shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

関西への「亡命」

 令和元年、皇紀2679年の10月22日、新帝践祚を改めて内外に宣明する即位礼正殿の儀が東京の皇居正殿において執り行われ、来月には、御即位に関連する行事の中でも最も重要な儀式である大嘗祭が、皇居内に設営された大嘗宮にて挙行される予定になっている。即位礼正殿の儀は無事滞りなく行われたことは幸いだが、続いて予定されていた祝賀御列の儀は、台風19号等の災害を憂慮される陛下の御意向に従って延期の運びとなった。

 

 令和の大嘗祭は、大嘗宮の屋根が伝統の様式である茅葺き屋根から板葺き屋根に変更され、しかも一部がプレハブ様式で設営されるという。こうした安倍政権の不敬極まる態様が批判にされているが、職人の話だと、二週間もあれば茅葺に変更できるそうだから、大至急茅葺方式で設営される方針に変更されることを祈るばかりである。菅義偉内閣官房長官は、職人の不足や予算の関係上板葺きにせざるをえないと弁明しているようだが、実際には職人は確保できるそうだし、予算にしても、実は半分以上の節減が可能であるとの実態が明らかにされているという。

 

 上皇陛下の御心を蔑ろにするかのような数々の言動に始まり、御代替わりの一連の儀式等に関する伝統解体の不敬行為は断じて許し難い暴挙である。安倍晋三内閣の正体が、左翼革命政権であると判断する所以である。もはや、朝敵という言葉が相応しいほどの反日売国政権と化した安倍晋三政権の一刻も早い退陣を改めて求めたい。

 

 平成の御代替わりの際もそうだったが、今回も即位礼が東京で行われたことは、つくづく残念でならない。そもそも、高御座および御帳台は京都御所紫宸殿に安置されており、昭和の御代まで即位礼は京都の御所にて行われてきた。国内外からの参列者のための都合や警備上の問題もあって、東京において挙行された理由もわからぬではないが、我が国の国体の中枢に関わる事柄については、先ず何が最も大事であるかを考えた上での判断でなければ本末転倒ということになってしまう。

 

 そもそも、遷都の御詔勅がない状態では、天皇玉座は京都の御所にあるのが相応しいのであって、東京にある千代田城は、あくまで長い行幸の過程において一時的におられる御在所であるに過ぎない。千代田城は、朝廷から征夷大将軍という官位を代々授かっていた武家の棟梁たる徳川宗家の当主が住む場所であって、石垣に覆われ武装された江戸城は、聖上の御所の在所として相応しい場所ではない。本来、玉体に刃物をあてがうことすら憚られていたくらいなのだから、武家の棟梁の居城に御所が存すること自身が問題含みなのである。ましてや、明治以降大東亜戦争終戦までの帝国陸海軍大元帥としての天皇というあり方は、伝統から著しく乖離したあり方であり、この時代は寧ろ皇室伝統の危機だったのである。

 

 天皇武家ではない。武家天皇を護ることが役割の存在であり、両者を混同してはいけない。遷都の詔勅のない限り、帝都は東京にあらず。今も変わらず、京都こそが帝都と呼ぶに相応しい。今ではどうなっているかは知らないが、少し前まで、宮中で内々に交わされる言葉は、京言葉なかでも公家言葉であって、東京弁ではなかったのである。少なくとも、女官ではこの伝統が踏襲されているはずだ。

 

 明治の「御一新」と聞こえはよいが、近代国家建設の目的に邁進するため、版籍奉還やその後の廃藩置県によって中央集権化が急激に進行される必要性があったとはいえ、今から考えると、この中央集権化は行き過ぎてしまったように思われる。版籍奉還まではまだしも、廃藩置県までやる必要があったのか、と思わずにはいられない。

 

 中央集権化の過程で、資本や物質並びに人材までもが国策として東京に集めらる一方で、それぞれ独自の相対的自立性を持った経済圏と文化を有していた地方の経済的文化的基盤が根こそぎにされ、日本全体が平板化され、言葉も統一化されて無個性になって言ったのが、明治以降の我が国の姿であった。明治国家体制は、欧米列強の帝国主義的膨張から我が国の生存を守るために生まれたやむを得ない体制だったとしても、だからと言って、それを手放しで礼賛する姿勢は問題があろう。逆に、明治以降の近代化の過程を批判したいあまり、以前の幕藩体制が素晴らしかったとの極端な議論もまた同時に誤りである。

 

 大東亜戦争敗北後の日本は、その憲法によって地方自治の重要性をうたいつつも、現実としては真逆の方向へと突き進み、地方自治の重要性など歯牙にもかけなかった明治憲法体制下の状況よりも一層中央集権化が加速度的に進行し、政治のみならず経済も文化も各々程度の差こそあれ、東京一極集中が極限にまで達している。憲法92条の「地方自治の本旨」の意義が住民自治と団体自治の内容に限定される解釈が流通し、せいぜい地方自治体の住民投票による直接民主制的契機を強調することが地方自治の実現であると矮小化されるばかりである。

 

 問題は、人とモノとカネと情報が極端なまでに東京に集中することにより、東京に隷従せざるを得なくなり、その副次的効果として、東京の基準や考え方さらには言葉まで全国的に画一化・平板化されており、この副次的効果については、ほとんどの者がそれを当然のことと考えている無神経ぶりなのである。

 

 身近な例は、言葉をめぐる問題だろう。東京のキー局を中心とする放送ネットワークが全国的に張り巡らされ、東京の言葉が放送を通じて流通し、全国の誰もが東京の言葉を使うことが当然で、また使うべきだと考える盲念にとりつかれている者まで出てくる始末だ。そうすると、地元の方言を東京に来ておきながら使用するのはけしからんというバカが生まれてくる。

 

 地方から東京にやってきた者が、そのまま地の言葉を使用し続けることに感情的反発を覚えてしまう者は、自分が無意識の「帝国主義者」であるかも知れぬことを考え直すべきではあるまいか。そういう感情的反発を覚える者の多くは、あくまで想像の域を出ないが、文化的素地のない地方の出身者ではないかと思われる。その地方の独自な文化的環境が長い間にわたって培われてきた地方ではない場所から東京にやってきた者の中には、かえって地方から東京にやって来たけど地の言葉を使い続ける者に対して憎悪に近い感情を覚えている者すらいるようだ。それはちょうど、禁煙に成功した者が極端なまでの嫌煙家に変貌するのに類似していよう。

 

 とりわけ、我が国の歴史において圧倒的に長い間にわたって中心であり続けてきた京阪神地域の者が東京にやって来ても地の言葉を使い続けることへの反発を覚える者は、たいていが文化的環境が貧困であった地方の出身者である(一口に関西弁と言っても、地域ごとに全く違うことは、東京都心部で生まれ育った僕ですら理解できる。京都と言っても、家元衆や門跡寺院などの人々が使用する言葉は公家言葉で、これは現在の宮中でも使用されている。町衆が使用する町人言葉とは違う。大阪でも、船場言葉を使用する人は減りはしたが、まだ存在するし、河内弁や泉州弁とは全く異なる。神戸ともなると、これまた違う。祖父母の家は、大阪と神戸の中間にある西宮の苦楽園なのでよくわかるが、御影から夙川にかけて山手一帯は戦前に大阪の船場の豪商や財閥の当主が移り住んだ地域であるので、住民の言葉は船場言葉の名残が反映された言葉である)。

 

 関西や福岡の者が比較的地元の言葉を使い続けるのは、東京の言葉に敢えて合わせる必要を感じないからであり、そこにはちょっとしたプライドを感じてもいるのかもしれない。逆に言えば、その他の地方出身者の嫉妬が入り混じった卑屈な姿勢である。

 

 しかし、全国一律に同じ言葉を使用しなければならない理由などないし、ましてや東京弁に合わせる必要など微塵もないはずで、寧ろ東京に生まれ育った者は、異なる言葉が入り乱れる状況は個性的で面白いと感じるし、時に「お国自慢」する姿にはある種の羨望の念を覚える(少なくとも僕はそうである)。地方出身者は、何も東京弁に合わせることなく堂々と地元の言葉を使い続ければよい(年配の京都人は、東京こそが「地方」であると考え、実際、高度成長より前の時代には東京を含め関東を「あずま」と呼び、洛中から遠く隔たった鄙であり「化外の地」でしかないと思っていた者もいたようだ)。卑屈な姿勢こそ東京一極集中に加担していることに気がつくべきではあるまいか。

 

 戦前、特に関東大震災以降の昭和初期において最大の人口を誇った都市は、東京市ではなく大阪市であったし、戦後の高度成長期までは経済の中心は紛れもなく大阪市を中心とする京阪神地域であった(阪神間になぜ名だたる財閥の当主や旧華族の邸宅が集中しているのかの謎もわかろう)。文化ともなれば尚更で、上方文化は江戸文化よりもその歴史の長さに比例して奥行きがあったし、それは食文化にまで反映されていた。誇張を恐れず言えば、関東には、最近までまともに出汁の取り方すらままならぬほど単調な味付けの料理が大半で、上方に勝るものと言えば、江戸前寿司か天ぷらか蕎麦くらいしかなかった。東京における日本料理の料亭は、今もなお京料理の料亭であり、宮中での御膳も京風の味付けの料理である。

 

 関西に比べて、歴史に裏打ちされた文化的土壌に欠ける関東は、各々の土地の風土や「匂い」がない。良きにしろ悪しきにしろ、関西ではその土地独特の風土や「匂い」がある。JR西日本の「三都物語」のCMではないが、京都・大阪・神戸という至近距離にあるこの三都市は、全く異なる文化風土があり、それは住む人の気質にも関係している。歴史が長いために、当然に社会問題も多く抱える。根強い差別意識も関東に比べて強い。いわゆる「同和問題」などもその一例だろう。政治権力の中枢であった期間が圧倒的に長く、かつ特殊技能を持った非農業民の比率が他地域に比べて高いこともあって、関西にはいわゆる「同和地区」に指定されている地域も多い。悲惨で愚かな差別の歴史への反省と理解を進める教育も盛んな地域も関西である。他方で、関東では資本主義発達期において、ついぞまともなブルジョア文化は華開かなかったのに対して、我が国の近代において唯一のブルジョア文化と呼べるだろう文化が生まれたのは関西である。谷崎潤一郎の関西移住は、文化的不毛な関東から逃げ出すためのある種の「亡命」だったのである。