shin422のブログ

右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

格差問題

 今更ながら「リベラル」や左翼が「反緊縮」を掲げている姿を見ると笑うしかないのだが、もちろんその主張は「経済成長はいらない」だの「脱・経済成長」といった経済学知らずの世迷い事を諳んじていたどこぞの哲学系エッセイストの妄言よりは遥かに現実的なまともな主張なものの、どこまでの議論を展開できるだろうか。僕も、今日の情勢で緊縮政策を講じることは愚策であり、また消費税増税も日本経済に致命的な打撃を与えることになるので反対と考える立場だが(財務省日本経団連の首脳やマスメディアは消費増税賛成の立場だが、これはデフレを放置しておきたいと秘かに願っている彼ら彼女らからすれば当然のことである。国内での支配権維持のために、デフレ強化による日本経済のパイ縮小を図り、国民の大多数をギリギリ生きていける程度の貧困層に固定化することが最終目標であるのではないかと疑いたくもなる)、それにつけても何故「リベラル」はこうも経済学的な知に関して疎い者が多くなったのだろうかと思わずにはいられない。昔の左翼は、もう少しこの種の知識を有していたはずだ。明白な知の劣化がすさまじい勢いで進行したという証拠の一つだろう。知識人の振りをしているだけの単なる教員が、聞きかじりの外国の文献の知識を知の意匠として大上段に振舞っていただけの実態が暴かれつつあるのではないかということである。とはいえ、「リベラル」や左翼がすべてそうだとは言わない。中には自分の専門分野で堅実な研究を積み上げたり、自分の持ち場で相応の仕事をしながら他の分野に関する教養を積んできた者も存在する。しかし、そういう人は至って寡黙な傾向にあり、派手にメディアに担ぎ上げられないものだから、世の人にはほとんど知られていない。世に目立っている左翼とされている者は概して馬鹿であるとは思うものの、左翼だからといって全否定しかねるのは、ごく一部に優れた左翼がいることも確かだからである。例えば、マルクス経済学やその他新古典派あるいはポスト・ケインジアンの主張を取り込ん制度派の立場から論じた植村博恭など『社会経済システムの制度分析-マルクスケインズを超えて』(名古屋大学出版会)などは、俗流化された安易なグローバリズム批判には乗らない(いわゆるグローバリズムに賛同しはしないが、巷で聞かれるグローバリズム批判とは、ほとんど漠然としたイメージだけで語られているものが大半であって、まともな政治的経済的批判になっていない。金融資本主義批判にせよ、もっと狭い範疇にはなるが金融工学批判にしても、なるほどと納得させられるような批判はあまりないのが現実で、金融資本主義批判にしても、せめてハイマン・ミンスキーくらいのことが聞かれるかと思いきや、そのレヴェルにも達していないのが残念だ)。

 

 「格差問題」においては、橘木俊詔格差社会-何が問題か』(岩波新書)や彼の立論に反論する大竹文雄『日本の不平等-格差社会の幻想と未来』(日本経済新聞社)が一時期話題になったが、例えば左翼やリベラルは、この大竹の立論に対してすら有効な反論を提示できずにいた。所得格差に関する議論の火付け役の一人である橘木や、世帯間所得格差が拡大している事実を承認しつつその原因を若年層のジニ係数と高齢層のそれとを比較して後者が大きくなっていることなどをつかみ出すことによって、人口高齢化と若年層における単身世帯の増加などによるものと主張して世上言われる格差拡大は見かけ上のものに過ぎないとの立論を展開する大竹文雄という構図。ただ、「格差が云々」、「貧困家庭の児童が云々」はたまた「グローバル資本主義が云々」と叫ぶばかりで、理論的に分析し問題の本質がどこにあるのかを追及する知的生産を怠ってきた。むろん僕とは正反対ながらも、旧来の左翼の陣営に属する共産党系の研究者は、昔からこの問題に取り組んできたことは確かだ。例えば渡辺治や後藤道夫の「新帝国主義」論に関する一連の著作は、遅くとも90年代初めから展開されてきた。世界経済におけるグローバル化と呼ばれる動向に拍車がかかり始めたのは米国では70年代であり、企業の多国籍化が遅れた日本でグローバル化に連動した新自由主義が本格化したのは90年代である。小泉純一郎政権からでも何でもないのである。既に細川護熙政権というより自民党を割って出た当時の小沢一郎に代表される新自由主義勢力が作った細川政権から「構造改革政治」が始まった(その萌芽は、80年代の中曽根康弘政権下での一連の「行革」政策だけど)。当時の「リベラル」は、この政権を政治改革・政権交代の一環として拍手喝采で迎え入れていた。この方向性が定着したのは、これまた90年代の橋本龍太郎政権の頃であって小泉政権はその路線を強化したにすぎない。ちなみに90年代には、米国のクリントン政権が米国の世界一極覇権を強力に推し進めた政権であることは強調されるべきだろう。

 

 それはさておき、所得分配の公正と平等化の問題について参考になるのは、周知の通りロールズやセンなどの論考であろう。ロールズは、人々の主観的効用のみに基づいて社会において享受する福祉状態に関する評価を行おうとする厚生主義的立場や経済的諸制度、政策をもたらす結果や行動の結果として個人が達成する状態にのみ注目して評価する帰結主義的立場いずれをも退け、正義のため二原理を採用することを述べる。一つは、すべての人々に平等な基本的自由を保障する原理(平等な自由原理)。もう一つは、公正な機会均等の下で、社会の最も恵まれない人々に最も有利になるような不平等な分配スキームを要求する原理(公正な均等原理ならびに格差原理)。完全な平等化の志向と、そうした平等化への志向・推進がGDPやその成長率の低下など効率性の犠牲を伴わざるをえないことなどを理由とした反発ないし批判に対して分配的正義(distributive justice)をどう考えいかに正当化するかという問題をめぐる議論である。必要や権利要求の競合する諸個人間において社会が希少資源または生産物をいかに配分することが妥当かを問う規範的問題でもある。この点につき、ロールズとセンは一定の共通の基盤を有するものの、根本的な点で違いを見せる。共通点としては、先述の通り①主観的効用のみに基づいて社会が享受する福祉状態に関する評価を行う厚生主義を批判する点、②ある経済的な仕組みや制度及び政策をもたらす結果ならびに行動の帰結として個人が達成する状態にのみ着目して判断する帰結主義を批判する点である。この厚生主義批判・帰結主義批判という点での共通点を持つ両者であるが、決定的な点で相違し、この相違こそ「格差問題」を論じる前提にとって踏まえておかねばならない基礎を提供していることに注意すべきだろう。さもないと、「格差問題」が一体何を論じているのか議論が雲散霧消し焦点もボケてしまう。

 

 教科書的な確認になるが、ロールズの提起する「正義の二原理」とは、①すべての人々に平等な基本的自由を保障する第一原理、②公正な機会均等の下で、社会の最も恵まれない人々が最も有利になるような不平等な分配を要求する「第二原理」である。「第二原理」の後半はいわゆる「格差原理(difference principle)」と呼ばれており、この「格差原理」について活発な論争が展開されてきた。社会で最も恵まれない集団に最も有利な分配ルールを定めること、つまりは最もミニマムな立場に置かれた人々の所得を最大化するような分配を公正だと解する「マキシミン公正原理」を

Max M(y)=Max(min[y1・・・yn]).(添字が表現しにくいので)

M(y)は社会で最も所得の少ない人々の所得とした上で、①「無知のベール」という情報の不完全性、②個人の利己的合理性、③決定されたルールの形式の了解可能性という制約を課し、自己の選択結果によって生じる社会的位置が予期できない状態を作出する。このような状態では、自分が最も不利な状態に置かれる危険を予想して社会における最低所得が可能な限り高い水準になることが合意されるものとする。卑近な例を挙げよう。アンパンが一つしかない状態で2人がそれを半分に分け合って食べようとしている。それぞれ可能なかぎり不利益にならないようにする状況で、アンパンを半分に分けた者が後で半分のアンパンの欠片を選択しなければならいとなると、最も不利益にならぬようにできるだけ公平に分けようと試みるだろう。事例は異なるが、考え方の基本は共通している。ここでもある種のミニマックス戦略が働いているとも別言できる。ただ、ロールズの理論で問題にされているのは、最も不利な状況にある人々の所得水準であって、有利な状況にある人が不利な状況にある人の所得増大のためにどういう負担が求められるかという負担の公平性がなおざりにされているということである。

 

 またロールズにおいては、個人の基本的能力を保持しかつ多様な目的達成のための手段として社会的に保障すべき基本財を「社会的基本財(social primary goods)」と規定し、その公正な分配方法を模索する社会的基本財のアプローチがとられ、ここでの社会的基本財の具体例として基本的権利や自由と機会および所得と富などが挙げられる。センの批判は、このロールズの上記立論内容にあてられる。とはいえセンは、ロールズの提起した「正義の二原理」とりわけ曰くつきの「格差原理」の考えを批判するわけではなく、個人のおかれた状態を評価するための情報として社会的基本財を用いることが不適切だという点である。すなわち、社会的基本財を自己にとって必要な機能を達成するための自由へともたらす諸個人の能力には差異があり、社会的基本財がたとえ平等であったとしても、諸個人が享受しうる自由には不平等が生じうるという至極当然の批判を展開する。ところが、ロールズ正議論の意義を認めつつ、かつ目指す方向性を共有していると思われる立場のアマルティア・センからのこの真っ当な批判こそが、ロールズの理論の致命的な欠陥を暴き出していているのだ。

 

 個人間の財の分配を問題にするというならば、例えば自転車という財を考えてもわかるように、自転車に乗ることが比較的容易な者と、生まれつきであれ後天的にであれ自転車に乗るという点で他の多くの者に比べて著しく容易でない状況におかれているという意味での「障害」者とでは社会的基本財という点でみると同じ財でしかないというのは明らかにおかしい。センの批判の要諦はこうだ。すなわち、ロールズの主張通り社会的基本財や資源の保有がたとえ平等であったとしても、人々が享受している自由には深刻な不平等が伴う可能性が潜んでいるのではないか、ということであった。人々のwell-beingの個人間比較を行うのならば財の保有量を問うのではなく、その財を活用して人々が何をなしうるか人はどのような存在になりうるのかという点にまで分析を進めなければならないはずであって、well-beingとはwell-offでもなければwelfareでもなく個人の生き方・あり方(being)のwellnessをも把捉する概念でなければならない。センはこのような生き方の選択する際の諸機能(functions)の集合を潜在能力(capability)という。この潜在能力という点に着目して以下のような定式化を試みる。すなわち、xiを個人iが達成できる機能ベクトルをbiとする。c(・)を財ベクトルとその特性ベクトルに変換する関数、f(・)を個人iが実際に行いうる財の利用パターンを反映する個人iの利得関数としたとき、個人iが達成できる機能ベクトルは、bi=fi(c(xi))と表現でき、このベクトルbiはすなわち人のあり方(being)を表す。個人iが実際に選択可能な利用関数fi(・)の集合をFiとし、この中から1つの利用関数を選択すると、ベクトルxiが与えられた時に個人iによって実現可能な機能ベクトルの全体は、次の集合によって与えられる。

Pi(xi)={bi|∃fi(・)∈Fi:bi=fi( (xi))}

さらに個人iが集合Xi内の財ベクトルのみ選択できるとすれば、個人iが実現できる機能ベクトルの集合は、Qi(Xi)を個人iの潜在能力集合として、

Qi(Xi)={bi|∃fi(・)∈Fi,xi∈Xi:bi=fi(c(xi))

と定式化できる。個人iは、財の特性を機能に変換する個人的特徴Fiと財貨支配権Xiの制約の下で、Qi(Xi)に属する機能ならば自由に選択することができる。この意味で潜在能力集合は各個人がそれぞれ評価する機能すなわち各個人の生き方あり方を実行可能な選択肢の中から選択して自らを社会的に実現する自由度を表す。所得分配の公正と平等化について、どの視点からどういう方法によりもとになる概念を整理し、具体的な方法によって定式化するか。この辺りの事情は後藤玲子『正義の経済哲学』(東洋経済新報社)が詳しく論じている良書である。