shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

意識と量子論

 主観的意識の由来の説明に関して物理学はさほど役に立つものではないように一般には思われているが(僕はそうとも思わないが)、一部の科学者は、おそらく理論物理学の最も深いレベルは量子物理学が意識の存在を説明するために使用できることを示唆することによって、この質問に解答を供するために必要な洞察を含意すると考えているようだ。その典型例が、意識と量子論を出くわせる最初の方法の一つとして持ち出される量子力学における所謂「コペンハーゲン解釈」である。

 

 この解釈では、物理系の測定を行う意識的な観測者によって量子波動関数が崩壊する。これは所謂「シュレーディンガーの猫」の思考実験を喚起した量子力学解釈であり(シュレーディンガー自身は、もちろん「コペンハーゲン解釈」に納得せず、そうであるからこそ不条理が帰結する思考実験として「シュレーディンガーの猫」の例を提示した)、この考え方の不条理の一端を示すものと捉えられている。

 

 波動関数の「波動」とは、三次元空間を満たす媒質の振動の伝播という意味での実在の波動を指すものではなく、対象の状態を表す物理量の測定値がどのような確率で得られるかを表現する「確率波」を意味する。確率計算の公式が振幅と位相を持つ「波動」によって表現されることが量子論の統計的解釈の基礎にあり、シュレーディンガー波動力学にある波動関数とハイゼンベルグ行列力学の遷移確率の計算アルゴリズム間の数学的同等性に物理的意味を付与したのが、マックス・ボルンが提示したこの「確率波」の概念である(いわゆる「ボルンの確率則」である)。

 

 この解釈は、ハイゼンベルグが述べる通り、粒子性と波動性の相補性を現実態と可能態の様相的区別として表現すると捉えることを可能にする。ミクロな物理の対象の観測は可能態から現実態への不可逆的移行は、同一の波動関数によって表示されるミクロな物理的対象の測定が同一の測定値を与えるとは限らないという意味で非因果的過程と言えるだろう。そこで、多くの可能性の中でなぜ特定のこの可能性が現実化したかについては理由を与えることができず「偶然」というよりほかないことになる。

 

 「コペンハーゲン解釈」における可能性の現実化という意味での波束の収縮は、量子論の数学的定式を観測によって得られた統計的データと結合するとき使用されるメタ言語の中で言及されるに過ぎず、対象言語としての数学的定式においては語られないという不都合があるわけだが、そうした不都合を避けられる古典論の延長として量子論を捉える路線(ヒュー・エヴェレット三世によって初めて提起された相対状態解釈ないしは多世界解釈。この解釈を推進する強力な論者が、オックスフォード大学のデービッド・ドイッチュやデービット・ウォレスである)をとるにせよ、確率がどのように排除され、またどのように取り込まれているのか判然としない点が残る。逆に、「コペンハーゲン解釈」の方向性を極端に推し進めた見解の一つと理解することもできるだろうジョン・ホイーラーによって提案された「参加型人間原理」では、崩壊を引き起こす意識的な観測者が存在する。そこでは、意識的な観測者を含まない可能性のある宇宙は自動的に除外される。

 

 ところで量子情報理論は、多くの研究者に対して「存在」の根底すなわち「究極的実在」は情報であることを示唆している。ジョン・ホイーラーはこの運動の提唱者であるが、同様にヴェドラルは「情報は物理的である」と主張し、ポール・デイヴィスは情報が「実在」であり「存在論的基礎を占有している」ことを示唆する。どちらも、情報は素粒子やエネルギーよりも基本的であると主張していることで共通の土俵に立っている。

 

 さらに、ホイーラーのテーゼ「ビットから実在へ(It from bit)」に沿って彼らは情報を把握し、それゆえ実在は離散的なデジタルな性格を持ち、究極的には質問に対するYes/Noの返答によって表示されるBITを元にした事態こそが実在であると考える。このテーゼは、Science and Ultimate Reality: Quantum Theory, Cosmology, and Complexityにまとめられているシンポジウムの記録集の中にある「真のビッグ・クエスチョン」という名でジョン・ホイーラーが居並ぶ高名な科学者たちに向けて述べた時の一つのテーゼである。

 

 このシンポジウムで基調講演を行ったのが、後にも触れるウィーン大学教授アントン・ザイリンガーである。ザイリンガーの講演題目は「なぜ量子か?ITはBITからなるか?参加型の宇宙か?-ジョン・アーチボルト・ホイーラーの遠大かつ先見的な三つの問題と実験量子物理学者への刺激」というもので、ここでザイリンガーは「いつか我々は、物理学全体を情報という言葉で理解し表現できるようになるだろう」というホイーラーの考えと同一の考えを表明している。「ザイリンガーの原理」で知られる量子論の最高権威の一人であり、彼の「量子力学の解釈と哲学的基礎について」という論文は、量子論が問題提起した哲学的難題に関心のある者にとっては必読文献であろう。

 

 ともかくこの点において、最近のイタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリの関係主義的量子力学で提起された見方が魅力的に映る。ロヴェッリが一般読者に向けて書いた薄い著作The Order of Timeが、『時間は存在しない』(NHK出版)として邦訳されているが、あの著作を読む限りでは、ロヴェッリの理論の核心は理解できないだろうから、ロヴェッリ自身の学術書Relational Quantum Mechanicsを読むなり、そこまで労力をかけたくなければ、科学哲学者の視点からロヴェッリの量子力学への情報理論的アプローチを紹介しているバス・ファン・フラーセンのRovelli's Worldという数十ページの論文を読まないことには理解は得られまい。いずれにせよ、量子力学情報理論の基礎の理解なくしてはとんでもない誤解を生んでしまうことだけは確かだ。直接的につながるわけではないにせよ、「究極的実在はモノではなくコトである」という見解は、哲学者ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』のテーゼに漸近していくようで興味深いし、わが日本の哲学者廣松渉は、「究極的実在」などという表現は決して用いなかったものの、廣松の事的世界観と比較しても面白いかもしれない。

 

 この量子情報理論に関して、国の総力を挙げて莫大な資本を投下して研究しているのが中華人民共和国である。遠藤誉『「中国製造2025」の衝撃』(PHP研究所)によると、中華人民共和国政府は、次世代において量子力学的知が全世界を席巻し、特に軍事・安全保障の分野において量子暗号や量子コンピュータの科学技術(これらの研究に比べたらAI技術など風下の研究でしかない。ましてや5Gがどうのこうのというレヴェルではない)の先端を走る国家が世界の覇権を握ると予見して、その基礎研究に日本とは比較にならぬ莫大な資本投下や人的資源の投入を行っているという。

 

 これまでの基礎研究のおかげで、辛うじて世界有数の科学技術力を誇ってきた日本は、この動きに対して安穏としていられないはずだが、いかんせん日本では残念ながら政策決定過程の中枢にいるのが法学畑を中心とする文科系の人間が圧倒的に多いためか、事の重大性に気がつかず極楽とんぼを決め込んでいる。それどころか、基礎科学の研究費を減額しているとのいうのだから、間抜けもいいところである。胡錦涛政権の頃から、ヤン・ミルズ理論で知られる高名な物理学者で米国籍を取得していた楊振寧博士を祖国に連れ戻し、中華人民共和国の国籍を取得させ、母校清華大学に特別の研究室とポストを用意するなど破格の待遇で迎え入れた(胡錦涛が講義の際にわざわざ出迎えにいったというぐらいの厚遇ぶりだったという)。もっとも、楊振寧は既に高齢で最先端の研究をリードする存在では既になかったが、後身に量子論の基礎理論を直接教授することで次世代の優れた物理学者を育てようと学部学生にまで直接講義をしたという。政府の意気込みが現れたエピソードである。実際、シナ人の若手研究者で優れた者は既に日本人研究者の数を凌駕するにまで至っている。

 

 さて、遠藤の書によると、この分野のシナでの研究リーダーである潘建偉は、1970年に中華人民共和国浙江省に生まれた物理学者で、現在は中国科学院が管轄する安徽省中国科学技術大学の常務副学長や中国科学院量子信息・量子科学技術創新研究院院長を務めるとともに、オーストリア科学院の外国籍院士でもあるそうだ。「十代科学人物」に選択され「量子の父」とも称されている。26歳でオーストリアに留学した時、オーストリア科学アカデミー院長で量子論の最高権威の一人であるザイリンガー教授の下で研究して後に母国に帰国し、現在は量子情報理論の分野の権威者として世界的に知られる学者になっている。

 

 潘建偉を中心とした開発チームが世界初の量子通信衛星墨子号」打ち上げ成功という大事業を成し遂げたことは、国内外に大きな反響を巻き起こした。「墨子号」開発にあたっては中国科学技術大学を中心として、中国科学院の上海技術物理研究所、中国科学院北京本院光電技術研究所、中国科学院上海微小衛星工程センター、中国科学院紫金山天文台、中国科学院国家天文台など十数個の研究所や大学が一体となり協力体制が敷かれた。この「墨子号」の打ち上げの際、潘建偉の指導教官だったザイリンガーがリーダーを務めるチームが欧州宇宙機関と協力して宇宙と地上を結ぶ通信を試みた実験を成功させている。事の重大性を理解した米国のウォール・ストリート・ジャーナルは、「米国は中国に量子通信技術について負けてしまったのか」と報じた。2018年には、物理学界における世界的権威のある学術雑誌Physical Reviewの速報誌であるPhysical Review Lettersに実験結果の速報が掲載され、それがトップニュースとして表紙を飾ったりもした。

 

 閑話休題。「隠れた変数」の解釈で知られる物理学者デビッド・ボームは、量子論相対性理論の両方が不完全な理論であるので、さらにより深い理論を追求しなければならないと主張した。ボームにとってこの理論は、宇宙の完全性を表す量子場理論である。彼は「暗黙の秩序」という言葉を使ってこの基本的な実在のレベルのようなものでなければならないと考えたものを表現し、我々が見ているものはその根本的に秩序された実在の壊れた反映であると信じていた。ボームによると、意識は何らかの形でのこの暗黙の秩序の「現れ」であり、宇宙の物質を見ることによって純粋に意識を理解しようとする試みは失敗する運命にあるという考えをも提案した。もっとも彼は、意識を研究するための科学的メカニズムを提案せずじまいであったので、この概念は完全に発達した理論にはならなかったといってよい。

 

 量子力学を使って人間の意識を説明するという試みは、ロジャー・ペンローズの一般向けの著書『皇帝の新しい心-コンピュータ、心、物理法則について』や『心の影』でよく知られている。この本は脳が生物学的コンピュータに過ぎないと信じていた古いアカデミズムの人工知能研究者の主張に応じて書かれたものだが、ペンローズによると、脳はそれよりもはるかに洗練されており、おそらく量子コンピュータに近いだろうことを主張している。人間の脳はオンとオフの厳密なバイナリーなシステムで動作するのではなく、異なる量子状態の重ね合わせにある計算を同時に作動させているかのように機能する。

 

 この議論は、従来のコンピュータが実際に達成できるものの詳細な分析を含むわけだが、基本的にコンピュータはプログラムされたアルゴリズムを介して実行されることに変わりない。ペンローズは、現代のコンピュータの基礎である「チューリング・マシン」を開発したアラン・チューリングのテキストを議論することによってコンピュータの起源を掘り下げた。しかしペンローズは、このような「チューリング・マシン」は彼が必ずしも脳を持っているとは思わない特定の制限を持っていると主張する。

 

 「量子論的意識」の支持者の中には、量子不確定性(量子系が確実に結果を予測できないという事実)は様々な可能な状態の中からの確率としてのみ意味を持つという考えを提出している。意識は人間が実際に自由意志を持っているかどうかの問題を解決すると考え、だから議論は人間の意識が量子論的過程によって支配されている場合それは確定的ではないのだから、したがって人間は自由意志を持っているというのである。

 

 これに対して、神経科学者のサム・ハリスは次のように述べている。決定論が真であれば未来は設定され、これには将来の心の状態とその後の行動がすべて含まれる。そして、原因と効果の法則が不確定なものの影響を受ける限り何が起こるかについては何の信用できる結果を得ることはできない。自由意志の一般的な概念と互換性があるように見えるこれらの真理の組み合わせはないと。量子論的不確定性の最もよく知られたケースの1つは、量子力学の解説で嫌というほど持ち出される「二重スリット実験」である。粒子が通過するスリットを決定するこの測定を行うこの選択については何もない。この実験の基本的な構成では、粒子がどちらかのスリットを通過する可能性が50%あり、誰かがスリットを観察している場合、実験結果はランダムにその分布と一致する。

 

 ミクロな状態にかかわる量子論の結果をそのままマクロなレベルの、しかも人間社会のシステムの理解にも転用しようという極端な見解が量子論的社会存在論として知られる立場であり、このいかかがわしい立場を支持する国際関係論の著名な研究者であるアレクサンダー・ウェントは、量子論的過程が人間の意識や社会的行為および社会システムの文字通りの客観的記述を与えうると考えているようなのである(この点については、かつてウェントのQantum Mind and Social Scienceの読後感を記した箇所で触れたので、ここでは詳細は省く)。

 

 彼は、量子論を介して社会科学の前提する古典論に基づく存在論を再構成することによって、古典物理学的実在像に基づく既存の社会科学の基本的前提が誤謬であることを主張し、人間の存在それゆえその社会生活が量子論的可干渉性を示し、実際我々は波動関数を生きているといういう俄かには信じがたい見解を展開する。しかも、わざわざこの議論は何もアナロジーでもメタファーでもないと断った上で、人間の真のあり方がどういうものなのかということについての一つの実在論者としての主張であるとまで言うのである。その主要論点が、自由意志と波動関数の崩壊との間の関係や非局所性の持つホーリズムにおける意味などである。

 

 彼の信念によると、人間存在とは正に量子系であるということなのだそうである。意識とはマクロレヴェルで現れた量子論的現象であり、社会科学者は量子論量子論解釈について戦わされている科学哲学的議論を取り込んで理論の再構築に努めなければならないというのである。ナンシー・カートライトあたりが聞いたら、激怒しそうな主張である。

 

 意識の理解に量子力学の知見を導入するというこの議論は、もちろんロジャー・ペンローズによる量子脳理論の影響であることを見るのは容易い。だが再度確認するように、この方向性がうまくいくには幾重ものハードルを乗り越えなければならず、現段階では「眉唾モノ」の域を出るものではない。そもそも意識を量子論に関係づけて理解する主張の前提において、先ほども触れた非局所性と量子論的可干渉性の問題が脳の広範な領域同士が相互にどう干渉しあっているのかという問題にどう結びついているかという基本的な事柄の解明がほとんどなされていないのが実情であろう。

 

 ペンローズのいう波動関数がマクロなオブザーバブルへと客観的収縮する過程を意識に関係づけるといっても、この種の議論にはその波動関数におけるペンローズの言うところの「客観的収縮過程」についての理論がすっぽり抜け落ちているのに、いきなり意識へと結びつけて論じることができるのかという疑問に何一つ答えていないのである。

 

 更には、意識の非計算的過程につき証明論の観点からペンローズを批判するヒラリー・パトナムの批判に対しても説得的な解答は提示されているとは言い難い。そもそも、ある精神的状態を脳の特定の様相とみなすことはあるクラスの脳の状態との同一視であって、このような同一視はクラス分けに明確な特徴づけがなされない段階で物理的概念に還元しているという点で概念的混乱をきたしている。

 

 量子論を意識のようなある種の精神的状態に適用しようとするならば、状態空間の数学的構造なりオブザーバブルの集合を考えなければならないはずで、果たして精神状態の空間というものが観念できると仮定しても、それが射影ヒルベルト空間の構造を有すると解すべき根拠はない。ある状態から別の状態への遷移確率を決定する内積を、ある精神状態と別の精神状態の間の関係から定義する方法すらない。

 

 こうした「無い無いづくし」の状態で、意識現象を量子論が解明するといったところでキャッチフレーズどまりに終わってしまっているというのが、この種の議論に対して胡散臭さをかぎ取ってしまう門外漢としての僕の率直な感想なのである。