shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

変態フーコー

 久方ぶりにデイヴィッド・ハルプリン『聖フーコーーゲイの聖人伝に向けて』(太田出版)を読み返してみて、ミッシェル・フーコーという歴史家/思想家は、その狭義の政治的主張には同意できなくとも、やはり偉大な知識人だったのだなと改めて思う。フーコーが私生活において実際に何をやっていたかといえば相当変態的な行為に及んでいたことまで知られるに至っているが、その変態ぶりは思わず顔を背けたくなるような醜悪さを感じさせるようなものではなく、むしろ清々しいとでも言えるような変態ぶりである。その所持品から想像するに、ゲイ同士のハードSMが趣味だったフーコーのスキャンダラスな一面がしばしば興味本位に取り上げられるわけだが、この点に正面切って焦点を当てた研究書となると、実は驚くほど少ない。フーコーが亡くなった後に発見された遺品の中には、ゲイ同士のハードなSMの道具もあったというのだから、強烈な性欲の塊であったに違いない。彼の性行為はフィストファックをも含めたハードプレイだったに違いなく(フィストファックなどやったこともなければ、やりたいとも思わないが)、大多数の者の性行為の範疇に収まらないという意味で、まぎれもなくフーコーはド変態であった。

 

 アナルセックスならばかなりの人は普通に理解できるし、経験済みの者も多かろう。最初は前立腺への刺激は痛みを伴うものであれ、放すときにゆっくりしてやるなど工夫すれば徐々に慣れていく。そうしているうちに強烈な快感を得ることができるようになる。ことさら同性を意識しない男であったとしても、人並み以上に性欲が強い者ならば、おそらくその快感が癖になってしまうほどの性的快楽を得ることができる(人によっては所謂「トコロテン」を体験する者もいる。激しいドライ・オーガズムを体験することもある)。とはいえ、さすがにフィストファックまでは理解できる人はごくわずかでしかないだろう。端から見れば「危険な遊戯」に映る。

 

 フーコーの場合、彼の変態ぶりについて取り上げることは、何も皮相がるにはあたらない。フーコーの思想の核心に関わらざるを得ないからである。その意味で、ウィトゲンシュタインが「彼を性的に満足させる用意のあった粗野な若者」たちとの同性愛行為に惑溺していたことを主張する(但し、明確な証拠に基づいて論証されているわけではない)ウィリアム・バートレー『ウィトゲンシュタインと同性愛』(未来社)が持つ皮相さとは決定的に異なる。この書では、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を世に出し、もはや哲学に関わるまいとしてアカデミズムから脱出してから再びケンブリッジに戻るまでの「空白の10年間」に焦点を当て、彼の同性愛的傾向とその哲学との内的必然性が存在するとの仮説を論証しようとするものであるわけだが、逆に読めば読むほどウィトゲンシュタインの哲学と彼の同性愛的嗜好との内的必然性はないという結論に至り着いてしまうところが皮肉なことである。それよりも大事なことは、ウィトゲンシュタインが同性愛的嗜好に対して罪の意識を持ち続けていたことの方であり、母方の宗教であったカトリックに強い影響を受け、また福音書を読み続けて実際に修道院の修行僧のような禁欲的生活を送っていたほどの敬虔なクリスチャンとしての側面を有していたことである(もっとも「制度的」にも従順なカトリック信徒であったというわけでは必ずしもないようであるが)。彼の基本的信条は、それゆえに極めて保守的なものであった。だから、仮にウィトゲンシュタインフーコーの思想を目にしようものならば、おそらく怒りすら覚えていたであろうことが想像できる。

 

 フーコーウィトゲンシュタインとは逆で、ゲイとして男同士でのセックスの享楽を味わうことを「罪」と解させてしまう力学に対して抗い、時には死に至りついてしまうかもしれないハードなSM行為に耽りながら性の快楽を全肯定する。だからといって、同じく異性との放縦な性生活を謳歌しつつも「厭世家」ぶった存在であったショーペンハウアーとも違う。フーコーが並みの知識人と違う点は、彼が自らの身体を一つの実験として生きたという点である。その意味で、フーコーは変態であったというより敢えて「変態になる」という生き方をしていたのかもしれない。このような思想家は、いそうでいていない。特に、現代の日本社会にはほとんどいない。

 

 他方で僕自身、自分の実存の問題を直接理論化して考えようという気が端からないのかもしれないが、ゲイもしくはバイであることに過度に拘る言説については付いていけないのである。また、カミングアウトにことさら重要な意義すら見出すこともできない。個人の措かれた個別の事情が異なるわけだし、また個人的なのっぴきならぬ理由もあるわけだから、各々のカミングアウトに踏み切った決断を否定する気もなければ、否定する権利も持ち合わせていない。ただ、カミングアウトという行為一般が持つ傾向に、往々にして結局自己正当化にしかつながっていないのではないかと思われる言説が紛れ込んでいることが気がかりなのである。過度にゲイであることに拘り、バイは不純であるかのように主張する言説を見つけるとげんなりしてしまうのは、それがヘテロ至上主義とメダルの表裏の関係でしかないからである。

 

 ホモ・セクシャルであるとかヘテロ・セクシャルであるとかあるいはバイ・セクシャルであるといった「アンデンティティの思考」に拘泥することを否定し、生の新しい可能性を生むある種の触媒として「ゲイになること」を位置づけ、抑圧とそこからの解放というストーリーに押しつぶすことなく、多様な関係性の産出を志向するというフーコーのモチーフは、結局は「やりたいようにやる」ということに収斂するものと思われる。それは抑圧からの解放とは違う。欲望を放棄せず、その実現に向けた生のスタイルを肯定することであって、幸運なことに、これは我が日本文化の伝統でもあるのだ。完全なホモ・セクシャルが完全なヘテロ・セクシャルと同様にさほど多くはなく、むしろ潜在的にはバイ・セクシャルが意外に多いと考えられることから、自己の性の在り方を固定化してみる必要はないし、実際に同性・異性を問わず性行為の対象にできると考える者もいるという当たり前の事実を肯定すればよい。男色の歴史に事欠かない我が国の文化伝統に照らせば、現在の日本の性に対する見方はむしろ偏狭に過ぎ、僕のように女と行為に及んだ後にあっさり男との性行為の享楽を味わう者は、ごくごく普通に存在したし今も存在する。

 

 ゲイの肉体は、見た目の美しさとともに自分の欲望の対象として広告する方法である。ゲイの筋肉は力を意味せず、肉体労働が生み出す種類の筋肉には似ておらず、それどころかゲイの誇張され肉体は、エロティシズムをかきたてられるように緻密に設計されている。そう『聖フーコー』の著者は主張する。確かに、ジムで鍛えられた肉体に有用性はなく、例えばボディ・ビルダーがきつい肉体仕事に耐えられるかと問うてみればよいだろう。でも、そうした「イカニモ」というべきガチムチ系の男ばかりがゲイであるわけではないし、バイまで広げるとありとあらゆる系統の男どもがいるわけであって、それは異性愛の姿と何ら変わりのないことである。強いて違いを言えば、ゲイはノンケよりも圧倒的にセックスの回数が多いくらいなものである(両方経験すればわかろうが、即物的なセックスの快感の度合だけでいうならば、断然男同士のセックスの方が上である。ケースごとに違うだろうが、男同士のセックスは概して性的快楽のみを追求したものであるのに対して、男女間のセックスは、単なる性的快感を目的にしているのではなく、そこに様々な物語的要素をはらんだ意味を読み込んでしまうところが厄介な点なわけだ)。

 

 フーコーは自らを実験的に生きた。そういう思想家はほとんどいない。自らの欲望を制約せず、しかし同時に過度になってしまって自らを徒に傷つけるようなことに至らぬように自己への配慮を施しつつ、それでもやりたいようにやろうと生きた。この点にフーコーの「偉さ」があるように思われる。そういう変態的な思索者が今の日本に現れてくれたら、多少は日本の思想シーンも風通しがよくなることだろう。