shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

文化庁の補助金不交付決定について

 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に対して、文化庁補助金を交付しないことを決定したらしい。この件につき菅義偉官房長官は、26日の総理大臣官邸での定例記者会見の場において、国民の税金で賄われている補助金ゆえに、文化庁補助金支給の際の手続き上の事実関係を確認し、これに適切に対応することは当然であると述べたようだ。「従軍慰安婦」を象徴するとされる少女像(実際は、米軍のジープに轢き殺された韓国人の少女像を「従軍慰安婦」像として再利用した代物)や、昭和天皇御真影をガスバーナーで焼きその燃えカスを靴で踏みつける「作品」、あるいは特攻隊として散華された英霊の方々を侮辱する「作品」などの展示をめぐって、多数の国民からの抗議電話などを含む問い合わせが相次ぎ、企画展「表現の不自由展」が中止された「あいちトリエンナーレ2019」について、文化庁が事前の申請内容が不十分だったことを理由に、予定していた約7800万円の補助金を交付しない方針を決めたのである。

 

 文化庁は、この「あいちトリエンナーレ2019」について、今年の4月に観光資源としての文化の活用推進を目的とした国の補助事業として採択し、約7800万円を交付する予定だった。しかし、一連の事態を受けて改めて申請過程における瑕疵の有無についての検討作業を行った結果、愛知県からの申請は補助金適正化法の規定や趣旨に基づく交付の基準を充たすか否かを判断するために必要な具体的な展示内容等の説明がなかったことが判明した。文化庁は具体的な手続き上の瑕疵として、申請者である愛知県は開催にあたって来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず事実を申告していなかったことを指摘している。審査においては、当該の企画が実現可能な内容になっているか、そして当該の事業の継続を見込むことができるのかという点が審査基準を充たすか否かを判断するにあたっての重要事項であるところ、その判断の基礎となる必要な情報が正確に申告されなかったために適正な審査を行うことができなかった。そのため、補助事業の申請手続きにおいて不適当な行為があったと評価せざるを得ず、補助金適正化法に基づき全額不交付の決定を下したというわけである。

 

 企画展のみならず「あいちトリエンナーレ2019」全体への補助金不交付の決定となった理由についても文化庁は明確に指摘しており、「文化資源活用推進事業」において申請された事業は全体として審査するものであるとの前提から、「あいちトリエンナーレ」は申請金額も事業全体として不可分一体的な申請がなされている事情が認められ、そうすると、この事業全体が不可分一体的な性格を有していると総合的に判断せざるを得なかったということである。補助金交付の申請につき虚偽の内容が申告されたり十分な審査ができるだけの情報が提供されないために審査のための基礎資料を欠く場合、交付のための条件を充たしていることが判断できないので、補助金を交付する理由が存在しないことになる。逆に、申請書類の内容に疑義のある事業に補助金を交付することは補助金適正化法の理念・趣旨に反する決定となり、給付行政として著しい瑕疵を帯びる。文化庁が指摘した手続き上の瑕疵が事実であるとするならば、今回の決定は法的に見て当然の決定であったと評価できる。

 

 この決定につき左翼が案の定「表現の自由」への不当な干渉であるとのおどろおどろしい「物語」に仕立て上げた末に頓珍漢な発言を繰り返しているが、概ね予想通りの反応だと言えよう。しかし今回の文化庁の決定はどうみても補助金申請過程における瑕疵を理由とした処分であって、決定に至る判断の合理性の有無が争われることはあっても、憲法上の権利としての「表現の自由」を侵害する行為の有無が争点になるような問題に該当しないことは明白である。津田大介は開催前に東浩紀という男との醜悪極まる対談において、今回の企画が大きな反発を招き、円滑な運営に支障が生じることを認識していることを窺わせる発言をしており、この事実からしても企画展の持続不可能性に関して明確に予見していたことが推認されよう。企画展の持続不可能性に関する予見可能性があったという事由があり、その旨を申告していないことは、申告すべき重要事項の不告知に該当し、こうした消極事由は虚偽内容の申告と同視されても致し方ないものと思われる。申請書の内容に重大な瑕疵があれば補助金交付の理由を欠くことになるので、文化庁補助金不交付の決定は妥当な判断である。

 

 そもそも、今回の企画展への愛知県の公金支出にも問題がありそうだ。特に実行委員会の委員選定過程及び津田大介の芸術監督任用過程からして疑義が呈せられるし、さらには専門的知見を有する学芸員の作品選定を覆して津田大介の「個人的野心」を満たすために展示作品が恣意的に変えられたと報道されているところからして、この企画が正当な過程を経て実現されたものなのか極めて怪しい状況となった。実際、この実行委員会には「反天連」の関係者やNHKで放映され物議を醸した「女性国際戦犯法廷」なる左翼の茶番劇に関わった人物など極めて偏向した人物が意図的に集められており、特定政治党派による私物化が疑われる事案でもある。加えて、実行委員会の会長は大村秀章愛知県知事で、会長代行は河村たかし名古屋市長であり、作品選定過程に公権力の行使者である自治体首長が関係している点において、寧ろ自治体首長の政治的意向によって「作品」が取捨選別されている疑いすらもたれる事案である。

 

 さらに、津田大介が今回の企画を芸術の体を装った政治活動であることを公言していることなどの事実からも、このイベントが行政の政治的中立性を損なう行為であることが明らかになっている。展示される「作品」が、ある視点から見て政治性を帯びることはもちろんありうることである。だからといって、当該イベントが直ちに行政の政治的中立性を損なわしめる行為になるわけではない。問題は、故意に特定の政治的信条を実現するために公金が拠出される芸術イベントを利用するという点である。そのために展示内容を意図的に隠し、文化庁からの補助金の申請において虚偽内容と同視しうる情報を申告するという悪質性の高いことまでやっており、そのことから推認されることは、単に文化庁への虚偽報告にとどまらず、さらに重大な違法行為がなされていた可能性である。芸術作品にある種の政治性が付着することはあり得るとしても、だからこそ尚更、公的機関が関与する際、政治的中立性の毀損を疑わしめるような事態にならぬよう慎重を期さねばならず、例えば特定の政治的主張に偏らぬよう、それとは別の政治的主張が反映されている作品を並置するなどの工夫が要求されるところ、津田大介は自己の政治的主張に合わせたものばかりを意図的に選別しており、これでは「芸術」を表看板にした政治プロパガンダのための企画と言われても弁明できまい。事実、某国のdiscount Japan運動に呼応するかのように、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇を、その政治的制度としての側面において批判するという域を超えて徒に侮辱凌辱し、戦死者を罵倒してその名誉を傷つけ、我が国へのユスリやタカリのための外交的なプロパガンダとしての「慰安婦」問題の宣伝といった極端な政治的主張のために利用していることは明白である。

 

 その意味で、これから多くの住民監査請求がなされ、その後に違法な公金支出の返還を求める住民訴訟が提起されることになろう。地方自治法上の住民訴訟は、具体的権利・義務または法律関係の存否に関する争訟には該当しないが、地方自治法242条の2が特別に認めた訴えの類型であるので、たとえ個別の権利・利益の侵害がなくとも、愛知県の住民という地位に基づいて訴えを提起することができるはずだ。但し、これから住民訴訟を提起しようと意図している者がいれば、注意しなければならない点があるので、必要最小限の注意点を指摘しておきたい。出訴権者は普通地方公共団体の住民(すなわち愛知県に住民登録している者)に限られるが、住民訴訟の間に出訴者が住民でなくなってしまえば訴えは却下されてしまうという点と、住民訴訟の提起の前に監査請求を経なければならないという点である(監査請求前置主義)。さらに、これまでの判例から、監査請求段階において財務会計上の行為または怠る事実を他の事項から特定認識できるように個別的・具体的に摘示することが必要である点も加えておくべきだろう。住民訴訟は本来、地方財務行政の適正な運営の確保を趣旨とする制度であり、したがって住民訴訟の対象は地方公共団体の行為の全てではなく、財務会計に関わる行為のみが審査対象になるとの判例があるが、実際上はこの範囲は広く解されており、行政運営を糾すためにも用いられているのが実態である。

 

 住民訴訟になったとしても、今回の公金支出に違法性があったと明確に認定されるに至るかはわからない。しかし訴訟の場において、いかにこの企画展が不可解な動機のもとで合理性のないプロセスの末に実現したのかが白日のもとに晒され、津田大介に一体いくらの金銭が渡ったのかという事実や、左翼が公金に集ってきた「芸術利権」というべき実態が明らかにされることで、違法とまでは行かなくとも妥当性に疑義がもたれる行政運営であったことが明確に国民に認識されることの意義は大きい。津田への報酬が不当に高い可能性もあるし、そうなれば県民は県に対して津田大介への報酬返還を求める請求を開始することだってできる。その他諸々の契約などに関わる公金支出の不透明な部分もはっきりするかもしれない。その審議過程で、ともすれば何らかの公金横領の事実が発覚する可能性だってある。県知事で実行委員会会長の大村秀章が、どの程度認識し関与していたのかもはっきりすることになろう。それを通じて、こうした類いのイベントに対して公金を拠出することが果たして妥当なのかという国民的議論が巻き起こり、国や地方自治体が以後こうした無駄金の支出を全廃するきっかけになればと思われる。そして、そのことは芸術の自立性にとっても健全なことである。国や地方自治体の庇護の下で飼い慣らされた芸術にどれ程の意味があるか。

 

 クリアするための条件が厳しいこともあって実現することは難しいだろうが、大村秀章県知事のリコールに向けて活動することも考えられる(大村は確か今年2月に再選しているので、向こう一年間はリコールはできないが)。良識ある県議会の議員有志で辞職勧告決議案を県議会で可決させるべく活動することも手段の一つである。愛知県は国からの地方交付税交付金を受けているわけであるから、会計検査院に対して厳正な会計検査を求めることで間接的に調査することもできるだろうし、それを根拠に愛知県に対する地方交付税交付金や国庫支出金の減額をするという方法も、迂遠ではあるものの不可能ではない。愛知県民以外の者でも、今回の企画展を許しがたいと考える者で、協賛企業に名を連ねている企業の株式を保有する株主であるならば、株主総会においてこのような異常な企画展を催した芸術祭に協賛金を拠出した判断をした取締役の責任を追及することで、今後このような企画があった場合に一切の協賛金を出さないように圧力をかけることだって株主の正当な権利行使の一つとして活用することもできる。幸い、今回の件に激怒している地元愛知県の協賛企業の経営者も少なからず存在すると聞く。

 

 左翼側からの難癖には理がないことは言うまでもない。どうやら左翼の頭の中身には、自らの政治的主張を喧伝するための象徴的言論・表現を「芸術」という意匠を身にまとわせることで無条件に行政からの補助金という名の資金援助が受けられる権利を持つことが当然との前提があるようだ。そもそも、抗議する左翼の側の「表現の自由」が侵害された事件でもあるまいに、ことさら「表現の自由」を盾に抗議するというのもおかしい。作者以外の者からすれば「知る権利」の侵害として議論を構成するのならまだ理解もできよう。「知る権利」は狭義の「表現の自由」には含まれないものの、今日の憲法解釈学の通説では明文規定を欠くとはいえ、広義の「表現の自由」の一内容として保障されることになっている。憲法21条1項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定する。情報発信に限定された意味での狭義の表現ないしは表現行為とは、他者が理解可能な意味内容を持つ情報を発信する行為を指す。この文言だけからすれば、情報発信者の自由のみが対象であり、情報の受け手の情報受給権としての「知る権利」が保障されるか不明である。

 

 しかし今日の憲法学では、先述の通り、「知る権利」も保障されていると解されている。情報伝達の自由は、本来その情報の受け手の存在を予定するものといえるし、特にマス・メディアの発展や行政国家現象の進展などにより様々な情報が政府機関等に集積されるようになったから、情報受給権としての「知る権利」も保障される必要があるとの理由からである。この「知る権利」は、まず①私的伝達に対する公権力の介入を排除する妨害排除請求権的性格を有する。検閲や事前抑制など情報の受け手からして情報の受領を妨げる行為が「知る権利」を侵害する行為として観念される。次に②公的機関に集積された情報の開示請求権としての性格を有する。これは情報公開請求権として行政法上に具体化されている。最後に③情報の送り手であるマス・メディアに対して自己の意見発表の場を提供することを要求するアクセス権の実現に公権力が後見的立場に立って介入する際に問題となる「知る権利」の保障にかかわるが、これについては私人間の関係であるから原則として憲法が直接適用されるものではなく、具体的な法整備がなされた段階で憲法上の「知る権利」の趣旨を加味して解釈上考慮する文脈で登場することになるだけだろう。

 

 しかし今回の騒動では、いずれの意味での「知る権利」の内容に抵触する行為はなされていない。これに関しては富山県立美術館に所蔵された「作品」の非公開決定に関して争われた所謂「天皇コラージュ事件」の下級審の裁判例が参考になるに違いない。憲法判例というより行政法判例として知られている有名な事件であり、まともな判例集には必ず収録されているほどである。「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展」が、多くの国民の抗議の声や民族派右翼有志による抗議街宣などにより中止に追い込まれたことは幸いだった。ところが、展示内容のあまりの酷さに驚愕した名古屋市長の苦言に対して大村秀章愛知県知事は、河村名古屋市長の言は検閲に該当するなどと誤った主張をしていたことは記憶に新しい。もちろん大村知事の認識は完全に誤っており、河村名古屋市長の言動が憲法21条2項前段の「検閲」に該当しないことぐらい、憲法学を多少学んだ程度の学生ですら理解しているはずだ。このような認識でよくも東京大学法学部から国家公務員試験Ⅰ種合格を経て農林水産省に入省できたものだと呆れるよりほかない。

 

 憲法21条2項前段の「検閲」の意義については、所謂「税関検査事件」最高裁大法廷判決以来、定着した判例となっている。その大法廷判決は次のように判示している。すなわち、憲法21条2項前段にいう「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること」であり、これは絶対的に許容されないとされる。つまり、①主体が行政権であること、②対象が「思想内容等の表現物」であること、③目的・効果が「全部又は一部の発表の禁止」であること、④時期が「発表前」であること、⑤方法が「網羅的一般的であること」が、「検閲」に該当するとされるための要件となっている。しかし、「あいちトリエンナーレ」実行委員会の会長は大村愛知県知事で、会長代行が河村名古屋市長となっているわけであるから、そもそも行政権が主体となり私人の表現行為の禁止を目的として行った行為には該当しないばかりか、時期にしても「発表前」の行為ですらなく、既に発表されている表現物に対して、実行委員会内部の人間たる会長代行が感想・意見を述べたに過ぎない。加えて当該行為が表現物の発表の禁止を目的としたものと解することもできない。いずれにせよ、どこをどう読んでも「検閲」に該当しないことは明白である。普段は「憲法擁護」を叫んでいる左翼は、知ってか知らずか、判例法理に異なる独自の思い込みを「検閲」と呼称して世間に誤ったイメージを喧伝する煽動活動に躍起になっている。その程度の者が叫ぶ「憲法擁護」の主張が、いかにいかがわしい内容を持つものであるかが容易に推測できるだろう。

 

 作者の側の「表現の自由」を侵害したとする主張も、憲法21条1項にいう「表現の自由」は作者が公金の補助の下で発表する場を当然に保障される権利までは含意しない以上、失当な主張である。表現内容によって公権力が恣意的に取捨選別するというのなら、憲法上の権利の侵害に該当するかはともかくとして、行政の活動として合理性を有するかの問題は生じよう。しかし今回の騒動は、実行委員会が国民の抗議や安全確保の点で円滑な運営が困難になるとの判断から企画展の中止を決めたものであり、いささかも公権力が具体的に当該表現物の内容に干渉したことにはならない。また仮に表現内容に踏み込むとしても、表現の自由にも自ずと制約が伴うわけであるから、いかなる表現内容でも許容されるというわけでもない。逆に、表現内容による取捨選別というのなら、実行委員会から権限を委ねられた津田大介が「作品」の取捨選別を内容に基づいて行っているわけであるから、作者の側からすれば表現内容による取捨選別を行うなとの声が上がってもおかしくはない。