shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

アイデンティティ・ポリティクスの脅威

必ずしもその主張に同意するわけではないのだが、日系米国人フランシス・フクヤマの新著Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentmentが、現在の米国政治の背景をみる上で参考になる主張を展開している。

 

フクヤマは、ハーバード大学政治学Ph.D.を取得し、スタンフォード大学の上席研究員に就いていた1993年に出版されたThe End of History and the Last Man(渡部昇一の訳・特別解説で、『歴史のおわり』(三笠書房)として日本でも出版された)で世界的な注目を集めたことは日本でも知られ、その大半の著書は訳されている。この書は米国の国務省に勤務していた1989年に雑誌『ナショナル・インタレスト』に発表した論文「歴史は終焉をむかえたのか?The End of History?」を大幅に加筆したものである。

 

本書において、フクヤマヘーゲルの歴史哲学を下敷きにして、ソ連の崩壊と冷戦の終焉において、我々は世界的なイデオロギーの進歩の最終段階に到達し、西側陣営のリベラルな民主主義が世界中で恒久的な勝利を手にしたことは良いものの、イデオロギーをめぐる闘争が終焉を迎え、退屈な世界が出来したことで、かえって危機に直面していることを主張していた。

 

ヘーゲルの歴史哲学を下敷きにしたとは言うものの、より正確を期すならば、アレクサンドル・コジェーブによって解釈された独特のヘーゲル歴史哲学の理解に基づいて執筆されたと言った方がよいだろう。このコジェーブによるヘーゲル解釈は、我が国でも『ヘーゲル読解入門』(国文社)として邦訳されている。事実、フクヤマが参照している箇所は、このコジェーブの著書の第7章に文章に付された膨大な注釈箇所である。コジェーブはそこで、「ポスト・ヒストリー」の状態について描いている。つまり、「ポスト・ヒストリ-」の状態とは、「本来の意味での人間の言説(ロゴス)の決定的な消滅」であり、米国の生活様式(American way of life)こそがその具体化である。コジェーブの言う「日本的スノビズム」をも含む「ポスト・ヒストリー」の問題意識は、昭和63(1988)年に出版された柄谷行人蓮實重彦闘争のエチカ』(河出書房新社)においても取り上げられていた話題でもある。

 

フクヤマの著作は、ほぼコジェーブが敷いたヘーゲル解釈のレールの上を歩むものでしかないとも言える。フクヤマは、1980年代にレーガン政権の政策アドバイザーを務めるなど、米国のネオ・コンサーバティブの一員であり(フクヤマの師の一人は、『アメリカン・マインドの終焉』の著者アラン・ブルーム)、その延長で書かれた著作であったから、邦訳者が『歴史の鉄則-税金が国家の盛衰を決める』(PHP文庫)などで英国のマーガレット・サッチャーを礼賛していた渡部昇一であるのも、なるほどといったところだろうか。浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(小学館)において、浅田はフクヤマに対して、著作の邦訳者である渡部昇一の立ち位置について説明しており、フクヤマは当然そのことを知っている旨の返答をしていたかと思う。

 

以後、フクヤマは、1999年にThe Great Disruption: Human Nature and the Reconstitution of Social Order(鈴木主税の訳で『大崩壊の時代-人間の本質と社会秩序の再構築』(早川書房)として出版されている)や、2002年にOur Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution(鈴木淑美の訳で『人間の終わり-バイオテクノロジーはなぜ危険か』(ダイヤモンド社)として出版されている)などセンセーショナルな著作を矢継ぎ早に出し続けてきた。どうもこの辺りから、フクヤマの思想上の「転向」が起こってきたようで、事実2008年の米国大統領選挙において、フクヤマ民主党バラク・オバマへの支持を表明し、ポピュリズム政治と移民バッシングに反対する言論活動を展開してきた(僕から言わせると、バラク・オバマは毎週火曜日の午後に趣味と化した「殺人ゲーム」に興じていた最低の大統領であって、元国務長官ヒラリー・クリントンと並んで、最もえげつない偽善者として後世語り継がれることになるものと思われる)。

 

そして2018年に出版されたIdentity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentmentも、特に欧米の言論シーンで大きな話題をさらっており、本書に言及する書評や論文があちこちで書かれている。本書は、人間のアイデンティティの問題の政治哲学的意味について取り組んだもので、特に欧米におけるナショナリズムと人種差別の台頭について深刻な警告を発している。フクヤマは政治哲学の研究者であるので、引用される文献は、ソクラテスプラトンヘーゲル、マルクーゼやニーチェなど広範囲にわたる。フクヤマの主張の根本には、リベラルな民主制にとって国家の成員としての「国民」という身分が不可欠なものであるという考えがあり、この点は、国家の成員としての「国民」という身分の重要性を無視するどころか、場合によっては敵視すらする他の「リベラル」を自称する識者との大きな違いになっている。さらにフクヤマは、多文化主義と異なる民族性や性的指向固執を言祝ぐことがより個人的な自由への前進となるとする見方を断固拒否している点も特徴である。のみならず、フクヤマはこうした個人のアイデンティティに対する新しい要求を現代の国民国家を不安定にするものとして警戒する。

 

フクヤマは、「自己のアイデンティティを認識したいとする要求は、現在の世界の政治状況で起こっていることの多くを捉えるための基本概念である」と述べている。アイデンティティ・ポリティクスの問題である。人種、宗教、性別に基づく個人のアイデンティティの認識に対するこの要求は、国際貿易と旅行の爆発的増加そしてインターネットやソーシャルメディアの台頭により加速されていっている。とりわけ、インターネットやソーシャルメディアといったコミュニケーション・ツールは、「物理的な障壁ではなく、共有されたアイデンティティへの信念によって壁に囲まれた自給自足のコミュニティの出現」を促しもしたという。

 

この辺りの見解は、誰もが概ね共通に抱いている見解だろう。フクヤマの診断によれば、現在の左翼は「取り残されていると認識されている多種多様なグループ、黒人、移民、女性、LGBTコミュニティ」を促進したいがあまり、経済的平等と労働者の保護を要求するという従来の目標を失念してしまうという重大な誤りを犯したと言うのである。これに応じて、権利は「伝統的な国民のアイデンティティを保護しようとする愛国的な内容」として転化される基礎が提供された。その一つの結果が、マイノリティを社会的に追放したり、あるいは物理的に追放したりしようとする「極右」的な政府の台頭が挙げられる。

 

リベラルな民主主義が伝統的な自由を強化しながらマイノリティを保護するためにどうすればよいかという点について、フクヤマが提案するのが、国民がつくりあげる国家のアイデンティティの発展である。個人は、共有された個人の特性ではなくて、自国の核心となる価値によって社会統合が図られる。そこでフクヤマは、英語の基本的な知識や国家の歴史と民主主義の原則の理解を試す「市民権テスト」を要求している米国が先進的な国家であると考える。この辺りは『歴史の終焉』の頃と基本的な考えが変わっていないことがうかがわれる。それに対して、欧州諸国は市民権を得るのに同様の要件を課していないことを強調する。その代わりにEUは「多文化主義」を奨励するばかりで、その国の歴史と民主的価値を強調する特定の国民文化に移民を統合することの重要性を軽視した。その結果が、今の欧州諸国の混乱の根になっているのだと。

 

ダグラス・マレーのThe Strange Death of Europe: Immigration, Identity, Islam(町田敦夫の訳で『西洋の自死-移民・アイデンティティイスラム』(東洋経済新報社)として出版されている)が、多文化主義リベラリズムを言祝いできた知識人を痛烈に批判する文脈とも重なるものがある。といっても、マレーもフクヤマも、「レイシスト」というわけではない。むしろ、何でもかでも反対者に「レイシスト」のレッテルを貼るばかりで後先を顧みないような言説こそが、アイデンティティ・ポリティクスの泥沼を招き、それが欧州では修復不能なまでに進行していることの問題に危機感をもたせてくれているとも言えるだろう。リベラルな価値観に則り大量の移民を受け入れたはいいが、明らかに共同体の規範から遥かに逸脱する者の存在もいることを見て見ぬ振りをしてごまかし続けてきたツケが、今日の西欧社会の深刻な歪みとなって現象していると。ユルゲン・ハーバーマスもその一員に含む西欧のリベラリストたちが多文化主義と寛容を掲げながら想定している他者とは、あくまでも西欧市民社会のコードに随順するコミュニケーション可能な他者でしかなく、彼らは西欧市民社会の基底となる規範に包摂可能な他者という想定内で考えていたに過ぎない。

 

一部のムスリム移民の中には、少女奴隷売買や集団での強姦あるいは少女への強制割礼を当然と見なしているが、現在の西欧のリベラリズムからすればおよそ容認し難い行為がなされても適切な対処を怠ってきた(西欧社会に移民として流入した者の中には、イスラームの規範を可能な限り遵守しつつも「郷に入っては郷に従う」としてその社会の根本規範に抵触せぬように努める者も多いだろう。宗教と世俗の分離が当然の事理となってはいないイスラーム社会の規範を受け入れて育った者からすれば容認し難いことであっても、溶け込める範囲で溶け込もうとしてきた)。しかし同時に、原理主義的傾向を持つ厳格なムスリムにとって、西欧市民社会のコードに随順させようという明示的・黙示的な要求は、自らの人格的核心を土足で踏みにじる暴力と映じる。厳格なムスリムにとって、イスラームの教義は単なる趣味嗜好とも違うし、場当たり的に変化する政治思想とも違う自分の存在を支える基盤なのであって、西欧的なリベラリズムの規範や価値観を押しつけることは、存在を否定されたと考えることも理解できる。

 

ところが、西欧社会の伝統的な価値観や規範を当然の理として生きている者にとっては、自分たちのコミュニティに入ってきたからには、その価値観や規範を遵守してもらうよう望むのも無理ないことである。当然、摩擦や衝突が起こり、それがエスカレートしていくにしたがって、当初は寛容だった市民も遂には堪忍袋の緒が切れたとばかりに移民への違和感がふつふつと募り出し、その怒りの感情が移民排斥という極論に吸収されて排外主義という良からぬ方向へと推移していった側面を見逃してはならないわけである。


かつて、詩人のトマス・エリオットは、移民自体に反対はしないが、保守的な立場から、ある一定数以上の移民があるコミュニティに一気に流入するとそのコミュニティは瞬く間に崩壊していくと警告していた。このエリオットの言葉は極めて常識的なことを述べたに過ぎないわけだが、左翼の側からの「レイシスト」というレッテル貼りを警戒して編集者が新しく刊行された全集からこの言葉を削除している。コミュニティが崩壊しかねない程の大量かつ急速な移民の流入に対して慎重な態度をとることと、移民を排斥せよという排外主義者との主張の間には相当な距離があるにもかかわらず、その区別をせず乱暴に同じように「レイシスト」のレッテルを貼り、その理想主義の御旗の下で大量かつ急激な移民の流入を容認してきた結果が、西欧の市民社会の基礎的なコミュニティの崩壊を招きかねない事態を招来し、各種アイデンティティの危機をもたらしもしたという事実を正視する時である。

 

こうしたアイデンティティへの動機をフクヤマが説明する時に導入する概念は、以前『歴史の終焉』でも登場したことでお馴染みの「対等願望」と「優越願望」類似の概念である。古代ギリシアに端を発するthymosという概念である。フクヤマはこれを「認識や尊厳を切望する魂の一部」と説明する。フクヤマは対になる概念としてisothymiaとmegalothymiaという概念を提示する。isothymiaは「他の人々と平等に尊重されるべき要求」と定義されるのに対し、megalothymiaは「優れていると認められることへの欲求」である。先の「対等願望」と「優越願望」に対応することにすぐに気がつくだろう。これら2つの動機の間の緊張は、すべての個人に平等な敬意を払うことを目指しているすべてのリベラルな民主主義国家に存在している。特に宗教的または民族的マイノリティは与党の過半数によって疎外されたり軽視されたりしていると感じる可能性がある。megalothymiaは攻撃的な多数派グループが権力を握り、マイノリティ集団を社会的に追放するか根絶しようとするときに大きな問題を巻き起こす。フクヤマは、ナチス・ドイツこそが、20世紀におけるこの傾向の究極的表現であるという。

 

さらにアイデンティティ・ポリティクスの動向を追跡していく。本書のラストの章で、レーニンが1902年に書いた政治パンフレットの題をもじって、以下の提案をしている。その提案の趣旨は、もし進歩主義者であるならば「同化主義」を採用するべきだというものである。これには国境の強化も含まれる。他方で、現在米国にいる1200万人もの数の公的機関の記録にはいないことになっている男女に米国の市民権を付与するための道を提供することの必要性をも強調する。公教育がバイリンガル教育を段階的に廃止し、すべての学生に英語のスキルを教えることに焦点を合わせることも提案する。ニューヨーク市の公立学校では13の異なる言語で教育が行われているが、フクヤマはこうした政策は逆に対立要因となりうることを指摘する。それは、国民としてのアイデンティティを弱め、隔離されたコミュニティを育成してしまうことにつながるからだと言う。

 

加えてフクヤマは、新たに流入してきた者を合衆国の文化に統合する強力な方法として、すべての若者に対して普遍的な国民奉仕を義務づける提案もしている。そこでは「合衆国国民の物語の正当性を損なわしめる進歩主義者を批判する。左派がそういうことにかまけている間に共和党と他の保守派は、国民の身分を保護しようとする愛国者として自分自身を位置づけることができるようになったのだと。進歩主義者もしくは左翼は経済再分配と公共サービスの拡充といった伝統的な労働者階級の問題に傾注し、国民間の各々のアイデンティティに基づく分断をもたらす傾向に走ることのないように進歩主義者や左翼の陣営の者に助言する。

 

 

 

ドナルド・トランプの登場が、本書の執筆の動機となっているとフクヤマは言う。序文においてフクヤマは、「2016年11月にドナルドJ.トランプが大統領に選出されなかった場合、この本は書かれなかっただろう」と記している。フクヤマは、トランプは直感的に政治学者が考えてきた問題を理解して、権力奪取のための道具として利用したというのである。それは「あなたの境遇は、かくかくしかじかの陰謀によってもたらされてきたのだよ」と、これまで不可視であった「敵」を可視化し、ルサンチマンに訴える手法を徹底したというのである。トランプは、こう言う。”The United States is rigged!”。面白いことに、この類の表現は、前回の民主党の大統領候補の一人であったバーニー・サンダースもしていた。”Top 0.1% of Americans controll our country. This is rigged system!”と。

 

もっとも、彼らの主張も故のないことではなく、実際に米国政治は、トップ0.1%もしくは0.01%の超富裕層によって動かされているわけで、ホワイトハウスは常に、ウォール街の意向を気にした政策を実行している。数年前のoccupy wall street movementでは99%の庶民と1%の富裕層の対立図式を強調したが、幸か不幸か、1%の層といえども、ホワイトハウス連邦議会を動かす力は持っていないのが実情である(おそらく、ジョセフ・スティグリッツの著書の影響を受けているのだろうが。ちなみにスティグリッツは、僕の制度上の師の一人である。とはいえ僕は、スティグリッツ教授の見解には反対の立場である)。米国のトップ1%といっても、その平均所得は約130万ドル程度の「小金持ち」である。この程度の所得は、ウォール街では高所得とは呼ばないし、権力など持ちようがないのである。キャピタルゲインで年間1億ドル以上の所得のある者でないと、政策決定過程において何らの力も及ぼしえない。

 

フクヤマは、左派の一部はアイデンティティに基づく衝突にあまりにも多くの時間を費やしていると彼は信じているが、フクヤマは、Black Lives Matterや#MeToo運動は具体的な公共政策の歓迎すべき変化をもたらしたと評価する一方、アイデンティティ・ポリティクスの過剰は、主要な経済問題を覆い隠したり、自由な発言を抑制したり、ポリティカル・コレクトネスによる分断をもたらしたりするに至ると、逆効果にしかならないことを強調するのである。「トランプはポリティカル・コレクトネスを前向きに受け止めることで、アイデンティティ・ポリティクスの焦点を、それが生まれた場所である左翼から右翼に移すことにおいて重要な役割を果たした」と言う。1968年にリチャード・ニクソンは、アイデンティティに基づく人種差別的な「南方戦略」のおかげで大統領になれた。それから数十年の間に、右派はアイデンティティ・ポリティクスの枠組みを、学校での神への祈りや中絶あるいは銃による武装の権利などに組み替えることをしてきた。つまり、「双方がますます狭いアイデンティティへと後退することは、社会全体による討議と集団行動の可能性を脅かす」のである。

 

そのような悲惨な結果を防ぐためには、共有された一連の価値観へのコミットメントを増すべきだとフクヤマは強調する。その意味で、「現代のリベラルの民主主義におけるアイデンティティ・ポリティクスの台頭は、直面する主要な脅威の1つ」と言い、さらに「人間の尊厳についてのより普遍的な理解に戻ることができない限り、争いは継続することになるだろう」と。しかし、フクヤマは一抹の希望を託すことも忘れない。「アイデンティティは分断に利用できるが、統合にも利用できる」と言うわけである。