shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

憎悪の連鎖

いわゆる「嫌韓」を主張する勢力に対する警戒の声が、「ヘイトスピーチ」規制の実施を求める声となって表れている。かつての「在日特権を許さない市民の会在特会)」の活動など、「行動する保守運動」と称する一連の排外主義的主張を展開している集団の言動を、「ヘイトスピーチ」として罰則付きの取締対象にしろとの声である。また、国際機関の「お墨付き」を得ようと、各種団体が国連の人権委員会でロビー活動を展開して、国連の機関からこの種の主張に対する取り締まりの勧告を取りつけ、それを以って国内での取締論の強化に利用としているようにも見られる。

 

この構図は、ちょうど日本国内の左翼団体が「従軍慰安婦」問題において、国連人権委員会でのロビー活動を通じて、日本政府に対する勧告(クワラスワミ報告書に基づく勧告。この報告書には、日本国内の左翼活動家の一方的な主張が露骨に反映され、その作成過程における関与が疑われる内容になっている)を出さしめ、以って自らの主張を実現しようとする構図に類似している。「外圧」に弱い政府の性格を見越して、自らの主張を通そうとする算段である。

 

行動する保守運動」という排外主義的グループによるデモに対して反発するカウンター運動も活発となり、その過激な抗議行動により、各地で逮捕者を出すまでに至っている。但し、排外主義的グループのデモは、道路使用許可の下になされた合法的活動であり、日本国憲法21条1項において保障される「言論・表現の自由」の範囲内での政治活動に見える。対して、カウンターデモの側は、道路使用許可を取らずに、デモ行進により政治的主張を展開する者たちに対する沿道からの妨害活動に映ってしまう。対抗言論をぶつけるのならまだしも、「レイシスト帰れ!」だのと大声で連呼するだけならば、単なる妨害工作と感じる者も多かろうと想像するし、余計な反発を呼ぶだけだろう。そういうことはあるまいとは思うが、排外主義的グループとの「共犯」関係にもとれる協働行為を疑う者が出てきても不思議ではない程だ。

 

左翼の中には、この排外主義的グループとそのカウンター勢力との直接衝突によって不測の事態が発生することを予防しようとして警備体制を敷いている警察に対して、「排外主義的グループを擁護している」と非難しているようだが、もし本気でそう思っているのなら、明らかにおかしな主張である。警察が警備体制を敷くのは、排外主義的グループとカウンターの左翼との衝突による不測の事態発生を回避することが目的であって、排外主義的グループを擁護する目的など持ってはいないことくらい容易に理解できることである。警察は、「反天連」という、我々から見て最も許しがたい集団がデモ行進する際にも、我々右翼の側からの襲撃を防ごうとして、過剰なまでの警備体制を敷いており、我々も時には警察に対して過剰警備を批判し「反天連」など守る必要はない旨の抗議を行う。しかし、警察が「反天連」を擁護するために警備体制を敷いているわけでなく、自身の信条に反する任務につかざるを得ない立場であることも理解した上で抗議する。左翼には、そうした立場にある個々の警察官の境遇に対する想像力に欠けているのだ。

 

日本の左翼の特筆の一つとして、ご都合主義的な二枚舌を弄する点が挙げられるが、こうした警察に対する対応一つとっても、同じ二枚舌を弄することは相変わらず。左翼系デモに対する右翼側からの襲撃がなされたとすれば、左翼は警備が手薄な旨攻撃することだろう。仮に、排外主義的グループとカウンターとの直接衝突を回避すべく適切な措置を講じないことにより死傷者が出た場合、左翼は警察にその責めを帰す文句を吐くのではあるまいか。実際に衝突による負傷者や逮捕者が発生している事案が存在する中で、警察がこれを放置することはできないと判断するのは、当然と言えるだろう。そういう想像力に欠けているのも、独善的な左翼にみられる傾向である。我々民族派右翼も頻繁に警察当局と衝突し、強い口調で警察を批判することもある。しかし、そうであっても、警察には警察としての立場があって行動していること、そのことにも理があることを承知して行動している。相手の立場に立つことは中々難しいことではあるけれど、多少は想像力を働かせて、相手を理解しようという寛容を持とうと少なくとも努力はしている。

 

民族派右翼による直接行動における最も過激な形態である要人暗殺にしても、「一人一殺」を旨として対象者以外の者に直接害が及ばないように配慮してきた。たとえ国賊売国奴であろうと、その者にも愛する家族や知人がいるであろうからと「一滴の涙」をもって、できる限り犠牲者が少なくなるように、また家族に現場を見せまいと配慮しつつ、やむに已まれぬ直接行動に出た者がほとんどである。女や子供には手を出してはならないことが不文律としてあるのは、あの陸軍皇道派青年将校によるクーデタ未遂事件「二・二六事件」の精神にすら貫徹されていた。ところが、左翼によるテロリズムは、対象者が誰であろうと、家族や一般市民をも巻き込む無差別テロが多い。そこには人間の細かな機微に対する感覚もなければ想像力もない。もちろん「一滴の涙」もない。ただひたすら、自分の独善的な世界観に合わせて、他人をそのための道具とみなすばかりである。一人の人間を政治的カテゴリーだけでしか見れないというのが、これまでの左翼全体主義に例外なく見られる特徴である。この左翼全体主義が世を覆うことによってどのような地獄絵が展開されるか、それは歴史が証明するところである。

 

東西冷戦は世界的にみれば終焉したが、北東アジアでは今もなお形を変えて存在している。共産主義体制の実情と左翼政権による残忍な行為が白日の下にさらされたことによって左翼勢力はかつての勢いを失ったとはいえ、様々な社会運動を隠れ蓑にして生き残りを図ろうと躍起になっている。反核運動を基軸とした環境保護運動もその一つだし、人権擁護運動も然り。一見、誰もが反論しにくい耳触りのよいスローガンを掲げ、さして左翼思想を持つわけでもない一般の国民を取り込み、最終的にオルグして左翼運動の先兵となさしめること。こうした戦略によって、一般国民の間に浸透を図ろうとするが、本音のところを隠しているのが実態だ。このところ左翼の偽善・欺瞞があからさまに目立つのも、表向きのスローガンと本音との齟齬が際立つ場面が臨界状況に達してもはや隠しきれない程に広がってきたからに他ならない。

 

 「ヘイトスピーチ」なるものを批判し糾弾する内容は、それ自体としては大いに首肯できるところがあり、本心からそれ自体を目的に主張するならば理解もできる。しかし、素直に左翼の主張に同調しかねるのは、左翼の本音が別のところにあることが透けて見えてしまうからだ。日本の左翼は世界的にも珍しく、自国の尊厳を貶め、自国民を足ざまに罵り蔑み見下す活動に精を出し、いわば「日本呪詛」の怨念に突き動かされるあまり、他国とりわけ中華人民共和国や南・北朝鮮の利益に資するような行動を繰り返している。共産主義の世界的敗北という惨めな結果を率直に受け入れられないことから来る歪な感情がルサンチマンとなって日本呪詛の言動へと転化した成れの果てが、日本の左翼という世界的に見ても奇特な連中の実相なのである。

 

だからといって、排外主義的グループの極端な主張が許容されるわけではない。少なくとも「不逞鮮人は日本から出ていけ!」や「ゴキブリ朝鮮人」あるいは「朝鮮人、息するように嘘をつく」、「朝鮮人、顔面の捏造するように歴史を捏造することをやめろ」などという表現は、言論・表現の自由の保障をうたう憲法21条1項が予定している自由の範疇を超えているように思われるし、このような言動が日本社会に広がっているのが仮に事実であるとするならば、かかる事態は日本国及び日本人並びにこの国に住む住民全体にとっての恥であり、一刻も早く是正されるべきとも思う。ましてや、矛先を在日コリアンに向けるのは論外であろう。東京の新大久保や大阪の鶴橋あるいは名古屋の大須など在日コリアンが多数住む街で韓国糾弾を叫ぶのは、彼ら彼女らの平穏な生活を侵害する行為である。我々民族派右翼は、民族派ゆえにこそ一つの民族を全てまとめて否定するような民族憎悪・人種憎悪には断固として反対する。我々が日本民族の尊厳を守りたいと思っているのと同様、朝鮮民族朝鮮民族としての誇りと尊厳と矜持を持っているはずである。だからこそ、朝鮮民族全体を否定するような行為に対しては断固として反対するし、民族派団体の中にはこのような排外主義的グループに対して直接抗議街宣活動を展開している団体もある。かつて、石原慎太郎の選挙事務所が同じ選挙区から出馬した新井将敬の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」などと書いたシールを貼りつけて回った選挙妨害事件があったが、その際、石原慎太郎の事務所に猛抗議したのは野村秋介である。野村烈士は、大悲会会長として知られる民族派右翼の重鎮で、葦津珍彦の薫陶を受けた思想家であり活動家であり、朝鮮民族を差別する行為を断じて許さなかった人物である。かつて、獄中で出会った在日コリアンの収監者で刑務官から不当な扱いを受けていた者を守るべく、刑務所の所長に直談判したのも野村先生であった。

 

また民族派右翼の中には、数としては極く少数ながらも、故あって在日コリアンの人も在籍している。犯罪歴などの理由から日本に帰化したくても難しい事情があって、在日という立場のままという人が多いのだが、彼らは心底生まれ育ったこの日本という国や文化を愛し、その思いが強くて敢えて民族派にまでなった人々である。それ故、まっとうな民族派右翼は、「ヘイトスピーチ」に代表される排外主義的主張に反対することこそあれ、これを容認するような真似はしない。

 

しかし、排外主義的な主張を容認しないことと、韓国批判を容認しないこととは全く別異のことである。この点を左翼は意図的に混同し、自らの政治的主張に沿わない言論に対して、「ヘイト」だの「嫌韓」だのといって全否定した上で、これら一連の批判を封じ込めようとする。ここにも左翼全体主義が現れていると言えよう。あからさまな反日言動を展開する現在の韓国政府や韓国人に対して、これはおかしいと思うことがあれば率直に批判を展開するというのが健全な関係ではないのか。韓国批判はすべて悪であるかのごとき物言いは、むしろ言論・表現の自由を萎縮させ自らの首を絞めているようなものである。

 

ところが、独善体質の左翼は、自らの「正義」に対する懐疑の態度を欠落させ、自分と異なる意見は容認しないという不寛容な態度を貫き続ける。ちょうど共産党独裁政権が政権批判を一切許すまじとして弾圧してきた歴史を彷彿とさせる。日本共産党の独善体質を一目見ても、彼らが間違って政権を取ろうものなら、次にどのような暗黒の世の中が出来するか想像が容易につくだろう。再度言うように、一つの民族全体を十羽一絡げにして否定するかのごとき主張は端的に言って「レイシズム」であり、こうした「レイシズム」に対して日本社会の声としてこれを断じて許さないという土壌が形成されていく必要があろう。但し、その土壌は「レイシスト帰れ!」と怒鳴っているようでは醸成されにくいだろうことも、また確かなように思われる。それどころか、かえって反発から「レイシズム」を増長させていくことに結果としてつながるだろうことも容易に想像される。いかなる民族も、その民族の祖先から受け継いできた歴史・伝統・文化に対する誇りとそれを守り継いでいくとの矜持を持っている。日本民族であろうと、朝鮮民族であろうと、アイヌ民族であろうと、漢民族であろうと、満洲民族であろうと、皆等しく変わらぬところである。その誇りと尊厳を傷つけるかごとき主張は許されないことであって、この一事を以って排外主義的グループの言動は肯定できない。

 

批判は、正々堂々と個別の問題ごとに批判すべき点を明確にして、理路整然とした批判活動を展開していくのが筋である。韓国批判は許すまじとする左翼のように、表向きでは韓国擁護の論陣を張りつつも、実は心底では朝鮮民族を見下している潜在的差別主義者の言に惑わされず、日本国民は、一人の立場からでも、韓国がおかしいと思うことがあれば、批判すべきを批判するという態度で臨めばよいのであって、何も韓国に阿る必要など些かもない。それこそ、相手を対等な存在として遇することであって、「ごまめ」扱いすることが相手を尊重することであるわけではない。

 

しかし、一連の排外主義的グループの活動を法的に取り締まることは行き過ぎであって、あくまでも対抗言論をぶつけることで戦うのが筋である。もちろん、その対抗言論とは、良識派知識人が言いそうなきれいごとではなく、必ずしも暴力否定論者ではない僕からすれば、場合によってはそこに「肉体言語」も含まれて構わない。逮捕されることも厭わずという覚悟を持って抗議したいならそうすればいい。「ヘイトスピーチ」とは、一定の集団とりわけマイノリティに対する侮辱、名誉棄損、憎悪排斥、差別などを内容とする表現行為であって、内容いかんによっては、必ずしもマイノリティとはいえない特定の集団に対するその存在を否定する誹謗中傷・皮肉表現も包含される。だから、何を「ヘイトスピーチ」と認定するかは、あからさま極端な事例は別として、困難を極める。それを法的に規制することは、憲法上「表現の自由」が重要な権利として認められている以上、慎重を期さねばならない。

 

まず、何を以て「ヘイトスピーチ」として定義された行為の範疇に包含されるのかについての合意がなされず、それゆえに規制立法の法技術的困難と具体的適用場面における解釈上の困難がつきまとう。ある行為を犯罪とするからには、構成要件該当性判断を容易ならしめるだけの明確性が要求されるところ、これほど人々の意見が複雑化・多様化した現在において概ねの一致をみることが期待されるだけの明確性をどう確保するのだろうか。蓋し、言論・表現活動の萎縮効果をもたらすだけにしかつながらないことだろう。言葉の上で「ヘイトスピーチ」を定義したとしても、ある行動がそれに当てはまるのかを判断する具体的な場面に遭遇すると、どうしても解釈の争いは避けられない。現在の左翼の言動を見る限り、中韓批判自体が許されないと濫用されるに至りかねない。

 

最近の下品な「週刊ポスト」の韓国関連の特集記事に対する一部の人々の発狂ぶりをみると、こういう連中によって十中八九立法が悪用されかねないという危惧を一層募らせもする。この事件は、別の角度から見ると、左翼全体主義の一端を垣間見させてくれたとも評価できよう(メディアの問題を言うならば、例えば東海大学金慶珠教授が出演するテレビ番組のあり様の方だろう。もちろん、金教授を出演させるなと言っているのではない。その逆である。金教授を出演させて議論させるなら、きちんと一対一で冷静な議論ができる状況を設定するべきであって、四面楚歌のような状態であたかも彼女だけを袋叩きするかのような演出は卑怯なことなのでやめた方がいいと言っているのである。僕は決して金慶珠教授の主張には同意できないが、日本のテレビ番組における多勢に無勢の状況での彼女の孤軍奮闘ぶりに対しては寧ろある種の同情を覚えるのが正直な気持ちである)。またそうなると、かえって日本人の極端な反発を招き寄せるおそれだってある。極端はその正反対の極端を生み出す。強制によって差別が解消されることはないのである。

 

そもそも、最近十年ほどの間に排外主義的グループの活動が活発化し、これに共鳴する日本人が多くなったのも、彼ら彼女らからすると、これまで日本は中華人民共和国や南・北朝鮮から言われたい放題やられたい放題であり、そうした日本に対する誹謗中傷に対して政府やメディアは適宜反論してくればよかったのに、そうした反論をしていくことが何とはなしに慎まれるべきであるとの「暗黙の強制」的雰囲気、あるいは「臭いものには蓋をしておけ」といった空気に対する不満が溜まりに溜まったことに起因する。確かに、中華人民共和国や韓国・北朝鮮に対しては、他国への批判と違って何か奥歯に物が挟まった物言いしかなされない遠慮が働いていた。特に日韓関係は、両国の国力の差があり、韓国側の無理難題の要求に対して日本は「大人の態度」とばかりに大目にみてきた歴史がある。対北朝鮮の関係からも韓国も西側陣営の一員だからということで、日本の保守派政治家も韓国に対して過剰とも言えるサービスを供してきたことも手伝っていよう。左翼は何かにつけて「歴史」を持ち出し、韓国に対するまっとうな批判ですら封殺しようとしてきた。

 

しかし、思い返してみて欲しい。つい最近まで韓国を攻撃していたのは左翼であった。北朝鮮を「地上の楽園」と礼賛する一方で、韓国に対しては反共軍事独裁政権であるとして非難してきたのである。岩波書店の雑誌「世界」のバックナンバーを読み返せばはっきりするが、北朝鮮礼賛記事で溢れかえっていた。大学の左翼教員、労働組合の委員長、日教組の委員長、国会議員などの面々は、デタラメのオンパレードの『金日成回顧録―世紀のなかで』(雄山閣)の推薦文を嬉々として寄せ、ピョンヤンチュチェ思想塔に花崗岩でできたプレートを寄贈していたのである。まだ「論壇」が機能していた時代に不幸にも左翼全盛時代を迎え、我が国の「戦争加害者」の側面が殊更に強調され、道徳的に劣位の立場であることを押しつける言説が幅を利かせてきたこともあって、適切な批判がともすれば「差別」として糾弾されかねない雰囲気が醸成され、正面切った批判が憚られた。拉致問題が長年放置されてきたのも、北朝鮮を礼賛してきた左翼が拉致を全否定する言論活動を展開してきたことが一因である。

 

とりわけ、北朝鮮の体制を礼賛し拉致問題を封印してきた旧日本社会党岩波書店の責任は重大である。特に、社長だった安江良介はあからさまなキム・イルソン崇拝者で、雑誌「世界」を中心に北朝鮮の体制を礼賛し続け、拉致問題を否定してきた人物である。更に、岩波書店のお気に入りの国際政治学坂本義和は、よほど北朝鮮が好きなのか、北朝鮮への経済制裁を求める拉致被害者家族に対して非難するなど、愚かとしか言いようのない活動をしていた。北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝しまくっていた者が、「知識人」として偉そうに君臨していた戯画のような光景が繰り広げられていた戦後日本の一定の言説の偽善・欺瞞に辟易する声が方々から聞こえてくるのも、無理ないことであった。もっとも、左翼的な立場であった東京大学の小川晴久のように、早くから北朝鮮による日本人拉致の問題や北朝鮮帰国事業で向こうへ渡った人々の人権状況を批判する活動を展開してきた識者もいた。ところが大部分の左翼は、こうした活動を無視するか、逆に暴力的な介入によって妨害活動に勤しむなど、朝鮮労働党統一戦線部の指揮下にある朝鮮総連の人間らと組んで、北朝鮮を利する活動に邁進してきた。そうした妨害活動を率先していた人間が「慰安婦問題」を声高に叫んできたということを記憶にとどめておくべきだろう。

 

ネット社会がそうさせたなどと安易なことを言うつもりはないが、少なくともネット社会になって、人々が本音のところで「薄々感じていたこと」をお互い知る術ができたことで、自分のみが特殊な考えを抱いているのではないかとの疑心が晴れ、同じことを皆が思っていたことの気づきから来るある種の開き直りが、本音を暴力的にまで表に出してしまう大衆を生み出しもしたのだろう。こうした表に出てきた「本音」を無理やり弾圧して活動を停止させたとしても、それは、これまで醸成されてきた憎悪をますます増幅させることになる。

 

考えてもみれば、元から嫌韓ムードが日本社会を覆っていたわけではない。むしろ、サッカー「日韓W杯」の頃には、マスメディアによる友好ムードの煽情とあたかも「日韓新時代」を迎えたかのような脚色が施された報道がなされていたことを差し引いても、日本社会で露骨に韓国を嫌う人びとはさほど多くはなかった。これほどまでに韓国を嫌悪する声が高まったのは、専ら韓国側の姿勢による。実際、極端な嫌韓を主張する声なり韓国嫌いを公言する人々が増えたのは、韓国の元大統領李明博竹島への密入国と、その直後に発せられた現上皇陛下に対する不敬発言が契機となっている。我が国の象徴であられる天皇に対し、かくも侮辱的な罵詈雑言を浴びせかけた政治指導者の存在は前代未聞であって、日本国民に与えた驚きと怒りは極めて大きかった。右は産経から左は朝日まで、この点に関しては韓国の無礼に対する批判を一致して展開していたほどである。国交を断絶するもやむなき事態というほどに、外交上ありえない所業であって、日本国民の嫌韓の思いはこのとき最高潮に達したといってよい。

 

その後にも、「慰安婦問題」を声高に叫び、諸外国での反日言動が日本国内の人々にも伝えられるたびに韓国への疑心は高まっていった。この状態で韓国を好きになれという方が無理筋の主張であって、国民感情の機微に触れずに単に仲良くしなければならないというだけでは何ら問題は解決しない。日韓関係を悪化させた要因は、韓国政府や陰に陽に日本に対する執拗な嫌がらせ行為を続ける韓国人たち含め総じて韓国側の言動であった。韓国の反日的言動を列挙すればきりがないほどである。しかし、日本人は概ねその怒りを表に出さず耐えてきたが、これ以上の我慢はできないという日本国民が増えてきた。これが極端な主張をする排外主義的グループの躍進の背景にあるのだろう。日本だけに我慢をしろとせがむのは、もはや無理がきているのである。

 

そこに加えて、露骨な親北反日ムン・ジェイン政権の誕生と来た。ムン政権は慰安婦合意によって設立された財団を解散させ事実上合意を一方的に破棄し、元募集工判決にみられる国際法上の違法状態を放置し、日本に対する罵詈雑言を並べ立て、地方議会では「戦犯企業」と名指しして日本企業をヘイトする条例を制定するなど、やりたい放題の有様である。自衛隊の哨戒機に対する火器管制レーダー照射行為など、いつ不測の事態の発生に至ってもおかしくはない韓国軍の行動に怒りを覚えた日本人も多い。さらに、逆切れして日本が悪いと無理筋の理屈を弄して日本批判をする。非があれば認めればようものを、決して認めようともしない。解釈は両国で相違が出ることはあろうが、明らかな事実に対してすらも否定する厚顔無恥ぶりに怒りを通り越して呆れ返った日本人も多かろう。「これはおかしいだろう」と思う日本人が批判の声を上げ始めるや、左翼は「嫌韓を煽るな」と韓国批判を封じ込めようと躍起になる。そうすると逆に、これに反発する日本人がさらに過激さを増した韓国批判を展開する。この悪循環が今日の状況である。

 

なぜ、かくのごとき「嫌韓」の人々が増えてきたのか。それは何も差別を煽動する言説が突然に出てきたためではない。むしろ、そうした主張に呼応する人々が大勢で出てくるほどに韓国・北朝鮮に対する鬱積した感情が醸成されるだけの土壌が存在してきたからだと考えた方がいい。その土壌は、韓国・北朝鮮に対する面と向かった批判すらも許されないとする暗黙の雰囲気があったことへの反動として形成されてきた。いずれにせよ、「嫌韓」がかなりの数増えてきてきている要因を分析し、言説レベルでも左翼的言説が跳梁跋扈してきたことの反省も踏まえて事に当たらないと、暴力的威圧による差別糾弾の運動や、逆に「差別はやめよう」・「仲良くしよう」と融和的言辞を弄しても、問題の本質的な解決には何ら繋がらないということである。

 

韓国では、親北の左翼系市民団体を中心に反日運動を展開し、日韓離反のための策動が継続されている。GSOMIA破棄もその成果である。日本の左翼もそれに呼応して、日韓GSOMIA破棄を主張してきた。日韓友好を表向きではうたいつつ、両国の国益にとって害となるはずの日韓GSOMIA破棄の主張は、隠していた本音がつい零れ落ちて表面化した典型である。次なる目標は、韓国側の無理筋な主張を強引な屁理屈で肯定し、日本人のフラストレーションを募らせることで最終的に日韓離反へと持っていくことである。この点で、実は日本の左翼と排外主義的グループは、共通の目的に向かって進む共犯関係を取り結んでいる。