shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

COVID-19とパチンコ

 全米で感染者数が20万人を超えてしまったCOVID-19だが、中でもニューヨーク州の感染者が8万人以上と偏りを見せている。しばらくすると、さらに被害は拡大していくだろう。ワシントン州武漢から入国した者の感染者が発見されたのが1月下旬だったかと記憶している。当初、トランプ大統領だけでなく米国全体が、事がここまで大きくなるとは想像もせず、はっきり言って甘く見ていた。特に、若年層は完全に舐めきっていたと言われても仕方がない。

 

 パニックになることを恐れてか、当初はやたらと若年層は軽症で済むという情報だけが独り歩きしたこともあって、どこか他人事だと思い込み、ともすれば自らの行動が感染拡大に拍車をかけ、多数の死者すら生み出してしまうかもしれないという想像を欠いた者が街に溢れた。自分自身も含め人間は、概して自分や身内の者に被害が及ぶ危険が切迫しない限り気がつかないのかもしれない。「バカは死ななきゃ治らない」とはよく言ったものである。とはいえ、実際に直接被害を被った者や近しい身内の者からすれば、そう言って笑っていられる状況にはないだろう。

 

 自由な行為によって他人の権利または利益を侵害する結果が惹起された場合、行為者には何らかの責任が帰される、と一般に考えられている。たとえその結果が故意に基づくものではないとしても、当該結果発生の予見可能性ないしは認識可能性がある限り、広義の意図的行為の範疇に入り、それによって惹起された結果に対する責めを負う。つまり、たとえ故意でなくとも結果発生のある程度の予見可能性があれば、当然に自らの行為が当該結果発生をもたらさないよう注意する義務が生じるわけであり、この注意義務違反としての過失が認められるのである。例えば、行為時において社会に属する一般人ならば認識可能であった事情や、その人自身が特に認識していた事情から、結果発生の蓋然性が予見しえたにも関わらず敢えて当該行為に踏み切り、他人の権利利益を侵害する結果が惹起されたならば、当該行為者として社会通念上期待された注意を尽くすという義務に違背したことになるのだから、「注意義務違反」としての過失責任を問われても仕方がないという理屈である。

 

 度重なる注意勧告にも関わらず、勧告を無視して不要不急の外出をした結果として感染が拡大するという事態が世界各地で報道されているが、その者に過失責任が生じるケースがいくつかある。酷いケースだと、ほとんど故意と同視しうる重過失と言えるケースさえある。やや極端なケースによっては、傷害罪や傷害致死罪に問える事案すらある。殺人の故意までは認められないまでも、他人に感染させてしまう可能性が大きいという事実を認識認容しつつ敢えて当該行為を行い、その結果として他人が感染して死に至ったのだとすれば、傷害致死罪に問えるはずだ。先立って愛知県において、自らが感染者であることを承知しながら、「他人に感染させてやる」と言ってスナックに飲みに行った男がいたが、この男には店に対する業務妨害の罪が成立することはもちろんのこと、もしそのことにより店内に居合わせた誰かが感染するようなことがあれば、同時にその人に対する傷害罪も成立しうるのである(もっとも、数日後にこの男自身が亡くなったので、たとえ起訴されたとしても被告人死亡につき公訴棄却で終わったであろうが)。当人だけが感染して死ぬのは一向に構わないが、巻き込まれる者からすればたまったものではない。

 

 但し、感染者を糾弾したところで事態が改善するわけではないので、殊更バッシングすることは建設的なことではないし、集団で寄ってたかって非難攻撃することも不健全な姿ではある。しかも、そうなることによって当事者が正直に申告しにくい状況がつくられようものなら、事態の更なる悪化を招くことすら考えておかねばならない。加えて、具体的事情を無視して、単に感染してしまったという一事を以って過失ありと認定してしまう誤謬を増長させ、最悪の場合、それが差別の温床と化すことも憂慮しておかなければならない。だから、一般人の立場から彼ら彼女らを執拗に非難することは慎まれるべきだし、そうしたバッシングが起こることを危惧する者の意見には首肯しうる点が多々あるわけである。

 

 しかし同時に、著しく不注意な行動であるとうことが誰の目にも明白な行動をした者まで全く責任はないと開き直ることも誤っている。例えば、感染拡大が危惧されている状況で、政府が渡航自粛を勧告しているにも関わらず敢えて渡航に踏み切り、帰国後に感染の疑いが生じるような症状を自覚しつつも不用意に活動し、その結果として国内の感染拡大に寄与してしまったケースがまま見られるが、当該渡航が危険をおかしてまでなさねばならないと考えることに一定の合理性があり、かつ招来されるリスクを背負うのが当人だけにとどまるという事情があるのなら格別、そうでない不要不急なケースであるのに十分な注意を尽くさずに他人の権利または利益を侵害する結果をもたらせば、当該行為者にどこまでの範囲の損害まで帰責させるかの争いが生じるものの、侵害結果発生に対して一定の過失が認められるはずである。行為の自由が認められているからこそ、当該行為によって他人の権利や法律上保護される利益を侵害することになれば、不法行為責任が生じるというのと同様の理屈である。

 

 逆に、行為の自由が一切ないところでは、そもそも期待可能性がないのだから、責任が阻却されることになる。この点、渡航自粛要請がなされていたからといっても禁止されていたわけではないのだから、要請を無視して渡航することは何ら違法ではなく、責任など生じないなどと頓珍漢な主張をする一部の「有識者(?)」が存在するが、全く真逆のことである。ここで問われているのは、渡航そのものの違法性ないし不当性なのではなく、許される行為であっても、その行為が他人の権利や法律上保護される利益の侵害にならないよう注意しなければならないところ、その注意義務を懈怠したのか否かということなのである。渡航したこと自体や感染したこと自体の責任を問題にしているわけではないのである。この点を取り違えると、議論は良からぬ方向へと独り歩きしてしまうだろう。自由な行為だからこそ、当該行為の是非弁別の判断が必要となり、この是非弁別の判断に対する非難可能性としての責任が発生する余地が生じるのである。

 

 ちょっとした戦時体制下(実際の戦時体制はこんなものじゃないだろうけど、米国の戦争では国内に深刻な脅威を意識づけるような状況になることはほとんどなかったことを考えると、一般の米国人にとっては戦争とは違う別の脅威が身に迫る経験をしているのだろうと思われる)のニューヨーク。可能な限り他人との物理的接触を回避するためにとられた自粛行動によって仕事の内容にも徐々に変化が生じていることをひしひしと感じる日々。在宅勤務が可能な職業ゆえにさほど困難は感じないものの、何とも形容しがたい焦燥感に覆われた状態でやらねばならない反面、相場変動のボラティリティの大きさから絶好の「稼ぎ時」とばかりに、ありったけの注力を傾け利潤追求に勤しむ対照的な己の有り様を反省するや、勢い複雑な思いにならざるを得ない。

 

 先月22日以降、ニューヨークの住民は食糧調達など不可欠な場合を除いて自宅待機が義務づけられ、食料品店、ガソリンスタンド、病院、警察など最低限の生活を送るのに必要不可欠な業種を除いた全労働者に対して在宅勤務が強制されている。とりわけ、屋内で多数の人と接する業種については営業停止命令が出されている。幸い、今のところニューヨーク住民は平静を保っているが、これは「同時多発テロ」や大規模停電などの大惨事の際に、住民同士が協力しあって秩序維持に努めてきた経験が生きていることの現れとも言えよう。

 

 ニューヨークは、日本の都市と比べてみると、東京というよりも寧ろ大阪に近いという印象を日増に抱くようになる。都市の規模からすれば東京との対比となるだろうが、数字には表れにくいその都市の持つ「風土」が明らかに東京とは違い、大阪の方に類似している。街が碁盤の目のように整備されているという表面的な類似性だけではない、人々の立ち振舞いや物の考え方が大阪に類似しているのではないかと思われるのである。実際、統計をとったわけではないものの、ニューヨーク在住の邦人のかなりの割合が大阪をはじめとする関西の出身者で占められる。日本人の集まりで交わされる会話に関西の言葉が飛び交うこともしばしばだ。変な例だが、別の土地ではありながら関西の言葉が飛び交う空間として東京大学医学部附属病院がある。この理由は簡単で、医学部医学科進学が予定されている東京大学教養学部理科三類の入学者における相当な割合を灘高等学校出身者が占めているからである。

 

 それもそのはず、大阪の住民の気質とニューヨークの住民の気質はかなり似ていているように思われる。陽気でかつ人間関係の細やかな機微を心得た独特の間の取り方、新規なものをとりあえずは受け入れてみようとする柔軟性、そして何より現実に臨機応変に対応するリアリズム、そうそう若干せっかちな面なども共通しているし、普段は「お上」の言うことを本気にせず、むしろ小馬鹿にして好き勝手に行動していても、危急の際にはその互助機能が発揮されるanti-fragileな都市である点でも共通している。道端に倒れている人がいても知らんぷりを決め込む東京の冷淡さとは異質な面が際立つ。事実、日本に長く済む外国出身者も東京と大阪の違いは肌で感じることができるようで、大阪の方が住みやすさの点で断然勝るという。

 

 喫煙環境を考えると、僕のような愛煙家にとってニューヨークの規制は厳しすぎるので、この点、喫煙規制がルーズな日本や欧州の一部地域の方が居心地がよい。もっとも、日本では改正健康増進法という名のお節介な法が今月から施行され、ますます居心地の悪い環境になりつつあるようだ。分煙化を徹底すればよいものの、受動喫煙防止を掲げれば何でもゴリ押しできると、嫌煙家の一方的な言い分を全体化しようという動きに対して、いずれブチギレした愛煙家が反旗を翻すようになれば面白いのだが。喫煙だけでなく、いずれはアルコールも禁止という方向へと動き出すのだろう。しかし、タバコの臭いを指摘する当の嫌煙家の口の方が余程臭いことだってあるのだ。

 

 故あって日雇労働者になって流れついた場所が西成の釜が崎であったり、朝鮮半島からの密航者が多くいついたのも大阪というように、大阪には綺麗も汚いも関係なく全てを受け入れていく包容力あるのだろう。周知の通り、米国では東海岸だけ取り出しても、政治の中心と経済の中心は異なる都市であり、ほんの数十年前までの日本もそうだった。政治の中心は東京だが、経済の中心は大阪であって、人口も大阪市東京市を上回っていた時期もある(いわゆる「大大阪時代」)。日本で唯一花開いたブルジョア文化も京阪神地域とりわけ「阪神間モダニズム」として知られる阪急神戸線沿線を中心に育まれた文化であった。不幸なことに、「東京一極集中化」という誤った国策のせいで関西の地盤沈下は著しくなりはしたが、都市の持つ本来の魅力まではまだ失われていないと期待したい。是が非でも関西経済を復活しないことには、日本の再復活もあったものではないのだ。

 

 閑話休題。ニューヨークの医療現場は混乱を極め、日本でもこうした医療崩壊の現状が伝えられているはずだが、果たしてどこまで深刻に捉えられているか怪しい。まだかろうじて維持できている医療体制を日本が今後においても維持できるかどうか、極めて不安にならざるを得ない。外から眺めていると、今の日本社会は「釜中の魚」そのものではあるまいか。予想されていた通り、東京や大阪などの大都市では急速に感染者が増加し、増加率の上昇具合から今月中旬までに感染爆発が起きても不思議ではない状況になってきている。これら大都市で感染爆発が起こり、ニューヨークのように現場の医療体制が崩壊することにもなれば、公衆衛生的にも経済的にも目も当てられぬ大惨事の長期化という最悪の事態を迎えることになるだろう。

 

 いまだに「緊急事態宣言」を出すタイミングではないと言い張り、事態が進展していくのをやり過ごすだけに見える後手後手の政治。「お肉券」や「お魚券」だの、挙げ句は「布マスク」を世帯ごとに二枚配布ときた。フェイクニュースだろうと思っていたが、どうやら本当に発案されたらしいというから、政府が命懸けでギャグを演じているとしか思えない。しかし、東京や大阪といった大都市で感染拡大が発生し、そのせいでニューヨークなど欧米の大都市で発生している医療崩壊となれば、大都市圏から「脱出」した人々が一斉に地方に飛び散り、地方の医療崩壊を連鎖的に招く危険性が高まり、他の病傷患者にまでも波及し助かる生命ですら助からない悲劇が生まれる。また事態が長期化することによる世界恐慌すら間近に差し迫っていることからして、最悪のケースとして世界大戦へと突入してしまう可能性すら想定しておかねばならない非常時を、我々は正に今経験している。

 

 邪気か無邪気かはわからないが、案の定一部の左翼が戯言を弄しているようだ。しかも、無知であることを自覚することもなく、更に事態の深刻さを直視しようとすることすらしないクズぶりをさらけ出してもいる。自身はお気楽な身分故に好き勝手言うばかりの無責任な態度も際立っている。政府は、よもやこうした「人権派」を自称する左翼リベラルが騒ぎ出すことを恐れているわけでもあるまい。連中がメディアを通してけたたましく騒ごうと、まともな判断力を持った人間ならば「いつものバカ騒ぎ」程度に聞き流すわけだから、何ら影響を与えることはないはず。実際、完全にイカれた左翼は国家権力の発動が前面にせり出す事態を喚き立てている。しかも、その内容が支離滅裂であることがお笑いだ。日本の大学教員にそういう手合が多いが、実は、こうした連中こそ無自覚に国家権力に最も寄生しているにも関わらず、手前勝手に頭の中の観念をこねくり回しているだけで現実の世界について何事か思考している気になっている極楽トンボである滑稽は、とうの昔から見抜かれている。

 

 こうした連中は、たとえ世界恐慌になろうが世界大戦が起ころが大量の餓死者が出ようが、「生権力だー」だの「管理社会がー」と喚き続けてオナニーするだけしか能がない「ヘタレ左翼」であるケースが大半だ。日本の人文系大学教員の集団は、崩れ左翼の掃き溜めか、就活に失敗した落ちこぼれの成れの果てだとバレてしまい、今ではお笑いの対象と化しているピエロなのかもしれない。だとすれば、何を躊躇することがあるのか。一時的な経済の大きな落ち込みを恐れてか。しかし、事態の漫然な放置こそ取り返しのつかない経済的大惨事を招くことを考えるならば、手をこまねいている暇などないはずだ。

 

 「緊急事態宣言」発出に躊躇していた財界ですらも、日本経団連経済同友会からはやむ無しとの考えが出されている。日本医師会からも各都道府県知事からも早期に宣言を出すべしとの意見が提出されている。中には、小池百合子東京都知事のように都市封鎖(ロックダウン)の可能性について言及する発言もある。「緊急事態宣言」発出=都市封鎖を意味するわけではない。仮に都市封鎖がなされ、それが長期化するような事態に至れば、日本経済への壊滅的打撃となり、大量の失業者が発生することは必定。昭和初期の金融恐慌、世界恐慌の結果生じた大量の失業者の群れで溢れることすら警戒しなければならないわけだ。案の定、この事態を捉えて、国民が自ら権力に対して強権発動を求めることで支配されたがっているのだなどとアホな主張をしている左翼リベラルが出てきたが、今後予想しておかねばならない最悪の事態に対する切迫した危機感が欠如しており、相変わらずの「お花畑」の住人であり続けている。

 

 いずれにせよ、政府により行動等を管理されるのは嫌だの何だのと、自身に直接被害が生じる可能性をつゆだに考えず、今ある立場がそのまま維持されるだろうとの過度な楽観に基づき現実を認識しようと努める態度すらない想像力の貧困な「お花畑」に住む自称「インテリ」どもには、今そこにある危機がまるで見えていないのである。加えて、「治者と被治者の自同性」を原理とする民主制国家の権力観が理解できていないというおまけつきだ。労働者の味方を自認する義理はないが、労働者の真の敵とは、こういう類の「似非インテリ」どもであることに気がつくべきだろう。

 

 しかも、仮に「緊急事態宣言」を発したとしても、諸外国と違って個々の国民の行動の自由を強制的に制約する法的建てつけになっていないのであるから、事ここまでに至れば何ら躊躇することはない。今となっては遅すぎるし、罰則を伴う強制措置が可能な規定ではないのでどこまで実効性があるか不明なところもあるが、とはいえある程度の効果が期待できるだろうから、一刻も早い「緊急事態宣言」の発出が必要だろう。

 

 公衆衛生学や感染症学などの専門家の知見をどこまで本気で取り入れて政治判断しているか怪しい安倍政権だけでなく、「安倍晋三のやることは全て気に食わない。諸悪の根源は安倍晋三にある!」と水を得た魚のようにここぞとばかりに勝手気ままな政権批判に精を出す連中も安倍晋三と同じく脳天気であること寸分も違わず、完全にボケたことしか言っていないし、事態の深刻さを理解していない。だが、こういう連中こそ、事態が悪化し目も当てられぬ状況に立ち至るや、冷静さを欠いたあわてふためいた醜い様を見せつけることになるヘタレであるに違いない。見たくない現実を直視しようとせず、想像上の「お花畑」の中での観念遊戯に耽ることにしか能のない連中のいつもの習性が現れ出たものとも言える。その姿は、国際政治のリアルな力学を見ようとせず、ひたすら「非武装中立」だの「憲法九条を守ることが平和を実現する道」だのと世迷い事を繰り返し唱え続けるばかりで、安全保障に関わる国民的議論を妨害し続けてきた戦後日本の左翼の姿と重なりもする。

 

 一連の騒動で、経営的に立ち行かなくなっている資本力のない個人経営の商店や零細企業の悲鳴が伝わってきているが、米国でも大量の解雇者が出て、失業保険申請者数は過去最高を更新した。マーケットの事前予想よりは少なかったということもあり、発表後のマーケットの反応は薄かったとはいえ、日本時間第一金曜夜に発表予定の先月の雇用統計の結果が市場予想より大幅に悪化した結果が発表されるとどうなるかわからない。FRBも大規模な金融緩和に踏み切ることになり、また連邦政府としてもムニューシン財務長官の財政措置を講ずる旨の発言からマーケットの動揺は一時的に沈静化し、とりあえずは最悪のケースを回避したかのように見えるものの、今後の感染拡大状況いかんでどうなるか誰もが予想できなくなっている。

 

 より状況が悪化する可能性の濃厚な日本においても、俄に急増した生活困窮者に対する緊急支援と産業が一気に崩壊することを防ぐ緊急経済対策を二段階三段階と順をつけながら講じていくことになろうが、あろうことか、一部の業種に関するバッシングの声が漏れ伝わってくるたびに、開いた口が塞がらない思いにかられる。それはパチンコ業界に対する過度なバッシングである。

 

 新型ウイルスの影響で営業自粛を余儀なくされた店舗がある一方で、パチンコ店は多数の者が集散する場でありながら、いまだに営業を続けているのは怪しからんというわけである。叩きやすい所を叩くというのは、何も日本社会にのみ当てはまる傾向ではなく、多かれ少なかれどの国でも見られる現象ではある。ただ、パチンコやスロットといったグレーなイメージが付着する業種は、このことに限らず何かとやり玉に挙げられる傾向が強い。パチンコ店に人が集中し、ともすればクラスターの発生源となりうる危険性を有することは想像される。とはいえ、パチンコ店は営業を許されているからこそ営業を続けていて、そこに客が来店するからこそ経営困難には陥っていないというだけのことである。

 

 もし、パチンコ店が他業種の店舗と比較して危険度が大きいというのなら、その営業を停止させるだけの明確なデータもしくはデータが今のところなくともその蓋然性が大きいと判断するに足る科学的根拠が要求されるところ、そうした理由づけが提示されている状況ではない。「だからパチンコ店は堂々と営業を続けるべきだ」と言っているわけではない。クラスターの発生を極力防止するためには、できれば営業しない方が望ましいだろう。他業種の店舗と比較して殊更危険度が大きいとは必ずしも言えないとはいえ、多数の人が密集する場であることは確かであるので、多人数の参集を回避すること自体はリスクを軽減するのに資すると考えるのは自然なことである。

 

 但し、営業を半ば強制的に停止させるのだとするなら、逸失利益の補填がなされるべきところ、果たしてパチンコ店への営業休止に伴う損失補償を国が行うことに同意する声が起こるだろうか。少なからず反対の声が出てくるはずだ。また、そうした社会的偏見も手伝って、大手はともかく中小零細のパチンコホールを経営する会社には金融機関からの融資がつきにくい。しかし、パチンコ店も遊戯業として合法的に営業しているわけだから、その営業が停止されたことによる逸失利益の補填を求めざるを得ないだろう。

 

 改めて強調するが、パチンコ店をことさら槍玉にあげて問題視するのならば、パチンコ店が他の業種の店舗よりも特にクラスターの発生源となる危険性が大きいという事実もあわせて示さないことには、単なる無知と偏見そして職業差別からくるパチンコ叩きの片棒を担ぐことにしかならないだろう。おそらく、過度にパチンコ店をバッシングする者は、自身がパチンコやスロットを打った経験に乏しく、勝手なイメージに基づいて非難攻撃しているに過ぎないのではないかという疑念がもたれる。要するに、COVID-19の騒動が起こると起こるまいと関係なく、パチンコやスロットが嫌いで、できればこのような単なる遊戯業を超えた事実上の「ギャンブル産業」として実態を有するパチンコ産業そのものを潰したいと目論む者が往々にして描きがちなイメージに基づく故のない糾弾でしかないということである。

 

 パチンコ店でパチンコやスロットを何度も打った経験のある者ならば承知のことだが、パチンコ店は前々から喫煙者対策に気をつかい、空調設備のための投資を行ってきている。そこらの他業種の店舗の空調設備とは比べ物にならず、圧倒的に換気が行き届いている。加えて、パチンコ店は本来人々がおしゃべりする場ではなく、基本的には各自が黙々と台に向かって打っているだけである。何も狭い個室の中で数人が大声で音痴の絶唱を鳴り響かせるカラオケボックスでもなければ、口角泡を飛ばしてがなりあっている居酒屋でもない。空調設備に金をかけず、酸欠状態気味のライブハウスやクラブの換気の悪さもない。しかも、店員は人が入れ替わるたびに頻繁に台を消毒するなどの対策も行っている。何よりも、各施設でのクラスター発生がいくつか報告されているが、パチンコホールが数多く報告されているという事実があるのだろうか。特にパチンコ店をやり玉に挙げるのであれば、パチンコ店がカラオケボックスやクラブなどよりもなお一層クラスターの発生源となる蓋然性が大きいと考えられる根拠に加え、実際にそうした実例を列挙できなければならず、それができないのならば、ことさらパチンコ店だけを叩く行為は実態についての無知と己の偏見に由来する根拠薄弱な考えでしかない。

 

 改めて確認するが、「パチンコ店は、これからも何ら変わらず営業し続けろ!」と主張しているのではない。この騒動に乗じて、単にパチンコ業界が嫌いだという理由から、一見もっともらしく取り繕いながら実のところ過度にパチンコ店を問題視する主張は、単なる無知と偏見に由来するものであって、その主張は根拠が希薄であるということを確認しているに過ぎない。もちろん、今のところパチンコ店がクラスターの発生源となった事例が報告されていないだけであって、今後の状況次第でそうした事案が発生することを否定するものではない。不特定多数の者が集散する場であることにはかわりなく、その意味で営業しない方がリスクを減じさせることになるだろう。できるものなら、事態が終息の方向に向かい出したと確信が持てるまで、客にはそうした場所に集まることは避け、当面は極力行かないようにして店側の決断を促すなりする方が、最悪の事態の回避に資するはずだ。

 

 競馬や競艇など公営ギャンブルも一応レースを行ってはいるものの、無観客でのレースを続けている。これはネット環境が充実して、多くの人々にネットを通じた馬券や舟券などの購入が普及しているからこそ可能なことであって、現に競輪では、以前から「ミッドナイト競輪」と称して夜遅く無観客でのレースを行い、ネットを通じた車券の購入で一定の成果をおさめている。ところが、パチンコやスロットはそういうわけには行かないところが難しいところだ。

 

 ワクチンや治療薬が開発されていない状況で、これ以上の感染拡大による大惨事をできるだけ防いでいくには、とりあえずは人々の物理的接触を避けて必要不可欠な最低限の活動にとどめることが重要というわけだから、飲食業や遊戯業など必要性・緊急性の希薄な業種全体の休業(損失保証は当然行った上で)を強制的に命令するようなこともやむない事態だが、これまた法制度の欠陥というべきか、我が国の法制度はそこまで強力な内容を持つ法律を持たない。これも通常考えられない程の緊急事態が起こる可能性を見たくないから直視しようとしない戦後日本の現れである。

 

 いずれにせよ、事ここに至れば、政府としては国民の生命と安全を守り、かつ国民経済が再起不能となるまで壊滅してしまう最悪の事態の回避に最善を尽くすべく、可能な権力行使のシナリオを早急に描いて国民にそれを開示する必要がある。さもなくば、東京においてもニューヨークや欧州の大都市の二の舞としてのある種の地獄絵が目の前に現れることも近くやってくるかもしれない。とにもかくにも、人間の物理的接触を可能な限り避けるようにして、感染爆発による医療体制の完全麻痺や社会全体の崩壊といった最悪の事態だけは招かぬよう、現在の法制度では効果は限定的なものにとどまる可能性があろうとも「緊急事態宣言」を発出し、今が生きるか死ぬかの瀬戸際である旨を周知させるとともに、第二次世界大戦以後に生じた人類最大の危機を是が非でも沈静化の方向へもっていこうとする国家意思を示すことが必要だ。

 

 同時に、その実効性を高めるためにも、自粛の要請及び指示に従った企業なり個人事業主に対する休業補償(全額にするかは議論の余地はあれど、最低でも6割程度の補償は必要だろう)を確約し、更には今回の事態の発生で所得が激減した生活困窮者に対する早期の現金給付が求められる。もっとも、今回の事態の発生により所得がほとんど変わらないだろう公務員や大企業のサラリーマンあるいは小中高大の常勤教職員などへの現金給付は原則不要だろうが、該当者と非該当者を事前に仕分けする作業をしていたら逆に緊急性の要求が果たし得ないだろうから、とりあえず緊急の一時的給付として一律に個人単位の現金給付(政府発行小切手の形にして郵送するなど色々な方法が考えられるだろう)を行い、事後において改めて本来給付が不要な者に対する給付金につき、徴税やら年末調整やらの場面で回収するなどの方策を講じることで解決を図ることも考えてよいだろう。本格的な経済対策としては、緊急の生活保障のための給付とは別に、事態終息の方向性が見えてきた段階で大胆に実施するなど、目的を定めて段階ごとに施策を講じていくことが望ましい。事態はそこまで切迫しているのである。