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『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

20世紀の哲学の幾つかの潮流に見られた特質の一つとして、哲学的営為と芸術作品との接近が挙げられるかもしれない。もちろん、それ以前の哲学にも芸術を論じるものは存在したが、それらは得てして、自らの哲学的見解を通した芸術作品に対する美学的分析という域を出るものではなかった。20世紀の哲学の幾つかの潮流と芸術作品との接近とは、そういう以前に見られた現象とは異質な性格を持っている。それは、哲学者が論じるべき対象としての芸術作品を眼前に定立して、これを分析のふるいにかけて料理するというものとは違って、芸術作品の生成や芸術家の創作体験に存在者の存在の開示のされ方として接近していった。その典型が、フッサール現象学の圏域にあって思考を始めたマルティン・ハイデガーであったり、モーリス・メルロ=ポンティであったりするだろうし、その圏域にはいなかったジル・ドゥルーズを挙げることもできるかもしれない。

 

もっとも、20世紀の哲学における一部の潮流に見られることであって、それとは逆に、芸術とは無縁の哲学的営為の方が寧ろ主流を占めていたとさえ言えるだろう。分析哲学系の潮流もそうだし(分析哲学の思考フレームを用いた分析美学というジャンルがあるものの、これは哲学というより美学に位置づけた方が正確かも知れない)、それと密接な関係を持つ科学哲学や論理学も、基本的には芸術とは無縁である。イスラエルの哲学の主流は、この方向性の極端な形態と言えるのかもしれない。イスラエルの哲学界は、数学・論理学・計算機科学・物理学と結びついた哲学研究が盛んで、古くは名著『空間の概念』や『量子力学の哲学』で知られるマックス・ヤンマーが有名だし、統計的因果推論やベイジアン・ネットワークの進展に寄与したジューディア・パール、確率論の哲学のイタワール・ピトフスキー、幾何学的安定性理論に貢献したエウド・フルジョウスキー、数理論理学者で暗号理論でも有名なマイケル・ラビンといった面々が陣取っている。

 

ロベルト・ムジール『特性のない男』と言えば、よく哲学者が好んで引用する20世紀の代表的小説の一つであるが、なるほど確かに、この小説の中には哲学者を惹きつけるであろう幾つかの概念が所々に登場する。とりわけ、第一部第四章に出てくる「可能感覚」や「意識的ユートピア主義」という奇異な概念は、当時勃興しつつあった現象学の幾つかの概念との類縁性を持つかのように見える。この「可能感覚」という概念は、「現実感覚」と対になる概念で、これを「たいていの人がもっているあの現実的可能性に対する感覚」とは違って、「可能的現実性に対する感覚」や「存在するものを存在しないものよりも重視したりはしない能力」と位置づけている。

可能的体験や可能的真理は、現実的体験や現実的真理から現実に存在するという値を引き去ったというだけものではなく、少なくともその信奉者たちの意見によれば、なにかきわめて神的なもの、一つの炎、一つの飛翔、現実を恐れることなく、むしろ現実を課題として、虚構として扱う構築の意志と意識的ユートピア主義を含んでいるものなのだ。

ムジールは、「可能的なもの」を「神のまだ目覚めぬさまざまなもくろみ」とか「いまだ生まれざる現実」とか言い換えているので、彼の目もまた物になる前の物の姿に向けられ、我々が「現実」と呼んでいるものの「他でもありうる可能性」を模索していたことが伺われる。ここにおいて、「意識的ユートピア主義」という概念の持つ意味が明らかになっていく。この点に関して、ダニエル・デネット『解明される意識』(青土社)は、次のように評価している。

解釈を剥ぎ取り、厳密な観察に対する意識の基本的事実を露呈しようとする他の試み、例えば芸術における印象主義の運動とかヴントやティッチェナーらの内観主義的心理学と同様に、現象学は誰もが同意しうるような単一的に確定した方法を発見することができなかった。

と言い、現象学の失敗を宣告する。僕も、現象学存在論に対しては極めて否定的な立場なので(僕がフッサールについて肯定的に評価できるのは『論理学研究』第1巻までであり、後の見解に関しては是々非々といったところであるが、『デカルト省察』や『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』といった後期思想に関しては、多くの現象学研究者とは逆に、低い評価にならざるを得ない)、デネット現象学に対する評価に一定の共感を覚える者であるが、さすがに現象学と内観主義と印象主義とを一括して批判し去る点には同意できない。そもそも、現象学でいうところの意識経験と「心の哲学」における心的内容が同一であるかが自明ではないのに、こうした断定は乱暴に過ぎよう。

 

現象学的アプローチは、意識経験のうちの還元不可能な性質から出発する。出発点としての「生きられた経験」は、同時に還帰すべき原点でもある。これは一般的意味での心的内容とは自ずと異なる。人間的経験の生き生きした性質を反省によって再発見することが根本モチーフとなっており、フッサールの格言「事象そのものへZu den Sachen selbst」は、三人称的対象化による世界への対向以前の直接に感受されるままの経験された世界(生きられた世界)への「還帰」としての意味を持つ。フッサールデカルト省察』では、

超越論的エポケーという現象学の基礎的方法は、われわれを超越論的な存在への基盤(すなわち純粋自我がその意識体験の存在へ)立ち帰させる限りにおいて、超越論的-現象学的還元と呼ばれる。

といい、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』も、「還帰」という表現を用いて説明する。

事象そのものへ還帰することは、知識に先立つ世界、知識がいつもそれについて語っている世界へ還帰することであり、その生の世界に対して科学的図式は抽象的で派生的な記号言語に過ぎないのである。例えば地理学は、われわれがあらかじめ知っていた田園地帯の森の草原や川への関係なしにはありえなかったであろう。

フッサールは、この「現実」の存在を暗黙のうちに無条件に措いて、かかる我々の日常の構えを「自然的態度」と呼び、この「自然的態度」を一度判断停止(エポケー)して現実の事物をこのように現出させている意識の志向性に立ち返って事物をその生まれ出る状態で捉えようとした。このための方法が、「現象学的還元」と呼ばれる能作である。この能作によって、「自然的態度」での経験が新たに見直されてくる。とはいえ、この能作は、別の新たな世界を考察するものではなく、あくまで通常の経験ある種の二次的経験として捉え返す作業である。反省の対象に対する信憑を一時的に留保し、現実に存在するとされているものの存在措定を、及びそれを可能にする判断のための枠組みを、「括弧に入れる」。こうした判断の停止(エポケー)は、だからといって、思考そのものを停止することを意味するわけではもちろんない。日常的な判断に向けられていた思考をそれ自身の発生源へと振り向けるという自己誘発的能動的能作である。

 

フッサールは、同時期に詩人ホーフマンスタールの講演「詩人と現代」を聴講した時、ホーフマンスタールの説く反自然主義的純粋芸術と現象学的還元による本質直観との類縁性に感心したという。フェルディナンド・フェルナンによって著され、木田元によって訳された『現象学表現主義』(講談社)がこの辺の事情を教えてくれる。この書は、現象学運動の哲学的動機を知る上においても参考になるだろうし、これと併せて新田義弘『現象学』(講談社)や同『現象学とは何か-フッサールの後期思想を中心として』(講談社)を読めば、フッサール現象学についてのスタンダードな理解を掴み、そこから直にフッサール等の現象学研究のテクストに向かうための足掛かりを提供してくれることになるだろう。

 

間違っても、「お手軽な」入門書の類いには手を出してはならない。最初に明らかに誤った知識が身についてしまうと、後で修正するのが大変になるからだ。誰とは言わないが、ほとんど独り善がりの解釈を、さも唯一の正しい解釈であるかのように吹聴し、専門でもないものまで「入門書」を書きまくっている文芸批評家の「読書ノート」擬きの著作を読んで理解した気になるのは、最悪のコースである。もちろん、「哲学すること」自体に「専門家」など存在するわけないので、哲学科を出た「専門家」の講壇解釈のみが正しいというつもりはない。と同時に、細分化が進む今日の哲学研究におけるスタンダードを一応弁えておかないと、独善的で狭量な視野を絶対視してしまうトンデモな方向へと誘われてしまう。相応の評価を専門家から得ている「入門書」に手を出すべきだろう。

 

この点、新田義弘の先の二著は、現象学研究者の中でも定評のある研究書であり、入門書という域を超えているところもあるが、スタンダードな理解が整理されている分、入門書としても十分に機能するだろう。木田元現象学』(岩波書店)も、フッサールハイデガーサルトルメルロ=ポンティをコンパクトに解説した上に、当時の世相を反映してか、最後にわずかではあるが、チャン・デュク・タオの『現象学弁証法唯物論』にも目配せしている良書ではある。ただ、いかんせん、分量的に物足りない。斎藤慶典『思考の臨界-超越論的現象学の徹底』(勁草書房)も入門書とは言えないが、学説の整理もされているので、著者の思考の軌跡を辿りながら、現象学的思考を身に着けていくには格好の素材となっている。フランスにおける現象学の動向について知りたければ、ベルンハルト・ヴァルデンフェルスによる名著が『フランスの現象学』(法政大学出版局)として訳されているので、現象学研究の大家によって整理されたサルトルメルロ=ポンティやリクールやレヴィナスの営為が理解されるだろう。さらに雑誌「情況」で編まれた現象学特集が充実している。立松弘孝、新田義弘、渡邊二郎、田島節夫、木田元足立和浩といった面々の論考が読めるので、この存在は有難い。

 

数学や自然科学や社会科学の入門書にも時々見られるトンでも入門書で誤った知識が定着した者ほど、後にそれが誤りであることを頑なに認めようともしないのが、これまた厄介なことである。もちろん、解釈が分かれざるを得ないところもあるが、それなりの知見のある専門家なら、誰しもが明確に指摘できる誤謬に関しては、これを解釈の相違として済ますわけにいかない。例えば、相対性理論量子力学について論じる一般書の中には、そうした明らかな誤謬が紛れこんでいるものが散見される。哲学との関係では、ゲーデルの定理について触れる一般書がチラホラ散見される。こうした入門書で誤った知識を身につけるのではなく、ちゃんとした薄い分量の著書もあるわけだから、それを読めばいい。例えば、林晋・八杉満利子の訳・解説によりなる『ゲーデル不完全性定理』(岩波書店)の解説部分もいいだろうし、竹内外史ゲーデル』(日本評論社)だって、かなり縮約されて要点が書かれているので、読むスピードがある程度速い人なら、数分で読み終えてしまうだろう。

 

だから、入門書の類いを手に取るにしても、その際は、当該分野において相応の業績を残している専門家ないしは当該分野で相応の実力者と、専門家集団で定評を得ている者によって書かれたものであるかを確認してからにしないことには、完全にデンパ系の世界にトリップしてしまう危険があるのだ。なお、竹内外史のProof Theoryは、ゲンツェンのLK(エルカー)の体系を説明した上で、そのカット消去定理を有限の立場から証明することを通じて、実数論の無矛盾性証明を得ることを示した名著であり、ヒルベルト形式主義のプログラムの全体像を理解するのに必要欠くべからざるものであり、ゲーデルの定理の意味を理解するのに資するはずである。幸い、竹内外史・八杉満利子『証明論入門』(日本評論社)が復刻されているので、先ずは、そこからチャレンジすれば無理なく理解に届くはず(僕が好きなのは、『線形代数量子力学』(裳華房)という小編。これも有限の立場から、無限次元ヒルベルト空間を導入せずして量子力学を再定礎するモチーフに貫かれた書物。最後の量子論理についての考察も面白い)。

 

閑話休題。1930年代中頃、ちょうどハイデガーナチスの党員として就任していたフライブルグ大学総長を短期で辞任した直後に著した『芸術作品の起源』は、ドイツ観念論の美学や後の新カント派の美学思想を批判する形で芸術作品によって開示される存在論を展開している。

この靴の穿きふるされた内部の暗い穴から労働の歩みの厳しさがじっとのぞいている。この靴の頑丈な重さのうちには、荒涼とした風の吹きすさぶ畑のなかにどこまでも遠く延びた単調なあぜ道を歩むゆっくりとした足どりの粘りづよさがたくわえられている。革には土壌の湿り気と飽和が浸みこんでいる。踵の下には暮れかかる夕べの野道を行く淋しさが忍びこんでいる。この靴のうちには、大地の無言の呼び声と、熟れた穀物を贈ってくれる大地の静寂と、人気のない休耕時の寒々とした畑にみなぎる大地のゆえ知らぬ拒絶とが響いている。嘆きをもらすわけではないが、パンを確保しようとして心を砕く心労、またもや苦難を切り抜けることができたという言葉にならぬ喜び、出産が近づいた時のおののき、死に脅える戦慄が、この靴を通り抜けてゆく。この靴は大地に帰属し、農婦の世界のうちに保護されているのである。

芸術作品も一個の物であることに変わりがないし、我々の生活に有用な一つの道具であるという性格を持つが、物としての側面や道具としての側面からだけでは芸術作品の本質を捉え損ねるとハイデガーは言いたげである。のみならず、芸術作品のうちで、逆に物とは何か道具とは何かという意味が開示されていくのであるとまで言わんとしているかに見える。ハイデガーが取り上げるファン・ゴッホによって描かれた一足の農婦の靴の絵に向ける視線に先は、ゴッホの絵に直接描かれた靴の存在だけではなく、その靴が属している農婦の世界を開示し、その世界から立ち現れては再びひきこもうろうとする大地の存在である。ここに、『存在と時間』で記された「世界-内-存在In-der-Welt-Sein」との連続と断絶の両面を見ることは容易い。このハイデガーと似たようなことをメルロ=ポンティも言い残している。その『眼と精神』には、次のような記述がある。

ラスコーの洞窟に描かれている動物は、石灰岩の亀裂や隆起がそこにあるのと同じふうにそこにあるのではない。といって、それらの動物がどこかほかのところにいるというわけでもない。この動物たちは、それらが巧みに利用している岩の少し手前、あるいはその少し奥に、しかもその岩によって支えられながら、そのまわりに放散しており、目に見えないその繋索を引きちぎることはないのだ。

この、単なる物を視ることではない、物になっていく組成を、メルロ=ポイティは「想像的組成」と呼んだ。芸術は、身体とこの世界との関係としての存在の謎を増幅させて見せててくれるものである。メルロ=ポンティ『知覚の現象学』は、次のように述べる。

意識とは、身体を媒介にした事物への存在である。ある運動が習得されるのは、身体がその運動を了解したとき、つまり、身体がそれを自分の<世界>へと合体したときである。そして自分の身体を動かすとは、その身体を通じて諸物をめざすこと、何の表象もともなわずにその身体に働きかけてくる諸物の促しに対して、身体をして応答させることである。したがって運動性とは、あらかじめわれわれに表象されてあった空間上の点へと身体を運んでゆく、意識の奴婢のようなものではない。われわれが自分の身体を或る対象に向かって運動させることができるためには、あらかじめその対象が身体にとって存在しているのでなければならない。したがって、われわれの身体が<即自>の領域に属さないものでなければならない。先行症患者の腕にとっては、もはや対象は存在しないのであり、このことゆえにこそその腕が動かせないのである。純粋な先行症の症例では、空間知覚は冒されておらず、それどころか、<なされるべき所作の知的観念>さえも曇らされていないように見えるが、にもかかわらず患者は三角形を模写できない。これらの症例によって、身体は自分の世界というものをもっていること、対象とか空間とかはわれわれの認識には現前してもわれわれの身体の方には現前しないこともありうること、こうしたことがよくわかるであろう。

ここでは、身体そのものが世界を持つことが指摘されており、身体とは、「いま」と「ここ」として、私を世界の中に位置づけることである。身体がある行動を了解するとき、すでに共同存在が開かれている。更に、後期になると、身体という「生地」でできた世界を織り込む二重の可視性や可感性を、メルロ=ポンティは<肉chair>と呼ぶようになる。

私の身体が世界と同じ肉でできているということ、そして、さらに私の身体のこの肉が世界によって分かちもたれており、世界はそれを反映し、世界がそれを蚕食し、それが世界を蚕食しているということ。

私と世界が内と外とに二重化し、物が(その内と外とに)二重化することによって実現される私の身体と物との交叉配列。世界が私の身体の二枚の花弁のあいだに挿入され、私の身体がそれぞれの物や世界の二枚の花弁のあいだに挿入されるということが可能なのも、こうした二つの二重化がおこなわれるからである。

ハイデガーにおいても、メルロ=ポンティにおいても、芸術作品への接近は、存在論としての意味を持っていた。