shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

ソフトなファシズムの到来?

 改正特措法に基づき安倍首相の判断で先月に発出された緊急事態宣言は期間満了を迎える6日より先も解除されることなく、一月ほど延長される見込みだという。外出や休業の自粛要請(パチンコ店のみを狙い撃ちしたかのような「自粛」とは名ばかりの「強制」もあったようだが)に応じてきた国民だが、これ以上「自粛」期間が継続すると、日々の生活を維持することが困難になる国民の数が急激に増加し、売上激減に伴う企業の連鎖倒産が起こってくることが予想される。内国の法人企業の圧倒的多数を占める中小企業の連鎖倒産は、いずれ大企業の首を締めつけていく。既に、大手航空会社の財務状況は危機的水準にまで悪化している。JR各社ですら安穏としていられない状況だ。経済活動を下支えしている生産ラインがストップするような事態にまで至れば、日本経済は壊滅的痛手を被る。その他のサービス業の記録的落ち込みも酷くなる一方だ。いくら「コロナ収束後のV字回復」を叫んでみたところで、肝心の生産現場が壊滅していれば供給確保がままならないのだから、「V字回復」など到底期待できなくなるのは誰が見ても明らかである。

 

 事態が一層深刻になれば財務基盤が脆弱な企業はもとより優良企業すらもが潰れ、大量の失業者が街に溢れることすら想定しておかねばならない状況との認識がどこまで共有されているか極めて怪しい。中には、この際に不採算企業を潰してしまえと言う国会議員がいるようだが、この発言は、今回の事態は周期的に訪れる単なる不況ではなく事態が相当に悪化すれば日本経済を支える屋台骨すら折れてしまいかねない危機的状況であることを全く理解していない暴言である。国家と国民の生命・財産を守る意思も能力もないこのクズ議員に「天誅」が下されることを願わずにはいられない。経済が崩壊すれば、当然に犯罪も増え社会の治安は乱れる一方となる。「弱者」が食い物にされるだけでは収まらず、「強者」としてふんぞり返っていた者たちも憎悪の対象となって襲撃されることも起こりうる。これが杞憂であることを望むが、少なくとも近い将来、生活苦による自殺者数や餓死者数が新型ウイルスによる死亡者数を上回ることがあっても不思議ではないとの考えが政策決定権者に共有されているかが問われている。

 

 事態に慌てふためいた政府は近いうちに経済活動の再開を言い出さざるを得なくなり、遂には緩和策に舵を切るだろう。それでも何とか持ちこたえられればよいが、政策決定権者は常に最悪の事態をも念頭に入れた上での決断に迫られる。ともすれば再び感染拡大を招いてしまい、辛うじて急場を凌いでいた医療現場がパンクして事態が泥沼化することも想定しておかねばならない。PCR検査体制の拡大が必要なことくらいは誰でもわかっているが、同時にキャパシティが現実的にあるのかという問題も考慮に入れた上での実行可能性ある施策が求められているわけであって、そうした現場の準備体制について考えずに無暗に検査数を増やしたとすれば医療現場は大混乱を強いられるだけに終わり、そうすると最悪の事態として医療崩壊の悲劇を見ることになる。

 

 中には、安倍政権を批判することだけを目的に言論活動したいあまり、「医療崩壊など起きる危険はない」と強弁する者(医師会を目の敵にしている左翼に多く見られるが)もいるが、その者の周囲には実際の医療現場に立っている者が一人もいないのだろうかと疑いたくもなる。これ以上感染者が増加するようなことになれば、現場は持ちこたえられないと悲鳴を上げている医療従事者は数多く存在するのである。検査数を増やすにしても対応可能な体制になっているのかを念頭におきつつ、臨時の専門病棟を感染者数の特に多い地域から建設すると同時に、人員確保のための臨時の医行為要件の緩和を講じるなり、やるべきことは山ほどあるはずだ。この点に関して門外漢であるのでこれぞという名案は思い浮かばないが、それでも布マスクを各二枚ずつ配布するのに要する費用があるのなら、そうした医療体制の充実に向けた予算に回す方がよほど賢明であることぐらいは素人でも理解できることである。この政権は何か国民が動揺すると、場当たり的な「火消し」をすることで対処してきた。今回の事態は、もはやそうしたアドホックな対処が通用しないことを示してもいるのである。

 

 ここ二十年の間の緊縮財政の下で病床数が大幅に減らされ、特に地方の病院は統廃合を余儀なくされていった。感染病床数となると、5分の1ほどに激減された。最近でも、昨年末に地方の病院の病床数を約13万床削減する方針がとられたばかりである。地域の保健所も統廃合され、非常時に対応できるだけの能力を意図的に削いでいったのである。狂ったことに、今年度予算には病床数削減のための予算が数百億円も計上されている。橋本龍太郎から安倍晋三に至るまで、この国の政権担当者(自民党公明党ばかりではない。旧民主党の連中も基本はこの路線を追求してきたのであり、その意味で野党が偉そうに言えた立場ではないのである)は日本社会を根本から破壊する政策に邁進してきたし、朝日新聞をはじめとする主要メディアも、そうした生活破壊のための政策を財政難を理由に肯定してきた。なんのことはない。既に安定した立場を得た者が自らの地位を保持するために、その他の国民を貧困化させることで相対的優位な状況を維持し続けたいと意図しているためである。そのツケを国民が払わされているという事実を見なければならないだろう。現在の日本社会の混乱は決して天から降ってきた災いなのではなく、相当部分は人災なのだ。自民党から共産党まで等しく、この国を破壊しつくそうと邁進してきた結果なのである。

 

 仮に事態がなおのこと深刻化するならば、社会全体に不安が覆うことで荒廃した様相を呈してくるかもしれない。そうしたことも最悪の事態として想定しておかなければならない。もしかかる事態に至れば、それに伴って世論も「敵」と「友」に分かれての応酬合戦が繰り広げられるだろう。既に米国では経済活動再開の是非をめぐって意見が真っ二つに分かれ、双方が角突き合わせて罵倒しあう光景が見られ始めている。もともとニューヨークは多様な背景を持つ幾つかの政治信条の衝突の場なので、意見対立に際して全うな議論の場が成立しうるならば、むしろその方が健全な姿と言えようが、その範疇にとどまらず徒な罵倒合戦となるだけでは互いに憎悪の感情を膨らませることになり、延いては国民国家の基盤となる市民社会に深刻な分断をもたらすことになるだろう。それが恐ろしいのは、それこそがファシズムの温床になるからだ。

 

 その兆候となる言説は、自分と異なる信条を持つ者に対する「悪魔視」や「病気化」の言説である。特に米国は元々北部マサチューセッツ州プリマスロック辺りに辿り着いた極端なピューリタニズムを信奉する集団がヘゲモニーを持ってきたこともあって、自分たちと異なるグループをディーモナイズしたり精神疾患に準えたりしてきた歴史を持つ。これは左右に関係なく見られる言説であって、今回のコロナ禍でもそうした言説が左右双方から聞こえてくる。リビアカダフィが集団リンチに遭って惨殺されたシーンを目にしたヒラリー・クリントンが目を輝かせて、We came, We saw, He died!と言って狂喜乱舞したクレージーな人間であることを思いだそう(彼女は国家安全保障会議での議事においても、他にもイラクやシリアそしれイランに対してWe will obliterate Iran!と言い、これらを地上から跡形もなく殲滅してしまえ!と吠えまくっていたし、同じく民主党ソマリア移民でドナルド・トランプと舌戦を繰り広げたイルハン・オマルはヘイトスピーチ規制を訴えるくせに舌の根乾かぬうちに「イスラエルを地上から抹殺せよ!」と絶叫している議員である)。大事なことは、そうした相手をディーモナイズしたり病気と罵倒する人間がいたとしたら(日本にも数多く存在することだろう)、たとえ政治信条を共有する者であってもそういう者を信用してはならないということである。

 

 かつて欧米の帝国主義者たちは、植民地諸国を安定的に支配するために「分断統治」の方針を採ってきた。中東やアフリカ諸国の国境線が不自然なのは、そこで部族間の紛争が起こりやすくするために恣意的に国境線を敷いた結果であり、それが今もなお中東地域やアフリカ地域の不安定要因の一つとなっていることはよく知られているところだろう。現在のイスラエルも専ら自国の安全保障を考え、中東諸国が反イスラエル共闘で団結しないよう中東諸国同士で紛争が長期化する「分断戦略」を採ってきた。イラン・イラク戦争の際、米国はサダム・フセイン率いるイラクを支援したにも関わらず、米国の同盟国イスラエルはイランを支援していた事実が端的に物語る。ヒラリー・クリントンとともに将来には「殺人狂」との評価が定着するだろうバラク・オバマは、シリアのアサド政権を潰すために、ISILよりも過激なスンニ派サラフィー・ジハード主義者のテロリストを支援してきたという事実を記憶にとどめておくべきだろう。

 

 分断されつつある社会では、事態悪化の真の要因を考えずにわかりやすい「敵」を見つけて攻撃する現象が発生する。その「敵」が真の「敵」であるならともかく、たいてい「敵」とされた者たちは人々の鬱屈した感情のカタルシスのために「生け贄」とされた偽の「敵」である。その「生け贄」は概して、マスメディアによって煽動される形で作り上げられる。例えば、最近の日本社会のパチンコ店バッシングは、ほとんど「集団リンチ」の狂気と化しており、マスメディアが報道機関として冷静な言論空間を整える務めを怠り、逆に偽の「敵」のバッシングに火をつけまくっている。このバッシングにより助かるのは、本来やるべき施策を講じていない政権担当者たちであり御用マスコミである。報道機関の体をなしていないマスコミは、他人に休業を強制する暇があるなら、不要な自分たちこそ早々に休業してはいかがかと言いたくもなろう。自分たちの属する業界の中だけで通用する理屈が世の中全体に通じる理屈と勘違いする姿勢が社会を徒に分断させ、人々の憎悪を掻き立てることになってことに気がつくべきではあるまいか。Celui qui regarde du dehors à travers une fenêtre ouverte, ne voit jamais autant de choses que celui qui regarde une fenêtre fermée!

 

 政府が国民の生命と財産を守るための必要な対策を講じず「自粛要請」という「丸投げ」方針を採ったことにより、社会に大きな分断が発生しつつある。いずれ自警団擬きと化した者たちが現れ、わざわざ自らが不要不急の外出をしていることに気づきもせず、営業を続けている店舗にまで赴いて「自粛せよ!」と迫る歪んだ正義感に基づいた行動をする者も出始めるだろう。確かに、感染拡大を防止するために休業が望ましいことは当然のことだが、しかし同時に、にもかかわらず営業を続けざるを得ない状況に追い込まれている事情も勘案しないと、その行動は単なる業務妨害と変わらない。歪んだ正義感に満ちた一部の国民が暴発して「欲しがりません、勝つまでは!」とばかりに隣人を監視または密告しあう異常な社会の出来を見ることになるだろう。こうした悍ましい光景を見たくなければ、政府が最終的な責任を取ることを明確にした上で、やむにやまれぬ強制処分であることを国民に理解してもらい、休業命令を出せる立法措置を講じるなどしなければならない。「公共の福祉」に基づく営業の自由及び財産権上の制約に伴う損失部分について「正当な補償」を行う。もっとも、大規模な損失の実質的補償となるので「正当な補償」を「完全補償」とするか「相当の補償」とするかにつき争いが生じうるだろうが、いずれにせよ感染拡大に伴う医療崩壊リスクを回避し、同時に国民経済の崩壊をも防ぐためにやらねばならないことは、この「パニック」を好機としてどさくさ紛れの制度改変にリソースを割くことではなく、国民の生命と財産を可能な限り守るための機動的財政出動なのである。これ以上の財政赤字は国家財政の破綻に近づくだのハイパーインフレーションを招きかねないだのといった虚偽を吹聴する者たちが後を絶たないが、現在の日本政府には国民経済崩壊を回避するための大規模な国債発行する十分な余力があるのだ。

 

 こうした「ショック」が発生した時、ナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」がまたぞろ顔を出すことになる。どさくさ紛れに制度改変を図ろうとする動きが好例である。例えば、「脱ハンコ・脱書類社会への転換」だの「テレワークの推進」だの「遠隔医療の推進」だの「学校の9月入学への変更」だのといったことが案の定主張され始めている。しかし、こうした制度改変を声高に叫んできた者たちが今日の疲弊した日本の医療現場を間接的に用意してきたという事実を認識しておかねばなるまい。一見、耳障りのよいこれらの主張が実現した後に何が待っているかを警戒する声が聞こえても良さそうなのに、それが全く聞こえてこない。おそらく今後、過度な「合理化」によって大量の労働者が解雇されていくことだろう。セイフティ・ネットが完備され、再雇用を支援するためのスキルアップ教育が整い、実際に再雇用が比較的容易な環境があるのなら、それも一つの選択肢かもしれない。しかし、そうした条件をことごとく欠く状況で、専ら雇用側の都合だけで改変されてしまうと、たやすく労働者は「奴隷化」される運命に陥る。

 

 日本型雇用のあり方は、確かに問題を抱えている。また、ビジネス慣行にも欧米から見たら多くの「非合理・非効率」な面がないわけではない。ただ、そうした制度改変が緊急になさねばならないことなのかと立ち止まって考えなおす必要があろう。ある制度を改変するためには概して他の制度と関連で膨大な人的ないし資金的なリソースを割かねばならない。制度改変は喫緊の課題ではない限り平時における慎重な議論の末になされるべきであって、有事のどさくさに紛れた形で、しかもさしたる議論なしになされるべきものではない。これまでの制度改悪も、有事であったり大衆が熱狂にかられている状況につけこんで「今がチャンス!」とばかりに一気に改変を推し進めようとする勢力によってなされてきた。「ショック・ドクトリン」とは、正にこうした事態を指す言葉である。概して、潰れかけている組織は末期症状であるかのようにやたらと組織をいじくり回す傾向に走るものであるという教訓を忘れてはいけない。

 

 「9月入学」の問題もさも容易になされるかのような幻想がまかり通っているが、他の制度を放置したまま入学時期をずらしても混乱を招くだけにしかならないだろう。我が国は単年度会計の原則があって、年度初めは4月である。9月入学とすれば年度を跨ぐことになる。そうすると、通常国会で来年度予算案が成立しなければ次年度の予算執行はストップしてしまい、とりあえず予備費を使って急場を凌ぐほかなくなる。一見、単なる入学時期の問題に見えても、他の制度との整合性を確保するためには結局のところ他の制度の改変も要求されることになる。日本社会の慣行から、学生は新卒一括採用の下で4月から一斉に始業し出す。「9月入学」となれば就職活動のあり方も改める必要に迫られる。何よりも、学校現場が大混乱するのではあるまいか。俄に出てきた「9月入学」改変論に対して今のところ現場からの声が聞こえてこず、直接教育に関与する立場にない者たちだけの主張が独り歩きしているように思われてならないのである。

 

 僕は日本企業の新卒一括採用のあり方は異常であり通年採用に改めるべきと思っているし、大学・大学院の「4月入学」のあり方にも疑問を持ってきた者だから、「9月入学」の利点は理解できなくない。特に大学・大学院に関しては中・長期的に「9月入学」へ移行していくことに特に反対という立場ではない。しかし、初等・中等教育に関して「グローバル・スタンダード」という美名の下に喫緊に「9月入学」へ方針転換することは慎重であるべきである(もっとも、入試時期が雪国の受験生にとって過酷な条件を課している現状は問題であることを認めるけれど。しかし、それは現行の入試制度自体の問題であって、一回限りのペーパー試験での選抜を止めにすれば済む話である。僕は基本的に「受験廃止」を主張している論者でもある)。そもそも初等・中等教育に関して「9月入学」が「グローバル・スタンダード」となってはいない。米国の小中高の入学時期は州によって若干の違いはあるものの、ことニューヨーク州においては7月である。初等・中等教育に関して必ずしも「9月入学」が世界のスタンダードになっているわけではないのである。この緊急時において、人的・資金的なリソースを割かねばならない制度改変は時期尚早と言わざるを得ない。仮に夏辺りに感染者数が減少していたとしても、秋から一斉に行動範囲が拡大して第二、第三の波が襲ってきたところで冬場に通常のインフルエンザの感染爆発がちょうど重なることになれば、それこそ目も当てられぬ事態になるかもしれないのだ。

 

 もちろん、どの案が最適解であるかは、今のところ誰にも判断できていない。だからこそ、侃々諤々の議論が巻き起こるわけだが、そういう時に、なかなか政策が決められない政治に嫌気がさした選挙民に対して、一見わかりやすい「処方箋」を提示することで喝采を浴びる者が出てくる。よくよく考えてみれば、優れた解決案であるどころか現状をより悪化させることにしか繋がらない「処方箋」だというケースがほとんどだ。ところが、その「処方箋」に対する批判に対して「代案を出せ!」と息巻いた反論が押し寄せてくる(とにかく何でも「改革」せずにはいられない「改革バカ」にこの類の主張をする者が多い)。確かに、専ら批判だけを繰り返すだけで自らは何ら積極的な提言をしない言論人に対してその批判は当てはまることがしばしばだろうが、同時に「余計なことはするな!」という批判に代案がないと決めつけるのも誤りである。明らかに事態の悪化を招くだけに終わる案に対して「それだけはとりあえずやめておけ!」と主張することは、積極的な改善案を出しているわけではないにせよ、消極的主張による「否定の道 via negativa」という立派な方法でもあるのだ。

 

 そこで、「決められない政治」に対して「決断する政治」を掲げたデマゴーグが登場し、大衆の喝采によって迎え入れられる事態が何度なく繰り返されてきたことを想起しておくのも無駄ではない。中身なき「決断主義」への淡い期待を背景に、ファシズムの温床となる基盤が進捗されていく。「小泉ブーム」や旧民主党政権交代劇もそうだし、第二次安倍政権の誕生にもそうした危険性を感じとることもできるだろう。昨今の地方自治体の首長のポピュリズム型政治にも若干その兆候を見ないわけにはいかない。徐々に胚胎し始めていた「決断主義」が露骨なまでに日本政治の表舞台に現れてきて、それをメディアが煽動する。このメカニズムが事態をさらに先鋭化させてくる。こうしたメディアの動きと軌を一にする批評・評論の類も量産され、その者たちがイデオローグを率先してつとめることになる。

 

 カール・シュミットの一世紀近くにわたる生涯は元々ナチス共産党といった「無神論者」に対する批判から始まり、次いでナチスによる国家秩序形成に短期間であれ積極的に加担してナチスの代表的イデオローグとして担ぎ出されて絶頂期を迎えたかに見えるや、やがてローゼンベルクなどにその地位を奪われ、敗戦後においては「ナチの御用学者」の烙印を押されたまま消えていった悲劇的なものであった。所謂「友ー敵」図式の中で行為する人間という存在の危険性を直ちに「政治の宿命」と見なさざるを得なかったシュミットの思考にはカトリシズムの影響が見られるわけだが、「世界の終末」すなわち「千年王国」が始まる手前において「反キリスト」が現れて民衆に対して「虚妄の楽園」を保障することで「滅びの道」に誘うという筋書きが見られる。これに対する「アルマゲドン」により、「反キリスト」という「敵」を駆逐する道が決断されるというわけである。

 

 国内の政治的「敵」を排除することばかりが前面に躍り出すばかりで、政治における「忍耐」を忘却せんとしたところに「政治的決断主義」の陥穽を見る僕のような立場にとって、寧ろこの種の「決断主義」につきまとう「非政治性」が気になって仕方がないのである。政治に決断は必要ながらも、政治における決断がいつのまにやら「政治とは決断すること」だと歪曲され、挙げ句は「決断」が「決断主義」に等置されていくというある種の倒錯現象。政治において警戒しなければならないものこそ、この種の「決断主義」に他ならない。中身など問われることなき「決断主義」に選挙民が誑かされるとき、歴史は如何なる審判を下すのだろうか。その顛末は前世紀の経験が示しているはずなのに同様に悲劇/喜劇を人類は繰り返す。マキャベリの言う通り、「相もかわらず人間は同じ醜態を繰り返す」のだ。

 

 単なる折衷とは違い、それら相互に様々な矛盾を抱える複数のヴィルトゥスの間に存する緊張を自らに引き受けながら進む「平衡」感覚を欠如させた大衆の選択はこれまで総じて誤ってきたし、今後も誤り続けるに違いない。ショーペンハウアーの言う通り、「総じて賢者というものは、いつの時代でも、結局同じことをいってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にもひとつこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変わ」らないのかも知れない。