shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

「アウトロー」の哲学

 現代日本を代表するマルクス主義哲学者として著名な廣松渉は、一概に「マルクス主義哲学」として包括して理解するには、その範囲を逸脱してしまう側面が多分にある哲学者である。日本において、マルクス解釈につき水と油の関係に立つだろう所謂「正統派」に属する側からは、その「共同主観性論」、「関係の第一次性」、「物象化論」や「四肢構造論」といった廣松哲学の主要テーゼに対して、新カント派的あるいは現象学的な色彩の強い解釈として批判される傾向にある。

 

 廣松哲学の第一テーゼは「関係の第一次性」であり、それは「共同主観性」論を媒介とした「事的世界観」へと結実する。「疎外論から物象化論へ」や「物的世界像から事的世界観へ」というテーゼが独り歩きしている観のある廣松哲学に対して、中には本当に読んで批判しているのか疑わしいほどの誤解に満ちた批判もなされてきたが、確かに、廣松解釈から「唯物論」の側面が抜け落ちてしまうのではないかという疑念が持たれても仕方ないと思われる側面はないわけではない。

 

 廣松のマルクス解釈は、日本共産党系の哲学者による、ほとんどスターリン主義と代り映えのしない弁証法唯物論を判で押しただけの「ただもの論」よりは深くマルクスのテクストを読み込んでいる解釈であるが、しかし、マルクス・エンゲルスの思想的変曲点を1845年に見る「切断説」を強調し過ぎるあまり、自身の拡張した物象化論を全面展開するばかりで、その後に書かれたマルクスのテクストには「疎外」の表現がある点を意識的に伏せているきらいがある。同じく、「関係の第一次性」テーゼを過剰にマルクスに読み込もうする傾向にあり、ともすれば大乗仏教教学の哲理と見紛うような側面もある。作家で元外務官僚の佐藤優がこの点を捉えて、廣松の物像化論をベースにしたマルクス解釈は仏教の刷り込みからくるのではないかと述べている。廣松本人が聞けばおそらく否定していたであろうが、意外に正鵠を射た発言かもしれない。廣松は、著作集には収録されていない『仏教と事的世界観』(朝日出版社)や『哲学入門一歩前』(講談社現代新書)において、自身の哲学の仏教哲学との親和性は認めるものの、自らの関係主義哲学は仏教からというよりもマルクスエンゲルスの思索に基づくと強調している。

 

 しかし、存在論や認識論において哲学体系を遺したわけでもないマルクスのテクストのほんの一部の、しかもその問題自体が主題化されているとは言えない文脈での記載だけから、事的世界観に直結する思考を引き出そうというのは無理があるように思われる。こうした廣松のマルクス解釈に対して、「仏教の刷り込みが強すぎる」と解する佐藤優のような論者が出てくるのは、なるほど当然と言えるだろう。晩年の和辻倫理学への接近は、こうした廣松の主要テーゼからすれば必然であったのかもしれない。その共同主観性の考えからは、和辻哲郎倫理学がそうであるように、極めて保守的な内容に収まってしまう面がある(もっとも、それが悪いわけではない)。

 

 もちろん、熊野純彦による解釈のように、廣松哲学に隠れている「他者性」の契機を取り出そうとする試みもある。そうはいっても、やはり規範随順的な共同体的個人の側面が強調される構造になっており、関係性からのデタッチメントの側面は希薄だし、逸脱する「アウトロー」やその社会的行為論の範疇に収まりがつかぬ要素への視線は殆どないと言える。和辻哲郎にしろ廣松渉にしろ、日本の哲学・思想の一面を代表する哲学者であり、その業績について疑問を呈しているわけではない。しかし、和辻は別しても、廣松はマルクス主義者として現体制の革命的変革を志向していた反面、その哲学からは「変革の論理」を容易に取り出せぬほどに「秩序を肯定・強化する論理」がどうしても際立ってしまう。

 

 和辻にとって人間とは、時間的・空間的な構造をもって人倫的組織を形成する存在である。逆に言えば、時間も空間もそういう人倫的組織の刻印がされたものであって、その固有の歴史性や風土性を無視した時間や空間は抽象の結果でしかない。すべて風土という関係性の網の目にからめとられた個人としてしか捉えられておらず、その社会的・共同体的規範に首尾よく収まっている人間像しか想定されていないし、またそういう人間像をこそ肯定されてしかるべきとの暗黙の価値評価が定まっている。

 

 こうした社会的・共同体的個人の描像に対して、ほとんど生理的なまでに違和感を示している思考を供する若手の哲学者・批評家の一人が千葉雅也であり、「アウトローの哲学」とでも言ってよいその思想は、特に和辻の人倫としての共同体の思想や廣松の共同主観性の思考と比較すると、その異質性が際立つ。想像するに、おそらく千葉の視線は、共同体的規範の関係性に難なく収まる者に対してではなく、そこから否応でも逸脱してしまう者すなわち「アウトロー」の存在の方に向けられているのではないか。そういう一つの仮設をおいて読んでいくと読みやすくなる。『動きすぎてはいけないージル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)では、ドゥルーズの思考に見られる一方の離散性の思考を存在論的に拡張されたヒューム主義として肯定的に抽出し、それを社会存在論にまで昇華させる思索を展開していた。その方向性がより過激な形で表出された『意味という無意味』(河出書房新社)所収の論文が、和辻や廣松なら一顧だに考察の対象にしなかったであろうギャル男やセンターGUYといった存在に肯定的な眼差しを向けるのは、共同体的規範からの逸脱者としてのアウトロー的なものへの偏愛に基づいていると読めはしないだろうか。

 

 もちろん、そこで肯定の対象となっているギャル男そのものが殊更「アウトロー」であると言いたいわけではない。しかし同時に、社会の規範からいってあまり好ましいものではない、もしくは注目されるに値する存在ではない「どうでもいい存在」として泡やあぶくのように浮遊する彼らの、ともすれば欲望に任せて軽々と規範を逸脱しかねない危なっかしさを肯定する筆致の先にあるのは、秩序など糞くらえという反抗の欲望ではないか。虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの「盛り」を、関係へのアタッチメントと同時にデタッチメントの双方の距離を遊動する社会性ならぬ社交性の徴として見、「ハッテン場」でのゲイ同士のとっかえひっかえ盛り合ってはしかし強固な紐帯へとは結びつかぬ奇妙な関係性を肯定したりするのも、その現れと見ることもできないわけではない。

 

 中でも、肯定的な概念として提示される『airheadness=頭空っぽ性』は、社会的に意味づけられた行為の是非弁別とは別の次元での過剰性の表現でもあり、身体的なレベルにおけるほとんどナンセンスなまでの自己破壊的享楽の狂いの衝動の兆候でもあり、そこに千葉はエクスタシーを感じているようである。ファナティックな行動に反応する身体全体に充溢する快感もその一つである。「頭空っぽ性airheadness」という造語で言語化されたこの概念は、ギャル男の先鋭的な形態であったセンターGUYの「頭空っぽ性」と盛っ髪に現れたエアー感の美学的ないしは表象文化論的な位置づけとして提起された概念だが、規格化された行為の範疇に収まらないある種の過剰性が距離や方向感覚を失って散乱する暴力性を肯定的に捉えたものでもある。

 

 行為の過剰性としての「野蛮な暴力」を、大学教員という立場上正面切って肯定するようなことまではできないのかもしれないが、ヤンキーなど「アウトロー」が肌で感じ取っている「リベラル的なもの」への嫌悪と反発の情をうまく言語化・概念化してくれると面白いことになるだろう。そしてそれは、ともすれ日本の哲学思想の一側面である和辻・廣松的な社会存在論の土手を瓦解させる「蟻の一穴」となるかもしれない。