shin422のブログ

『哲学のヤンキー的段階』のための備忘録

TOKYO解体!

 日本でも方言の訛りというかある種の「癖」があるように、米国にも当然そうした「癖」が存在する。そうは言っても、インドやシナのように全く通じない程の乖離を持つわけではない。もっとも、米国にはヒスパニック系移民の数が尋常ではないので、英語に不自由な外国人観光客(特に日本人観光客。もちろん観光客と言わず、我が国には語学力の乏しい大学教員の無理して書いたヘンテコな英文や、「Go Toキャンペーン」というインチキ英語に反映されている通り、中途半端な英語しか知らないアホ役人たちに事欠かないわけだが)にとって概して不親切な米国と言えども、公共交通機関には英語とスペイン語が併記されている案内が目立つ。これは大量のヒスパニック系移民が英語に不案内であることに加え、貧困層が多いために公共交通機関の利用者の比率が高い現状に合わせたものである。例えばニューヨークの「メトロ・カード」の購入に際しても、主要駅の発券機では日本語案内があるものの、ほとんどは中文表記はあっても日本語表記まで整備されているものは極端に少ない。ロサンゼルスの「Tapカード」の発券機も日本語表記はない。

 

 ニューヨーク市民でも英語がまともに使えない人が相当数存在し、それゆえ公立学校では複数の言語で教育が受けられるプログラムがある。こうした現状に対して、フランシス・フクヤマは英語で統一しろと主張している。複数の異なる言語での教育は国民国家としての統合を毀損させ、それぞれのエスニック・グループのアイデンティティ固執するアイデンティティ・ポリティクスの強化となって米国の分断を増々加速させることにしかならないというわけである。確かに、国民国家の統合が図れなくなるほどに全く異なる言語体系が乱立するような事態となるのは如何なものかとは思うが、逆に人々が同じ言語しか用いていないというのも気色が悪い。同一の言語体系に属しているものの、しかしその内部で各々の地の言葉が飛び交う姿はむしろ壮観であり、その国の文化の豊かさを示すものであるとさえ思われる。その意味で、「方言」があることはその国の文化的成熟度を示す一つのバロメーターでもある。フランスのように人工的に拵えられた標準フランス語で染め上げるような文化政策をとることは、人間の画一化に資することはあっても、決して文化的な豊かさをもたらすものではない。

 

 米国で面白いのは、首都ワシントンD.Cや最大の都市ニューヨークで使われている英語が標準的な英語では決してないという点である。俗に「ニューヨーク訛り」と言われるニューヨークの住民のある一定層の使う英語は「癖」があり、その「癖」は南部のヴァージニア州などの主として黒人層が用いる英語に比べて「癖」はないとはいえ、例えばミネソタ州などの中西部の英語に比べるとやや「訛り」がある。報道機関のキャスターの「癖」の少ない英語は、だから東海岸北部の英語ではなく、中西部の英語を模範としていると言われる。この点が日本と大違いなのだ。日本では事情が違って、NHKのアナウンサーが使用する「標準的な」日本語は特定の地域の日本語ではないが、イントネーションに関してはやや関東圏の言葉に合わせているようにも思える。もちろん、東京弁=標準的日本語であるわけではない。東京弁を「標準語」と勘違いしている者が今も多く存在しているが、東京弁はあくまでローカルな方言の一つでしかない。

 

 東京は「都会」ではない。特にバブル以降の東京は、歴史の浅い「巨大な田舎」である。「巨大な田舎」とは、何も名古屋ばかりではないのである。日本で「都会」といえるのは、洛中と呼ばれた現在の京都市街地と平安末期から外国との交易が盛んだった港町の神戸、あるいは古代から一時は都がおかれ後には町人による自治から商都になった長い歴史を持つ大阪あたりではないだろうか。日本の中心は、神武帝橿原宮にて即位あらせられた時期から、あるいは、どれだけ遅くとも大和朝廷が開かれた時代より一貫して京阪神地域にあり、日本文化と呼ばれるもののほぼ全てこの地域から生れ出たのであって、東京が政治経済とも他を圧倒するのは高度成長以後のことである。東京は公権力が作為的に周辺の人的・物的資源を「上から」動員して形成された街であって、そこには都市の要件としての内発的自治が醸成されていたわけでもなかったのである。関東とは、そうした「巨大な田舎」でしかなかったということである。東京も大阪も知るニューヨークの者は、「ニューヨークは東京よりも大阪に近い」と言うし、在留外国人の多くも東京よりも大阪の方が過ごしやすいと漏らす(逆に、ニューヨーク在住の日本人も、大阪をはじめとする関西の出身者が多いのだ。気質的に合うのだろう)。それもそのはず、ボトムアップ型の自治が広く行き渡っていた伝統を持つ都市であるから、「都市の空気は自由にする」ということが体感できるわけだが、東京は政治権力の中心が偶然に置かれた関係で、トップダウン型に街づくりが計画的に行われ、町民の自治が内発的に起こった歴史がなく、常に「お上」頼みであったからだ。要は都市としての条件を欠いているのである。

 

 海外ではロンドンやイスタンブールそして上海(今の上海というより、外灘地区が繁栄を極めた「魔都」と呼ばれていた頃の上海のことだ)。歴史は浅いが香港も「都会」のイメージに相応しい。元々我が国は多様な方言が溢れていた。維新直後の新政府内部ではお国訛りが激しく、所々通じないこともあったようなので、オランダ語やフランス語で意思疎通をとったこともあったという面白いエピソードが残されている。ところが明治維新以後の中央集権化政策により藩ごとの豊かな文化的多様性が破壊され、特に戦後のマスメディアにおける在東京キー局を中心とする全国ネットワークによって東京中心の番組が大量に垂れ流されたために画一化が加速度的に進行してしまった。

 

 これは文化の暴力的な破壊行為の何物でもなく、明治期の神社合祀令の最悪な文化破壊政策と並ぶ暴挙だったのである。明治維新による近代化の方向性に進むことが内外の情勢からやむを得なかったことであるとしても、中にはやるべきではないことまでやってしまったことへの反省に欠けたまま、日本は文化的貧困化の路線を突き進んでおり、今もそのことに変わりない(神社合祀令は完全な誤りであるが、それだけでなく廃藩置県も誤りであり、いわゆる廃刀令ならびに武士階級の解体も誤りであった)。それにともない江戸言葉の艶もなくなってしまった。江戸は江戸の、上方は上方の言葉が持つ艶と色気が消失した次にやってきたものは、無個性な味もそっ気もない下劣な言葉の氾濫である。せめて古典落語の世界に誘われて、大好きな三代目古今亭志ん朝や六代目笑福亭松鶴の色艶鮮やかな言葉の世界に浸ることが何よりの贅沢な体験にまでなっているのである(かつて小林秀雄は講演のためもあって、五代目古今亭志ん生の落語を聴きまくったという)。それぞれ江戸や上方の匂いがプンプンしてくるからだ。

 

 言葉というものは、単に事実に関する情報を伝達する道具であるわけではなく、思考や物の感じ方や行動の様式に到るまでその言葉を用いる者の実存に深く根差すものであって、言葉を用いる動物である人間にとっては生そのものであるとさえ言える。だから、言語を奪われるということは当人にとっては自らの生そのものを奪われることに等しいと感じる者が多いのも理解できる。シナの侵略を受け、今も占領下にあって過酷な弾圧に苦しむチベットウイグルの人々が焼身自殺や暴力行為などに訴えて抵抗する姿勢を示そうとするのも、言葉や文化が自らの実存を形成する核心だと考えているからである。日韓併合による朝鮮総督府の統治政策が韓国や北朝鮮そしてその代弁者となっている日本の左翼の主張通りに暗黒の統治であったと判断するに足る根拠は乏しいが、それでも朝鮮半島の言語や文化を真に尊重したものであったかは多分に怪しいわけであって、この点で日本の政策に猛省すべき点が多々あったことも確かである。それだけ言葉には独特の「重み」がある。

 

 高度成長期からバブル崩壊を介してデフレ期に突入してからは特に東京一極集中が加速した。これは目先の経済的効率など比較にならぬほどの安全保障上のリスクにもなっている。文化的画一化による貧困化とともに具体的な安全保障上のリスクをも抱えてながらもなお東京一極集中の流れが止まることはない。その流れを加速させている張本人が在東京のマスメディアである。出版業なども含めた広義のメディアともなると、ほとんどが東京に拠点を置いている。そうした連中が「無自覚な帝国主義者」を生み出す元凶である。この流れを阻止するには物理的に東京を破壊してしまえばいいわけだが、もちろんそんな真似はできない。問題を指摘する声もあるが、中々実行に移されない。東京が経済的繁栄を謳歌する一方で地方の経済は増々脆弱になっている。これは意図的な政策の結果であって自然現象ではない。

 

 そして「無自覚な帝国主義者」は東京を「標準」と措定して、そこから逸脱するものを排除しようとする。もちろん、東京といってもローカルなものでしかない。決して日本全体を画一化する規準となるわけではないにもかかわらず、邪気か無邪気か、東京中心の視点を当然のものとしている。悲しいかな、質が悪いのは周辺の地方から東京に流入してきた「ニューカマー」であって、こうした者たちが極端な東京視線を内面化してしまうのである(変な例かも知れないが、山の手と下町では多少事情は違うかも知れないが、東京に生まれ育った者の中で生粋の「東京読売巨人軍」のファンは意外に少ない。むしろ、「ニューカマー」の方に占める巨人ファンの比率は相当なものではないかと勘繰っている。もちろん、これは僕がアンチ巨人阪神ファンであることも手伝っているのだろうが)。

 

 「標準語」とやらによる画一化は文化的豊かさを破壊し、人間を画一化させてしまう。意図的になされた政策ならば、これを意図的にやめさせるより他ないだろう。まさか、北朝鮮に頼んで東京にノドンミサイルでも撃ち込んでくれとは言えないだろうし、首都直下型地震で東京が壊滅状態になることを望むわけにもいかないだろう。少なくとも官庁や国会等の政府機関を東京から別の地域に移転し、千代田城は武家の棟梁たる徳川将軍家の居城であって御所が存する場としては本来相応しくないわけだから、そろそろ長い行幸を終えて、本来の御所のあるべき京都に還幸あらせられることが望ましい。これは政府の政策一つで実現できることである。そして東京へのこれ以上のインフラ投資をやめて別の地域にシフトさせることもできる(この点でも、東京五輪には賛成できない。日本で五輪が開催されること自体は喜ばしいとは思うが、やるなら福岡なり仙台なりがよかったのではないか。東京ほどの財政規模がないと言うが、政府の支援でどうにでもなるし、かつては福岡や仙台よりも遥かに小さい町であるリレハンメルが冬季五輪を成功させているわけだから、決して不可能なことではないはず)。インフラの整備されたところに経済機能は集まるので、これだけでも本社機能を移転する企業も増えてくるだろう。なにより全国ネットの影響は甚大なので、NHKだけは残しておいて、他のキー局による全国ネットワークの解体により、日本国民が一様に同一の番組を見るようなことがないようにして、銘々の地方独自の放送内容に改めさせるなどして中央集権化の先兵となってきたメディアの改編を行う。

 

 といって、いわゆる「道州制」を主張しているわけではない。ただこれ以上の東京一極集中が進行することにともなう弊害を避けるために、TOKYOと化した「東京」を叩くべしと敢えて「暴論」をまくしたてたまでである。江戸から東京、そして東京からTOKYOへと変質したこの街の表向きの「繁栄」は、他の地域の屍の上に立った虚妄の繁栄である。地方から流入してきた者が極度にTOKYOを内面化して「文化帝国主義者」として振る舞う醜態を見るにつけ、心の奥底では(東京で生まれ育ったがゆえの愛憎相半ばする)TOKYO CRISISの待望も否定できないでいるのである。