shin422のブログ

民族派右翼による「便所の落書き」擬きの極私的備忘録

オススメ4冊

 第87回東京優駿日本ダービー)は前評判通り、コントレイルの圧勝に終わった。今年はCOVID-19の影響で無観客レースだったようだが、ネット上にアップされているレース映像を視るだけで、コントレイルは4コーナーから直線に入って間もなく集団から抜け出し、ぐんぐんと後方との距離を開けていき楽にゴールするという典型的な「強い馬」の勝ちっぷりだ。かつてのデュランダルのように最後方から一気にゴボウ抜きして全頭を蹴散らして勝つというレースも面白いし、逆にメジロパーマーのような大逃げを演じたり、横山典弘の名騎乗冴え渡った春の天皇賞でのイングランディーレの「一人旅」を見るのも悪くはないが、やはりこういう「ザ・王道」という勝ちっぷりをみるのは爽快である。生まれる前だから当然直接目にしたことはないものの好きな一頭でもある「皇帝」ことシンボリルドルフも強い競馬をしていた(一番好きな馬は、秋の天皇賞で悲劇の死を遂げたサイレンススズカで、当時の映像は今でも見返すことができない)。

 

 コントレイルの今回の勝ちっぷりだけからは即断できないが、父ディープインパクトの残した偉大な事績を継承することができるのか楽しみだ。当面は秋の京都競馬場で開催される菊花賞で三冠をゲットすることに目標が絞られるのだろうが(その前に、阪神競馬場での神戸新聞杯あたりで一叩きするかもしんないが)、果たして距離3000mにもなる菊花賞に勝てるだけのステイヤー的な資質も持つのかも含めて愉しみである。素直に考えれば、菊花賞ジャパンカップ有馬記念というローテーションを視野にいれているのだろうが、ディープインパクト三冠馬になったばかりの年の有馬記念ではハーツクライに敗れた波乱もあったわけだから、いくら強いといってもそうそう油断してはいられないことも確か。米国にも競馬はあるのだが、日本の競馬文化とは些か異質で、こと公営ギャンブルとしての文化総体で見るならば日本の方が発展しているとみるのは身贔屓過ぎるだろうか。

 

 同日、競艇のSG第47回ボートレースオールスターの優勝戦が「競艇のメッカ」住之江競艇場で開催された。僕は昔の名称である笹川賞競走(正確には「日本モータボート競走会会長杯争奪笹川賞競走」という長ったらしい名称らしいが)の方が好きだが、なぜ通称であれ名称を変えてしまったのだろうか。競艇好きの者ならたいてい「笹川賞」の名称を好んで使うと思われるのだが(別に競艇の創設者である笹川良一を敬しているわけではない。右翼活動家として一定の敬意は抱いているものの、僕の思想は笹川良一や弟分である児玉誉士夫の思想とは幾分か異なる。戦後日本のある時期は東西冷戦の最中で、日本ではソ連中共あるいは北鮮の息のかかった左翼勢力の勢い甚だしく、これに対する反共のための防波堤として米国の意向に付き従わざるを得なかったことは理解できる点もあるが、晩年にCIAのエージェントとして動いたことを後悔したとはいえ、対米従属路線の転換を図らなかった点において、やはり民族派としては看過できない方が大きい)、これは年末のグランプリにも言えることで、昔のように賞金王決定戦の方がよほどしっくりするので元に戻してもらいたい。ついでに言うと、ファンファーレも昔の方がよい。下手にいじくりまわすとロクなことはないといういい見本である。

 

 ともあれ、「石野信用金庫」との愛称を持つ石野貴之のファンである僕としては、石野が準優選進出を逃した時点でゲンナリしたわけだ。去年の住之江で行われた賞金王決定戦は一瞬ヒヤリとする場面もあったが、優勝を決めたときはニューヨークから快哉を叫んだものだ。石野は、やる気のない時は「なんじゃこりゃ?」というほど酷いレースをする一方、ここぞという勝負時には俄然実力を出すというメリハリに富んだ選手だから、舟券購入にあたっても買い時と捨て時とがはっきりしている。特にカド位置からの大胆な捲りを決めた時は爽快である。エンジンの整備力やプロペラの調整力も凄い。しかも、大阪人らしくお道化たキャラも憎めない。元々、高校までは野球部であったらしく、しかも甲子園に度々出場する強豪校近大附属高校野球部で主将を経験していたほど。競艇選手であった父親から大学進学を勧められるも、大学なんぞに興味を示さず一か八かの勝負の世界に飛び込んだところも好感が持てる。いずれにせよ優勝した篠崎仁志には祝福を申し述べたい。ともすれば兄弟の元志の方が注目されがちだったこともあるし、SG初制覇ということもあって喜びも一入ではないだろうか。しかもここ5年程は住之江では一般競争での優勝が1回あるだけで、G3以上のタイトルとは無縁だったので、今回のSGでの優勝は当人にとっても劇的な経験であったに違いない。

 

 十代の頃は特に博徒に強い憧れを抱くほど博打好きな僕にとって、日本の環境は最高に近い環境だったと言える。競馬、競艇、競輪と公営ギャンブルは365日どこかで開催されているし、パチンコもスロットも優良店こそ少なくなっているものの、店さえ間違えなければコンスタントに稼ぐことができたわけで、年間2、3百万円のプラスの小遣い収入が安定して得られたわけだ。カジノこそないけれど(裏カジノは結構な数あるのが実態だけれど)、カジノでどうせ大金賭けるのなら日本国内でなくともマカオシンガポールにいけばいいわけだし、ショボいカジノでもよければ韓国に行けばいい。IR法で日本にもカジノリゾートの誘致合戦があるわけだが、果たして日本においてカジノが繁盛するのかと言われればかなり怪しいのではないだろうか。そのカジノ構想のとばっちりを喰らっているのがスロット規制強化の流れであろう。まだパチンコはましな方で、スロットに関する規制は年々厳しくなっており、これは明らかにIR法に連動しているはずだ。

 

 と言いつつ、注文していた書籍をじっくり読む時間が確保できそうなので、後はどこでそれらを読むかが問題。あるテクストをどういう時にどういう場所で読むかによって得られるものが若干違ってくるし、理解度も自ずと違ってくる。例えば、モンゴルの大草原に立てられたゲルで、M&Aだの証券化・流動化、PFIあるいはデリバティブを使った仕組みファイナンスなどのファイナンス手法がどうちゃらこうちゃら言われても、全くリアリティのかけらも感じられないから、読んだところで馬耳東風となるだろうし、ドバイのブルジュ・ハリファのてっぺんでハイデガーの『杣径』を読んでも「なに言っての?このとっつぁんは」という感じになってしまうだろう。砂塵の舞うサハラ砂漠のど真ん中や水没するやもしれぬツバルの海岸で、和辻哲郎倫理学』(岩波文庫)の悠長な話は通じない。渋谷のアトムで踊り狂いながら堀辰雄風立ちぬ』なんか読もうものなら、自己嫌悪に陥りそうになる。Le vent se lève, il faut tenter de vivre.なんて言ってられない。ミラーボールの照明に照らされながらセックスに猛り狂う妄想が勝ってしまうわけだ。対して、学校や職場で廣松渉『役割理論の再構築のために』(岩波書店)を読めば、妙にリアリティが感じらるし、徹夜で友人と飲み明かした宴の後の帰路であればこそ、なおのこと大森荘蔵『時は流れず』(青土社)がスッキリ頭に入ってくるかもしれない。

 

 アルチュセールの言った意味とは少々異なるが、イデオロギーというのは純然たる観念の作用じゃなくて、ある種の「イデオロギー装置」とともに働く極めて物質的なものである。アルチュセールが例に挙げていたことだが、教会というある種の「イデオロギー装置」があるために、その空間では「敬虔な」感情が沸き起こるのである。伊勢の神宮の神秘性も、あの鎮守の森から参道に零れ落ちる光が醸し出す雰囲気と無縁ではない。仮に、境内が西成の釜ヶ崎の中の三角公園のような所だったら、果たして西行法師が「何事の おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんてセリフを残したかどうか怪しい(もっとも、神宮は明治期に整備されて今日のような姿になっているので、西行法師が目にした神宮の姿がどんなものだったかは想像の域を出ない)。ましてや、一昔前のガングロ女子高生が履きふるした異臭を放つルーズソックスの片方が近くに脱ぎ捨てられていようものなら、敬虔な気持ちが湧き起ころうはずはない。テクストの読みも、いつ・どこで読まれるかによって多分に異なる意味に解されてしまうのだ。いわばテクストの放つ意味作用の「読み」の時間的・空間的規定性とでも言えようか。思想系テクストとなると多様な意味作用があるので(悪く言えば曖昧ということになろうが)、自宅で真夜中に1人で読むのとエッチしながら読むのとでは全く違ってくるだろう。

 

 届いた書籍をあくまでパラパラめくった感じではあるのだが、中でも明らかに面白いだろうと思われる数冊を紹介しよう。一冊目は、Quantum Worlds: Perspectives on the Ontology of Quantum Mechanics ,Cambridge UPだ。量子論は現代の物理学の多くを支えており、その発想の仕方は物理学の世界だけでなく様々な領域に及んでいる。20世紀の前半に大成された量子力学の恩恵を既に我々の社会は享受しているわけだが、今世紀はそれらと比較にならぬほどに「量子力学的知」が全世界を席捲することになることが予想さるている。特に、情報科学の分野における量子論の影響は計り知れない。情報科学と物理学との接点は、19世紀末期末のルートヴィヒ・ボルツマンの営為に遡ることができるのだろうが、最近では更に遡行して、17世紀の天才ライプニッツの哲学の構想がようやく花開いたと評価する向きもある。

 

 しかし、量子力学の解釈には多くの未解決のままの状態である概念的・哲学的問題があり、これらに関しては広範囲にわたる議論が見られる。この種の論文は、欧米やイスラエルでは特に量産され、玉石混交という有様である(日本ではほとんど見られないが、この分野にかけて日本はあからさまな後進ぶりを示している)。波動関数の意味、量子状態の性質、観測者の役割、量子世界の非局所性、あるいは量子領域からの古典性の出現などのトピックが目白押しだ。 物理学と哲学の分野の著名な研究者によって書かれた章を含むこの書物は、量子論の解釈に関連する問題の学際的かつ包括的な眺望を読者に提供してくれるだろうし、何よりも量子力学存在論に取り組む者にとって必読の論文集である(特に、テレアビブ大学のヴァイドマンの論文が面白い!特に波動関数存在論的身分に関するテーマを考えるにあたっての必読文献ではないだろうか。但し、僕としては彼の波動関数実在論とでも言うべき主張には同意できない)。

 

 二冊目は、Quantum Field Theory for Economics and Finance, Cambridge UPである。これは僕の仕事にも直結することなので、読むべき本の一冊として紹介されたものであるが、量子場理論の数学的ツールを経済学と金融にどのように適用できるかを紹介し、金融商品を設計するための量子力学的手法を提供するものである。一見して「胡散臭さ」がプンプンする香ばしさを醸し出しているが、最近はこの種の「量子ファイナンス理論」に関する論文が量産されていることは確かだ(日本ではあまりお目にかからないが)。特に、リーマン・ショック以後、ウォール街やシティではこの種の論文やレポートが読まれ始めており、これは既存の数理ファイナンス理論への信頼度への懐疑と相即しているのだろう。もっとも僕は、既存のブラック=ショールズ・モデルそのものが明確に誤っているとまで断言するつもりはない。問題はモデルの限界について意識的ではなかった点だ(MITのローのように、認知心理学的手法で以って理論を微修正するような方向性には同意できないが)。ましてや、もっと単純な二項モデルに沿って考えている連中が多い業界である。だとすると、2008年のリーマン・ショックの顛末の一因としてブラック=ショールズ・モデルに求めるのは相当な無理があり、金融工学をさして知りもしない者の吐くイチャモンの域を出るものではない。

 

 ともあれ、既存モデルの不十分を踏まえて新たなモデル構築に勤しむ数理ファイナンス業界のある種の何でもアリの「アナーキー」さは嫌いになれないわけである。言い方は悪いが、世界の中でそれなりの頭脳が鬼の形相で「博打」の研究に熱中して競争する姿は刺激的でもあることはもとより、それ以上に壮観かつ滑稽な光景を楽しめるのだ。ラグランジアンハミルトニアン、状態空間、演算子ファインマン経路積分といったアイデアは量子場理論の数学的基礎であるわけだが、これら一連のアイディアを資産価格の包括的な数学的理論を構築するために、数値アルゴリズムや資産価格モデルと非線形金利動向の研究に適用し、オプション、クーポン債、非線形金利動向、ハイリスク債券などの金融的トピックに量子力学的定式化が可能であることを示そうとする(うまくいっているかと言われれば疑問符がつく記載が目立つので、今のところなんとも言えないが)。見る人によっては「こいつ、ちょいイカれてるんでねえの?」ということになりかねない「ぶっ飛び」度があるので、国際金融の世界の住人でなくとも数学や物理学の知識に多少案内のある人でトリップしたい人にとって損はない書物だと言える。

 

 三冊目は、飯嶋裕治『和辻哲郎の解釈学的倫理学』(東京大学出版会)。前二書と全く趣が異なる著作だが、和辻哲郎の研究はこれまで日本の思想史的文脈に位置づける研究か、それとも単独の浮いた存在としての和辻倫理学の意義を説く研究が多かった趨勢であったものと思われる。この趨勢とはずれた所で、和辻倫理学を欧米の解釈学的哲学の文脈の中に据えた研究書となっている(もっとも、僕は民族派右翼を自認する者であるが、和辻倫理学に関してはその貴重な意義は認めるものの、最終的には思想上の「敵」に位置づけられる。しかし、「敵」であるからこそかえって入念にそのテクストにあたってきたつもりである。これは廣松渉にしてもそうである。廣松渉を優れた哲学者であると思うからこそ、「敵」でありながら廣松のテクストを子細に読み込んでいく作業を怠ってはならないわけだ。それにしても、晩年和辻倫理学に接近した廣松を扱っていないのが不満な点だ)。

 

 一見異なる思想体系のように見えて、実は通底し合うものがあることを見て、その文脈の中に位置づけると違った光景が見えてくる。まだ斜め読みしかしていないので、はっきりしたことは言えないが、本書の試みは、かつて現象学ハイデガーの哲学を英米の行為論の文脈に据えて解釈しなおした門脇俊介の営為を思い出させてくれる。英米の人間がハイデガーをドレイファス経由で理解する者が結構いるのだが、門脇もその例にもれず、ハイデガーの特にその基礎的存在論の箇所をアンスコムやデイヴィッドソンの行為論やブラットマンの議論とにも接続可能な思想として読み直す作業を試みている。

 

 飯嶋の著書も、和辻倫理学をそれ単独で見るのではなく、広く解釈学的文脈に置きなおしてそこから捉え返されるべき和辻哲郎の意義を明らかにしていく。議論も緻密であって、和辻倫理学研究の水準を一段高めたことは間違いなさそうだ。詳細な点についてはじっくり読み込まないことには言えないが、その思想史研究上の価値は、最近読み終えた三宅芳夫『ファシズムと冷戦のはざまで:戦後思想の胎動と形成1930-1960』(東京大学出版会)という良書と並んで強調されて然るべきだし(もっとも、僕と三宅では丸山真男三木清そしてサルトルへの評価が異なることも確かだ。しかし、そうした個別の評価なんかここではどうでもよく、思想史研究として優れていることは認めるしかないのである)、こういう労作に対する正当な評価がなされるべきとも思う。

 

 四冊目は、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)である。これも飯嶋や三宅の著書と同様、とにかく分量が多い。解釈の上に更なる解釈を、先行研究の上にさらにそれを研究する執拗さでドゥルーズのテクスト解釈に関して最近の研究には珍しい「古風な」文献解釈学を踏襲する堅実な注釈書である。先行研究が見落としていた視点や、著者のいうところの「誤読」を指摘するところも含め、「戦闘的」とも言える文体は意外と読みやすく、読む者を疲れさせない。もちろん、分析哲学に対する言及があるとはいえ(適切な箇所でラッセル『論理的原子論の哲学』を参照しているところなどは好感が持てるが、いかんせんライプニッツの理解には些か疑問符がつく箇所もある)、当然のことながら、ドゥルーズのテクストに対するのと同様の丹念な読みとなっているかと言われれば、やや拍子抜けという感もあるし、ドゥルーズ哲学が宇宙・世界の存在論的「革命」をモチーフとして「存在論アナーキズム」とでも言うべき立場を宣揚する思考であることの説得力はあるとはいえ、ドゥルーズ哲学はそのことに失敗しているのではないかとの疑いを持つ僕からすれば、あまりにドゥルーズにべったりに過ぎ、些かの距離を確保した上での批判的視角からの言及があってもよかったのではあるまいかという文句もある(この点は、じっくり読み込んでみないことには断言できないことではあるが)。はっきり言って、数学に関する知見は極めて乏しかったと言わざるを得ないドゥルーズの議論を無理繰り擁護する「護教論的言説」には閉口してしまう面もあるし、体論の説明も教科書的な文句が連ねられているばかりで、おそらくあまり理解していないのだろうなと思わせる箇所も若干存在する。

 

 とはいえ、その論証のスタイルから来る印象は、村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社学術文庫)のような、それこそ重箱の隅をほじくるような感じでもない(村上のこの書にケチをつけているのではない。文献学というのは、これくらい緻密な作業が要求されるということの見本のような優れた研究書であるという評価は揺るがない)。ただ一言すると、確かに緻密ではあるし、デカルトの思考において「観念」ということで何が言われているのかを詳細に見ていくことは極めて重要だが(デカルトに限らず17世紀西洋近世哲学において「観念」の持つ意味は注意深く見て行かねばならないわけで、例えばライプニッツにせよ「観念」を持つということで意味されていることは、脳内に心的イメージを抱いていることを意味するわけではなく力能を持っていることとの関係で意味される概念であって、デカルトにおいてもこの「観念」の意味が問われるのは当然のことである)、一種のリーディングスである『現代デカルト論集Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(勁草書房)に収録されている著名な論文を読んでいる時のような面白さはなかったということである(同じ専門書といっても、ベイサードやアルキエやゲルーあるいはマリオンのデカルト論は面白く読める)。

 

 AT(アーテー)版の編集をも批判するくらいの込み入った記載や、1630年の永遠真理創造説がどうちゃらこうちゃらという問題は、デカルト文献学にとっては重要なことなのかもしないが(この点が所雄章の著作を読んだ時のつまらなさと重なってしまうのである。もちろん所はデカルト研究の第一人者であるけれど)。これは渡辺一夫『François Rabelais 研究序説 : Pantagruel 異本文考』(東京大学出版会)が、僕のような素人読者からすれば全く面白くなかったことにも似ている。文献学的には凄い業績なのだろうけど、渡辺一夫の他の著作(とくに『世間噺後宮異聞:寵姫ガブリエル・デストレをめぐって』(筑摩書房)など)が面白いだけに古書店で手にした時はゲンナリしたものだ(とはいえ、思わず記念に購入したけど)。

 

 鹿野の著書は、そういうところなく読めるところも一般読者としては有難い。文献学におけるある種「王道」を行くその歩みは、かつての和仁陽『教会・公法学・国家-初期カール・シュミット公法学』(東京大学出版会)という傑作を想起させもする。今後のドゥルーズ研究はおそらく本書に対して無視を決め込むことはできないという意味で、ドゥルーズ研究の水準を一段高めたと言えるのだろうなあという予感が、パラパラめくるだけで強くなっていく。これまでドゥルーズ研究において、その重要性の割には言及されることの少なかった『意味の論理学』の注釈作業を通じて未だ明らかにされていない秘めたポテンシャリティが開示される。読みかけのJay RampertのDeleuze and Guattari's Philosophy of Historyと並べて読んで行きたい。

 

 ちなみにランパートの書は、ドゥルーズと歴史哲学という一見奇異に思えるテーマを敢えて設定して、歴史、時間、記憶にまつわる問題の考察のために、ドゥルーズ=ガタリの「歴史哲学」を抽出していく。このランパートの研究書は9つの章で構成されており、その第一章が歴史哲学の観点からドゥルーズのテクストに取り組むことの価値と妥当性について論じられており、おそらくここが最も重要な箇所であろう。ドゥルーズはこれまで西欧の歴史へのアプローチの仕方を常々批判を展開してきたし、歴史に還元できない「生成」と「出来事」に関心があることを明確に示してきた。ドゥルーズにとって、ヘーゲルハイデガーは精神または存在が必要性を発達させ「秘密の運命」が明らかにされた内面の形態として歴史を主張するという意味で歴史家であると考えたわけだが、逆にドゥルーズが「地理哲学」に訴えるとき、そこには必要性と起源の「カルト」から歴史を奪うことを可能にするからという思惑があった。出来事は非歴史的な要素になる必要があるというドゥルーズの考えを承知の上でランパートは、しかしドゥルーズの思考によって達成されたものを「歴史哲学」と見做すわけだ。

 

 もちろん、これまで盛んに論じられた『差異と反復』第二章にある時間の三つの総合という論点についての再検討も欠かさない。それが第2章から第4章にかけて行われる。周知の通り、時間の第一の総合は習慣の縮約された「現在」、第二の総合は過去と現在のヴァーチャルな共存(純粋過去として考えられた記憶の奇妙な時間としての「過去」)、そして第三の総合はニーチェ永遠回帰としての「未来」の信念である。これはちょうど第一の総合のヒューム、第二の総合の記憶のベルクソン、第三の総合の未来のニーチェに対応している。ただ僕に言わせれば、この第三の総合の箇所は相当怪しげな議論を展開しており、ニーチェ永遠回帰の総合は、存在論的側面において多分にベルグソンの色眼鏡を通した描像でしかないように思われる。ドゥルーズも薄々そう感じていたのかわからないが、『ニーチェと哲学』では第三の総合については触れられていないのだ。ともかくランパートは、ドゥルーズの「準因果」の概念のステータスや(第5章)、ヘーゲルの歴史哲学との比較(第6章)などを取り上げていて、ドゥルールのテクストへの新たな対し方を示してくれている。

 

 パラパラめくった段階にとどまるのではっきりしたことは言えないが、先行研究を大量に読み込んだ上に、それらを批判的に乗り越えて行こうとする野心が満々の著書であることは間違いない。英国のエディンバラ大学では、ドゥルーズ研究叢書のようなものが次々出されており、ジェームズ・ウイリアムズの一連の研究書など、英米で主流の分析哲学や科学哲学との応接可能性をも模索する試みもあるわけで(どこまで成功しているかは若干疑問もつくが。特にドゥルーズの時間論についての薄い研究書を読む限りではそのレベルに達しているようには思われない。プロトニツキも量子場理論や量子情報理論ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』の視点から読み込んでいく作業をし、そのために然るべき参照文献をおさえていて、いい線行っているとは思われるが、いかんせん牽強付会に過ぎるし詰めが甘い。これだとバターフィールドやアイシャムあたりから猛烈な批判が襲い掛かってくるだろうことが予想できる)、「ドゥルーズスタディーズ」が世界の哲学アカデミズムの一端において「市民権」を得てきている今日、日本発のドゥルーズ研究書として英語で出版されてもいいのではないか。「英語帝国主義」を追認するわけではないが、残念ながら日本語だげでのみ流通するだけでは、特にジャパノロジーを学んでいる者ならいざ知らず、そうでなければ誰も読んでくれない。日本だけで完結していては話にならないわけだから、ガンガン英語で書いて行くことが望ましい。

 

 著者は僕より若干年上だがほぼ同世代のようで、若さ故なのか、勢い余って國分功一郎東浩紀、千葉雅也、松本卓也、小倉拓也などの先行研究に対する幾分辛辣な表現もあるし(特に小倉に対する批判は、『カオスに抗する哲学―ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)だけでなく大学紀要掲載論文まで含めて頻繁に言及されており、ほとんど全否定と読めなくもない。とはいえ、谷沢永一的なほとんど罵詈雑言の嵐のような批判表現には遠く及ばず、全うな批判表現の域に収まっている。谷沢永一『論争必勝法』(PHP)を読めば、谷沢の論争相手に対する徹底的なこき下ろし表現ははなからケンカを売って出たものだった)、小泉義之訳『意味の論理学』(河出文庫)の幾つかの拙い訳に対する執拗な言及もあり(哲学や思想系の翻訳にありがちな学術的使用に耐えないような翻訳だとは思わないが、確かにいくつかの用語の訳出について、「あれっ?」と疑問符が付くような箇所がある。用語の訳出に一貫性がない面も目立つ。さらに、conjonctionやcontractionの訳についても誤訳ではないが、どうして敢えてそう訳したのか不明な箇所もある。前者はヒュームのconstant conjunction=「恒常的連接」という訳が定着しているconjunctionの仏語に該当するconjonctionであるわけだから「結合」とするよりも「連接」とした方が通りがいいだろうし、後者も「縮約」という訳が一般化しているので、それを敢えて「収縮」とする必要はないだろう)、その他にもやや気負いすぎの観がある文章が目立って、それが空回りしている面もあるが、そうした「血気盛んな」点も含めて本書の魅力なのかもしれない。さて、そのケンカを買ってやろうと応ずる者が現れるのかも含め、今後の展開が楽しみなところ。

 

 惜しむらくは、学術研究書であるにも関わらず事項索引がないという点だ。近年の岩波書店の編集方針なのか、岩波書店の研究書は編集上の手抜き作業の粗が目立つ。事項索引なき研究書は欠陥商品であるという意識が希薄になったのだろうか(もちろん、すべての学術書に事項索引が付されていないというわけではなく、わずかな例外もあろう。例えば、こうして書いている手の届くところにたまたま目についた一ノ瀬正樹『確率と曖昧性の哲学』(岩波書店)は、各学術誌に掲載された論文をまとめて編集した著書だが、「事項・人名索引」がきちんと付されている。その一方で同じ岩波書店から刊行された伊藤邦武『偶然の宇宙』には事項索引がない。同じ著者の『人間的な合理性の哲学-パスカルから現代まで』(勁草書房)は人名索引・事項索引が付されているのと対照的ではないか)。「古典」として扱われている作品や浩瀚な研究書には学術書に相応しい事項索引が付加されるべきなのであり、書誌学には「索引の研究」すら存在するほどなのである。

 

 かつて、岩波書店から刊行された『プラトン全集』は「総索引」だけで一冊の書になっていたくらいだし、Great Books of the Western Worldも充実した2巻にもわたる総索引にあたるSyntopiconが付けられている。この存在によって、各テーマに関してどういう論者がどこの箇所でどういうことを書き残しているかを探すことができ、研究にも資するようにできている。もちろん、この作業は膨大な時間と労力と資金が必要となるわけだから非常に面倒な作業となる。そこで最近の岩波書店をはじめ、各種学術書を出す出版社は手抜きをするようになってしまったわけだが、書物に対する「愛情」が欠けていると言わざるを得ない。多くの法学専門書や基本書を手掛ける有斐閣を少しは見倣えと言ってやりたい気分だ。一例を挙げよう。団藤重光『法学の基礎』(有斐閣)は体裁上「入門書」ということになっているが、実際は法学を一通り学んだ者を対象に、その学問的営為の基礎をなす思想にまで言及した高度な研究書としての位置づけであるので、事項索引、人名索引、判例索引いずれも充実している。手抜き作業をせず、地味な労苦を厭わない姿勢こそが編集作業の大事な仕事の一つであるのに、それをしていないのである。そういう欠陥商品である学術書ではあるが、それはともかくとして、我が国で出版された極わずかな哲学・思想研究の浩瀚ドゥルーズ研究の著作、それもアカデミックな作法に則った「正統派」の研究書が出たので、これから時間を見つけてゆっくり読んでいきたいと心躍りを楽しんでいる。