそが世界の駆動の契機と考えたが、実はレーニン毛沢東が強調するほどヘーゲルは矛盾を理念の発展過程の究極的な位置に据えていなかったのではないかと思われる。確かにヘーゲルは、矛盾を理念の発展過程の不可欠の契機とみなしてはいた。ところが、『小論理学』には、

 

「矛盾というものは考えられないというのは、笑止のことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということであり・・・哲学とくに思弁的論理学は、もちろん区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すが、他方、単なる差別には満足せず現存するものの内的同一性の認識を要求する」

 

とし、「内的同一性の認識」と言っているように、矛盾の止揚による自己同一的理念の達成を究極的位置に措く。矛盾は過程にすぎず、矛盾の揚棄こそが理念の達成である。思弁的方法は、①直接的なものであり単純な一般者として始原をなすもの。②この直接的なものの否定であり、他者であり、直接的なものを他者とするところの他者であり、ここに矛盾があり、媒介がある。③否定の否定であり、矛盾の止揚であり、直接性と媒介との統一である。この①同一性、②矛盾、③同一性の回復がトリプリティテートの環を形成する。ヘーゲルは、『エンチクロベディー』の最後で

 

「永遠な、即自且向自的に存在する、理念は、絶対的精神として永遠に自己を活動させ、産出し、享受する」

 

と述べた後に、アリストテレス形而上学』第12巻第7章の自己観照し自己充足している永遠の高貴な神の思惟の、つまりは絶対者の自己思惟という考えが述べられている箇所を引用しているように、ヘーゲルの絶対精神の哲学的基盤をアリストテレスのこの箇所に見て取ることもできる。

 

 しかしここには、あの謎を吸い込む実体としての「自然」はない。あらゆるものをその同一性に回収させるところの絶対理念の自己同一性において、謎は本来の意味での謎であることをやめる。これは自然弁証法における自然においても同じことが言える。