shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

オススメ4冊

第87回東京優駿日本ダービー)は、前評判通り、福永祐一騎乗のコントレイルの圧勝に終わった。今年はCOVID-19の影響で無観客レースだったようだが、ネット上にアップされているレース映像を視ると、コントレイルは4コーナーから直線に入って間もなく集団から抜け出し、ぐんぐんと後方との距離を開けていき楽にゴールするという、典型的な「強い馬」の勝ちっぷりだ。

 

かつての池添謙一騎乗のデュランダルのように、最後方から一気にゴボウ抜きして全頭を蹴散らして勝つというレースも面白いし、横山典弘の名騎乗冴え渡った春の天皇賞でのイングランディーレの「一人旅」を見るのも悪くはないが、やはりこういう「ザ・王道」という勝ちっぷりをみるのは爽快である。

 

今回の勝ちっぷりだけからは即断できないが、父ディープインパクトの残した偉大な事績を継承することができるのか、楽しみだ。当面は、秋の京都競馬場で開催される菊花賞で三冠をゲットすることに目標が絞られるのだろうが(その前に、阪神競馬場での神戸新聞杯あたりで一叩きするかもしんないが)、果たして、距離3000mの菊花賞に勝てるだけのステイヤー的な資質を持つのかも含めて、愉しみが尽きない。

 

同日、競艇のSG第47回ボートレースオールスターの優勝戦が「競艇のメッカ」住之江競艇場で開催された。僕は、昔の名称である「笹川賞競走」(正確には、「日本モータボート競走会会長杯争奪笹川賞競走」)の方が好きだが、なぜ通称であれ名称を変えてしまったのだろうか。競艇好きの者なら、たいてい「笹川賞」の名称を好んで使うと思われるのだが、これは年末のグランプリにも言えることで、昔のように「賞金王決定戦」の方がよほどしっくりするので、是非元に戻してもらいたい。ついでに言うと、ファンファーレも昔の方がよい。下手にいじくりまわすとロクなことはないといういい見本である。

 

ともあれ、「石野信用金庫」こと石野貴之のファンである僕としては、石野が準優選進出を逃した時点でゲンナリしたわけだ。去年の住之江で行われた賞金王決定戦は一瞬ヒヤリとする場面もあったが、優勝を決めた時は、ニューヨークから快哉を叫んだものだ。石野は、やる気のない時は「なんじゃこりゃ?」というほど酷いレースをする一方、ここぞという勝負時には俄然実力を出すというメリハリに富んだ選手だから、舟券購入にあたっても買い時と捨て時とがはっきりしている。特に、カド位置からの大胆な捲りを決めた時は爽快である。エンジンの整備力やプロペラの調整力も凄い。

 

しかも、大阪人らしく、お道化たキャラも憎めない。元々、高校までは野球部であったらしく、しかも甲子園に度々出場する強豪校近大附属高校野球部で主将を経験していたほど。競艇選手であった父親から大学進学を勧められるも、大学なんぞに興味を示さず、一か八かの勝負の世界に飛び込んだところも好感が持てる。いずれにせよ、優勝した篠崎仁志には祝福を申し述べたい。ともすれば、兄弟の元志の方が注目されがちだったこともあるし、SG初制覇ということもあって、喜びも一入ではないだろうか。しかも、ここ5年程は住之江では一般競争での優勝が1回あるだけで、G3以上のタイトルとは無縁だったので、今回のSGでの優勝は当人にとっても劇的な経験であったに違いない。

 

十代の頃は、特に博徒に強い憧れを抱くほど博打好きな僕にとって、日本の環境は最高に近い環境だったと言える。競馬、競艇、競輪と公営ギャンブルは365日どこかで開催されているし、パチンコもスロットも優良店こそ少なくなっているものの、店さえ間違えなければコンスタントに稼ぐことができたわけで、年間2、3百万円のプラスの小遣い収入が安定して得られたわけだ。カジノこそないけれど(裏カジノは、結構な数あるのが実態だが)、カジノでどうせ大金賭けるのなら日本国内でなくともマカオシンガポールにいけばいいわけだし、ショボいカジノでもよければ韓国に行けばいい。

 

IR法で日本にもカジノリゾートの誘致合戦があるわけだが、果たして日本においてカジノが繁盛するのかと言われれば、かなり怪しい。そのカジノ構想のとばっちりを喰らっているのが、スロット規制強化の流れ。まだパチンコはましな方で、スロットに関する規制は年々厳しくなっており、これは明らかにIR法に連動している。

 

と言いつつ、注文していた書籍をじっくり読む時間が確保できそうなので、後はどこでそれらを読むかが問題。あるテクストをどういう時にどういう場所で読むかによって得られるものが違ってくるはず。

 

モンゴルの大草原のゲルで、M&AだのPFIを使った仕組みファイナンスだの、どうちゃらこうちゃら言われても全くリアリティの欠片も感じられないから、読んだところで馬耳東風。ドバイのブルジュ・ハリファのてっぺんでハイデガーの『杣径』を読んでも、「なに言っての?」となってしまうだろう。デナリのクレバスに落っこちた奴が、和辻哲郎倫理学』(岩波文庫)の悠長な話を読んでも、皆目理解できない。

 

渋谷のアトムあたりで踊り狂いながら、堀辰雄風立ちぬ』なんか読もうものなら、自己嫌悪に陥りそうになる。Le vent se lève, il faut tenter de vivre.なんて言ってられない。ミラーボールの照明に照らされながらセックスに猛り狂う妄想が勝ってしまう。対して、学校や職場で廣松渉『役割理論の再構築のために』(岩波書店)を読めば妙にリアリティが感じらるし、徹夜で友人と飲み明かした宴の後の帰路であればこそ、なおのこと大森荘蔵『時は流れず』(青土社)がスッキリ頭に入ってくる。

 

アルチュセールの言った意味とは若干異なろうが、イデオロギーというのは単純な社会的意識形態ではなくて、ある種の「イデオロギー装置」とともに働く「物質的なもの」でもある。アルチュセールが例に挙げていたことだが、教会というある種の「イデオロギー装置」があるために、その空間では「敬虔な」感情が沸き起こり、跪いて祈りを捧げる行為に出ようとする。

 

伊勢の神宮を拝する時に清明心が呼び起こされるのも、あの鎮守の森の木々の木漏れ日が参道を照らしている静謐な雰囲気と無縁ではない。仮に、境内が西成の釜ヶ崎の中の三角公園のような所だったら、果たして西行法師が「何事の おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんてセリフを残したかどうかは怪しい。一昔前のガングロ女子高生が履きふるした異臭を放つルーズソックスの片方が近くに脱ぎ捨てられていようものなら、敬虔な気持ちが湧き起ころうはずもない。

 

ドン・キホーテの店内に響く「ミラクル・ショッピング」を耳にしながら、シモーヌ・ヴェイユ『神を待ち望む』など読めたものではない。テクストの読みも、いつ・どこで読まれるかによって、多分に異なる意味に解されてしまう。テクストの放つ意味作用の時間的・空間的規定性とでも言えようか。思想系テクストとなると、多様な意味作用があるので、自宅で真夜中に1人で読むのとエッチしながら読むのとでは全く違ってくる。

 

届いた書籍をあくまでパラパラめくった感じではあるのだが、面白い数冊を紹介。一冊目は、Quantum Worlds: Perspectives on the Ontology of Quantum Mechanics ,Cambridge UPだ。量子論は現代の物理学の基盤となり、その発想の仕方は物理学の世界だけでなく様々な領域に及んでいる。20世紀前半に大成された量子力学の恩恵を既に我々の社会は享受しているわけだが、今世紀は「量子力学的知」が全世界を席捲することになるに違いない。特に、情報科学の分野における量子論の影響は計り知れない。

 

情報科学と物理学との接点は19世紀末のルートヴィヒ・ボルツマンに遡ることができるのだろうが、最近では更に遡行して、17世紀の天才ライプニッツの哲学の構想がようやく花開いたと評価する向きもある。坂部恵の名著『ヨーロッパ精神史入門-カロリング・ルネサンスの残光』(岩波書店)の言を借りると、カントは百年単位の哲学者であるのに対して、ライプニッツは千年単位の天才であることがわかる。

 

しかし、量子力学の解釈には、多くの未解決状態の概念的・哲学的問題があり、これら個別のテーマに関しては嫌と言うほど論文が量産されている。いわゆるコペンハーゲン解釈は、ティム・モードリンが言うように、とりあえず量子力学を道具として使いこなすための「取扱説明書」であって、量子力学の認識論的・存在論的諸問題に対する応答にはなっていない。

 

こうした原理的問題について格闘する論文は、欧米やイスラエルでは特に量産され玉石混交という有様である(日本の哲学業界は層が薄すぎる)。波動関数の意味、量子状態の性質、観測者の役割、量子世界の非局所性、量子領域からの古典性の出現などのトピックが目白押しだ。物理学と哲学の分野の著名な研究者によって書かれた章を含むこの書物は、量子論解釈に関連する諸問題の学際的かつ包括的な展望を提供してくれるだろうし、何よりも量子力学の認識論・存在論的諸問題に取り組む者にとって必読の論文集となっている。

 

中でも、テレアビブ大学のヴァイドマンの論文が面白い。特に、波動関数存在論的位置づけに関するテーマを考えるにあたっての必読文献ではないだろうか(ヴァイドマンの「波動関数実在論」とでも言うべき主張には同意しかねるが)。

 

二冊目は、Quantum Field Theory for Economics and Finance, Cambridge UPである。これは僕の仕事にも直結することなので、読むべき本の一冊としてある人から紹介されたものであるが、量子場理論の数学的ツールを経済学と金融理論にどのように適用できるかを紹介し、金融商品を設計するための量子力学的手法を提供するものである。

 

一見して「胡散臭さ」がプンプンする香ばしさを醸し出しているが、最近はこの種の「量子ファイナンス理論」に関する論文が量産されていることは確か(日本では、あまりお目にかからないだろうが)。

 

特に、リーマン・ショック以後、ウォール街ではこの種の論文やレポートが読まれ始めており、これは既存の数理ファイナンス理論への信頼度への懐疑と相即している。もっとも僕は、既存のブラック=ショールズ・モデルそのものが明確に誤っているとまで断言するつもりはない。問題は、モデルの限界について意識的ではなかった点だ(MITのアンドリュー・ローのように、認知心理学的手法を加味して理論を構築するような方向性には同意できない)。ましてや、もっと単純な二項モデルに沿って考えている連中が多い業界である。だとすると、2008年のリーマン・ショックの顛末の一因としてブラック=ショールズ・モデルに求めるのは相当な無理がある。

 

ともあれ、既存のモデルの不十分を踏まえて新たなモデル構築に勤しむ数理ファイナンス業界の、ある種何でもアリの「アナーキー」さは嫌いになれない。言い方は悪いが、それなりのオツムの持ち主が鬼の形相で「博打」の研究に熱中して競争する姿は刺激的でもあるし、同時に壮観かつ滑稽な光景でもある。

 

ラグランジアンハミルトニアン、状態空間、演算子ファインマン経路積分といったアイデアは、量子場理論の数学的基礎となる概念だが、これら一連のアイディアを使って資産価格についての包括的な数学的理論を構築するために、数値アルゴリズムや資産価格モデルと非線形金利動向の研究に適用し、オプション、クーポン債、ハイリスク債などの金融的トピックに量子力学的知見を導入することが可能であることを示そうとする。人によっては「こいつ、マジかよ?」ということになりかねない「ぶっ飛び」度があるので、国際金融の世界の住人でなくとも、数学や物理学に多少案内のある人でトリップしたい人にとっては損はない書物だと言える。

 

三冊目は、飯嶋裕治『和辻哲郎の解釈学的倫理学』(東京大学出版会)である。前二書と全く趣が異なる著作だが、和辻哲郎の研究はこれまで日本の思想史的文脈に位置づける研究か、それとも単独の浮いた存在としての「和辻倫理学」の意義を説く研究が多かった。

 

この趨勢とは異なり、和辻倫理学を欧米の解釈学的哲学の文脈の中に据えた研究書となっている。一見異なる思想体系のようでも、実は通底し合うものがあることを探りあて、その文脈の中に位置づけると違った光景が見えてくることがある。まだ斜め読みしかしていないのではっきりしたことは言えないが、本書の試みは、かつて現象学ハイデガーの哲学を英米の行為論の文脈に据えて解釈し直した門脇俊介の営為を思い出させてくれる。英米の人間がハイデガーをドレイファス経由で理解する者が結構いるが、門脇はハイデガー存在と時間』の「基礎的存在論」の箇所を、アンスコムやデイヴィッドソンの行為論やブラットマンの議論に接続可能な思想として読み直す作業を試みていた。

 

飯嶋の著書も「和辻倫理学」をそれ単独で見るのではなく、広く欧州の解釈学的文脈に置き直し、そこから捉え返されるべき和辻哲郎の思索の持つ意義を明らかにしていく。議論も緻密であって、「和辻倫理学」の研究水準を一段高めたことは間違いだろう。

 

詳細な点についてはじっくり読み込まないことには言えないが、その思想史研究上の価値は、最近読み終えた三宅芳夫『ファシズムと冷戦のはざまで:戦後思想の胎動と形成1930-1960』(東京大学出版会)と並んで強調されて然るべきだし(もっとも、僕と三宅では、丸山真男三木清そしてサルトルへの評価が異なる。しかし、そうした個別の評価なんかここではどうでもよく、思想史研究として優れていることは認めるしかない)、こういう労作に対する正当な評価がなされるべき。

 

四冊目は、鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)である。博士学位論文をもとに出版されたこの研究書は、同業者からも高い評価をもって迎え入れられたようで、なるほど、ざっと一瞥しただけでも、これまでに我が国で出版されたドゥルーズ哲学の研究書の中で、少なくなとも5本の指に入る研究書であろうことは容易に想像できる。

 

この書も飯嶋や三宅の著書と同様、とにかく分量が多い。解釈の上に更なる解釈を、先行研究の上にさらにそれを研究する執拗さでドゥルーズのテクスト解釈を遂行する、「古風な」文献解釈学を踏襲する堅実な注釈書である。先行研究が見落としていた視点や、著者のいうところの「誤読」を指摘するところも含め、「戦闘的」とも言える文体で綴られる論旨は明確で、読む者を疲れさせない。

 

もちろん、分析哲学に対する言及があり、例えば適切な箇所でラッセル『論理的原子論の哲学』を参照しているところなど好感が持てる点もあるが、但しライプニッツの理解には些か疑問符がつく箇所もある。ドゥルーズのテクストに対するのと同様の丹念な読解となっているかと言われれば、やや拍子抜けという感もある。

 

ドゥルーズ哲学が宇宙・世界の存在論的「革命」をモチーフとして「存在論アナーキズム」とでも言うべき立場を宣揚する思考であることが強調されてはいるが、ドゥルーズ哲学はそのことに失敗しているのではないかとの疑いを持つ僕のような立場の者からすれば、あまりにドゥルーズにべったりに過ぎるように思われ、もう少し距離を確保した上での批判的視角からの言及があってもよかったのではあるまいか。

 

加えて、数学に関する知見は極めて乏しかったと言わざるを得ないドゥルーズの議論を無理繰り擁護する「護教論的」な主張には閉口してしまう面もないではない。体論の説明も教科書的な文句が連ねられているばかりで、さして理解していないことが透けて見える箇所もある。

 

とはいえ、その論述のスタイルから来る印象は、村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社)のような、それこそ重箱の隅をほじくるような感じでもない。村上のこの書にケチをつけているのではない。文献学というのは、これくらい緻密な作業が要求されるということの見本のような優れた研究書であるという評価は揺るがない。

 

ただ一言すると、確かに緻密ではあるし、デカルトの思考において「観念」ということで何が言われているのかを詳細に見ていくことは極めて重要だが(デカルトに限らず、17世紀西洋近世哲学において「観念」の持つ意味は注意深く見て行かねばならない)、リーディングスである『現代デカルト論集Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(勁草書房)に収録されている著名な論文を読んでいる時の、あるいはベイサードとマリオンを対決させ、またアルキエとゲルーを対決させて読む時の興奮はないということである。

 

AT(アーテー)版の編集をも批判するくらいの込み入った記載や、1630年の永遠真理創造説がどうちゃらこうちゃらという問題は、デカルト文献学にとっては重要なことなのかもしないが(この点が、所雄章の著作を読んだ時のつまらなさと重なってしまうのである。

 

所に関しては、デカルト省察』の、読みにくいわ日本語としてぎこちないわの訳文を何とかしてくれと言いたいけれど)。これは渡辺一夫『François Rabelais 研究序説 : Pantagruel 異本文考』(東京大学出版会)が、僕のような素人読者からすれば全く面白くなかったことにも似ている。

 

文献学的には凄い業績なのだろうけど、渡辺一夫の他の著作(特に、『フランス・ルネサンス断章』(岩波書店)や『世間噺後宮異聞:寵姫ガブリエル・デストレをめぐって』(筑摩書房)など)が面白いだけに、古書店で手にした時はゲンナリしたものだ(とはいえ、思わず記念に購入したけど)。

 

鹿野の著書は、そういうところなく読めるところも一般読者としては有難い。文献学におけるある種「王道」を行くその歩みは、和仁陽『教会・公法学・国家-初期カール・シュミット公法学』(東京大学出版会)という傑作を想起させもする。今後のドゥルーズ研究は、おそらく本書に対して無視を決め込むことはできないという意味で、ドゥルーズ研究の水準を一段高めたと言えるのだろうという思いが、パラパラめくるだけで強くなっていく。

 

これまでドゥルーズ研究において、その重要性の割には言及されることの少なかった『意味の論理学』の注釈作業を通じて、未だ明らかにされていない秘めたポテンシャリティが開示される。読みかけのJay RampertのDeleuze and Guattari's Philosophy of Historyと並べて読んで行きたい。

 

ちなみにランパートの書は、ドゥルーズ=ガタリと歴史哲学という一見奇異に思えるテーマを敢えて設定して、歴史、時間、記憶にまつわる問題の考察のために、ドゥルーズ=ガタリの「歴史哲学」を抽出していく。このランパートの研究書は9つの章で構成されており、その第一章が歴史哲学の観点からドゥルーズのテクストに取り組むことの価値と妥当性について論じられており、おそらくここが最も重要な箇所であろう。

 

ドゥルーズはこれまで西欧の歴史へのアプローチの仕方を常々批判を展開してきたし、歴史に還元できない「生成」と「出来事」に関心があることを明確に示してきた。ドゥルーズにとって、ヘーゲルハイデガーは、精神または存在が必然性において発展していくことで「秘密の運命」が明らかにされていく形式として歴史を捉えている。その意味で、ヘーゲルハイデガーは歴史家であるとドゥルーズは考えていた。

 

逆にドゥルーズが「地理哲学」に訴える時、そこには必然性と起源の「カルト」から歴史を奪還するという思惑があった。出来事は非歴史的な要素になる必要があるというドゥルーズの考えを承知の上で、しかしランパートは、ドゥルーズの思考によって達成されたものを「歴史哲学」と見做すわけだ。

 

もちろん、これまで盛んに論じられた『差異と反復』第二章にある時間の三つの総合という論点についての再検討も欠かさない。それが第2章から第4章にかけて行われる。周知の通り、時間の第一の総合は習慣の縮約された「現在」、第二の総合は過去と現在のヴァーチャルな共存(純粋過去として考えられた記憶の奇妙な時間としての「過去」)、そして第三の総合はニーチェ永遠回帰としての「未来」の信念である。これはちょうど、第一の総合のヒューム、第二の総合のベルクソン、第三の総合のニーチェに対応している。

 

ただ僕に言わせれば、この第三の総合の箇所は相当怪しげな議論であって、ニーチェ永遠回帰の総合は、存在論的側面において多分にベルグソンの色眼鏡を通した描像でしかないように思われる。ドゥルーズも薄々そう感じていたのかわからないが、『ニーチェと哲学』では、第三の総合については触れられていない。ともかくランパートは、ドゥルーズの「準因果」の概念のステータスを第5章で、ヘーゲルの歴史哲学との比較を第6章で取り上げていて、ドゥルールのテクストへの新たな対し方を示してくれている。

 

鹿野の著作に戻ると、パラパラめくった段階にとどまるのではっきりしたことは言えないが、先行研究を大量に読み込んだ上に、それらを批判的に乗り越えて行こうとする野心が満々の著書である。英国のエディンバラ大学では、ドゥルーズ研究叢書のようなものが次々出されており、ジェームズ・ウイリアムズの一連の研究書など、英米で主流の分析哲学や科学哲学との応接可能性をも模索する試みもあるわけで(どこまで成功しているかは若干疑問もつくが。特に、Gilles Deleuze's Philosophy of Timeを読む限り、そのレベルに達しているようには思われない。プロトニツキも量子場理論や量子情報理論ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』の視点から読み込んでいく作業をし、そのために然るべき参照文献をおさえているが、いかんせん牽強付会に過ぎるし詰めが甘い)、「ドゥルーズスタディーズ」が世界の哲学アカデミズムの一端において「市民権」を得てきている今日、日本発のドゥルーズ研究書として英語で出版されてもいいのではないか。

 

「英語帝国主義」を追認するわけではないが、残念ながら日本語だげでのみ流通するだけでは、特にジャパノロジーを学んでいる者ならいざ知らず、そうでなければ誰も読んでくれない。日本だけで完結していては話にならないわけだから、ガンガン英語で書いて行くことが望ましい。

 

著者は僕より年上だがほぼ同世代のようで、若さ故なのか、勢い余って國分功一郎東浩紀、千葉雅也、松本卓也、小倉拓也などの先行研究に対する幾分辛辣な表現もあるし(特に、小倉に対する批判は、『カオスに抗する哲学-ドゥルーズ精神分析現象学』(人文書院)だけでなく、大学紀要掲載論文まで含めて頻繁に言及されており、ほとんど全否定である)、小泉義之訳『意味の論理学』(河出書房新社)の幾つかの訳に対する批判的言及もあり(小泉訳に関しては、哲学や思想系の翻訳にありがちな、学術的使用に耐えないような訳文だとは思わないが、うっかり見落としたと思われるケアレスミスが僅かに見られることは確かだ。conjonctionやcontractionの訳について、決して誤訳ではないが、どうして敢えてそう訳したのか訳注で断りを入れるなどして欲しかった箇所もある。conjonctionはヒュームのconstant conjunction=「恒常的連接」という訳が定着しているconjunctionの仏語に該当するconjonctionであるわけだから、「結合」とするよりも「連接」とした方が通りがいいだろう。contractionも、財津理訳の『差異と反復』では「縮約」と訳されており、特にこの訳に異論が噴出していないのであれば、「縮約」ではなく敢えて「収縮」とする必要を訳注で触れるなどの配慮が欲しかった。というのも、contractionはラテン語contractumに由来し、このcontractumはニコラス・クザーヌス『学識ある無知De docta ignorantia』に登場する重要な概念でもあるからだ)、その他にもやや気負いすぎの観がある文章が目立って、それが空回りしている面もある。そうした「血気盛んな」点も含めて、本書の魅力なのかもしれない。

 

惜しむらくは、学術研究書であるにも関わらず事項索引がないという点だ。近年の岩波書店の編集方針なのか、岩波書店の研究書は編集上の手抜き作業の粗が目立つ。事項索引なき研究書は欠陥商品であるという意識が希薄になったのだろうか(もちろん、すべての学術書に事項索引が付されていないというわけではなく、わずかな例外もある。例えば、たまたま目についた一ノ瀬正樹『確率と曖昧性の哲学』(岩波書店)は、各学術誌に掲載された論文をまとめて編集した著書だが、「事項・人名索引」がきちんと付されている。その一方で、同じ岩波書店から刊行された伊藤邦武『偶然の宇宙』には事項索引がない。同じ著者の『人間的な合理性の哲学-パスカルから現代まで』(勁草書房)には人名索引・事項索引が付されている)。「古典」として扱われている作品や浩瀚な研究書には学術書に相応しい事項索引が付加されるべきである。書誌学には「索引の研究」すら存在するほどなのである。

 

かつて、岩波書店から刊行された『プラトン全集』は「総索引」だけで一冊の書になっていたくらいだし、Great Books of the Western Worldも充実した2巻にもわたる総索引にあたるSyntopiconが付けられている。この存在によって、各テーマに関してどういう論者がどこの箇所でどういうことを書き残しているかを探すことができ、研究にも資するようにできている。もちろん、この作業は膨大な時間と労力と資金が必要となるわけだから非常に面倒な作業となる。そこで最近の岩波書店をはじめ、各種学術書を出す出版社は手抜きをするようになってしまったわけだが、書物に対する「愛情」が欠けていると言わざるを得ない。

 

多くの法学専門書や基本書を手掛ける有斐閣を少しは見倣えと言ってやりたい気分だ。一例を挙げよう。団藤重光『法学の基礎』(有斐閣)は体裁上「入門書」ということになっているが、実際は法学を一通り学んだ者を対象に、その学問的営為の基礎をなす思想にまで言及した高度な研究書としての位置づけであるので、事項索引、人名索引、判例索引いずれも充実している。手抜き作業をせず、地味な労苦を厭わない姿勢こそが編集作業の大事な仕事の一つであるのに、それをしていないのである。

 

そういう欠陥商品である学術書ではあるが、それはともかくとして、我が国で出版された極わずかな哲学・思想研究の浩瀚ドゥルーズ研究の著作、それもアカデミックな作法に則った「正統派」の研究書が出たので、これから時間を見つけてゆっくり読んでいきたいと心躍りを楽しんでいる。