shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

法律の勉強の仕方とは

 世の中、勉強法の類に関する書物が氾濫しているけれど、「このやり方でいけば万事うまくいく」などという方法はもちろん存在しない。もし、そのように謳っているHow toモノの本ががあるとするならば、ほぼ100%クワセと思って間違いないだろう。すぐに役に立つような本となると、かえって耐用年数が短いだろうから(すぐに役立つものは、同時にすぐに役に立たなくなるから)、読んだ直後に「賞味期限切れ」という滑稽な事態になりかねない。

 

 かつて文芸批評の世界で、谷沢永一関西大学教授が三好行雄東京大学教授に舌鋒鋭く噛み付いた「方法論論争」があった。ある女性研究者の論文に対する三好のコメントに端を発したこの論争の中身はといえば、大の大人が口角泡を飛ばして激論するほどのことではなかったが、既発表の文章を読む限り、この論争の勝負は明らかに谷沢永一の方に分があった。この辺の事情は谷沢永一『牙ある蟻』(冬樹社)を読めばわかる。和泉書院から出された「谷沢永一書誌学研叢」シリーズの一冊(四巻目だったか?)の『方法論論争』にも収録されていたかと記憶している。谷沢の主張は至ってシンプルなものだ。曰く、「文学研究において便利な方法論などない」という単純極まる主張である。しかし三好行雄は、谷沢の批判に対して説得力ある反論ができなかった。のみならず、三好の言う「方法論」なるものが雲を掴むような絵空事であることが白日の下に曝される結果に終わった。確かに、そんな好都合な方法論があり、誰もがそれを実践してやりさえすれば一端の研究が成立するというのなら、誰しも機械的にその方法論とやらに則り論文をせっせと量産すれば済む話だ。しかし、そんな魔法の如意棒のようなものがあるわけがない。

 

 では、勉強においてそんな便利な道具があるのか?ペーパー試験で測られる傾向の強い法律の勉強において、上で述べられているような便利な方法論があるのだろうか?勉強法を売り物にした本が矢鱈と書かれていることは書店を巡ればわかろう。大学生協の書店の法学書コーナーには必ずといっていいほど司法試験や公務員試験などの勉強法の本が平積みにされているはずだ。中には、なるほど参考になるものもあるかもしれない。しかし大部分は、おそらく使い物にならないだろう。方法論というより、もはや精神論に傾斜してしまっていて、何ゆえ司法試験なのか、何ゆえ公務員試験なのか、という核心となる点がボヤけてしまっているものが目立つのも特徴だ。資格試験予備校の講師が執筆した本となると、勉強法というよりも主宰する講座の受講パンフレットといった塩梅で、法律の勉強にとって役に立たないどころか、かえって有害ですらあるものもある。


 かつては「入門講座」とか何とか銘打って、100万円近く中にはそれ以上の受講料をとって荒稼ぎしていた資格試験予備校もあるが、新司法試験導入以後は、その勢いも一旦下火に見なったものの、今度は予備試験が導入されるや反転攻勢をかけているかに見える。少子化の上に法曹離れの影響でどこまで生徒を獲得できるのかわからないが、模擬試験や答練などを餌に生徒獲得に必死になり、悪辣な受験産業お得意のセールストークで、時には学生たちの不安を煽り、時には過剰な期待をもたせ、予備校を利用することが合格のための得策だという思い込みを広げんと躍起になっている。旧司法試験の場合、多くの受験生は予備校を利用していたし、合格者の多くは答練や模擬試験で予備校の「お世話」になっていた(僕はほとんど利用しなかったが)。そうした傾向から、予備校を利用しなければ司法試験には合格しないかのような「信仰」が受験生の中で常識化してしまったことも確かである。


 しかし見落としてはならないのは、合格者に予備校利用者が多いのと同様、不合格者にも予備校利用者が多いということである。だから、合格者に予備校利用者が多いからといって、直ちに予備校教育が効果的であると結論づけることはできないのであって、不合格者に占める予備校利用者の比率との比較を取り上げなければ意味がない。予備校のパンフレットには盛んに合格者に占める当該予備校の利用者の比率を掲げるが、不合格者に占める当該予備校の利用者の比率を掲載している予備校のパンフレットにお目にかかったことはない。これでは巷に氾濫する健康食品のCMと何ら変わらないではないか。予備校利用者の多くは予備校が編集したテキスト(中身を一瞥すれば、学者の執筆したいわゆる基本書の抜粋を継ぎ接ぎしたもの)に依拠して、たまに基本書を見る程度。判例の知識も、当のテキストにまとめた事案と判旨を暗記しただけで試験にのぞむ。それでも受かる者もいることは確かだし(ということは、その程度の試験であるということの何よりの証左なのであるが)、それゆえ「効率的な」勉強法として重宝されるというのが実態であった。

 

 そうした予備校依存型の勉強の問題点が指摘されはじめ、法科大学院設置・新司法試験導入(新制度導入された数年間は旧司法試験も合格人数を絞って細々を続いていたが)という結果に至った側面も否定できないものと思われる。事実、司法試験の論文式試験における「金太郎飴答案」に辟易した試験委員の声や、予備校のテキストに書かれていることのみを鵜呑みにして、あとは自分で調べもせずに安易な結論を出したがる風潮に危惧の念を表明する最高裁判所司法研修所の教官を担当した者の意見が紹介され、旧試験制度の問題の克服が叫ばれもした。とはいえ、新制度がうまく機能しているとまでは言えない現状から、新制度導入を「改革の成功例」として結論づけることは到底できそうもない。合格者増員もあって、導入直後には旧制度で合格した者からは新制度での合格者の「質」を疑問視する声もあり、露骨に旧制度と新制度の合格者に差を設ける者まで現れた。


 僕から言わせれば、旧制度であろうと新制度であろうと、上質な者などほとんど存在しないし存在しなかったし、のみならず、これからも存在しないであろうと思われるが(そもそも最も優れた頭脳に恵まれた者が法曹なんぞになるわけがない)、些細なことであろうと差をつけなければ安心できない者らが存在することは、社会の有様をみるだけでも十分予想できることだ。したがって、今後もとるに足らない些細な差異を殊更針小棒大に評価し、何かにつけて他人との差をつけずには自尊心を満足でいない人種がまたぞろ湧いて出てくることは火を見るより明らかなことである。

 

 但し、ここ何十年の試験問題を一瞥するに、こと試験問題の「質」に限っては明らかによくなっているものと思われる。昔なら、単に覚えたことを吐き出すだけの一行問題や一読しただけで論点丸わかりのパターン化された事例問題が目立ったが、現在の試験問題は、比較的長めの文章で具体的な事案を出し、法的問題の抽出過程から問う問題がチラホラ見受けられ、どの論点について書けばよいのかがほとんどそのまま書かれている類のご丁寧に整理された問題は少なくなっているだけでなく、重要判例の射程を意識せざるをえないような、つまり判例の事案そのものではなく、そこから事案を少しずらすなどして当該判例の今後持つであろう意味への自覚を問う良質な問題も中には含まれている。単なる予備校の模擬試験問題なのか、それとも本番の試験問題であるのか、ここには大きな隔たりがある(その意味では、試験委員は優秀な人たちのだと思われる。もっとも、受験生の出来が悪いためなのか、「誘導」の類の説明が付加されている問題もあるので、一概にそう結論づけることは乱暴かもしれないが)。

 

 もちろん、問題の「質」によって合格者全体の「質」を直ちに云為することはできない。一定数の合格人数が予め決められた上での相対評価の試験なので、たとえ問題の「質」が良化しようとも合格水準とみなされる答案が酷い有様なら事態は何ら好転しているとは言い難いからだ(想像するに、合格者の答案の正味の出来はといえば、ごく一部を除いて惨憺たる有様であろう。昔、東京大学入学試験問題の数学の採点作業に従事したことのある教員が言っていたことだが、合格者の答案は相当甘めに採点しているとのことで、シビアに採点すれば大幅に減点される者が大半だったらしい)。

 

 COVID-19の影響で国家公務員試験総合職(少し前までは国家公務員試験Ⅰ種)の試験日が再延期されるという。本来なら今頃、一次試験の多肢択一式試験の合格発表を終えて二次試験の論述式試験が行われている時期であろう。来月に控える人事院面接を終えて最終合格発表がなされた直後に「官庁訪問」が始まって本格的な「就職レース」となるわけだが、今年は事情が違って再延期されるということのようだから、各省庁としてもスケジュール的に相当厳しい状況に追い込まれるだろう。というのも、夏頃から各省庁で来年度の概算要求の作成が始まるだろうし、秋頃には来年1月からの通常国会対策の準備に取り掛からないと間に合わなくなるだろうし、ましてや臨時国会が開かれたものならその対策にも追われることになる。優秀な人材が民間へ流出しないよう早めに採用業務を行いたいという思惑も当然あるのだろうが、やはり各省庁の多忙な時期を避ける意味もあってこの時期に試験日をセッティングしているだろうから、てんやわんやの騒動になるに違いない。

 

 以前の国家公務員試験Ⅰ種(法律)の専門科目に関しては、司法試験の難易度より格段に易しいが、国家公務員の総合職試験として大学院修了者区分が別個に設けられたのは、明らかに法科大学院修了者の流入が急激に増加したためであろうから、その分、こと法律の専門試験ではそれなりの実力者も参戦することになる。とはいえ、司法試験と国家公務員試験の上級職の法律の試験といっても、法律を勉強する仕方が根本的に異なるものとは思わないので(今はどうだか知らないが、僕が受験した国家公務員試験Ⅰ種(法律)の専門試験の論述式試験は、六法の持ち込みが許されていなかったので、逆に誰もが知るような頻出条文に絡む問題しか出題されなかったわけで、超典型論点さえおさえておけば何とかなるような試験であったのに対して、司法試験の論述式試験はそうとは言えないという違いはもちろんある)、僕の法解釈学の初歩を学ぶ際にとった手法を述べてみたい。

 

 僕が「法学入門」として手に取ったものは、我妻栄民法案内1-私法の道しるべ』(勁草書房)だったと記憶している。随分昔に出版され、その後は長く絶版状態であったものが復刊されたのである。概念法学の影響が強い日本の法学教育は、そうでない米国のそれとはおよそ異質な面が際立つけれど、我妻栄も本書の「はしがき」に記しているように、法学の学修にはまず法律が社会の中でどのように生きているかということをおぼろげながらでも理解することが先決であって、例えば民法でならパンデグテン方式によって編成されている各条文を頭から勉強していくということはかえって遠回りである。「使える知識」として定着しないからだ。

 

 ちなみに、この我妻の書にある「私の勉強法」だったかに面白い記載があるので、ゲラゲラ笑いながら読むといいだろう。それは安倍晋三の祖父である岸信介との学生時代のエピソードである。その内容を掻い摘んで言うとこうである。岸信介東京帝国大学法学部において我妻栄や三輪寿壮らと首席を争う友人であったことは知られているが、我妻栄岸信介は旧制第一高等学校入学時には特に親しい間柄ではなかったというのである。その理由は、我妻栄が一番で合格して岸信介がビリから三番で合格したからではないとわざわざ書くあたりが我妻の嫌らしさで、さらにこうも書くのである。入学して以後、岸はメキメキと頭角を現していき三番に躍り出たことから急に親しくなったとまで言うのだ(これを読んだ時、我が国の民法学者として最高の存在である我妻栄までが席次で友人を決めていたのかと思って愕然とした。「おいおい、とっつぁん随分とクズなこと言いやがるなあ」と。とはいうものの、やはり『民法講義』(岩波書店)や『近代法における債権の優越的地位』(有斐閣)は、我が国民法学の金字塔であることに変わりない)。なお、岸は旧制高校時代は芝居に興味を持ったり、思想家北一輝のもとを訪れたりと、我妻と違って学校の勉学以外の多方面に興味関心をもって行動していたのであって、必ずしも出来が悪かったというわけでも何でもないの。

 

 米国のロースクールでは先ず契約法や不法行為法の学修から始めるようだ。僕も民法の基本書を最初から読んでいくことはせずに、債権の発生原因のうちの主たる二つすなわち契約や不法行為を中心に勉強していった。いわゆる債権各論の勉強から始めたわけである。もちろん、完全にわかるわけではない。それというのも、結局は民法総則や債権総論などを理解しないとわからないところが多々存在するからである。ただ、契約が履行される典型的なケースを頭に入れて、そこからの逸脱としてのケースがどのようなものかを考えつつ、典型的な場合と歪な場合とがどういう理由で腑分けされていくのかを幾通りのケースを参照しながら学んでいくという方法を採った(訴訟にまで発展するということは、概して歪なケースとなった場合だろう)。そうやって具体的なイメージをつかんだところで、民法総則を読むなり債権総論を読むなりして、当初わからなかったところや更に深く理解すべきところを学修して知識を定着させるようにするといった段取りで進めていったのである。

 

 このように、僕の法学の勉強は主として民法から始めたのであるが、今から振り返っても決して間違ったやり方ではないと思っている。「リーガル・マインド」というものの中身をどう考えるかにもよるが、民法の中でも「契約」から始めるのは、この「リーガル・マインド」を身に着けるのに格好だと思われるからである。各法によって独自の考え方もあるが、法解釈の基本にある要件・効果・事案へのあてはめの要素・過程の一々を確認しながら勉強するのに最適なのはやはり民法であろう(ただ基本六法の中で最も好きだったのは、評判の悪い「眠素」こそ民事訴訟法だった。憲法と比べたらはっきりするが、民事訴訟法が一番理論的に思えたからである。好きが講じてドイツの民事訴訟法学も特にレオ・ローゼンベルクによる証明責任規範論のところに興味があって読んだものである。このローゼンベルクという人は物凄いキレ者で、確かこの証明責任規範論で21歳の時に博士号を取得したはず。論理的に首尾一貫した理論構成になっていて、現在の日本の民事訴訟実務での通説がいかに論理の点でハチャメチャであるかがよくわかるし、法科大学院教育にも導入されているらしい要件事実論も機能的ではあっても理論としては欠陥含みであるかもよくわかった)。

 

 後は、定評のある基本書を何回も読む作業を怠らないこと。一度目はざっと流して全体の流れを概観して略画を描くノリでイメージを形成していく。ついで、じっくり読み込んで、できるだけ正確に理解することに努める。その後は、ざっと読み返してみて、それまでに形成されていた略画的イメージから今度は密画を描くが如く情報を詰め込んでいく。この三段階の読書によって正確な理解に到るはず。その際、最重要な判例に関しては、基本書でまとめられたような事案と判旨を読んで事足れりと満足するのではなく、面倒であろうが判決文を丁寧に読む作業を怠らないことが肝要。中には、三行半の最高裁の判決文では全くわからないものがあるが、その場合は高裁の判決文を読む。本来は一審から読み始めるのが好ましいだろうが、さすがにロッキード事件丸紅ルートの判決文を一審から読んでいくのはつらいものがあるだろうから(ちょっとした電話帳並みの分量になる)、すべてにわたって一審から読むべきであるとまでは言えない。

 

 ただ、そうであっても、『判例百選』でごまかすのではなく、せめて『最高裁判所判例解説』を読んでいくべきと思われる。『最高裁判例解説』は最高裁調査官により執筆されたものなので、実質的に最高裁の判決文を草案を起草しているこの調査官の解説によって最高裁としての考えを理解する(最高裁調査官は、我が国の法曹界で飛び切りのエース級人材で、将来の最高裁判事の有力候補である)。のみならず、最高裁の解釈とは異なる解釈を提示する有力な学説にも丁寧に触れている解説なので、最高裁の見解と学説との分かれ目の理由が奈辺にあるのかなどの理解には必要欠くべからざるものである。

 

 加えて、判決文に引用されている判例にも注意しておかねばならないだろう。単に基本書を読んでいるだけでは思いもつかない、一見無関係ではないかと思えるような判例最高裁がわざわざ引用していることもあるからである。この一見無関係に見える判例の引用から、当該判決を導く際の最高裁なりの論理が理解されることもあるのだ。こういうところは、予備校のテキストをいくら読んでもわかるわけないのである。