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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

切断詞的「と」の意味とは?―千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)の今日的意義

蓮實重彦は、批評家としての処女作にあたる『批評あるいは仮死の祭典』(せりか書房)所収のドゥルーズに関する論考において、「と」論とでも言えるような見解を展開している。ドゥルーズは「足す人」であり「接続詞の人」であると述べ、二者択一や演繹と帰納あるいは弁証法的矛盾に回収されることのないドゥルーズの思考の特質の一つとして、この「と」の役割に注目する。このことは、改めて蓮實に指摘されるまでもなく、ドゥルーズ自身が『意味の論理学』で若干触れていたことなので、目新しさを感じさせる論考とは言えないわけだが、蓮實のこの拘りには注目してよさそうである。

 

ドゥルーズは、安定した知覚野を保証する<自己-他者>構造の手前にある多数多様体にまで遡行する。<私>の同一性や世界の同一性も解体して、すべてが粒子と流束の群れとしての多数多様体になっているので、ドゥルーズの哲学には自我もなければ他者もいないと浅田彰は言う。この言に対して蓮實重彦は、浅田の整理は正確ではあるが、とはいえ「自我もなければ」、「他者もない」という否定によるドゥルーズの世界の定義はドゥルーズ的とは言えないと疑問を呈する。映画の画面には否定が存在しないのと同様、ドゥルーズの思考には否定というものがないからだというわけである。しかも、顕在性と潜在性がともに肯定されるというよりも、そこにある「と」という接続詞が肯定されているのだと。

 

そこで蓮實は、『差異と反復』の<と>と、ローレルとハーディの<と>がどう違うかという問題を提起する。ドゥルーズの死後にテレビ放映された『アベセデール』という番組で、ドゥルーズは、ガタリとの共同作業をローレルとハーディにたとえ、ブヴァールとペキュシェみないなものであるという発言をしており、この「と」こそが、項同士の相互補完的関係を解体し、両者をともに単純素朴に肯定する強さの現れとなっている。この強い肯定の実践がないと、単に多様性などと言ったところで仕方がないと言う。

 

この蓮實の問題提起に対する浅田の応答によると、『差異と反復』の「と」は、ローレルとハーディの「と」ではない。というのも、『差異と反復』における「と」は、「差異と差異との累乗=ピュイサンス」、「生成と生成の累乗=ピュイサンス」という意味での「と」である。差異や生成のアナーキーはあっても、それが徹底されると内在的な一貫性を持つようになり、それが反復であり回帰となる。それに対して、ローレルとハーディの「と」は、「交通の人」ガタリが「政治」をもたらしたことによって成立する「と」であるというわけである。これは、哲学と哲学以外のものとを接続する「と」なのだと。

 

この接続詞<と>に関する思想的問題に関して、全く異なる視点から触れた言説が存在する。作家で元外務官僚の佐藤優が、『キリスト教神学で読みとく共産主義』(光文社新書)で面白い指摘をしている。本書は、『共産主義を読みとく-いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート』(世界書院)を改稿して上梓されたものだが、その中で佐藤は、カトリック神学は、「啓示と自然」や「信仰と行為」など「と」で結ばれていることが特徴であるのに対して、プロテスタント神学は基本的に「と」で結ばれた神学を嫌うと言う。こう言われると、プロテスタント神学に位置づけられる神学書でも「と」で結ばれる神学書はいくつか列挙できると反論したくもなるが、それはともかく、ここで佐藤が述べていることが興味深いのは、「と」で結ばれた神学には「安定」が前提され、「救済」に向けた秩序が保持されている。ところが、プロテスタント神学は、そうした「安定」や「秩序」をまやかしと考えるというのである。僕はキリスト教徒ではなく、日本の神道を崇敬する者だし、ましてやキリスト教神学に関して一般常識程度の知識しか持ち合わせていないので、この佐藤の見解の是非について判断することはできない。いずれにせよ、ここで佐藤が「と」の機能を、「安定」と「秩序」を保証するものとして捉えているところに、蓮實の言うドゥルーズにおける「と」の持つ意味との違いがうかがえる。

 

蓮實重彦は優れた批評家で、日本にドゥルーズを紹介した一人であるが、蓮實重彦ドゥルーズとの相性は意外とよくないのではないかと勘繰っている。というのも、先述の『批評あるいは仮死の祭典』所収のドゥルーズ論だけでなく、『フーコードゥルーズデリダ』(河出書房新社)所収のドゥルーズ論「怪物の主題による変奏」、そして『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)所収の「ジル・ドゥルーズと『恩寵』」を読めば、明らかになる。『フーコードゥルーズデリダ』にしても、フーコー論「肖像画家の黒い欲望」と比べると、どうしても見劣りしてしまうし、「ジル・ドゥルーズと『恩寵』」などは凡庸だ。『批評あるいは仮死の祭典』でも、ラストにある「批評あるいは仮死の祭典-ジャン・ピエール・リシャール論」はもちろんのこと、バルト論やバルトへのインタビューが断然面白く、ドゥルーズ論やドゥルーズとの手紙での質疑応答は月並みな域にとどまっていた。

 

おそらく蓮實は、フーコーやバルトと比べて、さほどドゥルーズを愛していなかったのではないかと疑われるほどである。『表象の奈落−フィクションと思考の動体視力』はバルトに始まりバルトで終わっていて、それがために中間に挟まれたドゥルーズ論が全く霞んで見えてしまう。ちなみに、この書は、前後のバルト論が秀逸であるわけだが、それ以外に、「エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン」が佳作の小品となっている。一見ふざけているとしか思われない題名だが、論じられていることは極めてまとも。後の『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)で繰り返し問われるフィクションの「テクスト的現実」についての先駆的考察が見られる。その後に書かれた『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(新潮社)は、さすが蓮實重彦というべき力業である。『「知」的放蕩論序説』(河出書房新社)において予告されており、三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房)にも言及していた。来栖三郎『法とフィクション』(東京大学出版会)にも目を通しているわけだから、相当な力の入れようだ(来栖三郎『法とフィクション』は本文より注釈の方が圧倒的に多く、本文だけだと呆気ないほど短い。ちなみに来栖は、アポロ11号の月着陸船イーグルが月面に着陸したとのニュースが報道されるや、自然科学の圧倒的成果を前にしてショックのあまり、東京大学法学部での講義をしばらくやめてしまったというエピソードの持主でもある)。

 

千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)は、ドゥルーズ哲学に見られる接続的契機と対になる切断的契機をドゥルーズにおける「ベルクソン主義」と「ヒューム主義」に対応させるという仮説設定を措いて論を進めて行く。ドゥルーズの思考に見られる両極端の契機、すなわち「ベルグソン主義」と「ヒューム主義」の対立を際立たせ、後者の思考の存在論への拡張作業を試みる中で、この「と」をいわば「関係の内在性」に対する「関係の外在性」を指し示す「切断」的詞として見出す。

 

連続性に対する離散性の思考を取り出し、その積極的意義を論定する作業とも言いうる試みに対して、ヒューム解釈の観点から異論が差し挟まれることは想像できよう。ヒュームは、「世界には偶然は存在しない」と言っている通り、ヒュームの因果論は専ら認識論的な議論に限定されているわけであるから、その主張を存在論的に受け取ることは無理がある。ヒュームは、古典的確率論解釈として知られるピエール・ラプラスの『確率の哲学的試論』の立場とほぼ同一であり、存在論的には決定論的立場に立っていた。実際、“Though there be no such thing as Chance in the world; our ignorance of the real cause of any event has the same influence on the understanding, and begets a like species or belief or opinion. ”と明確に述べているからである。世界の偶然的在り方ではなく、その逆の必然性を認めていた。但し、本書はヒューム解釈を主題にしているわけではないし、ヒュームの主張が、ここで言われる「ヒューム主義」と同一視されているわけではない。むしろ、敢えて存在論的に「読み替える」作業を行っているので、「ヒューム解釈として誤りである」という批判があるとするなら、その批判は、本書に対する批判としては失当であろう。

 

本書は、実在の連続性において成立する全体主義と対比される、離散的な諸要素のアドホックな連合と解離の描像で捉えられる世界像を提示するために、クァンタン・メイヤスーに代表される「思弁的実在論」を、自説を補強するための参照準拠にして、存在論的に拡張された「ヒューム主義」としてのドゥルーズ像を前面に押し出すことを企図して書かれている。もちろん、この立論が宇宙全体をも包含する存在論として説得的かと言われれば、必ずしもそうとは言えない。何より、メイヤスー自身の立論は、後に一瞥するように、相当な粗が目立つというよりほかない。しかし、ヒューム解釈とは別の文脈で読み替えられたドゥルーズの「ヒューム主義」的側面は、我々の社会における存在の仕方について捉える興味深い視座を提供していることだけは言える。ヒューム解釈として正しいか正しくないか、ドゥルーズ解釈として正しいか正しくないか、などはここでは些末なことである。本書は、大胆な読み替え作業によって著書独自の哲学へと飛翔させようとする企てなのだから、狭い文献解釈にすっぽり収まってしまうものではそもそもない。その意味でも、本書は優れた著作だと言うべきである。 

 

「関係の外在性」というテーマは、バートランド・ラッセルが若い頃に英国で隆盛していた「新ヘーゲル主義」の影響を受けていたこととの関係で、『論理的原子論の哲学』や『ライプニッツ哲学の批判的解明』において格闘していた思考の中にも見出されるものである。ラッセル『論理的原子論の哲学』は、「主語-述語」形式の命題のみならず、関係命題をも扱う論理学の樹立や、真理関数的でない論理関係の形式化の問題に関して、概念の内包とその概念から構成される命題の真理条件との間の関係を主題化している。その背景に、「関係の外在性」の思考を忍ばせているという読みはありうる。この論点は、ライプニッツにまで遡及することができるものである。だとすれば、ライプニッツ『人間知性新論』に登場する「純粋に外的なデノミナシオンはない」という命題の意味に関わる論点に踏み込む記述があれば、尚のことよかったと贅沢を言ってみたくもなる。「関係の外在性」について思考するのに、避けて通れない論点を供しているからである。

 

但し、ラッセルの『ライプニッツ哲学の批判的解明』は、門外漢の僕に言わせても、ライプニッツに対する甚だしい誤読に基づく主張が多く、同時期のルイ・クーチュラ『ライプニッツの論理』と比べると見劣りする。例えば、命題を「主語-述語」形式による命題に還元できるとする言明と、不可識別者同一の原理を合わせるならば、ライプニッツにとって関係的属性は存在しなくなる、というラッセルの主張は、全くの誤りであって、ライプニックのテクストのどこを読んでも、このような解釈にはなり様がない。その他にも、多くの問題を抱えた書であることを承知の上で読まないことには、ライプニッツ哲学の画期性が見えなくなってしまう。この点、クーチュラのライプニッツ研究は、非常に狭い範囲しか対象にしていないが、これを読むことによって、ライプニッツが論理学や論理の哲学に果たした先駆的役割が見えてくる。

 

クーチュラ『ライプニッツの論理』は未邦訳だが、昔オルムスから出された非常に紙質の悪い分厚い著作を神保町の古書店で見つけて衝動買いして読んだことを思い出す。ニューヨークには、グリニッジ・ビレッジにあるストランドという大きな老舗書店が存在するし、4番街には、ブック・ローと呼ばれる古書店街があるのだが、東京の神田神保町古書店街には劣る。古書好きにはたまらない街で、丸一日過ごしても飽きないのは、世界広しと言えども神保町だけである。僕の好きな欧風カレーの名店もあるし、節約したい時は、「キッチン南海」で腹いっぱいにできる。東京という街は、大阪や京都より文化的成熟度のない街だと思うけれど、神保町の古書店街だけは、これらの都市にはない自慢の点なのである。

 

閑話休題。いずれにせよ千葉の著作は、『差異と反復』に代表されるようなベルクソンの系譜の、言わば「連続性」の思考として読まれがちなドゥルーズの思考のもう一つの側面、言うなれば、「離散性」の思考の可能性を強調する研究になっており、その研究史的意義は、冒頭の「切断論」で強調されているほどだ。贅沢を言うならば、『差異と反復』における微分法の位置づけに関する分析があれば、なおのこと、この「切断論」の意味がはっきりしたことだろう。もちろん、本書の第5章では、微分法とベクトル場に関する記載がなされているものの、そこにおいて記述されていることは、平均変化率としての微分係数の説明でしかなく、ベクトル場に関する説明としては若干疑問符がつく記述もあり、しかも、これ以上の立論がなされているわけではない。ドゥルーズ『差異と反復』における微分法の意義について論じるドゥルーズ研究者の数は、ドゥルーズに関する著作が量産されている現状にも関わらず、極端に少ない。小泉義之ドゥルーズ霊性』(河出書房新社)所収の「ドゥルーズにおける普遍数学-『差異と反復』を読む」と、小泉義之・鈴木泉・檜垣立哉編『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社)所収の近藤和敬「『差異と反復』における微分法の位置と役割」くらいしか思い浮かばない。しかし、こうした点は、本書にとっては枝葉末節のことだし、当のドゥルーズ自身が解析学を大して理解していなかったわけだから、ごく一部に疑問符がつく記載があるからといって、本書の価値が損なわれる理由にはならない。

 

この書は、狭義の存在論形而上学の書ではなく、倫理学もしくは社会存在論として読まれるべきだというのが僕の率直な感想である。というのも、我々の社会的活動の範囲を踰越する領域に対して、無媒介に日常言語を用いて論じることは、そもそも困難であり、日常言語では表現し難い概念を表す特殊な言語がどうしても必要だと考えるからである。この点で、僕はウィトゲンシュタインの見解に同意する。ウィトゲンシュタインによる形而上学批判は、時間や世界や存在といった形而上学的問いの重要性を否定したものではない。そうした形而上学的問いについて、日常的な経験言語によって経験的事実に準えて考えることを否定したに過ぎない。特に、非時間的で経験的事実ではない事柄について、特殊な時間的存在や持続的に存在する経験的対象のように考える愚を諫めていたのである。形而上学的な存在論の大半が愚にもつかぬ戯言に終わってしまうのも、それらを思考するための概念とその概念を表現する言語に関してひどく鈍感であることに起因しているとも言えるのだ。

 

自身の守備範囲を遥かに超えた領域まで徒に論じようとする一部の現象学存在論に僕が点が辛いのも、現象学が超越論的還元を遂行する際に、その当の言語に対して何ら意識的でないことに基づく。我々の日常的な経験に対して一歩引いた地点から反省し、その細かな経験の襞を丁寧に見つめるまではよくても、その範囲を超えたところにまで手を伸ばそうとするや、たちまち胡散臭い話になっていく(もちろん、「領域侵犯」が一概に悪いわけではない)。「現象学的言語」なるものがあればよいが、日常の使用文脈からその語の意味内容が決定するはずの日常言語自身で以って現象学的分析を遂行したところで何が得られるのだろうか、という素人からの素朴な疑問に現象学は何ら応えていないと思われるのである。

 

先述の通り、本書ではクァンタン・メイヤスーらの「思弁的実在論」が度々参照されてはいるが、「思弁的実在論」の主張そのものに対して、僕は全く同意することができないというのが正直な感想である。しかし、「思弁的実在論」の主張に賛同しなくとも、そこから別の問題を考えるにあたってのヒントをもらうことは十分あり得ることである。それは「思弁的実在論」の「読み替え」作業を通じてなされるものであり、そうすることによってこそ、千葉の著書は、「思弁的実在論」にはない妖しい魅力を放つだろう。メイヤスーに関してだけ言うならば、あくまで流し読み程度でしか付き合っていないのだが、なぜこれが一時的・局地的にせよ持て囃されたのか理解できないのである。

 

「思弁的実在論」の主張の背景にある近代哲学の軛からの解放という目論見自体は、ある程度理解できるものの、そこでの批判対象となる「相関主義」の範疇が広範に過ぎ、焦点がボヤけてしまっていることが、立論の粗雑さとなって跳ね返っている。だから、カントには当てはまっても、ウィトゲンシュタインには当てはまらない点や、その逆のケースもある。そもそも、カント批判として単純な議論が目立つ。必然性と不可能性といった様相概念間の関係についての主張にも、誤りが多く含まれている。総じて、批判対象を極端に矮小化した上での批判に終始しているという立論全体の欠陥もある。僕に言わせれば、「詐話師」としか思われないアラン・バディウ『存在と出来事』における「全体化不可能性」の議論を持ち出して確率について論じる箇所も、せいぜい頻度主義的確率解釈しか扱っていない粗が目立つ。

 

クァンタン・メイヤスー『有限性の後で-偶然性の必然性についての試論』(人文書院)でいう「相関主義」とは、我々は思惟と存在を相関関係においてしか捉えることができず、切り離して捉えられたこれらの項の一つに決して接近することはできない「壁」が存在することを、直接的ないしは間接的に主張する哲学・思想の潮流全体を指す。我々の認識能力には限界があり、現象を超えた「物自体Ding an sich」の理解には及ばないと解するカントの立場がその典型とされる。カント以後の、特に20世紀の哲学において大きな潮流となった現象学分析哲学も、この「相関主義」に当てはまるという。20世紀の相関の主要な二つの境界は「意識」と「言語」であり、これらが各々現象学分析哲学を支えたと言える。この「相関主義」には二種類あり、一方が「弱い相関主義」で他方が「強い相関主義」である。前者は一旦「物自体Ding an sich」の存在を認めた上で、「物自体」は認識できはしないが一応思考の射程に入っているとするカント主義である。後者は、フッサール現象学ハイデガーあるいはウィトゲンシュタインに代表される現代の分析哲学一般に見られる特徴であるとメイヤスーは言う。この立場は「物自体」の存在を認めず、したがって、それは認識されないだけではなく思考すら不可能であるという立場である。

 

メイヤスーは、科学の諸法則は無条件的な必然性を持たないと言う。すべての自然法則や論理法則は、なぜそれであって他でないのかの理由はなく、単なる事実性があるばかりの偶然的なものに過ぎない。自然法則は、偶然にその法則が安定的な仕方で維持されているに過ぎず、その安定性に理由はない。絶対的な「ハイパーカオス」によって如何様にも変化可能なのだというのである。この「事実論性」とは、事物の存在の特性つまり我々が考えようと考えまいとそうであり続ける特性である。世界の諸事物は、それが従う法則とともにそのすべてが理由無しに存在している。このことに対して、メイヤスーは「無理由の原理le principe d’irraison」あるいは「事実論性の原理principe de factualité」と名づける。この原理は、思惟に相関することはない絶対的な思弁的真理であるとメイヤスーは主張する。

 

カントにおいては、法則が必然性を持たず偶然的であるならば理由なく頻繁に変化するはずであるところ、現実には法則の安定性が観察され理由なく突然変化するようなことはないので、法則は必然性を持つということになる。この必然性を基礎づけるために、カテゴリーの超越論的演繹論が導入されている。これに対してメイヤスーは、法則の安定性が観察されようとも、そこから直ちに法則が必然性を持つことは帰結せず、法則が偶然的であったとしても、法則の安定性を説明することは十分可能であると応ずる。この際に持ち出されるのが、「サイコロゲーム」である。「サイコロゲーム」において安定して同じ目しか出ないなら、我々はそのサイコロに何らかの細工が施されていることを疑う(つまり何らかの必然的理由があるのではないかと疑う)。それと同様に、自然法則が安定して同一原因から同一結果が生起することを観察すると、そこに必然性を認める者は、その安定性を説明するための必然性を想定してしまう。

 

この想定に誤謬があるのだとメイヤスーは批判する。その時に持ち出される理由が、自然法則の「偶然性contingence」は「サイコロゲーム」のような確率論的「偶然hasard」と異なる次元に立つというものである。すなわち、「サイコロゲーム」の偶然は、全体の目の数が決まっており、各々の目の出る確率が計算可能であるのに対し、自然法則の偶然は、「宇宙サイコロ」の目の数が無限であることから確率計算が不可能だからである(ある意味で、経済学者フランク・ナイトが主張する「リスク」と「不確実性」の二分論に近いとも言えるだろう)。確率計算には、可能な選択肢が数的な全体を構成する必要があるのに対して、メイヤスーはアラン・バディウ『存在と出来事』で展開されるカントル集合論の超限数(transfini)の議論に依拠する形で、「宇宙サイコロ」の可能的宇宙の集合全体を思考することはできないと主張するのである。集合aの再グループ化された集合bは、aが無限であろうとaより濃度が大きいことを示したカントルの定理から、超限数の濃度の系列を構成することが幾らでも可能なのだから、当該系列の全体化は決して可能にならず、このような可能なものの全体化が不可能であるのならば、カントのように自然法則の偶然性から頻繁な変化を主張したり、逆に法則の安定性の観察から必然性を基礎づけることはそもそもできないというわけである。

 

必然性について、メイヤスーは論理的・数学的必然性と無矛盾律を認めはしても、それ以外の必然性を承認しない。自然は論理的・数学的必然性を承認したとしても、物理学的必然性までは認められない。この宇宙は非因果的な宇宙であり、因果的宇宙のように安定性ないし斉一性が保持されていようと、そこから直ちに安定性ないし斉一性の必然性までは帰結しない。自然の斉一性の原理の不在を主張し、法則の必然性の放棄を主張し、逆に唯一の即自的なものとしての「カオス」が絶対化された「ハイパーカオス」こそが目に見える世界の安定性を可能にするというアクロバティックな議論を展開するのである。ところがメイヤスーは、「ハイパーカオス」の絶対性を主張する「事実論性」の原理から、形成素として「物自体」である実在世界の存在とその無矛盾性ないし整合性を導くものの、数学に関する真理の思弁的導出には何ら考えが至らないのである。

 

しかも、世界の安定性を認め、自然科学の成立を承認するにもかかわらず、安定性の根拠を必然性ないしは何らかの理由の原理に基づかせずに「ハイパーカオス」としての偶然性や非全体化された無限の可能性によって説明するメイヤスーの議論の仕方にも問題がある。ちょっと考えてみればわかろう。サイコロにおいて特定の目が常に出るのは、何らかの必然的要因に拠るけれど、「宇宙サイコロ」の場合には常に安定した目が出続けたとしても、必然性はなく偶然によると言えるとする推論には、そもそも合理性がない。可能性の目が非全体化された無限であるとして、それが有限の数しかない中で特定の目が常に出るサイコロよりも一層の必然性が要求されると考えることは誤謬ではない。

 

自然法則や論理法則(自然法則と論理法則とは全く性質が異なるものだと思われるが、ここではそういう突っ込みはなしとして)の究極的な理由を説明できないことは、直ちに「どうにでも変様しうる」ことを帰結しはしない。そもそも、ここでいう「究極的な理由」が何を意味しているのか、つまり、どう答えれば「究極的な理由」を説明しえたことになるのかということもはっきりしない。「究極的な理由」を含む命題があるとして、その時の真理条件があるのかないのかさえ不明である。とすれば、その命題で何を意味しているのか、メイヤスー自身もわかっていないのだろう。そうすると、この「問い」は、一見有意味な問いのように思えても、実は「問い」として意味をなさないのではあるまいか。そういうイチャモンをつけてみたくもなる。要するに、「あなたは御自分の言っていることが何なのかわかって言っているのですか?」ということである。しかも、ここでいう「自然法則」には、単なる現象論的な法則もあれば、数学的理由から要請される深いレベルでの法則もあるだろうに、それもゴタマゼにしている乱暴さがある。「無理由の原理」も、単に「理由がない」というだけにとどまらず、そこには暗に「無差別の原理」をも含意させている。この問題は、確率論を扱う場合に避け難く生じる問題なのだが、こういう点に関して、メイヤスーは至って無自覚なのである。

 

「相関主義」に対する批判として、「祖先以前的言明」の解釈が取り上げられる。 ここで「祖先以前的ancestral」な出来事と挙げられている例は、ビッグバンであったり地球の形成や地球上の生命の誕生、あるいは放射性物質の崩壊速度が知られた同位元素の存在などである。しかし、「祖先以前的」であろうがなかろうが、認識主観の存在以前についての言明を以ってカント批判になりうると考えるのは、あまりに杜撰な批判であるし、そもそもカントの立場を採ったとしても、「祖先以前的」出来事について有意味に語ることはできる。ここでのカント主義に対する批判は、あたかもレーニン唯物論と経験批判論』に見られる杜撰さと瓜二つというべきだろう。

 

このレーニンに見られる杜撰さが、マルクスに由来するものなのかというと、決してそうではない。確かに、俗流マルクス主義にかぶれた者たちの自然観といえば、19世紀の自然科学的世界像を適当な変更を加えて追認したものにすぎず、内実的には古典物理学的自然像の一変種という印象を与える。廣松渉の言う通り、マルクスエンゲルスの場合、俗流唯物論との厳しい対決を通して理論的構築がおこなわれており、近代哲学的世界了解の超克と新しい哲学的世界観の模索を標榜したフォイエルバッハの提言を承け、「科学主義的Objektivismus」な世界像と、これと双対をなす「人間主義Subjektivismus」の地平を先駆的に踰越すべき問題状況下におかれていた。「自然と人間との真の統一」という問題意識をヘーゲル左派のフォイエルバッハやブルーノ・バウアーから継承しつつ、新たな自然観・人間観ひいては新しい世界観の地平を開かんとしてして書かれた共著『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスエンゲルスフォイエルバッハの不十分さを批判する中で、フォイエルバッハは自身をとりまいている感性的世界は決して永遠の昔から直接無媒介的に存在している恒常的に自己同一的な事物なのではなく、産業と社会状態の所産であるということをみないと批判している。

 

マルクスエンゲルスならば、「祖先以前的」出来事についての言明の解釈に関して、廣松渉の表現を借りると、次のように応答したであろう。すなわち「物質そのものals solche」というのは純粋な思惟の創造物であり純粋な抽象であって、物質そのものは感性的に実在するものではない。自然科学が単元的物質そのものを探求する時、そこで企図していることは、サクランやリンゴの代わりに果物そのものを見出そうと努めるのと同じことある。「われわれにとっての事物」というのは、単なる「認識された事物」という次元においてではなく、人間の歴史的実践つまりは「生産活動」によって開示されたDa-und Soseinの意味である。人間が間主体的な「協働的対象活動zusammenwirkkende gegenstaendliche Taetigkeit」において「内・存在」する「自然」である。廣松渉の結論によると、マルクスエンゲルスは社会的・文化的な形象が物象化versachlichenされて現前するかぎりで「自然の歴史化」と併せて「歴史の自然化」をも問題にしていくが、総じてこの世界は、ハイデガー流のZuhandenseinそのものではないにしても、歴史的に被媒介的な共同的生世界Mit-lebensweltなのだと。

 

「思弁的実在論」に対する酩酊者のボヤキの如き無責任な放言となったが、千葉の著作は「思弁的実在論」を、主として「関係の外在性」を論じ、ドゥルーズの「ヒューム主義」的側面を存在論的に拡張して論じる文脈において(補強する言説として用いられている点が否定できないが)一つの参照項として利用しているだけであって、「思弁的実在論」に全面的に依拠しているわけではないし、全面的に賛同しているわけでもないので、メイヤスーに対する批判が直接当てはまるわけではない。したがって、「思弁的実在論」が意図している広範な形而上学の書として本書を読んでしまうと、本書の持つ真価を見誤ることになる。そういう読み方をすると、「思弁的実在論」の致命的誤りがそのまま本書の誤りに直結してしまうからである。しかし、そう読むのは誤りであって、本書は、メイヤスーらの思考を参照こそするが、決してその引き写しではない。本書の魅力は、「ヒューム主義」の存在論的読み替えと同時に、メイヤスーの「思弁的実在論」の読み替えという二重の読み替え作業によって提示された(形而上学的な存在論とは異なる)存在論なのである。だから本書で語られる存在論は、社会存在論及び倫理学として読まれることによってこそ、その真価が発揮されるというべきなのである。

 

『意味がない無意味』(河出書房新社)所収の論考「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない-倒錯の強い定義」にある「存在論的ハッテン場」という概念が、何よりもそのことを物語っている。ギャルとギャル男、ギャルとギャル、ギャル男とギャル男の、分離しつつ互いの分身に生成変化することを互いの欠如を相互補完する関係としてでなく、ズレや重なりとして捉える千葉雅也が参照するのは、クィア理論の研究者としても知られるレオ・ベルサーニの「社交性とクルージング」である。この論文は、ゲイたちが外面的な判断のみによって相手を選び適当に性行為を楽しんで去っていく「ハッテン場」を、ゲオルグジンメルの「社交性」の概念を使って分析する。この「ハッテン場」では、自分の実存すべてを賭けた交流はなされない。あくまでも自分の一部ないし表面だけが曝されるという意味での「以下性lessness」において付き合うことが指摘されている。

 

千葉は、この存在の仕方を、社会における個人の存在の仕方へと発展させる(存在論化する)。つまり、この社会は銘々の存在者が銘々の「以下性」によって多角的に分離し多角的にズレている「ハッテン場」であるかのように考えるわけである。この文脈で、ギャルとギャル男(のみならず、ギャルとギャルとの、ギャル男とギャル男との同性同士のセックスをも含む)の「チャラ打ち」を肯定的に捉える。この社会存在論は、「虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの『盛り』」がアレゴリカルな意味を持つところの「互いの無関係なるthingsの社交性、あるいは、各々が自らにおいて多面的に絶滅を経ているかのような『頭空っぽ性』に即して構想される」多孔化された共同性の場の提示であり、それは同じく『意味のない無意味』所収の「美術史にブラックライトを当てること-クリスチャン・ラッセンのブルー」にある「珊瑚礁のごとくに、あるいは、ホストたちの鬣のごとくに盛り-並べられた、生息地を異にする表象の部分から部分へ、見ずに見る視線をジャンプさせる乱交」の場としての社会への希求であり、「匿名的な者たちによる刹那のセックス」の持つ「愛の制度を共有しない、半-無関心的に平和であるばかりの、かつ、それゆえに一触即発でもあるのだろう、ヒットしないヒットの戯れ」が反復されていくことの、倫理学的肯定をも含意する哲学でもあるのだ。

 

こうした社会哲学を打ち出したのは、千葉雅也以外の他に存在しない。これまでの社会存在論倫理学は、特に日本において、暗に「健全な市民」のみを想定した「健全な市民」の典型でしかない大学の講壇哲学研究者による「御行儀のよい」ものでしかなかったところ、千葉雅也は逆に「アウトロー」までをも包含した「凶暴な思考」にまで及んでいる。「世間の良識」に縛られることから遊離していく思考は、時には「御行儀のよい」者たちの「良識」を逆撫でするかも知れない。しかし、そうした危うさを持った哲学だからこそ、妖しい魅力を放つ。それは、「御行儀のよい」者たちの偽善欺瞞に満ちた腐臭とは対照的な、派手に盛られたギャル男の髪やド派手に改造された暴走族のブチ上げ単車や攻撃的な文句が刺繍された特攻服が見せる異常な美しさにも重なる。時に「読みやすさ」を犠牲にしもする著者の文章が、官僚が作文した国会の答弁書のような文章から遠く離れていくのは、ある意味で当然のことなのである。

 

現代の倫理学の主流は、カント主義的義務論の系譜に位置づけられるジョン・ロールズの正義論と、ジェレミーベンサムジョン・スチュアート・ミルやヘンリー・シジウィックの目的論の系譜に位置づけられる功利主義倫理学に偏っており、倫理学の対象は、専ら「行為の倫理学」であると言わんばかりの偏向ぶりは、たとえアリストテレス倫理学の復興としての徳倫理学が出てきたとはいえ、物足りなさが否めない。主流のメタ倫理学や規範倫理学とは離れた場所で、レヴィナスフーコーが研究されてはいるが、ドゥルーズ哲学を倫理学や社会哲学として読むことの方が実りのあるものとなるに違いない。フーコードゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』に関して「倫理の書」と正しく評していたように、千葉のドゥルーズ論は、本人の意図がどうであるのかは別として、社会存在論であり「倫理の書」でもある。

 

倫理学は、何も今主流になっているメタ倫理学や正義論と功利主義に二分される規範倫理学だけではない。哲学アカデミズム主流の論文とは違ったスタイル(制度的には、東大駒場表象文化論コースに提出されたという事情もあるのだろうが)は、アカデミズムの不自由さの軛から離れたところで伸び伸びとした思考を許容し、哲学の研究書というより批評に近い内容と文体が、アカデミズムの極く狭い領域でのみ細々と読まれるに過ぎない書物に終わることなく、多くの一般読者に迎え入れられた理由の一つになっているのではないか。哲学専攻の学位論文では通常引用されることがない柄谷行人蓮實重彦浅田彰東浩紀松浦寿輝など批評家の文章が参照テクストとして遠慮なく使われているところを見ても、そう思う人は多いのではなかろうか。

 

そこで、冒頭の「と」論の持つ意味が明らかになるはずである。蓮實重彦が、先述の『アベセデール』の中でのドゥルーズの発言、すなわちドゥルーズの「哲学によって哲学を出る」という発言を取り上げ、『襞-ライプニッツバロック』を執筆した後のエピソードを紹介している。ドゥルーズによると、その著書に反応があり、紙折職人からの「襞とは我々だ」という反応や、サーファーからの「襞とは俺たちのことだ」という手紙を貰ったという。俺たちは波と波が折り重なる襞の中に日々生きているというわけである(僕もサーフィンを長くやっているが、日々襞の中に生きているなどと思ったことは残念ながらない。『差異と反復』や『襞』を読んでいたから、後で意識化することはあっても)。ドゥルーズは、「襞」という哲学的概念として昇華された概念が紙折職人やサーファーの日常になっていることを喜んでいるのだ、と蓮實は言うのである。ドゥルーズにとって、それが哲学によって哲学を出ることを意味する。

 

つまり、この「と」とは、諸存在者の併存をある一定の秩序の下に並置させる安定の基盤としての共同体の保証機能を意味するわけではなく、異なる諸存在者がアワやアブクのようにボコボコ隆起しては沈滞し、重なりもすれば微妙なズレを演じながら狂喜乱舞する場を示すものであり、「珊瑚礁のごとくに、あるいは、ホストたちの鬣のごとくに盛り-並べられた、生息地を異にする表象の部分から部分へ、見ずに見る視線をジャンプさせる乱交」の場、もしくは「虚実の狭間をどうでもよくたむろしているギャル男のギザギザでスカスカの『盛り』」がアレゴリカルな意味を持つところの「互いの無関係なるthingsの社交性、あるいは、各々が自らにおいて多面的に絶滅を経ているかのような『頭空っぽ性』に即して構想される」多孔化された共同性の場を肯定する接続「詞」的でもあり同時に切断「詞」的でもあるのだ。