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右翼反動による「便所の落書き」擬きの日記

アラン・バディウ『存在と出来事』・『世界の諸論理』

  フランスの哲学者アラン・バディウの著作は数多く邦訳されてはいるが、肝心の主著となると未だ翻訳されていない。その主著とは、L’être et l’événement(以下『存在と出来事』)とその続編のLogiques des Mondes(以下『世界の諸論理』)である。前者すなわち『存在と出来事』は、37に分けられた断章から構成された書物になっている。この書物の主要テーゼは、彼のよく知られた言葉でもある「数学とは存在論である」ということに尽きると言ってもよい。

 

 バディウは、存在の概念を掘り下げていく過程において「出来事」の次元を発見する。この「出来事」への関与の仕方を「主体化」と絡めて論じるところに特徴を持つのが、バディウの思考の真骨頂である。そして、このことが読後もなお理解に苦しむ点なのであるが、バディウが一般的な形式的存在論として提示したものと、人間の措かれた基本的状況のモデル化の関係について論じる際の数学に与えられた役割が不明な点である。ということは、僕は本書の核心が理解できていないということでもあるのだ。

 

 結論から言うと、バディウの議論はその核心部分において知的詐術が散見されるほとんど「暴論」の類であるというのが、僕の率直な感想である。バディウ集合論圏論の使い方に常々疑問を抱いている者からすれば当然なのだが、再度時間をかけて『存在と出来事』だけでなく、その続編にあたる『世界の諸論理』を読んでますますその思いを強くするし、バディウが明らかに英米系の分析哲学や科学哲学を意識して書いている箇所を見ても、おそらく建設的対話に至れるほどバディウの「よき読者」に恵まれるか疑わしい。バディウがその一般的存在論の定式化と人間の措かれた状況のモデル化を数学ことに集合論圏論に定位して論じるための正当化の手続きを欠いているというのが主な理由である。

 

 バディウの哲学は、「数学が存在論である」という主要テーゼと同時に「存在論は状況である」という主張とをどう関係させるのかが見物だわけだが、存在論は存在する者を汲みつくそうとはするものの、発生する者すべてを汲みつくせるわけではない。知への切迫と重要なものの知の政治的・実存的重要性との関係を考察する上で鍵になる概念が「真理」ということになるわけだが、この点でバディウは他のフランス現代思想の論者と決定的に異なるスタンスをとり、その姿勢は寧ろ古色蒼然とした形而上学者といった表情を時折見せもする。

 

 数学は、古代ギリシアの昔から存在としての知識を与えてきたが、バディウに言わせると、カントルの無限集合論が決定的なブレークスルーをもたらしたらしい。カントルは敬虔なカトリック信徒であり、カントルの論文を一読すればわかるように、無限についての思考と存在の概念を結びつけようとする形而上学的思考は、神学の系譜を見ても何も突拍子もない「トンでも」の見解ではなく、カントルその人の元の発想にあったのであり、この傾向はクルト・ゲーデルにも直結している。ボルツァーノ下村寅太郎の名著を一瞥しても、そのことが了解されよう。バディウにとってカントルの無限集合論は、正に宇宙観そのものに決定的な刻印をいれた数学の革新でもあったのだそうだ。そこでは、「解釈不可能な」無限の存在に依存している有限の創造された世界の概念は、無限が現実のものとなった宇宙によって置き換えられる。

 

「無限大に関する存在論的決定は、単純に次のように言い換えることができる。すなわち、無限の自然多様性が存在する、と」

 

バディウは言う。とはいえ、バディウは同時に、そこに単一の統一された本質ないしは<一>なる<神>の無限のイメージである「宇宙論的なもの」を指すものとして自然な無限階層性という考えを採らないように注意する。この点は、バディウ自身マルクス主義者というものの、レーニンと袂を分かっていると言えよう。集合論存在論は、全体と部分を扱わない。更に、集合は概念の延長として定義されるクラスと同義ではないので要素については何も言わず、したがって経験豊かな世界の質についても何も言わない。では、宇宙はいかにして「出来事」と呼ぶものに対応できるのか。

 

 確かに「出来事」には客観的な存在はない。バディウのいう「解釈的介入」を通してのみ起こる反省的構造を持つだけである。「出来事」は、それを認識する主体あるいはそれを出来事として推戴する主体とともに立ち現れる。「出来事」は、「出来事」の集合Xに属するすべての要素と「出来事」自体で構成されている。したがって、バディウがよく例に出す「フランス革命」は、1789年から1794年の間にフランスで起こった数え切れないほどの「出来事」のリストにとどまらない。これは、むしろ「フ​​ランス革命」という用語のことである。しかし、我々がこの特別なものを特定しようとするとき、我々は再び「出来事」の集合に直面している。バディウによると、「出来事」は「忠実性」を要求し特定の「出来事」つまり開示されている「真理」への取り組みに対する「忠実性」のみがある。この「忠実性」の概念は、それが「主体」であることが何を意味するのかについてのバディウの説明に必要な基礎をも提供する。

 

 バディウは、超越論的な経験可能条件としてのこの「主体」の概念に反論する。主観性は、介入と忠実な関係の規則の接点として匿名の「1として数える」プロセスによって捉えられる。そしてバディウにとって、そのような話題を呼ぶ「出来事」は4つの領域でのみ起こるというわけである。その4つの領域とは、「愛」の分野で、「科学」の中で、「芸術」の中で、そして「政治」の中である。

 

 バディウの「出来事」の概念の範囲と彼によるその定義が特定の歴史的出来事とどのように関連しているかが問われることになる。バディウの哲学によると、歴史的領域は、単に登録することに関わるのではなく、何が起こるのかを構成する自己関連性の、反省の領域である。歴史的領域では、バディウが「状況の状態」と呼ぶレベルで「再提示される」集合は、「異常」になる可能性があるためだ。自然の法則とは異なり、社会的慣習は常に「出来事」に侵害される。その要素のどれも「状況の状態」で表されない。

 

 「出来事」は「偶然の場所」(不確定な範囲の思考と活動)とその出来事それ自身からなる。ひとたび「出来事」が人間の世界の非常に風合いを作り上げていることを認めたならば、『存在と出来事』が繰り返し挑む質問はさらに強い力を持つ。歴史的世界はバディウの特権的な意味での「出来事」として推戴されるようになるのだろうか?バディウは、フランス革命ロシア革命、シナの革命、マラルメの詩、シェーンベルクのシリアリズム、ピカソキュービズム、カントルの数学といった比較的伝統的な科学的、美的、政治的革新のレパートリーから例を引き出す傾向があるが、これらの事件の多くでは関係する「出来事」が不可逆的な進歩であり、その継承者の無条件の「忠実性」を要求する画期的な出来事であるという含意が認められることはない。

 

 ここで提起されたより一般的な問題は、それらが見られる歴史的な視点自体が変化し続けるので、「出来事」の重要性が絶えず変化している方法に関する。極論すれば、かつて決定的な「出来事」として登場したものが完全にこの地位を失うことになるかもしれないということである。バディウは、特に黙示録的な革命の幻想の文脈において、「絶対的な新しさ」の概念を批判している。

「出来事自体は、可能性が再発を必要とする介入によって提出される限りにおいてのみ存在する。支配された状況の構造へ。それ自体、いかなる新規性も相対的なものであり、事実の後でのみ命令の危険性として判読可能である 」。

しかし同時にバディウは、そのような相対性がその「出来事」の解釈学的な格下げを可能にする可能性を排除しようとしている。彼はその「出来事」が「真理」の開示であると主張することによってそうしているのだ。単に変更可能で修正可能な意味ではない。しかしバディウの説明によると「真理」は証明できない。それは存在論的領域の知識に「穴を開ける」ことなのだ。 バディウの「出来事」への「忠実度」は、「出来事」自体よりも重要かもしれない。「忠実性」がなければ、人間はすべての一貫性を欠いた恣意的な衝動と欲望の断片化されたポストモダンな自己になるかもしれない。「忠実性」を通して我々は「主体」となる。なぜなら私たちは考えと行動の継続を維持し、未来がどんな圧力と偶然をもたらすのか予想できないにもかかわらず我々自身の将来の自己を保証するからである。

 

 出来事に対する無条件への情熱の誤った方向づけ、さらに悪いことではないにしても、それは教義と独占の危険をもたらす。それはまた一つの最後の問題を提起する。バディウは繰り返し「神は存在しない」と宣言している。しかし、存在と「出来事」の全体は、「存在しないもの」すなわち「許容可能な存在論マトリックス」が存在しない「出来事」についての複雑な探究である。更に、バディウ自身の思考は、なぜ私たちが主体になるべきなのか、なぜ私たちは忠実な人生を約束するべきなのかという疑問に導くしかない。

 

  バディウの主要テーマは、存在論形而上学そして政治理論の主要な問題のいくつかを通して一種の独特な形式主義を適用することである。バディウの『存在と出来事』 および『世界の諸論理』の双方において、結果的に形式主義の限界自体を露呈させる一種の逆説的形式主義という側面と、分析哲学の形式的な認識論と形而上学の理論的問題も扱われている。『世界の諸論理』では、主に「4つの一般的手続き」の分野における根本的な新規性または不連続で本質的に予測不可能な変化の可能性を理論化することが目指される。

 

 この目的のために、『存在と出来事』においてバディウは、数学的構造に基づく形式的存在論の革新的な理論、特にその標準となるツェルメロ、フレンケル、コーエンによる公理論的集合論が参照される。これによってバディウが「出来事」と呼ぶものを理論化することが可能になるというわけである。それは、そのようなものとしての対象や実体の外観を通常支配する基本的な公理を局所的に切断することによって本質的に新しいグループ分けを許すという逆説的な「出来事」として突然現われ、それらの変容的な効果を出現させることになる。『世界の諸論理』では「現象論」と呼んでいる包括的な形式的な外観理論で、この初期の「存在論的」な最終的な変化の説明を補足している。根底にある概念装置は、また数学的形式主義から引き出されているが、そのような変化の可能性の社会政治的意味もまたまた非常に重要性を帯びている。

 

 確かに、「序文」の中で、バディウは現代の「自然な信念」の仮定を免れるもの、彼がポストモダン相対主義と規約主義の閉じ込めの教義として見るものを理論化する試みの一部として『世界の諸論理』の全体像を提示している。そのような見解は、究極的には「民主的唯物論」の単調な体制のみを生み出すことができ、それはすべての文化とその主張をあるレベルで見ると、実際の発展の可能性と根本的な変化を生み出す効果的な介入の両方を排除する機能を持つ。バディウは、この「公理的」な信念を、アルチュセールに倣って「唯物論弁証法」と呼んでいるものに置き換えることを提案している。

 

 ここでの中心的な違いは、彼が「真理」と呼ぶものに対する躊躇なき肯定である。バディウによれば、それは現代の信念の正統性の議論の中では一般に否定されるか、抑圧されるのだが、ここでいうバディウの「真理」の概念は、ある種異常な概念であり、なじみのある対応説や整合説で言われている「真理」概念の観点から理解されるべきではないということだけは明白である。バディウにとって「真理」の意義とは、既存の知識体系を打ち破る能力であり、その結果、根本的な変革の方向性を定義することと関わっている。提示と表現の基本的な可能性を既存の順序の範囲内で並べ替えるわけだ。 

 

 『存在と出来事』は、「出来事」が生起するための存在論的構造と条件について説明しているが、バディウが「世界」と呼んでいる決定的で構造化された状況における「出来事」の出現を左右する条件については明確に検討されてこなかった。外見の構造化とそれらがどのように変化し発展するかを理解する仕事は、バディウをして彼の以前の理論の様々な革新と修正に導かせることになった。ここで最も重要なのは、存在論が静的かつ非関係的であることはもっともらしいが、現象の領域は本質的に関係的、動的、そして可変であるということである。したがって、現象の領域では、2つの対象間に存在の度合いと「同一性」があり、対象とそれ自体の間にはそれよりも大きいまたは小さい程度の「同一性」がある。これらの同一性と存在の関係は、完全な不可視性または出現の失敗に対応する最小度から、構造化された世界内の最大の存在または有効性に対応する最大出現度までの範囲の出現強度を決定することになる。ここの立論は明らかにrealitasをめぐる中世スコラ哲学やデカルト省察』にも登場する形而上学的概念の理解が不可欠になるが、バディウはこの点について何の説明も加えていない。

 

 『存在と出来事』は、存在の包括的な構造が標準的な集合論の公理によってモデル化されているとして理論化したが、『世界の諸論理』は、代わりに圏論に現れている出現領域をモデル化する。一般にカテゴリーは関係の構造として理解することができる。このような関係の構造が保持されている限り、このように構造化された対象の同一性は関係ない。バディウにとって最も重要なことは、論理的なものをモデル化するために、topoiとして知られている特別な種類のカテゴリカルな構造を使うことも可能であるとしている点である。例えば、トポス理論を使用して、すべての公理と標準的な古典命題論理の関係を代数的にモデル化することができる。実際、モデル化された論理が古典的なものである必要がないのは、明らかである。

 

 確かに、topoiを使って直観主義者や多価値のものを含む非古典的な論理をいくつでもモデル化することができる。これらの非古典的論理は、ハイティング代数と呼ばれる全代数構造によって決定されるものとして一様に理解することができる。この圏論的な枠組みを使って、バディウは、世界の特定のカテゴリーによって可能となる「真理」の程度に対応する様々な程度の存在を含む「論理」を決定する基本構造または各世界に存在するものとして決定される現象の関係を定義できるとする。

 

 バディウは、特定の世界のための存在のこれらの論理的な関係と強度を決定する特定の構造をその「超越」と言う。この用語はカントからフッサールまでの観念論的議論を反映しているが、バディウは「超越論的」のような構造化について話す際、いかなる意味においても超越論的主体の理論を与えるつもりはないと強調する。その代わりに、バディウの構造化された現象の関係は明確に客観的であり、例外なく特定の世界に「存在する」と理解できるもの、そしてその現象を構造化する独自の方法で「存在しない」または見えないままのものを決定する。

 

 同様に、ハイティング代数の採用と構造化された論理の多様性は直観主義的または構成主義的動機を示唆しているが、バディウは、構造世界が「超越」であることは重要ではないと強調している。バディウは、あらゆる形態の観念論的議論を完全に破ることを目指す。そのような立場は、世界の中で驚異的であるものの客観性、物が現れる能力およびそれらの独特の存在度を掌握することができないであろう、と言うのである。したがってバディウは、圏論を使用して考えられる現象構造を集合論を使用して集合自体またはその濃度として考える。

 

 現象論的対象と存在論的多様性の根底にある同一性は、終局的な「変化の論理学」の新しい理論の主要な革新に導くという。世界自体の超越的な構造を最終的に変えるであろう一連の変化をもたらすこの奇妙な遡及的効果は、『存在と出来事』のように、自己言及またはトートロジーの逆説的効果を通してのみ可能となるわけである。「出来事」が生起するためには、特定の集合がそれ自身の要素であることが必要である。バディウによれば、「偶然の場所」のこの準逆説的な構造が存在すると、世界の変化の度合いや強度に応じて、さまざまな方法でそれを取り上げることが直ちに可能になる。最も過激なケースでは、対象の最終的なサイトの構造の意味の忠実な追跡は、その存在の程度において以前最小であった要素つまりは、その特定の世界において文字通り「存在していた」という結果をもたらす。その存在の中には存在するが、世界の論理からは完全に見えない 突然最大の存在度を達成すること、それが意味する既存の構造のすべての変化をそれにもたらすことになる。ここでのアナロジーは、マルクスの「何もない私たちはすべてのものになるだろう」という一種の政治革命に対するものである。

 

 バディウは、他の分野で可能な限りこの種の偶発的な変化、例えば、新しいオブジェクトを引き出し、以前は注意を免れていた目に見える現象を作り出すだけでなく、基本的には大規模な新たに変換された世界に存在すると見なされるものの大規模構造を捉えようとする。現れることができるものの定義と限界を理論化するための、そしてそれ故に根本的に新しいものが明るみに出る可能性を捉えるための数学的形式化の使用は確かに「斬新」と言われれば「斬新」であろう。

 

 しかし、バディウがその前身と一緒にそれを望んでいるという哲学的思考の一種の変革的な出来事を発表することに『世界の諸論理』が成功するというのならば、以下の疑問には最低応答できるものでなければならない。一つは、『世界の諸論理』がその中心的な理論的目的であるそれらの構造と「客観的に現れる」という関係についての理解を深めることに実際に成功するかどうかという問題である。これらは、対象への接近あるいは慣習的な決定または偶発的な言語コミュニティによって構造化または決定された外見ではなく、むしろ「存在論」から厳密に外れた「客観的」な現象ではなく、事物の現実そのものである。バディウは、これらの程度と関係の詳細な形式を、世界の中の現象や存在の可変的な「強度」まで提供するが、これらの「強度」が実際にはどうあるのかを確立できるかという疑問に決して答えていないのである。

 

 この超越論は、ハイティング代数と特別な非古典的な論理との関連性を示しているが、この理論には超越論的なものと論理が実際にどのように世界を構築するかを説明するものではない。この疑問に答えることが必然的に観念論の形態の1つに帰着することを恐れているという理由で、バディウは超越の起源とその適用権の起源についての論争を提起することを望んでいないということである。しかし、現象を決定する際の超越論的構造の力とその維持の問題に対する答え方において失敗すると、「超越論的なもの」は確かに言語学的または慣習的な慣習の構造であり確立され保持されるという自然な仮定を避けることは非常に難しい。特定の文化または言語コミュニティの行動の規則性もちろん、この仮定はバディウが避けたいと望む類の「文化的相対主義」に直接戻ってしまう。

 

 二つ目は、以前の『存在と出来事』にも関係する疑問である。これは、バディウの概念装置が、現存する哲学的営為と社会学的営為の両方に関して、バディウ自身のより批判的主張の根底にある究極の変革と一般的な「真理」の過激な政治的教義を実際に支える程度の問題である。バディウの最終的な変化の理論が、それが真に変容的であることであるならば、その出来事が突然の予測不可能な出現をもたらすことを要求している限り漠然としたアウトラインでさえも、これらの劇的な変化の可能性を予測する可能性、または「出来事」の後まで出現する可能性のある場所を突き止める可能性から我々を遠ざけよう。このように、バディウの理論が、その強いレトリックにもかかわらずそれが表向きに想定している変化の種類を支持する上で実際に重要な役割を果たすことができるとは限らないのである。したがってバディウの読み手がこのレトリックを超えて、非常に示唆に富む形式とここで受け取る革新的な提起の両方を詳細に理解することが望まれる。