shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

ケインズとケインズ経済学

米国では、侃々諤々の論争にまで発展して賑わいを見せている「現代貨幣理論(MMT)」が今年に入って日本にも紹介され、入門書まで出版されているという。理論経済学の発展ぶりにもかかわらず、意外なことに、貨幣論が本格的に論じられるケースは寧ろ稀であったというのが「経済学の七不思議」と常々思ってきた者からすれば、ポスト・ケインジアン左派から派生したMMTに賛同するか否かは別として、財政均衡主義が覆っている我が国の財政・金融政策に関わる議論状況に対するアンチ・テーゼが提起された意義は、貨幣概念の変更を迫る主張の面白さと合わせて大きいと言うべきだろう。

 

もっとも、貨幣論といえば、マルクスの価値論やケインズ貨幣論に遡ることができるわけだが、古典派の枠組みのなかで書かれたケインズ貨幣論』は、『雇用・利子及び貨幣の一般理論』(以下、『一般理論』)やその他の仕事に比して失敗作であったと言わざるを得ず、そのことはケインズ自身も自覚していたようである。

 

新古典派経済学は、貨幣を円滑な交換のための媒介物と考え、資本から労働力に至るまで交換の対象とする前提を置くものだから、経済実体について、貨幣を捨象した財と財との交換であるとみなした。そして、貨幣についての考察は、貯蓄と投資の関係や金融政策の効果等についての考察を専らとする金融論へとスライドさせて論じる立論に変質されてしまった。結局、「貨幣とは何か」について何らも説明できていないのである。

 

物価変動は貨幣数量の変動に比例するという考え方は古くからあり、それを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣数量と貨幣流通速度との積は物価と取引量との積に恒等的に等しいことを示したものに過ぎない。これ自身は単純な恒等式であって、貨幣数量説はこの恒等的関係の上に、流通速度の一定という想定が導入されることで得られる(仮に貨幣数量説を是とするならば、問題は今日の超高速取引において貨幣の流通速度が一定とする前提が成り立たなくなっているということである)。

 

貨幣数量説とは違う先のケインズも、貨幣需要流動性選好関数として論じているし、新貨幣数量説のフリードマンも、マーシャリアンkの安定性の前提の上に貨幣数量が物価水準を決定するとだけ述べるにとどまり、結局は貨幣と物価との相対的関係を論じているだけに終わった。いずれにせよ、「貨幣とは何か」という大問題は、未だ解決のつかない一大難問として残り続けている。この問題を考えるにあたって、MMTの提起した議論に対して、経済学者が賛否両論様々な反応をするのも当然というべきだろう。

 

ケインズの高名な弟子で、おそらくローザ・ルクセンブルクと並んで最も優れた女性経済学者であったと思われるジョーン・ロビンソンが「経済学の第一の危機」と呼んだ出来事は、周知の通り、1930年代の資本主義諸国を襲った大恐慌であった。完全競争市場をモデルとした市場経済制度の下で予定調和的経済体制が形成されると考える新古典派経済学の理論に対する信頼が失墜する一方で、ケインズ経済学が新たな経済理論として登場し、経済循環のメカニズムを解明して完全雇用やインフレーションの安定化の実現のための経済政策の特性を明らかにした時期である。ローレンス・クラインが「ケインズ革命」と名づけた「ケインズ経済学」の興隆である。

 

経済学史では常に触れられているように、60年代末から70年代にかけて、慢性的スタグフレーションに効果的でない「ケインズ経済学」に対する批判が巻き起こり、「反ケインズ革命」と言われる、ミルトン・フリードマンマネタリズムやロバート・ルーカスの合理的期待形成理論などが主流を占めるに至ったが、2008年のリーマン・ショックを期に、再びケインズ再評価の流れが起こり、鳴りを潜めていたポスト・ケインジアンが復活し始める。

 

ところが、所謂「ケインズ経済学」として理解されているものと、ケインズ自身の理論とが同じものとは言えないのではないかとの疑問が次々と供されている。このことは、ケインズの主著『一般理論』が難解なので、直接ケインズのテクストが読まれることなく、ケインズの理論的エッセンスとして換骨奪胎された知識のみが独り歩きしていたことを示すものである。やはり、古典とされる名著は適当な要約本で済ませるのではなく、直にそのテクストと格闘する努力を怠らないことがいかに重要なことなのかを物語る事例とも言える。

 

アメリカン・ケインジアンケインズ理解は、ジョン・ヒックス「ケインズと古典派」という書評論文において提示したIS・LM分析として単純化されたモデルに基づくものだった。今日でも経済学の教科書で必ず掲載されているこのモデルの影響は甚大で、それこそ我が国の公務員試験においても必須の知識として頻繁に試験問題に出題されているほどである。このモデルはさらに精緻化されて、計量経済モデルとして実証統計分析の重要な役割を果たしている。

 

ヒックスのIS・LM分析は、『一般理論』を均衡分析の枠組みに落とし込んで整理するものである。財・サービスに対する総需要額がその総供給額に等しいという財市場の均衡を表すIS曲線と、貨幣保有に対する需要がその供給に等しいという金融資産市場の均衡条件を表すLM曲線との二つの市場均衡を表現する曲線の交点が、実現される市場の状態に対応すると考える。均衡点における財・サービスの総供給額=総需要額が有効需要である。

 

この有効需要は、常に完全雇用の水準ではなく非自発的失業が発生するというのが一般的な状態であって、古典派及び新古典派の想定する完全雇用均衡は、あくまで特殊な状態でしかない。したがって、市場の自律的調節機能によっては実現できない状態であり、政府による財政・金融政策の効果的作動を通じて有効需要を増加させることにより、非自発的失業の解消が可能になるというのが、「整理された」ケインズ経済学の主張である。ここまでは教科書的知識で、多少経済学の理論を学んだ者ならば誰でも知るところであろう。

 

しかし、『一般理論』は資本主義に内在する不均衡過程を生む要因を対象にし、非自発的失業など様々な不均衡現象を解明することを目的に執筆されたはずである。資本主義制度における経済循環メカニズムは本質的に不安定な要素が内在しており、この不安定性は市場メカニズムの効率的運用によって解決されるものではなく、かえって不安定性が増大する場合もありうることを示したのがケインズ自身の思考である。

 

ところが、IS・LM分析によって換骨奪胎された「ケインズ主義」は、この内在的不安定性についてのケインズの卓見を軽視するようになり、それがポール・サミュエルソン新古典派総合に取り込まれることによって、全く均衡論的な「ケインズ経済学」になり果ててしまった。このことに関して、世界的な日本人経済学者の一人であった森嶋通夫は、辛辣に批判していた。サミュエルソンの45度線分析にしても、それは幾何学であって経済学にはならないとまで言い、徹底的な批判を加える。

 

合理的期待形成仮説のマクロ経済への適用を主張する反ケインズ経済学の立場にある側から、ケインズ経済学には期待の果たす役割への正当な評価に欠けるとする批判が展開された。しかし、ケインズ自身の残したテクストを読めば明らかなように、この批判はことケインズに対する批判としては完全に的外れであるように思う人が多かろうと想像する。というのも、ケインズほど経済における人々の期待の役割が大きいかを考えてきた経済学者はほとんどいないというのが事実だからである。

 

『一般理論』では、雇用量や国民所得の水準が人々の持つ期待により大きく左右されることが述べられているし、不確実性の下での意思決定の問題について触れられている。そもそも、ケインズの初期の思考をまとめた『確率論』では、命題間の論理的関係としての確率(論理的確率)の概念を提示するほど、不確実性の下での合理的認識の可能性と期待の問題に拘っていた。「数値化されない確率」という概念をも提起することによって、計量化可能なリスクと不可能な不確実性の概念の区別を説くなど、意思決定の基礎となる長期期待の状態の問題にもその思考の射程を広げていたほどである。

 

こうした誤解に基づくケインズ経済学批判を展開した「ルーカス批判」として知られるルーカスの合理的期待形成仮説は、ケインズ経済学のモデルが予測に失敗した理由は、個人の期待が経済に及ぼす作用や期待変化について考慮していなかったことを指弾するという、ケインズ自身のテクストを読めば犯さないような誤解に基づいている。その内容は、いわば「回帰したヒューム主義」とでも言えるもので、通貨量が増えたとしても、国内の実際の富の量が一定のままであれば経済には何ら変化をもたらさない。というのも、人々がそのことを知れば政府は何の刺激も与えることができず政府の経済政策は無効になるからである。というのである。

 

合理的期待形成仮説は、大雑把に整理すると、①人々の将来の市場の諸条件についての正確な知識、②各経済変量の客観的確率分布に関する正確な知識、③各自の立場から最も有利になる行動選択の計算能力を前提にして立論している。①~③が前提されているのなら、そもそも期待概念が成立する余地があるのだろうかという疑問が出てこよう。というのも、将来の事象について不確実性を持つからこそ期待概念が形成されるはずだからである。

 

もちろん、ルーカスが問題提起した内容の認識論的問題を抽出することも可能だ。というより、ルーカスの問題提起で最も面白いと感じる箇所はまさにそこにこそあるというべきと思われることは、一定の市場のパターンに注視する行為そのものが当該市場のパターンを変化させてしまう効果があるという点である。ある意味で量子力学的認識論と親和的なこの認識論上の主張は、現在の内部観測論とも接続可能な内容を持っているとも言える。

 

また、投機家ジョージ・ソロスの「再帰性理論」にも符号するようにも読める。このソロスの「再帰性理論」がトポス理論に親和的な構造を持つことを世界的な量子重力理論の研究者リー・スモーリンが示唆しているのが興味深い。スモーリンは物理学者ではあるが、一時的に経済学の研究にも取り組み経済学についての論文を数編執筆するなど単なるディレッタント以上に経済学への造詣があるので、この言はただの思い付きというわけではないだろう。