shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

科研費の選別を!

 今週は2019年のノーベル賞受賞者が立て続けに発表される「ノーベル・ウィーク」として一部のマスコミを賑わしているが、昨日の医学生理学賞に続いて本日発表された物理学賞も有力候補とされていた日本人学者の受賞はなかった。本来は、何人であろうと偉大な研究成果に対して与えられる賞なのだから、受賞者の国籍よりも受賞対象となった内容に注目されるべきだろうが、その分野に特に関心がない者が大半なので、メディアや国民がどうしても国籍に注目してしまうのも仕方のないことかもしれない。しかも同胞の受賞を喜ぶという心性は、特に不健全ということでもないだろう。願わくば、そのことを通じて、研究対象そのものに関心が向いていって欲しいというだけのことである。

 

 問題なのは、研究対象の内容など無関係で単に国籍のみに拘る姿勢だろう。蓮實重彦『随想』(新潮社)所収の「文学の国籍をめぐるはしたない議論のあれこれ」において、「自分がいくらでもすげ替えのきく便利な人材の一人であることを隠そうともしない」ブログの書き手である内田樹(蓮實は名指しを避けているが)が蓮實に軽くあしらわれたことを思い出す。村上春樹ノーベル文学賞を願うらしい内田は、村上春樹を評価しない蓮實重彦に対して、もし村上春樹ノーベル文学賞受賞が現実のものとなれば、蓮實は選考委員会の判断は間違っていると堂々と批判を展開すべきだろうと述べていたが、賢明な蓮實重彦はこういうアホな主張をまともに相手にすることなく搦め手からこの男をおちょくることに終始した皮肉たっぷりの批判で応じる。そのことが、上記文章に残されている(僕としては、村上春樹なんかより古井由吉多和田葉子、生きていたら大庭みな子の方が、断然ノーベル文学賞に相応しいと思うけどねえ・・・)。

 

 仏文科出身というけど、どれだけ小説を読んでいるのか正直怪しいと思うのは僕だけだろうか。内田の文章は特に政治・経済に関する無知が酷くて、とてもまともに読めたものではないから今更批判してもどうしようもないけれど、文学の批評眼にしても信用のおけない人物だと思われる(もっとも、これは個々人の感性の問題だから白黒つけられる類の問題ではないけれど)。僕の政治的立場は民族派右翼で、その点で三島由紀夫の思想に近い面を持ち合わせ、逆に大江健三郎の表向きの政治的主張には全く同意できない者だが、三島由紀夫の小説よりも大江健三郎の小説の方が文学的達成度からすれば断然優れていることくらいは理解している。

 

 村上春樹に対する僕の評価は蓮實重彦ほど辛くはないが、たとえ村上春樹の小説が世界的に多く読まれているという事実があるとしても、それがノーベル文学賞に相応しい世界文学の水準に達しているとは到底思われない。西村京太郎のトラベル・ミステリーがベストセラーだからといって、それら作品群を上質なミステリーと評価するだろうか。なお、このブログの書き手は、ところかまわず適当な文章をその分野について大して知りもしないで知識人面して書き散らかすものだから(特に経済分野についての文章は酷すぎる。ヘタレ左翼の「ポエマー」の典型)、多少見識を持つ者からはもはやまともに相手にされていないのが実態だろう。

 

 これまでの医学生理学賞の受賞対象となっている研究内容については知らないが、多少は興味を持って接している物理学賞においては、量子テレポーテーションを含む量子情報科学の実験的研究で大きな成果をあげている東京大学の古澤明教授がいずれかの時点で受賞されることを心から念願してやまない。量子情報科学は新しい分野なのでその全体像は今も明らかになったとは言えないが、世界中の優れた研究者がこぞって研究に取り組みはじめ、量子テレポーテーションや量子暗号など比較的単純な過程ついては理解が進んでいる。しかし、「量子誤り訂正」やショアによる素因数分解アルゴリズムなどの複雑な量子過程については未解明な部分が残されている。この量子情報科学の進展は人類の科学技術の飛躍的な進歩をもたらすとともに、「量子もつれ」に関する法則をはじめとする量子系の普遍的な理論を探ることに寄与することだろう。

 

 情報科学の前提は、情報とは単純に数学的なものとは言えずそれを具体的に表現する物理的実体を随伴しているという認識だ。従来の情報科学では情報を表現する物理的実体は古典物理学の法則に従うが、量子情報科学では量子力学の法則に従う物理的実体が情報を担う。古典的情報の基礎資源がビットで0か1の値をとる。量子情報科学ではキュービットで0と1を含むような重ね合わせ状態をとり、複数のキュービットが「量子もつれ」状態を示すことがある。門外漢であることを承知の上で乱暴にアイディアの核心を整理すると、情報科学の基本的な考えのステップはこうだろう。すなわち、①情報を表現する物理的資源の特定。古典的にはビット列がこれに該当する。いかなる情報も0と1が物理的対象に符号化されることにより表現される。②実行可能な情報処理の仕事の特定。情報源からの出力をビット列に圧縮して、それを復元する仕事がその典型である。③仕事の判定基準の特定。復元したビット列が圧縮前の状態と完全に一致することである。

 

 情報源からの情報保存に必要な最小のビット数の問題は、エントロピーと情報の概念とを結びつけて通信の概念を一変させたクロード・シャノンによって解決された。この「シャノン・エントロピー」と呼ばれる情報量に関する表現は金融市場の分析にも応用されているので、その第一線にいる僕としても俄然興味が尽きないのだ。エントロピーとは、ある物理系のマクロ状態を実現するミクロ状態における個数の一測度と定義され、実際には状態数の対数として表現されていることはルートヴィヒ・ボルツマンによる定式化(いわゆるボルツマンの公式)によって明らかにされている。ミクロ状態の個数が最大の場合のマクロ状態つまりはエントロピー最大の場合のマクロな状態は、仮にどのマクロ状態にも等しいアプリオリな確率を付与するなら最大のアプリオリな確率を持っている。だから、ある系が特定の時点にエントロピーが最大でないマクロ状態にあるのなら、後のある時点に当該系がさらに高いエントロピー状態に移行する確率が高いというのが熱力学第2法則に関する統計的説明である。

 

 仮に時間対称的立論に徹するのなら、同じ理由が当該系の「以前」のある時点にエントロピーがより高い状態で見い出される確率が高いということになろう。しかし、そう推論することは第2法則の適用における経験的妥当性に反するように見えてしまう。我々が、現実の経験に基づき第2法則を適用しているのは過去についてのみであり、そうするのは、過去から未来へのエントロピーの増大についての知識を既に持っているからである。そうすると、確率に関してそれを過去に適用することを排除すべきとなりそうであるが、一体いかなる理由でこの排除を正当化できるのかという難問が提起されるだろう(「過去」とされている方向と「未来」とされている方向に同じ推論を当てはめるならば。このような対称的見方の徹底は、ケンブリッジ大学の哲学者ヒュー・プライスにより主張されている)。

 

 エントロピーと情報の概念を接続するアイディアを示したのは当のボルツマン自身であり、本格的に研究したのがクロード・シャノンのThe Mathematic Theory of Communication(『通信の数学的理論』)である。エントロピーとは情報であり、それゆえ情報は第2法則に従って時間的に増大していく。情報を「負のエントロピー=ネゲエントロピー」といい、したがってエントロピー増大は情報の喪失を意味するのでここに意味論的問題に遭遇することになるわけだ。一見パラドクスに見えるこの意味論的問題に対して、シャノンが情報測度をプラスの符号を伴うエントロピーと定義しているところが注目される。エントロピーとは可能態的な知の一測度であり、他方ネゲエントロピーとは現実態的知の一測度である。そうすると、シャノンの言う情報とはあるシグナルの新しさの値の期待値と定義できるだろう。あるシグナルの新しさの値とは、このシグナルを他のすべての可能なシグナルから区別するために決定されねばらない単純なオールタナティヴの個数と定義でき、熱力学的なマクロ状態の情報とはあるシグナルの新しさの値の期待値であり、当該系のミクロ状態を知ることの中にあるはずのものである。その大前提を踏まえ、量子情報科学では先述の通り、ビットがキュービットに一般化される。この複数のキュービットが集まると、2つ以上の量子的対象が示す「量子もつれ」状態を示すことがあるというのが決定的に面白い違いとなる。

 

 量子論という基礎中の基礎の理論に絡む研究が世界各国で進められている中、我が国は基礎科学に対する資金を減額していっている。旧民主党政権下で進められた基礎研究への破壊行為は安倍政権下において改善されるどころか、ますます酷くなっていっている。旧民主党政権の財政・金融政策を批判しておきながら、旧民主党政権と同様の緊縮財政によって基礎研究の破壊や実質賃金の低下、対GDP比で0.9%を切ってしまった防衛費の実質的削減(先進諸国なら対GDP比で2%程度国防に割くのが通常で、ましてやシナやロシアあるいは北朝鮮といった核保有国に囲まれた安全保障環境では、対GDP比2%でも足りない。隣国の韓国の急激な軍拡は、特に対北朝鮮向きとは言えない海軍力強化に軸足が置かれている現状を見るにつけ、韓国軍は我が国を仮想敵国と見なし、あわよくば対馬に軍事侵攻しようと虎視眈々と狙いを定めている)など外患を誘致させようと破壊工作に勤しんでいるのが安倍政権である。憂国烈士諸兄、安倍政権打倒に立ち上がれ!

 

 通常イメージされていることとは違って、基礎研究におけるイノベーションが民間からではなかなか起きにくいことは歴史が示す通りで、基幹となる知や技術は国家による潤沢な資金と環境の提供の下になされる取り組みの中から生まれてきた。大学や研究機関がその典型だ。米国やシナの例を見ても明らかだろう。風上の基礎研究が強くなければ、風下の応用技術も発展しない。日本が誘致を進めていた国際リニアコライダー計画の予算もつかずじまい。そうこうしているうちに、シナはCERNの規模を超える大型ハドロン衝突型加速器LHC)を建設する計画を立てている最中だ。以前、深圳のファーウェイ本社の視察に同行した際、「こりゃマジで日本はヤバい!」と恐怖にかられたものだ。誠実な科学者の悲痛な叫びや英国の科学雑誌Natureからの警告への感度の低い政治家や官僚など政策担当者の盆暗は、事態が極めて深刻であることに気づきもしない。それどころか我が国の書店には、シナは今にも崩壊するかのような「希望的観測」を前面に出した通俗本が大量に溢れている始末。そしてその通俗本を読んで溜飲を下げて満足するばかりのアホが大量発生して終いにはスポイルされていく。

 

 もちろん、科学振興費や文化事業への補助金にかまけてロクな予算の使われ方がされていない側面もあるにはある。企画展「表現の不自由展・その後」を含む「あいちトリエンナーレ」への補助金交付など無駄の最たるものだろう。さらには、いわゆる「クール・ジャパン機構」という当初から失敗が目に見えていた事業を担う無駄の典型に数百億円もの公金が拠出されている件を数えてもよい。アート作品を公開したければ、したい者だけで自腹で掘っ立て小屋でも建てて展示すれば済む話だ。わざわざ「芸術利権」にたかる連中の懐を増やすために公金が拠出されること自体がおかしい。国や地方自治体は今後こういう公金の無駄遣いでしかない事業から手を引くべきであり、そうすることこそ芸術の自立性を守ることに資するだろう。これまでの国や地方自治体が主催ないしは共催してきた文化事業は、アートという名のもとに公金に群がる者たちを肥え太らせるだけに終わった。芸術のためにも、こうした状況はよろしくない。

 

 今回の騒動は、津田大介が認めていた通り、芸術に名を借りた政治的パフォーマンスという性格も加わり、結果的に反日左翼と保守派との政治抗争の観を呈している。芸術は国家の庇護のもとに営まれるものではなく、それとは独立にやりたいようにやるという環境で醸成されてくるものだ。だから、芸術活動を全うしたければ公金に依存するような体質は唾棄されねばならない。公金が絡むと必ずそこに利権が生まれてしまう。芸術にとってこれほど不健全なことはなかろう。公金によるイベントに関しては政治的中立性に努めることが義務であり、公金を使った政治活動をしようと企図する者や文化事業という名の下での公金が入ったイベントに集る利権屋を生まないためにも、今後は国や自治体は一切手を引き、残った公金は納税者のための別の目的に使用すべきだろう。

 

 科研費についても類似の問題がある。研究者に対する科研費の重要性は認めるが、それが正当に使われ科研費拠出の趣旨と目的に見合う成果を出しているかの厳密な検証が不可欠だ。もっとも、ここでいう成果とは必ずしも短期的な目に見えやすい成果だけを言っているわけではない。世紀の大研究とは、長期にわたる研究の末、しかも思わぬ副産物としてもたらされることが往々にしてあるからだ。だから、国家としても半分は溝に捨てても構わないくらいの構えでいなければならないだろう。しかし同時に、特に文科系の研究の場合、その予算が適切に使われているのか怪しいものが多いように見受けられるのも確かなのだ。文科系の研究には大して金がかからない研究が多い。だから、科研費のほとんどが書籍代であったり学会出張費に費消されてしまう。文献学の研究者が貴重書を入手するために科研費を拠出することは理解できるが、たいていの書籍代は、どこでも入手可能な通常なら自腹を切って購入できるような書籍にまで科研費をあてがっている。しかも、その書籍を自己の所有物として領得する者が圧倒的だ。事実、退職後に研究に利用していた書籍を大学や図書館等に返還している者がどれほどいるだろうか。酷い者になると科研費で購入した図書を勝手に古書店に売却して換金し、自己の所有とする「横領行為」がまかり通っている。文科省は、こういう手合いに対しては購入図書費の返還を請求すべきだろう。

 

 文科系は不要であるというのではない。直接社会の利益に資さなくとも、長く広い視野から見て必要で重要な研究もある。但し、そう言えるような研究が少ないのも確かだし、そういう研究であればあるほど逆に「趣味」に近づいていく。「趣味」というのは悪い意味ではない。何かの役に立つ道具であるよりもそれ自体が目的であるような研究は崇高なもので、この域に達すればほとんど学者の「趣味」と同義になってくるというわけだ。そもそも学問とは「暇人」の「暇つぶし」のための「趣味」として始まった。英語のschoolの語源はラテン語のscholeすなわち「暇」である。だからこそ、どこからも干渉を受けずに純粋に真理探究の活動に勤しめた。修道院の僧がただひたすら神を崇め、社会の利害とは関わりのない場所で学問研究に集中できた時にこそ、浮世離れしつつも、同時に浮世への反射的効果を及ぼしえた。巷間言われる「文科系不要論」には与しないが、むしろ純粋な研究として「趣味」に生きたい学者は、中途半端な講壇学者になるのではなく、利害関係にとらわれない在野の研究者として生きるのが健全な姿である。

 

 特に「研究者」の装いをしながら単に政治活動にかまけているような活動家が混在していることが往々にして見られる。そういう者の「研究」は研究の名に値しない政治活動なので明らかに予算の無駄だ。大学も700校も不要で、せいぜい50校程度あれば済む。特に私大文系が多すぎる現状は異常であり、これらをカットできれば必要な研究に効果的に資金を集中させることができる。科研費は給料ではないのだ。これだけでも過去に遡れば相当な金額にのぼると思われるが、文科省は真剣に考えた方がよい。そして浮いた金で例えば若手研究者のための補助金を増額するなり、貧困家庭の子弟に対する教育給付金等に充当すればよいだろう。無駄金を徹底的に削減して、思い切って出すべきところに出すという選別が必要である所以である。