shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

徂徠と丸山

 大石内蔵助良雄率いる赤穂旧浅野藩浪士が江戸本所松坂町吉良上野介義央邸に押し入り、吉良の首を討ち取ったいわゆる赤穂事件と称される騒動が起きたのは元禄15年12月14日である。この12月14日には播州赤穂や京都山科では赤穂浪士を偲ぶ義士祭が執り行われ、東京の泉岳寺でも行事が行われているという。もっとも、この12月14日とは旧暦でいう12月14日だから、新暦に直せば1月30日になるので何とも奇妙な感覚に襲われる。初代天皇であられる神武帝橿原宮で即位あらせられた辛酉正月一日はあくまで旧暦の1月1日なので、新暦に直した2月11日が紀元節とされ現在も建国記念の日として橿原神宮紀元祭が挙行されていることとの対比からである。


 『仮名手本忠臣蔵』をはじめ多くの忠臣蔵に関わる話が創られ、また書物の形で方々に流通し、歌舞伎その他の舞台や映画あるいはドラマとして何度も繰り返し語り伝えられているこの事件は、既に「国民的」事件といっても過言ではない。昔は12月14日になると必ずといってよいほど忠臣蔵の映画やドラマがテレビ放映され、「お茶の間」もそれを期待していたらしいが、現在は12月14日が何の日かとんと検討もつかぬといった手合いが圧倒的多数なのではあるまいか。少なくとも僕が物心ついた頃からは、12月14日に地上波で忠臣蔵の映画やドラマが放映されるようなことはなかった。以前、東映で撮影された片岡千恵蔵主演の『忠臣蔵』をDVDで鑑賞したことを年老いた居酒屋の主人に話した際、どのバージョンかという返答が来たので、なぜかと思いきや、片岡千恵蔵主演の『忠臣蔵』といっても数本のバージョンが存在するというのだから驚きだ。そのくらい忠臣蔵は幾度も制作され、人気を博した娯楽作品という域を超えてほとんど「国民道徳の教科書」とでも言ってよいほど日本人の精神形成に寄与していたというのである。


 ところが、この忠臣蔵の物語について触れている教科書となると、ホンの脚注部分に触れられているくらいで詳しい記載はない。大部分の進学校が採用しているはずの山川出版社の歴史教科書『日本史B』も確かに欄外表記だったような気がする(もちろん、おぼろげながらの記憶であるが)。この扱いに関して、かつて小林秀雄は憤慨する言葉を残していた。書かれているとしても申し訳程度に触れられるぐらいにとどまり、その知名度との乖離はあまりに著しいのである。大学受験における日本史の問題で忠臣蔵が扱われた例などないのではないかと思われるほどである。特に東京大学の日本史の問題はいくつかの短い論述問題で構成されており、僕の印象では社会経済史に絡む論点が多かったと記憶している(社会経済史中心に出題される方針が必ずしも悪いわけではないが、この傾向は戦後の日本史学マルクス主義の影響を多分に受けたものであることと無縁ではないのだろう)。


 この忠臣蔵の物語が史実を伝えているとか言われれば、必ずしもそうではなかったとの見方が有力らしい。なるほど、実証史学の洗礼を受ける以前から我が国では異聞や外伝の類も著されているところを見ると、どうやら一般に定型化している忠臣蔵のストーリーは必ずしも史実に従っているわけでもないことに薄々気づかれていたようである。但し、こうした異聞や外伝の類はあれど、それらはみな吉良上野介を悪役にしたストーリーである点に違いはなかった。だが、見ようによっては死にかけの爺さん一人を若い者が寄ってたかってぶっ殺したとも見えてしまうこの事件の真相は今も藪の中である。地元吉良藩での評判通り、吉良上野介義央が天下に並ぶ者なき名君であったかどうかはさておき、一応この評判等から推察される通りの「名君」と呼ばれた知性・教養・人格ともに将たる器にある者との前提に立つならば、主君の敵を討つという構図そのものが崩れてしまいかねないからだ。

 

 徐々に吉良の在りし日の姿が明らかにされてきているところによれば、吉良は「高家肝煎」という名家の中の名家の家柄という事情も手伝って、領民に尊敬されまた慕われてもいたとされ、領民のための政事を行った善政の主君であったという。のみならず、勅旨饗応役指南役として認められていたほどに有職故実にも精通した当時第一級の知識人でもあったらしいのである。対して浅野内匠頭は世事に疎い青二才の上に、有名な癇癪持ちだったという。世間知らずの短気な「バカ殿」とも見られかねないのも、こうした性格に加えてその物覚えの悪さも手伝っている。確か、勅使饗応役を任されたのはこれが初めてではなく二度目であったはず。昔の封建領主は、一般に思われているような「バカ殿」とされるような無能の藩主はほとんどいなかったと言われる。補佐役がしっかりしていたことと幼少時から相応の「帝王学」を教育されてきているからだ。むしろ良き領主であろうと思うあまり、そのプレッシャーに押しつぶされそうになった者の方が多かった。

 

 この赤穂浪士に対する処分の在り方をめぐり荻生徂徠、室鳩巣、林鳳岡との間で戦わされた処分裁定論議において、荻生徂徠は後に「私擬切腹論」と称される持論を展開したことは知られている。丸山真男が近世封建社会の生んだ最初の最も偉大なる「危機の思想家」として賞賛したのが(もっとも、丸山の戦中と戦後の徂徠論には明らかなズレが指摘できるのだが、ここではその点については拘らないとしよう)、この荻生徂徠なのであった。丸山真男が徂徠を評価する基本的な理由として挙げた点は二つである。一つは、丸山が徂徠学をして金線のように貫く特質とせしめたところの「政治の優位性」を主張したという点である。天理と人性、気と人欲、法則と規範、物と人、人と聖人、知と徳、徳と政治を直線的に連続させ、かかる連鎖を道徳性の優位の下に配列し、静的・観照的に世界を把握する「合理性」の体系としての朱子学に対抗して、徂徠は個人の道徳と政治的決定との連続性を否定し、修身斎家から治国平天下を分離し、加えて前者の核心を後者において捉えたことによって、それまで「修身の学」に納まっていた儒学の改変を試みたと丸山は解釈する。いわく、そこに見出されたものは「政治的なるもの」の次元であった。二つ目に指摘されるのは、「公」と「私」との分離すなわち「公的・政治的なもの」までの規範の昇華と、私的・内面的生活の一切のリゴリズムからの解放をカテゴリー的に分離し、その上で両者の両立可能性を論定するというものである。

 

 もちろん、このような丸山の徂徠学解釈の妥当性が今日の徳川期政治思想史研究の水準からみて維持しうるものかどうか怪しい。少なとも、丸山の研究上の後継者である渡辺浩の研究から見れば維持しえなくなった面が存すること否めない。そもそも丸山の研究形成史を紐解いて見ても、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)でのそれと、後に刊行された東京大学法学部での徳川期の政治思想史の講義録(『丸山真男講義録』(東京大学出版会))のそれとでは評価が異なっている面も散見される。それゆえ、上記の通りの丸山の見解を固定的なものとして見る訳にはもちろんいかない。ここ数年では、政治思想史や経済思想史に関する著作を出している経済産業省官僚の中野剛志『日本思想史新論』(ちくま新書)が丸山の徂徠論に対する異論を申し立てており、その主張には批判すべき点が多々あるものの、徂徠の思想に近代合理主義の萌芽を読み込む丸山の徂徠論が牽強付会に過ぎる点に対する批判については概ね同意できるものとなっており面白く読める(この中野の書で最も共感できたのは、「あとがき」である。中野の東大教養学部時代の恩師である佐藤誠三郎の言に中野が共感しているところである。共感の共感である。佐藤の「丸山真男論」の中での中野好夫と丸山の論争について触れている部分である)。

 

 とはいえ徂徠は、この頃の儒学者に多かれ少なかれ見られた二元論的思考の圏域に収まっていたことは事実である。にもかかわらず、例えば伊藤仁斎のそれとはその線引きが違っていたことだけは確かであって、仁斎の思考にはむしろ「政治の優位性」の思想を見出すことは困難であろう。仁斎と徂徠の関係を見れば、徂徠の人物像が「徂徠豆腐」で描かれたような徂徠像とは全く異なる、どうみても嫌な奴という印象しか持てないのであるが(仁斎の学問を批判する徂徠は当初、伊藤仁斎を慕い、仁斎に熱烈な書状まで送っていたほどなのだが、仁斎が体調不良のために返答ができなかった事情を知らず仁斎に無視されたと早合点してしまい、後にそのことが仁斎を批判する立場に転じたといった経過をみると、天下の大学者といえどもその狭量な人格にげんなりしてしまう)、丸山真男が近代政治学の祖とされる『君主論』のマキャベリに比したいと思いを顰めていた点は理解できなくもない。少なくとも『日本政治思想史研究』所収の徂徠論を執筆した当初は、本人も認めるように戦中という刻印が刻まれたものであった。

 

 以後の徂徠論では、なぜか打って変わって徂徠の思考の封建的限界性をあざとく指摘する方向へと向かったのはなぜなのか?この点、丸山のテクストを内在的に読みきったものが僕の知る限り残念ながら存在しない。その頃に既に後に「歴史意識の『古層』」に結実するその思考の萌芽が既に胚胎しはじめていたのかどうか、周辺の講義録を読んでも未だ掴めないでいる。